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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいまですね、9月23日、金曜日の朝の9時です。
これは何の日なのかな?週分の日なのかな?
その辺で祝日ですね。
今はですね、この収録に関してちょっといろいろ実験を試みておりまして、
ずっとここのところ言っている、下で録る、上で録る問題、今は下で録ってるんですよ。
多分音声的には上で録ってるのとそんな遜色ないはずなんですけど、
ただこのやり方は、すごい無理やり感のある方法で、
とはいえ、これでうまくいけばいいなっていうのをですね、ずっと考えてはおりまして、
まあまあ、いろいろと思うところはあるんですけどね。
これでいけるといいかもなーって思いつつ、
この形どうなの?と思いつつ、難しいところではあります。
それはそれとしてですね、
前回の、おそらくこれを聞いている方には、先週の木曜日になると思うんですけれども、
HSPと反動形成という話をしまして、
この説明の仕方がしばらくはいいスタイルだなと思うようになりました。
私、自我心理学の話も、そもそもですね、
まあでもこの話してると長くなるんだけど、
そもそも精神分析ってすごい伏せてきてたんですよ。
実は私は、これは別に選手権とか知的財産権とか一切ない話なので、
そんなことを言うことに意味は全くないんですけどね。
2007年か8年にタスクシュートを最初に大橋哲夫さんに使わせていただいていた頃に、
もうこれは自我心理学で説明つくなっていうのは直感的にはあったんですよ。
なんだけど、もうダメだダメだ、これはもう絶対言っちゃいかんみたいに思ってですね。
思ってっていうか、はっきりとは思ってなかったんですよね。
もうそれ以前、これを抑圧って言った方がいいでしょうね。
もうまさに抑圧して、まず行動科学で説明しきろうと。
無理だったら認知科学を導入して、
まあ無理だったら認知科学の話はすぐ持ってきたんですけどね。
この2つで格好がつくだろうと。
この格好がつくというのはね、当時はすごい死活問題だと僕は思い込んでしまっていて、
フリーランス成り立てだったからっていうこともあるし、
私大変気の弱い人間なんで、あれなんですよね。
もう人ともし、みんなそうなのかもしれませんけどディスカッションなりする場合は、
自分の立場が絶対守れる条件というものを意思した上でしかやりたくないというところがあって、
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当時の潮流から考えて精神分析をここに持ち出すことほどリスキーなことはないと。
面白がられるとは思ったんですね、多少は。
でもそんなリスキーなことはできないと思って。
本当だって日々月々の収益さらどうなるかまだまだわからない状況だったし、
スピードハックスとか出る以前か書いてる最中みたいな感じで、
こんなんで生きていけるのかなって本当思ってましたから。
その頃に精神分析なんて口が裂けても言えないっていうのがあったんですよ。
今だいぶその辺の時の心理状態を思い出しつつあるんですけど、
だからもう絶対フロイトは言わない。
全部好きな好きな好きなみたいな感じで。
あるいはダニエル・カーネマンとか、懐かしいと思いません?
