中立な視点について
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
1月29日の夜、22時41分ですね。
なぜこんな時間に始めてしまっているのかと言われるかもしれませんが、
これはですね、始めたくなったからとしか言いようがないんですよ。
僕はこの枠は極力外しているので、それもタスクシュートの人からすると、
タスクシュート的にセクションを無視しているのどうなのって思われるかもしれませんが、
最終的には僕はそうなると思うと思うんですよ。
あれは最終的にはやっぱりやるその記録を取るの順番なんで、
事前に書いてあることをやるってわけじゃないんで、
あのですね、グッドバイオスの倉園圭三さんが今、ジャジンワークという、
ワークショップなのか、ある意味作業タイムのような気もするんですけど、
ジャジンワークでやられていることの内容が、
あの通りをタスクシュートでやるっていうのはさすがにちょっと難しいんですけど、
原則あの通りだと思うんですよね。
まずそこで自分が何をしたいのかを知る。
そして知るっていうのかな、意識してそれを実行すると。
ジャジンワークの場合は原則そこにほぼ全てがあると思うんですけど、
タスクシュートの場合その記録を取るっていうのが発生しちゃうんですけれども、
その程度の差でしか僕はないと思うんですよね。
だからあの、まずやる。
で今やりたくなったんで、
グッドモーニングボイスを今撮ってる、ポッドキャストを撮ってるわけですね。
だからモーニングじゃないというのはちょっとやむを得ない。
そういうことですね。はい。
で、先日8月26日に山崎孝明さんをお招きして、
先送りしないための心理学というミニセミナーをしたんですけど、
これはですね、もっと賛否あるかなと思ったんですけど、
今のところは大筋公表かなと。
私の受けているフィードバックの、私の解釈ですから、
イリュージョンみたいなもんなんですけど、大筋公表かなと思いましたので、
9月29日にまた紙板橋でやろうと思ってます。
詳細はですね、近々告知させていただきますが、
同じく山崎孝明さんをお招きして、東京ライフ研究会の北信也さん、
主催されているベックさんと、エフタさんという方はですね、
そのパートナーの方がカフェをやっているという立て付けでして、
エフタさんが主催者といったわけじゃないんですけども、
エフタさんという方と3人でやっていこうと。
3人プラスゲスト、山崎さんとやっていこうと思ってます。
これですね、今日はこの話をメインでしたいと思っているわけじゃないんですけど、
どうなるか分からないですよ、この会話。
どうなるかは全く分からないんですね。
相性が良いような、良くないような、反対で最悪なような、
ここもよく分からないんですけど、確実に言えることが一つあって、
山崎さんは精神分析家なんですよ。
家なんですね。
そこにはフロイトという大きな大きなお父さん、
もちろん今お亡くなりですけど、いらっしゃった巨大な家なんですよ。
一方で僕は名もなき人ですよ。
野の医者ってやつですね。
戸畑海斗さんに言わせると。
野の医者というよりは野の医者未満ですね。
野原にただいるだけの人なんですよ。
ここにもう全く真逆なものがあるんですよね。
戸畑さんは面白いことに、今回の普通の相談という本の中で、
この野の医者というのは、
この野の医者に原石があるんだよと。
そこからダイヤモンドを取り出して作り出したのが精神分析だから、
娘に対する眼差し
どっちが先かって言ったら野の医者が先なんだよみたいな本を書いて、
今のざっくりとしたお話は誤解の由紙もありますが、
そう思ったら読んでいただきたいんですけどね。
要はそういうことなんですよ。
だから僕はあの大筋、自分の立場性っていうことではなくて、
大筋ね、その通りだろうと思ってるんです。
なぜならフロイトが喪失する前から世の中に相談はありましたからね、絶対に。
それどころか、おそらく戦死時代から人間は相談ということをしてきたので、
相談って勝手にしちゃダメでしょって言われても、
そうはいかないってことなんですよね。
で、明らかに相談の中で最も有効なものを取り、
有効成分を取り出して作り出したもの、カウンセリングだとしても、
そこの大元に相談があっただろうっていうのは、
これは無視できないと思うんですよね。
もしフロイト以降に世の中に相談というものができたっていうなら別ですけど、
それは絶対ないと僕は思うんでね。
あれ20世紀のものですからね。
19世紀以前にこの世に相談なかったのかっていうと、そんなはずないですよね。
素人の相談というものがどういうものであって、
どう役に立って、どこがそこの最高、最高っていうのも変だけど、
純金なのかってことですよね。
で、その純金を薄めたのが合金なんだって、
この精神分析が考え出しているいわゆる、
これ何種ですかね、錬金術モデルとでも言うんですかね。
そういう考え方があるらしいんですけど、
仮に精神分析が相談の純金だとしても、
どの医者の方が偉いんですよ。
なぜなら原石だからみたいな、そういう偉いわけじゃないんだけどね。
