タスクシュートとGood Vibesの早期関与
おはようございます。グッドモーニング ボイスです。
今日は何日だっけ。4月の火曜日だってことは わかってるんですけどね。11日ですね。
4月11日の午前7時34分ですね。 非常にグッドモーニングボイス感が
出るタイミングになってきつつありますよね。 この話聞いてても多分僕ぐらいしか
喋って意味あるなと思ってる人はいないかもしれませんが、 私はそういうことを一応思ってるということですね。
夜中にやることがあってもね。 これは学校が始まったということなんですよ。
要するにね。学校がなくなると、 また割とモーニング感がどっか飛んだような時間になると。
だからつまり僕はこんなに早く 起きたいわけじゃないってことですよね。
言ってしまえば。
今日は昨日の引き、なんていうんですかね。 昨日の続きみたいな感じで話すんだけど。
昨日勢い余って全編とかつけちゃったんですよ。 50分で全編とかつけると、
多分人聞く気なくすなということに気がついたのと、 久しぶりに大橋哲夫さんと喋って、
自分の全部聞き直してみたんですよね。
これは全編後編に分けることはないなと思って、 全編を昨日のタイトルから消してみました。
これ全後編ってなると、もうそれだけでも、 何これセットじゃなきゃ聞く意味ないんだみたいに思う方が、
多分聞く気はしないので、 それをする必要は別にないなと思いまして、
昨日の今日と昨日で完結するのではなくて、 こっちは補足みたいな感じなんですよね。
補足っていうのも多分聞く人の意欲をそぐんで、 補足ではないんですよね。
でも合わせないと完結しない話ではないと思ったので、 別の話として聞いていただければいいかと。
だから今日のはGood Vibesが目一杯中核で中心ですけど、 Good Vibes編ではないかなみたいな感じ。
編ってつけてもいいんだけど、そんなこと言ってると ほとんど全部に編つけなきゃならなくなるんで、
Good Vibes編は昨日のでもいいだろうと。 今日は今日で1回ということにしようと思いました。
今日のお話はわりとさまざま多岐にわたるんで、 そういうときってグダグダになりやすいんですけど、
グダグダ編だと思ってくださればいいかなと。
僕はこういう回の方が内容は実は豊かなんじゃないかなと思うとか、 これだと商用にはできにくいんですけどね。
私のパートナーの大橋哲夫さんはあまり好かないパターンかなと思う。
でもこれは僕の勝手な妄想でね。
彼が別にそう思ってるかどうかなんてわかんないんですけれども、
小切れなパッケージ感は低い回と高い回はあるなとは思っていますね。
今日は予感ですけどね、わかんないんだけど、
小切れになりにくい回なんじゃないかなという感じはちょっと抱いています。
でも僕としては話す意欲は高い方の回、 低い方の回とかがあるわけじゃないんですけどね。
高いことを意識させられてる回っていうことになります。
全部僕の主観の丸出しな話ばっかりでちょっと恐縮ですけどね。
昨日の話を聞き返してみて、私一つ大きなラッキーなところがあるなと思うのが、
タスクシュートにしてもGood Vibesにしてもですね、
私はすごい早々期から関わらせてもらってると。
早々期からといっても、
グラズノさんはGood Vibesを私が知る9年ぐらい前から構想されてたから、
早々期ではないんじゃないかっていう考え方もありますが、
世に出てからの年数を考えると、
僕はかなり早々期の方から関わってきた方かなと。
タスクシュートも同じで、
大橋さんおそらく私がタスクシュートを知る、
ライブ前からタスクシュートをお使いだったから、
そういう意味では早々期から関わってるのは大橋さんだけなんですが、
でも私は世のユーザーとしては、
もうかなり早々期の方からだと思うんですね。
僕の前にお使いだった方がゼロだったわけではないみたいなんですよね、
大橋さん以外にも。
でもこんなにガリガリ使った人間としては、
第1号感はあるかなと思うんですよ。
別に台風じゃないんで、
1号であることに誇ってるとかそういうわけではないんですけど、
ホームランとかじゃないんでね、
1号出ましたみたいなそういうのではないんですけど、
この早々期から関わることによってしか得られない、
独特の、これをメリットと言えるのかどうか、
世の中ではこれをむしろデメリットと言うんじゃないかと思うんですが、
私はこれが大きなメリットだとよく思ってるものがあってですね、
それは整備されてない道を歩くメリットなんですよ。
だから全然メリットっぽく聞こえないんですよね。
メリットという言葉が適切でない気がしますけれども、
タスクシュートで考えると分かるんですね。
タスクシュートクラウドの利用のメリット
Good Vibesでも全く同じようなことがあるんだけど、
タスクシュートはツールなので見えやすいんですよね。
今、タスクシュートにはタスクシュートクラウドとタスクマというものがあるんですよ。
これがない時代があったってことなんですね。
あるほうがいいに決まっているんですよ。
ユーザーさんにしてみれば、
エクセルのVBAしかない時代に比較すればですね、
今恵まれてますよ。
しかも大橋さんのタスクシュートってあっても2ですからね。
つまり1があったってことなんで、
1というものがその名前も微妙な段階で曖昧なうちに使うのと、
タスクシュートクラウドを使うのとじゃ、
それは後半、後のほうがいいんですよ。間違いなくね。
そういう意味ではメリットはないんですけど、
でも私はですね、初号機を使っていた頃の奮闘があったために、
それがなかった場合の理解度とは違うものを得られている気がするんですね。
最近のグッドバイブスについて
それがですね、最近のクラドノさんの一番最近のですね、
私とは何かを定義する必要はないという趣旨の
グッドバイブスのですね、ミッドナイトラクザか。
要するにあのポッドキャストですよ。
クラドノさんの聞いても思ったんですよね。
今のほうが洗練されているわけですよ。
