1. GMVグッドモーニングボイス
  2. 抑うつポジションが大切【1122】
2025-01-17 50:11

抑うつポジションが大切【1122】

PS→D→平安?
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/658790a07376b3f9361fc70f
00:05
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
第1122回をお送りします。
1月17日金曜日、朝7時40分、ちょうどですね。ちょうどではないか、別。
最終ではないと思うんですが、一応お知らせがありまして、
3カ月チャレンジの第9期が2月からですが、これが残り一応1枠かな。
まだ一応2枠あるんですけれども、その辺ですね。
厳密な枠の数は決めてませんので、10から12に。
実際に今のところ上限枠数で決めてるんですよ。
週に1回の方もいらっしゃれば、2週に1回の方もいらっしゃるんで、
1週あたりの平均値で15ぐらいが限界かな、私の場合ということが。
なんとなく限界ではないな。限界までいこうと思えば多分18ぐらいまでいける気がするんですが、
その辺を探り探りやっておりまして、
あと1、2名の方が、その1、2名の方の次第で大体分かるかなみたいな感じなんで、
最終枠は決めてないんですけど、多分あと4名とかは難しいかなという感じがします。
来期はですね、木によって私の調子も少し変わるんで、そういう風にやってます。
2、3、4とか、5、6、7はともかく8、9、10は結構いける感じなんですよ。
やっぱり子供の休みが思いっきり入る8月がやりやすいっちゃやりやすいんですよね。
ただまあそういう時旅行行ったりもするんで、その辺の兼ね合わせもあるんですけれども、
とにかく来期はあと1、2名の方で、2、3枠という感じで考えております。
だいぶこの辺の感覚がですね、つかめてきたので、
お仕事が家でされている方と外でされている方では、
いわゆる週1のセッションを土日に持ちたいか、平日の昼なのか夜なのかということもありますんで、
バッティングさえしなければ割とガッチリ埋まってもいけるんですけど、
バッティングされてしまうのは極力避けたいので、
そうすると毎週毎週どちらかの方が自由に取れなくなるみたいなことが起き得るわけじゃないですか。
幸い今のところそういうことは起きてないんですけどね。
絶対土曜の夜がいいって方が2人いらっしゃるというのはもうあまり望ましくはないわけですよね。
そういうことがありますから、一概に人数だけで全てを決めるのはこういうのは難しいんだというようなことも、
03:06
最初5名とかの場合はほぼ考えなくてよかったんですよ。
絶対ばらけるんで大体よいて。
だって土日の昼か夜かだけでも4通りパターンがあるわけですから、
4、5名ってことであればですね、多分よほどじゃない限り勝ち合わないんですよね。
でもこれが10名前後になってくると勝ち合い得るようになってはくるので、
例えば平日の夜といっても5枠しかある意味ないといえばないんですよね。
平日の夜に2つ入れることは最大できますけどね。
でも毎週平日より全てが2枠ずつ埋まるってことになると、
これはもうかなり厳しいって感じがしてくるんですよね。
なので、でもそうはならないんですよ。
10名の方が全員平日の夜がいいってことは多分絶対ないんで、そうはならないんですよね。
あとこれは最初は全く検討していなかったんですけど、
いいことでもあるんですけれども、
J松崎さんと仕事するようになってこのことがよくわかったんですけど、
ドイツと日本とではかなりの時差があるので、
ヨーロッパの時間帯とこちらを合わせるということになってくると、
決まってこの時間がいいんだっていう、
その時間は日本では大体人気ないので大丈夫なんですよね。
平日の4時とかその辺りになってくるんですよね。
平日の4時とか5時が。
だからJさんとやってるイベントってほとんどが土日の4時とかに集中してると思うんですけど、
あれやっぱりこちらと向こうを合わせた時間帯を一番最初に取ろうとすると、
4時っていう時間が出てくるんですよね。
これはドイツだからなんですけどね。
これが多分またちょっとポルトガルとかだと違うのかもしれないですけどね。
今のところそういうことはないので、
ドイツとかそういう時に考えることがその辺のことだったりするわけです。
いろいろあるわけですよ。
なのでこれも全ての人、関東とかじゃない方が明らかにいいとは思うんですよね。
大体全員関東だったら別にオンラインじゃなくてもいいじゃんって感じがしてくるんですけれども、
海外の方となるとオンライン以外はあり得ないだろうってことになりますので、
これは私がオンラインでやっているということの一つの、
これを比較有意とは言わないと思うんですけどね。
そういうこともあるのかなとでも思ってますということです。
最近はずっとこのでも3ヶ月チャレンジの話ばかりだったんで、
ちょっと趣向を変えてみましてですね。
ちょっと同じような話にはなりますよね。
よくうつポジションというものについてちょっと考えておきたいなと今日は思いました。
06:01
珍しいな、こういう先に言うという、全然その話にならなさそうな日がしてきたんですけど、
よくうつポジションというのはですね、特にドナルド・ウィニコとですね、
メラニー・クラインがよくうつポジションと妄想分裂ポジションという概念を打ち立てまして、
フロイトにはないですよね。
こういうあるんだけど似たようなことはですね。
あるんだけどこれほどやっぱりPSとDの行き来みたいな、最終最後は行き来みたいなところに行き着いてくるんですけどね。
