1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 私は心理症状のデパートだった..
2025-07-01 32:30

私は心理症状のデパートだった?【1214】

エディプスの話を入れ忘れた。
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サマリー

このポッドキャストでは、タスクシュートの効果について考察し、マインドフルネスや人間の可能性空間と関連付けて説明しています。また、理想のゴールに向かうための逆算やタスクシュートの活用法に焦点を当てています。このエピソードでは、心の構造や感情、特にジゾイド的な特性について語られ、抑うつや理想化の問題が取り上げられています。自身の経験を通じて、心の中の葛藤が描かれています。このエピソードでは、抑鬱や自己嫌悪に苦しむ中での大学生活と自己愛や孤独感について探求しています。また、藤尾直樹の「生成体験の枠組み」を通じて、心の構造と病む要素についても考察されています。

タスクシュートの紹介
おはようございます。 人生相談のための精神分析的ラジオ、第1214回をお送りします。
7月1日火曜日、10時27分です。 ついに7月になりましたので、いよいよですね、いよいよというか
3ヶ月チャレンジの第11期の募集というものを 張り切ってやっていきたいと思うんですけど、
ここでやるというよりは、とにかく熱いんでですね。 張り切ってやるっていうのは、今まではほとんどやってなかったから、
やるぞっていう話でしかないですが。 でも今日はですね、全然関係ないところからいきたいと思うんですけど、
先日来からタスクシュートをまだ私がやっているのかという問いをですね、 こういう問いって面白いんですよね。立て続けに集中するんですよ。
ここ4日連続で聞かれていたんですね。 まあいろんな形なんですけど、タスクシュートをまだやっているのかという質問が相次いで、
で、まだやっています、まだやっています、まだやっています、まだやっていますと、 4日間答え続けてきているわけですけど、それがなんとも妙なわけですよね、多分。
それについてちょっと考えながら、3カ月チャレンジの話に入っていきたいんですけど、 まずそもそも、お前まだなんでやってるのかっていうのが、3カ月チャレンジの方とか、
このポッドキャストばっかり聞いてくださっている方にはですね、 そういう疑問が湧くのは自然かなと思うんですね。
で、なんでまだやっているのかというと、一つには やっぱりやり漏れが発生するんですよ、いともたやすく。それもいともたやすくね。
お互いというか関係者の間でやっぱり気まずい思いを少なくともするじゃないですか。 だから忘れないんだったらそれに越したことはないというのは、まあこれはもう
いいでしょうと。 待ち合わせとかね、ことごとくすっぽかすとか、あまり良くないでしょうということで、 秘書の方とかをね、つけるような財力は私には全くありませんので。
もう全くありませんので。 タスクシュートがやってくれるならそれに越したことはない。
で、私もうっかりする、やっぱり人間なんで、 しかも50過ぎてからまた別の意味でうっかりするようになってきたんでね。
全部タスクシュートにしか基本…違う、タスクシュートしか見ないんですよ。 1日の流れは全部タスクシュートにぶち込んでおいて、その基本的にはそこに書いてある
通りにやれば、おおむね間違いはないと。 ただ、おおむね間違いはないことしか書いてないんですよ。
人に何らかの形で会うか頼まれるかしているものを集中的に書いて、まあそこに食事の時間は入れてあるんだけど、なぜか、でも食事も家族と
シンクロさせる必要があると思っておりますから、私は。 食事も一人でやることはほとんどないのでね、一人で取らないので。
そう考えてみると、あそこには一人でやることはほとんど何も書いてないんですよ、実際、今は。
だから、一人で移動するとかありますけど、それは誰かと会うためですから。 私の場合、一人でただ移動することはないんでね。
そういうわけで、用事しか入ってないんです。