クラドノさんがグッドバイブスを語るその内容も。
つまり聞くほうはそっちのほうが聞いたりセッションを受けたりする人間からすると、
このほうがはるかに伝わりやすい内容になっているわけですよね。
整備されているから。
でも私はもっとずっと前のほうから聞いていたために、
言うこと変わっているわけじゃないんですよ。
ここはすごい大事なポイントなんですけど、
同じことをおっしゃっているんだけど、
最初の頃のほうが分かりにくかったことは否めないんですね。
この分かりにくかったところから聞いていたっていうのが、
大事だなって私は今すごい思っているんですね。
あんまりこのことを言うとちょっと申し訳ないんで、
つまり今更そこに戻ることできないじゃないですか。
つまりタスクシュートクラウドのなかった時代から頑張るってことはもうできないわけですよ。
あるから。
使わずに無理するってことができても、
それとこれとはちょっと違う気がするんですよね。
まだタスクシュートが形を成す前の頃から使っていたために、
その経験を経たために自分の中では固まったものがあるってことなんだけど、
それは今から得るのは当時よりはるかに困難になっちゃったってことなんですね。
事実上ほぼ不可能なんですよ。
今となってはタスクシュートクラウドやタスクマナーがないっていう状態は
もう味わえないと思うんですよね。
グッドバイブスもそうで、
クラゾノさんが人に伝えるにはこういうふうに伝えるべきなんだということを知ってしまったので、
それをご存じない時代に戻ってもらうわけにはいかないんですよ。
もちろんその頃に書かれたブログや本とかがあるから、
今の話は聞かずにそっちの方に集中して聞くとかいうことはできますけど、
でもセッションを受けるとなるとですね、
グッドバイブス切れの理由と対策
あの時代のクラゾノさんにセッションを受けるってことはもうできないわけですよね。
だからしょうがないわけですよ。
そしてそれは決して悪いことでもないんですよ。
ただ僕はその時代から聞いたから、
だから私にはこういう独特の回り道をしてきたというメリットがある。
だからこれメリットとは言えないかもしれないんですけどね。
つくづくそのことを昨日思いまして、
このこととグッドバイブス切れっていうのは関係があるなと。
だから昨日のが前編で、
今日のが後編みたいな言い方をしようかなと思ったんですね。
つまり私にはグッドバイブス切れが頻繁に起きたってことなんですよ。
その頻繁にグッドバイブス切れが起きるってことが、
ある意味私のような時代からやってしまっていたというか、
そういう人間にとってのみとは言わないまでも、
起こりがちだったことだと思うんですね。
なぜなら倉園さんのグッドバイブスが、
ご自身の中ではカチッと固まったとしても、
それを伝えようとしてもですね、
言葉で伝わらない部分ってありますから、
アスクシュートですらありますから、
グッドバイブスだとなおのことあるわけですね。
言葉の洗練の度合いだけではないんですよね。
言葉だけでは伝わらないことっていうか、
同じような体験ができないと、
どうにもならない部分ってあるわけですよ。
これがなかったら宗教ってものは、
多分あんなふうな内容にはなってないと思うんですよね。
直接何かブッダなりが、
悟りとはこういう体験だ、伝えるっていうことで伝わるんだったらですね、
話一発なんですけど、そうはならないからですね、
いっぱい言葉が出てくるんだけど、
結局伝わってない人は伝わってないってことが起こるわけですよね。
このプロセスの中で、
どちらかというともちろんですね、
ブッダよりもなお言葉として伝えるのは上手い人とかも登場するわけですよ。
何千年も経つわけですから。
そうすると洗練された伝わり方をするんだけど、
洗練されたからといって伝わるとは限らないわけですよね。
相手がどう受け取るかっていうのはどうしたってコントロール外ですから。
これが大事だと思うんですよね。
ゆえにグッドバイブス切れは起きるわけですよ。
なぜならば、
倉園さんの持っている体験と同じものは僕は持てないわけだから、
何度伝えてもらってもですね、
一生懸命それを聞いてもですね、
日常生活の中で元の状態に戻って、
しかも結局倉園さんに伝えてもらった、
それはどういうことだったのかを自分では思い出せなくなる。
端的に言うとこれがグッドバイブス切れですよね。
この種のことはいくらも起こるわけです。
言葉が伝えられない部分とグッドバイブス切れ
だからタスクシュートの場合でもですね、
ずっとタスクシュートを使ってましょうとかって言うわけですよ。
使わなくなると分からなくなっちゃうから、
使ってても分かってないときは分かってないから辛いんですよね。
意味もなく使っている感じになるじゃないですか。
でも使っているうちに使っていることによって、
橋越雄が体験しているその体験と同じ体感覚を、
いつか自分の中に持てるようになるからっていう話なんですよ。
一度持っちゃえば使わなくなっていいんですよ。
使わない日が数日あったところで、
それなくならないんですよもう。
つまりこれがタスクシュート切れがなくなった状態なんですよ。
そういうことはないけどね。
でもそういうことなんですよね。
このグッドバイブス切れって何ですかっていう話をしないと、
この話はまとまらないと思うんですが、
この話はあんまりまとまりが良くないなとも思ってるんだけどね。
グッドバイブスとは何か
グッドバイブス切れとは何ですかというとですね、
いろんな言い方があるんですが、
僕の中ではですね、
どれがいいですかね。どれがいいんだろう。
私は2人いるということを忘れちゃうということなんですね。
私は2人いるって言ってもこれは比喩ですよ。
私は2人はいないんだけど。
私は2人いるんですよ、でも。
これがグッドバイブスに、
多分基本に即して言うならば、
肉体としての私と、
何というのが僕の言葉で言えば適切ですかね。
全世界を代表する者としての私かな。
私の言葉で言うとそんな感じの方が近いんですよね。