この辺の発想ってすごい、やっぱりフロイト発であるにせよ、
クラインが立てた鉱石の大きさを感じますね。
でも、実はこの妄想分裂ポジションという言葉の分裂ポジションというのを最初に考えたのは、
ロナド・フェアバーンという人で、クライン、メラニー・クラインではないんですよね。
クラインではなくてフェアバーンが分裂ポジションという、
フェアバーンという人は分裂大好きというか、必要に物事を分裂的に、分裂でまず考えようと。
これは僕はですね、あの人もまたイギリス独立学科の一人なんですけど、
そういう意味でミニコットと似たようなポジションの人なんですよね。
つまり、いろんなことがあったんですけれども、
要はナチスのせいでみんなユダヤ人だったんで、
多くは精神分裂になってほぼフロイトを始めとし、
クラインもおそらくそうで、当然アンナ・フロイトはフロイトの娘なんだから。
というわけでみんな逃げなきゃなんなくなったわけですよ。
最初は当然フランスとかに逃げるんだけど、フランスも制圧されていきますよね。
もうロンドンに逃げるわけですよ。
そのロンドンに逃げたから、これはね僕はナチズムというものの、歴史のアヤってやつですよね。
戦後ものすごくアメリカが発展していくわけじゃないですか。
それって結局ドイツが嫌になって逃げた人たちが、
っていうかヨーロッパがナチズムに制圧されていくから、
もちろんユダヤ人の人たちをはじめ逃げていくわけじゃないですか。
財産も持ってれば、知識も技能も大量にいるじゃないですか。
要するに優秀な人材がどんどん流出していって、みんなアメリカに行くわけじゃないですか、結局。
でアメリカが発展すると。
こういう非常にですね、ヒットラーが考えたのとは逆のことが起きていたわけだと思うんだけれども、
そのうちのある一例が精神分析っていう見方もできると思うんですよね。
とにかくイギリスに逃げるわけです、最初は。
で最初に逃げたというか、最初に行ってそこですごく発達させたのがメラニークラインですね。
後にアンナフロイトもやってくるという感じだったと思うんだけれども、
フロイトがやってくるっていうことですよね。
で、フロイトはもうロンドン渡って即ほぼ1年、もうとにかく短い期間でお亡くなりになってしまうので、
09:06
その後大論争ってやつが起きるわけですよね。
クラインvsアンナフロイトですね。
だから今もその名残はきっちり残ってて、イギリス対照関係論とアメリカ自我心理学。
アメリカの方が国力もありますし、アンナフロイトですし、アメリカの方が主流ということになっていくわけですね、世界的に見ると。
そういうと対照関係論の人的にはダメなのかもしれないけど、僕の知る限りはそういう認識でそんなに狂ってはいないと思うんですよ。
ただこのメラニークラインという人は、原理主義的なところの多分にある人ですごい人なんだけど、
ちょっといざこざが起きると基本的にはもうその考えダメみたいになりやすいんで、
イギリスはですね3つに割れるんですね、最初ロンドンはですね。
クラインの派とアンナフロイトの派とどっちにも入れない派。
これを独立学派とかって言ったりするんだけど、これは別に独立学派グループがあるぜって感じじゃないっぽいんですよ、どうも。
例えばフェアバーンは独立学派なんだけど、それはただどっちにも属してないというだけで一匹狼的な世界なんですよね。
実はウィニコットもそうなんですよ。ウィニコットってクラインと仲がすごいいいんですけど、でも波紋にはなるって。
この辺の人間関係ってすごい微妙だなと思うんですけど。
ちなみにビヨンは最後までクライン派で頑張りましたね。
なんかもう言ってることは、だってウィニコットからそれを完全にだからクライン、ウィニコット、ビヨンって引き継いでる感じがあるんだけど、
でもウィニコットはクライン派ではないんですよ。クライン派じゃないことになったんで、彼は独立学派みたいな。
その独立学派の人たちのところに、この妄想分裂ポジションと抑制ポジションっていうのはすごくこう歴史的な、
もっともウィニコットはこの妄想分裂ポジションって考え方を、考え方というか言葉をひどく嫌ってたんで、あんま使わないですよね。
全然ウィニコットの考え方の中に妄想分裂ポジションって言葉は出てこない。
彼はしかも抑制ポジションっていうのも名前が悪いって言って、歴史的ポジションとかにしようとするんだけど、そうならないんですよね。面白いことに。
歴史的ポジションっていう人もいらっしゃるけど、あんまいない気がしますよね。やっぱり抑制ポジションは抑制ポジション。
すいません、ちょっと途切れました。
えっとですね、だから抑制ポジションについて考えたいわけですよ。
抑制ポジションというのは、これが目標に近い話なんだと思うんですけど、そこを維持できるかっていうか、そこをくぐり抜けて、
たぶん心の平安なり落ち着きを取り戻すっていう考え方なんですよね。
PSポジションというのは、PSポジション自体が一つの発達の過程なんだと思うんだけど、つまりそのポジションに入れないといけないよね。
12:05
PSポジションって入れないといけないポジションですよ、たぶん。
でもまあ、3ヶ月チャレンジとか私たちが接する相関係の中では自分自身も含めてですね、PSはさすがに取れるだろうっていう前提があるわけですね。
PSにずっといるのはむしろまずいことで、PSにもいられないという話はあまりここでは考えないことになっているんですね。
問題はDを維持できなくなるときがあるということなんですよ。
Dは抑制ポジションなんですが、デプレッションのDね。
