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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいま、9月25日、日曜日の19時56分、もう間もなく夜の8時になろうとしています。
だんだんこの、時間と何の関係もないおはようございますが、板についてきた日がするんですけれども、
今日はつまり2回で収録中という感じになっています。
これも、もはや1回収録、2回収録の回の重要性はようやくなくなってきて、
あと残っているのは、このマイクが使えるかどうかと、30分連続で収録するタイミングを取れるかどうかになってきつつあるなと思います。
立花たけしさんとクロストークというのをやります。
10月8日の土曜日ですね。
今回は、苦しい時期の乗り越え方というのを、フリーランス2人ともですね、
立花さんは、私より少し後だったのかもしれないんですけど、
ちょっと長いのかもしれないんですけど、ミドルクライシスみたいな、ミドルって言っても年代は少し違うんですけどね、私より立花さんは年上なんでだいぶ。
フリーランスというのは何かとですね、やばいことが立て続くとやばいことになってしまうわけですね。
仕事しないでもいいメリットと、していない間は消費しかできていないという現実があるので、
立花さんなんかはね、私から見ると六本木とかにもお家構えられたりしてですね、
私詳しいこと何も知らないんで適当に喋ってるんだけど、とにかく私よりは全然収入的には全然あったと思うんだけど、
私なんかもう本当に吹けば飛ぶような資産しか持ってないので、仕事しなくなるってことになったら大変なんですよ。
なんだけど、何度も言いました通り2017年はひどい1年で、もうなんかこう、幸死というか死ですね。
ほとんど死のことに追われて飛び回っているうちにどんどん毎日が過ぎていくと。
しかし体調も悪いし一向に何一つ良くならないって、あんなことあるんだなって思うようなひどい時だったわけです。
そこをどうやったかという話をするんですけどね。
グッドヴァイブスの話を取り出しつつ、クラドノさんとの出会いみたいな、この話もどっかでそのノートにも書こうと思ってるんですけど、
今まで知ってましたけど、今までない人と知り合い、今までない人の考えに触れて、それによってV字回復しましたという物語を落とし込めると大変素晴らしいんですが、
そう言ってもまるまる嘘にはならないんだけど、現実の感触っていうのはちょっと違って、その底気もV字のVみたいに点じゃないんですよね。
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すごく底気がなだらーに、だって1年って長いじゃないですか。
そして、もちろん私の恐れないとか、それを抱かないとかによって、自動的に生きるとか、そういう方針に変えることで、
変えるって言ったって、自動的に生きることに今日から変えましたって言った途端に、何もかもがどんどん好転するってわけにはいかないし、
収入の状況なんかは自動的にしましたから、どんどんお金入ってきますってわけにはいかないじゃないですか。
しかも途中悩むわけですよ。やっぱりこれで大丈夫なのかなとかって思いますよね。
しかもさらに言うと、私事って言ったって全部が私の出来事じゃないわけですね。
例えば母の心臓の手術の失敗とかに関して、私が自動的に生きることにしたからといって、たちまち心臓が良くなるとかいうことにはならないわけですよ。
タイムラグも少しはありますよね。1年かけての出来事で、私にとっては集中的に起きたように思えても、1ヶ月遅れで起きたこともあるわけですよね。
だから何もかもが全く同時ハステロみたいに同時に起きたわけじゃないので、その辺の話を交えながら、
どうやっていったつもりで切り抜けられたのかという話を10月8日にしたいと思いますので、
興味ある方はチェックしていただくとありがたいと思います。
あと、たちまなさんのお話も僕のよりすごそうなところもありますので、
こっちもそういう話だけでも興味まくって方もいらっしゃると思うんですよ。
それをたちまなさんが今どういうふうに切り抜けつつあるのかという話には、私も興味あるんでですね。
