2024-10-30 39:30

なぜ3ヶ月チャレンジでカウンセリングを学ぶのか?【1080】

カウンセリングを知ることは人間関係を知ること。
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おはようございます。働くメンタルを取り戻す精神分析的ポッドキャスト1080回お送りします。
10月30日水曜日7時55分です。
関東もすっかり寒くなり、1週間前はネッククーラーまだつけてこれやってたんですよ、ここで。
ここって言ってもわからないと思いますが、あの家の洗面所で。
これが、もうストーブが欲しいと。
奥さんもわりと寒がりなんで、早速今にはストーブを設置してるんですけど、まだここにはなくて。
キンキンここにもつくだろうなと思いながら、一気に変わった感じがしますね。
私の数少ない趣味であるプロ野球もいよいよ大詰めで、最大でもあと4戦かな。3戦だな。
残り最大3試合。3試合ですからね、もうね。
メジャーリーグの方は、最悪今日にはもう全てが終わってしまうといった状況で、今年は恵まれているんですけどね、日本人にしてみると。
大谷翔平がワールドシリーズのチャンピオン目前ですからと一緒でチャンピオンですからね。世界一ですからね。
あれ、日本が世界一になったのに、なんでアメリカだけで世界一を決めるんだって感じもなくはないんですけど、やっぱりあれはさすがにメジャーリーグは今グローバルだけあって、
世界中から最高の選手が集まっているし、日本もあのメンバーなくしては国際試合で世界一になれなかったでしょうから、ワールドシリーズって言っていいんだろうなと思うぐらいの中身ですごいですけど、
それも終わってしまうという季節ですね。いよいよ年末に向かっている感じがします。
この番組でCMするとちょっとずれるんですけど、タスクシュート総決算というのを今年はやる予定で、これはですね、タスクシュート関係者が、理事はもちろんのこと認定トレーナーさんが、
なるべく一度に会して、年に一度大々的にやりましょうという会を今年からやるんですけどね、やろうと思ってますんで、よろしければこちらもご参加してみてください。
3ヶ月チャレンジ、今年の最後の3ヶ月チャレンジはすでにスタートしております。
こちらも私の中ではなかなか盛況で、これやっててよかったなとつくづく思っているわけですけれども、
この3ヶ月チャレンジは今までずっとですね、今も今後も少なくともしばらくは精神分析を当事者が勉強して、
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このフォートキャストと基本的に同じことをやってるんですけど、
当事者が自主的に、別の言い方をすると、勝手気ままに勉強し、あるいはその知識を増やして、
イデラシーを高めて、そのことをもって働くという意欲なり、心なり、メンタルを取り戻して整えていくという趣旨です。
なぜそんなやり方をするのかというと、まずなぜカウンセリングなのか。
なぜカウンセリングの勉強が意味を成すのかというと、これは人間関係を直接勉強することになるからなんですね。
カウンセリングを学ぶということは、人間関係を学ぶということになると思うんですよ。
すべてのカウンセリングはこれを目指している気がしますよね。
人間関係というか、だってカウンセラーとクライアントさんの関係がそこで展開される。
この関係がどのように展開するかを事前に測ることは、よっぽどの人でも実質不可能なわけです。
だって誰が来るかわからないわけで、この人とは初対面なわけですよ。
しかもそのカウンセリングが精神分析であっても、ホストであっても、CBTであっても、
他の最近で言うとスキーマ療法とかかな、スキーマ療法とか、普通に行動療法だったりした場合、
あるいはいわゆる野良カウンセラーとか、夫婦カウンセリングとか、片付けのカウンセリングとか、
何であったとしても、そこに人と人が出会うというのは避けられない。
そしてそれが一体誰が来るのかを選ぶことはできない。
どんな人が来るかがわからないわけですね。
ここで人間関係を少なくともある程度は上手に扱えるのでなければ、たちまち破綻しますよね。
そしてたちまち破綻するということは、仕事にならないばかりでなく、そこにリスクを無駄に背負うことになりかねないわけですから、
やっぱり人間関係を巧みに扱うということは多分避けられないと思うんですよ。
これについて、これをやるんじゃなくて、これをやるとなると、野良なのか正式なのかその他諸々問題がたちまち発生しますので、
ダイレクトにこれをやるというよりは、これを学ぶという体でこれを進めていくというのが私の考え方の一つなんですね。
何でもいいんです。学ぶ対象はカウンセリングであれば、認知行動両方であってももちろんいいし、
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精神分析が私は一番、これについては後ほど、なぜ精神分析を得意なのかっていうのはお話しますが、
妊婦心理学でもアドラーでも、私アドラーは勉強でよくわかってませんけど、アドラーでもラカンでも、ラカンもさっぱりわかりませんが、
ラカンでもいいんです。わかってなくてもいいんです。これから勉強するっていうことだから。
それをするってことによって人間関係が何らかの形で学ばれていく。絶対にそのそうならざるを得なくなる。
それが望ましいと思ってるんですね、私。
例えばですが、すごく難しい話になってきたとします。
それは人間関係の中で、夫婦の関係で、お互い口も聞かないと。私読んでても嫌な気分になるですね。
妻が口を聞いてくれませんと何年も何年も一言もっていう話ですよ。