PSはスキゾイドと、自ゾイドってそれはSの方なんだけど、パラノイドスキゾイドポジションですね、PSですね。
で、どっちに自分がいるかを見極めるのは実は難しくはなくて、なんかね、カッカしていたりダメな感じになっていたり苦しんでいたりしているときは大体全部PSなんですが、
一つ確実に言えるのはPSポジションにいるというのはですね、迫害不安がある。
もうこれが迫害不安とPSポジションは私はもうワンセットだと思うんですよね。
迫害不安というのは要するに人に迫害される不安なんですよ。
被害を受けると思っていたらもうPSポジションに少なくとも行ったり来たりしていると考えるのが妥当だと思うんですね。
例えば時間が奪われるみたいな感じ。
時間が奪われるというのは被害を受けているじゃないですか。
だからこれはもうPSポジションの心理状態なわけです。
お金を損した、これもPSポジションですね。
事実かどうかは関係ないんですよ。
ここでは一切そこは考えない。
大事なのはその人の心を占めているのが被害的であったらもうそれはPSポジションなんです。
相手が悪かったんだとか、私は悪くないとかは関係ないってことなんですね。
社会的な話は一切ここでは見ないことにする必要があるんですよ。
後ほど言いますが。
これね、いろんなところに出てくる。
もう普通にしょっちゅうですよね、普通に。
人ができているとかできていないとか人格者かどうかとかモラルがどうなって話をするのが何であんまり望ましくないかというと、
それを言い出すとどっちにいるのかがどうでもよくなってしまうからなんですね。
これはメンタルの話だけに特化しているのであって、
その状態、その心理状態が人間にとって心地よかったり快適であるならこんな話はいらんということです。
社会正義は社会正義っていうか、モラルの話はモラルの話。
これはメンタルの状態がどうであるかの話だけに話を絞ってる。
相手が悪いのが事実だとしても気持ちは少しも楽にはならないはずだという。
それすらも本当はどうでもいいっちゃどうでもいいんですけどね。
15:03
PSとDというのは行ったり来たりをするというのが一つの対象関係論の僕はですね、大事な点の一つだったと思うんですね。
他にもいっぱいあるんだけど、今日はこの話に絞りたいわけで。
このPSを卒業できないという、卒業できないというか卒業とかするコンセプトではそもそもないというのがですね、
私が思うところの対象関係論の良さなんですよ。
だからPSポジション病とか言ったりしないんですよね。
私はそれはすごく大事だと思うんですよ。
すぐ話がですね、自我心理学の方では特に言っときそうだったんですけど、何かと境界例とか境界性パーソナリティとかっていうことになりやすかったんですね。
同じ話なんですよ。
妄想分裂ポジションの重大なポイントはやっぱりスプリットにかかってるわけですね。
スプリットというのは良いおっぱいと悪いおっぱいなんですけど、良いものと悪いものに分けるということですね。
すっごく多分僕はこれが人間が生きていく上で極地だと思うんですよね。
これを失うというのはもう人間としてはかなり厳しいと思わざるを得ないわけですよ。
良いものと悪いものというのは都合の良し悪しなんだけども、これを分けるということが人間のその認識の原初の出発点みたいなものであって、
例えば何かですね、そんなことはさらさらなくても、僕はやっぱりこの比較が僕にとって精神分析とはつまり信号なんですよ。交差点なんですね。
信号って僕の中ではすごく精神分析的と言いますか、人間真理ってものをすっごくよく表現してる、たまたま最初信号の例えを使っちゃっただけなんだけど、
後から考えてみると僕はやっぱりここにすごい凝ってんなーみたいな。昔ですね、糸井重里さんと誰だあれは。
池谷雄二さん、脳科学者のね、あの2人の対談、会話、脳は疲れないみたいな本の中にあった非常に面白い話があるんですけど、
人間社会というもの、宇宙人が人間が滅んだ後にやってきて、熊田区調査すると必ず交差点って見つけるよねっていう面白い話があって、
この交差点って世界中のあちこちにあるじゃんっていう話でね、でもこの交差点をつぶさに全部調べ上げることによって人間文明の本質って多分よくわかんないよねという話をしてるんですよ。
こんなにいっぱいある交差点、いろんな交差点があって、いやこれ絶対交差点に興味持つ宇宙人いるでしょうと。
でも交差点にめちゃくちゃ入れ上げることには何の意味もあんまりないよねみたいな。
18:02
これが脳のある機能について分解したりいっぱいコレクトすることの意味は薄いっていうことの比喩だったんですけど、
いやこれ面白いなと僕は思ったんですよね。交差点というものは本当に平安時代から、平安時代なんて特にあるじゃないですか。
交差点いっぱいあったから、京都5番の目だから。
ああいうふうに人間の街って整った街を作りたいですよね。札幌がそうですけど。
10条とか9条とか8条とか言い出すわけじゃないですか。
でも交差点というのはその結果現れてくるものでしかなくて、交差点作ろうと思って5番の目に街をするわけではないわけですよね。
つまりあれは困ったものなんですよね。ある意味ではね。あそこで事故る。
だからやっぱり免許取りに行っても何かと問題になるのは交差点なわけですよね。
交差するところはよろしくないわけですよ。本当は交差してほしくないわけですよね。
この番組の最初の方でもスケジュール上をどうしてもバッティングしやすい時間帯があるっていう、これも交差点みたいなもんだと思うんですよ。
ここに僕はすごく人間の社会の現れてあるような道を譲るみたいな話ありますけれども、
赤信号と青信号って言ったら赤の方が悪い感じしません?