だからコラボしましょうってことを申し上げたんですね。
そういうことを交えて3回目になりますね、クロストーク。
よかったら聞きに来てやってください。
それでですね、ここのところずっと話をしているのは、
全部自我心理学というアンナフロイトさんの方の考え方に沿っているんだけど、
これ全部アンナフロイトかクラインかでズバッと分かれるってほど全然違うわけじゃないんですよ。
思想はアンナフロイトだし、どっちも精神分析ですからね。
ずいぶんちょっと違うなって思えるところもあるけど、
そこを除けばかなりそっくりさんと言ってももちろんいいわけです。
同じですからね、もともと。
自我心理学の考え方で、私が非常にいつかこの話はしなきゃと思っていたんだけど、
なかなか出てこなせずにいた接触障害の話があります。
なんでできずにいたかは簡単で、私自身はこれに直接関係はないからなんですね。
私、接触障害になったこととかはないんで、
そういう意味でですね、私ごとを基本的に語るこの番組で、
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接触障害というのはあまり問題になっていない。
接触障害というのはですね、例えば虚食症みたいな食べられませんっていう状態で痩せ細っていくとか、
あるいは急にその人が、アメリカですごいそのビデオを見て私もウエッとなっちゃったんだけど、
退職って言ってですね、やたらと食べだすとかね、そういうことが起こったり、
食事に関する心理的な障害で、やっぱりこの話でパッと思い出すのがあの人なんですよ。
永田神さん、レズ風俗に寂しくて行きましたっていう本を書かれて、
私の顔色の本のイラストを書いてくださったイラストレーターで漫画家でもあるんですけど、
永田神さん、明らかに途中で接触障害にもなっていますよね。
生のままで、インスタントラーメンあるじゃないですか、
あの袋をバリバリ破いてバリバリ食べちゃったみたいな、
あれ明らかに食べたくて食べてるっていうのはちょっと違いますよね。
ああいった症状が起きます。
これはダイエットの問題の場合もあるのかもしれないけど、
ダイエットの問題ではないような気が私はするんですよ。
もう明らかに精神分析ではそういう見方はとっていませんよね。
これはやっぱり母子問題っていうふうに考えています。
じゃあ育て方が悪かったのみたいにすぐなってしまうと思うんだけど、
もうこれを長らく聞いてくださっている方は、
精神分析というのはそういう考え方とはまるっきり違う。
育て方が良くはなかったのかもしれないけど、
ごく普通に育ててもそんなことはいくらも起こりますよっていう話です。
お母さんとの関係というよりは、
ここが自我心理学よりももっと対象関係論の方が強く言ってると思うんですけど、
心の中のお母さんとの関係だから、
実体がどうかっていうこととイコールには絶対ならないわけですよ。
そこは大事だと思いますね。
で、僕この接触障害は、
接触障害そのものというよりは、
あらゆることに関わってくるなんですよ。
やっぱりタスク管理とかに深く関連しているんだよなと。
最近先送りのお話、先送りのコミュニティとかセミナーとかをやろうとしてみて、
あんまりうまくいってないんだけど、
100日チャレンジで散々言ってますけど、
J松崎さんとやってる100日チャレンジでも、
この話に近い。
知ってて少なくとも損はないっていう風に思ったので、
お話しするんですけど、
僕これ簡単に言うとですね、
家でを連想してほしいんですね。
そういう意味ではね、
総的防衛と近いと思うんですよね。
つまりお母さんとか、
口うるさいっていうものがあるわけですよ。
そんな口うるさいだけで家でしませんけど、
あまりにもちょっとね、
私の自立や成長可能性発展、
こういうことだと思うんですよね。
を阻んでいると。
本当に鬱陶しいと、
いい加減にしてほしいと、
こんな家は出るしかないとなった時に、
この家を出るといった非常に極端なね、
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戦略が出てくるわけですね。
これ何かに似てると思いません?