全然偉いわけじゃないんですけどね。
本当にいい加減なケースもあると思うんだけど、
でもそれを言えばね、精神分析受けたけれども
良くなりませんでしたっていうケースだって
ないわけではないんですから、
これ以上そういう話をしてても不毛なんでやめますけれども、
つまりライフハックの世界に精神分析科の方に
来ていただくというのはありがたいことだと、
この滅多にないという意味でありがたいんですよ。
感謝するべきことだって私の心の中で思っているという意味でも
ありがたいんですけどね。
そういう回になります。
でもそこで本当のところ何が起きるのかが
分かってるわけでは僕にはない。
なんかこれは僕にとって必要だと思うからやってることなんだけど、
なぜどう必要かは全然説明できないし、
できるとも思ってないし、
この種の説明したところで当日起こることとは
多分関係ないだろうなっていうか、関係なくはないんですよ。
説明通りには絶対ならないなという、
ある意味そういう雰囲気、
というのかな、感覚は今回、
むしろ確信に変わったところがあります。
それがちょっと不安だって方は申し訳ないですけど、
ハラハラドキドキしてくださいと。
やっぱりあれですよね、ドラマはハラハラドキドキしないと始まらないんで、
予定調和のようにやることは僕は、
少なくとも自分主催者は絶対やりたくないですからね。
予定調和ほどつまんないものはないんで、
僕にとってはですよ。
僕はわざわざ退屈する回を作り出したいとはもう、
現在思わないと言いますか。
要するに校長先生の話っていうものに、
あんまり関心してなかった人間だってことですよ。
平穏無事ではありますけれども、
安泰ではあるんですけれども、
眠くなるってのは僕は好きじゃないってことです。
それぐらいだったらハラハラドキドキの方が、
自分を含めてよっぽどいいと思ってます。
それが失敗に仮に終わったと。
失敗に終わるっていうのは僕の定義ではもうないですけれども、
思っているので、
そういう回に必ずなります。
必ずなるかどうかわかんないね。退屈な回になるかもしれない。
なんないと思うんですけどね。
彼を前回読んでみて確信したのは、この方を読んで、
ハラハラドキドキせずにいるのは難しいなというのがむしろ、
やってみての確信。
面白いからぜひ来てください。あるいは見てください。
というふうに申し上げていきたいと思います。
今回私が喋ろうとしていたことは、
今スポッと忘れてしまった。
そうそう。思い出した。
中立なものの見方というのが、
僕らは決してできない。
ということは、
知ってますけどね。
私たちはそれを知ってるんだけど、
事さら意識するようにして、
損はないなっていうのを、
意味付けの例としての赤信号
自分の一つのフレームワークみたいに
してきています。
前のフォトキャストでも、
僕にとってこれは神回だといった、
倉園圭三さんのフォトキャストの不満というものを
僕たちは全ての人に対して持ってるのではないだろうか。
これは持ってない人ももちろんいると思いますが、
持ってるんじゃないだろうかと、
自問してみる価値はあると思います。
その僕はですね、
自分のバイアスに気づくことしかないと思うんですよ。
全ての人に僕らが不満を持つのは、
その時も言ったんですけどね、
前回のフォトキャストでも言ったんだけど、
明らかにおかしなことなんですよ。
僕ら、完全無欠の神様ってんじゃない限り、
これほど変な話はないじゃないですか。
自分が判断する、他の全人類には不満な点がある。
これは言っててもおかしいぐらいですよね。
でも僕らはこれを実感として若干持ってるから、
そういう感じが、僕は少なくとも十分あり得ると思うんですよね。
僕がその例外だと確実に一人言えるのは、
うちの娘だけです。
これを親バカと言うんでしょうけどね。
でもこれを親バカって人言っちゃうじゃないですか。
この段階で常に、人を完全無欠だなんて思ってはいけない
っていう含みが実はありますよね。
なくはないと思うんですよ。
僕はでもこれ本当おかしいと思うんですよね。
お前は一体何の権利があって、
他の全人類には不足点や不満点があると言えるのかと。
こうしてくれればより完璧になるのにとかって、
どの口が言えるんだろうって感じが。
自分が完璧ならね、まだしもですよね。
自分は完璧だと思ったやわけですから、僕は結局。
なのに人に対してそれを言えると思うってのは、
十分ナンセンスな感じがするんです。
だから僕が一番、ここが大きな今日のポイントなんですよね。
一番バイアスなく見られてるのは、
実はうちの娘に違いない。
僕の観点ですよ。
僕の目で一番、僕が客観的現実に近い観点を取れているのは、
うちの娘に対する眼差しだと。
ここを皆様は多分そうじゃないだろう。
お前、親だからバイアスありまくりで、
娘にない能力を見て、
ありえない美しさを勝手に見て、
ありえない愛おしさを勝手に見て、
つまり偏見丸出し、つまりそれを親は分かってるんですよね。
なんだろうって思うと、
思うわけじゃないですか、本音のところでは。
でも僕はそれはね、大きな間違いだと、