人間のこのPSポジションって原初のポジションだと思うんですよ。
これすらわからなくなったら、赤なんとなく嫌な感じするみたいなすらなくなったら認識ってできなくなってしまうと思うんですよね、私たちの生き方。
良いと悪いって言葉すらそうじゃないですか。
それは単なる記号なんだけど、僕らには記号以上のものを感じると悪いっていう、罪とか罪悪とか罰とか言われると、
一緒くたにそれらの心に与える負荷的なイメージってものがセットでやってきちゃうじゃないですか。
ここにやっぱり僕は力度っていう、心に及ぼす力というもの。
それに応じて心が動いてしまう動きっていうものがある感じがするんですよね。
これがやっぱり報酬刑っていう言葉は僕は、はなはなぬるいなって感じがするんですよ。
報道科学が好きな報酬刑と罰みたいな、あれも罰って言うんですけど、電気ショックとかね、結構えぐいことをやるわけなんだけど、
なんかあれがですね、単なる信号、実際確かに神経系の中であれ単なる信号なんですけれども、
我々の心にとってはですね、トラウマとかストレスとか、なんかもうちょっとえぐくて嫌なものをですね、感じさせてくるじゃないですか。
これと記号が連携させられるっていうのがやっぱり人間のすごいところなんだと思うし、
そこがないとやっぱりこう赤見ただけで急ブレーキ踏めないと思うんですよ。
21:00
あれで急ブレーキが踏めるっていうのがその人間らしさなんですよね。犬には無理ですよね。とてもじゃないけどそんなことは。
頭が良くても、キリンとかでも、止まることは覚えることはできても、急停車はしないと思うんですよね。
そういうのってやっぱり大脳ってものを持ってるならではなんじゃないかと思うんですよね。
身近には何の危険もなくても危険信号というものを見ただけで、我々はですね、危険なものを見た以上の反応を起こすんですよね。
これがPSポジションの重要性じゃないかと思いますね。
妄想分裂という名前はよろしくないと、ウィンゴットが言った通りよろしくないと僕も思うんですけど、でもだからこそ響いたのかなとも思うんですよ。
分けないとね、世の中は。良いもの悪いものに分けないことには何もできないよなと。
お金があるのとないのの状態に人はすっごい敏感じゃないですか。
無一問っていうのはですね、文明社会で生きているとかなり厳しい状態なんですよ。まさに危険信号なんですよね。
でも無一問なんてあらゆる動物にとって認識すらできないじゃないですか。実態は何もないんですよ。
何もないってことですからね、あれはね。何もないということが危険信号として強烈に響いてくるというのがですね、やっぱり家がないとか友達がいないとか恋人が去ったとか、人によってはもうこれは生き死にに直結するぐらいに思われるわけですけど、実際にはそれは何もないってだけなんですよね。
それが不在論ですけど、何もないってものがもうビービー頭の中で鳴ってくる。時間がもう全くないみたい。時間がないって叫ぶじゃないですか人は。時間がないから何なのみたいな感じじゃないですか。
普通の生き物にとっては。時間ってもともとないじゃんっていうぐらいじゃないですか。実態としてはないんであれは。ニュートンの時間なんて本当にどこに行ってもないですからね。宇宙のどこに行ってもないですから。
いわゆる時計で言うところの時間は本当にないんで。量子力学までいってようやく時間ってものが本当あるのかないのか。でもこれは僕らの生活とは何の関係もない話ですからね。そういうものがなくたってなんてことはないはずなんだけど時間がないって言っても本当に人はめちゃくちゃおざめるわけですよね。
時間がないことは何よりもまずいこと。ハジレ・メロスの世界みたいにね。何よりもまずいことになりうるというそういう話ができるわけですよね人はね。妄想分裂ポジションの妄想なんですよね。で分裂によって妄想はできるわけですよ。
おっぱいがあるとかないっていうのはまさに妄想分裂の世界。これをどうしても境界例の世界にしてしまうんですよね。僕ら日常にあるのに妄想分裂ポジションは境界例の人だけにあるみたいな。理想家と脱可視化の人だけにあるみたいな。
セラピストとクライアントの関係があまりにもべったりになってしまう問題みたいなね。すぐこういう話にしちゃうんですよ。優しいセラピストが私の全てをわかってくれるそれだけでいいのかみたいな。
24:17
それが正規の人の話にしたいのかもしれないですし、次回にしたいのかもしれないですけど、そういうことはおよそ重大な問題じゃないと。それは良いおっぱい悪いおっぱいの話を、ただどこか別のところにまた拡大して投影してるだけじゃない。それは大問題になるかもしれませんが、そういうことじゃないと思うんですよね。
やっぱりね、佐々木がいる、いないが重大な問題だみたいになるのは困るじゃんっていうのかもしれないけど、僕らそういう困りごとならば、もうあちらこちらですでに持っちゃってるわけで、一生それはなくならないと思うんですよ。あたかも自分はそれと無縁ですみたいな顔をできる人は、お釈迦様とかなら別だでしょうけれども。
でもそれにしたってですね、お釈迦様にしてみてもですね、妄想分裂からなぜ彼がその完全にDのポジションにいられると仮にしてですね、それはもう伝説みたいな話に近いと思うんですけど、だって3000年とか前の話ですからね。