私の話を最初の頃にちゃんと読んでくださっていた方には、
この種の言葉しか出てこなかったと思うんですよね。
もう一人のダニエルもいるんだけど、
幸せはちょっと先にあるみたいな本を書いてた人ですね。
認知社会心理学の方で説明をすると、
もうすごい格好がついたんですよ。
ダン・アリエリとかね。
だけどローバイ・マウスターとかもいましたよね。
自我消耗とか言ってた人ですよ。
で、MPとか。
MPっていうのはちょっと認知心理学の用語ですらないんですけど、
ああいう話をしている限り安全だという感覚がね、
はっきりあったんですよね。
なんですけれども、ずっとそれでやっていて、
もうある意味、なんて言えばいいんですかね。
まあなんて言うのかな、その枯渇感があったというのか。
ずっとこういうことを、
ネタが古くなったとかではないんですよ。
むしろネタは最新感があったんですね。
その認知神経科学、つまり脳科学と認知を組み合わせたような、
なんか格好良さそうじゃないですか。
何なんですかね、この時代の状況と合ってるというのかな。
コンピューターアナロジーなんですよね。
IT、コンピューターというものと人間の脳をアレゴリしていると。
その発想は実に無理があるんですけど、今思えばね。
無理があるんですよ。
なぜなら人間の脳はコンピューターじゃないですからね。
生物なんで、しかもその作りもすごくコンピュータチックではないんですよね。
まあまあ、でもそういうのが受けていたし、
おそらく今はでもそっちの方やった方が絶対受けるだろうなというのはあったんだけど、
無理があるんですよ、やっぱり。
それだとほんの一部しか説明がつかなくて、
特にタスクシュートとはあまり相性が良くない部分がある。
相性がすごい良い部分もあるんですよ。
好きな行動主義で学習ということで説明するとね。
でもあそこにはタスクシュートってやっぱり生々しくなってくるんで、
人間がやってることですからね。
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その意思と選択というものとその限界みたいな、
これをやるっていう風に決めても全然やれずにどんどんダラダラしちゃうみたいな、
それがすごくみんなが嫌な話なわけじゃないですか。
夏休みの宿題が8月30日に迫ってますと、
読書感想文あと2冊分と日記が全然真っ白でみたいな、
そういう話ですよね。
ここに認知科学を投入してもできない理由が出てくるばっかりで、
どうすればいいっていうのがほとんどないんですね。
ほとんどなくなっていくんですよ。
せいぜい自我消耗を避けるとか、
だから夜寝るとか、それは良いんですけどね。
夜早く寝るとか、午前中に仕事するとか、
それは良いんだけど、
午前中に仕事できなかった時は絶望するしかないのかみたいになってきて、
そういう時にいろんな理屈をこねくり回すんだけれども、
やっぱりちょっと無理があるんですよね。
報酬っていうのは一番良くて、
だけれども報酬も自分で自分に出す報酬っていうのは、
僕この話よくしましたよね、昔。
報道科学の報酬で、
ネズミがレバーを倒すとチーズがもらえるからレバーを倒すように本を書こうって、
いいんだけど、いいんですけど別に。
それは別に本書かなくてもその報酬食べれちゃいますよね。
だから結局ストレシズムっていうのがどこかで出てくるばっかりで、
そのストレシズムが発揮できないんだよって話を始めると、
堂々巡りでシンガクランソーみたいになっていってしまうんですね。
そこにHSPみたいな話が出てくるわけです。
上司に叱られて、それがもう頭の中をグルグルして、
お前あれ何やってたんだ、どうしてくれるんだみたいなのが
頭の中でこだまして仕事になりません。
これはタスクシュートと相入れないっていうような話ではなくて、
筋の違う話だなと。
タスクシュートにはそういう、なんて言えばいいんですかね。
そういう時にできないという記録を残していくことすら辛いみたいだね。
なってきた時に、その辛さどうしたらいいんですかという話は、
なんて言えばいいんですかね。
いくら家計簿を眺めていても、その答えは出てこないわけですよね。
せいぜいものすごい厳しい状況になってしまうよ、このままではということで、
そんな辛い状況でも一年復帰してちゃんと仕事しようよみたいな、
