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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
時間的に言ってもですね、おはやくもなんともないんですが、夜の8時ですね。
一つ思ったことがありまして、できない日無理やり配信するというつもりはないんですけど、
夜ほどのことがない限りですね、ノートとかのブログに配信するくらいならば、
それができる日は基本的にグッドモーニングバイブスは出そうと思いました。
というのも最近ちょっと思ってたんですが、本気でやるっていうグッドバイブスのあれあるわけですが、
本気でブログを無料でバンバン出してたらですね、
結局あの、有料で僕の書いたものを買ってくださる方にとっては何なんだろうなって思うときが結構あったんですよ。
それはそれはこれはこれなんですけどね。編集さんの手が入る入らないの差が大きいので。
ただ、どんどんどんどん両者の差がなくなってきているじゃないですか。
KDPというものを僕一人で書いた場合、こっちは有料にしてブログは無料という意味って何なんだろうなって思うと、
もちろんそれもあるんですけれども、だんだんなくなっていることは確かなんですよね。
世の中には喋る職業の人っていますよね。
喋る職業の人がものを書く場合はブログっていうのは良いと思うんですよ、すごく。
例えばなんですが、何でもいいんですけれども、
俳優さんとか、音楽やって歌を歌うっていうような人が書くっていうのは、
書いてる内容が別にそんなに、そんなにっていうのはあれなんですが、
つまり、いわゆる倍分的に文章が売れるレベルである必要は全くないと思うんですね。
例えば、野球選手が書くブログって私はファンの場合は読んじゃうわけですよ。
普通にある内容を売るのではなくて読むわけですよね。
この議論、昔ブログでよくされてたんですけど、今思うとよくできてるなと思わなくはないんですよね。
今まではブログしかなかったからいけないんですよね。
私は喋る職業ではないと思うんです、やっぱり。
喋るのが、喋って売るわけではないし、
セミナーとかしますけど、喋るのが職業じゃないと思うんで、
だから喋るとか、YouTubeもそうですけど、動画とかが無料配信っていうのが形としていいんじゃないかと思うんですね。
一方で喋るのが職業の人とか、見せるのが職業の人が書いて出す分には無料で読めるっていうのは、
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ファンの人にとってはいいんですよね。
私はやっぱりジョコビッチさんのブログとか読んじゃったりしますから、
そんなに頻繁に上がってきませんし、
今は特に動画とかあるんで、有名な人の場合、
彼らのそれを見せるというのも必ずしも商売じゃないですけど、
でもやっぱりテニスって見るものなんですよね。
彼ら自身は勝つことが商売なんだけど、
やっぱり我々にとっては見るものなんですよ。
そういうことかなと思うようになって、
なるべく書くんじゃなくて喋る方で、喋るプロじゃないですからね、私は。
そういう意味もありまして、なるべく書くものは頑張って売り物にしようと。
最近はちょっとそういうことを思い始めてきました。
ただ、アクセスという意味ではブログの方が喋るよりは絶対に手っ取り早いんで、
そういう意味では結局無料で書くことをやめるってわけにはいかないんだけど、
だからノートはやめるわけじゃないんですけど、
そんなに毎日毎日やることではないかもなという感じですね。
それくらいだったらこの時間であってもこっちで喋るようにしようと。
幸いそういうことが難しくない世の中になってますからってことですね。
でもそんなことを言っていて、これはとてもよくありがちな思いつきみたいなところも多分にあるんで、
私毎日毎日思いつき喋ってるだけですからね、ここでは本当に。
明日になったら言ってることがゴロッと変わる可能性は否定できませんが、
そのことなんですよ、今日お話ししたかったのは。
タスク習得と言いますか、
長らくですね、私は未来計画というか理想と計画というものを達成するのではなく、
現在というものにこだわるって話をしているんですけど、
それと諦めるということはどこが違うのかというのが持ち込まれるわけですよね。
時間術の話を書いていてもそうです。
未来に期待するのはやめようって話をすると、