あの蔵殿さんのポッドキャストを聞き、
そして私がいつもいつもいつも、
意味づけ意味づけ意味づけで世の中を見ているっていう、
この現実から逃れられてないっていう証拠だと思うんですよね。
この中立に物を見られてないっていうのは、
もう確実なんですよ。
一つだけで一発で例を挙げられるのが、
僕はよく言ってるんだけど、
例えば赤信号であって思って見逃しそうになったっていう、
急ブレーキ踏めるじゃないですか、僕は。
踏むと思うんですよ、正気の人間なら。
でもこれは、現実というものをある意味、
明らかに何かしらの意味を付与しない限り、
そんな真似はできないんですよね。
なぜ赤信号で急ブレーキが踏めるのかって、
非常に不思議ですよね。
僕らは象徴に反応するわけですよね。
そこに立ってる鉄塔は、鉄塔は光を発して、
その前に赤色の何かペンキみたいなのを
出て赤にしてると。
これに何の意味もないじゃないですか。
せいぜい赤い光ですよ。
しかも赤い光なら全部止まるかっていうと、
そんなこともないじゃないですか。
パトカーのサイレンとか救急車のサイレンも赤ですけど、
あれ見たから直ちに急ブレーキ踏むわけじゃない。
僕らは意味を現実に付与しなければ、
何もできない生き方をしてるわけですよね。
全部事実じゃないですよね。
どれ一つ取っても真実ではないですよね。
例えばこれは食べ物。
世の中には、梅野和夫さんが14歳という漫画の中で
盛んにそのテーマを出してましたけど、
食べられるために生まれてきた生き物は一つもないっていう、
それを鶏が叫ぶんですけどね。
ホラー漫画だから。
人間にとっては鶏って食べ物じゃないですか。
意味付けと現実
これは完全に人間の側の意味付けですよ。
そのことに変だって思わないじゃないですか。
ここを変だと思うとむしろ大変なことになると思うんですよ。
食べられもしないものに食欲を沸かせちゃったら、
やばい人になっちゃうじゃないですか。世の中的にはね。
例えば、我々は、
アステカ文明で出てくる人肉タブーですよ。
完全。なぜ?
そういう漫画もありますけどね。
なんで人間は食べちゃダメなんだ。
そういうことを言う人がいるわけですよね。
つまりこれは意味付けなんですよね。
意味付けは非常に大事です。
私たちの社会生活を営む上。
つまり僕らは現実のある部分を完璧に無視して、
その部分と全然関係ないものを持ってきて、
そこに意味を当てるわけですよね。
これをしかも集団でできるように、
集団の意味付けに沿った意味付けができるようにならないと困るんですよ。
自分の勝手な意味付けとかでは全然ダメで、
それを精神病的な観点ということになるんだけど、
例えば赤信号というのは、
いやいや俺だけは行っていいからみたいな意味を付けちゃダメなんですよ。
だから急ブレーキを踏めるわけですよね。
ほとんど無意識にその反応が起こる。
そのレベルまで達している。
つまり私たちは無意識の力まで使って、
現実というものに現実じゃないものを見て、
一部の現実は逆に見ないことにするっていう、
そういう心理操作をあっという間に
施すことができるからこそ、
この現実というものに対して全然関係ないものを見て、
そしてそれを現実だと信じ込んで、
それに対して現実的な対応を取っちゃうんですよ。
これは全然ニュートラルでないことだけは確かです。
必要ですよ。もちろんね。
これが良いとか悪いって話ではないんですよ。
そういうふうに僕らは生きているということですね。
最近僕は何度も言っている通り、
ピクミンが死ぬと心が痛むんですよ。
ピクミンが死ぬって何よって感じじゃないですか。
ピクミンは死にはしないですよね。架空の生き物ですからね。
しかも画面の中にしかいませんから。
でも死ぬと心が痛むんですよ。
これも全く世の中というか現実というものを
ニュートラルには見ない人間というものの特性で、
ゲームというのはそこを完璧についているわけですよ。
これは敵っぽいとか、原生生物は敵っぽいとかね。
敵っぽいも何もあったもんじゃないですよね。
敵かどうかなんてわかんないじゃないですか。
ゲームで勝手にそれを意味付けているだけで。
ところがこのゲームがヒットしたのは、
みんながピクミンを殺したく、死なせたくないって思って
ゲームをプレイし続けるように持ってったから
ピクミンは4になってヒットしたっていう話があるぐらいなんですよ。
つまりこの意図はちゃんと通ってるわけですよね。
偏見と人間の視点
非常に面白い事象だと思うし、
哲学ではしょっちゅうこれ話題になってますけど、
僕がこれをなんでここでことさらうに話題にしたいか
というと別に哲学でやりたいわけではなくてですね。
僕らは意味付けることによって現実を見、
現実の見方を間違うんですね。
客観から離れていくんですよ。
どんどんどんどん主観的な世界に埋没していく。
で、どこに比較的現実に近い距離の反転があり、
どこが現実から遠い反転になっていくのかというと、
一つにはその辺が倉田野さんのその気づきの
面白いというかすごいというかなところで、
全人類に不満を覚えるっていうのは客観的ですか?
