00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
実はこれテイク3です。
10月11日現在20時36分なんですが、実はこれはしかも今日2本目となります。
多分これは最後までいくつもりでおるんですけれども、なぜテイク3かというとですね、いろいろと手違いというのかな。
やっぱり実にアンカーの独特なところがあって、ひとつ私学んだんですよ、それでも。
少なくとも自分の環境下では、ブラウザがサファリだと5分で勝手に録音が停止されるという。
これがですね、朝の撮るときのひとつの重要なネックだったんで、学びました。
これは非常に新しいものを知った気がします。
まあそういう認識が正しいといいんですけどね、実はこれChromeでも今のサーバーの状態だと発生する事象だとかいうことになると、多分今日これ撮れないなという気がしますね。
もうすでに何分か無駄にしましたからね。
5分ずつで勝手に切れるなんて知らずにどんどん喋ってたわけですよ、さっき。
で、まあそれが途切れたわけですね。
途切れたというか、撮られてなかったんですよね。
そういうことです。
で、えっと、なんだ。
そうそう、今週のね、15日に、土曜日15日に、働く人の心理第3回をやります。
新装撮ってみたんだけど、新装入れといた方がいいかなと今思ってます。
一応シリーズものなのでね、同じ名前の方がいいよなと思いました。
新装撮ったのにそれなりの理由はあったんだけど、新装入れておこうと思いました。
で、この回で、最近私Twitterでですね、これも3回目喋るんだけど、
最近のGMVはキレッキレで面白いというのをいただいたので、キレッキレかは知りませんが、
カオスなのは間違いないんですよ。
朝はもうカオスカオス何回も言ったんですけど、カオスなのは間違いなくて、
このカオス状態が私はいいと思っているんですね。
これが落ち着いたり穏やかになったり、ある種の暴走状態が停止するとですね、
私としては何とかここを持たせるという状態に戻ってしまうんですね。
それは当然起きるんですけれども、経験的にそういうのが起きることは分かっているんですけど、
是非こう暴走気味に進めていきたいと、半分勢いだけでやっていきたいと思っているんだけれども、
その状態は永続はしないんで、何事も永続なんてしませんけどね。
今のこの状態を維持したいなとは思っています。
でなんですよ。YouTubeでもやろうかってちょっと今迷ってるんだけれども、
YouTubeさっき覗いてみたら、ある女の子が、女の子ってあえて言ってるんですけどね、
これもう3回目なんですよ。
03:00
哲学というものにもう一つ興味が持てず精神分析は面白かったというのを喋っている方がいて、
で、再生回数が4桁いってるんですよ。
もう本当に時代の流れだというか、時代だなと思いました。
岩波に、岩波書店とかに精神分析のタイトルの本はいろいろありますけど、
三筋書房さんとか、そんな女子大生みたいな方が書いていたりはできないわけですよ。
私これにはほとんどが男性ですよ。
ジェンダーを問題にするような勢力であっても、
ある種のテーマになってくると男性しか書いてないという、
非常にある種のことを感じさせられる出来事が、
なんていうんですかね、出来事というか現象があるわけですよね。
でも実際には精神分析は体調だ体調だって私もこの番組でもよく言っちゃってますけど、
そういう本もあるんですけれども、
でも専門家ではないけれど、
つまり私が子供の頃は普通に女の子がとかって言われてたわけですよ。
いう人が精神分析について、
いわば専門家が望むような形式ではないにせよ喋ってるのは、
数千再生回数いくと、
多分あれ1万とかいくでしょう。
だからですね、やっぱりあるんですよね。
そういうものがないわけじゃないんですよ。
ってことを考えながら、
自分もやっぱりどんどんやっていけばいいんだなと。
なんかですね、見てる世界が狭いんですよね、きっとね。
炎上を怖がるとかそういうのってなんかおかしい。
自分のエディプスというものに勝手に恐れてる。
だからこれは虚勢恐怖なんですよね、言ってみれば。
おじんちゃんが物理的に斬られるって話じゃないですよ。
でもこういうのを虚勢恐怖って言うんだなと、
結局おじさんがどっかで睨んでるのが怖いに過ぎないんですよね。
でもそのおじさんが喋っても、
2桁とかね、よくて3桁とかしかいかないテーマで、
女の子が喋ると1万とかいっちゃうと、
そういうもの自体が怖いのかもしれないですよね。
これはちょっと違うのかもしれないけど、
自分が喋ってバッシングされるのが怖いなんていうのは、
