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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
おかげさまで、1対1の対話のセッションのやつですね。
60分セッションで6000円というやつを、6月分残り1枠になりまして、
ここまで来ちゃうともうあれだなと思ったんで、7月分やります。
7月も継続してやります。
それで、何枠にするかはまだちょっと検討中なんだけど、最低でも6枠はセットできそうかなと。
これ私の、なんていうんですかね、毎週日曜にやりますよというわけにはいかないんじゃないですか。
調整して書けるものなので。
なので、私の生活習慣との兼ね合いで枠決めていきたいと思っておりますが、
まだ初めてやる試みなので、5月6月は割と順調に来ましたので、6月も、あ、6、7月もやろうということにしました。
で、なんていうんですかね、これによって何が解決するっていうのは、
本当はっきりしたことはごめんなさいなんですけれども、
要するに何が来るかがわからない以上、何が答えかもわからないってやつなんですが、
何しろ、これで喋ってるのすら私はそうなんて、これは自分で勝手に決めてもいいわけですけど、
何喋るかは決めてないわけですよ、まだこの後に及んでも。
なので、もちろんこのセッションも相手の方に合わせてお話しするので、
何にどうなるかは、これまでやってきてみてもそうなんですけど、
カチッとある程度テーマを決めてこられるという方ももちろんいらっしゃいましたし、
割とこう、ふわっと始まっちゃうというケースもあります。
これも多分一般的にそうなんだと思うんですけどね。
だからもう、エヴァノードの話がいいですとか、
私はちょっとわからないけどログシークの話しろとか言われればしますし、
それこそカウンセリングの話でも、あるいは全然子育てとかでも構わないです。
私ので良ければね。
私の経験っていうのはありますけど、男親なので、男親的経験の話になります。
しかもまだ中学生なんで、成人したわけじゃないですからね。
これから思春期ってやつが来ますからね。
まあもう来てますけどね。
という辺りです。
思春期でつながりじゃないんだけど思い出したのが、
やたらと罪悪感が苦しいという話をちょっとしようかなと思いました。
この罪悪感っていうのは大きなものじゃないです。
なんかあのね、振込詐欺じゃないけど、
給付金詐欺でドワイに行きましたとか、
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給付金詐欺でドワイに行きましたとか、
そういう話では全くなくて、
もっともっと遥かに事実上罪とも何とも言えないようなところで
いながら感じてしまうと。
あのですね、セミナーでちょっと前に話題になったんですよ。
倉田さんとのセミナーで。
後ろから車がピタッとくっついていると、ものすごく申し訳なくなると。
でも前方に意識が回らないと、
危ないじゃないですか。
結構これは深刻ではないんだけど、
ややこしい問題だなと思うんですよね。
で、この中には下手だと思われたくないというのもあるわけですよ。
ということは早く運転できる方が上手いってことですよね。
この辺も急がなきゃ問題という括りになると思うんですよね。
どんな時でも焦ってしまうと。
あれですよね、やっぱりその時も話題になったんですけど。
レジで後ろに長蛇の列を作るとか、
ATMで、レジはですね、多分長蛇の列を作っても
よっぽどじゃない限り、買い物している方は罪悪感を持たないんですよ。
だってレジを売っているのは自分じゃないんで。
セルフレジとかになってくると、この問題が起きるんですよね。
だからATMでこの問題が起きると思うんですよ。
ATMというのは結局全部が自分の責任に見えるんで、
場合によっては機械の責任なんじゃないかという気もするんですけども。
本人のとにかく責任だと。
レジの場合はコンビニの店員さんの責任だと思っているから、
多分罪悪感が薄まるんですよ。
いずれにしても実に些細なことですよね。
こういうところで細かく気にやむんですよ。
気にやむことで辛いという話がありますよね。
これはいろんな説明の仕方ができると思うんですが、
私が最近発見した思いに至ったのは、
これは選択の問題なんだ、やっぱり。
やっぱりというのは、倉殿さんが昔選択の問題と言ったことがあるような気が、
記憶違いかもしれませんがあって、選択の問題なんだと思うんですね。
選択の問題というのは、よくこれですね。
