2023-02-06 29:55

【734】いつでもどこでも仕事するには?

環境としての母親という観点をとる

00:04
おはようございます。
ピクセラピ第何回か忘れました。
2月6日月曜日14時22分ですね。
2回飛ばしてしまったんですけれども、
2月1日および3日ですね。
これを収録する機会がなくてですね、
飛ばしてしまったわけですが、
最近ですね、いろんな実験してるんですけど、
その話にしようかどうしようかちょっと考え中でして、
まずはですね、
告知の方からさせてもらいますね。
2月のですね、23日に、
これ天皇誕生日なんですが、
倉澤慶三さんと、
かなり久しぶりにリアルトークをやる、
要するにリアルのセミナーね、
オフラインですね、やろうということになっております。
こちらはですね、ぜひ私としてはご参加いただけると嬉しい。
というのもですね、
これまで私が、
必ずしもですね、必ずしもというか、
Good Vibesとは明らかに、
ほぼ反対の方向を生きてきたようなところがあって、
倉澤さんご自身ほどではないのかもしれないけど、
ほぼ反対の方向を向いて生きてきたのが、
急に変わったと。
たまたまなんですけどね、急に変わったと。
で、なんでこういう変更を、
余儀なくされたというか、
しているか、
そしてそれがどうしてよかったかというような話を、
多分トータルでやることになると思うんですよ。
だから、その全貌をお伝えするといった内容を、
一度聞いていただけるとありがたいなと。
基本的なテーマとしてはですね、
あれなんですよ。
やっぱり私のことっていうこともあるんですが、
世の中には広くこの問題あるなとは思うんですがね、
どうしても恐れと不安が理由で、
言ってみれば職場なり家庭なりがピリピリするとか、
居心地が良くないといった問題で、
その中でもですね、
直ちにグッドバイオスを知ったからといって、
職場の雰囲気をガラッとグッドバイオスに
自分だけで変えられるといったことは起こらないので、
起こるといいのかもしれませんけれども、
起こらないので、
その場合の考え方なりやれることなりも、
03:00
すでに寺園さんが何度もあちらこちらで機会をとらえて
お話しされているんですけれども、
それを総動員にしてもなかなかうまくいかないといったような時に、
つまりもっと転職する前に一度試してみたら良さそうなこととして、
もっと雰囲気に左右されない自分であるといったことと同時に、
でも雰囲気も良くしたいみたいなね、
ちょっと都合がいいというふうに私が自分の中で書いてみたんですけど、
そういう都合のいいことを考えてみたわけですね。
これをお伝えしたい。
リアルで多分時間もそれなりに要すると思うんですよ。
だってこの話を聞いたからといって、
明日から実行できるようになる気がするんですよ、
ふくらはずのさんのお話を伺ってると。
なる気がするんだけど、
いざ言ってみるとなる気がしなくなったりするじゃないですか。
こういうことはよく起こることですよね。
だからそれができるようになってないなと思う方はですね、
そしてなったらいいだろうなと思う方は、
ぜひこちらを一度聞いて、できれば試してみていただければと思うんですね。
今日いろんなことをお話ししようと思ってたんだけれども、
今話していて一番関係が深いのは、
今回私が2月1日と3日のキクセラピーを飛ばしちゃった最大の理由というか、
理由は単純でして、秋田に行ってたからなんですよ。
秋田に行っている間にやろうと思えばできなくもなかったかもしれないんだけど、
この収録をですね。
マイクがなかったと。
マイクにちょっとこだわるようになっちゃったからやりにくかったわけですね。
マイクなしの収録というのがね。
それでこのマイクがない状況で、
マイク持っていけばよかったのかもしれないんだけど、
状況で伝えようと思っていたことは、
もう覚えてないと。
覚えてないんだけれども、
多分今しゃべると似たようなことが口をついて出てくるだろうと僕は思っているわけですね。
この感覚をですね。
