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2023-11-29 32:48

精神力動は生き残ってほしいと思う【GMV892】

その人がそうなった意味は知りたくなる。

サマリー

最近、怒りっぽい人々について考えています。行動療法や認知療法の説明だけでは、同情や共感が得られず、トラウマや心的外傷の原因についての説明もなされないことに疑問を感じています。精神力動が排除されると、人々は大人として振る舞う必要があるとされていますが、その意味や行動が理解できず、幼児的な思考が残ることが問題視されています。また、転移現象や万能空想も人間関係において起こりますが、理解することで問題解決への可能性が高まるとされていますが、無視されがちなのが課題です。私は山崎さんの本『精神力動は生き残ってほしい』で、サイコアナライティックオリジネイティブサポーティブセラピーについて書かれていることを知りました。

怒りを理解する
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
11月29日水曜日の朝7時59分、まもなく8時になるところですね。
昨日はちょっと音してしまって申し訳なかったんですが、
どうしたんだよね、なんかちょっとよく覚えてもいないんだよな。
どうしてなかったら別にいいわけなんだけど。
実家に帰っていく用事が、これがまた非常にややこしいというか、
たくさんの用事が山のようにありまして、
もう本当に戻ってこなして戻ってくるので精一杯という感じで、
今日も眠かったんですけどね、朝。
やることが三石しているわけですね。
これは非常にありがたいことなので、やることが全くないぜみたいなのは、
僕の場合は即経済危機にまっしぐらなんで、やることは結構あるなっていう状態は
年のせいだから特にいいことなんですが、
でもこれを落とすくらいはやることが多いっていう状況が
ちょっと集中的にここのところあったわけですね。
まだしばらくはホイホイ出てくるだろうなと思っているんですけど、
なるべく毎日これは取るぞっていうのは今なくはないんで、
落とさないようにはしたいんですけど。
そんな感じです。
11月、12月の30日にグラナのけいぞうさんとセミナーします。
これはアーカイブ配信もありまして、
年のせいですし翌日はおみそかっていう日ですから、
ぜひですね、視聴いただけるとありがたいなと思います。
とりあえず前回よりは大きな規模にできるといいなと思っていて、
自分もちょっと告知遅れていて申し訳ないんですけど、
これもね、同じ理由でさっきと。
ですが、何を告知するかはもう頭にはあるので、
とりあえずこれを早くアップして皆さんにお届けできればいいかなと思っております。
本題なんですが、ここのところですね、
臨床課の方とお話をしたり、
久しぶりにその人の本を読んでみてですね、
あと、東肌さんと島山晴彦さんの朝生の心理版みたいな、
というのも変ですけど、朝まで生テレビって、今もやってるのかな?
昔やってたんですよ。田原総一郎さんが司会で。
もうなんかこう、居酒屋で一生懸命喋ってるみたいなのをテレビでやるという、
面白い番組がありまして、
その心理版というのはそこまで言うと言い過ぎなんですけどね。
見ていてですね、昔僕が本当に素朴に感じた精神分析の本に、
必ずと言っていいくらい掲げられている、読んでも分かりません。
読んでも分からなくて、やらなきゃ分かりません。
簡単にやってはいけませんっていう本を、ではなぜ本にしたんだっていうね。
僕は何だろうな、本読むときそういう観点がどうしても入ってしまうんで、
入んなきゃいいんでしょうけど入っちゃう。
この言ってることと本の存在の間に、
僕にはどうしても矛盾が感じられますというのがですね、
実はこれはかなり根深い質問だったんだなっていうこと、
問い立てだったんだなっていうことをだんだん最近分かってきて、
では何で自分がまた精神分析というのをこうも読んでるんだろうというか、