で、まあ用事はやり漏れをしたくないんですよ。 単にそれだけなんですね。
で、もう一つの理由がですね、これがマインドフルネスみたいなものと絡められがちなんだけど、最近私は全然違う方向の方が説明としてあってるなと。
可能性空間の考察
一時この説明試みたことがあるんですけど、なんか自分でもそんなに大げさのないのいる?って思って引っ込めちゃったんですよね。
なんとなくこう、なんか正しくないんじゃないだろうかという懸念に襲われて。
でもやっぱりね、使うたびに一番しっくりくる説明は、ミニポッドの移行対象だな、やっぱりって思うんですよね。
移行対象というよりは、移行対象なんですけど、可能性空間をそこに作り出すんですよね。
このイメージね、難しいと思うんですよ。というか、イメージの作りようがないんですよ、これ。
でも、ある空間においては、象徴機能を持ったものがすごく意味を持つ空間であるじゃないですか。
私はそれを野球場って言ってるんですけど、ベースって明らかに象徴機能以外の何もじゃないと単なる四角いマットになっちゃうんで、あれは。
例えばラインであり、ポールですよね。ホームランかファールかを決めるポール。
あれがつまり移行対象だと思うんですよね。
可能性空間というものは、その空間に人間にとって意味のある可能性を開いてくれる、そういう空間なんですよ。
人間にとってしか意味ないじゃないですか、ポールとか。
たまに鳥とか紛れ込んでくるけど、鳥にとっては何の意味もせいぜい止まる場所みたいな感じじゃないですか。
全然違いますよね、意味がね。
で、私もう一つ可能性空間といってパッと思い浮かぶのが交差点なんですよね。
そこには信号機という移行対象があって、あれ象徴機能を増しぐらいじゃないですか。
私あれ小さい頃といっても、小学校2、3年の頃だけど、これは国家権力だなって思ったんですよね。
やっぱり信号機って国家権力の代表って感じがするんですよ。
そういう感じしないですかね。
私アメリカとか行った時、やっぱりね、アメリカの方が信号機のエディフス感が強いなって思ったんですよね。
やっぱり、民主的でない国ほど強い感じがするんですよ。
だって違反した時怖そうじゃないですか。
それが見つかったらですね。
そこにやっぱり道路交通法みたいなものが同じ名前じゃないでしょ。
法律があって、その取締役としてのポリスが長時間あるわけじゃないですか。
まあ非常に可能性空間。
でも便利は便利ですね。
あれがないと困りますよね。
特に環状7号線とか8号線とか東京でも交差点がなかったら話にならないと思うんですよね。
てか多分もう無視、使えなくなりますよね。
だからあれはいいものなんですけど、つまり可能性空間だと思うんですよね。
逆算の重要性
信号機っていうものだけではないですけど、信号機は非常に重要な役割を果たすものだと思うんですよ。
で、タスクシュートってそういうものなんですよ。
やっぱりパッと見た瞬間に、ある部屋がですね、今いる私の洗面所が可能性空間として収録ルームに、ちょっと変ですけど、洗面所が収録ルームに変わるわけですよ。
だから可能性空間というものは、人間が勝手に意味をつけるんだけど、その意味として機能する空間にするためにタスクシュートがあるわけ。
で、タスクシュートのリストを見ると、私はそのリストが、リストを見ているリストとリストを見る私という関係と、その2つのものを包む空間、なんて言えばいいんですかね。
ママごとお砂場にママごとセットをパッと置いたちっちゃい子は、そこに可能性空間を作り出すわけですよ。そういう感じなんですよ。
パッとママごとセットを置くと、そこに自分、お母さん、お茶碗みたいな、そういう関係性の空間を作り出して、
例えば砂場の砂がご飯に似たものっていうような意味を、泥団子がミートボールに似たものという意味を帯び始めるわけじゃないですか。
それが可能性空間というものを作っていくわけですよね。それしか説明ができないなって感じを持ってるんですよね。
時間割り表が似てるって似てるんですよね。時間割りとタスクシュートだから、その違いをはっきりとクエストしないと、あれがただの時間割りになってしまうんですが、
