心理カウンセリングと3カ月チャレンジ
おはようございます。グッドモーニングボイスです。第1123回をお送りします。
1月の何日だっけ、21日火曜日7時53分ですね。昨日ちょっとスキップしちゃいましたね。
お知らせはもうあまり、今残念ながらありませんが、
引き続き、第9期の3カ月チャレンジは募集はかけておきます。
今からでも、遠慮はいらないので、遠慮される方がいらっしゃるみたいなんですけど、
ご遠慮していただくことはないので、ぜひ何か興味がありましたらチェックしてみてください。
一応、Googleカレンダーで私の予定の秋を展開しておりまして、
あの中であれば、私は都合悪い日は原則ありませんので、
1日入れてみるみたいなことはやっておいていただければですね。
別にドタキャンしていただいても大丈夫なので、まだ秋はいくらかは残っております。
で、2月以降なんですけど、さすがに2月すぐはですね、ちょっと体制というか、
第9期の3カ月チャレンジを優先してやらなければいけないのと、
今あとあれなんですよね、Jさんとやってる、J松崎さんとやってる、
100日チャレンジの第10期が滑況停止しておりまして、
こちらに回してる時間もなかなかなので、時間的な余裕がですね、少し足りないんですよ。
だから第2月になったからと、2月になった直後はちょっと難しい顔なんですけど、
2月の中旬以降になったらですね、必ず、多分必ず、多分必ずは必ずじゃないな、
個人セッションを、個人セッションだけのというのも用意しようと思っておりますので、
それはちょいちょいですね、公的にはっきりと出せるのは4月くらいになっちゃうかもしれないんですけど、
必ず用意しようとは思っておりますので、
こういう3カ月チャレンジとタイミングが合わなかったという場合の方に向けて、
個人の時間を、そうだな、でもあれがあるんだ、
確定申告が残ってるから、その後になっちゃうかな、やっぱり2月の下旬くらいになりそうな気が今してきました。
そうだった、というわけですね。
2月の下旬くらいには空いてる時間は個人セッションのために、
ふんだんに開放、ふんだんに開放してもそんなに見た目に広がらないと思うんですけど、
精神分析の書籍とその影響
なるべく開けておこうと思っていますので、そちら合わせて見ていっていただければと思います。
今私、趣旨状況的に言うともう3カ月チャレンジと100日チャレンジ合わせればですね、
これ足りるんだということがわかってきたんですよ。
そうは言っても娘が今高校になるので、大学に入るので、
多分そこをちょっと趣旨的には乗り切らないとっていうのはあるんだけど、
ここを乗り切ってしまえばもうですね、多分もうそこを乗り切る乗り切らない以前に何とでもなる感じになってきたので、
極端に言うと3カ月チャレンジをますます増やしていけば、
私はもう食うのには困ることは多分ないんだなっていう感じがするのと、
3チャレは全然やっていけるっていうか、
やっていけるかどうかが全てではないサービスだと思うんですけれども、
でもやっていけるなって感じになったんで、
ここまで来ればですね、あとは3チャレと100チャレを自分の中でどういうふうに、
自分をなんですよね、自分を3チャレのためにどういうふうに育てていくかということだけを考えるべきなんだなと、
いう感じが最近はしておりまして、
今日はクソの話をしたいと思うんですけどね、
だから、3チャレと自分をいかにこう、
そういう方面、3チャレを育てるという、
合わせて自分を3チャレ向きに育てるというのかな、
そういう感じにしていくかが、もう一回頑張るべきところだというふうに思いますので、
そうやってやっていこうと思っているわけですよ。
そうやって考えると、
言うなら3チャレが増えればいいというか、
3チャレが増えればいいんではなくて、
私が3チャレに関わる時間を増やせばいいんだと。
何だっけ?
本を読むんですよ、要するにそれは。
何でそれが本を読むことになるのかと言われると、
本読まない、本読むしか僕にはやれることがないからなんだなと思ったんですよね。
分析系の本ですよ、要するに。
それやっても分析できるようにならないというのはそうなんですけど、
この話も合わせておいおいしていこうと思っているんだけど、
おいおいというか、脅威していこうと思っているんですけどね。
そういうことを考えていけばいいんだと言った話をします。
でですね、いい本だったんですよね。
精神分析を語るという、
なんていうかもう本当にうる気が感じられないですよね。
全然知らない子はなかったんですけど、
これも3カ月チャレンジの参加者さんに教えてもらった本で、
いや面白いんですよって言うから間違いなく面白いんだろうと思って買おうと思ったら
Amazonで在庫切れで何かいつ入荷されるかわからんみたいなノリだったんで、
楽天ブックスに久しぶりにやったら楽天ブックスいいっすね。
速攻届いたし、Amazonより梱包が丁寧なんですよ。
ここで比較広告をする気はないんですけど、どうせAmazonで使うしね。
でもすぐ来たんですよ。精神分析を語る。
で、著者というかカナエ団のやつで、藤山直樹さん、松木邦博さん、
この2人はこの番組でもこの番組でお馴染みなどということを
日本で知ってる人はいったいどのぐらいいるんだろうと思うような話ですが、
もう1人ですね。
細沢さんって方かな。
あのー、細沢さんっていう多分方なんですよね。
びっくりしたというか知らなかったんですよね。
それもどうかと思うんですけど、存じ上げずに、
いや読んでみてすごい、いやこれは面白いなと思ったんですよね。
細沢さんっていう人のお話というか何というかなんですけど、
藤山直樹さんの本だと思い込んでいたんですけど、
これカナエ団だったんですよね。
Amazonでは藤山直樹他って書いてあるんで、
いや他ってやめてよっていう感じなんですけどね。
藤山直樹さんと松木さんと細沢さんって方だったと思うんですよ。
名前は僕は相変わらずいつも通り適当なんで、
気になる方は細沢陣さんかな、ひとしさんかな。
いわゆる任弁22って書く名前の人なんですけどね。
この人が企画した本らしいんですよね。