書き上げ塾なりで、先日も少しお話したつもりなんだけど、
お伝えしていきたいのですが、
同時にそのためにはですね。
やっぱり自分が環境に左右されることなく平安であるということが、
どんなにか重要かといったことで、
あるいはどうして重要か。
これが言えればいいんですけどね。
これを倉園さんはお話しされるわけですが、
私はこれを聞いて納得はできるんだけど、
06:04
同じ話を滑らかに自分の口でできるかというと、まだできないんですね。
多分ここらへん何かがあるんだろうなと思っています。
それで雰囲気を良くするとか、
あるいは良くない雰囲気だろうと良い雰囲気だろうと、
良い雰囲気なら問題ないけど、
良くない雰囲気の中でも、
良くない雰囲気っていうこれがすでにあれなんだけど、
言い方として不適切なんですが、
まぁでも良くない雰囲気でもね。
それに左右はされるんですが、
その観点を変えるところで、
変えることによって自分のあるがままの自分というものが、
いつでもあるがままの自分で、
仕事なりコミュニケーションなりが取れるといったことが、
どんなにか大事かといった話になっていくんだろうなと思うんですね。
そのことを長く回り道してきましたが、
2月の1日3日および4日で、
知ったわけですよね。
その前からもそうでしたけど、
つまり飽きたですよね。
飽きたの雰囲気が悪いっていうのではないんですよ。
ただ環境は全然、
私に整ってはいないわけですね。
言うまでもないですよね。
偽実家の両親は、
つまり偽父と偽母ですね。
偽母が亡くなったんですけど、
どちらも70歳を過ぎ、
ほぼ後期高齢者。
偽母はそうじゃないですけどね。
偽父は後期高齢者。
生活スタイルも、
雪深い田舎ですし、
何もかもが違うわけですよ。
そもそもネット回線がないときっているわけで、
ネット回線もなければ、
事実上動くパソコンもなく、
とにかく部屋を出ると、
息が凍りかねない寒さで、
あれなんですよね。
冷蔵庫に入れるものは、
冷やしすぎたくないものみたいなね。
廊下に置いておくと凍っちゃうんですよね。
凍ると果物がダメになるじゃないですか。
だから凍らないように、
冷蔵庫に入れておくみたいな、
一種の保温なんですよね、あれはね。
っていう環境は、
私が普段生活している、
この私向きに、
カスタマイズされた環境とは、
全く違うわけですね。
全く、
言ってみれば、
不便極まりないわけです。
で、
そこのところで、
例えばこの収録なりをするとか、
仕事をするというのは、
確かに、
私の感じではね、
09:01
確かに、
負担なりをするというのは、
私の感じではね、
確かに負担がでかい。
そしてその、
負担がでかいと
言った時に、
えっと、なんつうんですかね。
私たちはですね、
その、
環境としての母親の
不在感っていうのかな。
不在感っていうと、
かきあげ塾ではあんまり使いたくない、
漢の字がですね、意味もなく
くっついてきてるんですけど、
不在、
なんだけど、えっと、
もともといないものなんですよね。
それは。
もともと、その、
環境としての母親
などというものは、
ずっといるんだけど、
それが誰がいるかとか、
どれがいるかとか、
例えばそれが奥さんだという話なら奥さんは今回すぐそばにいたと。
奥さんがいれば仕事ができる
といった話ではないわけです。
ここ、なんかね、
聞いていて戯言のように聞こえる人と、
すごく大事なことを聞いているように
思う人といらっしゃると思うんですね。
えっと、以前、
ガレージの
中にこもって
仕事をするエンジニアの話っていうのは、
オグデンという人もね、
オグデンという人を今私一番読み込んでいるんですけど、
あの話精神分析に
入っちゃってますから、すいません。
私この、この
ポッドキャストでは、
これといった
何となくどんどん入っていってしまうというのを
一つのもう特徴にして
しまっています。
これは何度も言いましたが、これを説明していると
毎度毎度これの説明だけで
20分は食うんですよ。
だからそこの説明は飛ばさせてもらいます。
