3ヶ月チャレンジの始まり
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1217回をお送りします。
7月7日月曜日、8時6分です。七夕ですね。
七夕もすっかり暑くなりましたので、この新体制というか、うまいくだけ新体制なんですけれども、これでちょっとしばらくはやっていけるといいなと思っています。
これ、かなりいいです。見えないと思いますが、なんといってもヘッドホン一体型じゃないので、ヘッドセット一体型じゃないので、自分の声は聞こえなくなるんですけど、
耳を物理的に塞ぐのをとことんやめようというふうに、ネッククーラーをつけて、部屋にクーラーもつけて、耳も塞がなければまあまあいけるんだということがようやくわかってきましたので、
これでしばらくいこうと思います。
昨日からですね、ノートにも書いてみたりして、3ヶ月チャレンジ第11期を正式にと言いますか、募集開始させていただきましてですね、もうとっくに開始してたんですけれどもね。
まほにさまで11期を迎えることもできそうで、このペースでなんとかですね、12期、13期といって、願わくば100期ぐらいまでは行きたいと。
100期って何だろう、300ヶ月か。300ヶ月ってどういうことになるかな、20年以上ってことになりますね。
まあでも、普通に平均寿命的にはいけそうですよね。いけるかどうかわかんないですけど、今の世の中はどんどん変わっていきます。
でもまあ、元気ならやろうと思ってます。
で、それはそれとしてですね、昨日も書いたことなんですけど、どっちかというと、3ヶ月チャレンジって何をします、何をします、何をしますで定義するのは難しいなと思って、
何はしません、何はしません、何はしませんで最後に羅列してみたんですよ、ノートで。しないこと、ノットで定義するという、あんまり良くないとされてるんだけど、
ノットで定義してみたんですよね。そうすると、いかにもこれはなしいなとは思ったんですよ。
なしというだけで、つまり何なのかがわかるわけではないんだけど、とにかく今時流行っているものとほとんど逆を向いてるなという、そういう意味ではいいかなというふうに思いました。
だって今時流行っているものであれば、そちらのサービスがあるわけだから、とりあえずそちらでもいけるそうなわけじゃないですか。
そちらのやり方でうまくいってない場合において役に立つっていうのを目指せばいいんだろうなと思うんですよ。
とにかく変容を目指す。ここが最大のポイントかなと思います。ゴールを設定するかどうかはまだ二の次だと思うんです。
変容を目指すかどうか、変化を目指すかどうか、変わるってことを目指すかどうかですね。
もちろん必要があれば変わるってことになるんですけど、そういうことでいきたいんですよね。
必要があれば変わるということになるっていうやり方でいきたいんです。必要もないのにむやみに変わろうとしないっていうか、
今すでに得ているものが小さくないのに、それをミスミス不意にしないようにするというだけでも全然違う。
不意にしてしまうというのが一つの反復になっているケースにおいては特にこのことは言えるんじゃないかと思うんですよ。
例えば私がすでに得ている娘と、不意にするってことの重大性に気づくということがしばしば大事だろう。
人間には、コンステレーションという意味では、自分の中の星座みたいなもの、ポジションでもいいんですけど、様々なポジション取りができるし、様々な人格がそれぞれ現れるように言われているわけですけど、
ささきとしょうごとのきばみたいな。タスクシュート協会の理事としての私と、Xでのきばやってる時の私は違うってことですよね。一番違うのは寝てる時と起きてる時ですよね。
毎日二人格の交代は確実にあるだろう。あと、空腹時と満腹時と結構私は違いますから。外面的には違わないと思いますけど、内面的には結構違いますから。
そういう意味での人格交代のようなものが起きると、そこで大事にするものも変わるわけで、一生懸命ある種の私が大事にしているものを他方の私がどんどん捨てていくということを、かつての私はやりかねなかったんですよね。
これが人生を進ませなくするわけですよ。でも、これって変容って言ってもどう変わるのかはすごい問題じゃないですか。
その捨てる自分いなくすればいいじゃんって言う人もいるかもしれないけど、ことはそう簡単にはいかないんですよね。
なので、いろんな人格の共同作業によって人生というものが成り立つとすればですね、やっぱりこの相互の連絡を取り合うのが大事でしょうと思うわけです。
そういう意味で、この人格交代のようなものが起きると、人生というものが変わるわけで、いろんな人格の共同作業によって人生というものが成り立つとすればいいじゃんって言う人もいるかもしれないんですよね。
母との関係性について
なかなか都合よくはいかないわけですよ。それぞれに良い部分があるってことですね。
で、すでに本題に今日入っちゃったんで、3ヶ月チャレンジの11期はよろしくお願いします。ホームページとかXとかノートとかをよくよく確認していただけるととてもありがたいですっていうところで本題続けますけれども、
