快楽原則の探求
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1215回をお送りします。7月3日木曜日8時8分です。
久しぶりにですね、妻が一瞬だけ実家の用事を果たすために、実家に帰省されましたので、
私はいつもとは違う空間で撮っていて、ここはさすがに快適でして、枕つけてますからね、快適でして、
これでいつも撮っていればいいかなと思ったりもするんですけど、いつもここで撮るということをすると、
またひともんちゃ風では絶対に済まなくなるんで、すぐに舞い戻ってしまうんですけど、まあまあ。
いろんなことを最初に計画しておくってできないなとつくづく思うわけですよ。
だって私、この家を一応設計するじゃないですか。設計したときにはそもそもポッドキャストなかったかもしれないですね。
音声配信はあったんですけど、今みたいじゃなかったし、もちろんコロナの前だし、とにかくいろいろとなかったわけですよ。
だからこんなことをやると予想していたわけでもないですし、実際にここで撮ることに将来なるだろうともかけらほども思ってなかったわけで、
しょうがないんで下で撮ってるわけですけれども、これはもうしょうがないですよね。
お知らせはないんですけど、第11期になる3ヶ月チャレンジ。
100日チャレンジも現在11期が進行中ですけど、現在3ヶ月チャレンジは10期で、本当によろしくないんですが追いついちゃってるからね。
3ヶ月チャレンジは8月から第11期、8月、9月、10月というふうになります。
第11期ね。
すでにお申し込みは実はいただいているんですけれども、11期から自分なりに一層頑張ろうと思ってですね。
暑さ以外は特にこれといった問題はないような気がするんで、体調は抜群にいいですし、
なんとか過去最大頑張ろうと思っていますんで、これね、人数よりもセッション数だと僕は思うんですよね。
私は20セッションはいけると、20セッションかつてやったことないんですけど、でも週20セッションはいけると思っておりますんで、
頑張ってですね、週20セッション。
皆さんが週1回の場合は20人までいけるっていう、多分それは絶対実質的にないなって思ってるんですけど、
もし皆様が週2回ずつと、全員2回ずつと、それも変なんですけど、なると10人で20セッションですよね。
多分この辺がいいところなんじゃないかなというふうに思っております。
これは単純計算で、当然グラデーションがあるわけですけど。
ちなみに週3回というのもありますが、皆様全員が、最初に入った方は週3回はないことになってるんですけどね、
週3回を全員がやった場合、7人で21セッションじゃないですか。
これも相当変な話で、7人って多分絶対これもないだろうとは思っているんですけど、7人とも全員週3回。
これでも結構新しくて面白いかなと思っているんですけどね。
ちょっと本当に精神分析的にはなるじゃないですか、オンラインなんですけど。
かつ解釈以外をしちゃいけないということになると、解釈以外をしまくっていますし、
しかも私はそもそも精神分析家じゃないんで、もうどれを取ってもダメなんですけどね。
週3という部分だけが変にちょっと近づくかなっていう感じなんですけど、
週3で7名の方限定とかになったら、らしくはなりますよね。らしくなるだけなんですけど。
しかもフロイトはそれだけで食えみたいなことを言ってたけど、
ポテモンじゃないけどそれだけで食べれるわけがないんですけどね。
でもそういうふうに、もう形だけは近づくことはあり得るかなと思っています。
それに何の意味があるのかって言われると、その話だけで1時間が過ぎて、
しかもあんまり面白い話にならないんで、今日は違うことをしゃべろうとは思っております。
3ヶ月チャレンジの現在第10期の方々も3ヶ月目という形に入ってきまして、
いよいよある意味これからだなみたいな、いよいよこれからなのかって言われるとちょっと難しいんですけど、
人によってはいよいよこれからとかいろいろありますね。
一人一人総合に横の関係とかは、横の方がグループセッションでお知りになるってことはあるにしても、
横の関係があるっていうのとまたちょっと違うんで、本当そこら辺はややこしいんですけれども、
ハムコミュニティでワンオンワンであることがメインみたいな、そういう感じなんですけどね。
この説明自体がすでにややこしいですよね。
しかもですね、僕はグループセッションはワンオンワンセッションだって同じなんですけど、