Dにとどまれるしてですね。それは何でかっていうと結局リアルに、認識がリアルだからなんですよ。妄想というものから完全に距離を置けるという心理状態をよく知ってるという話でしかなくてある意味では、それはすっごいことなんだけど、でもやっぱりそういうことなんだと思うんですよね。
我々はないっていうものがあるっていう人たちなんですよ。おっぱいがない状態があるとか、時間がない状態があるとか、無一文という状態があるって思っちゃうんですよね。あるんですけど、でもそんな状態はないわけで、これは分裂による妄想によってようやく維持できる一つのすごい偉大なポジションなんですよね。PSポジションは。
で、それがどうしても日常生活に当然の副作用を及ぼしてくるないものがあるって言ってるんだから、それは認識としておかしいわけですよね。ないものはないんで、本当はね。ないものがただないだけだと、本当に動物の生き方になっちゃうんで、我々はないものがある。赤信号というものは危険信号だとか、黄色信号というのは奇信号が伴う。
灯るみたいな言うじゃないですか。残念ながら私もちょっと応援してたんですけど、今場所横綱昇進をかけたこと桜さんが一生4杯でしたっけ。2杯の段階で信号が灯りましたとか言うじゃないですか。これに意味があるのは妄想分裂ポジションを知ってるがゆえですよね。
どう考えたって黄信号は灯ってないわけなんで、それは比喩ってやるんですけれども、この比喩に意味があるわけですよ。でも僕らはここの妄想分裂の言うなら副反応というのか副作用というのか、これに大変大変苦しむわけですね。
27:04
特に夫婦喧嘩って時には会社でもやってますけれども、悪害不安というものが脱ぐえなくなってしまう。妻は私のことを嫌っているとか嫌悪しているとか作り出していくわけですよ。ただ口切らないだけじゃんって言うわけにはいかないんですよ。
どうしてもこう、大変悪く見ているとかね、白い目で見ているとかね、私が何かやらかしたからだとかね、いう話になるじゃないですか。ごく普通になるじゃないですか。すべては迫害不安がそこにつきまとってくるわけですよ。
私は何かをされているってことですよね。被害にあって攻撃をされていると。それが本当かどうかという話はしてないんですよ、ここでは。どうそのように感じているっていうことがすべて。私が迫害されているという感じでいるということがすべてです。
全く同じ現象に対してディポジションだと逆転させられるわけですね、これを。つまり奥さんは今気分が悪いかわいそうだなに持っていけると。それはキレイ事じゃんって話ではないんですよ、これは。同じ現象をどう解釈するかの話しかしてないはずなんですよね。
もちろんその方が人格者っぽいけども、ディポジションってのは要するに不安に思う理由が私が迫害されている不安ではなくなるということです。人を待たせて、ATMで最近ちょっと話題にしましたけども、後ろに長蛇のレスができましたと。
みんなが私を早くどけと言ってる、これが迫害不安であり妄想分裂神聖というものなんですよね。でも後ろの人が待っていて大変だな、かわいそうだなとだけ思えれば、これが欲打つ不安というやつで、気遣える神聖なんですよね。
同じ事態に対して私たちがどう捉えるかは私たちの自由なはずなんですよ。平安は必ずDを通るというのが対象関係論の考え方ですよね。平安はPSからDを経て、そのDの中で欲打つ的でない状態に心の平安という状態があるという。
そしてこの神聖がないと人間社会ではとてもじゃないけどやっていけないのは、我々はずっとPSにいる人は私の知る限りほぼいなくて、てか全然いなくて、まあでもほぼいなくて、ずっとPSの人っていうのはやっぱり人間社会ではとてつもなく辛いので、どう考えても入院とかそういうことになってっちゃうので、やっぱりDには、Dは知ってる。
Dは知ってるんだけど、PSにもしょっちゅう行く。だからPSとDの行ったり来たりをし、迫害不安と欲打つ不安をほぼ同時に感じているような心理状態で生きているというのが多分人間の普通の生き方なんですよ。
いやこれはすごいできてない人間だっていう方へ、非常に理想が高いとは言えると思うんですけど、我々PSとDを行ったり来たりするし、PSの中で関係を破壊して後で後悔する。
30:11
これはだからPSとDのやっぱり行ったり来たりなんですよね。PSになるともうダメだと思って、人間関係を壊すか勝手に自分で引きこもるかして、そこの関係における何かを壊す。
例えば会社に行くのやめますとか、今日は休みますとか、いろいろPS申請の中で出てくるんですが後で後悔する。これはDですよね。悪いことしたかなと思う。
悪いことしたかなと思うというのも2種類あって、悪いことして彼らは都合が悪くて大変だったかなだったら欲打つ不安だし、悪いことして後で罰を受けるかなだったら迫害不安だし、行ったり来たりを頻繁に繰り返すしかないわけですよ。
普通の人の場合は。で、あの人いい人だとか、あの人ってよくできてるよねっていう人はDの時間が長いんですよ要は。あるいはPSにおける破壊を極力回避できている。この辺が社会人一般で良しとされる生き方かなって感じはしますけど、
まあPSとDを行ったり来たりできるんだったら基本それでいいはずなんですよね。PSがすっげー長いとかほとんど人生活をPSが圧倒してくるということでなければ別にいいんですよねと思うんですよ私は最近は。
ただ平安にはDからしか入れない。PSのまま平安にはいけなくて、PSのまま平安に行こうとすると例の対象関係論的に考えるところのパーソナリティ障害に行ってしまうわけです。