だから細沢さんの持ってき方が面白いんですよ。
この人も精神分析家なんで訳分かって喋ってるんだけど、
訳分かんないように喋るのが上手い方で、
こういう方っていらっしゃるんですよね。
さも何も知らないかのような、
結構いろんなこと知ってるのは確実に読んでれば分かるんですけど、
でも割と遠慮なく突っ込んでいくみたいな感じで、
これが非常に面白い本ででして、
この精神分析を語るを読みながらですね、
私はだんだん自分がやってることの意味というのがですね、
いろんな意味でよくつかめてきたんですよね。
野良カウンセラーと近代の構造
最近本当にそういう体験が多くて、
先日夫婦関係学ラジオの名前忘れるっていう、
厚志さんって方と対談しましたね。
この番組でも出しましたけど、
そこで僕はその野良カウンセラーというものの位置づけみたいなのを、
ああいうことをですね、外部のそれっぽい人と喋るっていうのを、
私は割と今年の可能ならばつかんでいこうと。
まあね、これやりたくない人の方が多いと思うんですよね。
野良カウンセラーと言われたい人いないですから、
何らかの形で違うものになっていて、
この人がわざわざ野良カウンセラーのことを
よく言うのも悪く言うのも気が進まないと思うんですよ。
一方で正規の人とそういう対談をしようとしてもですね、
正規の人は正規の人で、やっぱりそういう話はあんまりしたくない人多いと思うんですよ。
まあめちゃくちゃ悪く言うみたいなことを望んでる人は、
そもそも私と対談しないでしょうし、
よく言うって人もなかなか立場上難しいと思うんですよね。
結局この話出てこなくなるんですよ。
構造的にそうなってる気がする。
まあそうは言っても出てはくるんですけどね。
私、本当に作種って言葉ダメだなっていつも思っていて、
なんかナンセンスなものを感じるんですよ、ものすごくね。
正規っていうものを規定しないと、
非正規ってものは意味をなさないじゃないですか。
で近代っていうのは多分やっぱこう、武器と医者なんですよね。
しかも武器と医者が時々、
軍医っていう言葉があるとセットになったりするわけじゃないですか。
これを国が管理したがるのは当然ですよね。
塩しか取れないところは塩を国の管理下に置きたがるのと、
よく似てる話だと思うんですけど、
そこを人的資材をですね、近代は徹底的に管理するっていうのがもう普通になったんですよね。
でもこれは人権と相まって、やむを得ないといえばやむを得ないんでしょうね。
ただこれをとことんやるというのは結構みんなを不幸にするので、
どうやってある程度のところで抑えておくかというのがあると思うんですよ。
だからこのリソースっていう言葉も僕はつくづく避けたい言葉だと。
まして人的リソースって本当ひどいなぁと思うわけですよ。
ロボットじゃないんでね。
しかも労働生産のための何かになっちゃってるじゃないですか。
非常にこうやられて好きな人はいないと思うんですよ。
やる人はいいかもしれないけど。
だから搾取って言葉が出てくるわけだと思うんですよね。
だからその野良カウンセラーが搾取しているみたいなのって、
僕も一応寄せてそういうことをノートに書いたりしたことあるんですけど、
本当ないよなこういう発想って思うんですよね。
だってですね、公認心理師なんて後からできたものじゃないですか。
そうに決まっているんですけどね。
近代のものって何年もそうだけど、
正規のものって後からできたものじゃないですか。
最初からそれをやってた人たちがいるのに、
そこに後から入ってきて君たち非正規だからねって言うわけじゃないですか。
これってひどい話だと思うんですよ、話そのものとしてはですね。
だって人間、ゲアトルズの時代からそうだけど、
肉とか武器で取って食べるわけじゃないですか。
そういうことをしていたと。
あるいは畑を耕して農作物取って食べるわけじゃないですか。
これをやっていたらですね、
いやいや、矢使うためには許可がいるからとかって言い出すわけじゃないですか。
これがつまり近代っていうものの、
近代はこんなに単純じゃないですけれども、
でも近代って結局さらにその後発ですよね。
最初に我々が自然に、我々じゃないんだけどね。
人が自然にやってたものが取り上げられていく過程なんだと思うんですよ。
で、そこに非正規の人たちが搾取してるからとかって言い出すんですよ。
ナンセンスの極みだと思うんですけれども、私はね。
その構造って絶対どこかに、
心理カウンセリングの重要性
公と名の付くものには潜んでると思う。
公は公は公ですからね。
公ってのはやっぱり、
全国統一を最初にした人が、
お前らはみんな手下ですからってそういう話だと思う。
僕はこれに別に反対すごいしたいとか革命起こしたいとかいう気は
さらさらない人間なんだけど、
ただこれってすごくあんまりなことを結構平気で言ってるよねって感じがしますね。
で、その時に思うことがですね、
この話をするのはまあまあよしとしようと。
僕はよく全然ないじゃんって言われるかもしれないんだけど、
僕は性格上まあまあしょうがないよね。
アドから生まれたんだしねっていう。
で、アドから作っちゃったんだし、
公認心理師とか臨床心理師とか、
この2つは本当は接続されているはずなんだけど、
なぜか途切れているようにも見えなくはないというですね、
ややこしい構造がここにあるわけですよ。
こういう話って興味ない人には全然興味ないと思うんですけれども、
心の問題ってのは、
大畑さんが普通の相談って書いた通り、
あの普通の相談家の妻に革命的なことを言ってるわけですよ。
革命的っていうのは非常に反抗的なことを言ってるわけですね。
普通の相談しちゃダメなのってことなんですよ、要するにね。
普通の相談をしていいもへったくれもないだろう。
ただ金を取るとなるとどうなのって話をするんだけど、
これだってどうかと思うんですよね。
家の菜園できゅうり作ってそこら辺で売ってる人いますよね。
それ許可いるからとかっていうのって結構感傷が増しいじゃないですか。
これを言ってるんですよ、間違いなく。
相談するのはいいよ、でも金取るんならダメだよってこと。
金取るんなら正義のところに行ってねと。