聞いているて何となく分かっていただければ
十分なんですよ。
というのは、どうせ私も
完全に分かっているわけじゃないし、
これを完全に分かってから
聞くっていうやり方は
できないと思うんですよね。
でも、何となく分かっていただければ
そのうち
何となく興味を持っていただけると
そういった流れにしておりまして、
オグデンという人が言った話にあるんですよね。
その、
マレージに籠って仕事をする
エンジニアがいて、
だけどその人は
マレージに籠って仕事ができるようになるためには
奥さんが家にいてこないといけない。
どっか出かけてしまうと
その奥さんが早く帰ってこないかな
という風に
長くして待つってやつなんだよね。
あれがなってしまう。
そういう死に状態で、
マレージに行っても仕事にならない。
でも、ここが大事なんだけど、
マレージに奥さんが入ってくるのは嫌だ。
そうすると、それはそれで仕事にならないので
奥さんに対して腹を立てる。
私、この話がですね、
今言った環境としての母親が
いる。
いるってのは結局、
いると思えるってことであって、
どこそこに
いるってこととイコールじゃないんですよ。
12:00
でも、奥さんが
近くにいるってのと
どっか出かけてるのが違うように、
ただ心の中に
いる、いないだけが全てではないんですね。
心の中に
いるんだけど、
その環境としての母親と
いった存在が、
なんて言うんですかね、
自分を
包んでくれるって
言い方をよくするんだけど、
私の感じでは
支えてくれるみたいな
方が強い。
どっちでもいいんですけどね、別に。
これは、
いなくなることは
ないっていう考え方のように
僕は読めるんですよね。
オグデンなりの
話を読んでると。
エンジニアがそうですよね。いなくなったらまずいですよね。
この人たぶん。
機能不全に陥りますよね。本当の意味で。
仕事はおろか。
多分食事作るのが無理でしょうね。
って感じがするんですよ。
その食事を作るのが無理ってのは、
食事を作る能力がないって意味ではないんですよ。
食事を作る
知識もレシピもあるんだけど、
そういう気力が
ここに湧いてこないっていう人って
いらっしゃるじゃないですか。
家にいて、なんかこう、なんとなく
心寂しいと。
部屋をなんか暗くしていてね。
えーと、
なんかやる気しないなーって言いながら
ソファーにずっと横になってて。
えーと、
なんか部屋を温めるという気も湧いてこない。
じゃあその人に
温める能力なりが無いのかって言うと
そんなことは無いですよね。
でもなんとなく
そういう人っていらっしゃるんですよ。
別に欲打つとか言うわけじゃないんですよ。
必ずしも。ただただ
なんとなくやるせない感じが続いて
気が付くと寝落ちして
体調崩すって言った話。
僕はこれは
環境としての母親が
不在だというか
不在感がやっぱりね
あるってことのように
思うんですよ。
この時が勝負どころだと思うんですね。
いてくれれば
いてくれるって誰がっての
ほんとあるんだけど
これはね、言うならば
赤ちゃんだった頃から
延々と居続けてくれた。
私はウィニコットって人が
言ってるのはそういう意味だと思ってるんですね。
私たちは常に
環境としての母親と一体であり
それに包まれ続けて
生きていく。
時々途切れるんだけど
その途切れた時には
打つ手がある。
途切れきってしまったり
永遠に途切れてしまったりはしない。
永遠に途切れてしまったという思いに
苛まれている人は
多分
何かになる。
とにかく何かになる。
そしてその場合に何かができない。
普通の人が何かができないように
何かができないのは
そのスキルがないからではない。
自立心とかって言うんですけどね。
僕は自立心というのは
15:00
環境としての母親を
意識できるっていう意味に
捉えてるんですね。
自立心というのは決してたった一人で
この世に立ち向かえるっていう意味ではない
と思うんですよ。
よく私は他に上手い
例えができないから持ち出すんだけど
火星に行けば
最強の人でもすぐ死にます