私、日本人に関する英語の学習で、この問題に最初に僕はふと思い至ったのですね。
ルース・ベリー・リクトという人が聞くと、頭の中でほぼ同じことを書いていますけど、
日本人がELとかで留学した時に、
留学した英語を学ぶというのは一番基本的にどこにでもあるプログラムなんだけど、
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ここで日本人が出てくる時に必ずこの問題が取り上げられているケースがすごく多いんですね。
日本人はサンキューと言わずにアイムソーリーというやつなんですよ。
これ、サンキューというかアイムソーリーというかが全てではないんだけど、
例えば贈り物をした時にアイムソーリーと言っているんですよ。
これは日本人だけなのかどうかは私は分からないんですけど、
これは相当不思議な文化らしくてですね。
アメリカ人にはかなり理解されないんですよ。
アジア人になら理解されそうだと思うんだけど、
私がELに行っていた時期では台湾人、タイ人、ベトナム人、中国人には理解されなかったんですよ。
つまりその中でしかも書いている英文がアメリカ人が書いているだけあって少しずれているんですよね。
その中にはスモールギフトですみませんって書いてあったんですよ。
それはビッグギフトならいいって話になるんだけど、そういうことじゃないじゃないですか。
このスモールとビッグもどうかと思うんですよね。
やっぱりチープとゴージャスにするべきだと思うんですよ。
言っているのはつまらないものですがっていうのを英訳しているんでしょうけれども、
つまらないがスモールになっちゃっているんですよね。
それでもおかしくはないかもしれないけど、ニュアンスが少し違うなと思ったんですね。
スモールギフトでI'm sorryってのは。
言っている感じが全くそういう言い方にはならないんじゃないかと思う。
せいぜいチープなものでぐらいかな。
それでもちょっと変ですけどね。
つまらないものでっていうのはうまい英語がない気がするんですよね。
まず全く伝わらないですからね。
そんなことを言うアメリカ人は一回も見たことがないんで僕は。
ものを持ってきてそういっていう人はいないんですよね。
で、台湾の人にも全く伝わらないっていうのが結構びっくりして、
説明を求められたんですよね。
どこを謝ってるのかと。
で、しょうがないので私が英語の説明をしたんですけども、
ものすごく礼儀正しいって言われたんですよね。
これは私は非常に記憶に残っていて、
これは礼儀正しいとは思われるのねと。
ところが、
この時点でね、
この時点で一番の気持ちは
僕はスモールギフトの中で言うことは
スモールギフトの中で言うことは
スモールギフトの中で言うことは
そう思われるのね、と。
ところが、
欧米の人はそうは思わないらしいんですよね。
もっと違う解釈になってしまって、
ほぼ生き違うんだけど、
つまりこの通りのことだとしても
受け止め方は同じじゃなかったんですよ。
でですね、
これは文化論みたいな話ですけども、
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これは私にとってはただの印象の残った話であって、
大事なのは、私たちは結局、ある人の行為に対してそこにありがたさを感じようと、申し訳なさを感じようと、選択できるということなんですね。
これは選択できるんですよ。見てるところが違うんで。
なんで謝るのかって聞かれたということは、どこが悪いのかがわからないってことですよね。
で、日本人はここが悪いということが言えるわけですよね。だからソーリーって言うんだけど。
つまりそれは、どこに視点を置いてどのように言うかは、どこに視点を置いてどのように感じるかは、こっちが決めてるってことになると思うんですね。
ソーリーって言ってる人が決めてるんですよ。これは文化だから、実際はそういうふうではないですけれども。
ATMとか後ろから車がついてきたって非常に接近してるっていう時に、何を感じるかっていうのは別に文化じゃないと思うんですよね。
その人がどう考えるかで決定されると思うんですよ。ここに選択があると思うんですね。
で、大事なのは、僕が思うに選択だってことで、どのように感じるべきかってことではないと思うんですよ。
そしたら選択じゃなくなってしまうので、グッドワイブスだからここは感謝するべきだって言うんではないと思うんですね。
感謝するか罪悪感を抱くかは選択なんだと思うんですよ。
このことを思い出せるかどうかにかかっているというか、この感覚が自分のものにできるかどうかにかかっているかという感じがします。