本当にこうある種の、
今日はそのテーマでいきたいんですけどね。
やっぱ5分超えたね。
これはクロームでやればきっと下でもうまくいくんだな。
下では訳あってサファリになってるんですけど、
それがいけなかったんですね。
この内的対処。
久しぶりにこの言葉を使いますけど、
最近フェアバーンを読み返してるんですよ。
なぜフェアバーンを読み返してるかというと、
ネジマキドリクロニクルを読んでるからなんだけど、
なぜ今私がこの沸騰状態にあるかというと、
かき上げ塾の第6期の5回で、
06:05
倉園さんがある種の突っ込みなのかな、
何と言えばいいのかちょっと分かんないんですけど、
倉園さんの見解っていう話を、
私の自我心理学の話を受けてしてくださったんですね。
あれを一つ受けて、
僕は一つ考えなきゃいけないことがあるなというのを、
突っ込んで考えてるうちに、
なぜかネジマキドリクロニクル、
村上春樹さんにたどり着いたと。
これはもう一つあって、
つい先日やった橘武さんとのクロストーク。
これも非常に影響を受けてるんですよね。
やっぱりネジマキドリクロニクルに行き着いた。
多分、縁因には少なくともなってるんですよ。
私はそのクロニクルを読んでいて、
そうかなるほどなと思っているわけですよ、
思っていて。
そういう意味で、
なんで内的対称という言葉を思い出したかというとですね、
つまり、フェアバーンの言葉なんですけど、
悪い内的対称ってから盛んにそういう表現を使うんですね。
悪い内的対称っておかしな言葉なんですよ。
おかしくはないんだけどね。
内的対称ってそもそもあんまりいいもんじゃないと私は思っているんですね。
人というのは、
内的対称なんてのは基本母親なんですけど、
せいぜい父親なんですけど、
父親か母親、両親。
私たちが、
10月11日ですね、
戸畑海人さんの最新刊が私の家に届いたんですよ。
今日発売だからね。
かなりウィニコットについて、
非常に彼らしく、
平易な言葉で詳しく説明されていて、
これが一番分かりやすいし、
これがあれほど今飛ぶように売れてるんですよね。
びっくりしました。
ほんと飛ぶように売れてて、
これを読んでいただければウィニコットは復権するなっていうぐらいの、
今勢いを感じるんですよね。
で、そのウィニコットの対称、内的対称論、
というか対称関係論ですからね。
母親というものの対称っていうのは、
やっぱりイメージだって彼は書いてるんですよ。
お母さんの顔を思い浮かべたら、
それが内的対称なんですと、
そうだろうと思うんですね。
なんでそれがいけないというか、
あんまりいいものだと私が思ってないかというと、
みんな持ってますよね、おそらく。
大体の人は持ってると思います。
内的対称といえば、
母親か父親のイメージで、
イメージしている父親や母親は、
ほぼ確実に内的対称だと思うんですね。
で、やっぱりフェアバーンも悪い内的対称、
良い方なんてほとんど問題じゃないんだっていう、
そういう勢いで書いていて、
悪い内的対称こそがポイントだよっていう話をしていて、
私も全く基本的には賛成なんですが、
何が言いたいかというとですね、
これにウィニコットが対比する言葉として、
09:01
環境としての母親っていうんですね。
例えばきちんと折り畳まれているシャツが、
タンスの中に入ってましたと。
これが環境としての母親なんですと。
これ直ちにこれはジェンダー問題ですよね。
出てくると思うんですよ。
で、かなり戸畑さんはその辺は意識していて、
環境としての母親なんて損臭いものなんだとか言ってるんだけど、
そこを強調するのも結構だし、
大事なことだと思うんですよね、社会的に。
でも私はやっぱりですね、
この感謝されない何か、
それが不備があったときだけ
意識される環境としての母親は、
損臭いっていう部分も大事だと思うんだけど、
これこそが私たちを生かしめているっていうのかな。
生きさせてくれているものだっていう観点の方が、
今は、僕の観点ではね、
今は非常に大事だと思うんですよ。
例えば、戸畑さんはやっぱり僕もその通りだと思うんだけど、
これね、やっぱり電力っていうのがいるんですよね。
電力って本当だなって思うんだけど、
電力は環境としての母親だって言うんですよ。
彼もパソコンに囲まれたりしてるからね、
感じるところがあるんだと思うんですよね。
で、我々電力会社に感謝しないでしょ、あんまり。
しないと思うんですよ。
まさに損臭い役割なんですよね、環境としての母親というのは。
ここで母親と言うっていうのが問題だろうって言われると思うんだけど、