そういう辛さの二重句みたいな方面から責めるっていう、
僕がそういうことを考えているうちにだんだん自分が嫌になってきたっていうのが、
すごくざっくり説明した2017年付近の危機だったわけですけども、
実際そんなにものすごいリスクがそこにあったわけでは全然ないんですけどね。
でもいろんな指示、主に指示がゴタゴタしたので、
だんだんこの路線で行くのが嫌になってきたっていう、
追い詰められるから仕事するっていうのは人間ありますけれども、
動物はみんなありますけれどもね、
ガケプチンに追い詰められれば弱っちい動物もすごい頑張るんですよね。
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それはあるんですが、いざとなったらこれで全部乗り切るっていう話になるのは、
リアリティはあるけど、ちょっとやってられないなみたいなのがやっぱりあったんですね。
このやってられないなと思ったのは私の自我なんですよ、
という説明をしたかったんですよね、やっぱりね。
この説明を伏せていると、いつまで経ってもこれが出てこらない。
ロンアイマイスターか、あの人の本何でしたっけね、
マシュマロテストと一緒に話題になった、
一番タスクシュートのMPという説明にはうってつけだったのを書いてくれた人なんですけど、
彼が自我消耗って書いたんですよね。
あれが実は一つの呼び水には僕はなったと思うんです。
彼の書いていたことは全然精神分析的って感じはしないんだけど、
やっぱりアメリカ人なんで、
アメリカで心理学を少しでも感じた人は絶対にフロイトに行き着くんですよ。
アメリカにおけるフロイトの地位の高さっていうのは、
日本人が考えるイメージとは全然違うレベルなんですね。
もう何て言うんだろうな、もう大統領レベルと考えてもいいぐらいなんですよ。
伝説の人なんですよね。
あのあれですよ、七島さんみたいなもんです。
ミスターなわけですよ、フロイトは。
もうだから、フロイトをスルーしていくっていうのは比較的無理な話であって、
だから好きな行動科学とか認知行動療法って、
日本では精神分析にとって変わる新しい考え方みたいな感じがするじゃないですか。
全くその通りなんですけど、
あれはアンチフロイトっていうのがすごく強くあると思うんですよ。
というか、あるんですね。
アンチフロイトだからこそ勢力を伸ばしているってことは、
つまりアンチ巨人と同じで、
敵がいるからこそ自分もでかくなれるっていうようなものであって、
日本人がイメージするそれとはだいぶ違うんですね。
つまり精神分析っていうのは、
どうにせよ今のところは絶対絡んでくると、
アメリカ発のものであればね、
心理系は絶対絡んでくると思ってないとダメなんだと思うんですよね。
そこから逃れられているものがあるとすれば、
脳科学ぐらいでしょうね、アメリカにおいては。
まあまあそういうことがありまして、
自我消耗っていう言葉も多分どっかで僕は呼び水にして、
そしてまあ最大のは何度も言ってる通りウッドバイブスなんですよ。
これで世の中を信頼していくっていうことになったら、
自分はフロイトを伏せるってことしなくていいなっていう、
自然そういう話になっていくんですね。
もうそれぐらい伏せていたいという気持ちがなくなってきてたわけです。
昨日の僕にとっては、
先週のこの番組でお伝えしている反動形成とHSPっていうのは、
僕にとっては一つのちょっとした到達点だったなっていうのを聞いてて思ったんですよね。
こういう説明をやっぱりできるようになったっていうのは、
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精神分析、この場合は自我心理学ですけど、
開放した一つの実績みたいな、
収穫だったということですね。
つまり自我が弱くなるというのが、
自我心理学っていうのはそこですごく説明をしてくれるので、
大変助かるわけです。
少し言うとMPが枯渇するとか報酬が不足しているという説明をするよりは、
いやいやあれは自我を助けてくれてるんだよっていう風に考えた方がさっくりいくんですよ。
なぜお前そんなのを今までずっと伏せてたんだって思われるかもしれないけど、
2007年段階における日本におけるフロイトみたいな言葉のダークなイメージときたら、
