最初5名とかの場合はほぼ考えなくてよかったんですよ。
絶対ばらけるんで大体よいて。
だって土日の昼か夜かだけでも4通りパターンがあるわけですから、
4、5名ってことであればですね、多分よほどじゃない限り勝ち合わないんですよね。
でもこれが10名前後になってくると勝ち合い得るようになってはくるので、
例えば平日の夜といっても5枠しかある意味ないといえばないんですよね。
平日の夜に2つ入れることは最大できますけどね。
でも毎週平日より全てが2枠ずつ埋まるってことになると、
これはもうかなり厳しいって感じがしてくるんですよね。
なので、でもそうはならないんですよ。
10名の方が全員平日の夜がいいってことは多分絶対ないんで、そうはならないんですよね。
あとこれは最初は全く検討していなかったんですけど、
いいことでもあるんですけれども、
J松崎さんと仕事するようになってこのことがよくわかったんですけど、
ドイツと日本とではかなりの時差があるので、
ヨーロッパの時間帯とこちらを合わせるということになってくると、
決まってこの時間がいいんだっていう、
その時間は日本では大体人気ないので大丈夫なんですよね。
平日の4時とかその辺りになってくるんですよね。
平日の4時とか5時が。
だからJさんとやってるイベントってほとんどが土日の4時とかに集中してると思うんですけど、
あれやっぱりこちらと向こうを合わせた時間帯を一番最初に取ろうとすると、
4時っていう時間が出てくるんですよね。
これはドイツだからなんですけどね。
これが多分またちょっとポルトガルとかだと違うのかもしれないですけどね。
今のところそういうことはないので、
ドイツとかそういう時に考えることがその辺のことだったりするわけです。
いろいろあるわけですよ。
なのでこれも全ての人、関東とかじゃない方が明らかにいいとは思うんですよね。
大体全員関東だったら別にオンラインじゃなくてもいいじゃんって感じがしてくるんですけれども、
海外の方となるとオンライン以外はあり得ないだろうってことになりますので、
これは私がオンラインでやっているということの一つの、
これを比較有意とは言わないと思うんですけどね。
そういうこともあるのかなとでも思ってますということです。
最近はずっとこのでも3ヶ月チャレンジの話ばかりだったんで、
ちょっと趣向を変えてみましてですね。
ちょっと同じような話にはなりますよね。
よくうつポジションというものについてちょっと考えておきたいなと今日は思いました。
珍しいな、こういう先に言うという、全然その話にならなさそうな日がしてきたんですけど、
よくうつポジションというのはですね、特にドナルド・ウィニコとですね、
メラニー・クラインがよくうつポジションと妄想分裂ポジションという概念を打ち立てまして、
フロイトにはないですよね。
こういうあるんだけど似たようなことはですね。
あるんだけどこれほどやっぱりPSとDの行き来みたいな、最終最後は行き来みたいなところに行き着いてくるんですけどね。
この辺の発想ってすごい、やっぱりフロイト発であるにせよ、
クラインが立てた鉱石の大きさを感じますね。
でも、実はこの妄想分裂ポジションという言葉の分裂ポジションというのを最初に考えたのは、
ロナド・フェアバーンという人で、クライン、メラニー・クラインではないんですよね。
クラインではなくてフェアバーンが分裂ポジションという、
フェアバーンという人は分裂大好きというか、必要に物事を分裂的に、分裂でまず考えようと。
これは僕はですね、あの人もまたイギリス独立学科の一人なんですけど、
そういう意味でミニコットと似たようなポジションの人なんですよね。
つまり、いろんなことがあったんですけれども、
要はナチスのせいでみんなユダヤ人だったんで、
多くは精神分裂になってほぼフロイトを始めとし、
クラインもおそらくそうで、当然アンナ・フロイトはフロイトの娘なんだから。