コンステレーションといい、いろんな人格の乖離みたいな話をして、一番根底的っていうのかな、よく規定的とか、その人の人格の格みたいな話になるんですけど、やっぱりこれがあるからゼロ歳児って話が出てくるわけですね。
もっとも、このゼロ歳児こだわりは私自身のこだわりなのかもしれないんですよ。やっぱり私は侵入というものに大変弱く、雷、静電気、失色、罵声、不意の批判などなどに弱いわけですね。
奥様の不意の失色や不意の不機嫌。不機嫌によく言うじゃないですか、あなたに責任はありませんって。そりゃそうなんですよ。私も裸足になった後だったらばそうでしょうね。
でも私はゼロ歳児には母の不機嫌におそらく全責任を感じてたんですよ。そもそもおそらく部分対象ですから、母のおっぱいの不機嫌とかそういう世界になっちゃうんですよね。母の不機嫌とかはわからないんでね。
あの、弱視に近いんですよ。生後、何週間までだったかな?これ習ったんですけど、アメリカでね、留学中に赤ちゃんから見た風景っていうのがバーチャルみたいにして体験できるという授業があったんですよね。
いやもうびっくりですね。これはおっぱいがわかってたら偉いんじゃねえかっていう感じがするぐらい。あれですよね、瓶をそこから眺める世界みたいなもんで、何にもわかんないですよ、なんじゃね。
これでむしろあれぐらいわかってるのが偉い。つまり、あのバーチャル本当だったのか疑惑が僕の中には若干あるんだけど、でも今の私たちが見てるみたいにクリアに風景が見えるはずがないでしょうね。概念持ってないんだから。
概念がないということは、人の顔を見てもそれが人だとも顔だとも思ってないわけですから、いくら視界だけクリアになったって、視覚がクリアになるはずがないですよね。
それが何だかわからずに見てるわけですからね。わからんものだらけの世界にいるわけですよ。その辺によく笑う。あれは意味のない笑いって言われてるんですけど、これもまた私は若干の疑問を持ってるんですよね。
赤ちゃんの笑いは意味がないとされてはいるんですけれども、うちの子はよくにこにこ笑ってたんですよ。これは本当に言われている通りなんだろうかって常に疑問に思いながら、
でも完全にわかっているはずはない。もちろん自分が笑っていると気づいているはずもない。そもそも自分ってものはいないですよね、まだね。
ただ松木くれひろさんの面白いことを不在路の中に書いていて、あれに近いことは他の人も書いてますけど、どんなに天国の絵が書いていたり極楽浄土の絵が書いていても、そこに他人が一人もいない絵っていうのはないはずだって書いてますね。
何が痛いかというと、万能空想的世界、自分一人ではいいわけですよ。倉底平蔵さんもグッドバイブスで似たようなこと書かれてましたけど、彼はやっぱり現代人らしくSFチックな話を、これは例え話ですけどしていて、
火星にいてね、全部が人工的な世界で出来上がっていて、Amazonみたいなものをクリックすると必要なものが全部届くっていう世界が、もしあったとすれば、その人は、ここはしょりますけど、完璧なナルシスティックな世界に生きることができるだろうって話をされてたことがあったんですね。
ここ、人一人しか、自分しかいないってところがポイントですね。これが、つまり、一時ナルシシズム論争と深い関わりがあると思うんですよ。フロイトはこれをまだオートエロティシズム、自体愛の世界って呼んでたんだけど、自分の体を触って性的な快感が得られるということは、自他の区別が全くついてないんですよ。
ちなみに、でも、大抵の人がしているマスターベーションにおいて、自体愛的な行動をとってるはずですから。つまり、自体愛というのは、自他の区別がついちゃったらやりにくいものなんですよ。私、アトピーで大変困ってた。これと自体愛は深い関わりがあると私は思うんですね。
だって、アトピーって自分の体をほじくってるわけですよ。非常に。アトピーじゃないんですよね。私はあれはアトピーではなかったと思うんですよね。何度も言うけど、ここは訂正が必要で、身体的な精神病、ないし心身傷だったと思うんですよ。私の話ですよ。
で、これが要するに自体愛と深い関係があるんですよ。自分の体が自分の体であるという、自他の区別が完全にはついてないんですよ。まるで他者みたいになっちゃっているから、ああいう身体的な苦痛というか、身体的な違和感というのが全身に起きてくるわけですよ。
話がちょっと先走りすぎているので戻しますけれども、規定的な事故、つまり私自身の一番奥底ってのはやっぱり、親友をひどく恐れていた。その親友をひどく恐れていたというのはやっぱり、母がすごく親友的だった時期があった。
で、なぜそういう時期があったって言い方をするかというと、母親は大学生になっても、0歳の時でも40歳の時でも変わんないんじゃないのって思われるかもしれませんが、変わりますよね、私にとっては。
私が20歳にとっての母の失跡は、もはや大した意味はないです。今になっての母の失跡はしませんけど、もはやおばあちゃんの大きな声です。