PSのまま平安に向かうとするとまず現実を無視するっていう心理的作業が一つ必要になって、現実を無視する代わりに無視するむしろために、例えばお酒を一杯飲むとか、タバコを一杯飲むとか、ひたすらギャンブルに集中するとか、もうちょっとマイルドなところでもひたすらなんだろうな。
この辺難しいですね。ひたすら漫画に熱中するとか、ひたすらゲームに熱中するのはどの辺に位置づけられるだろうみたいな感じのところあるわけです。
でもまあ会社休んでひたすらゲームしてないと心が持ちませんっていう場合、微妙にギリギリラインに入ってくるんだけど別にそれはいいんじゃないのかって話も当然あるわけで、やっぱこの辺は難しいわけです。
ただ、いずれにせよPS申請で白外というものに対して、白外はあるが、しかし白外のことは忘れようということで、白外を忘れるための世界というものを一個別に持つという感じ。
これが万能空想的な世界ってやつですけれども、きっと。そっちに行って、行くことはできないんですけどね、心理的に行くんです。行くことによって白外不安というものから身を守るというか、心を守るものですね。
これが多分人格障害的な対策ということになる。これは人格障害というものに見えるわけです。他の人からの目を見ると、他の人の目を通すと。
33:09
やってることは別にごく当たり前なことなんだけれども、例えば常にヤバそうなことは回避していくっていう考え方が行動になって現れるわけですね。
あるいは常にヤバそうなことが起きると妙に元気になるという、関係全部壊しても大丈夫だからみたいな、そういう怪しげな大丈夫さに頼るわけですね。
無理やり空振りをいっぱいするという、こっちが総的防衛っていう方ですよね。あるいはその、この話もしょっちゅうしてるんで適当に切り上げますけども、あるいはチェックリストを大量に作り、タスク管理を大量にして、
一見したところは何の問題もないように徹底的に整える。この辺になってくるでも、それのどこが問題なのかという話になってもくるんで、問題なのはその人が心理的にそれでつらい場合。
だから本人にしかもうわかんない世界なんですよ。PSなんだけどひたすら仕事をきっちりやることで、PSになりやすいし、PSになるとその人はすごく破壊活動に出るんだけど、基本表には目立ってこなくなる。
なぜならPSが出ないように徹底的にチェックリストを作ってるから、ただそれはPSが出ないように徹底的にチェックリストを作ってるという段階で、人生観がすごい迫害的なものになっているという、そういう意味ではやっぱり脅迫的なパーソナリティ障害って感じがするわけですよね。
で、その人はだから平安に至れないわけですよ。なかなか物の見方がずっと迫害的なんて、迫害不安的なんて、これで失敗すると何を言われるかわからんみたいな、そういう迫害的なものを持っちゃっているということですね。
このチェックリストを使うことで、みんなの便宜が最大になったらいいなみたいな欲打つ不安的なものであればですね、多分平安なんですよ。
これってもう本人にしか絶対わかんないことなんで、なんでチェックリストを使ってるかなんて畳からは見えないわけですからね。不安は目に見えないわけですから。
で、不安の種類に至ってはわかるわけがないんですよ。なんとなくはわかるかもしれないけど、まあわかるわけがないわけですよ。
だからDポジションにいるかPSポジションにいるかは本人にはわかる。迫害されている感じの不安を持ったらそれは基本PSの心理状態。
ただしこれは映ってるんで、しょっちゅう映ってるんで、Dに行って海戸の丸。
極力迫害される不安のことを考えないようになれば、それは迫害されなくなるという意味ではないですよ。
時間は失うし、お金も失うし、人に批判もされるし、クレームも入れられるし、なんなら嫌味も言われるんですよ。
ただ、その時相手を気遣えるのかどうかっていう神聖にあるかどうかなんですよね。
36:04
相手を気遣えるかというのがもう全てみたいなものです。ここをウィニコットは最大限強調したわけです。
相手を気遣えるか。相手が気遣えるということであればそこに相手がいるんだよねということですよね。
相手を気遣えないということはそこに自分しかいないよねということですね。
だから自分しかいないということはナルシシズムの世界に生きてるよねと、現実はスルーされたよねということですよね。
それが良くないと言ってるわけじゃないわけですよ。一旦ナルシシズムの世界は我々は多分作るよねと。
これもまたメラニーくらい面白いことに、いやいやナルシシズムの世界なんて一時的にはないんだと。
こしらえられた人工的な二次的なものしかないんだと。これも私は微妙な議論だと思うし難しすぎる議論だと思うんですよね。
私にはそうは思えないけれどもウィニコットの方が近い気がしますが、でも私たちは確かにナルシシズムの世界を一旦作るんじゃないかなと私は思うんですけどね。
私には赤信号があれで青信号がいいOKっていうのはもうどう考えてもナルシシズムの世界に限りなく近いと思うんですけども、そんな事実はないわけだからどこにも。
だけれども、そこに人がいる。つまり、つまりあれですよ。ATMで後ろに諸団の列ができました。
いたたまれなくなってくるというのはこれはナルシシズムの世界であって相手はそこにいないわけですよ。
私がパージされているという分裂妄想の世界をまず作ったわけですよ。そこでパージされているかどうかはもはや問題じゃなくなったわけですよね。
パージされているというその不安、それは私の心が作り出したものなんだけれども、それによって私の行動が左右されていくということですよね。