というわけでみんな逃げなきゃなんなくなったわけですよ。
最初は当然フランスとかに逃げるんだけど、フランスも制圧されていきますよね。
もうロンドンに逃げるわけですよ。
そのロンドンに逃げたから、これはね僕はナチズムというものの、歴史のアヤってやつですよね。
戦後ものすごくアメリカが発展していくわけじゃないですか。
それって結局ドイツが嫌になって逃げた人たちが、
っていうかヨーロッパがナチズムに制圧されていくから、
もちろんユダヤ人の人たちをはじめ逃げていくわけじゃないですか。
財産も持ってれば、知識も技能も大量にいるじゃないですか。
要するに優秀な人材がどんどん流出していって、みんなアメリカに行くわけじゃないですか、結局。
でアメリカが発展すると。
こういう非常にですね、ヒットラーが考えたのとは逆のことが起きていたわけだと思うんだけれども、
そのうちのある一例が精神分析っていう見方もできると思うんですよね。
とにかくイギリスに逃げるわけです、最初は。
で最初に逃げたというか、最初に行ってそこですごく発達させたのがメラニークラインですね。
後にアンナフロイトもやってくるという感じだったと思うんだけれども、
フロイトがやってくるっていうことですよね。
で、フロイトはもうロンドン渡って即ほぼ1年、もうとにかく短い期間でお亡くなりになってしまうので、
その後大論争ってやつが起きるわけですよね。
クラインvsアンナフロイトですね。
だから今もその名残はきっちり残ってて、イギリス対照関係論とアメリカ自我心理学。
アメリカの方が国力もありますし、アンナフロイトですし、アメリカの方が主流ということになっていくわけですね、世界的に見ると。
そういうと対照関係論の人的にはダメなのかもしれないけど、僕の知る限りはそういう認識でそんなに狂ってはいないと思うんですよ。
ただこのメラニークラインという人は、原理主義的なところの多分にある人ですごい人なんだけど、
ちょっといざこざが起きると基本的にはもうその考えダメみたいになりやすいんで、
イギリスはですね3つに割れるんですね、最初ロンドンはですね。
クラインの派とアンナフロイトの派とどっちにも入れない派。
これを独立学派とかって言ったりするんだけど、これは別に独立学派グループがあるぜって感じじゃないっぽいんですよ、どうも。
例えばフェアバーンは独立学派なんだけど、それはただどっちにも属してないというだけで一匹狼的な世界なんですよね。
実はウィニコットもそうなんですよ。ウィニコットってクラインと仲がすごいいいんですけど、でも波紋にはなるって。
この辺の人間関係ってすごい微妙だなと思うんですけど。
ちなみにビヨンは最後までクライン派で頑張りましたね。
なんかもう言ってることは、だってウィニコットからそれを完全にだからクライン、ウィニコット、ビヨンって引き継いでる感じがあるんだけど、
でもウィニコットはクライン派ではないんですよ。クライン派じゃないことになったんで、彼は独立学派みたいな。
その独立学派の人たちのところに、この妄想分裂ポジションと抑制ポジションっていうのはすごくこう歴史的な、
もっともウィニコットはこの妄想分裂ポジションって考え方を、考え方というか言葉をひどく嫌ってたんで、あんま使わないですよね。
全然ウィニコットの考え方の中に妄想分裂ポジションって言葉は出てこない。
彼はしかも抑制ポジションっていうのも名前が悪いって言って、歴史的ポジションとかにしようとするんだけど、そうならないんですよね。面白いことに。
歴史的ポジションっていう人もいらっしゃるけど、あんまいない気がしますよね。やっぱり抑制ポジションは抑制ポジション。
すいません、ちょっと途切れました。
えっとですね、だから抑制ポジションについて考えたいわけですよ。
抑制ポジションというのは、これが目標に近い話なんだと思うんですけど、そこを維持できるかっていうか、そこをくぐり抜けて、
たぶん心の平安なり落ち着きを取り戻すっていう考え方なんですよね。