でもやっぱり僕はここ、母親っていうふうに言うべきだと思うんですよね。
だって我々は子宮から出てくるからね。
ここも大事なポイントだとは思うんですよ。
ホグデンがマトリックスっていう、
心のマトリックスっていう表現で本を書いてるのは、
絶対偶然ではないはずだと思います。
っていうか偶然のはずがないですよね。
マトリックスだと思うんですよ。
電力なんて我々の生きる時代においてはまさにマトリックスだと思うんですよ。
基本インフラとかっていうやつですよね。
これが途切れた時に私たちはほぼパニックに近い状態になる。
怖くなるじゃないですか。
倉園慶三さんは怖くないっていうふうにおっしゃると思うんだけど、
我々は怖いと思うんですよ。
パッと電気が消えて電力停止しましたってことになるとドキッとしますよね。
このドキッとするっていうのがトラウマというやつなんですよね。
真宗と言いましたね、ウィニコットはね。
インピンジメントなんですよ。
このタイミングで内的対象としての母親っていうやつが発生する。
つまり我々が知っている、イメージする母親なんですよ。
母親像と言ったりするやつ。
あのタイミングでしか出てこないと、ある意味ではね。
この悪い内的対象というやつが本当に大事なんだというか、
精神分析では最も大事な扱うべきポイントなんだというふうに言ったのが、
ウィニコットじゃなくてフェアバーンですね。
最初に言ったのがフェアバーンだと思います。
メラニクライもほぼ同時期に同じようなこと言ってますけどね。
12:05
このイメージする母親は基本良くないものとしてイメージされるはずですよね。
今のように供給が途絶えたときに意識される損臭いっていうのはまさにそれで、
途切れたときに、シャツが出てこないときに、その存在としての母親を我々は意識する。
この意識した母親というのはまあまあ調子悪そうだったり、機嫌悪そうだったり、
怒っていたりするはずなんですよね。
怒っているイメージと対になっていると。
こればっかりじゃないんだけど、笑っていたり、ニコニコしていたりするケースもあるんだけど、
それですら長寿が的に登場しているケースがとても多いと思います。
とにかく我々をある程度圧倒する存在だし、
まあ場合によってはトラウマ的になっている。
だっていつもそうやってシャツは畳んでくれるわ、面倒を見てくれるわ、
とにかく環境そのものなんだから、ベッドみたいなものなんですから、
それに引っ叩かれたらびっくりするじゃないですか、のはずなんですよ。
で、こういう内的対象というものがですね、
例えばですね、あまり動向してしまうと、我々はヒステリーになったりする。
あるいはヒステリーと一番多そうなのが脅迫神経症になったりする。
先日お話しした通りです。
人が怖いってのは、つまりは人をこういうふうに見てるってことなんですよ。
グッドバイブス流に言うとね、投影しちゃうわけです。こういう存在として。
私はよくわかるんですよ。
女の人と付き合いたかったという時代が長くありまして、
ずっとそういう時代には常に女性を恐怖してました。
女性恐怖症なんですよ。付き合うときはいいんですね。
つまり外在している女性は、得体が知れないので、
その女の子ととにかくデートしたかったわけですよ。
他にセックスしたかったっていうのはあんまりないんですよね。
デートしたかったんですよ。
これだけでもいかに外に置いてるかっていうことなんですね。
中に入ってくるとどうなるかと。母親を投影しちゃうんですね。
よく言うんじゃないんですけどね。
もう私このポッドキャストでも何度も取り上げてるんだけど、
日本の男の人はセックスできるお母さんが欲しいと。
でも私知ってる限りではですね、8例知ってる。
付き合ってる女の子にお母さんと呼ばれた。自分がですよ。
立場としては私がですよ。
付き合ってる女の子に名前呼ばれないんですよ。
佐々木君とか呼ばれないですよ。お母さんと呼ばれちゃうんですよ。
関係が深まってくると。
これがもう僕は一つの反証だと思ってるんですよ。
日本の女性もセックスできるお母さんが欲しいんですよ。
という言い方をすると、
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語弊を招くならば一部の日本の女性もセックスできるお母さんが欲しいんですよ。
間違いないと僕は思ってるんですね。
これはもう正しくは世界中のですよね。
私は絶対そうだと思います。
よくセックスしちゃうと飽きるみたいな話ってあるんだけれども、
あれは私は大きな間違いというか、少し表現がおかしくて、
外在するときにはヒステリーだからすごく憧れてるんですね。
