1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 私の皮膚炎というβ要素【1250】
2025-09-16 49:23

私の皮膚炎というβ要素【1250】

私の肌に他人の心は関与し得ない。
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サマリー

このエピソードでは、精神分析とAIの関連性や、個人の心の問題に対する精神分析の重要性について考察されています。特に、アルファ要素に焦点を当て、カウンセリングにおける雑談の位置付けや必要性についても触れられています。また、α要素とβ要素の哲学的な違いについての考察が行われており、心の中で消化されるべきものと外部に存在しながらも心に入らないものの対比を通じて、消化と存在感の重要性が強調されています。さらに、心理カウンセリングにおけるリテラシーの重要性や、個々の心の状態が物事の知覚に与える影響についても語られています。特に、β要素とα要素の概念が導入され、視覚と心の関係に焦点を当てています。最後に、知覚と感情の関係についての深い考察が行われており、ベータ要素が心の中でどのように形成され、私たちの行動にどう影響を与えるのかがテーマとして取り上げられています。

精神分析の重要性
おはようございます。朝っぱらから精神分析第1250回をお送りします。
9月16日、火曜日、8時22分です。
昨日はゲスト会ということで、認証心理師で公認心理師でもある双葉さんという方をお招きして、
お招きしてと言っても、一緒に喋っただけで、どっかに2人で集まったというわけではありませんが、お招きしてゲスト会をお送りしました。
私は頭が多分、認証心理脳なので、認証心理師でも認証心理やってるわけでもないけど、脳はそうなってるんで、
いつとにそういう方をお招きする会は、跳ねるだろうって勝手に思ってしまうんですね。
それは言い出しまして、昨日は精神分析の話を僕がいっぱいしたわけじゃないんですけど、
僕は1000回近く、1000回のうち少なくとも500回は精神分析の話ではない話、わかんないな。でも500回ぐらいは精神分析の話してるかもしれませんよね。
分かんないですけどね、なんでこうしているのかという話をあちらこちらでしていますが、
多分そこのところが響いたことってほとんどない気がするんです。これもまた考えさせられる事柄ではあるんですけどね。
今日はガッツリそういう話をしてみようと思ってるんですけど、そういう話をガッツリしてる会もたくさんありますが、
たくさんあるからといって、このムーブメントが何になっているのかは全然わからないんですけど、
例えばですね、具体的に行くしかないかなと思うんですけど、例えばですね、日本ではなかったと思うんですけど、
AIにのめり込んで、こういう因果率ってすごい怪しいなんですけどね、AIにのめり込んでいたらしいお子さんが自殺されたという話ありますね。
こういう話を聞いた時に、もちろんそのAIと心の問題みたいになっていくんでしょうけど、私は精神分析ってだからいるんだよなみたいになっちゃうわけですね。
そこで出てくるのは心理カウンセリングじゃなくて、なんで精神分析なのかって思われると思うし、
その子が精神分析を受ければよかったと思っているわけでは、受けるというのは現実的ではあって、それが起こったところがアメリカだったと思うんですけど、
アメリカだとしても現実的にはどうかなと思いながらもですね、精神分析っているんだよなと、私は思うってことなんですね。
だから、精神分析がまず臨床試験の世界からなくなるなんて考えられないけど、私には。
まあでも、あの地球の歩き方じゃなくて、精神分析の歩き方。山崎隆明さんが本を読んでたりすると、もうなんかこうなくなっても不思議はないのかもしれないと。
アルファ要素の影響
まあそれは僕が勝手に剥害的に思うだけなのかもしれませんが、私はあれですよ、別に主流になればいいと思って、主流になったほうがいいぐらいには僕は思ってますけど偏ってるんで。
しかし、主流になればいいと思わない、でも暴流だとしてもないと困るよねっていうのがあるわけですよ。
先日ですね、また妻に怒られまして、私は大変理不尽だと思ってめちゃくちゃ腹が立ったわけですけれども、妻に剥害的になったわけですけれども、剥害的になったってパッと言うとですね、
妻も、まあその通りだったけど、妻も私の心の中だけで物事が展開しているみたいに、やっぱここのところで多くの人は納得しないんだろうなって思うんですよ。
いや、私の話としてはどうせ納得されちゃうんですけど、ここがなんかね、すでに剥害的になってるわけですけど、まあいいや、話をここでぐるぐる回すとどうしてもここでぐるぐる回るしかなくなっちゃうんで、
よしとして、私はパッとすぐに直ちにですね、マスキさんが書いた精神分析辞典みたいなやつを読むわけです。用語辞典みたいなやつね。
ちょっとタイトル違うんで、後で調べてください。興味があったらね。そしてそこで何の関係もない項目、まあその時はたまたまアルファ要素が一番冒頭にあったからアルファ要素を読んでいて、めちゃ怒りが沈まるんですよ。
これを説明できないんだけど、説明はできますよ。納得される気がしないってだけでね、これを伝えたいわけですね。これを伝えるとなんかね、臨床心理の営業妨害してるような気持ちになってくるんだけど、そんなことはさらさらないだろうって思うんだけど、でもなんか臨床心理の営業妨害してるような気がしてくるんですよ。
特に今主流だから、主流の臨床心理の営業妨害してるような気がしてくるんです。これが私の中では、今普通にあるやつを読んでもまったく起こらないんですよ。これが起こらない。
うなつきさんのとは言わないまでも、ビヨンドでもいいんだけど、クラインでもいいんだけど、でもあの時クライン読む気しなかったんですよね。クラインでもいいと思うんですけど、でも対象関係論じゃないとほぼダメなんですよ。ナンシーリアブスさんだとビリビリだなって感じなんですよね。臨床心理学系。系ですけどね。