いやお前全世界代表してないだろって言われるかもしれませんが、
これは昨日も言ったような内容なんですが、
本質としてですね、
私はこの現状にせよ、現在にせよ、
宇宙にないものではできてないんですよ。
こう言えばいいのかな。宇宙にないものではできてないんです。
うんという物的なものに寄せて言うならば、
私は基本的にはタンパク質なんですよ。
だからタンパク質っていうのは、
例えば炭水化物でもいいや。
CとHとOなんですよ。
それがどういう組み合わせになっているかっていう話は、
化け学みたいな話になるんで、やめておいてですね。
アミノ酸とかあるじゃないですか。
アミノ酸とかはタンパク質の方なんだけど、
要するにCとHとOなんですよ。
Nも入ってますけど、
炭素と水素と酸素と窒素なんですよ。
ばらせばね、ばらせばそうなるんですよ。
これは宇宙にあるんですよ。
ありふれてあると言ってもいいと思うんですよね。
ありふれているっていうのの程度問題ですけどね。
もっと言ってしまえば、
分子なんですよ。
もっと言ってしまえば、
元素なんですよ。
さらに進むなら電子なんですよ。
ここまで言えばありふれてあるわけですね。
どこに行ってもあるわけですよ。
宇宙のね。
そうじゃないものではできてないんですよ、私は。
そうじゃないものも入ってますみたいな。
なんかよくわかんない、ダメだ。
こういうのいくら考えても、僕はSF作家じゃないんでね。
電子じゃないものではできてないわけですよ。
原子じゃないものとかね。
これが一つの言い方です。
倉野さんの言ってる通りじゃないんですけど、
原子には形があるからね。
でも我々、原子の形などというのは、
教科書に書いてある銀の丸みたいな、
あれはウソっぱしですから、
あんな風には表現できませんからね、原子なんていうものは。
そういう風に言っていくと、
宇宙と同じなんですよ。
だって同じものでできてるんだから。
同じものでできていて、
同じところにあったら同じものじゃないですか。
で、一番最初からそうだったわけですね。
一番最初から150億年前とかいうのかな。
だから変わってないわけですよ、その点については。
同じところにあって、同じものでできている。
だから同じものなんですよね。
だけど、そうは別に人々は考えないし、
言いもしないし、見もしないし、
私を見て宇宙を代表している人ですとは考えない。
人ではない、宇宙を代表している存在ですとは
別に思ってはくれないかもしれない。
思ってくれる人もいるんだけど、
思ってくれない人もいますよね。
思ってくれない人の方が多いですよね。
ということとは関係なく、
宇宙を代表しているわけです。
でも、全然代表していない存在でもあるわけです。
それがつまり、形がある佐々木標語ってやつですよ。
これは別の話なんですよ。
同時にこの2つのものとしてあるっていうことが、
多分僕はグッドバイブスなんだと思う。
グッドバイブスを忘れていないってことだと思うんですね。
忘れることの意味
これを忘れちゃうとグッドバイブス切れが起きるんです。
忘れた時に、宇宙を代表しているということだけを覚えておいて、
肉体の方は忘れてますならいいんだけど、
こっちは起こらないんですよ。
まあまあ、まず起こらないですね。
もしこれが起きるとすると、
やっぱりちょっと発狂気味に見えると思うんですよね。
私がいわゆる人間社会の中で正気で生きている限り、
どっちを忘れるかといったら、
宇宙代表者である方を忘れるんですね。
そして肉体としての存在だけになる。
そっちの方は当然じゃんっていう風にみんな思ってくれるから、
これがつまり正気ってことなんですよ。
正気というのはコンセンサスの問題なんです。
存在としての私
みんなと同じように考えていれば、
それが正しいか間違っているかとは関係なく、
ここ大事なポイントなんだけど、
そう言われると残念に思う人もいるかもしれない。
でもみんながそう思っている時に、
一人だけ全然違うことを思っていることはほぼ狂気なんですよ。
これ時代が変わると変わるんで、
本当にどっちが正気でどっちが狂気かっていうのは
相対的な問題になってしまうんですよ。
でもそうなんですよね。
1937年頃の段階で、
いや中国は敵じゃないですって言ったらもう牢屋に行くんですよ。
事実上。
つまりそいつは正気の人間ではないという風に
みなされてしまうんですね。
今これを言うとまるで逆のように思われるかもしれないんだけど、
それは時代が変わったからなんですよ。
正気か狂気かっていうのはコンセンサスの問題なんですね。
だから私は肉体としての私で、
個別にここに存在してますって言ってる限りは
現実と空想のはざま
正気でいられるってことになるわけですね。
だけれどもそれだけじゃない部分があって、
しかもそっちの方が大事なんですっていうのが
Good Vibesを忘れてないってことなんです。
だけどこれがどうして難しくなるかというと、
今の正気と狂気の問題が一つあるわけですね。
コンセンサスが取れてない方を信じるのは難しいんですよ。
そうですよね。1936年の段階の話と同じですよ。
実は中国は敵じゃないんだけどって内心思い続けていて、
それを口にも出せず、誰とも共有できない状態は厳しいですよね。
この厳しさが多少Good Vibesにもあるということです。
あれほど厳しくはないですよ。
別に宇宙代表してますと言っても、
牢屋に入れられたりは今の時代はしないので、
全然厳しくはないんですよ。
基本的にそういうことは通常は口にしないんで、
そう思っているだけで。
そう思っているということをどこまで、
途切れずに、だからGood Vibes切れなんだけど、
途切れずに思いを抱き続けられるかということと、
いざって時にそれを思い起こせるかってことなんですね。
このいざって時ってのがつまり、
この番組では繰り返し言ってる妄想分裂ポジションですよね。
このポジションに入りかけた時に思い起こせるかってことなんですよ。
大丈夫なのか?