PSポジションというのは、PSポジション自体が一つの発達の過程なんだと思うんだけど、つまりそのポジションに入れないといけないよね。
PSポジションって入れないといけないポジションですよ、たぶん。
でもまあ、3ヶ月チャレンジとか私たちが接する相関係の中では自分自身も含めてですね、PSはさすがに取れるだろうっていう前提があるわけですね。
PSにずっといるのはむしろまずいことで、PSにもいられないという話はあまりここでは考えないことになっているんですね。
問題はDを維持できなくなるときがあるということなんですよ。
Dは抑制ポジションなんですが、デプレッションのDね。
PSはスキゾイドと、自ゾイドってそれはSの方なんだけど、パラノイドスキゾイドポジションですね、PSですね。
で、どっちに自分がいるかを見極めるのは実は難しくはなくて、なんかね、カッカしていたりダメな感じになっていたり苦しんでいたりしているときは大体全部PSなんですが、
一つ確実に言えるのはPSポジションにいるというのはですね、迫害不安がある。
もうこれが迫害不安とPSポジションは私はもうワンセットだと思うんですよね。
迫害不安というのは要するに人に迫害される不安なんですよ。
被害を受けると思っていたらもうPSポジションに少なくとも行ったり来たりしていると考えるのが妥当だと思うんですね。
例えば時間が奪われるみたいな感じ。
時間が奪われるというのは被害を受けているじゃないですか。
だからこれはもうPSポジションの心理状態なわけです。
お金を損した、これもPSポジションですね。
事実かどうかは関係ないんですよ。
ここでは一切そこは考えない。
大事なのはその人の心を占めているのが被害的であったらもうそれはPSポジションなんです。
相手が悪かったんだとか、私は悪くないとかは関係ないってことなんですね。
社会的な話は一切ここでは見ないことにする必要があるんですよ。
後ほど言いますが。
これね、いろんなところに出てくる。
もう普通にしょっちゅうですよね、普通に。
人ができているとかできていないとか人格者かどうかとかモラルがどうなって話をするのが何であんまり望ましくないかというと、
それを言い出すとどっちにいるのかがどうでもよくなってしまうからなんですね。
これはメンタルの話だけに特化しているのであって、
その状態、その心理状態が人間にとって心地よかったり快適であるならこんな話はいらんということです。
社会正義は社会正義っていうか、モラルの話はモラルの話。
これはメンタルの状態がどうであるかの話だけに話を絞ってる。
相手が悪いのが事実だとしても気持ちは少しも楽にはならないはずだという。
それすらも本当はどうでもいいっちゃどうでもいいんですけどね。
これが脳のある機能について分解したりいっぱいコレクトすることの意味は薄いっていうことの比喩だったんですけど、
いやこれ面白いなと僕は思ったんですよね。交差点というものは本当に平安時代から、平安時代なんて特にあるじゃないですか。
交差点いっぱいあったから、京都5番の目だから。
ああいうふうに人間の街って整った街を作りたいですよね。札幌がそうですけど。
10条とか9条とか8条とか言い出すわけじゃないですか。
でも交差点というのはその結果現れてくるものでしかなくて、交差点作ろうと思って5番の目に街をするわけではないわけですよね。
つまりあれは困ったものなんですよね。ある意味ではね。あそこで事故る。
だからやっぱり免許取りに行っても何かと問題になるのは交差点なわけですよね。
交差するところはよろしくないわけですよ。本当は交差してほしくないわけですよね。
この番組の最初の方でもスケジュール上をどうしてもバッティングしやすい時間帯があるっていう、これも交差点みたいなもんだと思うんですよ。
ここに僕はすごく人間の社会の現れてあるような道を譲るみたいな話ありますけれども、
赤信号と青信号って言ったら赤の方が悪い感じしません?