相手を気遣うというのは全く自分には本当は関係のないことじゃないですか。待っててかわいそうだなというのは、待っててかわいそうだなというのは相手の心の問題ですよね。
だからそこに相手がいないんだったらこれもすごく妄想的に思えるし、空想の世界に違いな本当はわかんない。
でも相手を気遣えるというのは相手がそこで待っているという事実を気遣っているから外部があるわけですよ。
この状態が現実に妄想分裂の現実よりも近いと、実体の現実に近づいていると。
心の平安というのは実体の現実としてしか得られないと対象関係論的には考えるわけですよ。
だから心がリアルに平安になるということを目指しているんですよ。
心が酒で平安になったような感じがするというのはあくまでも疑似的なものであって、妄想分裂の世界の中から出ないで済むんだけれども、現実の平安には至れてないとこういう感じを持っているわけですよね。
39:02
だけどそれが正気を欠いているとまでは言えないんですよ。
酒で気持ちを紛らわすというのは別に正気を欠いているわけじゃないですよ。
ただそれはすごくこうなんて言うんですかね。
えーと、なんて言うんですか。
その一人遊び的なんですよそれは。
自分で不安を作り酒を飲んでその不安を紛らわすっていうのは一人遊び的じゃないですか。
ものすごく自分しかいないことをやってる。
不安は外から来てるんだと本人は思っているんだけれども、それは赤信号に不安を覚えているようなものであって、赤信号には不安を覚えさせるという意図と機能はないわけですから、車が止まればそれでいいわけですから。
で何のために車止まるかというと、それは馬車がそこを通るからであって、赤というものが何か悪いことをなんとなく意味しているからとかではないわけですよ。
ただ事故を起こした人の観点にしてみれば、たぶんそれはなんて言うんですかね。
やむを得ないですよね、そういう妄想を持ちというのは。
それをトラウマというんだと思うんですけどね。
現実というものが目に入る前に、心が作り出す空想と妄想というものが自分の心に対して深く食い込んでくるという心理状態にあるので、しょうがないんですよね、それはね。
私たちがそういう生き方を選んでいる以上、つまり空想というものを現実を理解するための道具に使い始めてしまった以上は、
言葉って空想の産物なんで、言葉って実体ないですよね、どこにもね。
言葉というのは明らかに実体はないものなんで、これを使ったことの副作用なわけですよ。
言葉のイメージを持ってしまうとか、すべてそういうところから始まっていく。
この辺から話がだんだん象徴化していき、ビオンの方に向かっていって、抽象化されていって、マイナス系とかいう話が始まるんだと思うんですよね。
記号になっていくわけですよね。
このPSとDだって既に記号じゃないですか。
PSとDっていうのは両矢印で行ったり来たりするんだよっていうのを記号で表すわけですよ、ベクトルみたいにしてですね。
それはもう記号の世界なんで、妄想分裂ポジションって言葉を使った時にはもう少し生々しかったはずなんですけれども、
それだと、まず長いし、思い出しにくいし、しかもこのPSとDを行ったり来たりするという概念を表しにくいのでね、
多分それをビオンが洗練させたというわけなんだと思うんですよね。
そして彼は精神病の方、統合主張症の方をよくものすごく買い入りしていったので、PS以前みたいな話が始まる。
PS以前なんて私はまず考えなかったんで、そうかPS以前ねっていう、すごいもう本当によくよくそんなことを考えたなっていう感じがするんですけども、
42:06
人間の普通の人生ってぐっすり眠ってでもいるとか、明定してるとかでもない限り、PS以前について考えることってほとんどないような日はするんですよ。
3ヶ月チャレンジなんかでは私はPS以前なんて全く考えない感じがしてます。
そこまでは人の気持ちの中でヘントを加えたり、ディスカッションしたりするテーマとして持ち上げるのはとてつもなく難しいという感じがやっぱりします。
言葉が全く通らない世界の話ですし、それをさらに言葉でやりとりしようと、ましてオンラインだけでやろうっていうのは本当に難しいですよね。
昨日たまたま3ヶ月チャレンジで時々リアルに人と会うということもするんですけど、会ってみてやっぱり考えさせられるのは、会うと確かに得られる情報はふんだんに増えるんで、
やっぱり言語活動外のところの意識がすごくこう、なんというか働きますよね。
もうそのPSとDが目まぐるしく入れ替わるっていうのも、必死になって追っていけば結構わかる。
まあそれは、要するに喧嘩とかの時にめちゃくちゃあることなんて、別にそんなになんていうのかな、ああ珍しいことだみたいなことではないんですけどね。
それこそものすごくありきたりな話なんですけど、自分の心でも頻繁ですよね。
人を気遣うのか、自分の迫害を恐れるのかっていうのはもう頻繁に入れ替わっていて、
なるほど確かに迫害ということが起きそうだという不安は、基本的には分裂と妄想というものを必ずセットで用意しない限りは生まれてこない。
これがDに近い時は非常によくわかるんですよ。
だから関係の破壊なんてナンセンスだっていうのが本当に非常によくわかるんですよ、不思議なぐらい。
でもPSポジションの時間が長い時には、もはやこの関係を断ち切る以外はないみたいなのがすごく妥当な感じがするんですよね。