でも人生相談をそういうふうにできるかという話なんですよ。
あの人たちは資格がある、大学院出てるから相談するならそっちがいいでしょうっていうのを
国が言うわけじゃないですか。
でも自分が相談するというときにいざなったときに
本当にそういう基準で相談する気になるかっていう
この気になるかどうかっていうのが大きいと思うんですよ。
やっぱ歯を削るとか麻酔をするとなってくると
やっぱり大学出ているからっていうのは説得力があると思うんだけど
進路するとか会社に行きたくないとかいう相談をするときに
あの人大学院出てるんだよっていう
隣のおじさんに相談するのはダメじゃねっていうのって
どうなのかなと思うわけですよ。
私はそこには説得力がすごい微妙だなって思う。
タチなんでね。しょうがないと思うんですよ。
で、私が今3ヶ月チャレンジというのでやってるのも
結局この話に軽食してしまうからこの話をしてるんですけど
本当はこんな話は本当はいらないんですよね。
ただその時にここが正規の人も非正規の人も
気にはしているはずだし気にせざるを得ないのは
相談って何なんだろうってことなんですよね。
相談に意味あるのってことなんですよ。
ここにもまた難しい問題があって
カウンセリングには依存って言葉があるんですけど
相談のあり方
これはアンビバレントな言葉なんですよ。
でも結構いい意味で使われてるんですよ。
依存できない人の問題っていうのは
近代にはやっぱり突出して現れてきたんですよね。
依存できないってことは極端に言うと相談ができないわけじゃないですか。
依存できないというのは依存しちゃダメって
近代が言ったせいが多分にあるわけですよね。
個人主義ってやつですよね。
自分の頭で考えろってやつですよ。
ところがこれが精神分析的に言うと
そもそもそんなことできるのかよっていう課題があるわけですよ。
できるって思い込まれてるところにこれを言うから
今の別の意味で精神分析みたいなものって
なかなか人気が出ないわけですけど
人に相談するということの意味が話で解決するわけないでしょう
みたいな話とよく似ているんですけどね。
自分の頭で考えろと言っているその自分の頭っていうのは
実は自分の心なんですよっていうような話が
精神分析的なことを言うとそういう風になってくるわけですね。
自分の心に相談してるんだと。
自分の心には他者がいるんだよっていう話に
だんだんなってくるわけですよ。
自分の心に他者がいるってことは
自分の頭で考えるっていうのは
最初からナンセンスだってことになるわけですよ。
もう一つはビヨンが、ビヨンのユニコ
ビヨンだと思うんですけどね
僕はここがすごく重視していて
今回話したいのも結局ここなんですけれども
考えるというのは頭で何かを考え出すってことではないんだと
でもみんなそう思ってるじゃないですか。
近代ってのはそういうもんじゃないですか。
考えたことをメモにするとかっていうのは
考えるって行為は頭の中身で
自己完結的、自家発電的に行われるみたいじゃないですか。
脳さえあればできるみたいなね。
でもあれは私は最初からすごく嘘くさいという感じはしてるんですよ。
およそ考えるということを真剣にやるときは
決まって素材は頭の外にある気がするんですね。
例えばですよ。
昔数学とかでううう鳴ってたことあると思うんですよ。
数学でううう鳴る、ううう鳴らない人もいますけど
ううう鳴ってる人がいたとしてですね。
あれって結局素材外にあるわけじゃないですか。
あの時の方が僕は頭って真剣に使ってたなって思うんですよ。
なんとなく次の3ヶ月チャレンジどうしようかなとか
思いながらシャワーとか浴びていて
いいアイデア思いついたわとか言って
防水式のメモとかに書くときって
すっげえいい加減に考えてる気がするんですよ。
やっぱり外から素材を与えられたときに
頑張って考えてるときの考えっていうのは
もう一段レベル上げてる気がするんですね。
だいたいそういうときに決まって
外から与えられてるんですよ。
要するにコンテナーに投げ込まれるコンティンドがあるっていう
ような言い方するんだけど
要は考えるってことは考えさせられてる。
考えさせられるということに
ここに分析ですからね。
いつも通りの例の非常にジェンダー的に問題のある
形が出てきちゃうわけですよ。
つまり子供が生まれれば母親機能が刺激されるよねって話なんですよ。
子供がうわーって泣いていたり
体が赤くなって来ましたと
なったときにお母さんは考えさせられるわけですよ。
それまでそんなに真剣に物事を考えたことがないお母さんになって
考えさせられるようになる。
ここを非常にいろんな意味で議論が百出してしまうんですよね。
どうしてもね、どうしても。
考えることの本質
これは母性的な話、これを母性神話みたいな話と
一気にいくのは当然なんだけど
みんながそれできるようになるのかみたいな話も当然あるんだけど
でもここで言ってる大事なことは
コンテインド、中身が投げ込まれて初めて
外身が刺激されて機能が発揮されるってことは
僕はなんかね、光学的って言っても変なんだけど
そういうことってものすごく世の中には大言い気がするんですよね。
あのー
将棋で時々出てくる、将棋だけじゃないと思うんですけど
将棋で時々出てくるんですよ。
テニスでも結構出てくるんだよね。
すごい強い人が割と角下のテニスの相手
角下チテもめちゃくちゃ強いんだけど
やってるうちにどんどん強くなっていくんですよね、見ていると。
あのエンジンかかってきましたねとかっていう表現するやつなんだけど
つまり一人でやっているとここが限界だって感じなんだけど
相手がそれを打とうと破ってくるんで
そうして初めて自分の本当の力を思い出すみたいなことって起こるんですよ。
これをうまく自分で乗せることができる人っていうのが
ウィン・ブルドンとかでは勝っていくんですよね。
難しいんですよ、これ。
ある程度やらないと自分の実力が発揮できないってことになるじゃないですか。
で、このある程度があんまり長いと発揮できる前に試合終わっちゃうじゃないですか。
だけどある程度が長くてもうギリギリのところで発揮できればいいんだけど
あんまり時間かけてるとですね