フロミトでもまあいいんですけど、ユングではダメなんですよね。かわいはやおさんでも僕ではダメなんですよね。いやそれは多分あんたの好みだろって言われると思うんですけど、僕は別にここは好みで全然いいと思うんだけど、僕にはここには必然性があるわけですね。で、この必然性について喋ってるつもりなわけですね。つもりなだけなんですけど。
一人で解決できちゃうじゃんってことになりかねないじゃないですか。一人で解決できない理由を述べよって言われると、お前がサンチャレをやりたいからじゃないかって言われると難しいんですけど、でも、でもですよ。対象関係論読まないじゃないですか。多くの場合。本売れてる気配あんまり全くないし。一番僕が乳幼だと思ってる欲物の精神分析的悪労使とか絶版になって1万円近くするし、1万円って払いたくないじゃないですか。
街の本屋が潰れていく本、新書で読んでですね、この話もどっかでしたいなと思ったんですけど、精神分析とあまりにも関係なさすぎてこの番組ではできないんですが、要は本が安すぎたわけですよ。簡単に言うと。あれどうやって街の本屋潰れるようにできたんだなっていう。スマホとか全く関係なかったんだなっていうですね。だって僕が生まれる前から潰れ始めてたっていうことが、統計資料に残ってるんで。
その速度がどんどん加速してインターネットできる前ですよ。そしてインターネットが登場することによって、もはや取り返しがつかない事態が進行していますっていう本なんですよね。あれはね。
で、つまりそれは本が安いってことなんだけど、だから1万円もかけられないじゃないですか。こうなってくるとですね、1回に1万円しか出ないカウンセリングっていうのは、二度と説得力を増さないとどうしようもないよねっていうところが開業の話ね。
思うわけですよ。開業論を。野田沙耶子さんの編参されている開業論を、なぜ私がそれを読んでるんだっていうのが、読んでる間から疑問なんですけれども。私、開業を臨床審理士としてする気は多分、それはもう全く海外に移入するぐらいないなって感じがするんですけど。
読んでるわけですよ。そして、一体この本はなぜ私は読んでるんでしょうという気持ちで読んでるわけですね。話が飛んでるんで戻しますが。
要は、なんでアルファ要素を読むことによって、不倫感も怒りも、怒られている残念感と怒られたことへの怖さは残るんだけど、もはやほぼどうでもよくなってるんですね。ほぼですね。なぜなんだろうって思うんですよね。
その時、たまたま読んだのがアルファ要素だから冒頭だったんだけど、めんどくさかったから、どこでもいいのはわかってましたから。どこでもいいっていうのがまたすごいじゃないですか。どこでもいいんですよ。
なんでアルファ要素、いやアルファ要素ではなくて、アルファ要素の話にカコつけてやるんですけど、アルファ要素ってのは、これは知識にならないですからね。雑談ですから。
雑談の役割
このところは私はめちゃくちゃ大事だと思ってるんですけど、例えば心理カウンセリングとか受けに行って雑談ができるんだろうかってのは、僕は毎回毎回非常に深く疑問に思うんですよね。自分が言った感じ、雑談にはなかなかならないんで、定義ということになってしまうから、雑談になりにくいんですよね。
自分は非正規、非正規言ってますけど、非正規の良かったなと思っていることに、相手の人がそれでOKすればなんですけど、雑談ができることっていうのはあるわけですよ。
直面したくないときに人は雑談、それが一応回避ってことになるんだろうと思うんですけど、でも回避が続くってことは絶対にあるはずで、陰性治療反応じゃなくたってあるはずで、だから回避回避回避で行くってことになったときに、そこで雑談をして埋めるしかないじゃないですか。
別に沈黙でもいいんですけど、沈黙って僕は多分直面感が良いと思うんですよね。なんか自分は何て言えばいいのかな、深刻になる感じがあるじゃないですか。
口室の沈黙とかって藤山直樹さん書かれてますけど、固いわけですよ。柔らかい沈黙もあると思うんだけど、固いわけですよ。で、雑談ってのは逃げてると言えば逃げてるのかもしれないけど、雑談しながら関係ってできていくわけですが、このとき起きてることなんですよね。
雑談って心の中では何が消化されてるんだろうって、知事として進んでない感じはありますよ。明瞭に話聞いてる側としては。でも知事としてってのは進んでるわけじゃないですか。遅くって。これが非常に僕は一番大事なんじゃないかと思うんですよね。
タスクシュートでもここのところを、今回完全活用術のセミナーのときには少しお伝えしようと思ったんですけど、この全く本丸って言いますよね、藤山直樹さんが。本丸を責めたいわけじゃないですか。誰でも仕事をしてる間は。ところが本丸に全くをかけずに、なんか外堀埋め出すみたいなね。大阪夏の陣じゃないんですけど、外堀埋め出すみたいな。
でも外堀を埋めることが大事なんだよねって思うんですよ。仕事としては全然ダメですよ。外堀埋めまくって終わっていて怒られると思うんだけど、でも心の作業としてはこの外堀埋める。何ならば外堀を埋めるための土を持ってくるみたいな。そういうことなんだよっていう感じがするわけですよ。
アルファ要素の本を読んでるとそう思うんですよね。アルファ要素ってのは松木さんも書かれてましたけど、言葉として全く多くの人はこれを敬遠するであろうみたいなことが書いてあるんだけど、ここまで読んだから敬遠しないでねって。
そうなんだって。僕なんかもう松木さんの本読んでると敬遠して飛ばしてくれても構いませんとか書きそうなんだけど、松木さんの本読んでるとこの人ってすごいなって時々思うのは、それ以外の人はここは飛ばしてもいいですって書くんですよ、ああいう時は。