別にそれ、ただこう言ってるだけであれば、
宇宙代表であろうと、肉体としての佐々木であろうと、
どっちでも良さそうなものです。
それは自分が危機に陥っておらず、
あんまりイリュージョンを見ておらず、平安だからなんですよ。
このどっちでもいいじゃんと思えている時は、
基本的にはどっちでも同じことに近づけるんだけれども、
どっちでも良くない時には、
どっちを捨てるかとなると、多分代表の方を捨てるんですよ。
ところがそうするとドズボにはまるんですよ。
どっちかと言えば、危機に陥って、
妄想分裂ポジションに入りかけた時こそ、
宇宙代表であった方がいいんだけど、逆になっちゃうんですよね。
こっちを捨てちゃうんですよ。
というか、ほとんど全ての場合。
個別の方の私だけになってしまう。
そうすると、とても恐ろしくなる。
あるいはとても不安になるかな。
寄るべないと私が言っている状態ですね。
見捨てられた感じになる。
なぜならば、危機に陥している時に、
私が世界の中でポツンと、
致命傷を負う存在であるから、
ゾッとするような出来事に巻き込まれて、
手も足も出ない。
手も足も出るんだけど、肉体としての自分なんだから、
むしろ手も足も出るんですけどね。
手も足も出ない状態になってしまうから。
これが実はとても些細なことでも、なぜかこうなりがちだってことですよね。
本当に些細なことでいいんですよ。
この番組ではお話していると思いますが、
ガラスを割っちゃったとか、
それで奥さんがすごく怒ったとか、
こんなごくごく些細なこと、
これを些細と受け取ってくれるかどうか分かりませんが、
はっきり言って、些細なんですよ。
この些細な、些細なことすら、
私が、ここで話が大げさなんじゃないかみたいな感じがするんですよね。
感じがするかもしれないんですよ、話としては。
宇宙代表であるから、皿を割っても大丈夫っていうのは、
話がデカいんじゃないかって感じがするかもしれないんですよね。
ビッグバンとか申し出すのは。
でも、まず個別の自分になってしまうと、
私はこれを空想で逃げようとする。
つまり現実というものは、むしろ些細だからなんだと思うんですね。
些細なことなのに、相手は致命傷を負ったかのような、
まるで何か犯罪でもやったように言ってくるように聞こえる。
聞こえるってことなんだけど。
そうすると、現実というものが嫌になってしまう。
現実は些細である上に最悪だ、みたいな。
些細である上に大げさに私は攻撃されて、
大げさに私は傷つけられて、本当に致命傷を負うような気がしてくる。
これは私の現実に起きている出来事の見積もりを誤ってるということに加えて、
自分自身がイマジネーションを使って、
現実じゃないものまで見始めるから、
ここは必ずそういうことが含まれます。
本当に起きていることが悪いことであろうとなかろうと、
現実でないことまで私がイメージしてしまうから、
ひどい目にあい始めたような気がするんですね。
ここでさらに空想を膨らませる。
つまり現実から逃れるために、これが何度も言っている通り、
私が万能になったという空想を抱くんですね。
そうすることで、この事態を何とか切り抜けようと頑張るわけですよ。
切断される現実
これをやることに罪がないというのが、
夢を見ることに罪がないと倉園さんがおっしゃったことなんだけど、
罪はないんですけどね。
だってこれは大変こう、何と言うんですかね、
ある種、知説ではあるけど切実なやり方ですから、
罪はないんだけれども、知説なんですよ。
子供っぽいと言えばやっぱり正しいと思いますね。
クラインが赤ちゃんのやり方に例えたように、
子供っぽいわけです。
だって現実に酷い目に遭いそうだから空想に逃げるっていうのは、
子供のやりそうなことですよね。
でもこれをやっちゃうんですよね。
これをやりだした時に私たちは、
現実というものから切断される。
切断か。
切り離される。同じことですね。
あれですね、なんかこう、
この例えも良くないかもしれませんが、
スマホがWi-Fiも4Gも切れたような感じになるんですね。
現実と妄想の境界
なんかでも完全に僕はここで、
倉田さんが分離とか切断っておっしゃってるんで、
そうなんですが、
空想で現実から逃避したからといって、
なんかこう完全に現実からブツッと切れるわけじゃないじゃないですか。
だからなんかこの4GとかWi-Fiと今言ったのは、
こういう余計なことを言うから話が伝わりにくくなるかもしれませんが、
3Gは続いてるような気がするんですよね、どっかで。
切断と言って、もう完全に途切れるということは起きないんですよ。
死んじゃうんで、そんなことが起きたら。
つながってますから、やっぱり世の世界とは。
だって空気吸ってるじゃないですか。
妄想分裂ポジションに入ろうとなんだろうと、
本当の意味では途切れないんですよね。