今総局障害って言っちゃいます。
総的防衛って言っちゃいましたけども、
これは非常にバイポーラーの発想と似てますよね。
このバイポーラーってのは私は、
これは倉園さんのお話を伺ってても
よくよく思うことなんだけど、
バイポーラーというのは私たちにとって、
そこ賢で出てくる、
あまり上手くない人生線型なんだなって思うんですよ。
倉園さんがグッドバイブスで一番最初の頃によく、
今でももちろんなんだけど、
おっしゃってたので言うと、
分離の選択の極端な形式、
分離の選択そのものと言ってもいいと思いますが、
家でって分離ですよね。
つまり、良いおっぱい、悪いおっぱいなわけですよ。
これはゼロサイズでも選択でき得るという意味で、
こういう考え方なんですね。
つまり、とても良いものが、
とても悪いものになっちゃう。
だから、すごく極端な選択肢になってしまうんですね。
本当に素晴らしい調子だと尊敬していたのに、
実はパワハラとセカラの悪魔だったので、
そういうふうにして、
急速接近、急速退避というものを
振り子のように繰り返すという考え方。
別に普通に、
普通にというか、
つまり、極々単純な戦略として
子どもがよく使うわけです。
だから、我々が苦しくなって対抗を引き起こすと、
このバイポーラーという、
両側に対抗を引き起こすと、
分局戦略を取ってしまうわけですね。
一つのものを二つに分けて、
良いものと悪いものに分断して、
当然良いものに向かいたいんだけど、
そこに、それは同時に悪いものでもあるから、
悪いものが目に入ってくると恐ろしくなって、
一気に回避する。
これの極端な一つの形態として、
思春期付近に家出というやり方が出てくるわけです。
だけれども、
家出をした人は、
ごく普通に考えられることですけれども、
自分のケアができませんよね。
そこで、
この自分のケアができないということを
よくよく考えてみるとですね、
それは、
親にケアしてもらいたかったのに、
という気持ちの裏返しであるというふうにも
受け止められるじゃないですか。
家出したのは、もういい、
お母さんの世話なんかに、
家出したのは、
家出したのは、
もういいお母さんの世話なんかに
ならないって言ってるんだけど、
でも自分の世話もできないのに、
これを言うってことはですね、
やっぱりお母さんの世話が、
あるいはお父さんの世話が、
あるいは他の養育者の世話が、
不十分なんですよ。
ある意味では。
よくある形として、
私なんかも反省させられるっちゃ反省させられるんだけど、
反省しないのが、
クラゾの三流ですけど、
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反省させられるのが、
何でもかんでも、
子供の言う通りにしてあげたいんだけど、
あるいは子供のためなら、
何でもしてあげたいにもかかわらず、
いやいやもういい加減にしてよって言われると、
じゃあ好きにすればいいって言っちゃいそうになるわけですよ。
親ってのは。
この態度ってよく身に覚えあるんじゃないかと、
私もあるんです。
自分の親でも、自分の子でもね。
お母さんの言う通りにしている限り、
お母さんは万全にケアしてくれるんだと、
ほんのちょっとしたことでも、
例えば、
私、子供の頃よく思い出すのはですね、
お腹すくんですよね。
中学ぐらいになってくると。
で、非常に親よりもすく時間が早いんですよね。
で、つい結構、
それこそお茶漬けみたいなものを食べだすと、
親怒るんですよ。
勝手に食うなと。
だけど腹減ってるから、
勝手に食うじゃないですか。
だったらもう、私ご飯作らないから、
あんた勝手にしなさいとかって言うわけですよ。
この突き放し方、
さっきの壮的防衛とよく似てますよね。
つまり、
極端なわけです。
万全に世話をしてくれるか、
何にもしてくれないか。
こういう両極戦略っていうのが、
面白くない人間関係には、
そこ、賢に現れちゃうんですね。
万能な上司と、
最悪の上司とかね。
そういうのってのは、
いつも同じなんですよ。
今のパターンでも、
何でも世話をしてくれる、
非常にありがたいお母さんか、
いきなり突き放してくれる、
口うるさいだけのおばさんか、
いうみたいに、
バリッと割れてしまうわけですね。
こういう時の子供が、
もし家出をしたとしたら、
私はしたことないんだけど、
実は。
家出をしたとすれば、
やっぱり本当は、
もっと上手く世話をしてほしかったのに、
そういう世話の仕方しかできないんだったら、
もういいから、
もういいっていう風になって、
飛び出すんですよね。
これは非常に、
想的防衛を連想させるんですよ。
イコールではないけれど、
そして離れてしまう。
その時に何をするか。
ここでよく出てくる、
非常に精神分析的な発想として、
無意識は、
無意識ではですね、
非常に赤ちゃん、幼児、
子供のままだから、
無意識は、
親べったりになりたい。
無意識のヒステリーの話とそっくりなんですよね。