ここまで読んだからこの項はどれほど飛ばしてくても飛ばさずにおきましょうっていうことも、ちょっとした高い運動をすることすら、私は操作的でPS的だとかっていう人がここは読めみたいなことを平気で言うわけですよ、自分の本について。
で、大概このアルファ要素っていう項目はありませんみたいなことも書いてあるわけですね。非常にちゃんとした対象関係論の本でも飛ばされている。でも〇〇という本には書いてあります。なぜならそれは私が書いたからです。
読んでいて非常に考えさせられるというか非常に面白いなと。私は爆笑してしまったわけですね。爆笑するところでもないかなと思うんですけどね。非常におっしいと思いますね。
でも冗談のつもりではないかもしれないんですけどね。あれが真顔で冗談を言うみたいな話になるんだと思うんですけど。これを言うのは失礼かもしれませんけどね。まあいいやって僕が言ってるときはだいたいよくないんですけど、まあよしとしましょう。
消化されつつあるところにアルファ要素って。なんならば胃袋、僕はコンテナーを胃袋に例えたがるんですけど、変形するじゃないですか。もうちょっと言うと露骨になるので胃袋っていい例えだと思うんですよね。胃袋だと露骨にならないじゃないですか。で、変形するじゃないですか。胃の中で消化されたものって何物でもないじゃないですか。
だから僕は胃の中で消化されているのはアルファ要素かな。これが血液になっちゃったらもうそれは血液じゃないですか。変形済みなものに何か別のものになってますよね。胃の中にある食べ物の形を留めているものはどちらか食べ物じゃないですか。僕はそれはまだ何種の知覚物感が残ってるかも知れません。胃の中で完全に消化されてしまったものは消化されたものなんだけどまだ栄養にはなってませんよね。
アルファ要素の考察
この感じがアルファ要素かなという感じがするんですね私。だからとてもいいものなんですよ。心の中でフィットされてしまってる。で、それはこうアルファ要素なくしては何物も知り得ないって私あれは美容の名言集かなんかに入れといてほしいんですけど、つまり胃の中で消化されたものがないと血液はできないじゃないですか。
血液って概念とか言葉とか、なんなら有名思考でもいいんですけど、そういうものだと思う。栄養はつまり異なるものですよね。栄養と外界のものって全然違うじゃないですか。食べ物は栄養じゃないですよね。食べ物は栄養になる前のものですよね。外界にありますよね。内界にあるんだけど栄養ではないものって感じになってる。
水とかもそうかなと思う。でも水って胃の中で損害感があるじゃないですか。冷たい水とか、夏は気をつけた方がいいと思うんですよ。脱線するんですけど、私ね、冷たい水を今年の夏はほぼ絶対に飲まないようにした。特に氷入りとか。お腹壊さなかったですね。一夏お腹壊さなかったのは今年が初めてじゃなかろうかと思うんですよね。52歳になってお腹を壊さない夏は初めてみたいな。
これはとても大事だな。人によると思うんですけど。この種の音は不快な人もいるかと思うんですけど、暑いんですよ。クーラー外してるんで。
で、胃の中のオケタン。これが私はアルファ要素的だなって思うんです。だから話題に登らないわけですよ。アルファ要素なんて。すごく哲学的な人ですよね。ここに着目するって。非常に存在感がない。すぐ消えちゃう。
本来そこに定まるべきものではないですよね。どっか行っちゃうべきものですよね。すぐに次に送られるべきものですよね。でもすごくいいものですよね。なぜならばヒット感が半端ないじゃないですか。全然意識されない何者かだと思うんですよね。色もない。匂いはあるかも。
で、心の中の消化物は匂いなんかあるはずないから、何もないわけですよ。存在しているというふうに気づかれにくいもの。それがアルファ要素なんですよ。きっと。だから対子的に出てくるβ要素っていうのはめちゃくちゃ存在感がある。だいたいもう最悪ですよね。そいつが存在することほど悪いものはないみたいな。そういうもの。
松木さんはテレビがお前なんか死んでしまえっていう。で、テレビが自分を監視している。普通に考えれば長時間を投影してるって説明になると思うんですけど。この監視しているテレビがβ要素なんですよ。これは心の外にあるじゃないですか。テレビが心の中にあったら変なんで。
つまりなんて言えばいいんですかね。食べ物で例えるならばですね。お腹がすっごいいっぱいでもうなんかもう食べ物見るのも嫌みたいな。なんかちょっとお腹壊しかけてるみたいなときにね。どんとそこにカロリーたっぷりっていうかなんかこう脂たっぷりなクリームシチューどんどん置かれるみたいな。こういうときの嫌な感じが多分β要素。
クリームシチューがβ要素じゃないじゃないですか。これは特定の条件におけるクリームシチューのその見え方の問題ですよね。なんなら吐き気がするみたいな。ちょっとえぐい感じになってきてるんで、あれにしますけど。
ときのでもすごい嫌な感じっていうのはその人の心の中の状態と関係はありますよね。だから心の中と無縁ではないんだけど、でもあくまでもその対象、対象って言っちゃいますけど、外部にありますよね。クリームシチュー。
だからテレビがそうであるように、β要素というのは外的な存在なんだけど、近くなんだけど、でも心の中には入ってない。まして消化は絶対されないみたいな、そういう感じ。これと完全に心の中に入っちゃって溶け込んでしまってるものとはいい対象ですよね。
禅と非正規問題
α要素とβ要素っていうのはすごい近いところにあると思うんだけど、その存在感のありようとしては全く逆と言っていいような何か。いきなりα要素の話を延々してるけど、大事なのはこれは松木さんの単なる受け売りだったり、私にこれを知識の代わりにしちゃダメですっていう話なんだけど、でもこういう話をとことんするということは関係を作るじゃないですか。