で、なぜ感謝なのか、なぜ罪悪感なのかっていうのは、結局待ってもらうからじゃないですか。
車の場合ちょっと微妙ですけど、レジとかATMであれば待ってくれたからですよね。
待ってくれてごめんなさいなのか、待ってくれてありがとうなのかは、こっちが決めることであって、相手に影響を与えるための何かじゃないという感じがするんですよ。
相手はイライラしているのかもしれないし、広い心なのかもしれないんですけど、僕はそれは両方セットだなって思うんですね。
考えてみると、イライラするからこそ広い心なんじゃないですか。
ものすごく広ければイライラもしないっていう考え方もできると思うんですけど、イライラしてもいいですよって言ってくれるから広いわけじゃないですか。
ある意味、全くイライラしないんだったら広い心もいらないとも言えるじゃないですか。
これも解釈なんですけどね。
つまり、結局謝るのもありだと思うし、感謝するのもありだと思うんですよ。
ただ、相手は同じことをやっているってことですよね。
同じことをやっている可能性は十分あるってことです。
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イライラしながらも我慢して待つと。
我慢して待つと。
それは普通のことですよね。
社会人だって別にグッドバイブスとかじゃないんで、イライラしてるんだけども、もっと早くしてくれないかなと思いながらもスマホでも見て待つと。
ここで、いろんなことを我々は、いろんなと言っても3つか4つしかないんだけど、いろんなことを3つか4つを考える側面があるってことですよね。
まず相手がそう思っているか分からないと言うと、とりあえずイライラして待ってくれたとして、イライラしないで欲しいなって思うのがHSP的だと私は思うんですよ。
ここでイライラされなければいいのにっていう考え方だったんですよね。
で、普通に日本人的にソーリーっていうのはつまり、ごめんなさいっていうのは、待たせてごめんなさい。
これは、でも甘えはあるんですよ。
私はこの辺が甘えと愛務ソーリーの文化なんだろうなと思うんですよね。
待たせるけどごめんね、だから許容してねって言うんですよ。
これで回るんですよね。
日本人の中でこれに辛さを覚えるという人は、これに対してより理想的な現実というものを、この理想的な現実っていうのはその人のナルシズムなんだけど、
ここに理想的な現実を持ち込む、持ち込むというか上書きしようとしてるんですよね。
待たせない方法はなかったのだろうかってなってしまう。
で、ビジネスチャンスとかの話に持っていくこともできるんで、やっぱり解釈の問題なんだけど、
要はそうじゃない現実もあったはずだという方に重きを置いてしまうんですよ。
で、私はそこまでする話ではそもそもないというのも思うんだけど、
これは解釈なんで、その人はそういう解釈をしたと。
だから単に愛務ソーリーで言いますともう済まないわけですよね。
もっと自分の罪悪感が引きずってしまうわけです。
で、感謝というのも同じシチュエーションなんですよ。
我慢して待ってくれてありがとうなんですよ。
これはこれでおかしくないと思うんですよね。
で、結局ソーリーと言おうとサンキューと言おうと、
HSP的にあの人はイライラしていて、私はもうその姿勢に耐えられないと思うのも、
どれも相手のやったことは一緒じゃないですか。
イライラしたけど待ったということなんですよね。
だからこれは相手次第ではないんですよ。
これのどう解釈するかは自分次第なんですよ。
このところを忘れると神経症ギミニッツ厳しくなっていくんですよ。
自分で選択しているのにそれが強制的に決定されたことだという話にしてしまうと、
当然辛くなりますよね。
選択の余地なく突き刺されてみたり、選択の余地なく謝らなければならなかったり、
選択の余地なく感謝するということは多分私はないような気がするんですけれどもね。
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感謝というのが何かいい感じがするというのは私は、
モラルの問題じゃなくて選択ができているからだと思うんですよね。
選択できなくなるという問題が問題なのであって、
つまり選択しているということを忘れてしまうということ。
選択は絶対しているはずなんですよね。
相手の人はただイライラしながら待っただけで謝れとは言っていないし、
このことを覚えておけとも言っていないし、感謝しろとも言っていないわけですからね。
そしてそういう波動じゃないんで、オーラによって自分は感謝させられたとか謝らせられるということは起こらないわけだから、