つまり、
自意識で、
意識の光が当たっている部分では、
もう親の世話なんかにならなくても、
私は生きていけると。
お金の換算もできるし、
何なら頑張ってバイトもするし、
どこそこに行って、
あれこれあれこれって、
頭で考えることはできますね。
でも、心の奥底で、
つまり極めて情緒的な部分では、
まだまだずっと親に甘えていたいわけですよ。
ここで無意識と自意識の断裂が起きて、
無意識の方が、
自意識の行動に、
強く介入しようとする。
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その時に、
防衛ってものが起こるわけじゃないですか。
つまり、そんな無意識は知らんと、
抑圧すると。
これが私たち、
青春期の頃に、
たぶんやったこと絶対1回や2回はあると思うんですよ。
1回や2回では済まないと思うんですね。
そういう情緒的に甘えようとするから、
親の言いなりになっちゃうんだと。
こういう感じを全部切り離したり、
抑え込んだり、
そういうのに近い事態に陥るわけですけど、
つまり、自意識で考える方針と、
無意識でやろうとしている、
情緒的な方向が、
全くずれてしまうわけです。
これがたぶん、
思春期で一番起こりやすい、
心理的な葛藤だと思うんですね。
とにかく、
情緒の方では、
赤ちゃんのように甘えたい。
でも一方で、
意識の方では、
家から出るほど自立したい。
すっごい極端なんですよね。
大人になってもあると思うんですよ。
何にしても、
この中の一つの戦略として、
ヒッセリみたいにボツボツができるっていうのも、
当然あると思うんですけど、
私に起こったみたいに、
食べないという戦略が出てくるわけですね。
なんで無意識は食べないという戦略を取るのかというと、
家に返したいからですよ。
自分自身をね。
食べれなくなったと。
なぜなのかはわからないと。
でもそこにはいろんな、
もっともな理由があるじゃないですか。
例えば自分で食事を用意する。
買ってきて作る。
非常にめんどくさいですよね。
多分常駐、
意識の上ではめんどくさい。
今日はいいや、ご飯なんてと。
自分一人でやってるなら、
気ままにっていう風に考えるでしょう。
そういう考えは、
実は無意識の、
この自分にご飯を食べさせたくないという意識の、
無意識ですけれども、
の戦略なんですよ。
そしてどんどんどんどん終わり、
どんどんどんどん痩せていき、
ご飯食べられなくなったと言って、
家に帰っていく。
これが無意識の望みですよね。
そしたら親は、
すっごい優しくしてくれると思いません?
私だったらそうしちゃいますね。
うちの子が痩せ細って、
ご飯食べられないのって帰ってきたら、
もう涙出そうですよね。
もういいからと。
もう何も言わなくていいからと言って、
そういうシーンがあれですね。
あの、
何だっけな。
ドコンジョウガエルの娘にありましたね、
ちゃんとね。
お父さんが帰ってきたら、
奥さんはダメンズなんですよね。
体中を洗ってあげて、
もう要するに、
帰ってきた犬みたいに優しくしてあげると言うんですよ。
ああいうふうに親、
そうですよね。
もう生前でって誰かが書いてたんですけれども、
そういうことですよ。
要するに痩せ細った方に、
一口でいいから食べなさい、
赤ちゃんに戻っている、
痩せ細った娘に、
スプーンですくってあげて、
食べさせてあげるわけですよ。
で、
18:00
すっごい幸せになりますよね、
親子共に。
けど、
そうやって食べているうちに元気になります。
そうすると、
だんだん面白くなくなってきますよね、
子供としては。
そんな13だ、14だ、
倍塗った16、7、8だっていうときになってですね、
お母さんがスプーンでお粥を
作ってくれるなんて、
とてもやってられないと。
そして元に戻っていくわけですよ。
家出したときのような状況に、
だんだん、だんだんとね、
いやいや、もう勝手に飯食うなとか、
何々しろとか、
元気になったんだから、
要するに自分が考えている通りの
振る舞いをしないんだったら、
面倒見ないという、
例のパターンに戻っちゃうわけですよね。
そうすると、
もう一回娘としては、
家を出たくなるわけですよ。
親の言いなりになって、
一口一口食べさせてもらっていたのでは、
自立全体で結構ないと。
これはもう全然ダメだと。
やっぱりもう一回家出でもするしかないと。
この振り子なんですね。
これは、
接触障害という形を取るケースもあるでしょうし、
違うケースを取ることもあるでしょう。
要は無意識のほうでは、
自分で自分のケアを
この人にさせまいとしているわけです。
だってケアしちゃったら、
この満たされない親に甘えたいという、
自分の情緒的な欲求は、
永遠に満たされないことに
なってしまいかねないじゃないですか。
もう遠くとかに行っちゃってね。
なんなら海外とかに住み始めちゃって、
頭が回る愛はできますよね。