だからいかにこのポジションがポジションなんですが、ポジションつってもどこかに移動するわけではないので、
せいぜい自分がある自分がないみたいな話でしかないので、
例えば今私は明らかにDにいるんで、身体の力も抜けていますし楽なわけですよ。
44分経って喋ってるけれども一個に疲れることはないわけです。
これが欲打つのないDポジションの良いところなんですよね。
お釈迦様とは程遠いですけど、心が青空のようだっていうのはこういう状態なんですよね。
非常に楽なんですよ。何にもなくていいんで。
だって心が青空のようなら何にも別になくてもいいじゃないですか。
そこにご飯がないと困るとか、そういう観念はないわけです。
45:00
まして金がないと困るとか、時間が足りないとか、そういう観念は一つも必要。
観念としてあるのはありますよ、もちろんね。
何時には何々をしなきゃいけないとかでも、そういう時間差し迫ってないんで、
肩が凝るとかですね、腰が痛くなるとか、肌が痒くなるとか一切ないわけですよ。
こういう心理状態にある時は。
作り出さない限りは、作り出すというのは分裂をさせない限り、
青空とか二つに分ける理由何もないじゃないですか、我々にとって。
太陽のある辺を赤にするためにここで線を引こうとかしないですよね、絵を描く時でも。
線というものを引かなければならない時には何か訳があるわけで、
それは人が作り出すものですけれども、作り出すべき理由があるわけですよ。
これがですね、やっぱり外にずっと行って隣で咳をしている人がずっといて、
帰ってきて何かちょっと体調がおかしい感じがするって時にこそ、
妄想分裂ポジションというものの意味が一つ出てくるわけですよね。
まず分裂させて、いいものと悪いもの、健康と病気、
ウイルスとウイルスがない状態、病院と家みたいなのははっきり分けて、
病院と外出、外と家ってものをはっきりと分けて、分けた途端に分けることによって、
認識上分けることによって、分裂させることによって、
妄想というもの、まあ空想なんですけど、作り出すわけですよ。
悪いものというのを一旦そこに仮定する。
悪いものというのは、だって我々ウイルスとか病気ってものを見るってことはできないじゃないですか。
見えませんから。だから病気とかウイルスとかそういったものが悪いっていうイメージって全てがイメージじゃないですか。
なんかもうイメージみたいな感じじゃないですか。
しかもそれは視覚的イメージですがないですよ。なんか感じるイメージです。
この感じは私がそれによって被害を被る。
あるいは私の家族、家なり被害を被り、さらにその被害によって、
あなた外に行った時にちゃんと手を洗わなかったんじゃないのとか言われるというような、
奥さんに言われるというような連想をすることによって、
一つのナラティブですよね。物語を作り、その物語が私を非常に苦しめる感じ、
迫害不安というものを持つということまでやって、ようやくこのことの意味というものを検討することができるわけです。
妄想分裂ポジションってのはこうやって使ってるはずなんですよ。
でもこの時に、私はなかなかできない方なんだけど頑張れば、奥さんが病気になったらかわいそうだとか、
娘が病気になって学校行けなくなって部活休むことになったらかわいそうだとだけ思える。
これによって私が責められるという部分を一旦外して、このDの抑鬱的な不安だけに自分を置くことができれば、
この分けるとか、分けた上で自分が迫害される悪いことによって私が苦しむというイマジネーションというものが実は必ずしも必要じゃなくなるわけですよ。
48:00
実態として何か言われる可能性はあるんだけれども、それによって私が何か心理的に壊れていくとかそういうことが起きなければですね、
それによって私の人生が成り立たなくなっていくような事態に発展するということを実際に起きないのであれば、
結局のところ何かを言われるとか、熱が出るとか言ったことはすべて現実が動いていくプロセスにおいて必要な過程がただそこに展開しているだけで、
別に困ること本当はないわけですよね。困りますけどきっとね。
そういうことがPSとDの行き来によって認識していって、私たちは生きているっていうことが100%リアルの側だけで受け入れることができればですね、
多分苦しむってことはなくなるよねっていうのが平安だってことなんだと思うんですよね。
今はそういう状態にあるわけです。ただこれは何も起きてないからそうなってあって、何か起きてもそうであるっていう状態とは違うんですよ。
だから私は別に悟ってるわけじゃないってことなんですよ。もちろん言うまでもないことですが。
結構私はダメな方なんですよ。PSでやられがちなんですよ。
だからこういうことを言ってられるって面もあるんだと思うんですけれども、PSにやられがちなんですよ。
PSにやられてるときってのはよくわかるんですよ。破壊的になりやすいわけです。
いやもうだから家族ってものがそもそもいなければ、こういう発想ってボーダーラインっぽいんですよ。
家族ってものがそもそもいなければさ、別に俺はネズダしても人に文句言われる筋合いないしとかって思いたがるんですよね。
こういうこれを対抗って言ってもまあいいと思うんですよ別にね。子供っぽくなったよねと。
病気になるとそうなるよね人って結構っていうのはあると思うんだけど、
私はこれ対抗だとは感じないんですよねもはやね。子供に帰ったっていうのとは違う感じがする。
50:11

コメント

スクロール