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2020-08-18 26:50

【GMV206】ポリアモニー?

比較は完璧主義を向く
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
最近、縁あってというのか、縁あってだな。
ホリーアモニンという言葉を見かけたというか、思い出したんですよ。
これを説明するのはなかなか困難なんですが、
まあ困難だな。
タフ・多彩制度ではないけれども、
要は一部一部制なのかもしれないんですけど、
その枠組みを崩さなくたって、
外で関係を持つのも認め合いましょうみたいな、
そういう考え方だと思うんですね。
まあ、諸々問題が起きそうな発想ではあるんですけど、
単純に僕が感じたことは、
それはいい制度だとサクッと言える人は、ある意味羨ましいなというのが率直にあります。
この制度の話が出ると、
言ってみればですね、貧富の差が開くような気がどうしてもしちゃうんですよね。
自分は絶対貧者だという思い込みがあるので、
この制度が制度じゃないんだけど、これは。
この価値観が一般化して、私にいいことは一切ないなという気がしたんですね。
まあまあ、それはいいんですけれども。
本当はこれ、あんまりまともに考えたこともないんですけど、
たぶん、そもそも、そうそう簡単に実現する気がしないというのもありますけど。
すいません。
クーラーとかかけながらこれ収録できないために、
暑くて死んじゃうんで、氷を持って、
氷っていうか、アイス飲みたいなのを持ってやってるんですけど、
これを落とした音ですね。
つまり、ポリアモニーというのでも何でもそんなに珍しい考え方ではないと思うんですよ。
1960年代のアメリカにも似たような発想ってあったような気がする。
ヒッピー前線でしたしね。
そういうことって絶対言われ得ることだと思うんですけど。
もう一つはですね、
これはですね、
イリュージョンが広がることを自分の能力では防げない気がするっていうのが、
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真面目に考えるとそういうことを考えました。
イリュージョン、この場合はですね、
比較なんですけど、
比較って私たち好きですよね。
ダニエル・ビルバートっていう社会心理学者が
幸せはいつもちょっと先にあるという、なかなかいいタイトルの本を書いてるんですね。
彼がですね、徹底的に本一冊で言ってることは、
言ってることは、要は脳内シミュレーションはやめろってことなんですね。
脳内シミュレーションがいかに全く役に立たないものであるかを、
脳科学的、社会心理学的に徹底的に検証しているのがあの本なんですよ。
私はあの本を読んで全く絶対そうだろうと思いながらも、
やめられているとは言えないんですね。
私たちって、例えばですけど、
結婚生活でなんか面白くないことがあったとするじゃないですか。
男女共にあるじゃないですか。
そうすると、一人になった時の自分の生活をシミュレーションしちゃったりしません?
あの、この人がいない生活ってどうなんだろうって。
で、ダニエル・ギルバートはこの脳内シミュレーションは穴だらけだというか、穴であると言ってるんですね。
こういう言い回しがあるんですよ。何回か紹介した気もするんですけど。
記憶が穴だらけの壁だとするならば、想像は壁のない穴だ。
これは大変いい言い回しだと僕は思っていて。
私たちそう思ってないじゃないですか。せいぜい穴だらけの壁だぐらいに思ってますよね。
壁のない穴って、つまりそこには何もないわけなんですけど。
想像して現在Aと現在Bを比較している気になるのは、大変おめでたいと思うんですよね。
人間の想像力というのは、そういうレベルまでには、そのレベルを100とすると0.3ぐらいなんですよ、多分。
ゼロだと思うんですね。
よく間違い探しってあるじゃないですか。あれは想像じゃなくて、近くを比較してますよね。
あれでも結構一瞬だといろんなものを見落とすのに、
想像で現実Aと現実A'を比較できるはずがないんですよね。
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この種のことを本当に農家学者と心理学者が喜んで使う題材なんですよね。
いかに私たちの脳内シミュレーションが粗雑かという。
映画と落書きぐらいの差があるんだけど、
それはそっくり同じようなものだと思い込める能力までくっついているらしいんですよ。
でもそうは言っても、ダニエル・ギルバーツだって絶対脳内シミュレーションをしていると思うんですよ。
つまり、そこが怖いんですよね。
私はモテないんで、自分が結婚生活現在と結婚生活A'を比較するという思考性にならないんですね。
あくまでも独身状況と現在という比較になっちゃうんですよ。
このほうがまだリアリティは感じる。
でもたぶんそこでしている私の独身生活は、はなはな自分に都合のいいものになっていると思うんです。
間違いないと思うんですよ。
たぶん現実の1万倍ぐらいいいものになっちゃっている。
これを私たちはするんですよね。
となるとですね、プリアモニーって怖いと思いません?