好きなんだろうっていうのをですね、読んでるというか興味を持つんだろうというのを、
いつも通りの、いつもながらのこの番組のテーマなんですけど、
考えまして、不意に、不意にではないですよね。
最終的には、知れば優しくなれる可能性が開けるっていうことだなって思ったんですね。
つまり、森林章の場面で実例として挙げられている方々の話って、
さっぱりわからないわけですよ。
ある意味、これも誤解を招きかねないとは思うんですけど、
でも私がアメリカで学んできた限り、
いわゆる今のですね、一般的な主流の勢力となっているのか知らないですけど、
いわゆる公認の臨床心理師というか、公認の心理師ね。
公認心理師って言うけども、
公認の心理師がまたどういう人かっていうのは本当はわかんないんでね。
でも要するに、いわゆる行動療法的な考え方、認知療法的な考え方、
意識のやり取りの上で問題を捉えていくというのは、
いいんですけど、治療という側面に即して言ってかつ、
それに短期で効果が上がるという面で、
そして必ずしも、これもやや真実ではないと思うんですけどね、
必ずしも臨床科の力量に左右されずに成果が上がりやすいというのは、
いずれもいい話なんですが、
それは臨床科と臨床の場においての話であって、
我々が日常に生きている、
つまり私のようなごく一般的な読者の観点に立ってみるとですね、
何の理解も立ち行かないというか、
少なくともそれでは患者さんをですね、
精神的な障害で苦しんでいる人の理解をできないという点で、
あんまり救われている感じがないんですよね。
ここが難しいなという感じがするんですよ。
漢字なんであくまでも。
問題行動とされていることね、
これは問題行動と言ってみるとサラッとしてますけど、
実にいろいろひどいことがあるわけですよ。
例えばもう怒りまくる人がいるみたいな、
それもその人の障害のためにね。
で、その怒りまくる人って理解に苦しむじゃないですか。
なんでこの人はこんなことで怒ってばっかりいるんだろうなみたいに。
だから皆さん、どうしてもこの人の人は孤立していくんですけど、
こういう人に対して理解した方が優しくなる可能性が、
優しくなれるかどうかは別としても優しくなれる可能性を開くと思うんですよ。
で、そのこと自体が治療につながるという面もあるんですけど、
原因の説明
そこは置いとくのにしてもですね、
これを説明するのに力動以外が、
そもそも精神力動というやつ、
つまりもうちょっと簡単にイメージするなら、
ユングフロイトっていう方弁ですよね、日本では。
ユングフロイトでもいいんだけど、
ユング派とかフロイト派っていう人たちがやってることを除くと、
この人はなんでこんなに怒ってる怒りっぽいんだろうっていうのに対する説明がない感じがするんですよ。
はっきり言って、ほぼ。
で、あるにしても、
例えば行動主義的な説明をされてしまうと、
全然その人に同情したり共感したりはできなくなっちゃうと思うんですよね。
この人は怒り、怒ることに成功体験を感じて、
怒ることで報酬を得たから怒る習慣がついたんです。
怒ることを学習しちゃったんですっていう話で、
同情できないじゃないですか。
そしてそれは結局、怒ってる説明には何にも寄与しないですよね。
だって、それだったら笑ってるのでも同じ説明できちゃうわけですよ。
この人は笑ってるうちに成功を収め、
そういうことが多々ありますから。
で、笑ってることがその人の報酬になり、
この報酬によって笑うということが習慣化して、
この人はよく笑う人になりました。
怒るのと笑うのの違いが、いかなる意味でも説明されてませんよね。
完全にたまたまでしたってことになるわけです。
これは認知行動療法と言われている療法の、
全然全部の説明にあってないんですが、
行動療法と言われていたもののですね、
ベースにはこの発想があったんですよ。
つまり、なぜ怒るのかとか、なぜ笑うのかの、
大筋のところはブラックボックスなんですよ。
行動として現れている部分が、
どう説明されるかという話なんですね。
で、私はアメリカで心理学を勉強してきたくしだから、
