2022-04-12 28:15

【582GMV】ホームズの隣にはいつもワトソンがいる

仕事と遊び
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
連日同じお知らせになるんですが、今週の土曜日にグッドバイブス勉強会をやります。
これはオンラインなので、当日直前のお参加もいただけますので、
無料ではないですけど、無料ではないということを除けば、
何かやりたいというか聞きたいと思えば、いつでも参加できるという、極めて緩くなっていますので、
ギリギリになっていけるとか、数分過ぎちゃったけど暇になったとか、そういうのでもいいかなと思います。
それにカッコつけてというのではないんですが、そのこととの絡みでよく考えるのはですね、
仕事と遊びと、時々話題になるテーマではあるんだけれども、
これは精神分析的な世界なんですよ。
あれはプレイセラピーと言ったりする言葉もあるんですね。
これは主に子ども向けのカウンセリングなんですが、
例えば有名なので、有名ではないかもしれませんが、サンドプレイと箱庭遊びというのがあります。
あれをやっているうちに子どもの症状が取れてくると。
子どもの症状というのはどうしても家族の問題なので、家族の問題がプレイセラピーの中でだんだん見えてきて、
それに結局は新しいお母さんとしての精神分析か、それが女性でないこともありますが、
が関与してきて新しい家族関係がそこに持ち込まれるという理屈っぽく説明するとこんな感じになると思うんですけど、
その時に例のあれなんですよね。
戸畑さんが言う、戸畑海斗さんが言う、いるということができるかどうか問題が出てきます。
このいるってやつなんだけど、僕も昔バイト中に言われたことがあるんですよ。
いさえすればいいという仕事ってあるじゃないですか。
これは時々皮肉で使われるんだけど、例えばある社長さんが常に秘書の、昔の漫画とかそういうのではしょっちゅうだったんですけど、
常に秘書の女性がいるんですよ。
その女性は一体何をしているのかというと、最もらしくでかいファイルとか持っているんだけど、
実は何もしていないんじゃないのかという感じがあるじゃないですか。
最近で言うとですね、相棒とか言う、私は投資で見たことが一度もないドラマなんですが、
私はドラマを投資で見ることはほとんどないんですが、
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もう一人、二人で動いているじゃないですか。
でも二人目の人って何のためにいるんだか分からないような人っているじゃないですか。
ただひたすら間違った答えを出して生き続けることがその人の仕事みたいになってますけど、
でもあの人がいないと、あれはドラマだからなんですけど、
でもあの人がいないとですね、もう一人の賢い方が正しいことを言えないんですよね。
誰かが間違ったことを言ってくれないと、その人は正しいことを言う必要はないから、
全部黙っていることになっちゃいますよね。
ああいう関係っていうものが、これは僕の目線ですけど、
僕の目線ではすごく分析的だと思うんですよ。
精神分析っていうのはまさにある意味こういうもんだという感じさえするんですよね。
普通に考えると分析家の仕事というのはですね、相棒の賢い方だと、
ワトソンとホームズだとホームズだと思われていると思うんですけど、違うと思うんですよね。
ワトソンなんですよ、精神分析家は。
これはちょっと極端ですけど、推理小説ものに例えたから、
間違いなくどっちであると言うならばワトソンなんですよ。
ホームズが病気なんですよ。
これは推理小説のアレゴリーが全部完璧に当てはまるわけじゃないと思うんですけど、
ワトソン役ができるかどうかはすごく大事だと思うんですね。
特に子どもとのプレイセラピーの本とかを読むとつくづく思うんですけど、
ワトソン役なんですよ、やるべきは。
あの役をやってくれる人がいない子は大変だと思いますね。
ものすごく大変だと思います。
あの役は絶対必要なんですよ。
子育て上手にやられているお父さんお母さんとか、
特におじいちゃんおばあちゃんとか、あの役を実にうまくやりますよね。
子どもが絶対に気づかないような形でとぼけることができるんですよね。
頭のいい子ほどとぼけられるということに対するフラストレーションもあるから、
すごくとぼけるのがうまくやらないととぼけたことにならないという、
ほらあの将棋とかトランプとかでわざと負けてあげるってあるじゃないですか。
でもあれ子どもが相手がわざと負けてくれたんだと思うほどダメじゃないですか。
あの役非常に難しいところが難しい人にとってはですね、