今度は長長場なんで何試合も何試合もやって
すぐ足とかダメにするのがテニスの恐ろしいところなんで
いつもいつもフルセット試合やってちゃダメなんですよ。
でもあんまり一方的に勝ち続けてると
ベスト8とかになった時に本当に強敵現れた時に
エンジンがかかるのが出遅れるんですよね。
だからあんまり一方的に相手をやっつけるっていうのを
ずっとやってちゃダメなんですよ。
難しいんですよね、ああいうのって。
見ていると本当にそういうことってあるんだなという
フルセットで勝っていくとどんどん調子が上がっていくっていうことがあって
意外とそういう人の方が後半伸びるんですよね。
後半っていうのはベスト4とかに行った時に強いんですよね。
やっぱりハラハラドキドキの中でやってる時の方が
勝ち方みたいなものを思い出しやすいってことって
あるんだろうなって気がするんですよ。
あれと似てますね。
だから私はこの母性神話みたいなのって
批判の対象になるのはお母さんが大変すぎるからなんだけど
でも大変なことをやるってことは
その人は大変なことができる能力があるってことになるじゃないですか。
ここが大変じゃなければないほどいいんだっていうのが
すごく現代的なものの発想にあるんで
この大変じゃなければないほどいいんだっていうのが
私がさっきの作種って言葉と相まって
好きになれない部分なんですよ。
大変じゃない方がいいでしょうけど子育てなんて。
でも自分ができることができないままになるっていうのは
大変つらいことでもあるんだと思うんですよね。
考える能力というか考えるってこと。
考えるってことは考えさせられるってことだっていう話は
私は多分本当だと思うんですよ。
さっきのテニスもそうなんだけど
将棋とかでとかくそういう話ってよく出てくるんですよ。
強い人とやってるうちに調子を取り戻すみたいな
そういう話ってあるんですよいっぱい。
だから考えさせられる素材というものがないと
人は考える能力というののいくつかは
自分で発揮しようがないっていう感じってあって
そういうふうに思うとですね
相談するって非常にいいんですよ。
人生相談の意義
自分の頭で考えちゃうと
多分何も出てこないような気がするんですよね。
特に自分にとって
絶対必須の判断をしなければならない時っていうのは
だってそれってAとBを選ぶので
めちゃくちゃ違うとその人思ってるから
悩む意味があるのであって
ここで結婚するしないとか離婚するしないとか
大学行くか行かないかとか全部そうですけれども
深刻に悩むから意味があるのであって
全然そこでどっちを選んだって別に人生に置いて
重要じゃないって言うなら
そもそも考える必要なんてないわけじゃないですか。
これを自分の頭の中で脳内でシミュレーションした程度で
東大に行った場合はこういう人生になるだろうけど
早稲田に行ったらこういう人生になるだろうから
早稲田にしておこうとかっていうのが
なんかさらっとですね
その適当なイマジネーションで出てくるぐらいだったら
悩まないと思うんですよね。別に。
でもこれでやろうっていう話になってるわけですよ。
だからこれでやろうって話になると
相談しても意味がないじゃんって話になるわけですよ。
自分の脳内でシミュレーションを真剣にやった方が
マシだよねって話になるんだけど
僕はそれがマシであるとは全然思えないんですよ。
相談者の方が賢くないといけないのかっていう話とも
ちょっと違う気がするんですよね。
で私はよく思うことが最近ありましてですね。
人生相談っていう四文字熟語があるじゃないですか。
中国にあるのか知りませんけど。
日本にありましたよね。人生相談って。
私はこの番組を人生相談研究とかにしようかなって
時々思っていて
それを最近誰かに真剣に相談しようと思ってるんだけど
なんかGMVとかって言ってるのって
古いなって感じがするんですよね。
なんとなく英語にするとかっこよかった時代みたいな
ずっと続いてますけどねそれはね。
SNSとかもそうかもしれないですけど
あれはかっこよくてそうなってるわけじゃないと思うんだけど
とにかく人生相談って
良いものだったんじゃないかなって思うんですよ。
良いものとしてもろくなものじゃないっていうことでもあると思うんだけど
でも人生相談ではダメなんです。
心理カウンセリングなんですって
なんかおかしいんじゃないかっていう気がする。
それが医療だってんならまだわかります。
心理カウンセリングは皆さんが調べてみていただければ
興味ある人は調べてみていただければと思うんですけど
これは医療行為ではありませんって答えてるところいっぱいありますからね。
あれ医療行為じゃないですよ。
じゃあ何行為なんだって思うんですよ私は。
非常にしばしは。
アセスメントはするはずなんで
やっぱり彼は医療行為なんじゃないのかって思うんですよね。
医療行為なら人生相談とは違うのは当然じゃないですか。
仕方ないなと思うんですよ。
でもあれがもし医療行為じゃないならば
じゃあ人生相談じゃないって何なのって感じがする。
一体何相談なのって感じがする。
このポジショニングのすごい微妙に見えないところが
この話をますます怪しくしているというか
ますますグレーにしている感じがするんですよ。
医療でないのに人生相談でもなくて野良はダメですって言ったら
何をするところなのか分からなくなっちゃうじゃないですか。
キャリアコンサルタントとかビジネスコンサルタントとか
ああいうのとは違って
こっちが正規なんだって言うんだけど
正規は何の正規なんだって感じがやっぱりするんですよね。
心のって言うんだけど
心のが医療じゃないならば
つまりそれは病気じゃない人の心を
何らかの形で支援するけど
相談所でもないんですよっていうわけですよね。
心理カウンセリングの位置づけ
そのポジションが分からない。
で、どうしてそうなったのかを私は一応知ってるので
むしろ
共感的なんですよ。正規の方に。
気持ちの上ではね、私はね。
だけども、これはユーザーからすると
微妙すぎてもう
共感とか云々の話じゃなくなっちゃうよなって感じがするんですよ。
さっき言ったカナエ団の話
いつそのカナエ団になるんだって感じもするんですけど
