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おはようございます。グッドモーニングボイスです。
遅くなってしまいましたね。
一日は始まってみなくちゃわかんないですね。
昨日もお伝えしましたけど、7月の9日に1ヶ月集中コースというのをやります。
最近多分、夏が来てやや元気なんですよ。
だから、いろんな企画を練り上げてスタートさせることができると言った気がしますね。
冬だとこれが停滞気味に私はなってしまうんですが。
最近、倉田之介さんも別の理由で、デッサンとか弾き語りをしながら、いろいろなイベントやセミナーを企画されていらっしゃるので、
よければ、いろいろとチェックしてみてください。
つまり、どういうことかというと、実践しないとこれはわからないという話なんです。
これもこの番組でも盛んに言っていることですし、タスクシュートなんかも割とそういうところありますから、
頭で理解しただけでは決して理解できないものです。
頭で理解するというのは、目で見て自転車に乗るとはどういうことかを理解するというようなものです。
しかもその人は乗れないと。
あるいは目で見て泳ぎを理解するとか、そういう世界の話です。
それは無理ですよ。どう考えてもね。
ところが、僕らは先に理解したいという欲求を持っているところがあるんですよね。
これが多分神経症というやつの入り口なんでしょうけど、入り口も出口もあまり微妙なんですけどね。
でも入り口付近だとは思います。
例えば、私は被害妄想という言葉があまり良くはないなと思うんですね。
妄想の種類を類別してみてもわからないと思うんですよ。
妄想は妄想であって、あらゆる妄想がありますけれども、それをいちいち分類してみたところで、
確かに被害妄想に向かいがちな心理状態とかシチュエーションというのはあると思うんだけど、
例えば神経症といっても、不安神経症と脅迫神経症を分ける意味で対して、
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専門的に分ける意味があるないはまた別ですよ。
そうではなくて、私たちにとっては不安だから脅迫神経症になるんだし、脅迫神経症は不安に決まってますから、
不安神経症と脅迫神経症を一つ一つ切り分けて考えるという、
差し出すということになれば分ける意味があるかもしれないんですよ。
でも自分で取り扱うときにそこに名前を付けたところで、
これもまたあれですよ、それによって何かサポートを受けられるというのはまた別なんですよ。
公式に先生からそう言われたからサポートももらえますというのはいいと思うんですけど、
ただ分類してみてもどっちだか分からないようなことは多々あると思いますし、
僕ら妄想を持った瞬間にも被害妄想をめいてくるのはしょうがないんですよね。
だからあの人は被害妄想だっていうのはおかしいと思うんですよ、やっぱり。
そういう瞬間は僕らの誰にでもあるはずで、物事は客観的にはある意味見られないものですからね。
これもグッドバイブスというイリュージョンと意味付けですけど、
それをしないで生きていくのは不可能じゃないですか。
ある意味何かが乗り物だと思うのはもうそれは意味付けですしね。
そう思うからどっか行くことができるわけですから。
特にこれがネガティブになったときがもちろん問題なわけですし、
そのネガティブになったからこそそこに段階とか分類とかを持ってきがちなんですけど、
あんまり意味はないかなと。
自分がそれに困ってるというときはですね。
私の例えば静電気恐怖症みたいなのもかつてちょっと一時困るレベルだったけど、
あれも脅迫症なのか不安症なのかって言われると、
どう考えても両方に当てはまるわけですよ。
その時その時にどっちの方が強く出てるというのは専門的に見ようとすればできるんだけれども、
あんまり意味はないですよね。
毎度毎度変わるわけですから。
で、なんでこういうある意味面白くもない話をしているかというとですね、
つまり備えあれば憂えなしって考え方がいかんと思うわけですよ。
いかんと思うというかいかんわけですよ。
なぜかというと、これは不安から出発してるからなんですね。
で、不安から出発するということは答えはわかってるっていう話をしてるんですよ。
というかそういう価値観に生きてるわけですね。
答えはわかってるかわかってる人がいるか少なくとも存在する。
だから憂いというものが発生するわけじゃないですか。