人間のこのPSポジションって原初のポジションだと思うんですよ。
これすらわからなくなったら、赤なんとなく嫌な感じするみたいなすらなくなったら認識ってできなくなってしまうと思うんですよね、私たちの生き方。
良いと悪いって言葉すらそうじゃないですか。
それは単なる記号なんだけど、僕らには記号以上のものを感じると悪いっていう、罪とか罪悪とか罰とか言われると、
一緒くたにそれらの心に与える負荷的なイメージってものがセットでやってきちゃうじゃないですか。
ここにやっぱり僕は力度っていう、心に及ぼす力というもの。
それに応じて心が動いてしまう動きっていうものがある感じがするんですよね。
これがやっぱり報酬刑っていう言葉は僕は、はなはなぬるいなって感じがするんですよ。
報道科学が好きな報酬刑と罰みたいな、あれも罰って言うんですけど、電気ショックとかね、結構えぐいことをやるわけなんだけど、
なんかあれがですね、単なる信号、実際確かに神経系の中であれ単なる信号なんですけれども、
我々の心にとってはですね、トラウマとかストレスとか、なんかもうちょっとえぐくて嫌なものをですね、感じさせてくるじゃないですか。
これと記号が連携させられるっていうのがやっぱり人間のすごいところなんだと思うし、
そこがないとやっぱりこう赤見ただけで急ブレーキ踏めないと思うんですよ。
相手を気遣えるかというのがもう全てみたいなものです。ここをウィニコットは最大限強調したわけです。
相手を気遣えるか。相手が気遣えるということであればそこに相手がいるんだよねということですよね。
相手を気遣えないということはそこに自分しかいないよねということですね。
だから自分しかいないということはナルシシズムの世界に生きてるよねと、現実はスルーされたよねということですよね。
それが良くないと言ってるわけじゃないわけですよ。一旦ナルシシズムの世界は我々は多分作るよねと。
これもまたメラニーくらい面白いことに、いやいやナルシシズムの世界なんて一時的にはないんだと。
こしらえられた人工的な二次的なものしかないんだと。これも私は微妙な議論だと思うし難しすぎる議論だと思うんですよね。
私にはそうは思えないけれどもウィニコットの方が近い気がしますが、でも私たちは確かにナルシシズムの世界を一旦作るんじゃないかなと私は思うんですけどね。
私には赤信号があれで青信号がいいOKっていうのはもうどう考えてもナルシシズムの世界に限りなく近いと思うんですけども、そんな事実はないわけだからどこにも。
だけれども、そこに人がいる。つまり、つまりあれですよ。ATMで後ろに諸団の列ができました。
いたたまれなくなってくるというのはこれはナルシシズムの世界であって相手はそこにいないわけですよ。
私がパージされているという分裂妄想の世界をまず作ったわけですよ。そこでパージされているかどうかはもはや問題じゃなくなったわけですよね。
パージされているというその不安、それは私の心が作り出したものなんだけれども、それによって私の行動が左右されていくということですよね。
相手を気遣うというのは全く自分には本当は関係のないことじゃないですか。待っててかわいそうだなというのは、待っててかわいそうだなというのは相手の心の問題ですよね。
だからそこに相手がいないんだったらこれもすごく妄想的に思えるし、空想の世界に違いな本当はわかんない。
でも相手を気遣えるというのは相手がそこで待っているという事実を気遣っているから外部があるわけですよ。
この状態が現実に妄想分裂の現実よりも近いと、実体の現実に近づいていると。
心の平安というのは実体の現実としてしか得られないと対象関係論的には考えるわけですよ。
だから心がリアルに平安になるということを目指しているんですよ。
心が酒で平安になったような感じがするというのはあくまでも疑似的なものであって、妄想分裂の世界の中から出ないで済むんだけれども、現実の平安には至れてないとこういう感じを持っているわけですよね。
人間の普通の人生ってぐっすり眠ってでもいるとか、明定してるとかでもない限り、PS以前について考えることってほとんどないような日はするんですよ。
3ヶ月チャレンジなんかでは私はPS以前なんて全く考えない感じがしてます。
そこまでは人の気持ちの中でヘントを加えたり、ディスカッションしたりするテーマとして持ち上げるのはとてつもなく難しいという感じがやっぱりします。
言葉が全く通らない世界の話ですし、それをさらに言葉でやりとりしようと、ましてオンラインだけでやろうっていうのは本当に難しいですよね。
昨日たまたま3ヶ月チャレンジで時々リアルに人と会うということもするんですけど、会ってみてやっぱり考えさせられるのは、会うと確かに得られる情報はふんだんに増えるんで、