それは諦めろという理想を諦めろということなのかと問い正されるわけですね。
編集さんからも言われます。
編集さんがそういう不満を持っているというよりは、
そういう不満が読者から出てくると、
編集さんがそういう不満を持っているというよりは、
そういう不満が読者から出るだろうという不安がよぎるんだと思うんですけど。
この違いはですね、簡単に言えるとも思うんですよ。
要は未来に期待するということは、
まかり間違うというか、よくあるパターンとして何もしないということになってしまうんですね。
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よくよくですね、これは私、計画を立てる全ての手法でできることだと思うんですよ。
タスクシュートでなくてもですね。
明日、これらのことをやろうって考えたときに、
何でもいいんですよ。
原稿書き、今で言えばね、
娘の受験の志望動機とか保護者欄とかがあるので、それも考え、
そして今で言えば、私はそんなに困ってないけど、確定申告のとか、
用意する、そして他にある諸々を明日やることにしましたと。
これが理想だって言うんですよね。
なぜそれを今すぐやろうとしてはいけないのかと。
現にぎっしり、明日の15時間分なりを今からやることにしましょうとしたときに、
いきなり、いきなりですよ。
全部は今日無理だとしても、これから、例えば確定申告の準備だけはこれからやったっていいわけじゃないですか。
やることにしますとした途端に、全くその気になれないとしたらですね、
どうして明日ならその気になれるのかっていう、
よくあるやつですよ。
しかも、明日ならやる気に仮になるとしても、
なんでそんなに今すぐやるのは怯むのかってことがあると出てくると思うんですね。
この問題が襲いかかってくると恐ろしいということがあったらですね、
二つ少なくとも疑問に思うところがありますよね。
一つは、なぜそんなにやりたくないことをやることが理想達成に役立つと勝手に確信したのかってことですよね。
今一つが、今すぐ理想を達成するより明日達成した方がいい理由は何だったって話なんですよ。
私はこれは恐怖だと思うんですよね、やっぱり。
恐怖以外の言葉では何か説明がつかないような気がするんですよ。
明日それをやるのは理想的だが、今すぐやるのは無理だ。
無理なのに明日ならできるっていう見通しも立ちにくいと思うんだけれども、
それには多分明日というものをイメージして、
私たちは今ある苦痛というものが明日も全く同じ形であるという感じはあまり抱かないんですよね。
例えば今ある漠然とした頭痛みたいなものが、明日も一日中負うだろうという感じがすると、
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楽観的とかということとは関係なく意外に難しいんですよ。
タスクシュートというのは現実には無理ですけど、
少し迫るんですよね、現実の。
ズームしてくるんですよ。
ズームしてくるんですよ。
タスクシュートというのは現実には無理ですけど、
少し迫るんですよね、現実の。
ズームしてくるんですよ。
明日のタスクシュートを夜のこの時間に眺めると、
多分こういうふうに見えるだろう、明日も。
明日はこういう日だろうっていうのが、全然そっくりにはならないんですけど、
相当近づくことにはなるんですよ。
これが私がガントチャートとかカレンダーとかに、
バーティカルとかのね、週刊カレンダーといったものに全く同感、
なんていうんですか、役に立たないと思うゆえんなんです。
あれ見ても見えないですね、ほとんどの場合。何にも見えてこない。
多分明日はいい日だろうって感じがしちゃうと思うんですよ。
ここがですね、難しいところなんですけどね、
非常に今グッドバイブスと逆のことを言ってるんですけど、
タスクシュートが好かれないのは、
この今日という灰色さが、明日も明後日も灰色なんだよっていうふうに
告げているらしく思われるところだと思うんですね。
でもある意味タスクシュートが時間管理として機能するのはこれゆえなんですよ。
大概私たちの頭の中では面白いことに、
今日は灰色だが明日は金色だっていうふうになってますよ。
これはこれで大事なことなんですけどね。
ただこの感覚に依存している限り、
だから今日灰色の中では確定申告の準備はできないし、
なんなら書き上げ塾で課題になっている文章も書けないが、