心理学の説明はとにかくこれが主流になっているっていう感じを抱いたんですね。
これは21世紀の話です。
いや、いまいまは違うんだよって言われるかもしれないんですけど、
そこはもうキャッチアップできていない部分もあるとは思います。
あるとは思うんだけど、
大体でもアメリカ人と心理学を結びつけると、
こういう説明つきそうだよなとは思うんですよ。
だってこれはつまり、例えばめちゃくちゃ怒る人、
異動性って言うんですけどね。
安易の異に怒るですね。
これにお薬与えましょうっていう、
これにお薬あげましょうっていう話も同じじゃないですか。
怒りという行動表現を取り除くわけですよね。
認知になると何で起こるのかについて、
意識的に考えるっていう話から入っていくので、
もう少し内面にだいぶ向かうんですけれども、
でもですね、私が知る限りというのか、
理解する限りでは、やっぱりこの原因というものに対して、
ほぼ着目しないんですよね。
インフォームド・コンセントの重要性
しない感じが強い気がするんですよ。
それはわけがあります、当然。
誰だって最初は原因論から入ってるんだけど、
あまりにも原因論から入ることに
実りが豊かでないという部分があったというか、
そういうふうに見なされてきたという話なんですよね。
実際、認知コード療法というか認知療法の
ハーパーさんとかエリスさんとかの本、
非常に面白い本ですし、立派な人なんだなって思いますが、
明らかに精神分析が攻撃対象になってます。
この前の精神分析というのは、
こう言っても伝わるか伝わらないか分かりませんが、
この番組の人には一応おなじみの自我心理学派の方です。
アンナフロイトの引いた、アメリカで流行ったやつですね、
に攻撃が向かってます。
でも、絶対あれは同じ論法で対象関係論、
つまりイギリスの方のメラニー・クライン派も
攻撃されることは確実だと思いますね。
でも、故のないことじゃないんですよ。
だって、この人がこんなに怒りっぽくなったのは、
母子関係側もそもそもにあって、
怒るということに万能的な解決を求めていてって言ったって、
その証拠どこにあるかって話か、
主じゃないですか。
つまり、エビデンスですよ。
ないというか、出しようがないですよ、これは。
そんな昔の話なんでですね。
で、もう一つは、これがいわゆる
インフォームド・コンセント的な話になるんでしょうけど、
その人は怒るのをやめたいのかっていう話をしたときに、
周りの人は怒るのをやめさせたいとは、
多分思ってる人はいると思うんですよね。
でも、その人は周りの人にめちゃくちゃ言われて
しぶしぶここに来ましたが、
俺は一生怒ってたいんですって言った場合ですね。
どうするんだっていう話。
これはやり方が認知行動だろうが、
精神分析だろうが、言語だろうが、
すべて同じ問題に直面しなければならないと思うんですよね。
俺は怒ってたいんだっていう人を、
怒らない人に作り変えてしまったら、
そんなことはできないと思うんだけど、
かなり倫理にも劣るじゃないですか。
こういうところは心理側も意識してるんで、
臨床心理側も意識してるので、
この種の話は必ず出てきますし、
ただ、ここがめちゃくちゃ厄介ですよね、
体の病気と違って。
体の病気の場合は、熱が出て喉が苦しくて、
これを取り去ることには常に同意しますみたいな。
実際には僕は、臨床心理の場面は
インフォームドコンセントが足りないみたいなことを
すごく言われるほどには、
かかりつけの用意者さんに、
インフォームドコンセントになってされた記憶は、
全然と言っていないこと。
やんないですよね。
軽い病気の時にそんなこと。
どうなりたいですか。
喉の痛みを取りたいですか。
最近お腹痛いっていうふうにおっしゃいましたけど、
本当にお腹の痛みを取りたいと思っていらっしゃるでしょうか。
って聞かれたことは一回もないです。
もう直ちに処方されるっていう方が時間ないしね。
最近のお医者さんは、この辺で混んでるところはですね。
もうあの、あれですよ。
ミハイレンドの桃の世界、マッシグラで、
精神力動の排除と大人として振る舞うこと