たとえこの話がまるまるデタラメだったとしても、私は興味を持って話してるのは間違いないじゃないですか。1000回もこういう話したがるわけだから。聞きたがる人もいらっしゃるわけじゃないですか。一定数。そうするとこういうことについて、この話を酒の魚にでもいいんですけど、とことんするっていうことをしていると、私はそこで何かが起こるはずだ。
まあ要するに言ってみれば3ヶ月チャレンジみたいなことは起きるはずであり、場合によってはそれが非常にその人にとっては有効な意味を持ち始めるという話をしてるわけです。慎重に心理臨床にはなっているって言わないようにしてるわけですけどもね。何と受け取られようと構わないけれども、そうではないとはいつでも言えるようにしておくみたいな、そういうポジションなんです。
このポジションについて言うと、禅にあるんですよね。ヤコ禅って言うんですよ。野の狐の禅ですよ。野の医者は笑うのに、最初にヤブ医者って出てくるじゃないですか。ヤブ医者ってのはまさにそういうことなんですよね。公的な医者じゃないっていう。要するに奥下さんはそんな医者にはかからないってことですよね。野の医者ですよね。だからヤブ医者なんですよ。
ヤブ医者すなわちダメな医者なんですけど、それは今の日本の近代医療が整備されたからであって、ヤブ心理師が果たして本当にダメ心理師かどうかっていうのが、野の医者は笑うでは最大限問題にされていて、だから私はあれを心理臨床の世界で売れたんなら問題だって思うんですよね。売れてるからね。
私が書いたわけじゃないですからね。私も必ずしも野の医者は笑おうものすごく広めたってわけでもないんで、また余計な言い訳してるんですけど、たぶんヤコ禅ってのはですね、非常にでも面白いんですよ。ヤコ禅って要するにダメな坊主って意味になるんですけれども、うちは寺だったから禅宗じゃないけど、ヤコ禅っていうものはそういってヤブ医者とほぼニュアンスとしてね、今の時代にヤブ医者って言って、いやそれは腕のいい野の医者もいますみたいなイメージ全くわからないでしょ。
敗者でヤブ医者って言ったらもう隣の歯を抜き上がってバカ野郎みたいな世界じゃないですか。僕はだから隣の歯を2回抜かれてる人間なんでね。まさにヤブ医者なわけですよ。正規の医者でしたけどね。
兵器の中にいるダメな医者を指してるじゃないですか。でも本来の意味はちょっと違うわけですよね。ヤコ禅もよく似てるんですよ。あれ面白い話で、ヤコ禅の話は精神分析で無関係じゃないと思うんですけど、ほぼ関係ないけど、因果に落ちずっていう言葉があるんですね。
もうちょっと違うんですけど、因果って要するに輪廻って考え方があって、世の中地獄と等しいぐらいの感じですから仏教ではある意味。生まれ変わっちゃうわけですよね。生まれ変わるってことはいつまでたっても世の中の中にいなきゃいけないってことになるんですね。
かなりすっ飛ばしてますよ。私は別に坊主ってわけじゃなくて寺に住んでただけなんで。しかもヤコ禅の話は波臭の話なんで。
輪廻って要するに苦しみを見せ抜けるってことなわけですよ。それはなんでそういうことになるかっていうと、悟ってないからだってことになるわけです。
ウサギで食われて辛かったから、来世は狼になりたいなと思って狼になって食う喜びを噛み締めてると、今度はジャッカルとかに追われて酷い目に遭うみたいな、そういうことにいつまでたってもぐるぐる回ってる。
これって因果律があるじゃないですか、ここにはね。どっちかが食う、どっちかが食われるやつがいるからそういうことが起こるわけですよね。
こういう中に叩き込まれているが、あなたはお坊様だから輪廻からは下脱されているんでしょうね。因果の苦しみなんてもうあなたは離れてるんでしょうねって信者さんに聞かれるわけですよ、偽の坊主が。
そうしたら、いやもちろんそれは悟ってしまえば因果には落ちないんだっていうふうに答えたら、突然狐にされちゃうわけですよ。これが夜行禅令。
要するに狐は馬鹿すっていう世界ですけど、狐はヤブ医者ってことですよ。だから野の狐なわけですよ、野の医者じゃなくて。野の狐の坊主なわけです。
その狐さんが本当のお坊様のところに行きまして、狐になっちゃったんですっていうことを言って、どうして因果に落ちないはずなのに狐になっちゃったんです。
つまり、素直な動物に落ちるということは、輪廻の中に叩き込まれているということなんですよ。あんたまだ悟れてないからそういう目に遭うんだよと。
因果に落ちない方法を教えてくださいと。だから狐嫌ですってことですよ。だいたい狐の嫌だと言ってる段階ですでに、お前全然悟れてないじゃんってことなんですけれども。
だからこの話は結構いろいろあるわけですよ。私は野の医者を笑うの話の中に出てきてもいいぐらいの話なんじゃないかと思うわけですが、そして私はこういう商売ですからね。
非常に身に積もされて、どこ行ったって正規じゃない扱いですからね。ある意味では。ビジネス書なんか書いてたって正規の作家ではないみたいなことをさらっと言われますからね。
だから正規非正規問題っていうのは僕の人生にはもう真横にいるというか、ど真ん中にいるわけですね。別に心理系だろうと、ビジネス系だろうと。
何ならBPDが正規だみたいなことを言う人からすると、管理ですら非正規みたいな。だから社団法人名を作って理事とかになってしまえばこっちのもの感があるわけですよ。
正規ってそういうもんなんですよ、ある意味ではね。認定される側にいるからいけないわけですよ。認定する側にいないと問題発言かな。
でも漢字検定とか英語検定とかね、ああいうものはすべてぶっちゃったもん勝ちじゃないのかなって私なんかはものすごく言いたくなる口ですからね。言わないようにしますけど、極力。
エリプスコンプレックスなわけです。つまり大事ですよね。これね、人間はエリプスの外では私は生きていけないと思うんで。
ヤコゼンの話に戻しますと、そのお坊さんが答えてくれるわけですよ。因果にくらまずって言うんですよ。つまり目がくらむのくらむですよね。因果に落ちないというよりも因果にくらまない。