っていう話をしたくなるんですね。
私たちは
とても都合の良い環境に
包み込まれて
生きているんですよね。
事実。
生まれ落ちた瞬間から。
自立心にこだわってると
宇宙で一人でも生きていけるみたいな
そんな人はいないんですよ。
つまりよく言うじゃないですか。
やってるじゃないですか。
なんとかドキュメンタリーみたいな。
地球はこの時に月とぶつかって
水ができてみたいな。
この何兆分の一の可能性が
わずかでもずれていれば
我々は存在していない
みたいな話しょっちゅう聞くじゃないですか。
地場がちょうど良かったとか
太陽との距離が奇跡的だったとか。
これはもう見解の問題なんでね。
いろんな見解があると思うんですよ。
私はこれは全部単なる偶然だと
本当に思ってるんですよ。
多分そういう世界観っていうのは
どこかに嘘があるのかもしれないですね。
そんな過酷な世界観で
生きていけないのかもしれないけど
僕の頭ではどうしても
ここに必然性を持ち込みたくない
っていう意識が強く働いてるから
全部これは
その何兆分のだか
何千兆分のか知りませんが
偶然の産物だと思っているんですよ。
そういう異常に低い可能性が
起きたんだと。
なぜならば
ちょっとここはニーチェフっぽいんですけど
起きうることはすでに宇宙では
全部起きたからっていうね。
起きうることだったら
現実に可能なことはすでに全部起きた。
だって時間って無限ですからね。
いくら時間がかかってもいいんだったら
可能性どんなに低いことでも
全部可能性のあることは
正直不思議はないじゃないですか。
だから
そういうことだったと思っておけば
いいかなと。そんな風に
解釈はしているんですよ。
この解釈は別に
なんてことはないですが
ソファットの世界ですが
何が痛いかというと
その異常に低い可能性の
出来事が今ここに起きてるじゃないですか。
だから
つまり何兆分の1がずれていたら
生命なんていなかったのかもしれないけど
いるわけですよね。
その異常に低い
可能性が実現したという
現実があるから
我々はものすごく
条件に頼って
生きてるんだと思うんですね。
この異常に低い条件が
なければ
みんなすぐ
滅んじゃうと思うんですね。
そうならないということは
ものすごく頼りがいのある
現実に頼り切って
18:01
生きているからこそだと
しか僕には思えないので
そういう風に思うと
つまり環境都市の母親というのは
すでにそこら中にあるんだが
その不在感に
苛まれたとき
僕らはまるでですね
心の中の話ですよ。
心の中では火星で生きているような
無理、無理感が
とても無理だという感じが
襲ってきて
したがって
部屋を適切な温度に
空調はあるけれど
手でボタンを押せるけれど
何度にすればいいかも知ってるけれども
なお何にもする気がしなくて
だんだん暗くなっていく部屋で
やるせない
気持ちでぐったりして
しまっているということが
十分起こりうるだろうな
と思うんですね。
これをどうにかしようと
してるわけですね。
私が今3ヶ月
チャレンジというので
単独で出しているサービスなんですが
出しているのは
そういうことなんですよ。
この環境としての
母親を
自分の心の中で再生する
方法を見つけましょうと。
こうすれば再生しますよって話は
しないです。そんなことはできないから。
だけれどもそういうものを
心の中で再生する
方法を探っていきましょうと。
これさえできちゃえば
一人で仕事が
できるはずだし
少々の
埼玉など神奈川から
秋田に行くなんてのは
少々の環境の変化なんですよ。
そのような少々の変化
ぐらいで
できなくなったりはしない。
機能不全に陥ったりはしない。
そのときただ
気をつけるべきことがいくつかはあるだろうと。
2つ3つなんですけどね。
そのうちの2つ3つってのが
たぶん
言語化というものを知らなければ
私は
自分ではこれを言語化はできてないだろうなと。
言語化のかもね
言葉にはできてないだろうなと
思うんですね。
例えば
一番ああいうときにやっぱり
力を発揮するのはですね
総力を上げるかな