時間割りってやっぱり教室に貼ってあると、教室という可能性空間を作るのに大きな貢献をしてますよね。
今は国語の勉強する時間なんです。みんなで国語の勉強するっていうことに、あれが人役というか大きな役割を負うわけですよね。
それと似てます。特に私は自分だけの用事をタスクシュートに、だからなんですよね。自分だけの用事を入れない。
ここには超自我的なものがあるんですよ。だけどこれをあんまり超自我的にやると、タスクシュート様がプログラムして、最強、最高の行為はこれだと決めたんだから、黙って淡々とやれみたいになってしまう。
これすぐなる。非常に脅迫的な、脅迫っていうのは脅す方じゃないですよ。強く迫るやつ。
非常に超自我と脅迫的なものになっていって、この通りに動かなければ自分の人生が崩れていく。QOLが下がるみたいな、そういう不安と一体となって、ちょうどあれですよね。
有名な小学校、中学校、高校、そして大学、大企業に行かないと人生は崩壊するみたいな、そういうものすごくリニアなものとしての力を帯び始めて、
その人を非常に苦しめていく。私はタスクシュートにそうなってほしくないんで、何としてもこれを理想のゴールからの逆算、そして理想の何かを描くための、つまり自我理想を目指すためのようなものにならないように、
ちょっと強めかもしれないけど、このアンチテーゼを一向に変えないという。これの部分はですね、覚悟がいるんですよ、やっぱり、ある程度は。
そっくりに見えるものを、何としてもこう、ゴールからの逆算を、今日のやる分を落とし込むという形にするんだっていう意欲というか意志が、何て言うんですかね、
世論になることはあるわけで、でも私は2010、多分2,3年、4年の頃に、ここを持ちこたえたと思ったんですよ。
ジェイマン・スザキさんが、このゴールからの逆算論っていうものを、非常にアイドルのように言ったらちょっと失礼かな。でもそういうふうに、
旗振り役として推進されていて、見ていて清々しくて気持ちは良いんだけど、でもあの世論にやっぱり、喧嘩はしないようにしつつ、絶対土俵を割らないっていう。
自分一人ではなかったですけどね、岡瀬哲夫さんとやってましたけど、何とか頑張って踏みとどまって、土俵際まで追い詰められてもここで持ちこたえると。
そうしないと、なんていうんですかね、それができないという人のことを、やっぱり置いてきもりにするなっていうのがまずありました。
私自身もそうだし、リスト通りにはできませんという、できるように作り変えても作り変えてもできませんっていうね。
そのできなくてもいいんだっていうのをどこかに絶対的な含みとして持たせておかないと、やっぱりできなければならないっていうのに容易く押し出されてしまう。
で、学校にもいるじゃないですか、国語。あのカリキュラム通りにやればそれは理想的なのかもしれないけど、国語の時間になっても走り回ってる生徒がいるじゃないですか。
で、高校になっても走り回ってたりするじゃないですか。で、そういう子だからいいんだ放っておいてってなったら良くないと思うんですよ。
だけれども、そういう子を無理矢理気づって、対数とかを教えることに誰も意味は感じないじゃないですか。
あのですね、昔学校における先進分析みたいなものを、最初は関係論みたいなものなんですよね。
学校教育の中で生かそうみたいな、そういうすごい面白い取り組み。ラビストックって言ったかな。それ知名だったと思うんですけど、ちょっと僕もすごく曖昧なんですけど、そこで面白いやりとりがあって、女の子が学校から抜け出しちゃうんですね。
高校生なんですよ、確かね。で、抜け出すというのはよくあると思うんですよ、そういう学校では。どうするかって話になったとき、先生がすごいやっぱり、なんでこんなことやっても抜けられないんだってなるわけですよね。
で、それに対してその先進分析、対称関係論やってる人がですね、これはある意味鬼ごっこなんですよって言ったら先生が、なるほどと思って、これやっぱり僕がある意味すごくこう
なんていうんですかね、非常に響くんですよね。 だから私は3ヶ月チャレンジやってるんだなってよく思うんですよね。
こんなちょっとの言葉が先生のやっぱり気持ちを大きく、何にどうフォーカスすればいいのかが一気にわかるんですよね。