プリアモニーって怖いと思いません?っていう話なんですよ。
つまり現実にそのようなシステムが成立してしまうと、今度は比較がいる状態といる状態で比較をするはずだと僕は思うんですね。
私たちの性質からして。
結婚生活Aとプリアモニー状態Bを比較すると、しかもこれは空想じゃないんですよ。
そういう関係性を外で作れる人も出てくるわけだから、実際に比較が始まるじゃないですか。
でも実際の比較だからといって、それがイリュージョンでないということにはまずならないと思うんですよね。
たぶんどっちかの関係のほうが心地いいっていう状態がずっと続くと思うんですよ。
Aのほうがいい日もあればBのほうがいい日もあるわけです。
記号で喋っているのは過度に生々しくならないように記号で喋りたいんですね。
Aのほうがいい時はBをイリュージョンで貶めていると思うんですよね。
Bのほうがいい時はAをイリュージョンで貶めていると思うんですよ。
これをやって全てがうまくいくようにできる自信が僕にはない。
つまりイリュージョンにまみれていくと、どうしても人間は自分に優しいのである意味では。
イリュージョンによって自分に優しくするって実に怖いことなんですけど、
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とにかくイリュージョンによって自分に優しくするので、
夏が来るとやっぱり秋って恋しいじゃないですか。
冬が来るとやっぱり春が待ち遠しくなるじゃないですか。
これが脳内シミュレーションですけど、これを並行でやっていくと関係が破綻するような気がするんですよね。
そこにイリュージョンがかかっているっていうことはですね、
これは倉園圭三さんがよくブログの中で時々書かれていて、
このことを僕はよく忘れがちだからメモしておきたくなるんですが、
メモしておくこともあるんですが、
私たちがここにいるから相手はそうなるっていう側面ってあるじゃないですか。
これは2つの意味があるんですけど、どっちにしてもあると思うんですよ。
理由知力学っていう学問もありますよね。
観察者の存在が観察対象に影響を与える。
あれ別に理由知力学じゃなくたってですね、心理学では非常に大きな問題になるわけですよね。
観察者が見ているのと見ていないのとでは、実験対象の振る舞いは変わりますよね。
だってマシュマロテストってやつもそうでしたけど、子供にマシュマロを食べさせないという、
我慢できたら2個あげるっていうやつ、我慢できなかったら1個ももらえないってやつですが、
我慢できなかったら1個は食べられるのか、そういうやつでしたけど、
ずっと大人がそこにいるのといないのとでは多分違うんですよね。
起きる事象が。でも科学ってそういうのダメだって言うじゃないですか。
観察者が事態に影響を及ぼすようでは科学じゃないじゃないですか。
でも心理学ってのは誰かがいることによる影響っていうものも加味してこなきゃならないので、非常に面倒ですよね。
だけれども私たちは相手の性格が良いとか悪いとか言った時に、
なんかそれが自分から独立した性格、相手の性格だと思い込む癖がありますけど、
分かんないじゃないですか。
例えば私の家の奥さんの性格って本当に良くなかったと思うとするんだけど、
それは私と一緒にいることによって発生している性格である可能性を排除できないですよね。
排除できないっていうか多分そうですよね。
よくこんな人じゃなかったとかって言う言葉も出てきますけど、
まず第一にこんな人じゃなかったかもしれないけど、
例えば子供が生まれたりマンションのローが重んだりしてこんな人になってしまったという可能性もありますよね。
単純に時が経てば人は変化するから。
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だから自然に見込む性格ってどうしてもイリュージョンになっちゃうと思うんですけど、
これが親モニーだと実際に付き合って見ることができるからいいというこの新しいイリュージョンが厄介だなと。
付き合わなきゃ分かんないっていうのは本当なんだけど、付き合えば分かるっていうのは本当じゃないじゃないですか。
付き合うと人は変わるかもしれないんですよね。
そうするとしかもそこに比較が絶対入ってくると思うんですよ。
付き合った上に比較するという。
比較しない付き合い方と比較する付き合い方では同じになるはずはないですよね。
だからその他諸々のことを考えるとこれはとっても難しい。
僕の手に負えそうな気が全くしない。
っていう風に思ったんですね。
しかもそれが一般思想化した時に自分一人でいるのは前とは寂しさの度合いが変わる気がする。
しかも複数複数がOKなんだから、今だってある意味OKなようなところもなくもないような気もするんですけど、
