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  2. 【GMV 449】現実にあることと..
2021-09-01 38:39

【GMV 449】現実にあることとしたら悪いことだけ

妄想と分裂の世界
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今日から新学期なので、時間がだんだんまともになっていけるんじゃないかと。
あと、少なくとも今日はですね、例の熱中症警戒アラートのなりそうにない感じなので、
大体色々環境的に恵まれている気がしますね。
一回してこういう日に限ってですね、話すことが思いつかないんですよね。
うまくできているというか、なんか不思議な感じがします。
今月の4日に、土曜日にグッドバイブス勉強会オンラインで第8回を開催しますので、
ぜひですね、これを聴いている方で、多分最近また聴いている方が
違うところに、違うところって言うんじゃないな。
一巡している感もあると思うので、アクセス数自体はあまり変化がないんですけど、
同じ人でもない方が聴かれていないと多分、同じ人は聴き飽きて去っていっちゃう方もいらっしゃると思いますので、
また初めて聴くみたいな方はですね、
4日に、これ私が喋るのとは全く違う文脈に聞こえるはずなので、
よろしければご参加いただければと思います。
オンラインですので、場所は問いませんのでね。
話すことを全く考えていないんですが、
記録ということをですね、
私このポッドキャストでは絶対にしないんですよ。
タスクシュートやってるから、いつ開始したと終了したということだけは記録に残りますが、
他にメモをしたりメモを読んだりは決してしないんですね。
それには一つ理由がありまして、
これ何度か聞かれている方はご存知だと思うんですけど、全く関係ないんだけど、
僕は精神分析というものをやっている時の感じというものを、
これに少しなぞらえているんです。少しですよ。
そもそもあれは、2者いないと成立しないものなんで、
しかも時間がこのように適当で、量金も関係ない場合はダメなんですけど、
いずれの条件も満たしていませんけれども、
でもですね、あそこに含まれていることの中で、精神分析に含まれていることの中で、
完全に外部と断ち切ったところで、
自分の思索を人と共有するということについては似たところあると思っているんですね。
03:05
これ私の思索行為なんですよ。
頭の中で考えていることを喋っているだけなんですよ。
でも普通それ、人に聞かれることはあり得ないですよね。
自分の頭の中の独り言を人に聞かれたら恥ずかしいじゃないですか。
そういう漫画がありましたね、昔。
だからそういうことはあり得ないんですが、
この時間ではそれがあり得ちゃっているわけですよね。
私の試作が全部ダダ漏れになっているわけですよ。
これを2者だけでやるのが多分精神分析なんですね。
これをメモっちゃダメだと思うんですよ、僕自身は。
甘えの構造の土居さんが、
精神分析というのは昔から演劇に行っているとずっと思ってきたというふうに書いていたんですね、どこかで。
演劇中にメモを取る人はいないじゃないですか。
刑事役をやっている刑事が刑事として手帳を取り出すのは役ですよね。
多分あれ何を書いているのか知りませんが、
そのメモを後で使うとかそういうことじゃないですよね。
あれは役をやっているフリ。
手帳を書いているフリですよね。
手帳を本当に書いちゃったらダメじゃないですか。
ここでこういうふうにもっと演技しなきゃダメだと思ったって、
俳優さんが書くことは絶対ないですよね。
ということなんですよね、これは。
これを考えついたことを書くとか、
よくお医者さんカルテ書きますけど、精神分析家はカルテって絶対書かないと思うんですよね。
私これを書いたらもうそれは精神分析ではないと思うんですよ。
なんか違うもの、違う可能性にそういうことを書くことは普通にあると思うんですけど、
精神分析はダメだと思うんですね、それを書いてしまったら。
ほら、あれですから。
例えば転移性恋愛みたいなのがいい例ですが、その時は恋人同士ですからね。