やっぱり言語活動外のところの意識がすごくこう、なんというか働きますよね。
もうそのPSとDが目まぐるしく入れ替わるっていうのも、必死になって追っていけば結構わかる。
まあそれは、要するに喧嘩とかの時にめちゃくちゃあることなんて、別にそんなになんていうのかな、ああ珍しいことだみたいなことではないんですけどね。
それこそものすごくありきたりな話なんですけど、自分の心でも頻繁ですよね。
人を気遣うのか、自分の迫害を恐れるのかっていうのはもう頻繁に入れ替わっていて、
なるほど確かに迫害ということが起きそうだという不安は、基本的には分裂と妄想というものを必ずセットで用意しない限りは生まれてこない。
これがDに近い時は非常によくわかるんですよ。
だから関係の破壊なんてナンセンスだっていうのが本当に非常によくわかるんですよ、不思議なぐらい。
でもPSポジションの時間が長い時には、もはやこの関係を断ち切る以外はないみたいなのがすごく妥当な感じがするんですよね。
だからいかにこのポジションがポジションなんですが、ポジションつってもどこかに移動するわけではないので、
せいぜい自分がある自分がないみたいな話でしかないので、
例えば今私は明らかにDにいるんで、身体の力も抜けていますし楽なわけですよ。
44分経って喋ってるけれども一個に疲れることはないわけです。
これが欲打つのないDポジションの良いところなんですよね。
お釈迦様とは程遠いですけど、心が青空のようだっていうのはこういう状態なんですよね。
非常に楽なんですよ。何にもなくていいんで。
だって心が青空のようなら何にも別になくてもいいじゃないですか。
そこにご飯がないと困るとか、そういう観念はないわけです。
まして金がないと困るとか、時間が足りないとか、そういう観念は一つも必要。
観念としてあるのはありますよ、もちろんね。
何時には何々をしなきゃいけないとかでも、そういう時間差し迫ってないんで、
肩が凝るとかですね、腰が痛くなるとか、肌が痒くなるとか一切ないわけですよ。
こういう心理状態にある時は。
作り出さない限りは、作り出すというのは分裂をさせない限り、
青空とか二つに分ける理由何もないじゃないですか、我々にとって。
太陽のある辺を赤にするためにここで線を引こうとかしないですよね、絵を描く時でも。
線というものを引かなければならない時には何か訳があるわけで、
それは人が作り出すものですけれども、作り出すべき理由があるわけですよ。
これがですね、やっぱり外にずっと行って隣で咳をしている人がずっといて、
帰ってきて何かちょっと体調がおかしい感じがするって時にこそ、
妄想分裂ポジションというものの意味が一つ出てくるわけですよね。
まず分裂させて、いいものと悪いもの、健康と病気、
ウイルスとウイルスがない状態、病院と家みたいなのははっきり分けて、
病院と外出、外と家ってものをはっきりと分けて、分けた途端に分けることによって、
認識上分けることによって、分裂させることによって、
妄想というもの、まあ空想なんですけど、作り出すわけですよ。
悪いものというのを一旦そこに仮定する。
悪いものというのは、だって我々ウイルスとか病気ってものを見るってことはできないじゃないですか。
見えませんから。だから病気とかウイルスとかそういったものが悪いっていうイメージって全てがイメージじゃないですか。
なんかもうイメージみたいな感じじゃないですか。
しかもそれは視覚的イメージですがないですよ。なんか感じるイメージです。
この感じは私がそれによって被害を被る。
あるいは私の家族、家なり被害を被り、さらにその被害によって、
あなた外に行った時にちゃんと手を洗わなかったんじゃないのとか言われるというような、
奥さんに言われるというような連想をすることによって、
一つのナラティブですよね。物語を作り、その物語が私を非常に苦しめる感じ、
迫害不安というものを持つということまでやって、ようやくこのことの意味というものを検討することができるわけです。
妄想分裂ポジションってのはこうやって使ってるはずなんですよ。
でもこの時に、私はなかなかできない方なんだけど頑張れば、奥さんが病気になったらかわいそうだとか、
娘が病気になって学校行けなくなって部活休むことになったらかわいそうだとだけ思える。
これによって私が責められるという部分を一旦外して、このDの抑鬱的な不安だけに自分を置くことができれば、
この分けるとか、分けた上で自分が迫害される悪いことによって私が苦しむというイマジネーションというものが実は必ずしも必要じゃなくなるわけですよ。