特にグループセッションは出ないことにも出ないという参加の仕方もあるっていう考え方に基づいておりますので、
もちろん出ることが私としては推奨なんですけど、でも出ないことも参加の一形態であるっていう、
これはそれこそ精神分析からもらった考え方だと思っておりますけど、特にグループセッションはそうだというふうに思うんですよね。
あえて参加しないっていう参加の仕方もありだと思いますし、参加できないという、
そういう力度を意識するというのもとても大事なことだと思っておりますので、
このグループセッションはもうあるだけでいいっていう感じなんですよね。
それを週2回やってるんで、アーカイブはどんどん溜まっていくしですね、それを外に出すこともできないしで、
やっぱりある意味大変なんですけど、ある意味これはいい形だなというふうには思ってたりもします。
それに合わせてというか、その話の、僕の中では延長線にあって、
そういうふうに理解されるとも思わないですけど、僕の中では延長線にありまして、
今、馬月邦夫さんの、まあそればっかりです、その名前ばっかりだなって読まれてるかもしれませんけど、
不在論を頭から読んでるわけですね。しかもあれ冒頭にグリッと掲げられてるんですよ。
これだけでももうすごい本だなっていうか、日本の本としては普通に考えれば馬月さんじゃないと出せないかなみたいな感じの本ですよね。
冒頭にグリッとってもうなんかこう、一歩間違うとですよ。
たぶん全く知らない人が見ると魔術書になっちゃいますよね。あんなに大真面目な本だけど、魔術書になっちゃいますよね、一歩間違うと。
なんかもう冒頭にタロットカードが掲げられてる方がまだいいんじゃないかって思うぐらい、あそこにグリッとが入るってのはですね、
日本人の常識感覚からは到底愛入れられないものがある気がします。
でもあそこに科学の原則語表が書いてあれば別に家族の本だなーで通るんですけどね。この辺がやっぱり自然科学と言うべきなんですかね。
自然科学の世界と。だって昔僕、老人時代ですけど、老人時代に化学の参考書を読んで化学を受けてもいない、
俺がそもそも土地狂ってるなーと思うんですけど、寸大予備校から出ている、寸大出版社から出ている、
要するに寸大からなんですけど、有機化学の本の冒頭に普通にあるじゃないですか。で、全然そこに違和感は感じないのに、
グリッとがあると、もう違和感しか感じられない。今思ってあそこにグリッとがあるって、すげーなーって感じがする不在論の本なわけですね。
不在論って書いてあって、1ページ目をめくるといきなりグリッとが書いてあるわけですよ。その段階ですごいですよね。すごいとしか言いようがないですね。
その、ある種浮世離れしているという言葉もおかしいんですけど、世界の中で。
ちなみに浮世離れというとですね、これはどっかでネタとして出したいと思ってたんですけど、松木さんの本の中にSって言葉が出てくるんですけど、
そのSの出方がすごく面白い、エッセイみたいな、どんなのがエッセイなのかなんとも言えないんですけど、ノートにこのネタ書きたいなとよく思ってるんですけど、
Sってミスター・チルドレンっていう人が歌ってたりするじゃないですか、Sっていうね。で、ある女の子が、
Sって何のことなの?欲望のことなんですか?みたいなことを松木さんに質問するというかですね、そういうシーンから始まるんですよね。
で、Sって何でこの人がSなんて言葉を突然言い出したんだと。絶対にこの人はフロイトに興味を持っているとは思えないっていう、そういう接触障害の患者さんだったのかな。
で、Sって言葉はどこから出てきたんですかって言ったら、そのミス・チルの楽曲名だったと。で、松木さんがミスター・チルドレンっていう名前も、
その楽曲も、その人たちが何をしているのかも私はもちろん一切知らない。当たり前のように書いてるんですけど、もちろん一切知らない。まあそうだよなとは思いながらもですね、
一方でその患者さんの方は、もちろんフロイトとかSとか超自我とか、超自我ぐらいは知ってるかもしれませんけど、そういうですね、局所論みたいなことはもちろん何も知らないと。
でもこうやってSで出会ってるんだなみたいな、そういうですね、面白エピソードみたいなのが、面白いかどうか、至って地味ですけどね。
僕は面白いなとつくづく思いながら読んだんですけど、Sについて話したいわけでもなんでもありませんが、松木さんってそういう感じの方だなというのは、