簡単な人にとってはすごくあれ簡単なことなんだけど、
難しい人にとってあれすごい難しいことだと思うんですよ。
だから子どもの相手をするというのは、
あれ日本人の方が私はアメリカ人よりうまいなって、
昔からよく思ってたんですけれども、それにも文化的な理由があると思うんですけどね。
甘えの世界なんですが、あのワトソン役が必要なんですよ、僕らには。
あのワトソン役をやってくれる人がいるというのがですね、
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その人の人生ではすっごい楽にしてくれる部分があって、
だから多分秘書の人を送っているのは女性であろうと男性であろうとですね、
そういう意味なんだと思うんですよね。
ここにジェンダー的な目線を投げかけると、いつもそうなんですけど、
この種の問題ってジェンダー的な目線とか、
新自由主義的な目線を投げかけられると非常に危険な感じになっていくんですよ。
ダメな話みたいに聞こえると思うんですよね。
いつも一緒にいる綺麗な秘書上がいますとか、
すごくダメな話に聞こえてくるじゃないですか。
そういう人にはお給料払ってますってわけですよ。
このお給料も非常に重要なファクターなんですけどね。
お給料を払わないということになると、
この関係は家族関係そのものになってしまいますよね。
孫とおじいちゃんだから、ここにお給料を孫が払う必要はないんですよ。
非常に大事なポイントですよね。
お給料を払うということは双方を傷つくって意味になるじゃないですか。
心理的にですよ。
おじいちゃんはわざと負けてくれたから、
お金をあげましょうってことになったら台無しですよね。
これはなぜ台無しになるかっていうのは、
すごく大事なポイントだと思うんです。
おもちゃのお金を孫がくれるとかはいいんですよ。
その辺非常に微妙じゃないですか。
わざと負けてくれたからお金をあげましょうっていうことを
孫が言うとしたら、その孫は病んでますよね。
多分。
でもそういう話に近づいていくところの途中に、
仕事と遊びの境界線ってきっとあると思うんですね。
仕事にそれをするってことは、
お互い傷つくってことなんですよ。
なんか分析的な話になってるんだけど、
カウンセリングでもそうです。
定位性恋愛が一番わかりやすいですよね。
精神分析の女の人に患者さんが恋をしちゃいましたと。
この恋愛感情はほぼ完璧にリアルなものになるんで、
もう先生は分析家とはやめて、
僕と一緒に駆け落ちしましょうって、
こういうことを現実に言うシーンっていっぱい出てくるんですよ。
いっぱいは出てこないかもしれないけど、
でも僕は結構読んだ気がする。
少なくとも十数例は確実にあると思うんですよね、
読んだ中にも。
別にそんな不思議な話じゃないんですよ。
密室で二人きりになる上に、
めちゃくちゃプライベートな話をして、
しかも毎日毎日会うっていう前提じゃないですか。
今はそういうのは少ないかもしれませんが、
少なくとも毎週会って喋ってるわけですよね。
ありとあらゆるほどについて。
それはそうなりますよね。
特に惚れっぽい人とかだったら、
惚れっぽい病理の人とかだったら、
でも全員と恋愛してられないじゃないですか。
先生の方もですね。
どうするのかって問題がありますよね。
ここでどうもしないんですよ。
本当に恋愛をしてしまう。
ただし最後に料金を払う。
これがすごい大事ですよね。
このようにすることによって、
恋愛関係に落ち込まずに済むっていう、
そういうことがあるわけです。
だからこの関係性の中では、
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別に何もしなくてもいいんですよ。
恋愛をしてしまってもいいんですが、
でも触れ合ったりしちゃダメだし、
結局恋愛はできないんですけれども、
ここが非常に大事ですよね。
結局恋愛はできないんですよ。
だけれども、
その時の恋愛感情は、
本当のものにほとんど、
何にも本物との違いがなくなってしまう。
その時に、
でも最後の救いになってくれるのが、
お金を払うということで、
双方傷つくわけですね。
これはお互いの恋愛感情は
嘘っ端だったっていうことになりますよね。
完全に。
そうすると傷つくじゃないですか。
この傷つきってのが大事なんですよね。
現実世界で生きていくっていうのは、
こういうことを常に含んでいるので、
家族の関係でもそうですけれども、
家族の関係でもそうですけれども、
絶対お互いが傷つかないように
家族関係を進行させていこうと思ったら、
その関係は崩壊するしかないですよね。