ああなるほどと思ったらその狐は元の人間に戻れてめでたしめでたした。この話、狐はデタラメですっていう話じゃないように私には聞こえるんですね。
だからヤブ医者というのは力のない正規の医者という意味では全くないと思うんですよ。これは非常に厄介な問題を含んでるだろうなと。
当然この坊主は正規の坊主かどうかって話と関係があるんだ。
昔あのね本当に大昔ですけどもあのあれ道教違うなぁ。でも老僧思想の相思科なんかの話にあるのと似てますよね。
あの儒者っていうのは要するにまあほぼ絶対に本当のことを知っている華生みたいな意味なんですよね。
儒教の学者って意味では元々はないみたいな。儒者と言ったらもうそれは要するに悟ったみたいなものでしょうね。
儒者しか着ちゃいけない服みたいなのをいっぱい多くの人が着ていて腐れ儒者って言葉があるんだけど似てますよねどこの世界もね。
でこのあまりにも儒者が多くなりすぎて誰に聞いたら本当のことを言うのかわかんないみたいな。
今のインターネットとAIみたいな話ですけど。
いやそんなの簡単ですよ王様って言ってその創始家だったと思うんですけどね。
本当じゃない儒者を死刑みたいにすればきっと減りますって言ったら儒者が誰もいなくなったみたいなそういう話なんですけど。
まあこれはでも私は良くない話だと思うんです。
そうやって本当の心理師だとか本当の精神分析家だとかやるとそれは誰もいなくなるでしょうけどみんな困るはずなんです。
AIが嘘つくって話っていっぱいあるんですけどいくらでもあるんですけど。
でも私は絶対にAIをうまく使ってる人の勝ちだろうなこういう世界ではって思うんですよね。
こういう世界では。
やっぱり僕はこの患者のリテラシーを上げるっていうのはダメな世界なのかもしれなくて。
これかわいはやまさんが書いてたことですけど。
あの髪を切りに行くときはボサボサのボンと行けばいいんだよっていう話なんですけど。
でもさ実際には美容院に行くときはギレにしていきますよね。
みんな特に女性は見ているとなんかこうどこから来てきたのかわかんないな服着てなんか髪も半分寝癖でみたいないかないんですよ。
僕だってそうしませんもん。
リテラシーと心理カウンセリング
私でさえ一方違うとなんかデートに半分こう破けたようなユニクロの服とかを着て行ってしまいかねない私でさえ一応まともにしてから美容院行きます。
そういうもんですよ。
そうなるとそのリテラシーというものがなきゃ僕は心理カウンセリングを受けに行くことはできないと思うんですよね。
なので本当の人しか残らないようにするのはよくつまりそこにはどんな人がどんな調子で行ってもオッケーみたいにそうはなんないと僕は思うんですよね。
やっぱ行く人は相手を選んで行くはずだと。
そして自分のことをある程度説明できるようになってから行きたいはずだと。
私は別にだからサンチャレに行きましょうって言う。
サンチャレとは心理師に係る準備段階ですって言いたいわけではないんです。
そこまで自分を下げるつもりはないけれど、そういう機能も果たしますとは言っておきたくはなりますよね。
別にある機能とかについて語れなくてもそんなものを語れたからといって何かのプラスにならないと思うんですけど。
そういうことについて語り慣れておくっていうのは多分必要だろうなと思うんですよね。
そうした方が自分についての説明はしやすくなると。
自分についての説明ができないということ自体が問題だってケースももちろんあるんでしょうけれども、
あんまりそういうふうに本物の受賞以外は死刑みたいなことをやっても多分誰も救われなくなっていくっていう結末に陥るだけだと思うんですよ。
デタラメなものとデタラメでないものが奮放していて、それを見分けるという能力が全然ではないんですよ。
ある程度備わっていて、昨日その話をちょっとガンチャレでしたんですよね。
私もそうなんですけど、やっぱり不動産とかお金のでかい取引とかって我々知らないじゃないですか、結局のところ。
レモンの市場はないですけど、結局のところ売り手市場じゃないですか。
売り手は事業をよく知ってますから。
で、詳しそうな人とか人の良さそうな人とかにかかって、何か割と手良く上手いことやられてるんだけど、僕はそこは勉強台ぐらいに思うことにはしてるんですよ。
いくらか損するのは仕方ないみたいな。
だから全然損しないと、つまり相手は全然儲からないわけであり、そういう業界ってやっぱりきついと思うんですよ。
そうすると本当の人ばかりが残るようになって、実はそうではないと思うんです。
ただただ辛い人だけが残っていくってことになっちゃう気がするんですよね。
街の本屋さんがなぜ潰れるかというと、お金を取れないからなんですよ。
だから適正価格という言葉でもってギリギリ価格にしておくと、どんどんどんどん普通の人は商売に追いついていけなくなって、そこではやっていけなくなるわけですよね。
やたらと商売が上手い人だけが残っていく、そういう本屋さんってすごいのかもしれないけど、なんかおかしいと思うんですよね、それはね。
β要素の影響
それだったら、いわゆる離島に行ったら本が高いとかいう世界の方が圧倒だろうっていう感じがするんですよ。
全国どこ行っても本が適正価格になっちゃってるっていうのは、いいことじゃないと思うんですよね。
話が拡散しているわけですけど、要するにアルファ要素ですよ、アルファ要素。
私は長らくβ要素で苦しんできた人間、方法失調症ってわけじゃないんですけど、今思えば、私のは新希少の精神病水準と言ってもいいぐらいの時期が、残念ながらあったわけですよ。
誰のせいだってことではないんだけど。
肌感覚ってものが、この話時々してますけど、あったわけですよ。
心の中に収納されない、お腹の中で完全に消化されたものって、我々は知覚できないじゃないですか。
お腹の中に異物が入って初めてなんかって感じがして、そしてそれは全然いいものじゃないですか。ほぼβ要素的なものです。