知っても全くいないんだけどイメージが勝手に固まりつつあって、あれですよね、特に今の時代ありますけど、実体を知らないくせに対象だけが固まっていくっていう、
対象としての松木邦博さんは私の中に明快にいるんだけど、実際にいるのかいないのかすら、いるんでしょうけどもちろんいらっしゃるんでしょうけど、
でも有名人っていうのはそういうことになりやすいと思うんですよね、対象としてのみ存在するっていう。
だって私は当然のように、いやものすごい知ってるわみたいなつもりで言いますけど、ドナルドトランプ大統領とか、もちろん会ったことも喋ったことも、
実物を見たことすらないわけで、常にブラウン管で見てるから、赤い帽子をかぶって元気のいいおじいさんで、時々人っていうか結構世の中の人困らせてるよねみたいな、
イメージだけが勝手についちゃってますけど、それは単にイメージであって、本当はどういう人か知らないわけですよ。
だからそういうことになりやすいですよね。多分、狙撃されて、幸い命に別情なかったですけども、
狙撃とかした人だって果たして本当に彼のことを知って狙撃してるのかっていうと、非常にアレでして、でもそういうことになりますよね、有名な人って時々ね。
だから対象に対する怒りとか、対象に対する憎しみっていうものが我々は湧くんでですね、対象だけの存在って大変だなっていう感じがするわけですけれども。
でも、月さんが対象をご承大事に抱えていて、実物も死にませんなどという人間は、そんなに世の中に広くないと思うんですけど、私はその一人になっちゃってますっていう、そういう感じですけれども。
本題に入りまして、無駄話ばかりしてしまったんで、本題に入りますと、だから不在論を読んでるわけです。何でかと言いますとですね、何でかってことはないんだけど、不在論の中で、
セッションの多様性
この、ここがすごく大事だと思うところがありましてですね。赤ちゃんが快楽原則って言ったり、一時家庭と言ったりしますけど、美音が言うところの精神病部分ですよね。僕らが持っている精神病部分っていうのは快原則で動いてるわけですよ。
だから、僕らはしょっちゅう精神病状態になるわけですよね。快か不快かが全てになってしまうってときは、美音的に言うと精神病状態に限りなく近くなってるので、もう私は快楽を求めて不快感はダメですっていう状態はもう、すでにそれは一つの精神病状態なんで。
何でかって言うと、赤ちゃんってそれだけで生きてるからすごい辛いじゃないですか。それだけで生きてるの辛いんですよ。それだけだと幸せそうだなと思うのは大きな間違いで、現実っていうのはそんなに生き物にとって都合良くだけできてはいませんから、かなり都合良くできてる部分もありますけど、快感原則だけで生きてるとすぐ死んじゃうわけですよね、ある意味ね。
だから赤ちゃんはおっぱいもらって涼しくていい気持ちだといいんでしょうけれども、暑くなってくるという快不快原則だから、暑くなってくると泣く。お腹が空くと泣く。うんちをすると泣く。とにかく泣くことしかできないから、世話してくれないと非常にやばいことになるわけですよね。
すぐ不快になるじゃないですか。お腹いっぱいになったら後でうんち出ますし、それで不快になりますよね。お腹が空きますよね、それで不快になりますよね。いちいち不快になる理由はいっぱいあるわけで、すぐ不快になっちゃうわけですよ。
だから快不快原則っていうのはおおむね不快になってしまうんで、快の時はほとんど寝てますからね。寝てるかまどろんでるかで、快の時っていうのは要するにほぼ何もないわけですよね。
この辺をウィニコットって人がしぶどく言ってますけど、とにかく何もない、つまり何もないか不愉快かのどっちかになりやすいんですよね、快不快って。
快不快で生きてる方って割とそういうふうになってしまうじゃないですか。何でもない時の時間はすごく粗雑に扱うところがありますよね。寝ちゃうとかね。
で、不愉快になるとめちゃくちゃ一大事件になってしまうじゃないですか。ああいう生き方大変だと思うわけですね。
で、この快不快原則というものの中でもとびきり大事なのはですね、大事だなというか、そういう記述があるんですけど、快不快原則でまず、
まず我々は現実的に機能できてないってことが非常に素朴な人にとって、まさにこういう形で我々にも現れるなっていう、そういう表現の仕方があるんですね。