その鬼ごっこっていうのは本当に、なんて言えばいいんですかね、それこそすごく極端に言うと双極性障害とか、ボーダーラインとか、そういった方の、構って欲しいけど放っておいて欲しい。
連れ戻して欲しいけれども連れ戻されたくはない。自立したいけれども、ここですよね。自立したいけれども依存もしていたいっていうその力度としか言いようがない気がするんですけど。
そういう、人間にはそういうところがないはずがないですよね。ボルビーのアタッチメントの理論からそうじゃないですか。
冒険と不安
お母さんを振り返って子供は少し前に行く。でも不安になるからお母さんを振り返ってまた少し前に行く。
で、自分のしっくりくる場所を見つけて、そこで遊ぶときに遊び始めるんだけど、また気になってお母さんを振り返る。
お母さんの後ろにいるという気持ちがあるから少しお母さんから離れることができるわけですよね。
あれはもう本当に感覚的によくわかると思うんですよ。人であれば。
遠くに行って冒険もしたいけど致命的な目にはいたくないっていう、こういう運動が気持ちの中の運動ですけどあって。
その、学校の中では鬼ごっこということで、鬼ごっこってそうじゃないですか。追いかけてきてくれるから遠くに行けるわけですよね。
っていう情緒の問題に取り組んでいる、最中の高校生の女の子に、対数を教えるってないですよね。
そういう状況じゃないですよね。それは対数の理解できるとか理解できないということではなくて、優先順位の問題だと思うんですよ。
で、そういうことを思うと、やっぱり時間割りっていうのはあるんですけど、学校には。
でも時間割りの通りにするんですけど、学校では。だから可能性空間を作るんだけど。
でも、それをやらなければ身の破滅だということにはならないわけですよね。
それどころか、それをやらない方がいいことだってある。この感覚がないと、やっぱり可能性空間っていうのが、
ものすごく強圧的なものになってしまう。
タスクシュートの概念
昔にそういう漫画があったんですけど、本当に漫画だから。ゴルフのチャンピオンになるために。
ゴルフ以外の空間にいてはいけない。脱走すると年劇ムチとか膨らむというか、漫画だからね。
なんかゴルフってすごいじゃないですか。よくわかんないけど。賞金ランキングとかもそういうのも全部すごいし。
やっぱり目指すっていうことが何かを意味しない。でもゴルフって遊びじゃないですか。遊べてないんですよね、ああいう世界って。全く遊べてなくなる。
野球もそういうところがありましてね、一時日本の。もうどう考えても虐待以外の何者でもなくなっていくみたいな、そういう野球脅威みたいになっていくわけです。
僕も受けましたけどね。ケツバットとか、よくわからないことになっていくわけですよね。
というわけで、タスクシュートはですね、要するにその中でも時間割りではないんですよ。
いかにどうやって自分の用事というものを持った人間として、そこに幅と余裕と遊びを、やっぱり遊びですよね。
持たせるかという。その創意を常に自分に問い続けるみたいな感じなんです。今ここでやるべきことは、この
フォトキャストかもしれないけど、それを撮るということは撮るんだけど、いかにその中で逸脱していったり、逸脱を収納していけるかと。
いうことを常に感覚的にというか直感的に探りながら、つまりやってもやらなくてもいいというところまで行く必要があるというか思うんです。
当然だと思うんですけどね。これはやってもやらなくてもいいんで。大体のことは人間やってもやらなくてもいいんですよね。
やってもやらなくてもいいんだけど、こういうやり方ならやりたいっていうやり方を、学校に行っても行かなくてもいいんだけど、先生が鬼ごっこに付き合ってくれるなら行きたいみたいな、そういうふうに
自分に、最も自分を裏切らない形でやっていくと。そうするとやっぱりですね、何かを目指すっていうのを極力避けた方がいいと思うんですよね。
早く1万回を目指そうってなると、休めなくなっちゃうじゃないですか。1日に1回ずつやるより2回ずつやったほうがいいってことになっていくじゃないですか。