でもまあ、空想の円幕をボンと張るので、
自分の心は現実から完全にこう、
有利っていうのが近いかな。
遊ぶに離れる有利した感じになってしまうんですよね。
今この辺で私はGood Vibes切れから、
なんかこうずれてグダグダな話をしてる感じがするんですが、
この有利によってですね、
私は宇宙代表観を完全に失った感じを抱くんです。
つながってるんですよ、3Gみたいなもので。
弱々しくはつながってるんだけど、
もう頭の中では完全に孤立してしまうんですね。
これが起きた時に、ひどい目にあいつつあるし、
妄想の中に私は入り込みつつあるし、
要するにあれですよ。
奥さんに対してとか、
ガラス割ったとか言って怒ってる、
まあ母親に対してなんですけど、
遠距離ミサイルで反撃したり、
火炙りにしている復讐妄想とか、
すいません今適当に喋ってますから、
本当は僕違う妄想を抱いてるんだけど、
こういう妄想みたいなもの、
妄想だから何でもできるわけですよ。
抱いているということにしよう。
本来の性質を思い出す
何よりも大事なのは、
ストレスを受けつつあるから、
ストレスを与えてきた幻境を、
悪、悪ね、幻境です。
幻境だとみなしているわけですね。
この幻境にいずれ天罰が下るだろうぐらいな空想をするわけですよ。
空想だと思ってますよ。
天罰下らないだろうなって思うのが僕の習慣なので、
天罰とかは僕は信じられないタイプの人間なんだと思うんですよね。
だから一層悔しくなるんだけど、
空想はするんですよ。
この空想は全然大事じゃないんですよ。
宇宙代表ならねって話なんですよ。
この宇宙代表というのは、
サイズ感が出ちゃうんですけれども、
僕はここで大事なのはですね、
どっちが大事ってことは全然ないんだけど、
僕はここで大事なのは、
その本質ということなんですよ。
昨日盛んに思い出す思い出すって言ってましたよね。
お父さんとお母さんが生まれる前の自分、
本当の自分って言うんですけど、
それを真面目って言うんですよね。
だから面目を施すの面目はあれなんですよ。
禅の言葉らしいんですけどね。
仏教用語って言うべきなのかな。
とにかく本当の自分です。
これは倉友さんが仰っている形のない本当の自分と、
僕はイコールだと思っています。
つまりそれは宇宙全体と繋がっているんだから、
宇宙全体なんだけど、
それの本質なんですね。
だから思い出すというのは出来事じゃないってことですよ。
どんなに頑張っても僕らがビッグバンを思い出すってのは
難しいと思うんですね。
そうではなくて、
自分の本来の姿を思い出す。
というか、
自分の形がないのに姿はおかしい感じもするので、
自分の本来の性質を思い出すっていうのが
僕の漢字では近いです。
で、これを倉友さんが
愛そのものっておっしゃるんですね。
本質というのは愛そのものであるっていう風に
おっしゃるわけですね。
だから宇宙代表であるってことは
愛代表であるって感じなんですよ。
こういう言い方をした場合はね。
今のは形式的に話を整えましたけど、
愛そのものであると。
どれをとっても愛。
一元論と性善説
さっき言った通りです。
どれをとっても電子だってことで、
その最初の形が
愛そのものだったということであればですね、
どれをとっても愛そのものだってことになるわけですよね。
なぜならば、
同じものだったからですね。
同じものなのに、
敵意を持つ理由なんにもないじゃないですか。
これが性善説ってことなんだと僕は思うんですよ。
だから、一元論は性善説になるって
僕は信じているんですよね。
なんか話がちょっと哲学用っぽくなりましたけど、
一つしか物事が最初になかったのに、
敵意を持つとか悪意を持つっていうことは
ありえないんじゃないかなって
僕も思っちゃうんですけどね。
この辺僕は、
本当のところ性悪説ってものが
よくわかってないような気はするんです。
性悪説って世の中にあるじゃないですか。
かつて中国にはあったとされてますよね。
古代中国には。
僕は性悪説を取るんだったら
二元論は絶対必要だろうと思うんですね。
天使と悪魔的な話ならわかるんですよ。
天使があるんだけど、
それに対して悪魔があって、
つまり同じところからは出てこない
二つのもの。
多分サイエンスの科学の
教育をしつこく施されたので、
教育って今、科学を施すじゃないですか。
どうしても一元論に走りたくなるわけですよね。
そうじゃないですか。
酸素と炭素と水素がありますって言ったら、
定義と哲学的概念
じゃあそれは何からできてるんですか?
っていう話にしたくなりません?
子供ってそういうじゃないですか。
育てられた子は一層そうなる傾向がある気がするんですよ。
じゃあそれは何でできてるんですか?
っていう二元論を許さないんですよね。
異なる二つのものがあったら、
ではそれらはどういう共通の性質の一つのものなんですか?