相手の行動は変化がないんで、変化がないものに対してどうするかというのはやっぱり選択だと思うんですよ。
大きな昔からある薬師場の薬杉みたいなもの、あれわざわざ行って拝みに行くって人もいるじゃないですか。
あれまさに選択じゃないですか。
気はそこにあるわけで、私のように別に行きもせず、見に行きもせず、
拝みにも行かない人間もいればという選択もあれば、
わざわざ時間かけて行って触ってみたり、拝んでみたりするという選択の人もいる。
気は同じですよね。やること変わってない。拝まれとたたるとかそういうことはしてない。
同じだと本当は思うんですよ。
後ろでイライラしながら待ったという人がそこにいるという、ただそれだけで、
ここに我々は解釈を充てて、申し訳なく思ってみたり、苦しくなってみたり、感謝してみたりが
できると。できるんですよね。
選択できるということです。
よく、ギャンブル依存とかルポル依存って出てくるんですよ。
不意に自分は辞めてもいいということに気がついた。
この言い方は大変わかりにくいんだけど、つまり選択の連続だったということに
いきなり気づくことが、これはいきなり気づく前にいろんなレクチャーなど、
サポートなどを受けているとは思うんですけど、
でもやっぱりいきなり気づくことに違いはないんですよ。
それまでどう思ってたかというと、酒を飲まずにはいられないって言うんでしょう。
これは選択の余地はないって言っているわけですよね。
子供が時々言うじゃないですか、ゲームせずにはいられない。
あれはゲーム依存の入り口なのかもしれないんだけど、とにかくそんなはずはない
ということなんですよ。選択はしているはずで、どこかでゲームをしようと決めて
するわけですよね。つまりギリギリのところまでしない選択というのは可能なんですよ。
これがつまりギリギリのところまで罪悪感をATMで長蛇の列を後ろに作っても
罪悪感を持たないという選択は可能なんですよ。なぜなら持つというのは選択だったから。
だけれどもここで絶対に相手はものすごくイライラして、
罪悪感を持たないと刺すかもしれないんだから、やっぱりとにかく申し訳ないと思って
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一刻も早く立ち去るべきなんだというのが何点ですかね。
この外的状況なら人というものはすべからず絶対そういう風になるという
法則がビッグマン以来決定されていましたと、そういう主張になっちゃうんですよね。
そういう感じがするから。つまりこれがイリュージョンが
現実化するってことなんですけどね。幻想がそのまんま現実になる。
だから幻想がそのまんま現実になったときというのは
常に選択の余地がなくなっているんですよ。でも自分が選択したんです。
自分が選択しておきながら選択の余地がないという確信を持つんですよね。
これが多分イリュージョンが現実化するということで
ドイサン流に言うとナルシシズムの中に閉じ込められるみたいな言い方があったんですよね。
と言ってもいいと思いますし、甘えに甘えていると言ってもいいと思うんですけども
いずれにしても選択の余地がもうなくなったわけです。
選択の余地があるという認識を見失ったんですよね。
というか自分が選択したという自覚がすっ飛んだわけです。
だからドイサンはこの状態を指して自分がないと言うんですよ。
こういう時に人は自分がなくなる。
大事だと思うのはここに行動科学はあまり当てはめないことかなと思うんですよね。
私はそういう習慣を作っちゃったんですみたいな言い方をすることはないと思うんですよ。
選択の連続だということはこれは倉園さんがよくおっしゃることだし
わりと認知行動療法でよく主張することなんですけど
あれは依存からの脱却に非常に有効でしたからね。
選択の連続だということは何回目であってもうまくいくし
何十万回とそれまで財布館を持ってきたとしても
直接にはそれが影響できない。間接には影響すると思うんだけど
直接には影響できない。つまり次の選択を絶対的に決定する力は
過去何十万回と同じことをやったとしてもないんですよ。
やっぱり選択なんですよね。選択ですから。
選択じゃなかったということがないからですね。
癖になってるとか習慣化されてるとかそういう性格なんだとかいうのは
関係なくはないかもしれないけれども
究極的な力をそこで持つわけじゃないわけです。
持つわけじゃないからこそアルコール依存の時にも
そんな選択だったという発見が役に立つわけですよね。
アルコール依存はこのATMの財布館なんかの日じゃないんで