そういうふうに何かの価値を先決めしていかなければいくと、遊べなくなるんですよね。
遊べなくしないというのを、いつも念頭に置きたいなと、タスクシュート的にはですね。
そういうのを意識して100日チャレンジなどはやっておりますが、3ヶ月チャレンジはでもちょっと違う。
やっぱりタスクシュートの話はそもそもしないことにしてますし、あんまり別に必要もなければ。
今回みたいにタスクシュートについて問われたから答えるってことはあっても、タスクシュートの話をする回では全くないわけですよ。
ジゾイド的な心の葛藤
3ヶ月チャレンジでは、最近ちょっとまたそうだなと思うようになったことが、昨日私自身についてお話ししましたけど、
私自身、翌日から説明しても、今みたいにボーダーラインみたいなところ、双極みたいなところから説明しても、特に私は地ゾイドですよね。地ゾイドはっきりあるわけですね。
で、これっていろいろ聞くじゃないですか。地ゾイドみたいな、スキゾイドとか言葉も耳にはされると思うんですよ。
で、ボーダーってよく昔流行った言葉で流行ったっていうのがあった。欲打つといいか、打つ。今でも非常に、ある意味、多くの人がそれで大変な思いされている。
どれなの?って言われるかもしれないんだけど、どれなわけではないんですよ。どれもなんですよね。
私なんかどれもだ。そういう病気のデパートですか?みたいに言われるかもしれないんですけど、そうではなくて、やっぱりその構造なんだと思うんですよね。心が持ちがちな構造。
一つには、やっぱり白黒思考と言いますか。つい最近、ジェイ・松崎さんとも話をしたんですけど、Aでなければもうダメだ、みたいな。
白黒思考っていうのは、我々もやっぱり物を理解する時に、二項対立で物を考え待ちながら、そういう風になるんだと思うんですよ。
白でなければ黒、男でなければ女、女でなければ男、みたいな。そういうやつ。
グラデーションがあるかもしれないけど、なかなかそのグラデーションが見えにくくなっている。そうしないと物の知覚とか認知って手間がかかりますから、どうしても。
なので、二項対立で物を考えがちなんですよ。 なので、私たちはそれが一番究極的に良いと悪いなんで。
やっぱり良いおっぱい、悪いおっぱいなんで。 悪いおっぱいっていうのは大体ないおっぱいなんですけど、
私のことだけを見てくれる母親がいてくれる。これが万能ですね。 善能でもいいですけどね。オムニポテントの世界ですよね。
そこで安らげる。そういうお母さんが世話をしてくれるから、私は冒険にも出かけられる。 仕事もやれる。後ろを振り返る。
安全基地という、母親という安全基地を確認しながら少し前へ行く。 でも、そのお母さんは自分をとことん鑑賞してくるお母さんでもある。
親友ない親習。 そういうお母さんでもある。良いお母さんは悪いお母さんでもある。
悪いお母さんだけを排除した、スプリットですよね。 スプリットして、悪いお母さんを徹底排除した、
良いお母さんとだけ暮らそうと、若い頃の私はしたわけです。 これが非常にジゾイド的な発想というやつで、人間関係を規剥にしていきます。
良いお母さんが一人いてくれるよ、十分。 これをもう少し極端にすると、良いお母さんの代わりに良いAIを用意しようってことになりますよね。
今だったら。 私は成り得たと思うんですよ。十分成り得た人間だったなと思う。
つまり、私の周りに誰もいない世界というのを築きたがる。 そこで、
Amazonとか、AIとか、自動食器洗い機、自動洗濯機、
要するに、大物白物家電と、
IT機器ですよね。で、車と。
今で言うと、疲れをとってくれる服みたいな、そういうものに囲まれて、
孤独に生きていく。 それが最高。
だって誰も私に侵入してこないから、文句を言わない。 理不尽なことも言われない。
叱責されない。 怒られない。
みんな優しいっていうか、モノですからね。 これがジゾイド。
でもこれはね、 コンテナーの説明を使うならば、要するに苦しみに耐えられないから、
苦しみを自分の中に置かないようにするという人なんですよ。 そういう意味では非常に抑鬱的と言ってもいいわけですよ。
ちょっとしたことですぐ鬱になりうる。 抑鬱にならないにせよ。抑鬱になりうる。