っていう問いがあるわけですよ。
全人類というのはあなたから見て不満を覚えるべき
そういうなんていうのかな、存在なんでしょうか。
それは客観的事実に近いんだろうか。
僕は全然近い感じはしないんですよね。
そういう風に言われてみると80億ですよ。
80億に生きている人たちがいて、
僕がですね、それらの人たちにここに欠点があると
全員に対して言えるっていうのはおかしいと思うんですよね。
それはものすごく主観丸出しだ。
僕の都合を最優先で世の中をよっぽど歪めてみないと
そうは見えないはず。
でもそう見えるってことはそういう歪みを
僕は目の上にくっつけてでもいるような生き方をしている。
で、うちの娘についてはそれがなくなる。
そうすると今度はよく言う話によると
それは親の特殊なレンズを通してみるから
欠点だらけであるはずの娘がそうは見えないということになるんだけど
それは完全に間違っているような日が
さっきの80億の不満を見るということを考えると思うんですよ。
明らかに僕は多分
娘に対してが一番現実的な観点をとれるんですね。
だからこの観点を持って世の中の人を見るべきなんですよ。
そうしたらもっとましな見方ができるだろうということなんですね。
どっちにしてもニュートラルではないから
赤信号で止まれないと困りますから
意味はつけるし、現実は無視するし、非現実は見るし
ピクミンが生き物だと思い込むし
非常にいろんな偏見、偏見、偏見、偏見なんですよ。
意味づけ、意味づけ、意味づけ、意味づけ
その上、イリュージョンばっかり見る
完全に寝ているようなものですよ。
そうは僕らは言わないんですけど、そうなんですよ。おそらく。
いろんな証拠がそのことを物語っている気がするんですよね。
僕はでもいつも信号を見てそのことを考えるんですよね。
どうしてもこれが当然そうでなければいけないし
そうであってくれていいんですけれども
どうしても僕たちは意味をつける、つけずにはいられない
文字というものが意味を成しているという段階でそうですけどね
そういうふうに意味をつけるし、それをせずにはいられないし
生きているというのはそういうことです。
人間として生きるというのはそういうことです。
そういうことですが、それにしてもですね
より現実的な観点で考えると
より現実的な観点とより現実から離れた観点はあるんじゃないだろうか
要するによりひどい夢を見まくっているケースと
少しは目が開いているケースがあるだろうということですね。
そして少しは目が開いているケースから見れば
世の中多分ですね、僕から見て
さほどの不満はなくなっていく方向に向かうだろうなというふうに思うんですよね。
娘が例外なんじゃなくて
娘の典型みたいな感じで
typicalって意味ですね。
娘のようにみんな見えるはず。
自己と他者の見方
この中で一番大事なのが自分なんですよ。
自分どう見えるかってことですね。
自分には不満がいっぱいだっていうのはおそらくバイアスなんですよ。
このバイアスを消さない手はないと思うんですよね。
私が自分の娘を見る見方と
私が私を見る見方が
なぜこんなにおぞましいほど違っているのか。
ここも不思議ですよね。
ある意味人間なんて
自己愛丸出しじゃないですか。
自分大好きですよね。
ところが自分を見た時ってのは非常におかしなことに
なんかこう
この顔なんとかなんでいいかなって
僕大学時代こればっかりでしたからね。
これの顔がイケメンになれば
この苦しみから逃れられるって本当に思ってましたから。
多少は本当だったと思うんだけど
それにしてもひどいもんでしたよね。
整形こそしなかったぐらいな感じです。
だから僕がアトピーだったのは
わけがあるとは最近本当思うんですよ。
自分の肉体に対する不満が強かった。
ものすごい強かったんですよね。
自分の歩き方も自分の喋り方も自分の顔も
自分の手の使い方も自分の足も
全部嫌いでしたから。
なんであんなに嫌いだったのかと今思うと
不思議なくらい嫌いでした。
これがバイアスでなければなんなのか。
バイアスなんですよね。
これは完全に偏見丸出しなんですよ。
ものすごく偏見が強い。
これで人の偏見について
ややかく言える筋合いは
どこにもないと思うんですよ。
だから他人については
自分の娘のようにはまだ見えませんが
そう見るように持っていくことはできるはずだし
何より自分についてそうだなって思うんですよね。
自分をうちの娘に対する観点で
取るように自分が取れれば
もう多分大半の問題は解決できる。
もう多分大半の問題は
一気に片付くという感じがします。
で、その上でですね