何言ってるのかわけわかんない言い方になっちゃいましたけど、ここ俺はとっても大事なポイントだと思うんですよ。最初に読んだ時も、なるほどなぁと思った記憶があるんですけど、
赤ちゃんはお腹が空いて不快になるじゃないですか。その時にお腹が空いたというこの、ないっていう概念をまだ持ってないから、何かがあるって概念を持っちゃう。
この表現の、この言い回しがすでにわかりにくいんですけど、要するに、なんかもうこの際お腹の中に悪い何かがあるというイメージ持ってみていただけるといいと思うんですよね。
何かが入っちゃったと。それは空腹というものを作り出す何かが入っちゃったと。そういうイメージを持つっていうことが大事なんですよ、あの話多分。
お腹が空いたって我々いるとき、だいたい空っぽのイメージを持つ。空っぽのイメージって不思議ですけどね。でも空っぽのイメージ持つわけですけど、赤ちゃんはまだそれが持てないから、悪いものが何かあると。空腹を作り出す、こうなんか悪質な何かがあるわけですよ。
で、おっぱいをもらうじゃないですか。でもね、赤ちゃんってよく見てるとおっぱいが口に入った瞬間には泣き合わないんですよね。
これは私もよくよくいつもうちの娘を見ていて、うーんって思ってたんですよね。何か食べ物とかもらうじゃないですか。ゼロ歳児とかのときね。泣き合わないですよね、すぐにはね。
だってどうしてそれが、どんな意味があるのかまだよくわかってないから、グッグッグッとか言って泣きながら飲み出すんですけど、まだ泣いてますよ。
そのときに何かを出すんだっていうわけですよね。で、確かに赤ちゃんはそういうときに食べながらおしっこ出し始めたりするんですよね。
うんち出しちゃよっていうときすらあります。このときにそのさっき言った、あの空腹な悪いものをまず出すんですよ。
このまず出すってすごい大事だなって思うんですよね。悪いものはまず出すんですよね。悪いものを出すと気持ちが良くなるわけですよ。
あ、これでこのお腹が空いたと我々が言うところの悪い事態が解決するんですよ。
つまり、ミルク飲むから空腹が満たされて解決するって我々は思い出しなんだけど、それは現実原則的な考え方じゃないですか。
海原則によると、まず出すと、そうすると愉快になるじゃないですか。我々もそうだけどトイレ行くとすっきりするでしょ。
つまり、悪いものがお腹の中にいるからこういう不快感が、空腹という不快感が、空腹だと知らないところの空腹だという不快感があって、それをうんちと一緒に出しちゃうと。
だからお腹が実はますます空っぽになってるんだけど、我々はそこを錯覚して誤解して、これで事態は解決したと。
悪い奴が自分の体から外に出ていったから解決したと。これがビヨンが言う東映同一化なんですよ。ちょっと話飛ばしましたけど。
つまり、悪いものが外に出るということが現実に実現するじゃないですか。
自己実現ですよね、自己実現じゃないけど。達成ですよね、一つのね。実際に悪いうんちが外にちゃんと出てるじゃないですか。
つまり現実というものが自分の空想なんですけど誤解だから、この悪いものが自分の心の体の中に入ってると。
だから私は知らないんだけど、空腹とかいうですね、ハングリーとかいうこの辛さがあると。
これは悪いものが自分のお腹の中にいるからであって、そいつを外に出してみたらうんちというものが出てきて、で、すっきりしたと。
ああよかったよかったってこういうことなんですよ。で、その後に授乳がなされているからお腹がいっぱいになってめでたしめでたしなんですけど、何かがおかしいですよね、これね。
大人の誤解
現実の原則に沿ってないですよね。つまり満腹によって自分の不快を満たすと、自分の不快を快に変えるっていう、この現実を知らないものだから、
自分は実は排泄によってその空腹を撃退するというこの変な考え方に取り憑かれちゃってるわけですよね。
これが投影同一化なんですよ。自分の空想を現実に投影して、その通りの現実が実現させたと自分では思ってますから、させたから自分の問題が解決したんだと考えてしまうわけですね。
こういう誤解を我々は、実は成人になってもめちゃくちゃやりますよね。排泄によって何かの問題が解決したような気になることってとても多いじゃないですか。とても多いはずなんですよ。
こういう現実の捉え方というものが、つまり精神病状態ってことになるわけですよ。美音とかに言わせるとですね。
ここのところを、おっぱい飲んだからお腹がいっぱいになって年齢しました、ではないんですよね。おっぱい飲む前にすでに排泄によって撃退したから、おかちゃんは納得してるわけですよね。