お腹の中にはあるんだけど、お腹の外のものみたいな、なんか見ないみたいな、食べるべきでないものみたいな、そういったものが入ってきちゃってると。
明らかに、だからテレビとかが、今だとあの事例はパソコンになるんだと思うんですけど、パソコンのやっぱりこのウェブカメラみたいなところに貼り付ける人とかいるわけですよ。
私は見たことがあるわけですよ。ガムテープとかで塞ぐみたいな。ちょっとギョッとしますよね。
でもそれはものを操作してますよね。つまりそれは本来心を操作するべきところなんだけど、迫害されているっていう心の問題なんで。
このウェブカメラが私をモニターして、その情報を荒らぬところに送り、そこから悪い奴らがやってくるっていう物語ができちゃうわけですけれども、
それはつまりウェブカメラが、そういう機能は元々ウェブカメラにはないし、ましてそういう人っていうのは電源が消えているにもかかわらずパソコンのですね、
なぜかその機能だけは残っているっていうことに何も違和感を持たないわけですよ。
それはつまり心の中にある苦痛というものがですね、無意識にあるせいで、しかもそれが無意識なんで、
視覚と無意識は区別の仕様がありませんから、ウェブカメラというものが自分を迫害する何か装置のようなものになっていると。
そしてそれは電気なくても働くことができる装置になっちゃってるわけですよ。
家電なんだ。ウェブカメラに売ってますからね。だから家電なわけですけどね。
家電量販店に売ってるんだから。スパイ装置みたいなもの家電量販店には普通売ってないでしょ。
で、それは考えることによってこういう結論に達するんですけど、当然考えられないわけです。無意識ですからね。
無意識な上に考えられないものになっているから考えられないわけですよね。
それは視覚みたいなものになって、てか視覚物そのものなんだけど、でもそのようなものを普通の人は知覚しないですよね。
お腹がすごい苦しくて気持ちが悪くなっている時に見るクリームたっぷりのシチューですよ。
もうちょっと別の、これもあんまりいい例じゃないんだよな。
これは確実にそういうことになると思うんですけど、
例えば羊の肉ってのは、見る人によってその見え方が、つまりそれは心を反映しちゃうじゃないですか。
とてもおいしそうだと思う人もいれば、とてもかわいそうだって思う人もきっといると思うんですよ。
そうする、私よく申し上げますけど、我々は視覚をニュートラルにすることはできないんですよ。
肉はただの肉じゃん物質じゃんとは、絶対そうはならないと思うんですよ。
死体ってものを見る人はよくわかると思う。
それが人の死体でなくたって、大型動物の死体を見れば、我々は死体というものをニュートラルには絶対見てないと思う。
大体の人は今の時代、おいしそうだとは思わないと思うんですよ。
でも僕、面白いなと思うことがあってですね。
最近、大型のお魚が割とでかい水族館で泳いでるじゃないですか。
おいしそうだっていう人結構いるんですよ。
アジとかがビヤーって泳いでるの。
マグロとかね、ビヤーって泳いでる。
私の目にはそうは全然見えないんですよ。
おいしそうだっていう人いるんですよ。
ああーって思うんですよ。
確かに、そこの表現に嘘はない。
私も刺身だとそう思う。
でも私は魚を見ると、昔魚釣りって結構好きだったんで、
自分がそう見てもおかしくはないはず。
でも私、食べようと思って釣ってたわけじゃないんで。
だから魚を見るとおいしそうだって、全然ニュートラルに見てないわけじゃないですか。
自分の心の中の空腹とか食欲といったものを魚に包囲してるわけですよね。
だから食べない人にしてみれば、
知覚のニュートラル性
ウサギとかだった場合はかわいそうだって思うと思う。
これも全く投影ですけれども、
ウサギの死体そのものは何かを主張はしてないはずですよ、本来。
それはセミの死体と基本的に変わらないものですよね。
それもだから抽象化してるのは難しいですよね。
一つ一つの物というものは、物自体は物自体とか言っちゃってますけど、
心の何かに訴えかけるためにそこに死体としてあるわけではないですよね。
そういう意味では、我々はそれを見てかわいそうだのおいしそうだのって思うということは、
別にウェブカメラが恐ろしいと思うのがおかしいってことにならないと思うんですよ。
ある種の知覚物と自分の心の状態をそれに反映させるということは、
おかしいってことにはならない。
ただ今僕が言ってるのはすごく大雑把水準で、
およそビオンのような精密水準に至ってない。
ビオンはここをうんと精密に言うために、
α要素とかβ要素とかα機能とか夢とかいう言葉を駆使してるわけですよね。
僕が言ってるのはすごい日常用語的な世界である。
それは心理師さんとかじゃなくても、
普通の人でも話題にできる部分なんですけど、
そこがもう少し厳密に、実際のところ、
知覚が恐ろしいってなるときも、すごい微妙じゃないですか。
心の中の意識できていない部分を、
投影してるとかっていう言い方のビオンはしないわけですよね。
それはもうβ要素なんだみたいな、
そういう演出しようとしている。
だからぐるぐる巻きにするとか、
押入れの奥に突っ込むとか、現実にやるわけですよ。
そのような操作をする。
物を具体的な操作をする。
単に投影してるっていうことを本当に言っちゃえるんだったら、
投影に気づいてやめればいいじゃんってことになってしまって、
そのやめられない人の気持ちには触れられないことになるんですよ。
私も実際そうだったんですよ。
肌を肌感覚ってのがあっちゃって、
肌感覚っていい意味で使ってますけど、多くの人は。
要するに異物を詰め込まれている状態が肌に来てるわけですね。
肌の上にβ要素があるわけですよ。
これ難しいんですよね。
肌の上にβ要素があるというよりは、
それはあくまでも知識をつけた後の感覚であって、
言い方であって、肌がβ要素なんですよ。
これもう変な話だと思うんですけどね。
今はよくわかるんですよ。
なぜなら肌の感覚がなくなる。