っていう一つへ一つへと向かっていくじゃないですか。
で、人の一つがビッグバンだってことになった場合、
それが善か悪かって問うのはおかしいと思うんですよね。
だったらそれは善でしかないんじゃないかっていうのが
悪ってのは何かに対抗するものだと
いうふうに思うんですよ。
これは私の心根が善だとかいう話をしているのとはちょっと違って、
二つのものがなかったら悪って意味をなさないんじゃないかなっていうのが
僕の単純な感覚なんですよね。
一つしかないんだったら、
ただそれだけのものであるのだから、
これはプラゾンさんが愛そのものであるっていう言い方をされるんだけど、
同じことだと僕は基本的には思うんですよ。
攻撃するには対象がいるじゃないですか。
対象もないのに、一つしかないんだから対象はないわけで、
対象もないのに攻撃するっていう概念はないと思うんですよ。
だから無垢と言ってもいいと思うんですけどね。
こういう言葉を出すと思い出すのが、
ニギリスにウィリアム・ブレイクって詩人がいて、
経験の歌、経験の歌っていう詩を書いてるんですよ。
あの話ってこの番組でも1回ぐらいは喋ったと思うんですけど、
無垢だった頃には何も悪いことはなかったんだけど、
経験というものが起きてから悪いことが起きた。
まあ聖書っぽい話なんですけどね。キリスト教っぽい話なんだけど。
で、羊たちの沈黙の前のレッドドラゴンという、
レッドドラゴンってウィリアム・ブレイクの詩のタイトルなんですよ。
あそこに出てきますよね、ブレイクがね。
つまり無垢の歌、経験の歌っていうのを小説の最初に詩とか掲げるじゃないですか。
カッコつけるために。あれカッコつけるためだと思うんだけどね。
そういう話なんですよ。
経験というものを減ると人は攻撃的になったり、
悪いことをしたりしないわけにいかなくなるっていう話をしてるんですね。
これはフラゾンさんの言うところの一つ意識と個別意識そのものだと思うんだけれども、
そういう詩人がいたんですよ。17世紀か16世紀かな。
ニュートンをやたらけ嫌いしてるんですよ。
ニュートンって個別意識の代表者みたいなものなんですよね、ブレイク化すると。
そういう話があるわけで。
だから1個しかないなら無垢に決まってるんじゃないかと思うんですよね。
1個しかないんだから。
2個あるからこそ対抗とか比較とか攻撃とかいろいろ出てくるわけじゃないですか。
1個しかないのに対抗も比較もヘッタクレもないわけですよ。
だから1個しかないんだったら正前説なんじゃないかな。
僕はだから一元論に走るものはすべて正前説をとっていることになると信じてるんですけどね。
もう大体これで話をし尽くした感があります。
つまり一つであるということに、もともと一つであったということに思いを馳せたり、
自分はその一つというところからやってきた、もともと一つのものなんだというふうに意識した瞬間に、
善になっちゃうということなんです。
同じものなのに同じものを攻撃するっていうのはおかしいので、
同じものに敵意を持つとか同じものを恐れるというのもおかしいので、
同じものは恐れられないんですよ。
恐れる以上は異なるものなんですよ。
正前説と個別意識
質義が違うはずなんですよね。
それが僕にはイメージできないから、
イメージできない以上は正前説に立っていると思うんですよね。
どんなに自分を危機に落とし入れるような出来事が目の前に起きたとしても、
その人は宇宙外から来たわけではないわけですよ。
何かすごいとんでもないクレームを書くから、
その人はビッグバンじゃない宇宙から生まれてきて、
それは宇宙ではないよね、すでにね。
異生物なんだと僕は思ったことがないわけで、
思うのはすごくある意味難しいなとも思うんですよね。
例えば東宝失調症とか、
例えば迫害妄想とか、
つまり隣の人が私の悪口を言っているという、
人が苦しんでいるから、
人を傷つけたり攻撃したりするというこの発想は、
僕は正前説だと思うんですね。
つまりその人が何か、
倉園さんが言うGood Vibesというおかしな行動というのを取るのは、
理由あってのことだよという話をしているわけじゃないですか。
理由がなければその人はそんなことはしないんだというのは、
本質は善だということでしょう。
そういうふうに考えるしかなくなっていくような気がするんですね。
この話をうんとですね、
強大に膨らませているだけなんですよ、ある意味では、
Good Vibesというのは。
その人の本質は理由がなければ悪いことはひどいことや、
理解不能なことはしない。
つまり理由が全部なくなれば迫害されているとかいう、
そういう変な妄想がなくなればね、
昔親に虐待されたとか、いじめられたとか、
そういうことが一切なければ、
その人の本来の在り方としては、
その人は理解できる人だし、話も通じる人だったら、
それは生前説じゃないですか。
Good Vibesの本質
今どういう振る舞いをしているにしても。
この話を非常に拡大して拡大していって、
いきさつがどうあれ、歴史の中でどうあれ、
元々は、大元は、つまり一番最初に生まれた時には、
ビッグバンですよね。
ここに戻れば、みんなそういう妄想を抱いて、
迫害されたと思って、
おかしなことは取らなかったんですよ、
っていう話をしてるんですよね。
これを忘れないってことなんですよ。
そうするとGood Vibes切れは起こらないと。
これで多分、昨日の引き取りとしては、
言い尽くした感があるわけです。
で、もう一つの話。
つまり、私はどうしてこの話を、
ある意味、回りくどくというのか、
別にクラノンさんの話し方が回りくどいわけじゃないんだけど、
うよ曲折を経て、4年も5年もかけて理解した方が、
もっと洗練された形で伝えられるより良かったなと思うのは、
これを理解するのに苦労したからなんですね。
だから、メリットというのはどうも適切でない気はするんだけど、
でも良かったっちゃ良かったんじゃないかと思うわけですね。
というのは、私は順番として、
確かに今、フラゾノさんがポッドキャストでおっしゃってるみたいに、
全てを怖がるものの見方はやめましょうとか、
考え方を変えてくださいという話をされるよりも、
価値マックスとして接されるとか、
愛そのものとして接されるという方を、
そのやり方の方が先進的というのかな、
そういうものであって、効果も大きいんだと思うんですね。
多分、効果が大きいんだと思うんですよ。