絶対家族関係で傷つきますもんね。
だから、
さっきも言ったけれども、
孫にわざと負けてあげると。
で、わざと負けてあげるということを
繰り返していれば、
孫はいつか傷つくんですよ。
それに気がついちゃいますから。
じゃあ、孫を打ちまかせばいいのかって、
孫は傷つきますよね。
将棋とかで負ければ、
だから、そういうことって必要なんだけれども、
これが擬似にしておくべきなのか、
リアルにしておくべきなのかってところに、
仕事なのか、遊びなのかっていう要因が
入ってくるはずなんですよね。
このことで、
私がよく思い出すのがですね、
時々このキーワードを入れてしまって、
勝手に入れてるんで申し訳ないんだけど、
でも公開のもんだから、
いいんだと思うので、
そのキーワードを入れてしまって、
そのキーワードを入れてしまって、
勝手に入れてるんで申し訳ないんだけど、
でも公開のもんだから、
いいんだろうと思うんですが、
東北京アラガス研究会っていうのがあるんですよね。
僕はあれ、好きで何度か行ってたんですけど、
僕は行くたびに、
なんで僕は来てるんだろうって思ってたんですよ。
それと、今でも思ってるんですけど、
あれはなんで行ってたんだろうって思うんですよね。
あれは、仕事と遊びの境界線なんですよ。
境界の中にある、
グレーゾーンみたいなものなんですね。
いつも僕は、主催の北さんが、ベックさんがですね、
お金取るのにある種の苦慮があるっていうのは、
すごく面白いなと思ってたんですね。
仕事だとすれば、当然作家費用かかりますよね。
でも仕事だと言い切れるかどうか、
微妙なものだったから、
お金を取るということもまた微妙になってくるんですよ。
でも、お金取らないで会場とか借りられないから、
結局あれは会場とか借りる、
言い訳みたいにしてお金を取るんだけれども、
そうすると経費とかをものすごくオープンにすればいいのかというと、
僕はそこも微妙だと思ったんですよね。
あまりにもこれにかかっているのは何円何円で、
お金は1986円ですって、
かっちり分けてしまったら、
飲み会とかで割り勘なんとかってやる人の話と似てくるんだけど、
これは一体何なんだろうって感じになるじゃないですか。
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少しぐらいそこに遊びがないと、
つまり遊びってのは、
例えば1986円なら2000円ってなると、
この数字の誤差が遊びなんですけど、
そういう遊びの言葉の使い方ってありますよね。
ブレーキの遊びみたいな。
そういうのがないと、
だんだんなんかおかしなものになっていっちゃうんですよね。
なんでここに来てるんだろうってことになってしまうんですよ。
でもなんでここに来てるんだろうって考えないのがベストですよね。
さっきのお孫さんと同じで、
なんで僕は勝てたんだろうって考えないのがベストなんですよ。
それ考えるようになってしまったら、
だんだんそれは台無しっぽくなってるんですよ。
じゃなかったら仕事じゃなきゃいけないんですよね。
仕事になってしまったら、
もう全然ダメなわけですよ。
東京楽研究会もそうなんですけど、
あれを仕事でやるようになったら、
多分雰囲気もニュアンスも全然違うものになってくるんですよね。
役に立つのか立たないのかって話じゃないですか。
特にライフハックなんだから。
でも役には立たないんですよ。
こう言ってしまったら申し訳ないんですけど、
多分僕は役に立つからあそこに行って、
仕事術の勉強するんではないんだと思うんですよ。
じゃあそれは100%遊びなのかというと、
それもまた微妙じゃないとダメだと思うんですよね。
あれが完全におままごとですってことに
カチッと決まってしまったら、
多分来る人は3分の1以下になっていくでしょう。
お金を払うかどうかの話も
はなはなややこしいことになっていくに違いないんですよ。
僕はよく思い出すんですよね。
カウンセリングというものは、
いかにそこでカウンセラーとクライアントが
遊ぶことができるかという人って何人もいるんですよね。
それはもう100%正しいと思うんですよね。
でもお金は取る。
カウンセラーは仕事でやってる。
そういう世界ってあるじゃないですか。
居酒屋とかはそうですよね。
居酒屋もそうなんだけど、
生産効率というものを重視する人とか、
もっと言うと新自由主義っぽい人とか、
あるいはジェンダー的な話をする方とかに
掃除であまり評判が良くないのが
あの空間なんですよね。
会社の飲み会とか、
一部の人間だけが楽しんでる。
あれはそういうもんじゃないと思うんですよね。
あれは仕事の延長なのかというと、