それからおっぱいを飲むという追加オプションみたいなものによって事態が丸く収まっていて、だけどそれは大きな誤解なわけですね。
この誤解を我々はするから、つまり赤ちゃんはうんちした途端に納得するのかもしれないけど、何の解決にもなってないんですよね。
お腹空いてうんち出して、めでたしめでたしって言ってたら、その赤ちゃんは結局決して食べ物を外から取り込むことはできないわけですよね。
でも納得しちゃうわけですよね。で、この間違った納得の仕方をしがちなわけじゃないですか。我々そういうことをしょっちゅうしますよね。
例えば私だってそうなんだけど、何でもいいんですけれども、うちの子のテストの成績が悪いというようなことがあったとして、奥さんがそれについて言ってきたけどうるさい感じがすると。
奥さんのこのうるさい感じを撃退すると、ものすごいヒートアップした場合はですけど、なんかめでたく問題が解決したような気がするじゃないですか。
そういうことがあるから夫婦喧嘩ってヒートアップすると思うんですよ。
実際にはそれはただ夫婦喧嘩で奥さんがうるさく言ってくるのを撃退したというだけで、娘の成績は何ら良くも悪くも何の影響も及んでいないわけなんだけれども、
そのように問題を現実的に解決するのではなくて、ただただ快と不快という問題にそれを置き換えてしまってというか、囚われてしまって、自分が不快感を外に放り出して撃退すればそれで納得できるんだというふうに思ってしまう。
そういう時に私は精神病状態に陥ってしまうわけですよ。
ここにですね、たぶんいわゆる論理療法、今では認知行動療法って言われることになってますけど、認知療法における認知の歪みっていう言い方が出てきてるんだと思うんですね。
つまり、赤ちゃんの認知は歪んでると。だって、空腹というのはお腹が空っぽだという、ないという状態であって、ないという不在ですね。
不在ということがわかっていないから、不在であるにもかかわらず、さらにそれを何かを、うんちですけど、排出することによっていい気持ちになっちゃって納得している。
これは認知が歪んでますよね。
だからその認知を現実原則的に修正してあげることによって、この精神病状態を脱して、現実原則にのっとった必要な世話なり必要なケアなりというものを自分自身に行うということができるようになる。
めでたくですね。その時に認知の歪みを修正し、必要な行動を取るから、認知行動ってことになるんだと思うんですよ。ざっくり言えばですけどね。
で、だけれども、私はその考え方になかなか乗れないので、自分が気持ちの上で、乗れないので、人とやるときには、さも認知の修正をしているようなふうになることは時々あるんですよ。
時々というかしょっちゅうあるんですよ、セッション中。質問を繰り広げてみたり、いろんな形で、相手の人の考え方のそごというものを見ていくということはやることはあるんですけど、やってる目的はそういうことではないんですね。
だって、それは赤ちゃんの認知が歪んでいるから修正するって言っても無理じゃないですか。
赤ちゃんはいつしか気づくんですけれども、どうやって気づくのかって本当に、そこをいろいろクラインとかミニコットとかビヨンとか、さまざまな人がいろんな形で記述してますけど、そうは言っても簡単なことじゃないですよね。
お母さんが○○押してくれない、それはお母さんがいないだけだとかって気づくのは、私の中に食べ物がないだけだって気づくのは、一体いつになることやらって感じじゃないですか。
その意味難しいですよね、これ。赤ちゃんにしてみればってことですよ。
でも我々だってですね、例えばこう、なんかね、事故があって、でもAIとかが超発達した世界があってですね、完全に引きこもってる人がいて、地下とかに住んでいて、ドローンとかを使ってですね、食べ物は届く、必要なものは全部届く。
だけれども、実は外の人は全然いなくなっていることに長らく気づきませんでした。SFみたいな話ですけど。ってことがあったとして、気づきますかね、それね。気づかないと思うんですよね、私は。
赤ちゃんだって同じで、世話の供給が普通に続いている場合に、お母さんが不意にいなくなっても、やっぱり気づきませんよね。
ひたすら泣くみたいなことはするかもしれないけど、それはひたすら泣いて何の事態が起きているかは分かっていないままひたすら泣いているわけじゃないですか。
そういう事態に私たちは陥ると思うんですよ、普通に、自然と。