そういうデートするとかいうことに。
外在してるから。
外在してるものは私の観点ではほぼ見えてないものなんですよ。
理想化されてしまってる状態なんですね。
ヒステリーってそういうものなんです。
内面に悪いものが入っちゃってるんで、
悪い母親対象が内在されているんで、
内面に悪いものが入っちゃってるんですね。
でも外にあるときはとってもいいものなんですよ。
ほぼ見えてない。
で、その人と付き合っちゃうと内在化された母親が活性化して、
内在化された母親と付き合ってるような感じになる。
途端に投影しちゃうんですよ。
自分の母親をね。
私はそういうふうにおおむね自分の中の出来事を解釈してます。
これ私の話ですからね。
ヒステリー一般論を喋ってるわけじゃないんで。
ネオフィリックなんですよね。
外にあるところにはいいんですよ。
でも内側に入ってきちゃうと母親は投影しちゃう。
そうすると何か言われたときに母親に怒られているような言い方をされてる気がするんですよ。
まるで母親のようにって言うんだけど、
当たり前なんですよね。
だって母親を連想しながら常にその声を聞いてるんだから、
どんな人とどんな言葉を、どんな人のどんな言葉を聞いても同じですよ。
そうした方がいいんじゃないのって付き合ってる人に言われるじゃないですか。
母親に怒られたときの連想するんですよ。
それもトラウマみたいになってる内容を連想する。
だから嫌になるんですね。
飽きてるわけじゃないんですよ。
これは、なんて言えばいいんだろうな。
その時のこう、がっかり感の大きさがすごいわけです。
外にいたときはあんなに素晴らしい人だったのに、
中に来たら、あの一番嫌な母親を連想させるように言うんだっていう感じがするんですね。
これが私を大変悩ませた。
し、やらいぴろよさんの読んでてもつくづく感じるんですよ。
もっとひどいんで。
彼女の場合、父親は性的虐待に近い状態に及んできているんですよ。
その父親を連想させる男の人はすぐ振りたくなるじゃないですか。
だから付き合う前は、外在しているから父親を連想させない男性は全員素晴らしいんだけど、
自分にチヤホヤしてくれれば余計ね。
付き合い始めると、直ちに父親を連想させるから、すぐ振らなきゃならなくなるんですね。
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という現象が多分、いろんなものに適応されるんだと思うんですよ。
ヘアワンというのは、だからそういう意味ですごくヒステリーについて、
分かりやすい図式を用意してくれたなと思うんです。
例えば、これから食べるものは、あるいは口に入れたときには食べ物は素晴らしいわけですね。
それは、外在しているものだからですよ。
自分の体の外にある食べ物というのは外在していますよね。
大変分かりやすいと思うんです。
食べますよね。
食べたときには、その人の内在しているものは悪いものになっているんですよ。
なんかしこりがあるとかね。
なんか体感覚があんまり良くない人にとっては、そういうことって起こると思うんです。
食べ物が体に取り入れられて、食べられたものとしての、お腹の中にあるものとしての感触になってしまうと、異物になってしまうと。
これさっきのととってもよく似てるじゃないですか。
ヒステリーの人にはこれを言う人多いんですよ。
実は私にもよく分かるんです、この感覚。
口にあるときはいいものなんですが、お腹の中に入っているときは決してあんまりいいものじゃない感じがしてくるという現象。
ヒステリーの人に、異物によって自分が病気になっているというような感覚を抱く心身症みたいなのがよく出てくる。
ヒステリー級みたいな言い方をするケースすらあります。
本当に出来物ができちゃうんですね。
こういうのっていうのが、ヒステリーの人の内外の現象なんですよ。
ところが、内的対象として悪いものを取り込んでしまうと、こういう現象って絶え間なく起きるわけですよね。
つまり、取り込んだものが悪いってことは、自分の一部は悪いものでできているってことになっちゃうんで、なんとも嫌な感じがするわけですね。
内的になった途端に。
内的対象にただ取り込んでいるものは、ベストってことはありえないんですよ。
一部良くないものであることが多いんですね。
だから分割ってものをあんまりするのは好ましくないわけです。
世の中で良い虫と悪い虫にはっきり分けるとか、自分のお母さんの良い部分と悪い部分をはっきり分けるとか、そうしなければいけない事情はあるんですよ。
何度も何度も繰り返し喋っているように、良い体験があまりに多くなかった。