カウンセリング効果みたいな、セッションの効果として。
つまり話を早く理解できるということになると思うんだけど、
私は順序としてはそうは実際にはならなくて、
考え方を変える方向に全力を尽くしたわけですね。
私はそういう方が機質に合っている面もあるとは思うんだけど、
とにかくそうであったということです。
考え方を変える方向をまず、総力を挙げてそっちに向かったと。
その頃は切実にミドルクライシス的な危機に陥っていたし、
これは一種の対人恐怖症の一形式だったと思うんですけど、
いわゆる家庭内不和恐怖症みたいな、そんな症状はないけどね。
そういうものが僕のやっぱり最大の問題だったわけですね。
というのは、つまり僕はやっぱり職場が家なので、
家庭内不和以外に本当の危機ってある意味ないわけですよ。
僕には上司がいないし、同僚もある意味いない。
一緒にやっている倉田野さんとか大橋さんとかJ松崎さんを同僚というなら、
そういうようなものかもしれないけど、決して同僚じゃないから、
契約をつとつど同僚的に結んでいるというわけでもないですしね。
いないといえばいないわけですよ。
たまにもらうクレームが私に本当の危機をもたらすかというと、そんなことないんですよね。
なかった。
ツイッターで悪口を書かれることが本当の危機かというと、
半日経って寝れば僕はだいたいそんなことは忘れてしまうんですよね、大筋。
情緒的には忘れちゃう。
知識としては意識していても、情緒的には忘れてしまう。
だいたいそんなことはブロックすれば済む話じゃないですか。
Good Vibesの経験と効果について
私なんかはそう思う方なんですよ、簡単に。
そういう問題ではないんですよ、家庭内不和というのは私にとっては。
家庭でもあり職場でもあるので、この問題に僕は結構とらわれていたしこだわっていて、
そこに今は落ち着いているけど問題解決したわけではない実家の課題が私に降り注いできて、
そのこともまた私が責められているような迫害妄想ですよね、これはね。
対人恐怖症には迫害妄想があると思うんだけど、
そういう対人といった時の人っていうのが身内にひたすら限られてくるわけです。
これはこれできついんですよ。
もちろん外に行って人が怖いです、つまり赤の他人でも怖いですっていうのは大変つらいと思うんですよね。
だって赤の他人いっぱいいるわけだから。
でもひたすら身内にパージされているっていうのかな、僕はそういう印象を抱くんですけど。
雪合戦のね、冷たい硬い氷の球をバンバン投げつけられているような感じというといいですかね。
冷たくて痛いんですよ。
一個一個で致命傷は合わないんですけどね、雪合戦だから。
石ぶつけられているのとは違うんで。
でもすごく家でそれをやられるストレスというものがひどかったわけです。
こうやって今話すと大したことは起きていないような気もしちゃうんですけどね。
これを考え方を変えるということで何とかしようと奮闘していた気が今思うとするんですよね。
確かにくららんさんがおっしゃる通り、それではうまくいかないのかもしれないし、
うまくいかないケースも多いと思うし、
当時の自分がすっごい上手くいってたのかというと微妙な面はあったにせよですね。
私はやっぱり一気にこれで楽になったし、
一気にこれでいろんなプロセスが解けていき、
少なくとも家庭内不安などという状況は解消されたんですよね、割と急速に。
これはもうGood Vibesに足を向けて寝られないなって感じになったんだけど、
ここからなんですよ。
ここから一応問題解決をするわけだから、
なんつーのかなこれを。
例えば不眠症という問題は、不眠という何か不眠の原因があるんだけど、
睡眠導入剤でも解決するじゃないですか、寝られるようになれば。
ここから先行くのかどうなのかっていうのはその人その人の選択だと思うんですよね。
私はその後もずっとGood Vibesに私としてはべったりだった感はあるので、
未解決な課題と今後の選択について
ずっとそれをやってたんだけど、最初の目に見える効果みたいなものはその後は起きなくなるわけですよ。
なぜなら私の課題のほぼ93%は身内の問題なので、
実家の方は片付いてないから、
こっちはそしてそんなに痛みも重大ではないけど、
話はもっと深刻な上にそんなに片付かないわけですよ。
片付くっていうような問題でもないわけですね、身内の方は、実家の方は。
だから、とりあえず家の問題が穏やかになれば私としては問題の9割は解消されてしまうので、
そこでいいわけなんだけど、
その後、倉殿さんがGood Vibesというものを本質をもっとより良く、より効果的に理解するための方法は見出されていくと。
この順番が僕にとっては正しかったというか、良かった気がするんですよね。
あの上を曲折の効果があるんだかないんだか、
途切れ途切れになり、Good Vibes切れを頻発させられるという、そういう苦痛が起こるわけじゃないですか。
当然、この方法本当にこれでいいのかみたいな、ただただ奥さんにいいようにされるだけじゃないのかみたいな疑念をいたきながらやっていく方がですね、
そうすると苦しむんだけれども、いいと思うんですよ。
それはちょうど元祖のタスクシュートをあのExcelで並び替えて、ボタンもなく、はっきり言ってパソコンの前にいないとタスクシュートができなくなるというね、すっげえ不便なわけですよ。
私の今なんかだと、娘の食事を用意し弁当を用意するたびにこう、開始終了、開始終了ってボシボシ打つという、やってたんですよ。
ちっちゃいパソコンを使ってボシボシ打ってたわけですよ。
そして人からも華厳な顔される、お前それをやめた方が効率的なんじゃないかと、その通りなんだけど多分ね。
タスクシュートとグッドバイブスの比較
だけどもそれをやめずに、それこそガラスをそのせいで割って見たりして、すっごい腹を立てられるというようなことを下手から、私にとってタスクシュートというのはある意味、
思想以上のものとなるというか、関連だけではないものになるわけですね。
だから時々仕事術とかのインタビューを受けて言われるわけですけれども、
そうしたらどうしてスラスラと仕事のタスク管理の話だとスラスラと何でも答えられるのかと言われるんだけど、
それは僕の中にあるからなんですよ。答えがあるのではなくて、
どう言えばいいんでしょうね。答えがあるのではなくて、私たちは答えとか知識を知らなくても呼吸の仕方を忘れない。