ダークっていうのかな、それを持ち出したらもう占い師だよねみたいな、
そういうイリュージョンなんですよ、ある意味では。
イリュージョンとは言い切れないけれども、
そういう世論をものすごい気にすると絶対ダメだって感じがしちゃうんですよね。
今だって別にフロイトの社会的地位が日本において上がっているとは少しも思わない。
むしろさらに低下している気もするんだけど、
一つにはやっぱりアドラー心理学が、アドラー心理学とは言わないと思うんですけどね、
ユング心理学とは言うんですよ。
ユングってすごい人なんですよ、ある意味。
ビッグネームっていうよりは異常なほどの魅力を持っているから、
ユング心理学って言葉が出るんですよ。
そう思いません。
佐々木心理学とか言い出したらもうなんか絶望的にやばい感じがするじゃないですか。
でもユング心理学って言いますからね。
あんまりフロイト心理学とも言わないと思うんですよ。
そういう魅力が彼にはあるんだけど、
彼の一派なんじゃそんなにデカいのかっていうとそんなことはないんですよ。
日本ではね、嫌われる勇気以来、アドラーの有名度知名度って一時沸騰したんで、
あれでフロイトがもうある意味完全に影に隠れたような不思議な現象が、
これ多分日本の現状ですからね、起こりまして、
これが非常にやっぱりある意味フロイトの話がしやすくなったかなっていうね、
みんなに忘れ去られちゃったから今だったらむしろ話ができるぜみたいな、
そういうのがちょっとありますよね。
あとはやっぱり僕が吹っ切れちゃったっていうのが大きいと思います。
これがやっぱり僕の中年の危機の一つの収穫ですよね。
もちろんグッドバイブスのおかげなんだけど、
そういう危機がなければ多分こういうことにはなってないとは思うんで、
一つのきっかけには大きなきっかけというか収穫にはなったと思うんですよ。
で、自我が弱ってしまうわけです。
私の自我が弱ったようにですね。
倉園さんがよく言うところの罰されると、
罪悪感を持って罰されると、
自分がすごい小さくなって弱くなった感じがするっていう、
あの構図の通りの話が長自我と自我でもよく出てきます。
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長自我がやっぱりあんた悪いことやっちゃったねということになると、
自我機能がぐっと低下するんですね。
ぐっと低下すると何が起こるかというのも、
自我心理学はそういう自我に起きたことを解説するのが大好きなんで、
一項目一項目上げてくるんですよ。
例えば、中でもいろいろありますけど、4つぐらいあって、
中でも例えばHSPなんかで話題になりやすいのが、
エゴバウンダリーというものが曖昧になる。
これは自我境界って言うんですけど、
自我境界が曖昧になるっていう人はやっぱり、
生活すごいしにくくなるわけです。
あまりにもそのレベルが極端になると妄想になってしまうので、
いわゆる病気など。
こういうふうにして自我心理学というのは、
統合症症なり鬱病の説明というのができるわけですよ。
もちろん、他の今の認知行動療法でもできますよ。
それは脳から説明するというのも言ってもできるんだけど、
私はこの自我の機能が低下します。
だから自我が通常なんなくこなしていた、
それこそ息をするようにできていたことが、
何か息苦しくなってくるんですって説明は、
全然今でもないんですよ。
大体そういうふうに思われていると思いますしね。
例えば自我機能が弱ってくると、
現実検討式が下がるわけですよ。
だから夢を見てしまう。
それを昼間に見てしまったら妄想ですよね。
全く意もしないものがそこら中にいるとか、
誰にも聞こえない声がその人だけに聞こえるとか、
そういう状態になってしまう。
そういう夢と全く同じ現象が起きている真っ最中に起きたら、
これは妄想ということになるわけですね。
じゃあどうしてそういうことをせずに、
つまり夜寝るとあんなに簡単に夢見るのに、
昼起きている時には白昼夢バンバン見る人ってほとんどいない。
いないから運転どこだしてられるわけですよ。
その辺で白昼夢バンバン見ますって言ったら、
あんな運転免許証があるときは、
あんなに簡単に夢を見る人ってほとんどいない。
白昼夢バンバン見ますって言ったら、
あんな運転免許証1本で運転なんていう危険なことは、
到底やれないですよね。