なんか言ってんなーみたいなノリに近いです、はっきり言って。それほどほとんど何の意味もなくなってきておりますからね。
でも0歳児だった時の私にとっては全然違います。もはや雷鳴のようなものです。めちゃくちゃ恐ろしく侵入していくものです。
で、当時の母が一番意味ありげなことを懸命に喋ってただろうなって思うんですよ。だって若かったからね、頭もはっきりしていたし。
あの時の言葉とその声量、迫力は私にとって大変なものだったと思うんですね。
母だという認識すらできていないんだったらゴジラかもしれないじゃないですか。何だかわからないものなんで、大変恐ろしいものですよね。
この世の仕組みとかもわからないんで、親子関係というのはどういうものか知らないんで、大変恐ろしいものだったはずですよ。
で、私はそれを大変恐れるようになっていて、それを侵入というふうに、侵襲と言いたくないから侵入。
侵襲だと、やっぱりもっとすごくないと侵襲って言わないんじゃないかと私は思ってしまっているんですよね。
侵襲だったのかもしれないが、侵入だったと思うわけですね。
で、これは私の情緒領域の中に、母の情緒まで入ってきているっていうような意味で侵入でもあるんだけれども、
何であれですね、ここの段階では2つの解釈が世の中的には、世の中的に精神分析的にはあって、
1つがウィニコットの言う環境としての母親、その万能空想の世界というか万能感の世界なんですよね。
万能的自給自足の世界って、松木くんよりさんが書いてましたけど、万能的自給自足っていうのが一番やっぱり、
さっきの火星のアマゾン、火星にアマゾンないけど、火星のアマゾンショッピング世界はそれに近いかなと思うんですよね。
はい。
あの、それが自分の、自分の感染自体とは全く違いますよね。
この、自分の感染自体があるからといって、自分がどうしたらいいか、自分がどうしたらいいかって、
やったらチェアがやってくっていうもまさにそうじゃないですか その間感激大タイムラグがなければないほどいいわけですよ
このタイムラグが全く発生しない世界に住んでた赤ちゃんは時間概念というものを持てません だってタイムラグっていうのが我慢する時間の長さってものを意識するわけですが
それがないんだったら時間の概念でいらないです そもそも自分の欲望すらあんまりいらないんですよ
だって欲望したときには常に満足させるチブサがあるんですから それが
おむつも解いてくれるし温度も良くしてくれるし 必要なら抱っこもしてくれるし笑ってもくれるわけで相手もしてくれる
まさにそういうものなんですよ 私これとライフハックの究極系がとてもよく近い世界にあるなって思うんですよね
ちなみに自己啓発っていうのもここにひと役買うんですよ どういうことかというと人生つらいなってなってきたらあなたの人生がつらいの
あのあれですよ小さなことにくよくよするなとか答えが提供されるわけですよ 似たようなことをちんちゅんしん
ちょっと名前忘れました 日中関係の小説とかを書いている
人なんですけれどもすごい面白い小説書いてます 諸葛孝明とか曹操とか日本人大好きなのも書いていて
まああの商売系ありますよね すごいうまいなって思います
内なる自己と母親の影響
であの郷土流宝はあれは違う人か でもあの人も書きそうなタイプの人なんですけどね
いや書いてたんじゃないかな まあいいやとりあえずそれがですね何が言いたいかというとですね
あの人があの日本という国はまるで中国っていうのをあの 万能な親みたいな扱いをしてきたってことを書いてるんですよ
まるで内での小槌だと つまり哲学が発達しなかったここのところですよね
考える必要がなかったんだってことですよ だって紀元前から
えっと孔子だとか曹操だとか牧師だとか人たちがいてくれたから なんか組織とか何かで悩んだら
詩ノタマークを読んでくればいいわけですよ つまり漢文を日本語に直しさえすればですね
えっと内での小槌のようだっていうふうに彼は書いてるんですけど本当に内での小槌のようじゃないですか
なんかこう困ったらですね部下が裏切るんですけどみたいになったら順子みたいなのに書いてあるわけですよ
部下が裏切るんだったらこうしろみたいなことが書いてあるわけですよ 考えるということも必要なくなるわけですよ
あれと小さなことはくよくよ、小さなことにくよくよするなみたいなのそっくりじゃないですか
人生をどう生きたらいいかの答えを誰かが書いておいてくれてるわけじゃないですか 心を平安にしたらどうしたらいいでしょうって言ったら
グッドバイブスの倉野の景造さんによると一つ意識ですって答えが書いてあるわけですよ 愛しましょう許しましょうって書いてあるわけですよ
これは普通にはものすごく考えてすごく困って つまりタイムラグがあるわけですよ
困ったところから結論が出るまでに長い時間が必要で で長い時間を使っていると人間をほら短期記憶っていうものは
いろんなものを詰めていくと前の奴は追い出されてしまうんで あのつまり意識は全意識の領域に追いやられてしまうわけですよ
さっきまで何考えてたんだっけそもそも自分何で困ってたんだっけっていうのは あの十二分な記憶力がないとですね