ベストはこれであるとかいうふうに決まってしまうから、
ベストじゃない世界に入るのが怖いわけですよね。
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ベストというものがなんであるかが自明であるならば、
自明であるというか客観的に実在するならばそこ行けばいいわけなんだけど、
そこに行きそびれるのではないかという憂いが起こるわけですよね。
そこで備えるという、この順番しかないと思うんですよ。
この順番っていうのは一番最初がおかしいんですよね。
答えはすでにあると。
私たちの心平性の厳選があるんだと思うんですよ。
答えはすでにあるという。
しかもそれは考えればわかるというですね。
その発想がおかしいんですよね。
答えがあるならば考えればわかる可能性はありますが、
答えがない以上考えてわかるということはあり得ない。
答えようと考えまえと探そうと聞こうとわからないわけですよね。
しかもこれが問題だという話をみんなで始めてしまうと、
もうどうにもならなくなるわけですね、ある意味。
これが問題だとすると、答えがないことが問題だとすると、
答えがあるならば答えがないことは問題なんですけど、
答えがない場合、答えがないことが問題だったら、
もう僕らは地獄危機じゃないですか、ある意味では。
どうしようもないですよ。
答えがないのに答えがないのは問題だというならば。
ところが答えはたぶんないんですよね。
ということは答えがないことは問題じゃないはずなんですよね。
ここのところで僕らはみんな悩んじゃっていると思うんです。
なぜなら現代は答えが出せるというところを、
答えを出せるというような言い方をして、
ありとみんながそれを共有しだして、
しかもそれで結構うまくいっているように見えるところがあるからでしょうね。
だからガスのモード線を止めたのかどうかという不安がですね、
なぜならば止まっていない可能性をその人が認識してしまった場合、
確認するしかなくなるからなんですよ。
答えがあるはずだという信念のもとに行き始めると、
答えがあやふやだったり自分が見失ったときに
強烈な不安が襲ってくるわけですね。
ないという信念であれば私のように、
基本的にないという信念であれば、
そういうふうなところにそんなに悩まずには済むわけです。
それでも悩むところが出てくるのは分かってないからなんですよね。
この答えがないということが。
だから静電気を受けない方法とかを考えようとしてしまうわけですよ。
これが結構バカにならない、実にバカっぽい話なのに、
こうやって喋っているとそう聞こえる気がするんですけど、
バカにならないんですよね。
例えば昨日一昨日あたりから盛んに取り上げているこの
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バカだと思われたくない。
これもバカだと思われない答えがあるならば、
バカだと思われちゃまずいわけですよね。
でもその答えはないので、
全くどう努力しても意味はないわけですが、
意味があると思えるということは、
どこかに答えはあるという意味になってしまうんですよね。
そこの出だしのところでどういう信念を持つかだと思うんですが、
私が知る限り結局精神療法で、
なぜここで精神療法が出てくるかというと、
この問題で答えがある信念に行き着いた人が、
どこかで行き詰まった時に精神療法のところに行くからなんですよね。
そこで答えはないんですという答えをもらって、
そこに納得できれば病理が治るということは、
少なくとも現実に対応する上では、
この答えがあるという信念はまずいということなんですよね。
この逆の病気って聞いたことがほとんどないというのが
大事なポイントだと思うんですよ。
答えがないんですということで行き詰まってしまう。
答えがないというふうに信じて、ほぼ信じて行き詰まってしまった人が、
精神障害だとしてどこかに行くということはないんですよ。ほとんど。
ほぼ逆なんですよね。
この非対称性はすごい大事だと思いますね。
あるという人のほうが困ってしまう。
本当にあるならあると思っている人のほうが困るってのは、
明らかにおかしいじゃないですか。
本当にあるならないと思っている人間がみんな困るべきですよね。
あると思う人たちはみんな幸福になるはずですよ。
努力次第で答えに行きつけるなら、
その人たちほど困りごとは少なく少なくなっていき、