恋人同士が彼女はこう思ったに違いないとか書いたら、それは恋人同士じゃないですよね。
ぶち壊しになってしまう。
このぶち壊しにならないようにしないといけないと思うんですよ。
だから、メモるということはあり得ない。
終わった後でメモるはまだしもなんだけどね。
ただ、終わった後って言っても一体いつ終わるんだっていう問題が別途出てくるわけですね。
誰がメモってるんだっていうのも重大な問題なんですよ。
自分だろって思うかもしれませんが、この番組でも盛んにやってますけれども、
最低でも2つのポジションは常にありますから。
妄想分裂ポジションと欲打つポジション。
もうちょっと違う言い方をすると、精神病的部分とそうじゃない部分、非精神病的部分というのかな。
これはですね、精神分析の特有のものの見方だと思うんですけど、
06:00
私たちは、言うならば、気の狂っている部分とそうでない部分の共存で生きているという考え方なんです。
誰もがなんですよ。
精神病の人だけが精神病部分で生きているわけではないんですよ。
しかも精神病の人でも非精神病部分っていうのはちゃんとあるんですよ。
ちゃんとというのも変なんですけどね。
この2つは共存している。
どっちかに、どっちかが、なんて言うんですかね、優勢という言い方をしたりもしますが、
主導権を握っている。ここが問題。
で、非精神病的部分というのは、要するに正常な部分と私たちが皆知っている部分ですが、
そうじゃない方、精神病的な部分というのが出てきたら、たぶん、
メモれないと思うんですね。絶対。
まずその精神病的部分はメモるという発想自体がナンセンスな感じがするはずなんですよ。
これが大事なんだと僕は思うんですよね。
妄想分裂ポジションですよね。
つまりこれがなくなるってことはありえないわけだから、
その部分を切り落としてしまおうという発想自体がすでに病的なんですよ。
落とせないものなんて。精神分析的にはですよ。
落とせないものを切り落とすっていうのは病的なんですよ。
だから、ここを排除しようという発想はダメだと思うんですね。
ということは、メモりたくない自分というものが出てきたときに、
メモるっていうのは、結局それは排除するってことになるじゃないですか。
そうしたらこの一人劇みたいなやつですが、ぶち壊しになってしまうと思う。
僕はこの中で精神病的部分とそうでない部分というものが
攻めにあっている様子を出せれば出せるほどいいのかなと思っているんですね。
なぜなら今までにずっとグッドワイルスで問題になってきたのは結局はそういうことですから。
昨日もお話しした通りなんですよ。
抑鬱ポジションに戻れるかどうか。
戻るまでに決定的な破壊行為をしないかどうかが勝負どころであって、
そういうものが最初からないとか、絶対そうはならないと。
すでにこの絶対そうはならないという発想そのものが禁止になってしまうんですね。
禁止は脅しなんですよ。
そうするとそれは確かに抑鬱ポジションなんだけど、
一番抑鬱的な抑鬱ポジションになってしまう。
こうやって私は多分40代の前半で非常に抑鬱的になり、
しかもそのことに気づいていなかった。
もうこの段階で非常に精神病的部分優勢じゃないですか。
何か一生懸命記録とか撮ってるんですけど、
撮ってない部分があるわけですよ。
撮ってない部分というのは、いわゆるタスクシュートで言う死と不明時間でも何でもないですよ。
無視している私の中の人格があって、
そいつが非常に力を持ったというのかな。
そうすると力動的な表現になっちゃうんですけどね。
09:00
とにかく無視されてはならない部分を無視し続けてきたわけですね。
それがとても精神病的なわけですよ。
つまり記録さえ撮っていれば非精神病的じゃないんですよ。
記録を撮るという病気もきっとあると思うんですね。
例えばOCD的に。
ものすごい猛烈に記録を撮っているけれども、
それがとても反復脅迫的になっている。
つまり何をしているかじゃないってことなんですよね、この場合。
そういうふうに私の中の共存している部分は当然2つじゃないんで。
この2つが重要だからこの2つについてしょっちゅう話題にしてますけど、