金色の明日ならば書けるし確定申告もできるし、
ついでに志願者受験の動機も書けるって思ってしまうんですよ。
これを繰り返す限り絶対書けないんですよ。
そういう人もいらっしゃるんですよね。
何日も何日も何もせずに終わるっていう。
これはタスクシュートはストイックな感じは確かにするんですけれども、
でも事実を告げてるんですよ。
明日は今日と同じだし、
あさっても今日と同じだし、
しあさっても今日と同じだと。
その中でできることをしようねっていうのがまず第一歩なんですね。
その中でできることというのが、
しょぼくてもなんでもその中でできることをしようねと。
明日に夢見るのはやめようねという。
だから私は長期計画とかビジョンとか逆算とか、
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あとPDCAとかあと習慣化というものに期待できないんですよね。
最後のやつはタスクシュートでも賛否分かれると思うんですけど、
私は習慣化というのがやっぱり甘いと思うんですよ。
習慣化すればなんだか楽にできるようになるんじゃないかという恐怖感がですね、
そこに恐怖がやっぱり眼前に迫ってる感じがするんですね。
だから習慣化をすることで、
つまりそれっていうのはやっぱり時間というものを線で、
それもそれなりに長い線で捉えようという、
私からすると逃避なんですよね。
現実にやるのが嫌だっていう気持ちが根強いんです。
だからこの現実と現在では無理だけど、
明日が明後日ならばできるっていう発想になってしまいやすい。
この今の頭が重い現実の自分、お腹がゴロゴロする現実の自分、
多分この辺りなんだと思うんですよね。
そしてそうだな、書いてもダメ出しをされる現実の自分の文章、
こういったものが見えなくなるんですね。
明日の状況であればもう少し軽く、心も軽く、
ダメ出しをされるかどうかはそもそもあまり頭がよぎってないんですよね。
面白いことにというか、すべてがそうなんだけど、
解像度が荒くなるとできるような気がするものがどんどん出てくるんですよ。
長文のアウトライナーもそうで、
それどころか、いわゆるブログのアウトラインみたいなものすら作る方もいらっしゃる。
明日は、私で言えば精神分析のネタで、この考え方いかにも甘いじゃないですか。
精神分析のネタで書けば、いくらでも書くことがあるから書けそうだ。
いざ書こうとするとそうはいかないんですよね。
何を書くのかっていうこともあるし、どれを書いてもダメな感じがするってこともあるし、
どれを書いてもダメ出しされる感じがするというか、
Twitterでいろいろと小バカにされる感じがするとか、
そういうのが、なぜか明日フロイトのことを書こうと思うとあんまりよぎらずに済むんですよ。
この長漢的な鳥の視点に立つというのが、
私は頭皮以外の何物でもないような気がするんですよ。
鳥の視点に立っていれば、Twitterの声も遠く感じられ、怖くないのかもしれないんだけど、
書くときは必ず、いわゆるアリの視点になるんですよ。
だから怖くなるんですよね。
この落差を取り払わない限り、
いくら長漢的な視点に立って、それこそ100年先まで計画が立てられたとしても、
明日それをやろうとすると、必ず重苦しい空気に包まれて実行できなくなるだろうと。
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この重苦しい現実って何なんだと。
言ったときに現実というものがすこぼる罪深いものに見えてくるんじゃないかと思うんですね。
まずこっちは何とかしないといけない。
タスクシュートは非常に面白いことに、
明日も明後日もその罪深い現実に包まれて私たちはやっていくんですって告げることで、
少しは前進できるような計画が立てられるようになるんですよ。ある程度は。
ただ、それは誤解だと私は思うんですね。
これはやっているうちにだんだんわかってくるんだけど、
要するに明日できるぐらいだったら今日できるんですよ。
この感じをつかめれば、現実というものがそんなに重苦しくはなくなるはずなんです。
この明日金色だという観念を抱きながら今日を見るから、今日が暗くなってしまうんですよ。
こういうイリュージョンの作り方を僕らの脳はやれるってことなんですね。
この観点をグッドワイブスはくれるんですよ。
タスクシュートの観点だけだと、その人その人の現実の作り方というものがそのままでもなんとかなりますけれども、