あ、これじゃダメだな。泳げるようになった人は泳ぎ方などというものを意識することなく泳げるわけですね。
それと全く同じなんですよね。タスクシュートというものがこのような形で体に染み付いてしまえばですね、
それについてどういう質問が飛んで飛ぼうと、特にそれについて詳しくない人からの質問などというものはですね、
こういう言い方おかしいんだけど、ある意味眠ってても答えられるみたいな感じがあって、
ノーションとか何かタグを付けたエバーノートの知識とかを引っ張り出すようなのとは全然違うということです。
そういうふうにして泳ぐ人いないでしょ。クロールの仕方というのをシャープクロールみたいなので、
引っ張らないとクロールできなくなるなんて人はいないじゃないですか。それと同じようになるわけですよ。
これがウッドバイブスで、私にとってはウッドバイブスなどというのはタスクシュートよりも2倍ぐらい、
クラゾンの価値マックスを取り入れた経験
2倍っては効かないぐらいこの種のことを必要とするんですよ。
体の中、体そのものになるぐらいにならないとギレを起こすことがあるんですね。
これをちょっと言い過ぎるとあれなんで、これは私にはそう感じられるし、私にとってそうであるという話です。
私限定にしておいてほしいんですが、そういうことなんですよ。
特にやっぱり個別セッションみたいなときにこれは重要なんですね。
これはクラゾンさんにも時々お話いただくんだけど、まさに個別セッションになったときに非常に大きな意味を持つんですよ。
目の前にいる人はクラゾンさん流に言う流じゃないんでね。
愛そのものとか、最初は愛そのものというよりは価値マックスの方が私はセッションでは重視してます。
同じことなんですけどね。
同じであるということなんだけど。
あるいは無条件で信頼するってやつね。
この辺ですよね。
この辺を携えてないと、とてもやってられないということもあるということですよ。
とてもやってられないということも。
あんまり最近クラゾンさんおっしゃらないんだけど、私は愛そのものと並行して善そのものっていうのは、これはもう割と最初の頃から意識してたんですね。
これも誤解を招く言葉だから使われないんだと思うんですけど、正善説って話は最初の頃はされてたんですけどね。
善だと善悪みたいになっちゃうじゃないですか。
でも愛の反対の言葉がないってクラゾンさんがおっしゃったように、善の反対の言葉は僕はこの場合ないと思うんですね。
善の反対悪だろって言われると困るんですけど、善でしかないんですよ。
なぜなら一つだから。
一つなのに善と悪っておかしいじゃないですか。
二つになっちゃうじゃないですか。
善そのものなんですよ。
反対の概念はないんですよね。
もうだいたい打ち切るべき時間だと思うんですけれども。
特にセッションとかの時はね、価値マックスだし、この人は私にとって価値最大だというふうに意識して、善そのものだと。
そうじゃないだろって言われるかもしれないんだけれども、そうじゃないというふうに考えてはダメなんですよね。
できなくなる。
さっきも途中言った通りです。
悪害妄想を抱いていようと私に罵声を投げつけようとですね。
罵声なんか投げつけられたことはないんですけどね、ほぼね。
理由あってのことなんですよ。
その理由がイリュージョンなんだけど。
本質としてそうではないということなんです。
これを信じないんだったら、
カウンセリングだの、個別セッションだのは最初からないも同然じゃないですか。
これを信じないんだったらですね、何の意味もないことをやってることになってしまうはずなんですよね。
グッドバイブスとは何か
善そのものというのを、それが今目の前に見えるぐらいだったらそもそも私のところには来てないというか。
価値マックスの方が多いな。
どちらかというと、目の前の人が悪そうな人に見えたことはないんですが。
自分の価値を信じられないっていう風におっしゃってるケースの方が普通なんですね。
多くの場合、いろんな表現を取りますけれども。
自己肯定感という表現もこの場合取られますけれども。
だけども、私の方はそれと同じ見方をするんだったら何の意味もないですよね。
だからこの人は職場でどう思われているか。
家でどう思われているか。
それとは何の関係もなく価値マックスなんですよ。
なぜなら、みんなそうだったから。
そして、そうでなくなったことはないから。
だからこれは蔵野さんがよくおっしゃる論法で、自分も価値マックス。
このことを観念としてこうやって身につけておくんでもいいんだけど。
実際にセッションがうまくいけば、
相手の人はだんだん価値マックスと、ただしにいかなくても
そんなに価値がない存在だとは思わなくなってくれるわけです。
それができれば自分の価値というのも、私の方ですね。
自己肯定感と存在の意義
やってるだけに信じられるじゃないですか。
こういうことは実地にやっていくしかないんですね。
それはつまり、自分は宇宙代表だけではないからなんですよ。
全そのものだけではないからなんですよ。
肉体を持っちゃったからなんですね。
持っちゃったっていうのも変なんですけれども、
でもそういう身体あるものとして、形あるものとして、
ここに置かれてみたから、置かれてみてるわけですよね。
そこでこの身体を使って宇宙代表だった場合、何ができるかってことなんです。
そんなに大したことはできなくなるんですよ。
形があるものになっちゃったから。
つまり一瞬でどっかに飛んでいったりはできませんからね、この形は。
だからこの形がある場所で何かできることができる環境の中で、
一番意義が深そうなことをやるとしたら何ですかっていう問いが立てられている存在になっているということですね。
これって昔、ビクトル・フランクルの本で読んだことがありますね。
あなたは問う存在ではないんです、問われる存在なんですっていう表現を使ってましたね。
あれでもいいんだけど、あれだと話が過酷になりますからね。
あの人はアウシュビッツに入れられた人なんで、そこまでじゃないじゃないですか、私の立場っていうのは明らかに。
そこまで深刻にこの課題をやらなくてもこの課題ができるっていうところに、
それこそおさらわっちゃった的な課題で済んでいるってところにまたこれの良さがあるという話もあるんですよ。
だからやっぱりどこに自分が置かれたかっていうのはそういう意味では大事なわけですよね。