先日お話しした脱出ゲームとリアルゲーム
タスク管理におけるね
脱出ゲームはいらなくなるだろうな
っていうのがあるんですよ。
ここには。
先日はタスクシュートという方面から
お話ししたから
脱出ゲーム始まっちゃってるから
脱出してから考えましょうね
って話しましたけれども
今日は概ねGood Vibesの方向から
話してるんで
この観点を逆転させるべきだと思うんですよ。
本当は脱出しなくてもいいんだったら
タスクほとんどなくならない
っていうことなんですよ。
これがやっぱり自分にとっては
ベストだなって思っております。
答えとしてはね
一番いいのは脱出ゲームというものが
存在しなくなること
なぜなら私がうちの娘から脱出したくなるはず
絶対ないですから。
あのあれですね
あのイメージはないんですけども
うちの子が家庭内暴力をふるいまくって
僕ボコボコにして
毎日僕がしまみれになっても
うちの娘が愛しくなくなるってことは
僕には起こらない
っていう確信は県にあります。
この観点をですね
他の人に何でもか取れないのか
っていうのもね
あの別にボコボコにされてもいい
という話ではないですよ。
でもなんかね
そんなことされないじゃないですか
ほとんどの場合
たまによっぽど
自分が悪ければ
そういうとんでもない人と
遭遇することあるかもしれないけど
まああのね
例えば僕なんかよく
昔はセミナー行って
まあ今でも全然ないわけじゃないんだけど
今ほとんど全くなくなりましたけどね
セミナー行って
いやーこうね
いかつそうな人が
なんかこうチッとかチッとかですよ
チッとかですよ
ボコボコですよ
うちの娘にされてもいいって思ってるのに
僕に対して言ってるのかどうかそれは
わかんないですよね
さっきも言いましたけど
僕らの観点はニュートラルではないですからね
このこと僕ら忘れてるんです
いやーあの地は絶対俺に対する舌打ちだわみたいな
そういえばあの人前も来てたわみたいなことを
勝手にどんどんどんどん作り出して
それは客観的事実だって思っちゃうんですよね
僕はこれはすっごいおかしなことだと
まあ思うんですよ
この瞬間に立ち会って
どうしてもそう思わないわけにいかない
という気持ちになったとしても
でもこれはおかしいとは思うんですよ
だって僕は赤信号で急ブレーキをかけるんだ
あのどういうふうに見ても
僕の目はカメラのようではないし
まあ脳がなったけど
現実を実写できてないことだけは確実なんですね
昨日もほんと紫ピクミン言ったっけ
緑ピクミンだ
光ピクミンか
47失ってですね
うわーってなったんです
こんなこんな脳ですよ
だって僕の目は
カメラのようではないし
こんな脳ですよ
だって光ピクミン失ったから
なんだってことは
何にもないじゃないですか
なんかほんとにね
自分の愛犬でも失ったような気持ちになるってのは
もう完全に頭というのは
とち狂ってるわけですよ
かなりの部分
別にこう言ったからといって
誰のことに対して失礼だとは
私は今は思わないですね
だって生きてないことは確かじゃないですか
死んだとか言ってる段階でも相当おかしいですよね
でも僕は
これ普通でしょ
多分47失ったら
1からやり直すって人すらいらっしゃると思いますよ
解釈の問題
つまりそれは強烈な意味付けというものを
自分の感情
自分の価値観
自分の信念
自分の行動に結びつけて動かすって
動かしていく
それを人はする生き物なんですよ
で、血ですよ
なんかこう感じの悪い人がね
私が喋るなり血と言ったと
この現実に対して
この現実に対する私の解釈ってどうなのと
ニュートラルなものだと思ってるか
絶対そんなことはないんだけど
でも私は傷つく
だから傷つくのはしょうがないんですよね
でも
傷つかない観点を取ることは
可能なはずなんですよ
うちの娘に
家庭内暴力でボコボコにされても
いや好きですって思えるんだから
思えるはずなんですよ
思うことができるはずなんです
これをいやそれはでも
あくまでも解釈の問題でしょ
って言うんだけど
そうではないんですよね
てかそうなんですよ
赤信号を僕ら解釈してるじゃないですか
僕ら解釈をずっとして生きてるんですよ
起きてる時も寝てる時も
一日中解釈して生きてる
一生解釈し続けて生きてるんですよ
つまり解釈の問題なんですよ
この世には解釈の問題しかないんですね
だから解釈を変えるってことは
でもね
解釈の問題は
大事なことなんです
精神分析でずっと分析家の人が
クライアントさんに解釈を
相手に提供していくってのは
本当に面白い
普通の相談ではないけれども
まさに相談の抽出した