当然2つじゃないわけですよね。
いっぱいいっぱいあるわけですよ。
分裂させてしまっている部分、スルーしてしまっている部分。
そのどれかが都合が悪いからといって排除して殺すと大体良いことは起きないわけですよ。
一つ意識というのはグッドバイブスですけど、
この分裂をいかに減らすかというポイントだと思うんですね。
精神病的部分と非精神病的部分。
これ美容になったかな。
あと妄想分裂ポジションと抑鬱ポジション。
私は本当の私と偽物の私。
この偽物の私と本当の私はミニコットって人の言葉ですけど、
現代人にとっては一番意味があるかなと思います。
少し前であれば妄想分裂と抑鬱みたいな方が重要かなと思ってたんですけど、
カウンセリングの世界では多分比較的分裂というのは深刻な問題で、
ミニコットが言っている方が今の時代には合っているんじゃないかなと思うこともあります。
引きこもりというのは病気じゃないってよく言われるじゃないですか。
病気ではないんですよね。検討式がおかしいわけではないし。
確かに社会問題かもしれないけれども、
それによって何か周りの人が、親は困るかもしれませんが、
みんながみんな困るわけでもない社会問題かもしれないけれども、
犯罪では全くない。
でもこの問題じゃあどうするんだということになった時に、
私は一人でいて、こもっていて、大丈夫です。生きていってます。
という人に勝手に何かすることは許されないと思うんですね、当然。
こっちから押しかけていって、治しますというのはナンセンスだと思うんですよ。
そういう意味では、精神分析が一番近いかなという感じはします。
ただこれはこもっている人は出かけていかないわけですから、
その問題は残るんですけどね。
もう一つ僕が強く思うのは、
12:04
こういうふうにいろんなポジションに言ってみたり、
本当の私とか何とか言ってみたりしている、
こういういろんなものは結局まとめていこうとするとまとまってないなって思うんですけれども、
読んでも読んでも統合されている感じはしないなと思うんですけれども、
どこかをつっついたときに何かが出てくるみたいなことはあるんですよね。
例えば、偽りの私というのはすごくわかりやすくて、
その人は社会的に問題がなく、引きこもってもないとしますね。
少なくとも見た目の上では。
ちゃんと仕事をしてますと。
ただ、何か変ですと。
本人がそう感じている。何かおかしいと。
これを説明するときに、偽りの事故が一番ある意味わかりやすいんですよ。
偽りの事故というのは要するに、社会的なことをするってことです。
それで何がいけないのという顔はできるということです。
何もいけなくはないんですけれども、
何でそれをしているのかがよくわかんない。
例えば、この番組で言えばタスクシュートが一番いいかなと思うんですよ。
終了予定時刻も11時ですと。
夜の11時に寝て、朝6時に起きますと。
散歩して、朝活して、何々して、仕事もきちんとやっていますと。
噛んで押したようにきちんとしていますと。
これを外から問題にすることは全くできないんですよね。
ただ、本人がどう思うかなんですけど、空虚な感じがする。
って言ったときにどうするかってことなんですよね。
何で空虚な感じがするのかと。
別にお金に困っていません。人間関係も困っていませんと。
本人は思うんだけど、なんか空虚な感じがすると。
こういう時どうするかと。
ミニコットの表現を使わないとここで引きこもりって出てこないんだと思うんですね。
引きこもってないですから別に。
でもミニコットは引きこもりっていう表現を考えては少なくとも見るわけですよ。
ミニコットの話を読んだことがあったらですね。
その人は偽物の事故で世の中ずっと生きている。
本物の事故はどこかに引きこもっている。
どこにってのはないんですけどね。
どこかに引きこもっている。
本当の自分は引きこもっているから何をしていても実感が湧かないという
割と有名な表現がピタッとはまるんですよね。
何をしててもっていうのは性的な行為をしててもっていうような意味ですよ。
一体全体これ何なんだって感じじゃないですか。
何をしててもっていうのはそれをしてても本人はしてないんですよ。