灰色になりがちな人は灰色になりっぱなしにしばらく頑張らなきゃならないんですね。
私はそれはそれで前へ進むと思うんです。
だけれども、これが嫌だっていう人はいつになってもこの逆算思考から逃れられなくなる感じがするんです。
未来が金色で今は灰色だというこの感じを、現実のものだと信じ切ったままだとずっとそうなってしまうんですよ。
だから理想を諦めるのかという議論が出てくるんですね。
あの金色を諦めるわけにはいかないと。
そうではないんですよ。
現実が灰色なのは未来が金色だから、この関係性をつかめば現実が灰色ではなくなるはずなんですよね。
この観点はしばらくタスクシュートを、このしばらくが長いんですね。
ただタスクシュートで頑張るとなると、僕の感じでは最低1年は欲しい。
グッドファイブスはこれを1日で実現するという側面があるから、私はタスクシュートをやる人にもお勧めしたいんですね。
つまり未来はイリュージョンだという話をしますから。
未来が金色なのがイリュージョンだってのがタスクシュートの言い分だけど、そもそも未来がイリュージョンだという話をグッドファイブスではするんですよ。
そうして現在にしか現実はないということになれば、これが灰色だという話もなくなるんですよ。
必ずなくなるはずなんです。これが灰色なのは絶対比較の結果なので、何かと比較してしまっている。
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大概の人は未来と比較しての話をしている。
この未来が理想的でありかつ現実的であると思えば思うほど、現在はそうでないように見えるはずなんです。
なぜなら未来にやることは今やることではないので、その重さだけからは解放されるけど、実際にやろうとするときは常に重みがあるので、
その分無重力の未来から比較すれば重苦しいわけです。
この重苦しさを意識したままだから大したことができない感じがするわけです。
そもそも素晴らしいことができるという基準が前方に置いてあれば、今やることはどんなことでも基本的には小さなことになってしまいますよね。
なので、どれもダメだと思うんですね。
つまり、線で現在から未来をつなぐ観点というものは基本的には手放してしまったほうが楽になります。
そして、今すぐやるかどうか問い合わせてみればいいわけです。
今すぐやらないようなことを未来にやる未来は、全然理想的でもなければ金色のはずもないわけですね。
明日の天気が悪くなったら、今すぐやるかどうか問い合わせてみればいいわけです。
今すぐやらないようなことを未来にやる未来は、全然理想的でもなければ金色のはずもないわけですね。
明日の天気が今日と違って晴れているかどうかということは、おおむね関係ないわけです。
少しと言えれば、それは全然関係ないことだというふうにいずれわかってくるんですけど、
つまり頭がすっきりしている中で原稿を書いても、さほど原稿の出来や進捗状況に変化はない。
長い目で見ればという意味ですけど。
それよりも何よりも、未来どういうふうになるかというものは、予測もコントロールも実際はできないわけじゃないですか。
私たちはある意味期待しているだけで、心が軽くて頭の軽い未来というものを期待しているだけであって、
その状況が来ない限り仕事は進まないというのであれば、進まないということを自分で保証付けているようなものです。
どうすれば進むのかという話は、この中には入ってきていないわけですから。
明日は進むということにただしてやるだけですからね。
今日進められないことが明日は進められるということにただ仮定としてしてあるだけの話であって、
だから素晴らしく見えるということは、今やっていないんだから素晴らしく見えないのは当たり前なわけですね。
この辺にまで差し掛かると、未来のことを予測しているという名の下に、
未来に何かを期待するという心理操作に意味を見出せなくなると思うんですよ。
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まずそれがタスクシュートをやりつつ、Good Vibesの話を取り入れたときに受けられる一つの贈与みたいなもの。
結局現在やらなければならないという点においては、どっちにしたって同じなんだけど、
現在やることが灰色でなくても別によくて、というよりも一番うまくやれるのは現在なんだというふうに認識を逆転させることさえできれば、