虐待とかってそういうことになりますよね。
良い体験があまりインパクトがない。
悪い体験だけはひどくインパクトがある。
倉園さんのお話の中でいうと、ジャングルジムから落ちたみたいな体験ってインパクトがでかいわけですよね。
ジャングルジムで遊んだ良い体験もその他にいっぱいあるんだけど、釣り合いが取れないんですよね。
悪い体験で命を落としそうになったって話になっちゃうと、良かった体験ってどうしてもマイルドすぎて、
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全部足したらそっちの時間の方が長いんだけれども、天秤に合わないわけです。
この点をフェアバーンはすごく強調しているんですね。
内的対象の良い部分なんていうのは大してお話にもならない。
それは良い部分はあっただろうけれども、悪い部分の方が遥かに重要でしょうということを彼は言っているわけです。
良い部分と悪い部分に分けちゃって、悪い部分が一部でも自分の中に取り込まれると、
全体を汚染する、この言い方は自我心理学だろうと対照関係論だろうと精神分析でもものすごい言いますよね。
汚染するという言い方。
つまり汚染ってのは一部の悪いものが全体を悪くしていくっていうニュアンスがあるし、
これが私たちを悩ませるんですよ、きっと。
ヒステリーの場合、中に入った一部の悪いものっていうのが自分全体を汚染している感じがするので、
自分が空虚なんですよね。
あるいは自分が価値がない感じがする。
だから外側がすごく良いものに思えるし、
特に性欲の対象とか食欲の対象がむやみやたらと良いものに思えてしまうんです。
私はこの対比をよく知ってるんですよ。
多分自分はそういう育てられ方を一部したんでしょうね。
決して虐待を受けてたとは思わないんだけど、
自分全体というものはもう一つ色あせていて、
自分が手に入れたものとはつまらないものになっていて、
自分が食べたものは早く出したいと思ってしまうようなところがあったんですよ。
そうすると勢い、まだ食べていないものとか、まだ付き合っていない女性とかが、
むやみやたらに良いものに思えてきて、
常にそれは外側にあるという、
すごい、なんていうんですかね。
ただこれがですね、面白いことに、
ゲームとかに投影された世界なんですよね。
ゲームってそうじゃないですか。
いつも戦ってるところは洞窟とか、モンスターいっぱいとか、
ヤバそうなところばっかりなんだけど、
その先には素晴らしい宝物とか、素晴らしいお姫様とか、
そういう展開になってますよね。
あの感じってヒステリーの世界観に非常によく似たものを感じるんですね。
ああいう世界観ってありますよね。
ロールプレイングゲームってすごいああいう世界観に特有のものだけれども、
全部が全部ゲームってそうじゃないですからね。
いわゆるシミュレーションで三国志とかやってるときは、
ああじゃないですよね、別にね。
エンディングはむしろどうでもいいじゃないですか、割と。
だから世界観ってあると思うんですよ。
ヒステリーな世界観ってはっきりあると思います。
外が素晴らしくて、中が非常に残念だと。
非常に極端になるとボーダーっぽくすごくなっていく感じがしますよね。
自分はとことん空虚で、どうしようもなく惨めで、
外は本当に素晴らしい世界だっていうそういうイリュージョンの中に生きることになると。
良い世界と悪い世界が分裂していて、
24:01
しかも悪い世界の方を自分が内的に投げ込まれている感じっていうので苦しむ。
それが多分ヒステリーの世界っていうやつだなと。
私は本当にこれが性にまつわっていたのは、とことんありました。
だから私は男性性っていうのが嫌いだったんですね。
非常に嫌いでした。
これは感じない男の中で出てくる、繰り返し出てくるテーマだけど、
彼は男性全体をそういうものとして見てるけど、
という言い方をするならば、男性とはヒステリーであるっていうのと全く変わらない。
私あれはですね、主語がやっぱりデカすぎると思う。
そう感じていない男性はいっぱいいると思いますね。
だから男性すなわち汚いとか悪だとか、
そういうのって日本文化の中にも確かにある感じがするんだけれども、
それだとやっぱり日本の男性イコールヒステリーになっちゃうんで、
やっぱりこれは主語が大きすぎると思うんですよね。
もう一つが脅迫症なんだと思うんですよ。
これをある意味逆にしたところがあるというか、
逆ではないんだな、一部逆にしてますね。
つまりこれが連続でちゃんと撮れていることを期待するんだけれども、
今一旦切ったんですよ。
脅迫症っていうのは、自分の中にあるもの、