一応建物上は少なくともOKじゃないことになってますからね。
複数複数が公然と認められるんだから誰も俺と付き合う必要ないじゃんって僕だったら思っちゃうんですよね。
これもイリュージョンかもしれませんけど。
諸々考えてみると問題は僕の考えでは規格になるんだと思うんです。
多くの問題は今自分の時代であれば特に。
でも私でもですね、やっぱりこう、
有名な、なぜ名前を伏せるんだって感じですが、
今日はじゃあ名前なしでいきます。
有名な経済評論家の人が膝に猫を抱いて家電を2つ買うことのメリットをしゃべっていると
再生回数が1万回とかいくのに。
なぜ私たちがあんなに一生懸命しゃべっても再生回数が早々1000回には達成しないんだろうとかって思うんじゃないですか。
比較ですよね。
この種の比較は意味がないんですよ。
全くする意味がない。
けどたまたま目に入ると比較ってするんですよ。
しかも比較というのは非常に良くないことに、
完璧主義を目指してしまうんですよ。
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比較するということは。
これは蔵野さんが本当によくおっしゃるし、
いろいろなところで本当によく目にするんですけど、
良くないなと思うんだけども、僕は傍観者に今なっているんですけど、ある意味。
例えば子供を育てている時、
子供を例にとらなくてもいい。
例えば私がですね、誰かと比較をするという時、
仕事のパートナーである大橋哲夫さんでもいいんですけど、
絶対ありとあらゆる部分を大橋さんとだけ比較するとかしないんですよね。
例えば彼は仕事なのですごい有名なブロガーだが、
僕は仕事なのですごい有名なブロガーだが、自分はそうじゃないとか、
こういう比較の仕方をするんですね。
でも多分かけっこだったら僕の方が早いとか、
絶対にそういうものを持ち出さないんですよ。
かけっこだったら、例えば誰でもいいんですけど、
カール・ルイスの方が早いとか、これ古すぎてダメだな。
カール・ルイスって早かったんですよね、僕の小学校時代。
みんな変な格好して真似して走ってました。
要するに、なぜかなのか分からないんだけど、
その道で火出た人の能力のその部分と自分を比較するというとんでもないことをやるんですね。
これを身近に関係を複数持っている人同士でやったら、
感じ悪いことにしかならないと思うんですよね。
それ、現代でもやってるじゃんって言われれば、やっているケースもあると思います。
ただね、これは見ていてやっぱり思うんですけど、やっぱり子供の例がいいんだな。
例えば、うちにも子がいますが、
急な比較の仕方をさっきみたいにするんですよね。
ある人とPVを比較するなら、
他のあらゆる部分もその人とだけ比較しておけばいいような感じがしますけど、
現実はそうはしない。
例えば、文章の編集だったら僕より倉園さんの方が上手いしとか、
PVだったら大橋さんの方が僕よりあるしとか、
いちいち自分より得意な人を周りにずらずら並べて比較するということを
現実に行っている気がします。
気がするというか、それをよく目撃します。
うちの子は例えば勉強はできるけど、
かけっこだったらあの子の方が早いから、頑張んなさいとか。
さっき言った比較は完璧心理を目指すというのは、こういう意味なんですよ。
あの子は今日、またさらに別の子を取り出してきて、
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ラジオ体操行ってたわよ、あなた寝てたわねみたいな、そういう話をするんですよ。
程度問題はあると思うんですけど、
完全無欠な人間を目指しちゃう。
目指させようとするというのかな。
そういうことを僕らするよなと。
絶対に同一の人間とだけ比較するってことはしないなと。
僕も言われますもんね、奥さん。
たとえ、つまり不足している部分をやっぱり人は優位だなということですね。
同じ年でもなんとかさんのお父さんも髪の毛そんなに抜けてないわよとかって言われだしましたからね。
で、そのなんとかさんのお父さんが出てくるのはその時だけなんですよね。
違う時に違うなんとかさんのお父さんが出てくるのは、
たとえばラジオ体操の時に箱を持つのを手伝ってくれてたわよと。
あるお父さんの良い部分が出てくるんですよ。
そのなんとかさんのお父さん、Aさんのお父さんとだけ比較をしてもらえば、
僕にも勝ち目があるんだけど。
長所が並んでいると勝ち目ないじゃないですか。
毛は抜けないし、ラジオ体操を手伝うし、収入は僕より多いし、
僕より若いし、すべて違う人なわけですよ。
これが主になると徹底的にやられるよなと。
今言った通りの現象を人は求めるだろうなと思うんですよね。
イリュージョンで行われているとしても、
現実に付き合ってそれをイリュージョンでやるとしても、