トップ付近の人、つまり答えがあると信じており、
その答えの大半を手に入れている人は極めて幸福になって、
僕みたいなのは不幸のどん底でなきゃおかしいですよね。
僕みたいなのがみんなカウンセリングに通うはずなんですよ。
現実は逆になっちゃっているんですよ。
こういう例で一番僕がいいと思うのが、
例えばいいというのは申し訳ないけど、
でも個人だしだいぶ昔の方ですからね、
ハワードヒューズさんみたいな方なんですよね。
彼は答えがある意味あるという信念のもとに生きて、
しかも大成功された。
多分そうはないレベルの大成功ですよね。
ビル・ゲイツレベルだと思うんですよね、同時代としては。
そしてとても大変な目に遭った。
しかも彼のぶつかった大変さというのは、
文字通り脅迫神経症だと思うんですよ。
こういうことってよくあることなんですよね、残念ながら。
残念ながら、別に私は彼が不幸になって良かったとは
一度も思わないんですよ。
彼の不幸って何て言えばいいんでしょう。
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覚めない悪夢を見続ける不幸なので、
同情する余裕が他ないんですよね。
それによって彼が誰かとトラブって、
お互いを酷い目に合わせたというなら
まだ物の味方次第ってこともあるんだけど、
彼の場合は勝手にお金持ちにある意味になって、
勝手に自分のホテルに閉じこもって、
物に触ることもできなくなった。
物が汚れているという恐怖。
ここでよく出てくるのはポーランド水とか言うんですけどね。
アメリカではポーランド水は絶対大丈夫だっていうような
何かがあるんですかね。
ピアニストで非常に有名なグレン・グルークも
基本的にポーランド水しか飲まなかったっていう話があるんですけど
彼も明らかにそれ系の問題を。
ヒューズほど不幸じゃなかった気がしますけど、
ひどいときはポーランド水でないと手を洗わないとかね。
大変だなと思いますね。
その手も大変さっていうのはつまり、
答えがあるわけですよ。
水はポーランド水に限るという。
これは他人が聞くとすっごいおかしいんですけども、
本人は大真面目にこれやってるから、
ここがまた面白いんですけど、
逆へ逆へとなっていくんですよね。
物事ってそういう風にできてます。
汚れが非常に恐ろしいから、
体が物凄い汚くなっていっちゃうんですよ。
うっかり風呂にも入れませんからね。
汚い風呂には入れないわけだから。
日本は違うとポーランド水の風呂じゃないと入れないってことになるわけですから。
でもこの話を聞けば、
誰も自分はそこまで行くとは到底思わないから
絶対大丈夫なんだけど、
運と手前のところに同じような話があるわけですよ。
このようなことを言えば、
人から白眼視される、
白い目で見られるという恐怖みたいな。
これも絶対白い目で見られない言動というものが存在して、
それだけをやってれば安心だという発想が、
逆へ逆へと本人を追いやっていくわけですよね。
一番究極的な形がもう神経症を通り越して、
観目症ですよね。
一言も発言できない。
あれ確かマサコ様かな、
選択的無言症みたいな行動がありましたね。
あの種の行動、僕は話半分でしか聞けないなといつも思うんだけど、
口室なんとか系ですね。
でも確かに喋んないなっていう時はあった気がするんですよ。
喋れないですよね。
何喋っても文句言われるんでは。
それがつまり神経症としての観目症ってところに行くんだけど、
それはポーランド水でないと手洗えないって話と、
実によく似てるとは思うんですよね。
ただ、ただですね、
これもそうなんだけど、
ひっくくって恐怖症って言ってしまえば、
くくる側は楽なんですが、
これは観目と手を洗うのもやめられないは全然違うわけじゃないですか、
本人にとっては。
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だから本人、つまり最初に言ったように、
これをですね、抽象的にどこかにそういう分類があると思っちゃダメだと思うんですよね。
本人にしてみれば、やっぱり自分がどうしてその症状で、
なぜ観目を選んでるのかっていうのが大事なんですよ。
手を洗い続けるのではなく、黙ってしまう方なのかと。
それには訳があるはずなんですよね。
その訳が大事ですよ、病名よりも。
病名が大事なのは診断する側にとってであって、
診断される側にとっては、やっぱり病名っていうのは抽象的すぎるんですよ。