純金のやり方なんですよね
解釈を与える
とにかく基本は解釈しちゃ
与えちゃダメみたいな
そういう縛りがあるんだけど
この縛りってところに
大きなポイントがありますよね
解釈を与える
解釈を与えることが
相談になる
あるいはカウンセリングになる
ってのはまさに正しいと思うんですよね
僕らは解釈を一生続ける生き物なんだから
その解釈が
どれほど非現実的
あるいは反社会的
ないしは非社交的であることによって
自分がどれほど
利益をこむって苦しむかってことなんですよ
これは頭の良し悪しとかではない
と思うんですよね
だって学校の成績がいいとか
頭がいいという人は
短時間でその場に
ふさわしい解釈を
出せるってことですから
つまり頭がいいからといって
客観的現実が見える
っていう話には
多分ならないんですよ
なるケースもあると思いますよ
でも多分ならないんですよ
あんまり
むしろそうではなくて
実際にその場では
適切とされる解釈を
反射的に行うことが
できるというのが
かなり高く評価される
ポイントになるわけですね
だってあれですよね
教習所では青の点滅を見たら
もう車は少なくとも
減速で
交差点に入らないで
済むような
運転ができるようにならなきゃ
いけないのに
青の点滅だから急いで
バーっていくってのは
ダメじゃないですか
そういうことがそもそも
わかるっていうのが
現実の道路に出たら
青の点滅見たら
回って急ぐんですよ
そういうことあり得ることですよね
十分に
つまり場の雰囲気というか
その場で求められていること
っていうのが結局
象徴的に分かって
その分かった象徴に合わせて
自分の行動をリンクさせて
変えることができるというのが
つまり頭がいいってことなんですよ
人間社会においては
でもこれは解釈じゃないですか
私たちは世の中を
ニュートラルに見るから
頭がいいわけではなくて
現実的なわけでもないんですよ
僕らが現実的だとか
頭がいいと言われるのは
解釈の仕方によるんですよ
だから私はだったら
自分を苦しめる解釈を
これはどちらかというと
グッドバイブスで
倉野の圭同さんが言っていることに
ただ僕はインスパイアされて
喋ってるんですけど
解釈変えましょう
解釈が問題なんです
私たちは
自分を相当痛めつける解釈というものを
結構無意識というか
無頓着ですね
無頓着にバリバリやって
倉野さんがよくご指摘している
罪悪感というのが
まさに最多のもので
罪悪感を持つという解釈
これは解釈なんですよ
人間社会だけで成り立つものですから
罪悪感のことで
多分将来エンマ対応に
責められることは起こりませんから
他の動物は責めないでしょ
かなり頭のいい動物だからと言って
お前奥さんいるのに
5人も浮気して
人間としてなってないぞって
チンパンジーが言ってくることはないでしょ
チンパンジーは言葉を使えませんけど
使えたとしても
そんなことは言ってこないと思うんですよ
これは人間社会における解釈で
罪悪感を持つというのは
解釈なんですよね完全に
赤信号は止まれというのと
ある象徴機能を使った上で
私たちがそれを可能にする解釈なんですよ
別にそう解釈すること自体が
いいとか悪いって話ではないんですよ
罪悪感と解釈
大体いいってされてますしね
よく言うじゃないですか
最近で言うと何だろうな
何でもいいんです
いろんな事件が起こりますよね
その時に必ず
これほどのことを起こしておきながら
犯人にはまだ反省の色が見られません
とかって言うじゃないですか
これがつまり
罪悪感を持てないと解釈された場合
どういう目に合うか
ということを私たちは
社会からメッセージとし
メッセージも解釈ですけど
受け取ってるんで
我々は何か人に罰金されそうになったら
いち早くですね
いや私は悪いことしてるって分かってますって
急いで言えるようになってるわけですよ
これを罪悪感と
罪悪感なのかって思うんだけど
僕は罪悪感ってこの形式を取ることが
非常に多いような気がしまして
いいこと全然ないなって思うんですよね
見てても感じ良くないですしね
自分における
それこそ解釈と
メッセージのやり取りなんですよね
だからとにかく反省しています
という顔をする
そこまで酷くはないかもしれないけど
反省していますという風に
自分を殴るみたいな
この殴り方はですね
手で殴ってるよりはるかに効いてますから
食欲がなくなったり
不眠になったり
心身を患う
という結果を招く
そうするとしかし
自分の人は何か納得感が得られるみたいな
非常にこう
これをエリフスコンプレックスって言うと
僕は思うんですけれども