私自身のことを言うとですね、ここのところそういうの多いですけど、私の性欲って完全に精神病状態だったわけですよ。
性ってのは悪いもんだと思ってたんですけど、特に何が悪いっていうことを言うと、私の性欲ですよ。
あれが悪いと思ってたわけですよ。排出してしまうんで。男性はこの問題にとらわれている人が少なからずいるなって思うんですよ。
どうしてそう思うかというと、ファンザ見るとそういう作品がとても多いからですよね。
排泄系で興奮するというのは全て同じような意味を持っていると思うんですね。
自分の悪いものを外に出しているっていうそういう考え方。
だけどあれはいいものじゃないですか。いいものだと思わないとおかしなことになるじゃないですか。
悪いものの排出と心の状態
極端に言うとあれを悪いものだと思うってことは、犯罪行為をしなければ正行為はできないってことになっちゃうじゃないですか。
それは完全に倒作的ですよね。でも私は思いっきりそういうタイプだったわけですよ。
だからその悪いものを出せばことが足りるって考えるっていうのは、
だってこう悪いものをとにかく出すことによって賢者モードになるとかね、そういうこと言うじゃないですか。
マスターベーションして賢者モードになると。これは悪いものを外に出すから。
自分の中から悪いものが出ていったから自分はまた小切れになってすっきりしましたと。
なんならその後シャワーとか浴びるからね。
この時によくよく観察していると心の中の悪いものを一緒に排泄することがとても多いんですよ。
つまり例えばテストの成績がすごい悪くて、いやもう本当に気分悪いわって時によくやるわけですよ、男子は。
中学校とか高校ではしょっちゅうでした、私の場合。もう勉強する前はやるみたいな、そういうノリなんですよ。
もちろん実際にはできないんで、空想でやるわけです。
マスターベーションってすごい原初的空想の世界とよく似てるなと思うんだよね、無意識的空想。
特に男だった私にしてみると、何の解決にもならないじゃないですか。
あれをしたからといって英単語の一つや二つが増えるわけではないですし、
アカウントフォーとかね、ああいう覚えにくい英熟語があったりするんですけど、
別にマスターベーションしたからってアカウントフォーの使い方に習熟できるとかいうわけじゃないわけじゃないですか。
つまりそういうことなんですよね。
そういうことってどういうことかというと、排出ということにも意味がないんだけど、
私たちは排出ということにすごく意味を持たせてしまいがちで、
排出するということに意味を強く持たせているときは、
だいたい赤ちゃんがうんこを漏らすことによってお腹がいっぱいになったっていう誤解にそっくりのことが起きるんだと思う。
私実際に、儀式的にマスターベーションすると、えらく満たされた気持ちになっていました。
何にも起こってないわけですよね、極端に言うと。何かが満たされるっていうこととはほぼ真逆なんだけど、
しかもそれが悪いことだと思ってないんですけど、悪いものをそこに出したって感じを持ってるわけですよ。
完全に赤ちゃんのそれと同じです。
不在論は全体的にこういう話が多い。性的な話とかマスターベーションが多いって話じゃないです。
排出ということと不在というものがどういうふうに人の心で難しい問題としてとらわれているか。
これね、赤ちゃんのこの種の誤解をみんな細かにしている感じになりやすいんだけど、
そして実際排出しがちな人に対しても結構我々は下げすんでしまいがちなんですけど、私たちはこれしょっちゅうやってると思うんですよね。
私は、自分が精神病状態と非精神病状態になっている時間帯というもののタスク種類があるんで、
ありとこと細かにやろうとつけようとしていた時期が何回か何日かあって、4分の1は精神病状態だなって思うんですよね、自分は。
しかも私はどっちかというと現実見当が高いように人に言われるんですが、そんなことはないと思ってるんですけど、
もし本当にそうだというならば、人はもっとこれを多くやるってことになりますからね。
私は別に精神病状態と非精神病状態がどっちが良いかというのは究極的にはなかなか言えないと思うんだけれども、
生きていく上では精神病部分が活性していない時間を増やした方が楽ではあると思うんですね。
夢の重要性
ちなみに寝ていて夢を見ている時っていうのは精神病状態に限りなく近いと思うんで、