ある要素になるとなくなっちゃうわけですよ。
胃の中の消化物ってない感じがするように消化された後であれば、
それをもうこれから栄養になるだけのもので、
何ら知覚対象とする理由がないから、
知覚を取れない感じがするんですよね。
心の中では完全に消化されたもの、つまり何て言うんですかね。
要はナラティブの部品みたいなもの、
しかもそれが肌を持てる部品みたいな多くの場合は、
もちろんテレビが監視してるっていった場合、
その人は監視されてる苦痛。
多くの場合は親とか母親が自分を侵入監視している。
だからやっぱりこういう言葉になっちゃうんですよね。
美音的になかなかならないんだけど。
松木さんは苦痛をもたらす特異的フィーリングっていう表現を使って書いてるんですけど、
苦痛をもたらす特異的フィーリング。
特異的な苦痛のフィーリングみたいなそういう感じでしたね。
間違いなくそういうことだと思うんですけど、
テレビと分離される部品なんですよね。
テレビにその特異的苦痛のフィーリングを当てる、
あるいは混ぜる理由はさらさらないです。
それは無意識だから混ざっちゃうんですよね、結局。
我々はその狐の肉に食欲を混ぜたり、
動物愛護的な気持ちを混ぜたりする、
そういうことをせずには見られないように、
つまり知覚というのはニュートラルに扱えないようにですね、
混ぜるわけですよね。
お腹が空いてるときはクリームシチューはとても好ましいものに見えちゃうし、
お腹がめちゃくちゃいっぱいなときはそれを近づけないでくれみたいなものに見えちゃうし、
知覚には何かそういうものを混ぜ込んでいくっていう、
知覚のニュートラル性
そうしないんだったら知覚する意味ってほとんどないよねっていうようなことだと思うんです。
とにかくニュートラルにないことは確実で、
だからアルファ要素とかベータ要素とかそういう表現っていうのは、
知覚がニュートラルでないことを非常にこうよく、
何て言うんですかね、
抽象化して説明してくれているわけですが、
分かりやすい話ではないですよね。
ただこのような話を読んでいくとですね、
話を元に戻して、
お母さんに理不尽に怒られても納得がいくっていうのはですね、
つまり私は知覚をニュートラルには捉えられないわけだから、
そういう生き物ではないわけだから、
理不尽だと思うというのは、
お母さんと一緒にいていいなと思うことがあったら、
もう別に避けられないでしょうっていうような話に限りなく近いと思うんですよ。
構造的にそうなってるでしょう。
日常用語で言うならば、
あの人のことを好きになったなら、
その人はいつもいつも同じようにはしてくれないんだから、
憎んだり腹を立てたりすることがあるのは避けられないよね、
みたいな説明になるんですけど、
この説明だと、
いやでもずっと奥さんは機嫌良ければ良くないですか、
みたいな話になるじゃないですか。
ずっと私は平穏でいたいから、
時々機嫌を悪くする人と一緒にいられないんです、
みたいな反論があり得るわけじゃないですか。
それはナルシズムみたいな感じもしますけども、
もっともっちゃもっともじゃないですか。
でも美音の表現を使うと、
それはもうできなくなるんですよ、
そういう反論は。
なぜならば、
いやだからつまり、
視覚はニュートラルじゃないから、
っていうことになるんですよね。
必ず僕らの官僚なり、
フィーリング、
それこそフィーリングですよね、
特異的なフィーリングを反映する、
あなたの気分が悪くならないならば、
どんな出来事が起きても、
ムッドバイオスみたいになってきましたけど、
あなたの気分がもし絶対に悪くならないなら、
どんな出来事に遭遇しても大丈夫なんですよと。
なぜならば、
その気分、
何て言うんですかね、
迫害してくる存在はあるかもしれないけど、
迫害してくる存在という知覚に、
迫害感というものを混ぜるということをしなければ、
決して私たちは、
ベータ要素で苦しむってことは起きないはずだから、
ってことになっていくわけですよ。
心の消化機能
ベータ要素というのはつまり、
排出の対象なんだけれども、
お腹の中にそれは入れられない、
心の中にそれは入れられないってことなんですけれども、
これは結局のところ、
何て言えばいいんですかね、
何て言うべきなんだろう、これは。
外的対象ではないってことなんですよね。
外部にそれはないってことなんですよ。
ヨンが言ってるのは、
たったそれだけのことなんですよ。
あくまでも、
物をベータ要素化してしまうというのは、
心が消化機能を出し切れないものだからなんですよね。
心が消化できないというのは、
心に入れたくないものがあるというのは、
当たり前じゃないですか。
でも、それを入れたくないのは私の都合じゃないですか。
心の持ってる側の都合ですよね。
間違いないですよね。
心に入れたくないんだから。
そういうものを心に入れて消化したくはないっていうのは、
私の勝手です。
無理やりでも消化しろって言われると、
困るじゃないですか。
何でもいいからねじ込んでやる。
そういうことをやると、
進展に対象が起こるわけじゃん。
心に入れたくないものがあるのは当然ですよ。
でも、外在するものは、
私の心に入れるためにあるわけじゃないわけだから。
外在するものは、
外在するものの勝手なわけですから。
外在するものを心の中に入れたくないというのは、
私の都合であり、
したがってベータ要素が発生するリスクというものを、
心が持ってるのは、
私の勝手なんですよ。
それでいいじゃないですか。
私の心にかなうものだけが、
この世にあるべきだっていうのは、
そこまでは絶対にありえないじゃないですか。
結局、よく似た話になってますが、
私はこの方が、
ある意味反論の余地はないなと。
反論の余地をなくしたいわけじゃないんですよね。
この観点を使った方が、
精神分析というものは、
さらに緻密になっていけるんだろうなと。