つまり自我機能というのは、
我々を全く意識していないレベル、
これが無意識のレベルなんだけど、
でもちゃんと働いていて、
たださっきのクラゾンさんの言うところの、
罪悪感で罰されるというのをめちゃくちゃ強くやった場合、
めちゃくちゃ強くやった場合ですよ。
めちゃくちゃ強くやると、
ものすごく自我機能って低下して、
白昼夢を見るようになっちゃうんですよ。
つまり現実検討式がぐっと低下するってことは、
そういう事態をもたらすわけですね。
これはまずいですよね。
で、タスクシュートってどんなことをやってるかっていうと、
さっき何をしました。
これから何をします。
今何をしましょうかっていうのが目に見えるじゃないですか。
これ現実検討式ですよね。
現実検討ができているっていうか、
サポートしてくれてますよね。
昨日はこういう1日を過ごしました。
そういうのが見ようと思えば目に見える。
これは現実の検討能力というものをサポートしてくれてるわけですよ。
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今私はどんな状況にあるんだろう。
8月29日ですと。
間もなく夏休みが終わりますと。
宿題全然やってません。
これが私の置かれている状況ですよね。
自我が弱くなってくると、
こういう現実検討式が下がってくるじゃないですか。
小学生しょっちゅう下げてますよね、自分でも。
出ないやるって言うんですけど、
つまり否定するんですよ。
いやいやいやいや。
そんな危機的状況にないからという風に思い込もうとして、
例えばカービィをやるとか、
そういう工作に出るわけですよ。
これで自我機能が低下してるっていうのは、
誰の目にも明らかで、
つまり現実をちゃんと、
よく言うじゃないですか、
現実を直視しろと。
直視できないわけですよ。
直視できなくなってくると、
ごくごく自然にやっていた、
視覚みたいな機能まで下がってくるから、
夢を見るみたいな話にだんだんなってくるわけですね。
私の番組を長らく聞いてくださってる方には、
いやいや夢って確か何か、
起きてる時にも見てるもんじゃないの?
っていう風に思ってくださる方がいたとすると、
それはイギリスの対象関係論の方の話を覚えて、
思い出してくれてるんだろうと思います。
そういう人いないかもしれないけど。
で、私は今自我主義の話をしてるんですよ。
こういうややこしさがあるんですよ。
同じ言葉を、同じ概念を、
違う水準とか、
違うコンテクストで使ってるから、
こういうややこしさが常にあるんですよ。
精神分析の世界ってのは。
しかもどこかでコンセンサス取れてるかっていうと、
はっきり言って私が思うに、
どこかでコンセンサスは取れてないんですよ。
どっちが正しいっていうのがないんですよ。
しかもよく読んでみると、
どっちも正しいんですよ。
だから本当にそういうややこしさがあって、
まだ整理がきっちりついていないから、
これをもう日本人がですね、
フロイドなんて所詮、
所詮って言ったらいけないけど、
オーストリア、ドイツの人ですし、
アンナフロイド、アメリカでずっと頑張った人です。
結局他人じゃないですか。
精神分析って二つになって。
そんなこと言えば、
ユンゴもアドラも他人ですけどね。
スキナーも他人ですけど。
でも要するに日本人がこのややこしくて、
あやふやでわけわかんないものを、
すごく相手にしなくなっていったのは、
ある意味自然のことなのかなっていう気はします。
その自我機能が低下して、
もう一つ非常に問題になるのが、
エゴバウンだり、
自我境界が曖昧になって、
つまりHSPの人がものすごくよく訴えられる、
典型的なやつ。
人が怒られているのに、
私が怒られているような気がしちゃう。
これは長自我の機能の問題とも思うんだけれども、
要するに自分と他人の境界が、
ひどく曖昧になっているわけですね。
これはですね、
いわゆるグッドバイブスの一つ意識とは、
分けて考えておきたいところなんですよ。
この自我境界が曖昧になるというのは、
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やっぱりこう、
自我機能がすごく低下した結果、
起こるのはあんまりよろしくないんですね。
一つ意識でも確かに似たような状況というものが、