きちんとやるんですけどね。
そういう人ってきっといらっしゃるんですよ。
こういう方がですね。
実際に精神分析とは言わないまでも何かの相談とかをした場合
15:02
非常に極端な場合タスク管理の相談とかをした場合でも
唐突にヒステリーみたいな
乖離みたいなものが出てきたりすることがある。
こういう時に急にあれメニコットの判断で考えてきたはずなのに
いつしかクラインになってるよねっていうような
そこは論理的な整合性をきちんと追わなきゃいけないんでしょうけれども
多分このポッドキャストでもそうですが
実際にカウンセリングなんかやってる時そんなことをごちゃごちゃ考えてる場合ではないんですよ。
そしてどうなっていくかというと
二者で擬似的な現実空間に叩き込まれるんだと思うんですよね。
あの人がずっとよくわからないところに引きこもっていた何かが
その人の中のバランスが壊れるんだと思うんですよ。
そうして話を聞いてる方もその話に巻き込まれていく。
トエドイズカですけどね。
その話の中に叩き込まれていくわけですよね。
要するに演劇を無理やりさせられるわけです。
その人は何かを
お父さんかな
お父さんに何かを強烈に感じているものがあり
唐突にカウンセラーは
お父さんの役をやれってことになるんですよ。
最初からはできないですよね。
でも話をずっと聞いたり
濃い時間を共有するみたいな言い方をするんですけど
そういうことをすると
お父さんの役を自然と自然とさせられていくんですね。
で、気がつくと
その人、そのカウンセラーは
嫌なお父さんをさせられると。
そしてその人に最も言っちゃいけないことを
言いそうになると。
で、そういうことが起こらないと。
始まらないんですね。
何でこの人がそういう問題を抱えているのかとか
社会的には何も問題がない人が
ただ何かちょっと空虚なんですみたいな話を
するだけだったはずなのに
なんか気がつくととんでもないことになってると。
とんでもないことになってはまずいんだけど
カウンセリングだから。
でもそのとんでもないことになりそうになっている
ぐらいのところまでいかないと
その人が本当に実際どういうことで
ずっと長いこと
もしかすると40年間とかも悩んできたのかが
わからないと。
現に私はその40歳ぐらいの時に
だんだん欲打つっぽくなってたと思うんですね。
後から考えるとですよ。
その時になって
そうですね。
たぶんGood Vibesに出会ったのは
最も早く見積もっても45ですから
5年は結構危機的な状態にあったんですが
全く気づいてないんですよ。
自分としては。
周りで気づいてた人もいたかもわかりませんが
大変少なかったとは思うんですね。
ずっと抱えていたんだけどわからないと。
考えてみると48になってみて
思い当たってみるものを
全部洗い出そうと頑張ってみると
少なくとも8歳ぐらいまでは戻っちゃうんですよ。
18:00
40年間ですよね。
その間あったことは多々ありますよ。
もう全然違う危機とかを一生懸命考えてきましたよね。
受験とか
途中越えてるわけですから留学とか
全体を通してずっとある問題っていうのがあって
私の場合母親との問題なんですけど
ちなみに母親に問題はなかったんですよ。
ただ
これはもう
カミングアウトっぽくなっちゃいますが
考えてみると母は
大変DVな家で育てられたみたいですね。
話を聞いていると。
話を全部聞くと
それは昔はそうでもなかったんでしょうけど
戦後まもなくですから
DVだよな。今考えてみると。
母親の
4番目なのかな。7人兄弟の
そういう時代ですからね。
親中派も含まれるんですよね。
いろいろあるなと。
そもそもよく考えてみると
母の故郷は
既にロシア領だったりしますから
結構いろいろあるわけですよね。
その辺のことも含みで考えてみると
なるほどなと。でもこれをなるほどなは
つい大変ですよ。
それについて本当に真剣に
こういう風に考えるようになってみた。
母にと話をしても
ラチは開かないですよ。
全然覚えてないというか
ただのいいおばあちゃんになっちゃってますから
75歳ともなればそんなもんですよね。
そんなこと言ったかしらみたいなのも