答え出す前に問題を忘れちゃうわけですよ ニーチェの牛みたいなもので牛に幸せの秘密を聞いても無駄だっていうやつですね
その質問をされた時に答えようと思った時に牛は質問の方を忘れると でもそういうもんですよね人だって
ここにコンテナって考え方が出てくるわけなんですね コンテナが詰まっていると考えられないわけです
コンテナはどうやったら開くのかって話をしょっちゅうしてたわけじゃないですか コンテナどうやったら開くのかというのは持ちこたえることによって開けるんですよ
自分で つまり持ちこたえることによってこの課題は解決した
だからコンテナは空にできる 次の課題をコンテナに入れることができる
ところが欲望した時には常に満足させる小さなある人の場合には コンテナは開ける必要がないわけ
コンテナに我慢して持ちこたえるとか考えるべきことを置いておく必要はなくて 自分の答えを出す必要はないわけですから
今心は平安ではなくざわつきました どうしたらいいでしょう蔵園さんって言って 蔵園さんのたマーフでいいわけですよ
答えを出してくれるわけ あれそれはあなたが許していないからです 許しましょうっていう答えが出てくるんで
ここで持ちこたえる理由がないわけです このことを中国の作家さんが言っていたりしていて
同じこと言ってるんですよ 松木くん井野さんもですね
問題解決能力の発展
常に満足させてくれるチューブさんが存在している 常に解が提供される
常に困ったときには即座に問題解決される こういう人にとっての人生は潤風満帆であるはずのものだから
何か本当に困ったことがあったとしてもその人の場合には ただただ困惑するだけで問題の解決は他社の手に委ねられると
まさにそういうことなんです これがライフカップじゃないですか まさに問題の解決はアマゾンの手に委ねられていたり
アマゾンが提案してくれる 新しい自己啓発書とかの手に委ねられているわけですよ
自分で考えるということは思いも寄らないというふうに松木さんが書いてるんですけど その思いも寄らなくなったその人の心理的なベース
核となるところはどこにあるかっていうとゼロ歳児の時の万能空想が何か続いてしまった あるいは心的現実の中ではお母さんは信頼できすぎるってことですね
お母さんがあまりにも当てになるというタイプの場合にはこういうことが起き得ると これはねお好み警護さんの本を読むと少しこの解釈が
また微妙に調節されていて母親がものすごく当てになるというより母親が雑だったんだよ みたいなつまり答えは出してくれるんだけれども
いつもいつもワンパターンな答えをしかも66タイムラグを与えずにバンバンバン与えるもんだから そういうことになるんだよみたいなことが書いてありました
例えばちょっと泣きそうになったらテレビを見せてミルクを与える ちょっと泣きそうになったらというかもうでっかい哺乳瓶を与えておくみたいなそういう確かに何か欲求不満が起きた時には
満足を与える強さはあるんだけどなんか雑だよねっていう感じですよね ちゃんとお母さんのコンテナになって考えるっていう作業を中途半端なところで放棄していて
なんか泣いてるからお腹空いてるんでしょうということでひたすらミルクがでっかいのがボーンと与えられて ひたすらテレビ見させられると
これはこれで何か考える能力が育たなそうだよねっていうそういう感じ この解釈はなかなかいいかもしれないなっていうのは
お好みさんの本読んだ時には少し考えたんですよね お母さんの世話がやたら豆々しいというよりは結構雑だったためにむしろそうなったみたいな話も
わからなくはないような気がします でもいずれにしてもこれはちゃんと世話されているわけですね
環境供給が割とバッチリある状況 それが故に考えるという力の力というかスキルを伸ばす理由があまりそのつまりその人は
考えられないだけであって頭が悪いわけじゃないですねここはなかなかすごいんですよ つまりミルクをもらったり言葉をもらったり
あるいは勉強道具をもらったりいろいろもらってるんでそうした考えるようになって ないかもしれないけど知的には十分水準が高い
何ならば専門職にも十分つけたり教師になれたりもするわけですよ だって知識いっぱい持っているってことは十分
あり得ることですから知識はミルクですつまり必要だと思った時には知識も与えられる まさにさっきのうちでの小筒じゃないですか
何でも知ってるわけですよ結構 ただ考えはしないと考えるというのはつまり精神分析の文脈では苦痛に持ちこたえた末に自分の
問題を解決するっていうことを自力でやるっていうのを含んでは これを考えるというわけ
これをする理由がなかったと自分で問題を解決する理由がないから だってよく考えてみると火星で人って暮らせないじゃないですか
だから蔵野さんのメタファーは大変いいわけですよ 火星で人が暮らせないのにその人が暮らせているということは
誰かがその問題を考えて解決してくれたからじゃないか その人はその上に乗っかっているわけですよ
恐怖と自己理解の深化