誇り得ると思うんだけど、
自分と他人の一致というものがあるから。
だけどその時は、
私が思うにグッドバイブスという一つ意識というものが、
実現するというか成立する時の自我は、
やっぱり機能低下を招いてはいないと思うんですね。
機能低下を招いては何でもできちゃうんですよ、ある意味。
よくあるじゃないですか。
お酒をたらふく飲むというか、
ベロンベロンに酔っ払うと、
なんかみんなと一体になれたような気がする。
つまりあれは自我機能が低下してるからなんですよね。
でもその状態で運転したらもう最悪じゃないですか。
自我機能がやっぱり完全に低下したまま、
アルコールというのは自我機能を明瞭に低下させる機能、
効能を持ってるんで、
そのためにある意味飲むようなところがあるんで。
だけど自我機能がそのやっぱり、
低下した上でのエゴバウンダリーが曖昧になるというのは、
まずいんですよね。
高梨さんという方が自分はHSPか発達障害か、
その辺で人に怒られるのは大変つらくて、
っていうお話をされていて、
非常に良心的なお話だなと思ってたんですけど、
タスクシュートとは別に、
タスクペディアっていうのを企画されてるんですね。
その中に私は非常にエゴバウンダリーを連想させる、
一つの重要な機能があるんですよ。
どっちにボールがあるかをはっきりさせるっていうのがあるんですね。
つまりこのタスクは今私の管轄下にあるのか、
それとも今相手が作業を進めるフェーズにあるのかを、
はっきりさせるっていう機能があるんですね。
それどっちにボールがあるのかを、
刀、スターなりをつければ済むんで、
やろうと思えばタスクシュートでもやれないことはないんでと、
私はこの機能をタスクシュートに持たせる必要って、
あんまり感じないんですね。
それは今言った通りなんですよ。
エゴバウンダリーというものなんですね。
多分高梨さんの中では自我境界というものに対する、
自分なりの不確かさみたいなものを意識されている。
これは私より自我境界が曖昧だとか、
強いとかはっきり分かれている、いないな話というよりは、
意識な問題だと思うんです。
私だって自我境界についてよく考え始めれば、
いやいやこれは私のかあの人のか分かんなくなるみたいなので、
私たちそういうことよくあるじゃないですか。
HSPの人の言う、例えば上司にすごい怒られて、
夢にまで上司が出てくる。
これ完全に自我境界が狂ってるわけですよ。
その上司って他人なんですか、自分なんですかって問いに対して、
微妙な答えになっちゃうんじゃないですか。
そいつ今頃パフェでも食ってるよっていうのはそういう意味なんですよ。
その人はあなたの心の中にしかいないんですよ。
外にいる人とは別なんですよ。
これが自我境界がはっきりしてるっていうことなんですよ。
2、3歳の頃からはっきりするようにどんどんなっていくんだけども、
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私たちもしょっちゅうですね、これを取り違えてしまうんですね。
取り違えるから多分ね、
クレームとかよくわからない言いがかりみたいなのを
人につけたくなってしまうってことも起こるわけですよね。
自我機能が低下していくと、
どうしてもあるいはすごく理不尽な目にあったと思って、
この人とっちめてやらなきゃって思ったときって
必ず自我境界が狂ってるんですよ。
相手の領域と自分の領域がごっちゃになってくるんですね。
心の中の相手と本当に外にいる相手の区別がつかなくなってくると、
そういうことがしょっちゅう実は私たちの心で起きるんだけれども、
その都度自我はですね、いやいやそれ外。
あなたがイメージしてる顔の方は内っていうのを考えれば
ちゃんと気づけるようにできている。
それが自我境界というものなんだと思うし、
無意識にも処理してくれているんですよ、自我が。
ただこれも自我が疲れてきたり弱ってきたり、
罪悪感を持ってもう私無理っていうようなことになるとですね、
残ずに人が入ってきてしまって、
というのはつまりイメージしているものが全部自分になってしまって、
しかもそれが他人であるという意識も残っているものだから非常に曖昧になり、
大抵そういう時はめちゃくちゃ苦しいわけですよね。
ずっと心の中で怒られています。