ちゃんと時計がでっかいのが机の上に
ボン、ドンと置いてあったりするから、
もうそんなですね、
本当にお腹の痛みを取り去りたいと
あなた望んでるでしょうか。
みたいなことは聞かないと思うんですよね。
やっぱりこういうのは、
もっと重篤なケースにおいてであって、
なんでこう心理のところでは、
こんなになんちゅうのコマゴマとですね、
インフォームド、インフォームド、
最初だからなのかなみたいなのは当然あるんですけれども、
こんなに体のところでは、
それに同意を求められているかっていう、
私の昔言ってた歯医者さんなんて、
歯医者は同じ話では通らないのかもしれないけど、
ひどいものだったんで、
もうなんかもう、
虫歯に対して説教されて、
何の説明もなく、
いきなりボンボン抜かれるみたいなことが、
普通にありましたよ。
私が小さい頃なんて。
子供だったからでは済まないんじゃないかって思うぐらい、
それは医療倫理的には全然問題ないのかみたいな。
しかも僕なんか間違った歯抜かれたことがありますからね。
乳歯だったからよかったけれど。
これ本当にありますからね。
間違った歯抜くんですよ。
そういうことも平気で行われていた。
だから多分、訴えれば当時もかな。
わかんないですけどね。
でもそんなもんでしたけどね。
だから心理の人たちは、
一生懸命真面目にやってる感じもするんだけれども、
ずいぶんここを言われるよなって。
心理だからなんですけれども、きっと。
でも僕は歯だって問題だとは思うんですけれどもね。
つまりですね、
優しくなれないと。
だいたい、
対抗という言葉が、
僕は対抗というのはあまり概念として、
微妙かなとよく思うんだけど、
でも対抗一つとってもですね、
子供っぽくなるって言うじゃないですか。
そうじゃなくて、
身内にそういう心理的課題を抱えているような人がいた場合、
子供っぽくなるんではなく、子供っぽいんですよ。
でも子供っぽいのは、
罪悪化っていうと、
グッドバイブスみたいになりますけど、
別に子供っぽいのは罪じゃないじゃないですか。
でも、
21世紀からこっちですね、
国の経済状態が不安定になってきてるから一層ということはあるんでしょうけど、
まるで人間は大人であることが、
求められて当然なんだっていう雰囲気が、
強いような気がするんですよ。
こういうところが心理の世界にもちゃんと波及効果を生み出している気がしまして、
要はですね、
臨床心理の世界から力動を排除するというのは、
僕今ちょっと強い言葉を使いましたが、
これはですね、
わけなくそうなるわけじゃないんだなっていうのはよくわかってきたんだけど、
でもこれを排除しようという話って、
これ排除してしまうと、
やっぱり僕はですね、
専門家の人は知りません。
専門家の人はわかりませんが、
世の中には心理の専門家だけがいるわけじゃないんですよ。
絶対とは言わないまでも、
多分でもほぼ確実に、
心理的問題を抱えている人に対して、
世の中はものすごく冷たくなるんじゃないかなっていう気がします。
わかんないですよ。
でも私は、
表面的に丁寧であろうと優しかろうと、
実際は全然共感できない相手に、
人は優しくするかなっていう感じがするんですよ。
だって、
やたら怒る人なんて一番わかりやすいですけど、
意味がわからないでしょ。
意味をわかろうとするのが、
僕は唯一、
精神力動系だと思っているんですね。
つまりフロイと言うんですよ。
その意味の解釈が間違ってるかもしれないし、
セックスばっかりにこだわっていて狂ってるのかもしれないけど、
でも意味をわかろうとしている、
グループなんですよ。
グループというかそういう学派なんですね。
で、薬理っていうのは僕は、
意味はわからなくても治せるのが強みだと思うんですよ。
別に薬理の人が意味を理解してないとか、
薬理の人がフロイと理解してないとは思わないんだけど、
これは認知行動療法であろうと、
他人心理師であろうとなんだろうと同じです。
それらの人たちが精神力動を無視しているとは限らないとは思うんだけど、
無視しても良くなっていく気はするんですね。