未来の理想を諦めるという視点を取る必要が別になくなるわけです。
ビジョンを持っていなければ現在というのは常に不完全なものなのかというと、別にそんなはずはないんですよ。
むしろ脳内の未来のほうがよっぽど不完全なもののはずです。
理想的に見えるのは絵だからであって、絵は素晴らしく描ける部分ももちろんあるんだけれども、
必ず現実においては嘘を含むしかないですよね。
自分が描いてあるところと背景を分けますが、現実というのは自分とか主人公と背景というものがそういう関係は実際にはないわけなので、
全てその人その人にとっては自分が主人公だし背景となっている人なんていないわけですよね。
そういう意味でも絵は絵なので、自分が光り輝いている絵だから理想的なのかもしれないけど、
それと現実が一致することはないはずなんですよ。
タスクシュートっていうのは、もちろん過去と未来というものが背景と化すんですけれども、
現在が浮かび上がってくる、そういう意味においてですね。
だけれどもその現在がどんどん動いていくので、実際はその背景というものは存在しないんですよ、あれもまた。
非常に面白いことに、今私がこのレコーディングしているグッドモーニングバイブスも、
グッドモーニングバイブスもモーニングじゃないですけどね、夜ですけど。
前景としての自分というのは当然意識しますが、これをやっているときには実は背景ってないなというのは何となく実感としてはあるわけです。
背景というものはなくて、私が自分が中心だと思うから相対的に周りが背景っぽく感じられるに過ぎないなということは、
現在だけはその感覚を保ってられるんですよね。
これが明日になってみると、自分だけが前景になってしまうんですよ。
それ以外が背景みたいになってしまう。
そしてその背景に勝手な期待を抱いているわけです。
平穏無事な明日という背景を勝手に抱くわけですよ。
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もちろんその可能性の方が高いという言い方はできますが、そうであるという事実がないというのはこの番組ではお馴染みですよね。
これはつまりナルシズムなわけですよ。
そしてこのナルシズムというのは、自分にとって都合がいいからすごく天国みたいな世界に思われるんですけど、実際にはこれが私を苦しめるわけです。
ナルシシズムというのは、それを抱いている人間を必ず苦しめることになります。
なぜかというと、自分が決めた誰かに囲まれているわけだから、一見それはすごく都合のいい世界のようだけれども、全部自分なわけですから。
孤独ですしね。
例えば私が誰か、妻でもいいんですよ。娘でもいいんです。
今私が脳内に思い描いている妻とか、私が妻が考えているであろうことを脳内で思い描いている。
それは妻の実態とは関係ないことですよね。
怒っているという予測が当たっていたとしても、私がしている予測はあくまでも私の脳内のものです。
本当にこれしか信じられなくなったら、妻が外在するということが信じられないということになりますよね。
だから、相手を怒らせたとしても、機嫌が悪かったとしても、そういうイメージを抱いてしまうということは、やっぱり一種のナルシズムなんですよ。
このことをこのポッドキャストでも繰り返し言っているわけですね。
本当に怒っているとかは関係ないんですね。
私の脳内にいる妻と、外在する妻と二人いることが問題です。
一人しかいないわけですから、現実には。
二人いるということは、私は夢を見ているということです。
現実そっくりの夢を見ていたって、夢を見ていることに違いはないんです。
この夢から覚めることによって、私は救われるんですよ。
どれほど攻撃的な状態にあったとしてもですね。
このことがタスクシュートというのは、非常に逆説的なんだけど、現実に肉薄していくことによって教えてくれるんですよ。
どんなに肉薄しても一致することはないから。
どんなに肉薄しても一致することはないということは、夢だということですよね。
タスクシュートが記述しているのが、どれほど現実とよく似ていても、そこまで似ていませんが、
どれほど似ていても、あれは私中心に展開させている行動の記録と規範だから、現実そのものでは絶対にないんですよ。
絶対に一致することがあるはずがないんですね。
そんなのは、わかりきっていることじゃないですか。
わかりきっていることなんだけど、私たちはそれがわかっていないんですよね。