最近の私の感覚に
一番マッチする言葉で言うと
総力を上げて何でもやる。
頼まれることは
多くなりますからね。
あからさまには頼まないですよ。
市役所行って来いとか言わないですよ。
でも行ってきて欲しいオーラとか
あからさまに近いぐらい出るんですよ。
困りますからね。
誰も行かないとなると。
誰でも行けるかというとそうでもないんでね。
雪がホワイトアウト状態になってくると
市役所行くのも大変なんですよ。
歩いてはとても行けない。歩いて行ける距離なんですけどね。
こんなときに
総力を上げて市役所に行って
やるべき手続きは全部やってくるんですよ。
それが何になるのかと。
よく言うじゃないですか。
21:01
技術家でいいように
こき使われたみたいなね。
話があります。
それもそういう観点から見れば
事実なんだと思うんですよ。
解釈の違いを持ち出して
本来やってはいけないような
理不尽を正当化してはいけないとか
策書を認めてはいけない
っていう言い分もあると思うんだけど
でもそれはやっぱり
一つの観点で
解釈と言ってもいいとは思うんですけど
観点だと思うんですよ。
そういうのはダメだと。
社会の中で
そういう構造を正していきましょう
という観点。
観点が先にあると思うんです。
私が取っている観点は
やっぱりこれは違う観点なんですよ。
環境としての母親は
絶対ですっていう観点なんですね。
さっき言った通りですよ。
ガレージにこもってるエンジニアは
やっぱり
奥さんがいてもいなくても
こもって危機として
自分のやりたいことに没頭できた方が
いいと思う。
しかも奥さんが
生身の奥さんが入ってきて
自分の観念の中での
環境としての母親に頼っていたのに
生身の奥さんが
それはあくまでも
その生身の奥さんを
一つのきっかけとして
自分の心の中で成立させている
環境としての母親と
ダブルと不安定になる
そういう不安定な心持ちは
厳しいと思うんですよね。
やっぱり生身の奥さんが
入ってきたとしても
環境としての母親は
ちゃんとそこで成立させられる
という方が望ましいと思うんですよ。
単に理想を言えばね。
そうすると
私がやっぱり秋田にいようと
神奈川にいようと
自分は機能十全で
ありたいし
仕事がいいじゃないですか。
いつでもどこでも仕事ができるような
環境を整えられるのも
今のクラウド時代じゃないですか。
だけれども
極寒の地に行くと
クラウドはあるんだけど仕事する気になりません
っていうのを何とかするには
僕はその答えは
習慣化にはないと思うんですよ。
習慣化なの
クラウドの
機能なの
あるいはタブレット端末の
機能なのに性能なのには
頼れないと思うんですね。
頼りになるのはやっぱり
環境としての母親の方であって
これさえあれば何とかなる。
これって
何なのかというとですね
ここがやっぱり言葉に直すの
ややこしさなんですけど
僕の中ではね
総力を上げるというのが
マッチするんですよね。
なんでなのかというと
それは母子の一体というのは
コミュニケーションの不全が
上がってるからなんですね。
コミュニケーションの不全があります。
だって赤ちゃんはしゃべれない。
赤ちゃんは快適になりたい。
赤ちゃんが快適になるために
環境としての母親は機能する。
暑いっていうのが言えない。
24:01
泣く。
顔を赤くして泣く。
そしてその時に気膨れてる。
それを見たお母さんが
暑いのねと言う。
暑かったごめんねと言う。
これが赤ちゃんがそのうち
自分は暑いんだ。
暑苦しいんだと
言えるようになる契機になってるわけですね。
これが例の
ニードニーズに変えて提供すると。
やがて赤ちゃんは
それが自力でできるようになると。
この間には
かなりありますよ。
かなりの
積み上げていかなければならない
ものがあります。
赤ちゃんが自分で
暑いんだ。
服を脱ごうまでいくには
数年かかるんですよ。
総力を上げてるんですよね。
お母さんは忙しいし
おっぱいを上げたいのか
眠らせたいのかも
判断しなければならないし。
最近流行りの言葉で言うと
夫は全然