で、無視しても良くなると、
おそらく無視する人だって出ると思うんですよ。
当然。だって余計なことまで、
そうでなくても勉強することはいっぱいあるじゃん。
余計なことまで勉強してられないじゃないですか。
余計と見なされがちだという、
野崎孝明さんの精神分析の歩き方に、
かなりクリアに書かれていることなんですけれども、
おそらくそうなんでしょう。
中の人がそう言うんだし、
あれだけ詳しい人が言うんだから、
少なくとも僕がイメージしていたよりはずっとその傾向は進んでいるようなんですよね。
で、だとすると、
無視されていくんだろうなって気がするんですよ。
でもこれを無視するということは、
やっぱりこう、なんでその人が怒っているのか、
その意味わからん、
なんでこの人はこんなに意味不明なことを言うのか、意味わからんの部分は、
意味わからなくてもいいってことになると思うんですよ。
ただ、治れば、治るとはこの場合何を意味するのかが、
いよいよわからなくなる気もするんだけれども、
つまり、社会活動を無理なく、
できれば周囲との圧力も少なく、
これはいいことですよ。
それが、なんていうんですかね、
人格改造みたいなのとか、
洗脳みたいな話と絡めるのは、
極端だと思うので、
大筋いいことだと思うので、
そこに反対は別にしないんですけど、
僕がこだわってしまうのはですね、
意味がわからんっていう状態って、
おかしくないだろうかっていう感じはするんですよね。
つまり、その意味がですね、
どうせ人間にはそんな意味はわからないということもあるんですけれども、
あるんですが、
結構わかってきた地の集合が、
精神分析だと思うんですね。
だから、せっかくこれに、
なんていうんですかね、
この言い方を僕がする資格は本当はないんだけど、
当たらずといえども遠からずなところまで行き着ける、
ルーツを、ツールを持っているのに、
人間は、
これはいらないですってことになるかなっていう、
ならないかもしれませんけどね、それは。
でもこれが日本で絶滅危惧種だという話になるとですね、
結局そういう風な方向に向かっていくんだろうなって思うんですよ。
例えば東英ドイツかって話が出てくるんだけど、
あれ一つとってもですね、
僕あれは共感のために、
パスルートみたいな感じがするんですよね。
パスルートは同じ意味か。
つまり共感するためには、
東英ドイツかというツールを、
一つ取らなければならないケースがあるって感じがするんですよ。
東英ドイツかが共感できるようになることがある。
実際私は、
いわゆる臨床の精神分析の本がほとんど全部ですけどね、
これが出てくるってことで、
読んでいて、
でも認知コード療法の、
いわゆる事例サンプルの中にも出てきますよね、
こういう話。
全く出てこないわけじゃないんですよ。
ごく短く薄くしか出てこないけど、
出てはくるケースはあるんですよ。
で、東英ドイツかが起きるという時は、
もう苦しくなってるわけですよね。
臨床科の方。
でも不意に共感できるというか、
同情は少なくもできる。
自分もこうだったことがあったっていうのに、
つながっていくからですね。
これがつまり、
価値だったというのが、
クライン科のやっていた仕事だったわけじゃないですか。
これがエビデンスがないっていうのは、
このような話に、
エビデンスは非常に難しいと思うんですね。
どう考えても無理だろうと思うんですよ。
で、それが問題だというのも、
わからなくもないんだけれども、
でもその価値観でいくということはですね、
特に今は多分日本が、
昔みたいにお金にふんだんに余裕があったじゃないから、
余裕がなくなってきてるからと、
そういう言い方になるんでしょうけれども、
一段とですね、大人でなければいけない。
転移現象と万能空想
子供であることは許されないみたいな、
この話がですね、
だから子供であることを、
子供っぽい考え方を取り除くために、
どうして子供っぽい考え方のままであるかという話には置いといて、
大人っぽく振る舞うとはどういうことかっていうのを、
言ってみれば認知的に、