非常に見ていても、ビデオとかでも見ていても
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ここから脱出できるものなのかと思うほどですから
でも脱出するときに人が必ず言うのがやっぱり
これが選択だということに不意に気付く。
そんな程度のことが役に立つってことは
いわゆる学習行動の効果というものは
100になることは絶対ないと。
そして実際には習慣だけで自動的に行動してしまうような行動が
その種の行動には一つもないってことなんだろうと思います。
その種の行動というのはパチンコに行ってしまうとか
財布館を持っちゃうとか、つい奥さんと喧嘩しちゃうとか
そういうやつですよ。
そういう外から見ても認識できるほどはっきりとした行動であるような行動は
自動的に起こらないってことですよね。
どれほどその人の衝動が強くて
絶対このタバコを吸わずには絶対無理だって思ったときですら
やっぱり選択なんですよ。
そこには選択があるということですね。
自由意志の話って大能生理学って言うべきなんでしょうけど
その中でもすごい扱いがややこしくなってきてますけれども
やっぱりそこには意志なんだと思うんですよね。
選択があるんだろうと思う。
だから辞められる人と辞められない人がいるわけでしょうし
私は長打の財布館っていうのはすごい持つ方だったんですよ。
だからそもそも並ぶような時間帯には行かないし
一人並んでても即座にその場を退去するみたいだったんですけど
今は全くそういう風ではなくなりました。
これが何かの克服とかじゃないっていうのは
すぐにまた元に戻るよなって思うんですよ。
財布館を持とうと思ったら簡単なんですよね。
そういうある意味やっぱり文化的土壌はあるんだよ。
だからすみませんと口癖のように言ってるからといって
やっぱりすみませんは自動的に出る。
自動的には出ますけども
すまないなという気持ちまで全部自動化されてるとは
やっぱり言えない気がしますね。
ここは選択は可能だと思うんですけど
ここは選択は可能だと。
自分の選択が可能というか選択をしているっていうことですよね。
チョイスなんだと。
そういう自覚さえあれば
どっちにしてもしてるんで
そういう自覚さえあれば
相手がどう思ったかには寄らないんですよ。
相手がどう思ったかは究極的には聞いてみたってわからないけど
聞いてみないとわからないし
聞いてみることは考えられないので
やっぱりわからないんだけれども
万が一相手が気を悪くしていたらどうするのか
同じことだってことですよね。
万が一気を悪くしていたら
謝ったとしても
ものすごくそのことを後悔したとしても
相手の気を悪くしたのは取り消せないと思うんですよ。
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というか取り消せないんですよ。過去のことだから。
だから感謝しても謝っても
ものすごく気にあって
鬱になっちゃったとしても
結局同じなんですよね。
こういう言い方をすると
若干残酷な感じもしますけれども
間違いなく相手がどう思っちゃったかというものは
後からはどうにもできないんですよね。
そしてそれに対する解釈をどこにおいても
少なくとも今の3つは
かなり常識的な解釈だろうと思います。
あとは好きなのを選べば本当に
楽しいんですよ。
と思うんですよね。
酒を飲むか辞めるかというのは
好きなのを選ぶというのは
実はどっちも好きだから
すごい難しいんだとは思うんですけれども
やっぱりあとは選べるということなんだと思うんですよ。
お酒とか甘いものは
特によく聞くんですけど
選べないと思ってるんですよ。
飲まない人生はもう人生じゃないみたいなね。
これ選べないですよね。
飲まないってことは死ぬってことだっていう話になってるんで。
多分なんだけど
ただごめんなさい、
待たせてごめんなさいって言った人は
なんてことないんでしょうけど
HSPみたいな方っていうのは
ここで相手に気を悪くされたら
自分の人生はもう真っ暗だぐらいな感じは
抱かれてるんだろうと思います。
だから選択の余地がないんですよね。
ここはやっぱり前に
蔵野さんに言われたことですけど
ガッツとかが必要なのかもしれないです。
一度
謝らないというのを
自視力で選択してみて
そうして本当に
相手の心象がめちゃくちゃ悪くなって
みんな自分を襲って
殺しに来るぐらいの勢いになるかどうかと
こういう話をすると
もちろんならないのは
頭ではわかってるって言われると思うんですけど
これも頭でわかっててもダメだと思います。
これはお酒やめるのと同じなんですよね。