だからポチすれば何でも手に入るわけですよ ここに独特のナルシシズムってのがあるんです
その人は決して傲慢な人でも態度が悪い人でももしかするとすごく穏やかでいい人 なんですよ
でもある種の傲慢さを持っているナルシシストなんですよ つまりいや俺だって普通に生きていけるじゃんって思ってるわけですよ
そこには多大な苦労があるんですけど全然意識できないわけですね でも赤ちゃんってそういうものですよね
お母さんは恋愛したりセックスしたり 大変な苦労をしてそこにいるいてくれているわけだけど
赤ちゃんはまあいい気なもの つまりいい気なものだっていう感じを他の人に与えるナルシシズムなんですよこれは
本当にはわからない 本当にはわからないんだけど周りの人がそれを世話している人が特に
いやこの人いい気なもんだなぁって思うってところにそのナルシシズムがあるという そういうある種のカウンセリング的な逆転医ってことになるんですよ
これがですね非常に大事なんですよ これをおそらくカウンセラーの人が
汲み取ってくれないとその人の一番奥底のところになかなかたぶりつけないっていう事態が発生する つまりお母さんどんな気持ちだったんだろうっていうのが一番奥底のところにな
相当するじゃないですかそこが大事なんですよ でこれは非対称に一見見えるんだけどこの非対称性というものがあの
なんていうのかな その場を形成しているわけですよね
だからなんていうんだろうここで一番大事なのは万能感と その万能感なんだけど万能的自給自足なんだけど
つまりそれは妄想ですよ 空想ですよね自給自足と言いながらだって火星での自給自足生活はその人は何一つ
作り出してないんだけど自給自足じゃないですか 心の中ではですね
で赤ちゃんは誤解しているわけですよ あの欲しいと思ったらおっぱいってものは自分が作り出せているんだみたいな
本当はそうじゃないですよもちろんね赤ちゃんがそんなことを考えているとは思えないんだ けれどもそういう風な状態というものに安住していられる精神状態ということ
この安住していられる精神状態が一生続くなら何もこれで問題ないんですよ だけどなかなかそうはいかないんですよね
どこかで環境供給が途切れると特にこの種の人にとっての恐怖というかこの種の病における この種の心理におけるですね
恐怖はこの環境が途絶えるのではないだろうということへの恐怖があるわけです ここで一気に逆転することもあり得るわけですよ
めちゃくちゃケチ臭くなるということも起こり得るわけですよね だって環境供給が永続するんだろうともかく
永続しないかもしれないじゃないかって一瞬でも頭によぎれば よぎるじゃないですか赤ちゃんなら別ですか普通の人だとよぎれば
1円だって使いたくない だからアワゾンなんか絶対使いたくないっていうこの不思議なあの逆転現象が起きるわけですよ
それまでは完全にそれに頼り切る人生だったのに いきなり全く頼れなくなるということが起きるわけです
だからこの後退 この後退によってあのカウンセリングというか心理臨床の場面が非常に混乱しなければいけないはず
なんですよね 最初は完全に頼り切ってるんだけど突然頼れなくなってくるって事態が起きたりして
振り子運動が起きると この人の振り子運動はいろんな形があるんですけれども
例えば今のようにものすごくケチ臭くなるっていうのは つまり
あの古典的には拷問機ってやつじゃないですか やたらとこう閉めると言うじゃないですか
あのね会社とかでもバッチリ閉めていく 酷く拷問機的なものを感じるわけですよ
出し惜しめということですよねあれはね だから非常に隣職になってですねコントロールにうるさくなる
水の小さな漏れも絶対見逃すなみたいな 電気が無駄に使われてるなら電気どんどん消せみたいな
なんかそういう会社の特集を昔やってましたけども そういうことが起きるわけですよね
完全に環境に頼り切るというのは割とのほうずにのほうずに締まりなく使うってことですよ
それがいきなりビチッとなって真逆になるんですよ でも人間心理ってのはそういうことがあります
万能空想を見てるんだから逆転すれば万能な恐怖だから もうめちゃくちゃ恐ろしいということになりますね
私の場合は侵入というのが問題だったんだけど 侵入というのはですねこの万能感が破られるときの恐怖なんですよ
ミニコット流に言うと環境だったはずなのに いきなり環境が自分を攻撃
だって100%環境に依存して生きていきたいのに その100%依存できるはずの環境が攻撃してくる
とても恐ろしい これが私が母に抱いていた
私が幼児の時にですね 母に抱いていたアンビバレントですね
だから私は絶対裏切らない母親というものを 恋愛対象にしようとしてしくじっていくわけですよ
そんなことあるはずないじゃないですか それは非現実的ってものですよ
絶対自分の世話は一生面倒を見てくれて 間違いなく私を安心させてくれる人っているはずがないですよ
これがねなかなか私が不思議だったんですよ いるはずないなと思ったんだけどでもいるはずだと思ったんですよ
このいるはずだと思っている私がゼロ歳児の私の記憶なんですよ つまり私はそこを脱出