なんないんですけどね。
藤山さんと増木さんと細沢さんのカナエ団の中でですね
精神分析で食えるんですかっていう問いが出るんですよね。
で、藤山さんと増木さんが即答で食べられますって言うんですよ。
食べられないでしょ。
もちろん精神分析館なれば食べられるのかもしれないけど
食べられるとは僕にはちょっと信じがたいんですよね。
細沢さんが食べられないじゃんみたいなことを
割と平気で突っ込んでて
そこが非常に面白いんですけども
食べられないじゃんって分析家ある分析家は言い
他の2人は食べられるって言ったっていう
だけど食べられるなんて言うの無責任じゃんっていう言い方をしているんですよね。
もう本当にこのノリなんですよ。
で、私は食べられるとは到底信じられないですよね。
例えば公認心理師になりました。
まあこれ分かんないですけどね。
僕はもうなったわけでも知ってる人がいるわけでもないから
開業して食べられるっていう人はいるでしょうけど
これは食べられないとは僕は思わないんですけど
食べられない人もいるんじゃないかなって思うんですよね。
で、なんでこの話をしているかというとですね
まあそれが野良カウンセラーのせいだっていう大きな誤解があると思う。
それは野良カウンセラーが食ってるって思ってらっしゃるんですけど
食ってる人もそりゃいるだろうけどねっていうのが僕の
食ってない人がその100倍ぐらいいるんじゃないのって感じがするわけですよ。
だから名称独占っていう言葉が僕はあのヤフー記事でですね
提案されていた名称独占、カウンセリングは名称独占するべきだ
いやしてもいいかもしれないけど
効果ないんじゃないかなって感じがするわけですよ、端的に言ってですね。
名称がカウンセリングって言葉を正規の独占にしてみたところで
そっちに客がワン坂行くなどということは
全然起こらないような気がするんですよね正直言って。
なぜならもともと野良カウンセリングの方に客がワン坂行ってるかどうかが
大変疑わしいんで行っているというイメージがあるんでしょうけど
何しろ野良カウンセリングって言われてる人たちは
一体誰のことを指してるのか知りませんけど
占い師とか先日Xで出てきたんだけど
占い師なんてものまで
占い師なんて方たちまで全部含めちゃったら
それこそあれですよね
あらゆる占いをそこに入れるわけじゃないですか
生命判断から保守占いから全部ですよね
何人いるんだよそれっていうぐらいいらっしゃるじゃないですか
それがカウンセリングを名称の独占にしてみたところで
占いのところに行ってる人たちが
みんなカウンセラーのところに行くのかよっていうのが
僕には絶対に信じられないんですよ
そして全ての占い師がそれで
なんていうのかな食いっぱぐれずやってるっていうのも
全く信じられないんですよ
テレビに出てるみたいな人は別ですよ
でもああいう人は本当に割合としてはですね
極少数なわけじゃないですか
占いの話をしたいわけじゃなくて
あれは相談なんですよね
人生相談なんですよ結局私が思うに
僕はこの人生相談というものを近代化して
心理カウンセリングというものにして
それ以外を全部全滅させるっていうこと自体が
リアリティを全く感じないのと
もう一つ仮にそうしたら
今度は心理カウンセラーのところに
人は行かなくなるんではないかと思う
それに準ずることが今起きているだけなんじゃないのか
と思ってるわけですよ
人生相談というのは
正規の仕事かどうかがすごい怪しいと思うんですよね
すごい疑わしいと思うんですよね
医療と違うってことを言い出したら余計そうなる
医療は人生相談じゃないから医療なんですよ
僕の感覚では
これは古い感覚なのかもしれないけど
多分そうなんだと思うんですよね
欧米は知りませんよ
ヨーロッパは知らないですけど
日本では人生相談は医療じゃないんですよ
医療じゃないから言ってられるんですよ
あれが医療行為だということになったら
行かなくなっちゃうと思うんですよね
医療行為なら医療行為だってことを
はっきりさせないと
そういう場合には
医療で行くっていう人たちが行くでしょ
その人たちは人生相談なんて言ってる場合じゃない
っていう感覚が面白いと思うんですよ
どっちかだろうって感じがするんですよね
医療ではありません
人生相談でもありません
心理カウンセリングです
人生相談の未来
こちらに来るのが正規です
ベンズで何にも重ならない部分を
指し示されているような感じがしちゃうんですよね
悪いものだとは思わないんだけども
誰がそこに行ったらいいのかが
全然見えてこない
SNSとかで言われてることは
精神科の人がこの議論に入った場合は
これはもう医療なんですよね
だから立場がはっきりしてるし
しっかりしてるんだと思うんですよ
精神科は精神科医なんだ
でも心理カウンセラーの人が
これをPRするときは
いつも決まって
人生相談になってる気がする
って感じのものになっちゃうんですよ
だから僕はここをむしろ
逆に考えればいいと思うんですよ
これは人生相談なんだと思うべきだと思う
そして私はここに無理があるんだけど
人生相談には精神力道の知識が
いるんだって思うんですよ
ここにもう私は
行動科学の知識を導入するつもりはないんですよ
導入持ってるんだけど
叩き込まれたから
アメリカ行くと叩き込まれるんですよ
はっきり言ってCBTに相当する
ベースになる知識は
だけど私はあれは
原則あれを人生相談には
採用したくないなって思うんですよ
人生相談は
習慣術じゃないんだって思うんですよ
私はね
そうは考えられていませんよ
だから僕はこの分野でも
イタンジなんだけど
でも私はここにこういうものはいるっていうのが
私の3カ月チャレンジの
多分立ち位置なんだと思うんですね
こういう話よりも
中途半端なアプローチの危険性
ある種の人は
このポッドキャストに来たりしてるのは
多分3カ月チャレンジで実際に行われてること
欲打つポジションを
なんとかやり遂げる
欲打つポジションから
なんとかして
心の平和にたどり着くと
特にこうなんだろうな
いい母親機能に相当するものを
持ってない場合
持ってないと自分に思える場合
どうしたらいいのかみたいな話を