要するにやっぱり内的対象が悪いんだけれども、
悪いっていうのはある程度、さっきのウィニコットの話で言うとみんなある程度悪いんですよ。
ただものすごく悪い感じがしているっていうところから、
病理に近いものが始まっていくっていうのが、
フェアワンの考え方だと思うんですけどね。
脅迫症の場合、自分の中のものが悪いんだけど、
外が良いとは考えないんですよ。
自分の中に良いものもあるって感じなんですよね。
なんていうのかな。
アンビバレントなんですね。
僕の主に脅迫症っていうのは、
ずっとアンビバレントな問題っていう感じが、
なんていうんですかね、これは。
愛憎ってやつですよね。
トステフスキーのテーマですね。
愛憎が混ざっちゃってる。
つまり確信が持てなくなるわけですね。
この話も前はしたと思います。
つまり自分の中にあるものが、
良くもあり悪くもあるので、
これ普通なんですけどね。
だけれどもその悪さが結構強いんで、
悩んでしまうんですね。
記憶の中でもそうですけど、
確認を絶え間なく取らなきゃなんなくなるわけです。
良いものと悪いものが混ざらないように、
混ざらないように努力しているので、
自分の中で混ざっちゃってますから。
混ざらないように、混ざらないように努力しているので、
どうしても絶え間なく確認を続けなければならないわけですよね。
必ずしも行動としては、
確認を取るという行動、
つまり脅迫っぽい行動というものと、
27:01
相入れないような感じがするんですけど、
あれはですね、
食べ物の中に悪いものが混ざっているような感じの
人の取っている行動に見えるんですよね。
すっごい一生懸命見て取り除かなければというふうに、
一生懸命頑張っているような、そういう感じがあります。
それで、こうして考えてみると、
結局悪い内的対象というものが悪さをしているというふうに、
そこに一元化したベアバーンの考え方というのは、
なるほどって思うところがすごくあるんです。
ちなみにこのヒステリーでは、私のようにですね、
外にあるものは全て素晴らしいっていう、
これは一つの病気だけど、
これをさらに、自体を厳しくしたものが、
さらに自分の外にあるものは最悪だにしてしまったケースですね。
これがいわゆる迫害妄想というやつですよ。
こうなると、
引きこもっていれば楽なようだけれども、
生きていくのはものすごい大変ですよね。
ヒステリーであればある意味、
絶え間なくiPhone探し見てみたり、
絶え間なく女性探してみたりしなきゃならないという感じがあるので、
やや外文が悪いのと、
本人がとっても大変だという点を除けばね、
まだ現実的に生きていける面があるわけですよ。
ガールファンと一生懸命して新しいものいっぱい買うっていうのは、
大変なんですよ、はっきり言って。
モテりゃまだしもなんだろうけど、
これモテてたらもっと事態悪化するような気もするんで、
どっこいどっこいかもしれませんけどね。
でもお金を手に入れようと頑張るし、
異性と付き合おうと頑張るから、
本人消耗する上に外文悪いの、
見た目よくないですよね、これはね。
なんかすっげー強欲な感じがするじゃないですか。
そうじゃないんですけどね、本人の中では。
だけれども、とにかくこの繰り返しができるという部分ではメリットがあるんだけど、
これが逆転するとですね、
対してその人の内面と外面の混乱を招いているという点で違いはないんだけど、
これが逆転するとすごい社会不適応的な状態になるわけですよ。
周りは最悪だと。
絶対外になんか行くもんかということになって、
自分の中は良いものだから、
自分の中のこの良いものだけを大事にして、
一切外出せずに生きていこうみたいになるわけです。
白外妄想系で引きこもっている方の説明としては、
これで十分だなって感じがします。
ミニコットの方が精密な感じがしますけれども、
私には実際のケースを見ているとですね。
ただ、ヘアバーンが言ったような説明だけでも、
ある意味、これでドアを閉ざして、
帰ってくんなって言って怒っている人がいるのはごく当然ですよね。
外はめちゃくちゃヤバいんですよ。
これは自分の内的対象としての母親とか父親とかを、
全部外に排出して投影しているから、
そう見えるんですけど、
これは全然おかしなことではないですよね。
30:01
だって例えば、私がさっきやったような、
途中お話したように、
付き合った女性を母親だとすぐ思ってしまう人間という、
この生き物の投影ぶりを見るとですね、
世の中にいる男は全員父親と同じで最悪だって思うのは、
すごい簡単なことですよね。
で、残った良いものは全部、
自分の中にあるということにしてしまうんですよ。