そこを卒業できないんですよ 今思ってわかったんですよ
このことについて当然克服しようとか卒業しようって思うんだけど 思った時代があったわけですよ
でもあのPSとDの両矢印 決してPSは終わるわけではないっていう
beforeはっていう状態は終わらないっていうのを読んで つくづく納得した時によくわかったんですよ
いらいい侵入というものが相当怖くなくなる 全然ではまだないんだけどほとんど怖くないっていう感じのところまできつつあるのは
これは終わることはないんだってことなんですよ 私がゼロ歳児だった時の自分っていうものはいなくなるはずがない
定着しちゃったものだし私はそれをある意味心の核にしているんで これがなくなるとか克服されるとか消えて
うせてしまうことは起こらない ただ別にインナーチャイルドに寄り添うとかする必要はないんだなっていう
幼少期とトラウマ
あれは私ね苦し紛れにやってみたことあるんですよ 自分で自分の幼少児の自分を可愛がりましょうみたいなやつね
なんかね何をやればいいんだかよくわからなかったんですよね 今にしてみると別にあれに寄り添ったりすることはない
どうせ私はあれになっちゃうんだからあれになったってしょうがないんだ これになったからといって最悪の場合何らかのものを壊してしまうかもしれないけれども
あのなんて言えばいいんですかね そうなったからといって
私が本当に恐れているようなことにはならない 例えば
世界が崩壊するということは起こらない 世界は崩壊しない 私がそのゼロ歳児になって悲惨な声で泣き叫んだとしても
昔はねこれにはっきりこんな風に言語化できてたわけではないんで なんか侵入されるということが
決定談を加えられるとものすごい何が起きるっていう説明はできないんですけど とてもどうでもいいからそれは回避したいと思ったんですけど
今はこれを回避しなければならないとかいやそもそも回避できないってことがわかったわけです なぜなら私は環境を当てにしているんだから
その環境というものが私に敵意を向ければ恐怖を覚えるのは当たり前のことで ただそれは
いわば私がゼロ歳になったからこそ起きていることなんです私はゼロ歳にはならない どっちにしても
これはですねこのようにしゃべるとごく当たり前の話なんだけど 体感的なものなので
クラインの理論
要に説明は難しいんですねしかも記憶の限りでは2歳までしか戻れないんですよ 0歳だった時のことはやっぱり推定の勢いが出ません
ただ母と私の関係の2歳だった時の断片的に2つ思い出しただけでもゼロ歳だった時は もっと事態は悪かったはずだと信じるだけの根拠があります
これは別に母が虐待的だったとかいうわけではない 虐待的だったらじゃあどうなのっていう問いがクラインの方なんだと僕は思うんですよね
大根です 確かに松木さんがおっしゃってるように
天国の絵だろうとなんか書かれてるで聖母マリア様 つまり他者がいますよね人間がいますよねしかも2人以上だいたいいます
天使とかいるじゃないですか いるってことはしかもあれは非常に母と赤ちゃんみたいな雰囲気を帯びてますよね
だから我々はあの世界をユートピア ヘブンでも何でもいいんですけど極楽浄土でもいいんですけどこのようなものでは第一にないと
この世である以上は 侵入は避けがたい侵入程度のことは避けられないもう一つが
えっとそこには他者がいい つまり
供給源は人の手に握られているってことですよ これが嫌なわけじゃないですかだから
ウィニコット流に言うとなかなかシビアなんですけど あの母親が人間であるということがわかるだけでも侵入になる
いや彼が言う新種になるトラウマになる だって今日さっきも言いましたが東供給源が供給源が人だということは供給がいつ
止められるかわかったものではないっていう恐怖もこれはトラウマの結果ですよ だから閉めるようになっちゃうじゃないですか
水道口とか ポチョンポチョンと出てるだけでもダメだ
いつ止められるかわかんないんだから大事に使いよってことですよ それはそれで真っ当ですけれどもこれやっぱりある種の不審感というものをそこに
にじませています トラウマがあるわけですよ
でもグラニクラインの世界最初から対象がある ただし乳幼児は別に対象と人間関係とかそういうものを結んでるわけではないんですよ
おっぱい欲しいなーっていう主張したからおっぱいくれるとかそういう真っ当な世界に 生きてるわけではないんです
乳幼児は妄想の世界に生きてるわけですよ なんかこう自分が叫ぶと
叫ぶことによっておっぱいがくる だからここは妄想ですよ 叫んだからきてるわけではない 叫んだからきてるんだけど叫べばくるっていうのは妄想じゃないですか
ましてうんちを出せばお腹が満たされるというのは先日くらい言ってるように妄想ですよ ただ現実は何かが変化する
自分が何かを変化させようと必ずしもそういう意識すらないでしょうけど 自分が力の限りを尽くすと何かが変化する
ここに 空想があるわけですよこれがつまり投影であり投影同一化っていう現象なわけですよ
あ私が叫んだからおっぱいがここに登場したんだ これは明らかにおかしな発想なんだけどでも投影したわけですよね