認知的にずれてるところを修正するとか、
そういう話に、あるいは行動として大人として振る舞うとはどういうことかができるようになるとか、
そういう話になっている感じがやっぱりするんですよね。
誤解かもしれませんけど。
で、自分はですね、
例えばわけわかんないというのは、
幼児だって言ってることがわけわかんないわけじゃないですか。
いきなりフォクトの件の話とかを初めて見たりしたかと思えば、
次の瞬間は寝てしまうみたいな、わけわかんないわけですよ。
でもそれは幼児だからですよね。
だから対抗という概念は微妙かもしれないけど、
意味はあるわけで、転移だってそうですよね。
結局のところ、
基本的にはそれは治療の場面で起こるんだろうし、
認知行動療法なのか分かりませんけれども、
力動波を排除してしまえば、
当然そんなものはあんまり問題にはされないと思うんですよ。
意識はするかもしれないけど。
そのうち意識もしないっていうケースも出てくると思うんですよ、普通に。
でも世の中では転移は起きるんですよ。
だからお母さん扱いをやたらしてくる人がいると。
ほんと鬱陶しいって終わってしまうと思うんですよね。
この転移というものを知ってたって、
結局のところ変わらないかもしれませんけど、
変わる可能性を開く感じがするんですよね、僕は。
実際、身内でさえそうですから。
すいません、身内ですら、
なんていうんですかね、転移。
転移とは言わないか。東映でいいんですけれども。
東映とか万能空想とかね。
意識すると、
なんか理解できる感じがするんですよ。
この人、昔からそういうことにこだわってたな、みたいな。
例えば、お金さえあれば、
私の人生はバラ色なのだ、みたいなのとか。
私の大学生時代のあれがそうですよね。
理想の彼女さえできれば、
もう全部うまくいくのに、みたいなね。
これが万能空想なんですけど、
これだけ盛んに言ってる人って、
なんかこいつ本当に、
ちょっとおかしくないみたいになってしまって終わっちゃうと思うんですよ。
万能空想というのを捉えてみて、
初めてですね、
自分だってそういうことをするってことに、
気がつかないかもしれないし、
別に優しくもなんないかもしれませんが、
慣れる可能性が上がると私は思っているんですね。
多分。
精神力動の重要性
だから、この発想を、
少なくとも世の中から消えてほしくないと思っているんですよ。
読んで得る知識では、
わからないかもしれないけれども、
とはいえ、読んで知識は得られるので、
だから、
山崎さんがポストって本で、
精神分析的致死的妊娠療法みたいなのを書かれましたけど、
サイコアナライティックオリジネイティブサポーティブセラピーですけれども、
サイコアナライティックオリジネイティブとかはわかりませんが、
少なくとも背景に精神分析の知識を持って、
例えば人と相談するとか、
人の相談を聞くということを、
PO相談なんですよ。
PO相談。
PO相談というのは、
PO相談なんですね。
そういうことなんだな、自分がしようとしているのは、
っていうのが最近、
自分で気がついてきたことなんですよ。
これを持っておくと、
使わないっていうか、
それで治療するわけじゃないし、解釈するわけでもないし、
介入するわけではさらにないんだけど、
持ってるってことによって、
言っている態度とか、
意味が理解しやすくなるんですね。
なるんですよ、これは。
簡単ではないところに問題はあると思うんですけど、
もう少し簡単にできるようになる気もしているんですけどね、
最近は。
今、この人は間違いなくものすごくPSポジションで、
全然抑鬱的に抑鬱ポジションの方にいかないんだけど、
なんでかっていうと、
なると多分そっちのポジションに入ると、
抑鬱になってしまって、
もう本当にしんどくなるからならないんだろうな、
みたいなことがわかるだけでも違うんです。
そういうのって、経験あるなしはあるにせよですね。
そういうことって、
例えば、昔そういえば、
忘れ物10回くらいして、
厳しい先生にずっと立たされていたとき、
本当に悪いと思ってしまうと、