それを加味するとですね、私の場合も3割、24時間のうち8時間は優に超えていくんではないかと思いますね。
だから正気でいられる時間は半分を超えれば良しとしなければいけないのかなっていう感じがするんですよね。
他は狂気とは言わないまでも、情緒的には乳児にほぼ近い状態で生きている。
そういう時間もそう珍しくはないというか、1日に1回は絶対ありますし、だから私は卒業することは決してできないっていうだけではなくて、
卒業なんてとんでもないんですけれども、卒業することができないというだけでなく、
そんなに操作的にできるものではないんだけど、あることは間違いないじゃないですか。
夢って素晴らしいなって思うんですよ。だって寝てるんで。夢を見てるっていうのは、多分最高の在り方の一つだっていうふうに最近私は思うんですよ。
だから昼寝ようと夜寝ようと、とにかく夢を見たっていうのは、私は基本的に素晴らしいことだったって思うようにして、
一番いい時間の使い方などではないかと最近思うんですけれどもね、ある意味では。
これだけでは困るかもしれないけど、夢を見てる時間っていうのが、私は自分が生きてる時間の中で最も価値が高いっていうか、最も適切な時間の使い方をしているような気が再現してます。
夢はとてもいいことだなと。別に記録を残したり、分析したりしなくても、とにかく夢を見ているということに価値があるなって思うんですよね。
PSでありながら現実的用度がとても高いわけじゃないですか、ある意味では。寝ていてほしい人に寝ていてほしい時間帯において、その人が寝ているっていうのはいいことだと思うので。
私は寝がわくばですね、静かに寝てたい。私はどうやらうるさいらしいんで、静かに寝たいものだとは思っているんだけど、これ以上望むことあんまりないかなみたいに思うこともあります。
で、だからこのPS的な状態、PSな状態、精神病状態、精神病活性的な状態、何でもいいんですけれども、つまり解説優先になっていて、
全能で万能な人は同時に非常に無力なわけですよ。これは非常に大事なポイントだと思うんですよね。ものすごい権力を持った独裁者って、基本的に何もできないっていうことに大きな価値があるわけじゃないですか。
飯も人に作らせる。移動も人にやらされる。全部自分ではやらないわけですよ。の方が偉いわけじゃないですか。自分で運転して、自分で飯作って、自分で掃除してって。
15代将軍の徳川義宗はそういうような人だったらしいんですけど、徳川慶喜ですから、吉野部ですか。
あの、あれですよね。すごく評判悪いですよね。最後の将軍ってだいたい評判悪いんですけど、だいたいそういうのって評判良くはないわけですよね。
もうちょっと何もできずに人を使うっていうことの方が高く評価されるんですよ。ちなみにあの人将軍辞めた後殺されなかったんで、写真家やってるんですけど、しかもあの人は貴族院議員とかも。
これが日本の不思議なところですよね。よくそんなことを認めますよね。政治に参加させるとか。普通に危ないじゃないですか。
大抵もうちょっと、どっかに永久に閉じ込められるのか。イギリスではビクトリア町とかでよくそういうことが起きてたわけですけど、本当に不思議ですよね。
日本ってね、不思議だなぁと思うところが、ここはいいところなんだと思うんですけど、それはいいとして、写真家とかやってたわけですけど、つまりあの時代写真家やるってよっぽど自分で自分のことができないと難しいじゃないですか。
現像して、水で洗ってみたいなの。あの人全部やるんですよ。料理とかもやる人だから。で、評判悪いですよね。そういうもんなんだと思うんですよね。
で、評判、今そんなに悪くなくなってきてると思うんだけど、らしくないってことになってしまうんですよ。将軍様らしくないですよね。
ああいうふうに、召使いみたいなことまで全部自分でやれますみたいなことをやってしまうと。これがだからつまり万能感を持っているということは無力であると。
赤ちゃんでそうじゃないですか。無力で。そして全てのことはやってもらえる。とても偉いじゃないですか。
お母さんが全部やってくれるっていうね。地球の中にいるときは本当に全部やってくれるわけですよ。文字通り。私たちはその状態を目指しがちですよね。
全部やってもらえる状態がいい。一番ポイントになるのがここで何かっていうと、自分の苦しみを自分でケアできることってことですよね。
で、できないわけじゃないですか。快不快原則ってまさにそういうことで、不愉快になったら手をバタバタ、手足をバタバタさせてひたすら泣き止めく。