現に私はめちゃくちゃ抑鬱的だったんですよ。 本当めちゃくちゃ抑鬱的だったんですよ。大学1、2年の頃とか。
朝、一人暮らししてたんですけど、朝1にやることはウイスキー飲むことでしたから。 本当に。
しかもエッチなビデオ見ながらウイスキー。 めっちゃ不健全じゃないですか。
ほぼ病気だなって感じ。大学1年ですからね。 それが私のほぼ毎日だったんですよ。しかも。
でももうなんかやってられないみたいな。 もうとにかく現実がダツカチカされてダツカチカされて。
いいおっぱいないし。これが全てですよ。 いいおっぱいがない。
到底耐えられない。暑い耐えられない。寒い耐えられない。 苦痛は一切耐えられない。
サミュエル・ベケットっていう人が劇を書いていて、演劇の中で嫌な世界があるんですよね。
食べ物が上からスルスルとしてきて、食べ落とすとフッて上がる。 そういうことばかりの劇。
まさにあんな感じ。 自分が欲しいものは何も手に入らず、生きていかなきゃならない。
長々と。っていうそういう感じ。 非常に抑鬱的ですよね。私はでもこれがあった。
だから地蔵入路と抑鬱は当然万能空想もありましたし、あるわけですよ。 そうするとそこに非常に総局的なものも出てくるわけですよ。
だってちょっとこれが怖い。 ちょっと優しくしてくれる女の子。
一歩間違うと道を教えてくれたとか。 だから非常にストーカー的ですよね。
私は非常にストーカーの本を読みました。 自分すぐになりうると思ったんで、本当に。あの頃は。
その中で、暴力から逃れるために15章という、 ストーカーに追われるようになったらどうするかの本を読んで、
いやーこれ、追ってる方が俺だわみたいに思いました。 トミーっていう男の子が、まあ偽名に決まってますけど出てくるんですけど、
いやこのトミー俺だわみたいな。 アメリカ人のトミーさんには非常に親近感が湧きましたね。
すぐ理想化しちゃうわけですよ。すぐ。本当にすぐ。 で、
理想化してしまうと、もうなんかその人と一緒にならないと。 だってもういいおっぱいはそこにしかないわけですから。
その発想何なんだろうって思うんだけど、そう思っちゃうんだよね、不思議と。 いいおっぱいそこにしかないんで、もう
ひたすらそこに行こうとする。 縁はほとんどないですよ。名前も知らなかったりします。
非常に危険ですよね。朝から酒飲んでるし、欲打つだし。 だからいいおっぱいがないときはずっと鬱なんで、ほとんど。
だから24時間のうち23時間ぐらいはもう鬱々としてるんで。 あの頃はやっぱり痛感するんですけど、
鮮眠なんですよね。眠りが浅い。 しかも夢を見ない。あんまり。全然ではないんですけど、そこまで行ってないんですけど、あんまり見られなくなっている。
夢が見られなくなるっていうのは本当に危険なことなんだよなと。 当時なんとなく思いました。なんとなくですけど。
で、これが私に全部起きていることなんですよ。ジゾイドで ストーカーっぽいと。このストーカーっぽいというのはつまり草曲っぽいってことです。
そこに全てがあり、他には何もない。 理想と脱価値化された世界がバチッと二極化されていて、
で、やがて、これがその後、私が理解することになるんですけど、やがて、そういう女性と万が一相手が、まずそんなことは起こり得ないんですが、
OKしてくれると、次は振りたくなるんですよ。 何をやりたいんだ俺はっていう感じがしました。本当に。
たちまち女性が脱価値化されてしまう。私の心の中で。 だってそもそも勝手に理想化して勝手に脱価値化される。
アイレイドって非常に旗の迷惑なやつなんだけど、そういうことに私と絡んでしまった人には、ちょっとこの棒を借りて謝罪しておきますが、
多分聞いてないだろうなと思うんで、申し訳なかったですと言っても、無駄な感じはするんですけど、万が一聞いてたら、
すいません、大学生だったんで勘弁してくださいみたいな、そういう感じではあります。
大学生活の苦悩
でね、今ので、抑鬱、地則移動、僕は総極に限りなくしかバイポールっていうのはよく言ったものだなぁと、
総極性障害まではいかないんですけれども、でも非常に総極的なものはありました。