するべきなんだと思うんですけど
並行して私がしなきゃいけないな
と思うのはですね
私自身はやっぱり
分析家の訓練を受けてるとかじゃないんで
どういう風に
これを展開しているのかという
そのポジションについて
しゃべるとどっちかしら僕は
このやり方で3チャレンジを
回していきたいんですよね
もちろんいい母親は
誰がそれの役割になっている
誰にそれを投影しているみたいな話は
出てくるんですよどうしたって
だってその話をしてるんだから
だけれども
そこを僕はとことん突っ込むみたいな
その話
カナエ団で出てきたんですよね
僕は
その辺のことを多感に
おっしゃるし当然なんですけど
中途半端なところで
言っててもダメじゃんっていう
僕は中途半端にしかできない
人の方が普通じゃんって思うんですよ
日本の場合には
だから食べられるのかもしれないけど
食べられるならもっとみんな
すごい人がどんどん
入っていくのかもしれませんけど
食べられるイメージが細澤さんが
おっしゃったようにないんで
そんなにやる人も
なる人も多くならないだろうな
って感じがやっぱ今の段階では
するんですよねそしたら中途半端にしか
できる人がいないんだから中途半端に
やることになるでしょって感じが
するんですよね中途半端は
危険かっていうとそこがだから
例の普通の相談の話なんですよ
中途半端が危険か
どうかっていうのがもし
本当に議論の対象になる
んなら中途半端にやることの
危険性についても書いておくべきだろう
だって絶対中途半端に行われるはず
だからそこでなんか
あのガミガミ怒るとかしたって
無駄だと思うんですよねはっきり言って
人生相談と習慣形成
この話は
えーなんかわかりにくかったかもしれない
んですけどこのような話が
僕は精神分析の
本とかでは一番よく書かれてる
ところだなって感じがするんです
だいたいあの現実的
じゃない感じってのはやっぱり
どうしてもするんですよね私は
その正規であっても
中途半端であるケースは山のように
あると思ってつまり
中途半端なのはもう
受け入れて中途半端で
あるゆえのリスクとか
危険性について
いちいち意識していくっていうほうが
現実的だろうっていう感じがするのが
一つですねもう一つは
あの
力度中心でなくなっていくのは
もう確実なんで
習慣術に近いものになっていくはず
なんですよ人生相談は
人生相談って言っちゃいますけど
人生相談じゃないんですって言われるんなら
まあそれはそうなんでしょうけど
人生相談だと僕は思うんですね
正規カウンセリングであったとしても
でそれは習慣化術になって
いくでしょうねっていう
あのメインストリーム
確実に二つの理由で
一つはあの
ハームリダクション多分これが現実的な
線だと思いますハームリダクション
にトラウマの話が乗っかってくる
んだと思いますこれは
私は理にかなってると思うし
それではダメだと思わないんですよ
要するに
非常に良くない理不尽なことがあると
だからアルコールが繰り返し
反復してしまうと
反復言いますけどアルコール
通院を反復してしまうと
その通院を減らしましょう
何ならやめられるんならやめましょう
そういう習慣を持ちましょう
良い習慣に良い
生活習慣を持ちましょうこれが
私は人生相談のメインストリーム
になると思うんですよ
でも私はこのやり方を信じないんです
信じられないんですよ
よく誤解されていますけど
私自身が
私自身に対する誤解ですね
私はタスクシュートで
良い習慣を作ってるんだろうと
嘘だと思うんですね
私はそんなものを作ってないし
作れる気もしないんですよ
母親機能と生活習慣の改善
朝起きています
朝5時45分には起きてます
それ良い習慣じゃん習慣家じゃん
タスクシュートじゃんって言われるかもしれないけど
タスクシュートじゃないことは
明々白々なんですよ
朝5時45分に100回起きたからって
101日目も余裕で起きられるぜ
ってことにはならないんですよ
めっちゃきついんですよ
毎朝毎朝厳しいんですよ
習慣家っていう話は
いつもハードルって言葉が出てきますね
ハードルという言葉の意味しているのは
ハードルが下がるって言いたいんですよ
嘘なんですよハードル下がりはしないんですよ
本当に辛いことは
いつ起きても起きたくないですもん
皆さんというか
この習慣家にかける人は
この辛さが減るとでも思ってらっしゃるんですよ
習慣家すれば
朝起きる技術的な
何かが自動的にインストールされて
あの
車の運転が楽になるように
朝起きるのが楽になる
朝起きるのに対して技術はいらないんですよ
技術でできることは本当に少ないんですよ
だから
朝起きる時には
すごい辛いっていうのを乗り越えるって
これがいるんですよ
これが嫌だというのが
現代的なんだと思うんですよね
そういうのじゃないんだと
何か上手い習慣家によって
朝がスッと起きられるようになる
ならないそんなものは
なるとは僕は信じないです
300も
1000回を超えて朝早朝に起きてますけど
毎朝
今日も起きたくなんかなかったんですよ
どうして起きられるのか
娘がいるからなんですよ
これが私がコンテインドと
コンテナーに見ているものなんですね
娘がいるから
この説明を
最もストレートにしてくれるのが
精神分析なんですよ
そして私はこれを人生相談に使ってるわけ
朝早く起きなきゃなんないんだ
朝早く起きたくはないんだと
中途半端なんですよ私は
学校に娘をやるから朝早く起きる
そんなものにカウンセリングいらないじゃん
って言われるレベルなんですよ
いると僕は思う
人生相談レベルでいると思う
このような話ならば
正規でもできるその通りですよ
正規でもできます正規でできないはずないと思います
ただこの程度の話なら
私でもできちゃうんです
非正規でもできる
中途半端だろうと
危険だろうとする必要が
あると思うし
結局これをすることになる人が
正規だけになることは
ありえないと思うし
いずれは
星占いと
早起きが
絡んでくる世界が
いずれは常にあったし
今後もあり続ける
に決まってると思うんですよね
名称独占で止めが
効くはずがないというか
それをなくせるはずないと思うんですよ
ここにもっと
いろんな問題があるんですよ