涙を出す、行動をする、そしておしっことうんちを出すと。そうすることによって自分の不快を何とかしようとしている。
これって何ともならないので、つまり有力ではないですよね。何かスキルがとてもある人のやることでは決してないわけですよ。
でもこういうことっていうのが、やっぱり世の中においてごく普通だと思うんですよね。私はこれがダメなことだっていうのはどうかと思うんですよ。
ごく普通だと思っておいたほうが、お互い楽園ができるんじゃないかなと思うんですよね。
電車の中で急に怒り出す人っていらっしゃるわけですが、あの急に怒り出す人に対して世の中的に大変厳しくなってきてると思うんですけど、あれはやっぱりお互い様だっていうふうにやっておくのがいいと思うんですよね。
そうすることによって急に怒る人が徐々に急に怒らなくて済むようになるんじゃないかと自分は思ったりするわけなんですね。
社会的な視点
結局これはお互いがお互いに自分でケアしろ自分でケアしろって言っているから、自分でケアしたくない人が権力構造の上の方に行くと自分で全くケアをしないっていうことに独特の特権意識を持つっていうだけの話のような気がする。
だって急に怒っても問題って解決しないじゃないですか。
誰かが飛んでくるのは何かのサービスにお金を払ってるからなのであって、結局のところそれはケアされるだけの理由をちゃんと持ってるわけですよね。
現実原則なんですよね、それはそれである意味では。もちろん駅員さんとかにしてみると、そんな急に怒鳴り出した人のケア代は入ってないかなって思うと思うんですけど、ここを厳密にすればするほど生きていくのは辛くなるだろうなって感じはしますよね。
仕事が辛くなりますもんね、そうやってると。つまり排泄物を扱うということについてどう思うかってことだと思うんですよね。
よくお金はうんこに称えられますけど、それは全く僕は妥当だと思うんですよね。余剰なものですからね、どっちにしてもね。
この余剰なものをむやみやたらにありがたがるっていうのも、つまりすごくうんこをありがたがってる絵っていうのはよくありますけれども、
ああいうことって結局、人の目から見ると品がないってことになると思うんですよ。札束を拝むみたいな話ですよね。
だけれども、生物ってそういうふうに生きてるわけじゃないですか。酸素って要するに植物の排泄物だったりするんですけど、それをうまく使うわけじゃないですか、動物のほうは。
動物は二酸化炭素を排泄するんだけど、これを植物はうまく使うわけじゃないですか。血液とか取っていくやつはだいたい評判悪いですけど、でも血液って取られても結局ちょっと手足が痒くなって腫れるってことはあるにせよ。
取られて困らない分は余剰ですよね。余剰分って僕らは使い回すわけだけれども、それが汚いって思うんでしょうけど、そうするときれいなものなんてこの世の中にありませんから、水って何かの余剰分ですから。
血液大半水ですけど、そういう意味ではないんですけど、この排泄するっていう行為には重要なポイントがあるに違いないとは思うんですよ。
僕らは夢を排泄する、だからミオンは夢をニョーに例えてるんだけど、あれはやっぱり妥当だと思うんですよね。ちょっとわかりにくい話でありますけど、夢ってガラクタ感があるじゃないですか。
夢の有効利用
で、ニョーってガラクタじゃないですか、結局のところ。そういうことだと思うんですよね。で、ニョーを、つまり夢を有効利用したいと思ったら、あれですよね、夢を非精神病部分で施行していく。
そういう意味ではないんですよ。で、夢を有効利用したいと思ったら、あれですよね、夢を非精神病部分で施行していく。
で、夢を有効利用したいと思ったら、あれですよね、夢を非精神病部分で施行していく。
で、夢を有効利用したいと思ったら、あれですよね、夢を非精神病部分で施行していく。
で、夢を有効利用したいと思ったら、あれですよね、夢を非精神病部分で施行していく。
で、夢を有効利用したいと思ったら、あれですよね、夢を非精神病部分で施行していく。
で、夢を有効利用したいと思ったら、あれですよね、夢を非精神病部分で施行していく。
で、夢を有効利用したいと思ったら、あれですよね、夢を非精神病部分で施行していく。
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で、夢を有効利用したいと思ったら、あれですよね、夢を非精神病部分で施行していく。