で、何の関係もないようなんだけど冒頭で言ったじゃないですか、
倉園さんがデッサンの教室とか、
お弾き語りとかをやってますと。
やってみないとわからないことだから、
なるべくやってみるイベントに切り替えていらっしゃるんだと思うんですね。
僕なんか非常に頭でっかちな人間なんで、
精神分析の本を読みまくるとか、
フロイトを読みまくる方に行くんですよ。
頭で考えたがる人間だからなんですよね。
何かをやる前に、結局このような私は神経症を見えたところを持ってるわけですよね。
まず答えが知りたいというタイプなわけですね。
今は非常に多いわけです。
時代が神経症に生み立っているのはそういう意味ですね。
神経症時代っていう小説もある。いい小説ですね。
非常にフロイト的な。多分意識はして書いてると思うんだけど。
どうして答えを先に知ろうとするとはまるのかというと、ないからだと思うんだけど、
もう一つはやってみないとわからないからなんですよね。
その人その人にとって、つまり脅迫症です。脅迫症とはこういうもんです。
脅迫症にはこういう薬を出しますっていうのは私たちに習うんですよ。
それは答えにならないんですよね。
来た人が寡黙なのか、手を洗うのをやめられないのか、嘘をつくのをやめられないのか、
その全部なのか、全然違うわけですよね。
だから精神分析とかカウンセリングの世界でも完全に同じなんですよね、ここのところは。
現実に聞きましょうっていう話になっていくわけです。
答えを先に知ろうとするのはやめましょうと。
どうせ役に立たないんで。
現実に聞くというのはですね、一番言ったのがたぶんロジャースだと思うんですよね。
とにかくリスっていう、とにかく聞けと。
あの、警長ですよね、とにかく警長しろと。
いかに僕らが聞くのをしないかって彼は盛んに言ってました。
ロジャースの絵ではないですけどね。
とにかく聞けと。
クライアントセンターっていう、要するに患者中心療来団者。
はい、すいません。書き留めが来ちゃいまして、中断したんですが。
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つまり、現実に答えを探しに行かないといけないということなんだと思うんですね。
グラズノさんの今のイベントで、
なんて言うんですかね。
そういうふうに実践というか、マーク的な方向に切り替えていらっしゃるのは。
で、答えがないのに、あるいは分からないのに、分かったことにしてしまったら、
もうネガティブな要素が全く入らなければ問題ないでしょうけど、
ネガティブな要素が少しでも入ったら、もう不安神経症の始まりになるじゃないですか。
まず悪いことが起きるという、起きもしていない悪いことというのを脳内で作った上で、
これを避けるために〇〇をするという行動指針を自分に課すことになるわけだから、
それをやるってことは、いわば悪い、ネガティブな現実というものを自分だけのために用意して、
そこを中心に生きていくというやり方ですよね。
畳から見れば、これが奇妙なのはよく分かるので、そういう意味では畳からただこれを指摘するだけであれば、
カウンセラーっていらなくなるんですよ。
カウンセラーというものが必要になるのは、これを指摘するためとか、やめさせるためじゃないんですよ。
カウンセラーがやることというのは、この人に見えている。
この人に見えているというのは、その人が振る舞っているそれってどういうことなんだろうというのを、
言ってみれば一緒に見に行くみたいな、そういうものですね。
だから現実というものに答えというよりは対応する術がそこにあるといったことなんですよ。
それは大変ある意味、見えにくいところがあるわけです。
先日お話しした、異人たちとの夏の冒頭で妻子と別れて初めて仕事場を家にしてみたら、
この仕事場はあまりにも静かすぎることに気付いた。
これが彼の主人公の神経症の始まりなんだけど、
そして結構そこから重くなっていくわけですが、
あれ神経症なのかホラードラマなのか微妙なところなんで、
ホラードラマだとしてみるならば、あれは神経症じゃないんですよね。
本当に幽霊と出会ったことになっちゃうんで、それは幻想だとは言えなくなるんでね。
どっちにしてもいいんですけど、とりあえずそういうことが始まりとしてある、つまり静かすぎるというね。
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本人にとって静かすぎるという訴えをした人は、それは多分神経症なんでしょうけれども、