非常にややこしいシステムを
我々は
お互いをそれで縛ることによって
お互いが爆発しないんだと
でも思ってるわけですね
僕はこれも逆だと思うんですけどね
いずれにしても
これも解釈なんです
だから自分が何かを
しでかしたのか
もうちょっと悪いような
悪いことじゃないところで
例えば私たちが
今度私とJ松崎さんで本出しますけど
売れなかった
こんなことですら僕らはですね
罪悪感を持つっていうことを
したりしかねないし
人によってはこれ
罪悪感を持つべきだぐらいに
思ってしまうんですけど
これ全然罪悪感を持つべき
案件じゃないと思うんですよね
だから持たないですけれども
その時に持たないっていうか
意識を持つためには
売れなかったなって
思うことができなく
ある意味になるわけです
例えば私が
わざわざ名を連ねなければ
おじいさんだけならもっと売れたかもしれない
こういうふうに考えるじゃないですか
考える人はすぐ
これは罪悪感ですよね
そしてこれは現実に対する
一つの解釈ですよね
現実は売れなかったという現実すらないんですよ
これも解釈ですよ
現実は何人の人が買った
それが例えば10万人ではなかった
というのは現実ですよね
売れなかったとかいう現実はないわけですよ
僕らすぐ解釈に走るくせに
これを解釈だと考えない
これは解釈だと考えとけば
まだ全然いいと思うんですね
これを客観的事実だと思い込む
売れなかったのは客観的事実だとか
逆の果てには
Jマスザキという名前だけだったら
もっと売れたのが事実だとか
そんな事実はもうないですから
作り出したものですから
これをでも私はせずにはいられないんですし
人間というのはそういうふうに
するべきですぐらいな
ノリっていうのは
この世の中にあるんですよ
僕はこれはナンセンスだと思うんですよ
やっぱりこれをずっとやってるせいで
僕らはだんだん自由を
屈別の人に対して不満を持つのが
当然だっていう世界に
生きることになるんですよ
これで自分が神様だ
ってんなら本当にいいんですけど
あるいはそこまでいかないにしても
権力的にプーチン大統領並みだ
っていうんなら
まだ強い不満を持った人は
よしあの人は殺せってこと
言えるわけですからね
ものすごい怖い世界のような気もしますけど
でも僕らのできることっていうのは
電車の中で散っていった人がいるから
すっごいムカムカして
麦茶買って飲むみたいな
そういう世界じゃないですか
これに何の意味が
自己への不満
どのくらいあるのかね
っていう感じを考えてみると
全然全くないような気がするんですよね
つまり
これは解釈なんだから
やりたくなければ
違う解釈を取っても
あるいは一切解釈を取らなくても
構わないじゃないですかと
そういう
せめて方針を持つってことは
あっていいんじゃないか
と思うんですよね
この方針を持つだけでも
例えば
それこそタスクの話をするならば
やるべきタスクは
激減するはずだし
持つべき義務も激減するし
何よりも何かが
なされなかったとか
しでかしたとか
私のせいで
残念な現実結果になってしまったとか
思い込む必要だけは
確実になくなる
それだけでも結構
違うんじゃないかなというふうに思うんです
そしてですね
最後にでも僕は最近
当然この話の機決として考えられるのは
でも罪悪感を持つことに
罪悪感を持つ必要はないと思うんですよね
つまり
やっぱりある意味
何をしてもっていうのは
一応の幅を持った方がいいとは思いますけど
でも
ほぼ犯罪でなければ
何をしてもいいんだなと
もうちょっと違う言い方をするならば
そもそも何もしなくていいんだなって
感じがするんですよ
罪悪感を持たないっていうのは
結局
自分が苦しむ解釈を取らないためでしかない
とも言えるんですね
これはとってもいい方法だし
強烈だし
意外に盲点になっているというのは
事実なんですけど
でも持っちゃうよと
じゃあ持っちゃったらいいんじゃないか
という感じがするんですよ
ただこれが事後にでもですね
解釈に過ぎないんだということにさえ
認識が至ればですね
よく
人に不満を持つというのが
86に持つっていうのは
インパクト大きいですけど
でもこのことから気づくべきは
その点じゃないように
私はやっぱりするんですね
このことから気づくべきは
その不満を全部自分に向けてしまって
いるはずだって思うんですよ
だって自分の見る世界なんだから
不満でいっぱいだってのは
結局全部自分に跳ね返るだけですよね
さっき言った
プーチン大統領権力運動
プーチン大統領権力運動ってのは
そういう意味なんですよ
どうせ不満を持とうが持つまいが