娘が好きだからとか娘を愛してるから
とかいう抽象的なことを
いくら言っても無意味で
起きられないという人にとっては
起きられないでしょうし
そもそも寝るときの話も
あるんですよね
夜寝るときに夜更かししなければいいじゃん
とか言うのは簡単なんですけど
早く寝る習慣の話にしちゃうんですよ
だから答えが早くほしいじゃないですか
そしてそれが
目に見える形にしたいからですよね
でも私はそのときに
もう今では
確信を持って言いたいんですけれども
それは母親機能なんだって言いたいわけですよ
でここでも
もう一回あの問題が出てくるわけですよ
でもうちのお母さんはそもそもそんなに
ちゃんと私の面倒を見てくれなかった
ちゃーない
だって見てくれなかったんだから
しょうがないですよ
見てくれなかったもの
でも母親機能というのは
全ての人間に備わってるから
私にも備わってるから
男性ですけどね
母親機能は備わってるから
娘を抱っこした途端に
母親機能にスイッチが入るんですよ
そういうオカルトみたいな
母性神話みたいな話を
嫌だっていう人は
母親機能というんじゃなくて
脳の中のなんたらかんたらかんたらかんたら
お育てするために
必要な短期記憶とか
神経連達物質とかの話にしたいんだと思うんですけど
そんなまどろっこしいことの説明
しかもそれこそオカルトで
そんな一連の
それこそフェミニズムにむしろ
激しくバッシングされそうな
一連の神経連達セットみたいなものを
脳の中には
仮定できないんですよまだまだ
多分永遠にできないんじゃないか
と思うんですけど
でも母親機能というものは起動されるんですよ
それはもう
物の見方だと思うんですよね
いくら
扁桃体が中心になって
扁桃体が中心になる
セットみたいなものを
押すボタンみたいなものが
そういう起動
起床って言うんですけど
プロセスを説明することができますよ
でもどうしてそういう風に
誰の脳でもなるかを説明するとなったら
結局は同じような話になって
いくじゃないですか
脳考古学みたいな話になっていくんですよ
だってどっかでホモサピエンスが
そうなったって話にするしかないじゃないですか
扁桃体ありますよ
でもなぜ扁桃体が
このようになったのかっていう説明は
ないじゃないですか
脳からのスタートになっちゃってますよね
私はそういう
説明をするぐらいだったらば
エリプスコンプレックスって
言った方がいいと思うんですよね
我々は主観で
それをどう感じるかっていう方に
私だったら興味を
心理カウンセリングの意義
引かれるんで脳の中の
血流がどういう構造になるかっていうのは
自分では全然意識できないし
見ることだって普通はできませんよね
自分の脳のMRIを
持ち歩きながら
動くってことはできないわけですから
そしてここにはまた
馬鹿げたカラフリがあるんですよ
そういうの見られると便利そうだよね
今こういう基礎になってるってことを
意識できたら認識できたら
いいよね
全く意味がないことのような
気がするんですよ
怒りを可視化してみたところで
怒りはすでに持っちゃった後に可視化するわけでしょ
それって
怒ったっていうことで十分じゃないですか
あるいは怯えたってことで十分じゃないですか
もう怯えたって瞬間でに
体はちゃんと
それに対する対応を整えるし
実際怒りというのはコミュニケーションの
一種なんでコミュニケーションの
体制もすでにセットされた後
なんですよ
それを目で見て確認するっていうのは
一歩遅くしてるだけであって
何一つ先行して
何かをできているわけじゃないのに
なんか先行できたような気が
しちゃうわけですよね私たちは
怒ったっていう後に
怒っているっていうことを
血流で確認してみたところで
意味別にないじゃないですか
怒りが認識できない
人の場合は別ですが
怒りが認識できる人の場合は
怒ったっていうのが一番早い
シグナルであって
mriで見る血流っていうのは
その事後的な確認に
過ぎないわけですよ
この話はやっぱりややこしくなりますね
だからもう少し単純に
言いますと単純にというか
感覚にマッチするように言うと
要するに朝起きたくないわけですよ
腹も立つわけですよ
でも娘のためだから起きるんですよ
365回だろうと
3500回だろうと起きるんですよ
で
この説明をするには力道の方が
全然便利だと思います
少なくとも習慣化でないことは確実です
習慣化とかではない
だって私土日は起きませんもん
全く体がピクリとも動かない
これは習慣化じゃないからなんですよ
習慣化で自動的に起きられるわけでは
ないんですよ
で寝ないって話
寝ないって話も
布団が母親になってないからだで
いいと思うんですよね
でも布団を母親にするっていうか
布団が母親になるってことは
可能なんですよ
自分自身の母親機能というものを
起動させてみるとですね
わかるんです
自分自身の母親には
このようにケアされてきたんだ
ということがわかるんですよ
ケアされてきた
なんて言うんですかね
記憶というものが
記憶のセットみたいなものがあって
あれをインナーチャイルドとかって
呼ぶんですけど
インナーチャイルドが
ここの中にいるわけじゃないんですよ
ケアするとケアされるが
自分の中では同時にオーバーラップされるんですね
その時に環境としての母親に
包まれるというのは感覚であって
環境というものが
フォースとイコールじゃないっていうことが
実感されるっていうことが
起こるんですよ
屋根というのは
物質なんですけど
これ母親のように感じられるというのは
自分の中の母親機能というものを
起動させた後だと
非常にリアリティを持って
実感されるんですよ
この時脳の基準の説明って
無用なんですよね
むしろ邪魔に近い
邪魔だとまでは言わないけど
血が流れてるかとかって
認識する必要がないし
できない認識なんて
屋根に母親を感じるって言った時に
それが実母でなきゃいけない理由は
どこにもないわけね
むしろ私自身だって感じた方が
マシな時もある
自分母親だってわけじゃないんだけど
でも自分に母親機能があって
その母親機能というものを
屋根に投影して
そういう言い方をするならば
その屋根に守られている私というのを