相手の人が統合主張症とか、
悪害性の妄想的があったとしても、
この観点でいくならば、
結局のところは、
やることは結局、
黙って話を聞くだろうかもしれないですけど、
それならロジャーズでいいじゃんみたいな話になっちゃうんですけど、
僕はもちろんロジャーズさんだったら、
ロジャーズでいいんですけれども、
なかなか人はロジャーズの言ったことを、
文章を読んだからって、
僕はロジャーズ読んだわけですけど最近、
逆転医という不思議な言い方があるが、
こうなことだみたいな。
それは確かに、
あなただったらそう思うでしょうよっていう感じなんですけどね。
そのなんかこう、
くめどもつきぬ共感の人みたいな、
そういう存在になれればですね、
別にそんな逆転医というようなことを言わなくても、
良いのだみたいな、
共感できるのだみたいな。
私はやっぱりこう、
参加者にせっかく、
まだ大金払っていただいて、
3ヶ月やるっていうんだから、
もうロジャーズのようになりますみたいになるんだけど、
でもうちの奥さんみたいな人に、
なんかこう、
そんなこと言われる筋合いはねえとかって、
すぐ思う人間としてはやっぱ、
ロジャーズに慣れてるわけじゃないんですよね。
逆転医という不思議な発想に頼るわけですよ。
だってこれ逆転医じゃんやっぱりっていう、
僕のせいはあるかもしれないけど、
訓練を受けてないから、
でもどう考えても私のせいではないよね、
っていうことがあったとしてもですね、
相手の人に逆転医を通すっていうことを、
理屈としてそこを考えられれば、
つまりロジャーズに言わせれば、
人が考えるのは感じろなわけでしょうけれども、
と言いつつ彼はとてもよく考えるんだけどね。
でもそういうことができる人もいるわけですよ。
でもみんながみんなそういうことができるわけじゃないわけですよね。
育ち方もいろいろですし。
だからやっぱ考えるしかないところってあって、
考えれば考えるのすごい嫌ですよ。
テレビは監視しないでしょうっていうのは、
簡単なようですけど、
ウェブカメラはですね今、
それは別にX社に送り、
そのX社というのは実は、
謎のMr.Xがやっていて、
こいつをひどい目に合わせろ、
ボシッみたいなボタンを押して、
うわーひどい目に合う、
そういうことは起きないということは、
普通の人には別に考えるまでもなく、
だからアンコンシャスウェイキングシンキングなんですけど、
微音的に言うとですね。
でもそうはならないわけですよ。
何でかっていうと、
お腹がすごいハチキレン馬鹿に食べた。
いやそれは自己人トップジャンなんだけど、
そうなんだけど、
そこにたっぷりの生クリーム、
たっぷりでバターの匂いがプンプンして、
うわーすごい気持ち悪いわ。
おかしいですよね。
気持ち悪い食べ物がそこにあるわけじゃないですよね。
お前それちょっと前すごい喜んでたじゃんみたいな、
つまりそれ投影じゃんって言ったって、
気持ち悪いものは気持ち悪いですよね。
気持ち悪さがあたかも外在しているように、
感じられてしまうじゃないですか。
でもそこでもよく考えてみれば、
クリームシチューはクリームシチューなのであって、
気持ち悪さをそこから発散させたり、
気持ち悪さを守ってるわけじゃなくて、
気持ち悪いのは私の側の事情であって、
だから私の側の事情というものがあれば、
気持ち悪く見えるのであって、
そいつがアルファ要素という、
アルファ機能が発揮できないから、
ベータ要素化しているというのは、
私の勝手なのであって、
それでいいんですよ別に。
だけれども、
それはベータ要素というものではなくて、
もの自体がベータ要素なのではなくて、
やっぱり私が作り上げてしまっているものであって、
それに迫害感を覚えるというのは、
どんな迫害感であったとしても究極的にはですね、
これを言うと、
だから問題発言になって炎上するんですけども、
でもどんな迫害感であったとしても、
やっぱり究極的には、
私が心の中で作り出すという、
そういう機能を持っているんだから、
私の心は。
必要がないんですよ。
別に悪くはないんですよ、
迫害感を持っちゃうということは。
だけど迫害感を持つということは、
外側から来る要因に寄らないんだということを、
アルファ要素っていうですね、
だから篤木さんはやっぱり対処関係論の人として、
あれを冒頭に置くんだろうなと。
で、なぜならこれを書いたのは私だからですって言って、
それはギャグじゃないんですよね。
すごいことですよねとは思いながら読んでいると、
で2回ですね、
自分の中の消化機能、
これなんですよね、
消化機能が進み、
そんなことによって僕は、
あんなに排出どころか、
要するに排除したかった、
肌の表面にあった何者かが実はないと。
具体的行為と心の関与
ないからそのようなものは今、
知覚できなくなり、
肌感覚というのがなくて、
したがって書くとか、
塗るとかいう、
それはつまり具体的行為ですよね。
篤木さんが言うところの、
テレビを破壊するとか、
テレビを毛布で塗るとか、
テレビを破壊するとか、
テレビを毛布でぬるぐるま風にして、
お尻の奥に突っ込むとか、
具体的行為です。
行動を買っているんでしょうけど、
具体的行為にしないと、
具体的なものには対応できませんよね。
β要素という具体的なものに対応するために、
具体的行動が必要になりますよね。
私が肌に塗るとか、
塗るのはいい方なんだけど、
かきむしるとか、
掘るとかやってたんですけど、
そういうことは具体的行為ですよね。
しなくてよくなるわけですよ。
その問題は具体的な問題ではないからなんですよね。
これが自分の心が関与していると、
自分の心しか関与できませんから、
そこにも。
どうしたって。
自分の肌に他人の心が関与したら、
完全にオカルトになっちゃうじゃないですか。
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