それっぽい面もあるんですけど、
やっぱりそういうもんでもないと思うんですよね。
あれじゃあ100%遊びで、
参加完全に自由にしたらあんなに集まるかといったら、
もちろん絶対あんなに集まらないですよね。
つまりあれはどういうことなんだろうという話なんですよ。
ただ僕らのきっと人生で、
あの種の要素を減らして削りに削り取っていった後に残るのは、
一部その状態にものすごく適応している人だけはいいかもしれないけど、
ほとんどの人は非常に困った状態に
心理的には追い込まれていくだろうなって感じがします。
そして一部これに完全に適応したと信じ切っている人は、
この種のものはなくていいんだという主張すら取り上げられてしまったら、
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これは私はすごく大事なポイントだと思っているんですけど、
俺はああいうのに絶対に参加しないから、
他の人間よりも効率性において仕事ができるという点において
優位に立っているんだという気持ちすら奪い取られてしまったら、
多分その人は僕の考えなんですが、
脅迫神経症的な問題に悩むことになるという気がします。
多分ですけどね、全員がとは言いませんけれども、
でもごくごく少数の人を除けば必ずそういう風になっていくと思います。
そしてその種の人であってもですね、
これは決して悪い意味で言っているんじゃないですか、
その種の人であっても相棒を必要とするんですよ。
で、その相棒というのはだいたいワトソン役をやってくれているはずなんですよね。
で、その例えばあの相棒もそうですけど、
ワトソン役は何の役にも立っていないじゃないですか。
少なくとも推理上の役にはほぼ立っていないですよね。
だからといってあの人を切り捨てると、
多分やっぱり脅迫神経症っぽい問題に入っていく気が僕はするんですよね。
まず何よりも、いわゆるこの分析で言うところの
環境としての母親を失うことになります。
これが絶大なんですよ。
秘書が女性に対して、
秘書が女性であるのも同じ理由なんですよね。
だからここにジェンダー的な問題が絡むんですけど、
実は秘書は男性でもいいと僕は思うんですよ。
要はその人が環境としての母親、
ワトソンがやっているのはそれですからね。
環境としての母親なんで、
それをやってくれないと推理は働かなくなるだろうなって思います。
そういう話にならないんですけどね、絶対。
推理小説は。
じゃああれは有能なスマホとか、
スマホのようなロボットで代替が効くかというと、
能力的には効きます。
でも情緒的に効かないんですよ。
甘えさせてくれているという認識を人は、
でもここは難しいんですよね。
そのロボットが様子的に、見た目的に、
全ての意味で人間そっくりで、
これは不気味の谷みたいな話になってきますけど、
そっくりになった時にも、そのロボットでは代替が効かないかというと、
効くかもしれない。
ここはちょっとよくわかんないなというのが正直なところです。
でも僕は無理なんじゃないかなという感じがします。
それくらいだったら人は、むしろ猫を好むと思うんですよね。
つまり、仕事の役に立ってほしいわけじゃないってことですよ。
何にもできなくてもいいんですよ。
何にもできなくてもいいから、常に一緒にいてくれないと困るんですよ。
この一緒が有能であると、なおいいんだと思うんですけど、
はっきり言えば、ある種の約束を確実に守ってくれさえすれば、
ほぼ無能でも差し支えはないと思うんですよね。
無能である方がいいっていう考え方もあるような気はするんですよ。
さっきの孫の話と同じなんですが、
でも有能である方がいいケースも多いだろうなと、
それは仕事の中身にもよると思います。
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ただし、お金を払わないのはダメだと思うんですよね。
お金を払わないと多分その関係を維持するのは、
相当ややこしいことになっていっちゃうような気がします。
結局、精神分析はまさにそうで、
定員性恋愛がスタートしたときに、時間もお金もルーズにしていたら、
駆け落ちしちゃいますよね。
そういう可能性は十分あると思うんですよ。
相手の相性とかにもよると思うんだけど、
そういうことはあり得ると思うんです。
だけれども、ギリギリのところで踏みとどまるためには、
まず時間でズバッと切ると。
で、お金をもらうと。
それを確実にしていれば、
それが恋愛でないということに、
いつか人は必ず無意識の方でも納得せざるを得なくなっていくというか、
そんなに簡単にいかないんですけど、