それなりに生きていけそうな感じはあるんですけれども、
この迫害妄想の人が、
めったにそうそう簡単に自殺したりしないのは、
状況がかなり悪くても自殺したりしないのは、
こういった事情によるんですね。
自分は良いものなので、ある意味では。
有能だったり。
一部なんですけれども、
良いって確信できるくらいなら外行けますから。
そういう確信にはいたってないんだけど、
つまり自分の中の分裂もあるんですけれども、
外に悪いものが排出されているからですね、
とりあえず閉ざしていればいいわけですよ。
ちなみに、
外に悪いものがあるからといって、
撃って出たりはめったにすることは、
多くはないんですね。
そういうケースがゼロじゃないのかもしれないけど、
多くはないと思うんです。
理由は簡単で、これ基本怖いものなんで。
内的対象のカホーヤが悪い対象だってことは、
昔自分がやられたって意味なんですよ。
だからこれは怖いものなので、
相手の方が強いんでね。
普通は撃って出たりはしないはずなんです。
だからこもっちゃうんですね。
で、なんですよ。
ここまで考えて、
私がその話がすごい前置きが長くなりましたけど、
ネジマキドリの話に突っ走った最大の理由というのはですね、
突っ走ったというか、
大変面白く読めている理由は、
つまりここで、
なんて言うんですかね。
リレーションシップだと思ったんですよ。
関係性だと思ったんですね。
対象関係なんですよ。
つまり、
私が倉園さんに、
よく時々お話している、
中年の危機的な状況の時に、
倉園さんにコンタクトを取ったと。
セッションを受けたという話の
大事なところはですね、
彼にどんな話を聞いたのかって
皆さん思うはずじゃないですか。
彼はどんな話をしてくれるのかと。
でもそうではないんですよね。
いい話はされてたんですよ。
だけれども、
どんな話をされたのかというのが
大事ということになってくると、
この私の中のヒステリーな構図って
何ら変わらないんですよ。
外に素晴らしいものがありましたと。
このパターンを続ける限り、
聞いた話を、
僕が汚染してしまって、
大した話じゃなかったということに
しちゃうんですよね。
そういう展開になるじゃないですか。
せっかく付き合えてセックスまでできても、
お母さんを思い出して汚染する
ということを私はやっちゃうんだから、
当然そういうことになりますよね。
どんなにありがたい話を聞いても
無駄なんですよ、このケースであれば。
33:00
だから、
聞いた話が素晴らしかった、
情報をくれたんですかという話とは
違うんですね、これは。
そういうことだけでは、
効果はあまり期待できない。
よく言うように、話を聞いてくれたのが
大事だったんですねという話になると思うんですよね。
カウンセリングでよく、
今回、戸畑さんの出ていた
聞く技術にあるような
話なのかと。
聞く技術はそれだけでは全然ないけれどね。
話を聞いてもらうのが大事なんですね。
これは大事ですよ。
つまり、
倉園さんが環境としての母親として
機能してくれたという大事さというのが
あるんですけれども、
これだけだったら多分多くの人はですね、
カウンセリングって死にいかないと思うんですよ。
もっともそれは非常に
残念な話なんですけどね。
環境としての母親、我々が電力とかに
どれほど頼っているかを
思えば、外部に頼るというのは
非常に大事なんだけれども、
どうしてもこの話を
ただ聞くだけだとですね、
私だったら
セルフカウンセリング一人でやるって
我々はそう思いたくなるような
文化に生きているんですね。
これも十分ではないと
私は思うんです。
ただし、これは大事です。
少なくともどんな情報を得たかということよりは、
こっちの方がよっぽど大事ですね。
そういうふうに私は思うんです。
ただ、実際には
話を聞いてもらうだけだったら、
別に倉園さんじゃなくてもいいわけですよ。
他の人でもいいわけですよ。
これは、
私がですね、
うまく言える自信が
あんまりないんですけれども、
でも最近、ようやく掴みかけてきたのは、
つまり、
ネジ巻き鳥の話なんだけれども、
あのですね、
なんて言えばいいんですかね、
急にこう、
話しにくくなるな、
これは何なんだろう、
抵抗ってやつなのかな。
つまり、
今何を私がやろうとしているかというと、
これをしゃべると、
差し障りがあると思っているわけじゃないんですよ。
これはですね、
分裂っていう問題があります。
今、例えば私が、
倉園さん、実はお金がないんですよ。
って言って、
なるほど、方法って彼が聞くじゃないですか。
これを今私やりましたよね。