連発だったりしますからね。
いろいろこう話をして
わーっと話をすると厄介なので
探り探り電話で
たまにかかってきた電話で
一個一個聞いたりするわけですけど
そうすると
やっぱり結局
そういうことなんだなと。つまり
自分が
何て言うんですかね
亀裂って言うんですけれども
親衆という言い方もしますが
要するに
二人でいては一人になれない
一人になる能力って言うんだけれども
今日はすごいフラフラしてるじゃないですか
これが考えていないことの
功用なんですよ。
この考えをまとめておいて
メモっておいて
これを何かに生かそうなんて
とんでもないと思うんですよね。
そうはならないんじゃないかと
思考というのは。
このむちゃくちゃぶりが
私の
精神病的な部分というものの
反映であって
ちゃんとしてたら
ダメだと思うんですよ。
これを全部断片的にメモったところで
先日断片で話しましたけど
そこから何かが生み出されるとは
全然思えないというのは
こういう意味なんですけどね。
これを聞いてたからと言って
聞いていてくださる方は
大変ありがたいんですけど
聞いてたからと言って
何かになるっていうのも
その人の中で何かを作り出すからであって
21:00
この素材に有意義さがあるから
じゃないと思うんですよ。
こういう話だったら
精神分析の
実際のカウンセリングの論文とか見れば
山のように出てくると思います。
それはいいんですが
心臭ってのは
あったんだなと。
心臭インプリンジメントかな。
日本語もわからないんですけど
心臭というのは
体にメスを入れるみたいな
心臭するわけですよ。
なるべく心臭が少ない方がいい
って言いますよね。
同じことをするならば。
同じ検査をするならば。
なるべくFMRIとかがいいわけですよ。
脳を開けてみるとか
ダメじゃないですか。
なるべく液体を注射するとかも
避けたいわけですよね。
しなければしないほどベタなわけです。
その心臭というのは
ミニコットの表現では
めちゃくちゃ特殊ですけど
グッドワイブスで言うところの
負の意味付けを
わざわざするみたいな感じですね。
つまり母と子は
一体なんですよ。
一体ということはどういうことかというと
二人でいても一人なんですよ。
二人でいる子供っていうのがミニコットが言うんですね。
私は将棋っていうのを
どうしてもこれ何がいい事例なのか
っていうのは人によってさまざまだと思うんですけど
絶対こういう経験はあるとは思うんですね。
家族3人といても
そこにいる人のことは
意識しない。
でもそこに3人でいるからこそ
その状態になれる。
つまり一人になれる。
一人きりになれるというのは
孤独に強いというような話とは
違うんですね。
2、3人いても一人になれる。
特に母子は最初はそうじゃなきゃダメだ
っていうのが
ミニコットの言い分なんですね。
生まれてすぐの赤ちゃんは絶対そうですよね。
自分は一人だと思っている。
何ならば
何ならば
母親の子宮の中にいる時がまさにそれで
一人でいると思ってますよ。
まさか外に
人間がいるなんて思ってないですよね。
でも
明らかに一人ではいないじゃないですか。
一人でいる赤ん坊なんていない
っていうのはミニコットの
名言なんですかね。
名言とされている有名な
セリフなんですけどそういう意味なんですね。
もちろんこれは
比喩なんですよ。
何度も比喩だってことを
わざわざ断って申し訳ないんですけど
比喩なんですよ。
この申し訳ないという風に僕が言うのが
つまり人を意識している
ってことですよね。
こういうシチュエーションについて
考えたいんですけど
精神分析を受けている時というのは
子宮の中に
いるようなもんだと
言ってみればですね。
受けている人は一人なんですよ。
でもそこに分析家はいますよね。
そういう感じです。
将棋を指している人は
藤沢さんとかは特にそうだと
一人でやってると思うんですよ。
相手はいますよね。もちろん相手いないとできませんからね。
でも一人なんですよ。
24:00
一人でその基盤について考えて
一番いい手を考えて
相手のことなんて絶対考えないですよね。
他にどういうのがあるのだろうか。