そういうことも。
もう親とは完全に縁を切るみたいなね。
非常に極端な人には
そういう人もいないわけじゃないんですよ。
今のは、家出する思春期の少女みたいな話でしたけど、
これを20代中盤にやると、
もう完全に違った世界になりますよね。
親は追ってこれなくなりますもんね。
ところがそこに行って、
意外と自分の生活能力がない
ということになるんだけど、
これは私は、
一般に世の中では生活能力で
説明されちゃっているんですけど、
無意識が妨害していると考えるほうが、
よっぽど分かりやすいんですよ。
実は私、留学中に
そういうことが起こったんですね。
生活能力というのは、
自分の生活能力が
自分の生活能力が
低下したんですよ。
最初は私、アメリカに来て
英語圏だから生活能力が
低下したなと思ったんだけど、
よく考えてみると、
そんな馬鹿な話はないんですよ。
アメリカに行って英語圏だって、
別に英語が全く読めないわけじゃないし、
だいたい買い物なんていうのは
アメリカだろうと日本だろうと
ウォルマートだろうと大英だろうと
大した違いはないわけです。
大英もないか。
つまり、象徴的に邪魔されているわけですよ。
家に帰りたいんですね。
これがホームシックって形になってるんだけれども、
ホームシックってしばしば
日本食をやだらみんなと
日本人とだけ食うっていう
奇妙な形で満たすんですけれども、
それはこういう事情によるんですよ。
つまり、無意識の方としては、
やっぱり親に甘えたいというものを
取り戻す形を取りたいんですね。
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だからケアをされたいわけですよ。
というか、自分のケアを
自分にさせたくないわけです。
この話、タスク管理では
私は非常に
しょっちゅうとか
常時とは言わないまでも
頻頻と耳にする、目にする
光景だなって思ってます。
自分は自分のケアだけが
うまくいかないと。
会社にはいけるし、
仕事もできるし、
自活するぐらいの
十分な知識等、
不動産の手続きとか、
役所に行っての手続きとか
全部できるのに、
自分のケアだけが全然できません。
このパターンには
相当、この情緒的な
不全感というものが
絡んでいるケースは
少なくないと。
ただ、その一つ一つに
いちいち、いちいちと言いますか、
いちいちと言っては申し訳ないんだけど、
でも、いちケース、いちケースに対して
全部今みたいな話を
探っていくとなると、
全員のカウンセリングを始める
みたいな話になっちゃうんで、
はっきりと、おいそれと手渡しを
させないなっていう
面があります。
あと、もちろんもう一つ、
生活能力、スキルの問題そのものであるケースも
少なくはないですからね。
ただ、私は大学時代に
一人暮らししていたこともあり、
生活能力に関しては
別に問題なかったんですよ、
日本では。
アメリカに行った途端に
低下するはずないんで、
さっきの話の続きだから、
つまりこれはですね、
家に帰りたいという気持ちがですね、
情緒的にあって、
しかもそれは、
情緒が無意識の方に
押し込められてしまっているために
分からないんですよね。
何かにつけて自分のケアというものを
サボるその理由、
全然やる気がしなくなるその理由が
分からないんですよ。
私は幸い、接触障害みたいに
非常に極端な形では出なかったんで、
でもゴミ屋敷みたいな部屋をしちゃうとか、
自分の家にいた頃には
考えられない現象、
日本にいた頃には
そういうのが発生していたのが
非常に不思議な感じがあったんですけど、
今思うとよく分かります。
それから自我心理学を
アメリカで習った段階で
分かれよって話なんだけど、
分かんなかったんで、
多分こういうことっていうのはですね、
やっぱり無意識の力ってある意味
すごいなと思うんですよね。
目隠しされているようなもんですよね。
自分のことに関しては盲点が大きい。
だからこそ精神分析では
実際にカウンセリングとか
他人が指摘するということの
強調するんだと思う。
自分で気づくのは
本当に難しい面があります。
家中のど真ん中にいるときはですね。
今の話、つまり掃除ができないだとか、
あるいは役職の手続きができないだとか、
発達障害だとか、
この発達障害って言葉も意味深ですよね。
何の発達が障害されているんだろうって。
私は無意識に近い領域における
24:03
Sと情緒の発達の問題の
発達障害なんじゃないかとしか
思えないんですけどね、今ではね。
あれが注意欠如の問題だとか
記憶障害の問題だと
捉えない方がいいんじゃないのかなっていう。
こういう話をすると
物理を醸すのかもしれませんけれども。
でもどうして情緒の発達障害という説明じゃ
ダメなんだろう。
むしろそう思うんですよ。
同じことじゃないですか、ある意味。
それが知性の発達とか
記憶の問題っていう風に考える方が
今どきトレンドに合ってる