もうどうしようもなくなるから、
何かのせいにすごくしたいときっていう苦しみってあるじゃないですか。
そういうふうに解釈するとですね、
この人が人のせいにしてばっかりいるっていうことの意味が、
理解しやすくなる気がするんですね。
そういうふうに入っていかないと、
こいつも人のせいにばっかりしていて、
落語者だみたいに。
そこで、新自由主義とか、
自己責任とかですね、あるいは、
子どもっぽいのは罪であるとか、
そういう大人であることが、
大人として振る舞うことがそんなに難しくもないし、
誰にも、誰にもでも、
誰もが求められる当然の条件であるっていうような考え方が、
進行すると厳しくなると思うんですよね。
これは、
平行線をとるんですよ。
そういう厳しさとあって当然だろうと。
そういう話をする人に対してすら、
僕はですね、
考え方とか価値観も多分にあるんだけど、
分析というのは結構優しくなれると思うんですよ。
なんでこの人はそんなに人に厳しいんだろう。
これはこれで、孤立しやすいじゃないですか。
あんまりそういうことばっかりやってると。
新宗主義が力を得つつある世の中だとしても、
新宗主義まっしぐらな政党とか、
そんなにマジョリティじゃないですよね。
だから厳しすぎるっていう感じを、
やっぱり与えると思うんですよ、そういう場合。
でもその人が例えば、
すっごく長寿がとの同一化にこだわっているとか、
ほとんどその人にとっての長寿がというのは、
万能なんだなっていうふうに捉えると、
なんとなくそれで納得できる気がするんですよね。
やっぱり自分らにもそういうところってあるじゃないですか。
ものすごくぐじゅぐじゅ言ってる人に対して誰かが、
自分の父とかでもいいんですけど、
めちゃくちゃ一括したらビシッとした感じがして、
つまりその時にはいろんなものが節約された感じが
人はしてるんだけれども、
こういうのを繰り返し見ていると、
ビシッというのは万能だみたいな。
こういう万能か思っている人って結構いますよね。
ビシッというのは万能みたいな。
これは多分僕は長寿がと同一化していることが、
その人にとってのある種の幸せになるんだろうと思うんですけれども、
っていう見方はできると思うんですよ。
異動性と薬の問題
さっきの最初の方に言った異動性ですよね。
範囲に起こると。
すぐ起こっちゃう人みたいな。
これも結局僕は同情の、
僕は共感の対象になるべきだと思うんですよね。
異動性を薬で取り除くとかになってくると、
やっぱりそれが
どれほど根節丁寧に説明されて、
社会の圧力に対する
説得的な説明があり、
本人の自由意志ですからと、
あくまでも自由意志ですからと言われたとしてもですね、
結局このなんとかという薬を飲むと、
そんなにカットしなくなりやすくなりますから、
楽になれますから。
実際そうで、反応も少ないとしても、
優しくはないなって感じが僕はするんですよね。
理由に対する共感性が
一切そこにはないわけですよね。
あなたが怒りやすいというのに対して、
怒りやすくなったあなたのことに興味はない。
でもそれをなんとかすることはできます。
で、実際はこれが求められるシーンはあると思うんですよね。
実際には。
そこはこういう、それにこっちが主流になっていき、
こっちが流行っていき、
マジョリティでありあっていくというのは、
今後間違いないと思うんですよ。
でも、どうしてその人がそうなったのかについて、
知りたいと思うんじゃないのかなと。
それが少々、
神話的なものであろうと、
おとぎ話みたいな話であってもですね、
言葉に直すとすっごく卑劣な感じがするとしてもですね、
やっぱりここに興味を持つっていう真理は、
人間から取り除かれることはない感じがするんですね。
だからそれとほぼ同じ理由で、
臨床の世界から力度が取り除かれるっていうのは、
おかしいんじゃないかなって感じがするんですよね。
でも、
おかしいんじゃないかなって感じがするわけです。
32:48

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