私の経験で言うと
そうですね。
非常に仲がいい人と
一緒にいれば
映画見てる時とかがそうなりますね。
一人で見ている感じが好き。
二人以上で見てるんですけど
だいたい一人じゃ映画見に行くほど
映画好きじゃないって。
一人でいられる能力というか
一人でいられる能力なのか
スキルなのか
一人でいなきゃいけないんですね。
赤ちゃんがね。
ところがそこにお母さんが
登場してしまう。
これが進襲なんですね。
侵入してくるって感じですね。
しかもしてはいけない侵入を
しちゃうんですよ。
ちゃんと始まらないんですよ。
でもしてはいけないんですよ。
その辺もパラドキシカルなんですけど
とにかく一人でいる。
そうですね。
例えばかわいい子には旅をさせろって
言いますよね。
で、子供が旅をする。
旅はしませんが
どっかに行くと。
その時にお母さんが
置いていかれる不安を抱くというのが
侵入臭です。
これは典型的でよく書かれている事例なので
今思いついたのがたまたま
それだったからもっと
僕らしい事例を考えなきゃいけないんですが
これが侵襲です。
要するに負の意味付けをそこで
親がしてしまうというか
母親じゃなくてもいいんですよ。
関係ないんですね。
負の意味付けをしてしまう。
そもそも自分が
自然に当然やりたい
と思うことをやっていることに
意味をつけられてはまずい。
せいであっても本当は。
でも大体問題になるのは
負の意味付けです。
子供は遠くに行きたい。
それを母親は
子供に置き去りにされるという不安を
意味付けしてしまう。
そういうことをされると
子供は必ずそのことに気づいて
今後お母さんの気分を害さないように
モニタするようにモニタリングするようになる。
この時に生まれるのが
ホールズセルフ。
つまり偽りの事故というものです。
これは絶対に我々の社会で
生活では必要なもので
問題なのは
ここの偽りの事故と
本当の自分の間の
分裂が激しくなること
厳しくなること
そうするとその人は
偽りの事故なしには
一人ではいられなくなる。
だから一人でいるために
人といる時はいつでも
ついた手を立てなければならなくなる。
ということですね。
そうすると
本当の自分は
何にもさせてもらえないので
全部偽りの事故が
基本的には恐怖のため
常にモニタすることになる。
私は
27:00
最近本を書いて
つい人の顔色をうかがってしまう
私を放す方法だったかな
タイトルで悩む
というのは問題ですが
それですね
つい人の顔色をうかがってしまう
このような話を念頭に置きながら
ついにこの話をダイレクトで
書いていないんですよ
どこかに盛り込みたいとずっと
思ってきたので
参考まで来ているんだけど無理だな
というのが今私が考えているところ
多分無理だったと
思うんですよ
読んでいただくと分かるんですけどね
こういうことを考えているし書いているんだけど
書いていないんですよ
こういうことが起こるんですよね
本を書いていると不思議なんですけれども
全部盛り込むというわけにはいかない
これは余談ですけど
こういう話は書き上げ塾の方で
ぜひ聞いていただけると
僕としては体験ありがたいですね
新習ということが
ただ起きるとですね
いかにも
いかにもな人という感じも
できちゃうんですよね
儀式的に
対外的にはきちんとしているんだけど
何のために
そんなにきちんとしているのか
知らないということになってしまうんだけれども
その内部で起きていることは
今みたいな
お母さんによる不の意味付けを
徹底されてきたケースがあるので
何がそこで起こるかというと
ヒステリーっぽいことが
飛び出してくることもあるわけですね
誰が考えたってですね
そこで意味付け
不の意味付けなんとされるのは
気に食わないに決まっているじゃないですか
自分が何か絵を書いているというのに
その絵について
多分これ性の意味付けでも
全く気に食わないと思うんですよね
子供の母にしてみると
この子は将来絵描きになるのかしら
みたいな冗談みたいな話がありますが
あれだって
聞いていて楽しい人は誰もいないと思うんですよ
つまり
そこでお母さんというものの存在が
登場してきちゃまずいんですよね