何しろ総的になってしまうんですよ。だってもうほら、何でも頑張っちゃいますから、そういう時になると急に。
で、そうじゃない時はもう酒飲んでひっくり返ってるんで。 でも4年で大学卒業してるんですよね。ここが私なんだよね。
この現実見当をギリギリのところでは絶対手間なく。 あの頃の自己嫌悪はそこにありました。
本当になんていうか小物だよねっていう。大物感どこにもないよなっていう感じ。 1年の留年すら怖くてやれない。
なんかもう、なんていうのかな、世の中捨ててまわすみたいなことを言ってるくせに、4年で大学卒業したがるんですよ。
そこはもうね、私の長寿がと無意識が総力を上げてくれちゃうので、絶対やるんですよ。 単位も出席日数も常に
もうギリギリなんですよ。 マイナス1許されないところは全部抑えてあるっていう、この何とも脅迫的な小物感がですね、
当時自分。 だからドステフスキー当時よく愛読してたんですけど、ものすごいあの自己嫌悪感がね、
ヒットしてました。ものすごい自己嫌悪でしたね。 なんか死んでもいいとか言いながら、留年一つできないという、それが私って感じがしましたね。
で、特に大学4年、つまり卒業時ですよね。 ある先生からの方が、お前のこれはダメだみたいな感じで、ダメだし、総先生嫌な先生だったんですけど、
もうほんと卒業式の全然、全然1週間前か、 全部計算し尽くしてあったはずなのに、そいつがくれない言うから、もう本当に
親父の真似をして高いウイスキー買ってですね、 あの頭下げに行って、あの時の自己嫌悪めっちゃ強かったんですけど、もう背に腹はかえられなかったんで。
余談ですけど、この話は。 何買ったかなぁ。池袋製品のデパートでウイスキー買いましたよ。
先生受け取ってくれましたし、単位もくれましたよね。 そういうことがあったり何とかして、ギリギリのギリギリのギリギリをこう尽くようにしてですね、
綱渡りをして、4年で卒業すると。でも就職はしない。 1年絶対遊ばせてもらえるなっていうのが計算、計算なんですよね、私の。
そこは非常にジゾイド的ですよね。そして自己愛。 自己愛的パーソナリティがもう蔓延していて、それがちょっと傷つくのには全然耐えられないんです。
心の構造と病む要素
噛み刺されるのにも耐えられなかったじゃないか、当時は。っていうぐらい耐えられないんですよね。 コンテナの中に悪いものが入ってくるっていうのはもう徹底的に配する。
PSポジション、前世時代みたいな。 もうとにかく悪いものが入ってきたら誰かのせいにするか、誰かに投げつけるか、すぐする。
秒でするぐらいの勢いでやるわけですね。 もちろんみんなに嫌われてました。好かれる理由ないですよね、これじゃね。
だから非常に孤独でしたね。友達、よく友達いたよね、今思える。 まあそんなこんなでですね。すいません、ちょっと音があれだったかなと思うんですけど。
そんなこんなで、
なんて言えばいいんですかね、いろいろな
その難しさというものはすべて、私たちの、これは藤尾直樹さんの言葉で私が非常に好きなんですけど、
生成体験の枠組みって言葉があったかな。 体験生成の枠組み?生成体験の枠組みだったと思うんですけど、要するにそういうふうにものを見がちであり、
そこに病む要素を持ってるよねってことなんですよ。 コンテナーというものに入れる。というわけで当然入れたくないというのがある。
万能的な良いチュースってものが欲しい。 それがないということに対して迫害的なものを感じてしまう。
みんな付き合ってる女の子いるのに、なんか俺に限って意地悪してない。 世の中的になんか付き合わせないように政府が企んでないみたいな。陰謀論みたいになっていくわけですよ。
多席的になる。すごく。 だからPSとDも一つの構造ですよね。心の持つ構造。それがあるがゆえに
PSと排出みたいな進撃状態がある。 だからそういうものは調子が悪い人はいろんなものを重層的に抱え込んじゃうわけですよね。
私が最初はジゾイドだったけど、いつしか自己愛みたいになってるし、万能空想にやられたりすると。
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