見えませんよね、何も片目からパッと見ただけでは。
静かすぎるという現実は見えないじゃないですか。
そして静かすぎるという現実を一緒に体験することすらできない。
よくあるというか、私実際にそういう体験を何度かしてるんですよ。
例えばすごいこういう音がする、これは幻聴系なんですけど、
一緒にマンションに行ったりするんですよ。
全くしないわけですよ。
そして怒られちゃうと。
するだろう、こんなにはっきり音がするのにどうしてわからないんだ。
なぜ私に隠そうとするっていうような言われ方をするんですね。
ここで行使経常ってやつなんですよ。
この人は何を体験しているんだろう。
その人が体験していることを、その人とその人を体験することで、
ちょっとややこしいんですけど、
いわばクライアントさんという、私が医者じゃないからクライアントじゃないけど、
クライアントに相当する人といることで、
クライアントが体験している、体験しているクライアントを自分は体験するんですよ。
そういう多分作業が必要になってくるんだと思う。
これはどんなに軽い症状であっても同じだと思うんですよね。
白い目で見られたくないと訴えている人がいたら、
別に白い目で見られるのは気にしなくていいじゃんとぐらいしか私は言えないんですけど、
訓練を受けてはないですから、本当の意味では。
本当にやるべきことは、その人を体験するってことなんですよ。
そうやって取り乱しているその人が、その人というものを自分が体験すると。
この体験するというのはつまり、結合するというような、結びつくという意味になっていくんで、
グッドバイブスでいうところの一つ意識に入っていくって話だし、
ドイタケオさんなんかに言わせれば、
同一化する、これはドイタケオさんじゃないな、フロイトですね。
フロイトに言わせると同一化。
同一化っていうのはつまり同じになるって意味ではないんでしょうね。
結合するっていうような意味のような気がします。
結合するためには理解しなければならないので、理解できないものですから、
そうすると体験していくっていうことしか多分できないんだと思うんですよね。
これが並々ならぬ大変さを、大概はちょっとしたことでも結構大変です。
前によく話題になったんですけどね、つまらない質問をするとバカだと思われる。
こういう話を聞いたとき、私たちはそれに簡単に同意できないとつい突っ張れなくなるんですよね。
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分離したくなる。バカだとなんて思われないのにって言って済ませたくなるんですよ。
それで済んじゃいますし、しかも自分はそうはそれほど感じないわけだから、
つまりそんな体験の世界に巻き込まれたくないわけですよ。
巻き込まれたくないじゃないですか。そういうのに本気にしてそのまんまを受け止めてしまったら、
自分ももの言うのに一段と制約がかかりますもんね。
だから巻き込まれたくないと思ったときに私たちは例のあれなんですよ。
関心を持ちながらも巻き込まれたくないとき、私たちは軽蔑という心理に切り替わるんですよ。
たぶんこういう心理状態は決して愉快なものではないので、
人を軽蔑するのが癖みたいになっているというケースはあるにしても、
それはただの悪意気みたいなものであって、気持ちがいいものでは決してないはずなんですよ、構造上。
関心を持ちながらそれに巻き込まれたくないというのは矛盾してますからね。
要するに近づかされつつあるんだけど近づきたくないと言っているわけですから、
気持ちのいいものではないはずなんですよ。
そこで突っ跳ねる、自己正当化するために、軽蔑という手を使う。
たったそれだけの状況、これは非常に頻繁にどこにでも山のようにある状況だけど、
たったこれだけの状況の中にも業種形調に妨げるものがあるわけですよ。
だからロジアンズはあれほどリスって言ったんだと思うんですよ。
聞こうとしないんですよね、僕たちは。
できれば聞かずに済ませたいと話題変えるとか、
この人違う話をしてくれないかなと思うとか、いうふうになりやすいわけです。
それは自分が持ってもいない弱点に巻き込まれたいという人はいないからですよ。
私がしばしば話題にする静電気とかだって、
静電気怖くない人は怖くなんかなりたくないじゃないですか。
余計なことですからね。
人生で無駄に苦労を背負い込む。