自分にできる
ごくごくわずかであるというのが
常識人の取る行動と態度の
それって結局自分に
跳ね返ってくるじゃないですか
人に不満を持つということは
それらの人たちが好きにはなれない
信用もできない
助けてほしいと思うことも
難しくなってくる
そしていざ自分がその人たちに向かって
何かを表現したり
何かしてもらうときには
その自己不信というものが必ず
障害になってしまうわけですよね
これを解釈によって外せるんだら
こんなに楽なことはないし
結局その自分が
自分が不満を持つ
というのが最終的に
何を意味するかというと
つまり自分に対して
完全無欠だという不満を持つべき理由は
一切ない
途中僕申しましたよね
性内暴力で防護にされても
構わないと思えるなら
自分が何をしでかしても
構わないじゃないですか
この観点が取れれば
例えば集客にセミナーで
失敗しましたとか
これぐらいのことは
それこそ解釈次第で可能になる
を僕は思うんですよね
実際私が結局この観点を
娘に対して取れるようになるには
娘が必要だったんで
娘が生まれて後の現象なんですよね
よく言われたもんですよ
今はね
そんなにパパに懐いていて
そんなに可愛いかもしれないけど
14後
中学高校になると
みんな言いますね
思春期の女の子が
とてもつらくなるよ
と全然なんないんですよ
子供を育てる観点
娘の態度が
その積み崩しみたいには
なってないっていう
そのラッキーさはあるんですよね
関係ないなって思うんですよね
態度などというもの
彼女がどういう態度を取るから
好きとかいうことはなかったので
これがすごいと言ってくださる方も
いるんですが
これ全然すごくないことは
僕がよく分かっているんですよ
これには昔蔵園さんに指摘された通りで
力もいらないんですよね これとかなり酷似したことをドナルドミニコットって精神分析家も言ってるんですよ
母親になるために学歴はいらない何の知識もいらないなぜか母親になることは母親として 子供を育てるということはに必要なものは母親になった母親みんなが知っている
あれは僕は名言だなぁってずっと思うんですよね この話はミニコット精神分析家ですから
8精神病という問題との兼ね合いでしゃべってるんですけど 精神治療という問題との兼ね合いでしゃべってるんですけどでも
事実は事実としてそういうもんだなってこれはの割とミニコットの本の中で非専門的な 子供をなぜ遊ぶのって本の中に出てくる一戦です
非常に有名な一節ですね 私自身それとちょっと文脈違いますけど娘を愛する
何の努力もいらない呼吸するより簡単だっていうのがよくわかるんですよね これを自分に向ければいいんですよ
そうすれば自分の世界に 何人も何人も何人もいる知人にいちいち不満を見ることに
8何のメリットもないって不満がないってことは結局 相手がどういう態度をとってもいいってことになるはずなんですよね
不満が本当にないな 家の娘がどういう態度をとっても別に構わないと感じているようですね
何どういう態度をとってもいいはずなんですよ だからセミナーでいやもう帰れって言ってもいいんですよ
お客さんが私に対してこの観点をお客さんに対して取れれば それは私に対して自分が取れればというのと全く同じ意味になるんだけど
これを抽象的に言うとなんか成人になるみたいな努力を要するみたいに思うと思われる ので
8私が一番やっぱりお勧めしたいのはさっきの僕はか信号であるんだけど僕らの観点は ニュートラルではないから
解釈がいかようにも変更していいはずだっていうのが一つと この前提は踏まえる必要が多くあると思うんですけどもう一つが
a マンの少ない人にまずやったらいいと思います やっぱりですねえっと蔵野さんもポッドキャストへ不満の大きい人と小さい人って
あの分け方にはイリュージョンだっていうふくみがあると思うんですけども でもやっぱり小さいと思える人っているじゃないですか
僕の中にも言います知人の中でこの人にほぼ不満全然ないなぁ色々からって人はい るんですよ
この人に対してまずゼロにするっていうのを徹底してやってみると見えてくるものがあるんですよ 逆にそんな人にすら持つ小さな不満ってのは一体どういうもの
自分は言って何をやろうとしているのかっていうのが少しわかってくるんですよ この不満がニュートラルなものでないことだけはもう100%確実だと僕は思います
あのぜひ比較的大好きな知人の方への不満ってものを考えてみてほしいですよね この不満は何なのかってことですよね
絶対それは客観的事実とは何の関係もない その見ている私の極めて個人的な事情と関係があるはずです