悪いこの悪い空腹という悪い事態を叫ぶことによって なんかよくわかんないけどおっぱいというものが登場して自分の問題は
あの自分の問題というか敵はやっつけられてめでたいことだみたいなそういう あの完璧に外れてはいないけど相当ずれた解釈をしている
これは投影同一化ですよ さっきのなんかこう万能感の世界とちょっと違うじゃないか
まず穏やかではないあと登場人物がはっきりしている さっきのミニコットの世界は極端に言うと一人に限りなく近いてか
だけれどもこのクラインの世界はおっぱいという部分的な存在 つまりお化けの世界ですよ
ものが部分的に浮遊している顔が登場したりおっぱい登場したり 手が登場したりなんかこういろいろと部分的に人間関係は結べない
だから対象関係を結ぶわけですよ代わりに そしてその世界の中で自分の勝手な空想をしては相手に怒ってみたり
相手に泣きついてみたり相手を愛してみたり つまりおっぱいを愛してみたり顔に怒ってみたり
うんちに文句を言ってみたりしているうちになんか自分の自体は何か良くなっているわけですよ あっこれでいいんだって思っちゃうわけですよ
これは確かに非常にあのある種の世界を連想させます 例えばホラー漫画とかホラー映画の世界ってやっぱこういう雰囲気を帯びてるな
私はいつもカメラニックラインの描き出している世界っての ホラーっぽさがあるなぁっていう感じがするんですよね
だって墓場から生首とかっていうのはいかにも子供が考えそうなことだし 部分対象的じゃないですか
そして何か勝手な考え方をそこに盛り込んでますよね いや死んだ人は別にそんなこと考えてなくない
お前が勝手にそういうことを考えちゃってるよねっていうその勝手な考えというものを すごく連想させるわけですよ
これが我々の心に起こりがちなもう一つの核で 親御さんがどちらかというとその
育つにミルクとテレビを与えまくるっていうのとはまた違った意味で つまりすごく怒鳴るとか
あるいは叩くとか なんかこうやや一貫性に欠けた
つまり環境供給がしたいならば基本優しくしていいはずじゃないですか 一貫して
やや一貫性に欠けてますよね怒鳴るとか そんな泣いてばっかり言うのじゃないの
さっきは泣いていたらミルクがくれたのに こんな泣いていると怒鳴られるみたいなそういうですね
一貫性の無さです 一貫性の無さとバラバラさというのもメラニー・クライン的な
ニューヨージの世界 確かにこれもあると思うんですよ だから我々はついつい
よくこう ファンザとかアダルトビデオ的世界っていうのは フェミニズムの方から攻撃されるときに
物扱いしてるっていうのがありますよね 確かにそうなんですよ
ある種の欲望というものは満たす上で やはり対象との関係が物を言ってくるっていうケースが
少なからずあるものですから だって例えばですけれども
我々は肉を食べるって時 明らかに物扱いしてるじゃないですか 生き物をね
そして部分対象しか問題にしてないですよね ロースとかヒレとか完全に部分対象ですよね
でも我々の現地的な欲求を満たすときには やっぱり部分対象ってすごく大事なんですよ
牛との関係とかを確立したいと思ってるわけじゃないじゃないですか 鶏との関係とか できれば見たくないと思ってますよね多くの人
部分対象だけを問題にしたいわけですよね だからフェミニストの人たちが言ってることは最もだと思うんですよ
男性は長らくこれを部分対象化して おっぱいだけが大好きとかよくわからんことになっちゃってるわけですよ
これはやっぱりその頃の 多分ゼロ歳児ではないと私は思うんですよね
1歳児 つまり少しここには僕はずれがあるなと思うんですよ
ミニコットの描き出している世界は 地球ゼロ歳付近っていうところにものすごく集約されている感じがあるんですよね
そこの重要性を言って メラニ・クラインが言ってるのはゼロ歳だとしても かなり後半
10ヶ月12ヶ月 1歳っていう感じ
だからミニコットの表現 4ないし6ないし8ないし12ヶ月においてみたいなああいう表現
欲望と心的現実
どうせわからんけれども つまり歯がいつ生えますとか いつ立ち上がり始めるっていう話とマッチするはずがないんです
心の中で起きてることなので 人によっては3歳とか4歳ってことも十分あり得るし
私自身部分対象を発達させたのは 2歳以降だなって感じがするんだけど
でも1歳の時に部分対象っていうのは はっきり意識されてると思う 立ってますからね その子は
歩いてますからね その子
なんかうちの子もそうだったけど 鳩とかやたら追いかけてた時代があるんですよ
あれはすごく部分対象的な世界だなと
鳥さん全体を意識してるとは到底言えない 動いてるからどうしても追いかけていっちゃいたくなるわけですよね
例えばディズニーランドとか幼い頃に連れて行きますけど なんかあんまり乗り物とかチロスとかに興味ないわけですよ
なんかどっちかというと鳩とかに興味を持って 鳩だったら別にここまで来なくても公園でいいじゃんみたいな感じなんだけれども
急に寝落ちしたりしますしね これも非常に部分対象的な世界だと思うんだけども