協力的でないし
ワンオペだし
いろんなのがあるじゃないですか。
その中で総力を上げなきゃ
一つにも対応できないし
それを厚く
自分で判断できるところまで
持っていくっていうのまで
含んでの話なんですよね。
環境としての母親というのは。
それだけ甘やかされてるってことですよ。
うーん、違うな。
甘えさせてもらってるということです。
この相互作用
これ相互作用なんですよ。
赤ちゃんが泣くことをきっかけにしてるんで
ニードがそこになければ
このようなニーズを提供できる
お母さんというのは
その場にも現れてこない。
そういう意味で
簡単にできるようなことでないことを
可能にする
所有の条件を使って
その場にある
すべてを用いて
必要なすべてを
上げて
総力を上げて
一つのニーズを
提供できるようになると
言ったところに
愛情ももちろん含めて
環境都市の母親が
成立するという
下地というのか条件が
整うんですよね。
これをやるために
私はまず秋田に行ったときに
無条件って
つまり条件が
整っていないならば
自分が整えることによって
そこにあるニードを
すべて満たしていく。
この精神状態を
持っていけば
自分の仕事はきっとできる
と思ったんですよ。
これを
条件によって
拒否する。
例えばお父さんがお金くれたらやるとか
そんなことはないけど
そういう例えばとして条件をつけてしまうと
自分がやるときにも
必ず条件をつけたくなるものなんですよ。
なりますしね。
ここまで意識を持っていたとしても
27:01
なお何か条件をつけたくなります。
せめてホワイトアウトじゃない日
まあ大事ですけどね。
事故るのも怖いからね。
とにかく条件をつければつけるほど
いやー今日は無理だな。
なぜならっていうのも
いくらでも思い浮かびますから。
つまり総力を上げる気が
なければないほど
条件をたくさん用意するし
そして総力が上がらなくなっていくんですよ。
総力の上がらないところには
環境としての母親は
不在になっていくんですよ。
心の中での話ですからね。
これは。
帰ってからやろうと
言ったことになっちゃうわけですよ。
これが最初の冒頭の方でお話しした
マイクがなかったってことなんですよ。
につながってるんですね。
マイクがなかったんだよなと。
これが条件ですよね。
何が何でもやる気ならば
山田電機に行ってマイク買ってくればいいわけですよ。
つまりこの
何としてでもやろうという風に
思うこともできる
心理状態というのは
つまり先に
整っているってことは
ありえなくていいんだよ。
自分はもっと自由なんだ。
ここを観点を変えると
逆転しちゃうんです。
理不尽だというのは自由じゃないという
考え方もあるじゃないですか。
だからこそ自宅でいいようにされてはいけない
という考え方もある。
僕の観点は環境としての母親が
大事だから自由というのは
自分ができることは全部やる
っていうのが自由なんですよ。
自分が
市役所に行って
手続きをする能力があり
それを発揮しさえすればこの問題が解決すると
ここにあるニードは
私の振る舞い方
次第でニーズとして提供できる
というのが自由なんですよ。
マイクがないというニードがあるならば
マイクがないのはニードですよね。
何かがないというのは
まだ何かが要求されたことにはならないから
それをマイクをここに
持ってくるというニーズに変えて
そして自分の目の前に
置いて収録を始める。
ここまで来て初めて
私という
赤ちゃんと
私という母親を
セットに
あの場に用意して
用意して
母子一体という
環境としての母親の
その
再現ですかね
それを
実行することによって仕事をする
これさえできれば
習慣化されていようと
条件が整っていなかろうと
仕事は可能になるし
何でも可能になる
何でもというのは
その時できることであれば何でもと
といった意味ですよね
これを目指したい
という観点がある
こんな感じのお話
29:55

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