っていうのは分かるんですけれども
そう捉えなければいけない理由っていうのは
僕にはよく分からないんですよね。
自分に関して言えば
情緒っていうのは
切り捨てられやすいんですね。
なぜなら、そういうことは
ある程度は我々は必要とするからです。
この番組でも言った
隔離っていう問題があります。
子供は隔離が苦手です。
つまり隔離っていうのは
分離でもいいんですけど
今言ったように情緒と状況に合わせた行動を
分離すると
今授業中だから
算数の勉強をしましょうと
いうのが子供は苦手なんですよ。
これはもう分離
隔離の問題でしかないわけですね。
脅迫防衛って言うんですけれども
分離の防衛です。
こうすることで
つまり自分の心の中のSを
自分の自我から切り離すことで
多少ですよ。
バッチリ切り離しちゃったらダメですけど
多少切り離すことで
友達とおしゃべりをせずに
先生の話聞きましょうってことが可能になる。
そうしたって
全然なくてもいいっていう考え方も
あるかもしれないけど
結構無理があると思います。
先生の力量っていうのが
さらに上げなければならないみたいな
いろんな問題が起こるから
ただここでできなければいけないのは
つまり情緒の分離って話だから
ある意味情緒が満たされるっていうことが
後々満たされるってことさえ分かれば
これできるようになるんですよ。
つまり
情緒の満足が得られてるかどうかは
情緒の分離が
出し入れできるかどうかと
大いに関係があるわけですね。
やっぱり満たされてもいない段階で
家を飛び出してしまうから
接触障害にもなるわけです。
それは無意識のほうで
まだ無理だよねっていうことを
言ってるわけですよ。
つまりまだまだ情緒的に
十分満たされる必要が自分はあるよねと
感じているわけですね。
こっちが抑圧されやすいわけです。
で、残念ながら
そういうことが起こるご家庭ではですね
余計そういう事態を招きやすいわけです。
必ずしも育て方が悪い
ってわけじゃないと思うんだけど
やっぱりさっきのような
極端な態度っていうものがあるわけですよね。
小屋は取りがちなんですよ。
割とね。
忙しかったりすると特にそうです。
私の言う通りにやってれば
全部世話してあげるけど
私の言う通りにやらないんだったら
もう知らないからっていうような
そういうこと本当にするわけじゃないんだけど
そういう言い方を頻繁にするってことは
27:00
起こるんですよ。
で、そういう風に言われてしまった場合
やっぱりその人としては
情緒を切り離したくなるんですね。
それでも親に甘えたいと思っている限り
親の言いなりにならなければならない
という恐怖心が高まってくるので
その時には当然
自立しなければいけないっていう
社会的要請とか
自分の中からの要請
これに性欲も手伝ってくるんで
ここでフロイトが性欲ってものが大事だ
っていう風に言ってるんだけれども
ここも必ずしも
大いに誤解されてますよね
なぜ性欲で接触障害になるんだ
今みたいなからくりがあるからなんですよ
性欲は関係があるはずです
どう考えても
自分が女性らしくなるとかは
特にこの場合問題になります
女性らしくなるということになると
新しい人間関係を作って
そっちで新しい家族を作る可能性に
道を開くじゃないですか
情緒的に親にくっついていたい
本人が
女性らしくなるということになると
情緒的に親にくっついていたい
本人の無意識の部分では
それは絶対に認められないですよね
だから身体的に発達したくない
ということになれば
食べさせたくないという結論に
出てもおかしくないわけですよ
痩せ細って
男だか女だか分からないような
肉体で
親のもとに戻ってくれば
親は優しくしてくれるはずだ
っていうことなんですよ
これが赤ちゃん帰りっていうものを
生み出して
生み出すんですよね
また元に戻ると
さっき言った通りの流れがあるわけです
これが僕は掃除とか
とにかく自分のケアに関することですね
身体ケアに関する
あらゆることに
割とまとわりつきかねないところがあって
だから外的な要因に
外的な要請からのことは
仕事に行くとか
会社に行くとか
そういうことはできるんだけれども
これが自分一人だけにしか
関係ないことになってくると
そして部屋が荒れ放題になっていて
可燃ごみの火がことごとく
なぜか抜け落ちるみたいな
とっても不思議な事態を招くと
いった時に
接触障害的な今のようなコンテクストで
見てみると
意外に見えてくるものが
たくさんありますよと
ここでもう一つ付け加えるならば
ここにライフカッコを投入しますよね
リマインダーをセットするとか
いろいろあります
それでうまくいくときは
それでもいいんですよ
その時気を付けておいたほうが
いいと思うのは
つまりそれによって
満足させられていない部分については
どうだろうと
だから私はその時に
何の関係もないようなんだけれども
肉親とか親と仲良くしておいたほうが
無難ですというような
言い方をしたくなるんですね