こういうやりとりというものを、
私は内面で再生できるわけですよ。
人間ってのはこういう分裂を、
いつも含みで生きているんですね。
一個の存在だけだとして生きていれば、
今みたいなことはやれないじゃないですか。
今の私下手だったけど、
もっとずっとうまくやれる人もいっぱいいますよね。
一人二役ってやつ。
今のしかも、私は私役と倉園さん役やったけど、
私自身が全く関係ない二人っていうのを、
演じることもできますよね。
36:00
常に私たちっていうのは、
こういう風に分裂含みで生きているってのが、
すごく精神分析の中では、
大事なポイントだと思うんですね。
自分自身が気づいていない自分とか、
自分自身が思いもかけない自分になるとか、
そういった話ってのが、
常にあるわけですよ。
倉園さんの、
してくれた話というものが、
常に、
絶対に妥当だったわけではない、
っていうのが、
一つのポイントなんですね。
つまり、
ニードがあったと。
私がニードを出したと。
倉園さんがニーズを出したと。
このニーズは、
私のニードを、
常に完璧に満たすというわけにはいかないんですよね。
ここがポイントなんですよ。
にもかかわらず、
私は満たされた感じがする部分って、
必ずあるんですね。
これは誰とやってもありますが、
そういうケースでは強く発生しうるんですね。
そういうことが起こるわけです。
つまり、
なんて言えばいいんですかね。
私と倉園さんは母子関係でもなければ、
親子関係ではないんですが、
ここでリレーションシップってものが、
一つ新しく作られるんですね。
この時にしかできないリレーションシップってのが、
ここで新しく作られるんですよ。
それは間違いない。
私、倉園さんと出会ったのは、
それを遡ると、
1年とかになってしまうんですね。
もちろん、セッションを受ける前には、
それなりのやりとりがあったんだけど、
それは短いわけですよ。
せいぜい1、2年とか。
その前に空白の期間があって、
その前に、倉園さんと
知り合ってた時代があったわけです。
この話からすればよかったのかもしれないんだけど、
これってどういうことなのかというと、
関係を結び直しているわけじゃないですか。
この私の困った出来事みたいなのとも、
ニードとニーズのやりとりの中で、
関係性を結び直しているわけじゃないですか。
母子関係というのは、
そこからスタートしているじゃないですか。
私は、こういうことを、
私たちが、
常に何度も再現して、
再現して、再現できるという、
何ていうんですかね、
確信を得ないと、
これが全くできなくなるタイミング
というのがあると思うんですね。
それが私のミドルクライシスだったんですよ。
妻とどうしても関係が
結び直さないように、
どうしても関係が結べなくなる。
あるいは、
自分の親とね、
ニードをお互い出しているんだけど、
ニーズに変換されない。
だから、私も誰も、
私の環境としての母親という機能が
果たせなくなりつつあって、
私も果たせなくなってしまうと。
で、これができるところに、
できるであろうってところに、
私がわざわざ行って、
それをできた、
っていう確信を得るっていう、
この一連のプロセスがすごい大事なんですよね。
だからお金払うんですよ。
誰とでもできるような気がしているのに、
誰ともできなくなっていってしまったと。
誰ともできなくなったわけではないんだけれども、
誰ともでもできなくなってしまったと。
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そして、しかもその時に
私はどういうことが起きているのか、
よく分かりませんと。
これが私のニードなんですよ。
泣いている赤ん坊と同じなんですよ。
何が起きたかが、そもそももう分かんなくなってきたと。
で、
グラゾノさんのところに行けば、
なんとかなるような気がすると。
これは赤ちゃんが
何かを予感して母親に
むしゃびりついているような状態と
非常に似ているんですね。予感はあるわけです。
で、ニードが
ニーズに変えられるっていう予感を
持っていって、
ニーズに変えられたっていう
結果を得るっていうのは、
実に独特のプロセスですよね。
これが私にはできるんだということが、
このタイミングで分かるじゃないですか。
そうして、これができるっていう感覚を
持ちながらじゃないと、
リレーションシップは気づけないんですよね。
これができるようになって
帰ってくると。
この時何を言われたかとか、
話を聞いてもらったというのは、
二義的な話だったなと。
今思えばね、
思うんですよ。