一方じゃなくて金属は一つも触れないという事態を、
さっきのポーランド水なんか特にそうですよ。
誰がポーランド水以外飲みたくない人になりたいものかって感じなんですよ。
となると、グールドが言ってたんですけどね。
ある動画の中で、この水には細菌が入っていて、
こっちには炎症が。
ああなりたい人はいないと思うんですよ。
グールドの音楽を聴きたいという事はあってもですね。
グールドの音楽は聴かれてますけどね、すごく。
あ、演奏家。
あれですよね、羊たちの沈黙の、
フラン、あの、違う、
コルトブル、コルトヴェルク編奏曲か。
レクター博士が聴いていつに入ってたやつですね。
あれ、演奏してるのは多分グールドじゃないと思うんですけれども。
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グールドのってレクターは言ってましたけどね。
話が飛んでるんですけど。
だから業種形調を妨げるものって要するに、
近寄りたくないなっていう気持ちであって。
で、そこで訓練を受けてる人たちは、
近寄る術というものを知ってるし、
ここで頑張っていかないと、
患者さん決して良くはならないってことが分かってるから、
頑張るわけですよね、結局。
話を聞けないのに聞こうとする。
そうすると何かがまた起きてくるわけです。
強い軽蔑っていう気持ちが起きてくるケースもあるでしょうし、
すごい眠くなる、眠くなるのは大事っていうのはあるんですよ。
やっぱりカウンセリングの世界に、
今ではどのくらい重視されてるか分かんないですが、
眠くなるのは大事だっていう話は何度か聞いたことがあります。
これもやっぱり、精神分析というのはそういう考え方なんですよね。
無意識が自分を寝させようとしてるとここで考えるんです。
退屈だから眠くなるだけでは、
十分ではないということですよね、解釈として。
無意識の力というものをかなり強く評価しているので、
そういう意図が働いている、
それに限りなく近い考え方を取っていくわけです。
だからあれなんですよ、
さっきピンポン鳴ったじゃないですか、書き留めだったんですけど、
この書き留めが入るかもしれないタイミングで、
私がこのポトキャストを始めたというのも、
フロイド的には単なる偶然では許されないところがあるはずなんですよね。
まあ分かんないですけどね、単なる偶然だってこの世の中にはあると思うんですが、
私の無意識がそういう時間帯を選んだという風に言われる可能性はあるわけです。
なんでここまでそういう、ある意味ではスピリッチャーみたいな解釈に走ろうとするのかというと、
つまり一体全体、例えば白い目で見られたくないだの、
汚い水は怖いだのというのは何なのかということなんですよ。
それが、訴える人は必ず言います。
客観的な理由があるんだと。
聞いている人は絶対こう思います。
そんな理由は絶対認められないと。
だって水道水だって平気で飲む。
僕ら子供の頃は平気で飲んでました。
今はペットボトルの水を買うのが当たり前みたいになっていますが、
これだってある意味、私の感じからすると一方神経症の時代ですよ。
はっきり言えば、私が昭和の頃に小学校で飲んでいた水道から飲んでいた水は今より汚かったですよ。
やばい川の匂いとかもやばい時代でしたから、
今の方がずっと綺麗だけど、もう水道の水飲めないじゃないですか。
まあ誰もポーランド水とは言わないと思うんだけれども、
なんとかの天然水とかじゃないですか。
あっちの方が綺麗だっていうのは、
そりゃ水質検査すればそうなんでしょうけど、
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してないですよね、私たちは飲む前に。
思い込みに近い世界ですよね。
こういう思い込みは何なんだってことですよね。
誰がさせてるのかって言ったら、自分しかないじゃないですか。
でも自分は意識的にそんな思い込みはしてないつもりだというから、
客観的な事実に基づいて私は安全策を取ってるんですって言うわけじゃないですか。
でもそれは嘘だと思うんですよ、私は絶対に。
多分そんなことはなくて、
そういう振る舞いを自分にさせているのは無意識だとしか思えないんですよね。
だからこんなに、あんなにまで古いとは、
さっきの私の簡易勝ち止めみたいな事象も含めて、
全て極力そこに意図を見ろというように言ってるわけですね。
そこに自分の意図を見ろと。
しかも意識できてない意図を見ろと。