そうすると一人でやっていることにならない
二人でやっていることになってしまう
これよく
児童心理学では
自律の問題と兼ね合わせで
出てきたりするんですけど
そういうことでは全くないかな
というふうに自分は思います
これはもちろん自律の問題ですよね
抗議に捉えればその通りだけれども
もう少し
クローズアップして
考えてみると
この親習が起きることに対して
人が
どうしてそんなに神経質になるのか
というと
自分の分裂というものを
これは社会的に絶対に
必要としますけれども
言ってみればそれは
対人不親の
現れなし
きっかけでもあるし
しかも
なんていうんだろう
どんな時でも私たちは
家族なんか特にそうですけど
30:00
人といるじゃないですか
人といる時に一人になることができない
ということは
一人になることなんてできないんですよ
一見、部屋で引きこもっている人というのは
社会的に引きこもっている人というのは
一人でいるんですけれども
彼らは絶対に人といるんですよ
他人というものを
意識している
時間が非常に長いと思うんですね
だから
一人きりになっても一人きりにはなれないんですよ
こういう意味で孤独に強い
という話とは全く関係が
ないんですよ
一人きりになっているのに
一人きりになれないということが
起こるとどうやったって
ダメじゃないですか
こういう人がですね
こういう時にならん
妄想的になるのは当然ですよね
私たちとしては
だって一人きりになっている時にすら
一人になれないということになってくると
結局これは意識の問題なんで
どこかで自分のことを
なんとか悪く言っているとか
そういう話にすぐなりますよね
それが本当であろうと
嘘であろうと
真実味があろうとなかろうと
関係ないじゃないですか
関係ないという言い方では
百全としなければ
例えばクレームメールというのはそうなんですけど
外してクレームメールで言われている
通りのことって起きないじゃないですか
今のご時世、このご時世ですから
漫画一、漫画一、漫画一って
漫画一の話ばっかりしてますけれども
漫画一というのは
一万回やったうちの一回ですから
パーセンテージで言って0.01%ですよね
こういう風に冷静に
考えないじゃないですか
漫画一のことが起きてはならないから
ってみんな言って
必ずこの0.01%の方に
照準を当てますよね
というような人間心理を考えると
一人のなんのに一人になれないって
恐ろしいことですよね
漫画一何が起きるか
わからないわけですよ
通りすがりの人が火をつけるかもしれない
そういう事件がこの世にないわけじゃないですよね
漫画一どころの
確率よりずっと低いですけれども
常に他人のことを
意識するということは
迫害されているのと
全く同じことになってしまうと思うんです
だから
二人以上でいるけれども一人でいられる能力
っていうのは私たち生きていく上で
必須ですよね
この時に
私たちは分けたいじゃないですか
そういうやばい火付けみたいな
人と正常な人間を
分けたいと思いますよね
良いお父さん悪いお父さんを
分けたいと思いますよね
こうして
引きこもりということと
引き捨てり返りということが
すっごく関係してくるんですよね
良いお父さんが
この世にいる人たちが
良いお父さんであるならば
この世で生きていく気になるけれども
悪いお父さんが
出てくるならば
なんとかして
悪いお父さんを
全員一箇所に閉じ込めて
33:00
何ならこう
海穂たる刑務所にでも送る必要があるとか
これはもう乖離ですよね
これをずっと進めていくと
良いお父さんがいる時用の
私と悪いお父さん用の
私は別人です
という話が始まっちゃうんですよ
そういう人と
人と一緒にいるとですね
よく分かることがあります
不意に
ちょっとした言葉で
相手の態度が急変するので
自分としては
非常に恐ろしくなりますよ
なんかすごい
無神経な人間のような気がしてくる
私は無神経な人間ですけど
気がしてくるんですよ
だってちょっとした言葉で
相手の態度が
あなたは悪い佐々木さんだったから
もうめちゃくちゃ攻撃します
って態度にガラッと変わるんですから
なんかこっちが