こういうことが描き出してる世界の違いだなって思うんですよ
だから 上にコットン寄せれば環境が人間であったらすでにトラウマの種になるわけですが
だってお母さんにはお母さんの事情があってね 実は私の子じゃないのよとか言われたら本当に大変なことになるじゃないか
分からないからいいこと 分からないままでいるべきことってあるわけですよ
いろんな人のいろんな心理状態に合わせて 無理やり現実に直面させればいいってものではないわけです
今私が念頭にあるのはうちの身内なんですけれども 話合わせておくしかないことってあるわけですよ
今はひたすらひたすらひたすらこの参議院選挙の話をしてくるわけですけど
いやいや参議院選挙よりもまず我が家の状況でしょうって言いたくはなるんだけど これを言っちゃダメなわけですよね
やっぱりその人が生きている心的空間を大事にしてあげなければならない状況ってあるわけですよね
あるいは心理状態というものがあるわけです それに対してムラニー・クラインの世界というのもまた
空想的世界なんですよ だからそこでトラウマになるのはむしろ悪いおっぱいの激しい攻撃みたいなやつなんですよね
やっぱりそれっていうのはその なんていうんだろうな スプリットしてみたところでいなくはなんないじゃないか
まして赤ちゃんの心の中で悪いものはあっち行けみたいになっておってもあっちに行かない でも痛いの痛いの飛んでけって一定の効果があるからすごいんですよね
痛いの痛いの飛んでけって言われると私も子供の頃に体験した限り 飛んでは行かないが減るっていうあれは何だったんだろうと思ったんですけれども
母親が吸収してくれるわけですが つまり自分の結局のところ痛みって心的現実だから
なくて良ければなくてもいいわけですね ないと気をつけなくなるから困るんで気をつける分だけあればいいっていうことなんで
いくらかなくなってもいいわけですよ だからこれを空想の中で処理していくっていうことができるわけです
このことを考えてみますと逆もありえますね つまり余計なこの幼児の空想的世界の中に
そこでなくてもお化けとかで悪いおっぱいとかでウジャウジャしている世界の中に さらに傷口にしようじゃないですけど悪意みたいなものを
どんどん凍り込んでいったら幼児は気が狂いそうになります これがメラニー・クラインが描き出した特に重要なポイントなんだろうなっていうふうに思います
つまり不在ならまだいいんだけどないっていうのは問題ですよ もちろんね
つまり欲望した時にはちぶさは常にあるべきなんですよ 0歳1歳であれば つまり
呼んだらお母さんは来てくれる お父さんでもいいんですよ だけどとにかく呼んだら世話をしてくれるっていう状況である方が望ましい
もちろんそれはそうすると考えなくなるって問題があるから タイムラグとか筋違いなものが来るっていうのがいいんでしょうけれども
でも何も来ないとにかく不在であるっていうのはやっぱり非常にこう ミニコット的なトラウマになるのに十分ですよ
でもさらにそこに傷口に塩を塗り込むように そんなに何度も言うじゃないのゴーンみたいな感じがくるとですね
そりゃトラウマになるよね 今度は悪いの攻撃してくるわ 自分の欲望というものが空腹というものがそもそもなんだかよくわかってない
熱いということがなんだかよくわかってない時に なんか手足をバタバタさせたら熱いのは飛んでいくんだっていう妄想してる人がですよ
一貫性の重要性
なんかこう手足をバタバタさせてみたら殴られるとかね 手足をバタバタさせてみたらなんかもっと熱くされるとか
そんなことが起きたらですね やっぱり大変困ったことになりますよね つまりこの一貫性の無さというものが
そうでなくても一貫性がない心というものに対して ウェニコットは連続性ってすごく重要視したんですけど この連続性ってもう最後にしますけれども
すごく大事ですよね 私たちにとって 私たちは一貫した自分でいたいわけじゃないですか
ある会社に行ってこの会社のためにバリバリやりますとか言っておきながら なんか翌日に辞めるとか本当にしたいわけじゃないわけですよ
だから一貫性を持つためには環境が優しくあってほしいわけです われわれは複数の人格を抱えてるわけだから どんなに好きでいった会社でももう辞めたいとは思ってるわけじゃないですか
そうであるだけに なるべくフィットするように環境が整えてくれれば われわれは一貫した自己を保つことができるわけですね
赤ちゃんはそもそも自我の確立してないんだから 一貫性のない扱いをされてしまうとバラバラになってしまいますよね
われわれそうでなくてもしばしばバラバラじゃないですか 明日からダイエットやるぞって言ってもチョコレートいっぱい食べるとかバラバラな行動取りますよね
一貫性ってなかなか保てるものではないんですよ で赤ちゃんにとってそれは至難の技なのにそこで一貫性のない扱いを受けたのでは止まったもんではないよねっていうような話は
僕はこのクラインにもウィニコットにも両方に共通している話だろうなと まあ当然といえば当然ですけど