無理だから、でもそれは。だって意識できてないわけですから。
そこでカウンセラーという人が登場して、
フロイトは言うわけですよ。
無意識の声を受話器で聞けと。
これは何を言ってるかというと、
その人が意識的に口にしている言葉にはさほどの意味はないんですよ。
その人が意識的には口にできてない言葉を、
言葉じゃないから聞けませんけどね、そんなのは。
でもそれを聞けと言うわけですよ。
そうしないと結局、それをするってことが多分、
慶長ってことなんだと思います。
怖い話だと、
装的防衛っていう前々からあったちょっとでも嫌なことがあると、
全ての関係を破壊してしまうという、
そういう無意識の圧路に非常に困っている方が結構いらっしゃいます。
中には非常に怖い話があって、
例えばカウンセリングに来るじゃないですか。
そのカウンセリングを無意識の方は破壊したいと思っているわけですね。
カウンセリングだけじゃないですよ、破壊したいのは。
要はいい関係は全て破壊したいと思っている。
そういう我々の装的なマニックな部分ってあるんですよ、結構。
それを意識しておかないと、精神分析家とかは意識しておかないと大変なことになると。
そこに来ている人が、こうしてくださいと。
こういうのはよくあるんですよ。私の世界でもよくありますよ。
ラストシュートでもきっちり記録しましょうと。大事ですからというと。
そうですよねって言って記録をするということに同意してくれるんだよと。
してくれないわけですよ。
無意識が働いているっていうのは本当かどうかわかんないかもしれませんが。
私にもわかんないですけど。
でも家に帰るとやんないわけですよ。
そんなことやってられるかっていう心がどっかにあるわけじゃないですか。
で、その心はでもカウンセリングの場には登場しないわけですよ。
だから他のもう一人が聞いていると思ってしゃべりなさいっていうような教えもあったりするんですよ。
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ここにいない人格が後で出てくると。
これはとっても僕は大事なことだと思うんですよね。
別にカウンセリングの話じゃなくても大事だと思うんですよ。
結構大変なんですよね。イギリスなんかには共謀罪みたいな罪も結構重いんで。
例えばカウンセリングを破壊したいと思う人が外で人殺ししてしまいましたということになった場合、
話を聞いていた精神科医の責任はどうなるんだって話が出かねないじゃないですか。
表向きはその人はもう多重人格に近いぐらいの乖離があるから、
来た時には先生の言う通りに頑張って生きていきますみたいなことを言ってて、
裏で何してるかわかったもんじゃないわけですよ。
本人の人格の統合が弱い場合はそういうことすらおきかねない。
それがまたカウンセリングみたいな、カウンセリングみたいなつまり社会的にいい方向に頑張ろうという意識を
破壊してやりたいという無意識があった時に、
人格が後退して破壊的な行為をやりだすんですよね。
でもそんなのは、そんなに今の話を聞くと奇妙なホラーみたいにも聞こえるかもしれませんが、
私たちだってよく知った感情だと思うんですよね。
学校の先生とかに立派に生きていきなさいとか言われても、面白くないじゃないですか。
面白くないからといって何もしないかもしれないけど、
人によっては子供によってはそういうことを言われるの腹が立って万引きでもしたくなるっていうのは
全然不思議なことじゃないと僕は思うんですよね。
こういうことがどこにでもあるということだと思うんですよ。
だからやっぱり、傾聴するっていうのは大事だと思うんですよね。
何をその人が訴えていて、どういう現実の中にいるのかと。
それを僕らは見たくないという気持ちがあるんですけれども、自分のも含めてですね。
見たくないという気持ちがあるんですけれども、それを一生懸命見に行かないとですね、
全然見えてこないことが多いんじゃないかと。
実践が大事ってのは、つまり現実に起きたことが何より大事ってことですよね。
やっぱりグルグラってポーランド水友で手を洗うんじゃなくて、
どうして手を洗おうとした時にポーランド水害は受け付けないのかという、
彼のような人にそんなことを求めても無駄なんですが、
でもやっぱりそういうふうに本人が現実の中に分け入っていかないと、
何も見えちゃこないと思うんですよ。
他の人から見ると、ただの行き過ぎた綺麗好きでしかないわけですよね。