よっぽど悪いことを言ったような気がしてくるじゃないですか
これが転移なんですよね
それはもうまるで
劇ですよね
あなたは悪いお父さん役ねみたいな感じなわけですよ
自動的にそうなるわけですよね
何にでも悪いお父さんを
見出す能力が
相手は発達していますから
ただしこれは
親しくならなければ起きないことです
親しくならないんだったら
さっきの偽りの事故が
徹底的にどうもどうもっていうことしか
言わないんで
相手は絶対表面的にしか対応しませんから
親習をその人はされてきてますから
親御さん
少なくともそう思ってるんで
親習されないためにも
常に絶対儀礼的な話しかしないんですよ
親しくなるからこそ
ヒステリカルな問題というのが出てくる
つまり人格交代みたいなものを
直面するためになるわけですね
こちらとしては
その時にこっちも
精神病部分で対応するじゃないですか
そんなこと言われても
言い出したくなるじゃないですか
そうして泥沼にはまっていくわけですよ
この経験が
大切なんだと思うんですね
こういうことって
私たちはみんな経験してきているし
みんな持っているはずで
お釈迦様ぐらいの人は
持ってないかもしれないですけど
普通は持ってるんで
インテンシブという
言い方するんですけど
濃密に関われば関わるほど
この部分との直面する
ということが起こるんですよ
その人は
非常に面白いことに
次回会ってみると
この次回大事なんですよ
そういう人とは二度と会いたくない
私たちはすぐ思うんだけど
次回会ってみると
全然ケロッとしていて
なぜならいいお父さんに戻ってたりするから
みんな自分は一つの人格だと思ってるから
こういう観点については
考えないんですけど
相手からすると私はいいお父さんになったり
悪いお父さんになったりするわけですから
当然相手の態度も
それにこうして変動するわけですね
こういうものを
全部
36:00
あちらこちらで
考えていくと
私が欲打つっぽくなっていったのは
ごく当然の
なりゆきだったし
徹底的に引きこもってましたから
引きこもってたっていうのは
家から出なかったって話じゃないですよ
この文脈で考えていただきたいんですけど
二人以上の時に
本当の私でいる相手は
非常に稀だったということですよ
非常に空虚です
何をやっていてもですね
そしてだんだん妄想的になっていくんですよ
なったので
恐れを抱かないということの意味が
とってもこう
突き刺さるんですよね
恐れを抱くっていうのは
もう
なんていうんですかね
人を見たら恐れを抱くんですよ
偽りの事故というのは
いつでもスタンバイなんですね
いつでもスタンバイ
この状態に入ったら恐れを抱いたら何にも変わらないんで
本当の自分は
絶対出てこないという
その状態なんです
その状態に
私はグッドバイブス的に
対応したと
勇気いりますよ
偽りの事故を出さないというのはですね
スタンバってるんで
非常に勇気がいるんですよ
本当はこれ
勇気がいるって話ではないんだけど
結局私がグッドバイブスを
実践するにあたっては
勇気がいるだったんですね
相手が怒るかもしれないとかいう
その時にこそ
一番大事なことが
起こってるんですよ
気にしない
っていうのとは違うんだけど
今考えたようなことを
全部考えるんですよ
なるべく早く
相手が怒るかもしれないと思った時には
もう妄想分裂ポジションが
始まってるってことなんですよ
なんとか頑張って
欲打つポジションには戻すんですよ
本当の自分を出すんですね
非精神病的部分
49ぐらいまで
49対51みたいなやつだったら
49ぐらいまでにする
全部同じことになります
その自分が丸裸で出ていく感じを
抱くんですよ
これやんないと
どうしても日々が
空虚になっていく
うまーっ切り抜けてる感じなんだけど
何にも体験していないような
感じになっちゃうんです
タスク周期に記録は全部残ってますよ
やったのは間違いなく自分なんだけど
どれ一つ極端な日は
どれ一つとして
自分がやったような気はしない
っていうことになっちゃうんですよ
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