結局でもトータルのカラクリはそういう風になっているに違いないと思うんです。
東京アラヒ研究会もそうで、
やっぱりあれ無料参加にしてしまったらアウトだと思うんですよね。
無料で参加できますということになって、
誰かパトロンかなんかがお金をくれます。
これもちょっと違う形態なんだけど、
でもそこのお金は何とかなっています。
大抵の人は無料で参加できるんですとなったら、
僕はこれは多分相当つまんなくなるだろうなという気がします。
だからといって、あれは何の役に立っているんだろうと、
みんなも疑問に思い始めるというのもダメだと思うんですよ。
そこがすごくややこしいんですけれども、
役にはきっと立たないんですよ。
でも無いと困るんですよ。
ということは役に立っているということなんですよ。
会社に行ってすごく大変で、
めちゃくちゃ怒られて帰ってきて猫がいると。
この猫は仕事の役に立っているのかどうかって話ですよ。
究極的に言うとですね。
それはないんだけれども、
いないとその人が会社に行くこともできないんだったら立っているんですよ。
こういうものが世の中にはわんさかありまして、
これをメンタルの弱さとか言い始めると崩壊していくと思うんですね。
この種のものがなくていける強い人っていないはずなんです。
自分は大丈夫だと思っている人は、
その人の心の中でどれほど環境としての母親が頑張ってくれているかということに
自覚がないという意味なんですよ。
その自覚がどれほどなくて表面的に現れていないように見えても、
実際には私はこれは30から50の間に納得できたことなんですけど、
そんな人はいないんだなということが分かってきたんです。
自分は一人でやっていけるし、飲み会とか参加しないし、
あいう戸裏県みたいなところにも全然行かないし、
いつも一人で大丈夫だっていう人はいるんですけど結構たくさん。
そういう人が何の役にも立たない相棒を何らかの形で持っているんですよ。
極論人間じゃないケースはあると思います。
でも少ないと思うんですよね。
そしてその中でうまく隠されているんですよ。
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つまりおじいちゃんなんですよ。
孫にまげてくれるおじいちゃんなんですよね。
うまく隠されているんですよ。
その人自身に気づかれない形でそれは進行しているし、
周りの人にも指摘されない形でそれは進行している。
だけれどもそれはあくまでもからくりというのか、
一種のお芝居の中で進行している何かであって、
決してそれが存在しないってことではないんですよね。
それを確実に剥ぎ取っていっても、
リアルには例えば収益というか、
そういう意味では問題は起きないんですけど、
その人が急に寂しくなったりはしないと、
そういう意味ではそうなんだけれども、
でも何かまずいことが起きる。
例えば急に全く仕事をする気がしなくなるとか、
そういうことが起きるんですよ。
でもその人は多分それが環境としての母親の
刺激物を失ったせいだとは考えることがなくて、
何か競争剤でも飲むということで問題を解決しようとして、
話が一向に進まなくなっていくんだと思うんですよね。
仕事がって言えばいいのかな。
環境としての母親を刺激するためのものなんです。
最終的には。
秘書上そのものが環境としての母親として機能すると言ってもいいんですけど、
より厳密に言うときっとそうではなくて、
秘書上さんが仕事をするにせよしないにせよいるということが、
その社長としての母親としての環境としての母親の
機能がその社長の心の中のお母さんを機能させるんですね。
心の中のお母さんを機能させるというのはつまり、
その社長のニードをニーズに変えてあげるということです。
その秘書上がいないとニードがニードのままになってしまう。
ニードがニードのままになってしまうということは、
すげー不愉快だ以上ってことになっちゃうんですよ。
すげー怒りっぽくなるとか、眠ることもできないとか、
そういう話ってよく聞くじゃないですか。
ある種の人が戻ってくるとピタッとそれは収まって、
ちゃんと仕事に邁進できるようになると。
それはその人の毎回としているというのが一番近いのかな。
たぶんその人じゃなくてもいいんですよ。
ニードをニーズに変えることに成功しさえすればいいわけだから。
ニードをニーズに変えない限りニードは絶対満たされないですからね。
自分が喉が渇いているという認識を持てなければ水を飲むということはできないので、
ただ不愉快なだけっていう状態が永遠に続いてしまう。
そんなことにはなりませんけれども、
でも仕事をするっていうのはよっぽどですよね。