やってることは同じかもしれないですね。
でも厳しさが増す感じがするんですね。
だって本当にもしかすると、
僕より毛が抜けない人と付き合える可能性が発生するわけですからね。
僕が毛がなくなったわけじゃないんですけど。
それって僕の感覚ではどうでもいいことなんですよ。
どうでもいいことなんだけど、どうでも良くないわけですよ。
ここに恐れと不安があるわけですね。
このような問題が本当に追いかぶさってくると、
大変じゃないでしょうかと。
単純に今の方がはるかに、今のところの私にしてみれば気が済む。
今の方がはるかに今のところの私にしてみれば気が楽みたいなところがあって、
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結局比較ということがそれにしても幅を利かせるので、
どうしても単品と単品の比較で済ませてもらいたい。
オールスターと私を比較されると、子供にそれを適用しているのを見ると、
気にしていないレベルであるときはいいと思うんですけれども、
人が完璧主義を目指すようになる発端はこういうところにあるんだろうなと思ったりします。
学校の通知表ってそういうところがやっぱりありますけどね。
トータルでできるみたいなことを良しとしますよね。
子供だったらまだしも大人レスリングだったら、
今は子供もすごいですからね。
小学生で8段に将棋で勝っちゃったりしますから、
子供であったとしてもこれを目指すと将棋の里ではないと思う。
最後に思うのが、この話20分以内に切り上げられると思ったんですけどね、
突破しているんですね気がつくと。
最後に思ったのはですね、これはもうやっぱり将棋・強棋の問題になってくると思うんですけど、
人がこの比較をイリュージョンの中で行っているとよく思うのがですね、
テレビの人と比較しだすという不思議なことをやり始める。
テレビで10歳でヴァイオリンの天才みたいな、
ほらあの子すごいわよみたいな、将棋かと思うんですよ。
これじゃあまるでですね、本当に大谷くんのテレビで、
最近大谷将棋よく持ち出しているな、テレビで見て、
大谷選手は160キロの球が投げられるのよみたいな話をされているような感じじゃないですか。
いやいや、そんなの投げられるはずがないじゃないですか。
ちなみにあれ多分普通の人が160キロとかを無理やり投げる機械とかでやると、
肩が分解すると思うんですよね。
筋肉が骨が砕けるみたいな感じになると思います。
そういうことをでもみんなわりと言うじゃないですか。
テレビの中の人を見て、テレビの中の人ですからね。
さっきの町内の毛の抜けないおじさんの話とは全然レベルが違いますからね。
完全に狂気の世界だと思う。
この種のことってでもわりと平気で言う人がいてびっくりするんですけど、
私は昔、私が、
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留学中に高校の部活とかを聞かれて、
高校中学か、なんでもいいんですけど、
一時水泳部に入ってたっていう話をしていたら、
全国とかに行ったんですか?なんで全国とかに行っちゃうんだろうって。
全国に行けるわけないじゃんって思ったんですけど、
この感覚ってすごいメディア的だなと思ったんですよ。
どう考えてもそういうレベルに行かないだろうと。
行くのかもしれないですけど、
僕は一度もそんなことを考えたことがなかったんで。
その時の感覚がですね、
いつもテレビの中の人と、
冗談かもしれませんけど、
一緒にテレビの中の人を見て、
冗談かもしれませんけど、
町内の人のように語る、
そういう人も結構いっぱいいますよね。
余談になっちゃいますけど、
まあいいや、この話はまた後日にします。
大した話じゃないんで。
そういうことを言うと気になるかもしれないんですけど、
頭がぼーっとして喋ることを忘れる。
大した話じゃないです。
だからですね、
恋愛とか夫婦関係となると、
特に比較ってのが入ってきやすいんですけど、
この比較が、
比較はイリュージョンなんですが、全部。
たぶん、
脳内シミュレーションの比較ってのは、
壁のない穴なので、
実地に試してみたとしても、
それだけでイリュージョンが消せるわけじゃないので、
ほんと最近、ようやくできるようになってきたんですけど、
未来について比較しないという。
現在これをやめれば未来はこうなるっていう、
その未来と今のままの言ったらこうなるっていう比較が、
いかに無駄で、いかに有害かっていうことを、
これからはしばらくお伝えしていきたいなと思います。
ああ、長くなってる。
どうもありがとうございました。
26:50

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