つい先日、頭ではわかっているんだけど、グッドバイブスの考え通りにイリュージョンを手放せませんみたいな話を読んだんですけど、
頭ではわかっているという状態を脱出するために必要なのが、肉薄している夢は現実じゃないということを知るということなんです。
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これもさっき言った通り、すごく逆説的なんだけど、肉薄して初めてわかることってあります。
かけ離れた夢を見ていると、現実と似ても似つかないということにむしろ気づきにくいんですよね。
不気味の単位みたいな話です。
人間に似せて似せて似せた人形を作ると、人間じゃないというのがむしろ見えてくるみたいな、そういう話です。
もう一つが精神分析とかカウンセリングとかがやっている、他人に同じ話をしてもらうということですね。
私の奥さんが怒っていると、私が考えているのはイリュージョンなのは頭ではわかっているんですがって、
私が言ったときに全く同じことをグラゾンさんに言われてみると、ハッとするということが起こります。
これはフロイトがたぶんしつこく言った部分だと思うんですけど、
例えそれが当人の患者さんの理性が告げていることであっても、他人に同じことを言われるのは意味が違ってくるんだという話をフロイトは書いていました。
私はそれは非常に興味深い話だと思うんですよ。
自分の内なる脳から出てくる言葉と外から聞く言葉は、伝わり方が、響き方がやっぱり違うんですよね。
頭ではわかっているというときは、頭から出られないんですが、
頭の外から頭ではわかっていたことを聞かされるとわかるんですよ。
頭でないところでも。
頭でないところでも、その現実は、その事実として語られている話は外在している。
僕らはやっぱりよっぽどこの外在というものを見失う悪い癖があるんですね。
人間の大脳の独特の特徴だと思います。
本当に現実というものと夢というものを本当に取り違えることができてしまって、
頭ではわかるということは、もうすぐ目が覚めそうだという言い方にも近い気がします。
でも、やっぱり夢を見ているわけですね。
頭ではわかっているとか、イリュージョンなのはわかっているというのは、やっぱりわかってはいないんですよ。
私、時々そういう夢を見ます。これは夢だとはわかっている。
明石無と少し違うんです。
これは夢だとわかっているなと思っているのに、やっぱり目が覚めないし、明石無だとも確信を持ちきれていないんですよ。
これは夢だとわかっているな自分と思っているんだけど、わかっていないんですよ。
そういう状態で夢を見ているということがありますね。
そして、起きている時はこの状態にかなりいつも近いんだと思うんです。
自分は夢を見ているのに等しいと、頭ではわかっているんですよ。
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でも、実際にはわかっていないんですよ。
タスクシュートというのは、これは夢だということを教えてくれるタスクツールなんですよ。
めったに僕はこの部分がないような気がするんです。
あれほど現実に見せるという、わざわざ携帯を取らないから、
現実ではない感じしかしないんですよね。
だから、あれが現実でないということがむしろ気づかないことになってしまう。
カレンダーとかも同じです。
大雑把で現実らしさが別にないので、
だからあれは現実を模したものとして役に立つんだとつい僕らは思っちゃうんですよね。
そうではなくて、タスクシュートみたいに現実に肉白してみようとするとですね、
現実に肉白できていないということに気づくんですよ、どこかで。
そうすると、こういう未来予測は、
所詮はドリーミングに過ぎないんだということがわかるので、
現在やっていることの価値というものがその分全面に浮き上がってくる。
だから、そのときにもっとできることを可能な限り拡張していく。
できることを可能な限り拡張してやっていこうという気持ちが少し上がってくるんですよね。
そういうものなんだと思うんです。
だからキーワードは結局、夢を見ていては仕事が前になかなか進まないという話なんですよ。
だけど僕らは夢を見続けてしまうので、
この手で他人に言ってもらうのが一つの手なんですよ。
だから他人に言ってもらって、多少でも目を覚ましていれば、
もう少し仕事は前に進めることができるんじゃないかということですね。
本当は今晩まで始めるべきだったかなと思いました。