今度私に投影する
このまんまの形を
布団とかに適用できるんですよ
そうしたら布団で寝る気になるんです
気持ち悪いとか気色悪い
っていう人はいると思います
それは母親機能というものが
自分を最も必要な時に
ケアしてくれなかったことへの
怒り抗議なんだと思うんですよ
その時に血流を返答体に
言ってるでしょうね
そんなことを目で見て確認する必要が
あるんだろうと思います
人生相談の進化
こういう話って私は
力道系が一番ちゃんとしている
と思うんですよ
ちゃんとやってる
ちゃんと学術的にしたし
ちゃんと論文にまとめていて
読んでわかるように実はなっている
そういう蓄積がある
これを人生相談に
持ってこない手はないし
これを人生相談に
持ってくることによって
相談されることにより
父親機能なり母親機能というものが
起動されるっていうのを
実感しながらやっていくべきものなんですよ
この人生相談ってものはですね
力道的な説明をすれば
かつて日本では
人生相談でただ単に
なんとなくやってたと思うんですね
先生とかお医者さんとか
やってることは多分こういうことなんですよ
説明すれば
この説明もなくてもできるんですよきっと
医療だったら無理ですよ
方法失調症の人を
この人生相談でなんとかできるかって
絶対無理だって思うんですよね
何の知識もなければ
でもこれだけの知見が
あるならば
それを読み込みながらですね
相談者に
起動させてもらいながら
つまり非相談機能みたいなもの
結局それは父親機能みたいなものになっていく
と思うんですけどとにかくそういうものを
起動させてもらいながらやっていけばですね
相互に起動し合う
ってことができていくんですよ
さっき言ったコンテインドを投げられれば
考える機能が刺激されるってやつですね
赤ちゃんが泣いていれば
どうしたんだろうって
考え始めるようにできてるんですよ
人はできているから
多分人類はここまで来られてるんですよ
これだけの
人口を支えながらですね
問題ってのは常にありますよね
それがなんていうのかな
それがすごいスムーズでみんなが
幸せいっぱいみたいなニコニコニコニコしていられる
っていうふうにはできてないですよ
だってこれをやることによって他の動物は
結構迷惑を持ってるんだから
だけれども人類はこれで
なんとかやってこれるようになってるんで
この時に人間ってのは
本能じゃできないんですよこれを
普通の動物は本能でできるんでしょうけど
我々は本能じゃ無理なんですよ
まして現代社会は
本能じゃ無理なんですよ
本能を欲動に変えて
欲動を言葉に変えて
象徴的なやり取りつまり記号的な
やり取りをここに開在させないと
できないんですよ
だからフロイトはきっと人間ってのは
本能から隔てられた生き物なんだって
言ってるんだと思うんですよね
どうしても快楽原則じゃ無理で
赤ちゃんはかわいいとか
そういう本能みたいなものだけで
母性本能とかいう評判の悪い
言葉だけでは無理で
あるんだけどそういうものはきっと
我々はそれに直結されてないんですよね
フラグインされてないんですよ
隔てられてしまって
本能で直角している世界を
何らかの形で説明していくんだと思うんですよね
赤ちゃんは泣いているみたいな感じで
そうすることで
共通言語を手に入れて
他の赤ちゃんでも
自分の子じゃない子を
世話できるっていう能力を
人間は本能と引き換えに手に入れたんだと思うんですよ
ここに難しさがあるんですよきっと
ものすごい難しいことだと思うんですよね
本能だけでやるなら実に簡単なんですよ
虫はちょっとした風の
微分するんですよね
加速センサーを知っているから
風が強くなったっていうのを
自分が知る以前にも飛び立つことができるから
人間に簡単に捕獲されたりせずに
済むわけじゃないですか
これがまさに本能
本能というのはつまり
知覚より早いんですよね
何かが何かを得るとか
何かが何かを知るとかいうよりも
早く動き出す
だから虫は何にも知らないんですよ
代わりに
我々はそういうことができないんですよね
できる部分もあるんだけど
それができるのはほんのちょっとの
すごい熱いものを触った時に
手を引っ込めるとか
そういう時だけにしかできなくて
子育てすら本能じゃできなくて
やっぱり象徴でやるんですよね
共通言語で
代わりに自分の子じゃない子でも育てられるし
日本人なら日本語
アメリカだったら英語っていうような
使い分けができていくんですよね
でもその分遅くなるし時間もかかるし
手間も暇もかかるし
めんどくさいし
やる気がしないこともあるし
ネグレクトしちゃうという不思議な現象も起きるし
様々なことが起きるわけですよ
様々なことが
本能でやってないから
しゃあないんですよね
これはね
だから私は習慣術ってものを
これに取り入れる気がしないんですよ
人間にとっての難しさ
人生相談なんですよ
人間にとっての難しさというのは
この本能から隔てられている
欲動とかいうようなものも
よく分からずに
言葉に直して
なんかをしなきゃならないという
めんどくさいこと
全部一旦言葉に直すことができるじゃないですか
あの流行りの言葉で言うと
言語化できちゃうじゃないですか
確定申告に対する不安
言語化が一番まずいわけじゃないですか
言葉にわざわざ変えて
やりたくもないことを名称化するもんだから
それがやりたい理由もやりたくない理由も
分かんなくなっていくじゃないですか
あの確定申告の準備とかね
どう考えたって本能的に
やりたいもんではないと思うんですよね
欲動的にやるようなことでもないと思うんですよね
だから手順というようなものを
作ってやるしかなくなっていくんだと思うんですよ
ここに力道が変な形で入り込むと
入り込むんですけど
例えば父親はすごい厳しかったと
ご自立一切許してくれなかったと
そういう人にとっては確定申告
めちゃくちゃ難しいですよ
ご自立時が一個でもあると
恐ろしい税務署員
それはお父さんなんだけど
お父さんがやってきて
ぶん殴るんじゃないかという恐怖に
怯えながらやんなきゃならないわけじゃないですか
こういうものって人生相談だなって
私は思うんですよ
本能でできないことなんだ