よっぽどニードをうまくニーズに切り替えてあげないと、
一体この欲求を本を書けばいいのか、漫画を書けばいいのか、
ポドキャストで喋ればいいのか、YouTubeで喋るべきなのか、
どこかでジムの仕事をすればいいのか、わからないじゃないですか。
それは私だってよくわからないんですよ。
ニードがあるっていうこと、みんなが言うのはそれですよね。
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焦燥感があるとか、居ても立っても居られないとか、
何とかしなきゃいけないとか、
それだってある種ニーズに変わってきつつあるんだけども、
言葉に直してありますから、全然はっきりしない。
全然はっきりしない。
でもこれがよく自己啓発の本で書いてあるような、
ああいう形にはならないわけですよ。
まさに自分はポドキャストをやるべきだと、
天から閃いたみたいな、そこまできれいな形には
めったにならないというか、多分運が良ければあるかな。
でもまあああはならない。
ああいうふうに劇的に書いておくのは、
もちろん本が売れなきゃいけないからです。
普通の場合は、自分でやっていることはどうもしゃふぜんとしない
というのからスタートするしかないと思うんですよね。
で、受け取る人がいるというグッドバイブス的な話に
つながっていきますけれども、
この受け取る人というのが、当然ワトソンですよ。
当然受け取る人というのがグッドバイブスでもあるし、
最初はですね、やっぱり僕の経験でもそうですが、
最初に受け止めてくれる人というのは非常に上手いんですよね、受け止め方が。
とぼけるのが上手いと言ってもいいですけれども、
やろうと思えばダメ出しなんていくらでもできるじゃないですか。
つまり、やろうと思えば孫に将棋で圧勝するとか、
おじいちゃんに病院にできるじゃないですか。
それをしてどうなるんだって話なんですよ。
つまり最初に出すものというのは、
自分が切れ者だとでも信じさせておかれるような上手いやり方なんですよね。
これが先日言った裸の王様のような話に徐々につながってはいくと思うんですけれども、
つまりそういうふうにでありたくはないから、
密かにすごい練習しておいて感心されたいっていう、
これはまた全然違う心理的な問題だと私は思うんですけど、
つまり生まれた時から天才少年として生まれたいとか、
天才少年として生まれたいとかそういう話ですよね。
そういう僕は病理があると思うんだけれども、
河合俳夫さんが一寸法師に例えていたような、
永遠の少年的な心理の問題ですね。
だけれども普通そうではないはずだから、
やっぱりお父さんお母さんとおじいちゃんおばあちゃんが
いろいろと上手にやってくれているはずなんで、
それを言ってみれば今またやってもらうんですよね。
そうしないとやっぱりニーズにならないんだと思うんですよ。
ニーズに変えるのはあくまでも他人であって、
自分じゃないのでスタート時点では。
一番最初の時から水5封ぐらい飲み出す赤ちゃんなんて
絶対いませんからね。
それはそれこそ病気だと思うんで、
そんなことが起こるとすればですね。
そういう話の中で、
私はやっぱり道羅県に行っていた時の思い出というか、
コロナで行けなくなったからますます思い出になっちゃっているんですが、
思い出すんですよ。
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あれが楽しかったらきっとそういう意味なんだという風に思うんですよね。
ただバランスの問題がどうしても出てくるじゃないですか。
高くしすぎれば後悔するし、
さっきも言いましたが無料にすればおそらく無料同然にしても
後悔しかけると思うんですよ。
そして役に立たせるという方向で
必死になるのはすごく大事なんだけど、
役に立たないということに人が気づくのもダメだし、
役にきちんと立ってしまうようにするということもできるんですけど、
そうするのもダメだと思うんですよね。
そういうものじゃないですか。飲み会とかも全部。
あれをノミニケーションという言葉に直して
きっちり役立てようとすると多分アウトなんですよ。
で、高級なところに行くのもダメでしょう。
無料で参加できるのもダメですよね。
非常にある意味よく似たところがあると思います。
で、あれを孤独に耐えられない人とか
仕事ができない人の弱さみたいに乱すのも
極めて危険なんですよ。
ただし、そういうふうにひみくられたり
揶揄されたりすることがあるというのは
結構なことだと思うんです。
28:15

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