いや心の中で怒られてるってことは、
あなたの心の中で怒ってるってことじゃないですかっていう、
それが出てこなくなるってことですね。
で、これは自我機能の中でも私は二大重要な自我機能だと思うんですね。
基本的には空気を呼吸をするように、消化をするように、
常に当然やれてなければいけないことだと思うんです。
意識すればできるっていう状態でいいんですよ。
意識してない時もできてるから、
いちいち全部意識してる必要は全くないわけで、
ただ意識すればこの考えは俺のかな、あの人のかなとか、
この感情は俺のかな、あの人のかなとか、
そういうことをいちいち意識する必要は別にないんですね。
でも喧嘩するとすぐ分かるじゃないですか、すぐ分かるというか、
これがごっちゃになるっていうのはよく分かるじゃないですか。
ここで怒ってるのは誰なんだっていうのを考えなくなってくるでしょ。
ただ怒っちゃうんじゃないですか。
この怒りは俺の怒りだみたいなことをいちいち考えなくなりますよね。
これ考えれば少し冷静になれるじゃないですか。
つまりこの感情は誰の感情なの、感情の所有者とかっていう言い方をするんですけど、
これもエゴバウンダリーのすごく重要な機能の一つです。
だんだん分からなくなってくると本当に大変なことになってきて、
子どもにはあるんですけど、お腹すごい痛いのに
自分のお腹が痛いという認識ができなくなることってあるんですよ。
それってもうひたすら苦しいっていう感じになっちゃうんですよ。
私のお腹が痛くなっているっていうのはある意味突き放してますよね。
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お腹の部分だけ別途切り離してるみたいなものはあるじゃないですか。
所有っていうのはそういう意味があるんですよね。
マイストマックみたいな言い方をするじゃないですか。
そういうことができなくなっていく。
マイっていうのがなくなっちゃうんですよね。
そういうことができなくなっていくと、
結局これも妄想みたいな話に最後は行き着くんですけど、
今みたいな説明がタスク集となりタスクペディアに対して
割とスムーズにどんどんどんどん適用していくことができるといったところがですね、
いいところなんですよ。
この自我心理学というものを使えるようになるとですね。
これを封印していると今の話が一切出てこなくて、
MPの話で説明するか、週刊課の話で説明するかだけになったり、
あるいは認知と記憶とハードディスクのアナロジーで頑張って説明するか。
なんかちょっと無理があるじゃないですか。
僕はその無理なことを10年来やってきてしまったので、
無理だなぁとだんだん無理度が上がってきてですね。
最後は放り投げたくなっていったという自我機能の低下を招いたわけですよ。
長い間かけてですね。
どっちに、さっきのタスクペディアに話をちょっと戻すんですけど、
どっちに仕事のボールがあるかというのはまさに自我境界の問題です。
気にしない人は全く気にしないと思うんですよね。
相手が今やるべきフェーズだから、今は俺が手を出すところじゃないし、
それに心を煩わす気もないみたいな。
そういうふうにズバッと認識を持つ。
この認識を持つためには記憶にそれなりの信頼を受けてないとダメですよね。
マイ記憶なわけですよ。
マイメモリーというものに対する信頼をある程度受けていないと、
ここが曖昧になってくると結局同じ問題を引き起こすわけです。
このボールが今自分にあるんだろうか、相手にあるんだろうか心配だというのは、
ここにはちょっと脅迫証明だところもあるんですけれども、
そういう自我境界に対する若干の不信感なり、
自我境界というものは十分ではないということへの強い自覚から、
あの種の機能というものが備わるという、
そういう備えたくなるという動機づけが多分生まれるんだと思うんです。
タスク習得に関連して人の中からこの話が出たことがないということは、
多分タスク習得をやっている人にとっては、
自我境界という問題はあまり開発陣の間では問題になってなかったんだろうなと、
私はそういうふうに大体考えているんですね。
別にそんなことを考えても考えなくてもいいんだけど、
考えるということになったらこういう自我心理学みたいなものの考え方、
精神分析の考え方は大変便利だというお話ですね。