ほとんどそれで一緒に生活するとか、何なんだろうって思うぐらいなんですけど、そういうことがどこかのご家庭では起こると。
こうなった時、ここで起きてるのはもはやカウンセリング以外の何者でもないと私は思うんですね。
離婚してしまうんならそれはカウンセリングではないですね。
しかし、相手との関係がどれほどひどいものになったとしても。
つまり、カウンセラーとクライアントの関係、親と子の関係、奥さんと夫の関係、ほのた諸々、先生と生徒の関係、先輩と後輩の関係が、親友の関係が、最悪のものになったとしてもなお続けるというのであれば、そこにカウンセリングというものが発生する。
カウンセラーがいた方がうまくいきやすいのは、その二者がもう、二者だけでいくとどうしようもなくなっているからこそ、第三者がいると望ましい。
その第三者は当然、人間関係に関するプロフェッショナルであるに越したことはないというか、例えば夫婦カウンセリングをやるという方の場合、私はそれを知りませんし、知人にもそれをやっている人はおりませんが、
しかし、夫婦カウンセリングをやるという方は、間違いなくほぼ最悪の夫婦関係を取り扱えなければどうしようもない。
最高にうまくいっている夫婦がそこに来る派とは、なかなか考えにくい。
来たとしても、仕事としては非常に何をやっていいのかわからないくらい難しくないものになるでしょうけれども、
最悪の、例えば不倫の現場を見ちゃいましたとか、でも離婚はしたくないですとか、そういった場合、あるいは夫に金が全くありません。
働く日も全然ないです。私めちゃくちゃ働いていますけど全部取られますみたいな、こういう場合ね。
でも続けていきたいっていうことを言うならば、言うからこそ、そういう人であるからこそ、夫婦カウンセリングってものが必要になるわけじゃないですか。
その場合、いやもう別れた方がいいですよっていうアドバイスであれば、それをやる必要はないでしょう。
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誰でも言える。私でも言えますよ。
そんな人と別れた方がいいよっていうのは、普通のそこらへんの、その人の知人なら言えますよ。
その関係などに続けたいというからこそ、あるいは少なくとも別れたいのかもしれないけれども別れられないというからこそ、そこにプロフェッショナルが登場する意味があるわけで、
これをやるということは必然的に人間関係をやるってことになるんですよ。
その人間関係を突き詰めて考えた人の創始者の一人がフロイトだと思うんですが、
フロイトを読むってことはつまり人間関係の一番危うい部分を理解することにつながっていくはずなんですね。
それと仕事が関係あるかと言えばそれはもう絶対あるでしょう。仕事というのは仕事の関係者との人間関係ですから。
私、この仕事をやりたくないんですということの意味は、その仕事をやってほしいと言っている人との関係がうまくいってないんですって、問いも直さずそういうことだと思うんですよね。
で、うまくいってないことはたくさんありますよね。
私がJさんとの仕事をやりたくないってことは、私とJさんとの人間関係がおかしくなっているんですよ。
ものすごく良好で、何でも言いあえて、どんなことでも通過で、常に彼の望みなら何でもできることなら全部やりたいですっていうときは、仕事するのが福になるって言ったって、福になるんだったら言えばいいじゃないですか。
ちょっとこれは苦しいから違うのにしてよ。めちゃくちゃ関係が良好ならば、この人のことが言えないってことはありえないですよね。
だから関係が良好かどうかという、関係が良好でないからこそ仕事が辛くなるというのが私の過程であって、この過程は大筋外さないと思うんですよ。
もちろん特殊な例外はあります。
依頼してくれる人がほぼ人間とは言えないとか、AIとかね。しかもそのAIだということかどうかすらはっきりせず、関係というよりはその仕事自体がものすごく辛いみたいな。
これだって結局のところは遠く人間関係なんだと思うんですよね。現代的ではありますが。
そこでカウンセラーが敗在してくるのは、AIとその人の関係じゃないと思うんですよ。やっぱり人間と人間の関係だと思うんですよね、最終的には。
ということがあるから、私は人間関係に向かう以外の手はないと思うんですね。
これがこんなに単純ではなく、もっともっとずっと作装していくんで、より一層綿密にそれを検討していく必要があるんだけど、ただ、カウンセラー最初からアドバンテージ、有利な立場に立ってるんですよ。
夫婦がニッチもサッチもいかなく、どれほどなっていても、第三者であるカウンセラーは究極的には気楽な立場なわけですよね。
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どうやって続けていけばいいんだろうって、当事者ほど深刻におぞましい気分で頑張る必要はないわけですよ。
口聞いてくれない奥さんを相手にしているのはクライアントなのであって、カウンセラーはその人と会う時間が終わって家に帰れば口聞いてくれる奥さんがいるわけですよ。
このアドバンテージはある。だからこそやれるんですよ。
二人ともニッチもサッチもいかなくなっていたらですね、できなくなってしまいますよね。
人のカウンセリングしてる場合じゃないからね。
でも実際にはそういうことがないわけじゃないから、この仕事には、だからスーパーバイザーという存在が仮定されているんでしょうね。
これを持たないノラカウンセラーは実は立場として一つ不利な立場にいるんですよ。
ノラだってスーパーバイザー、スーパーノラバイザーがいるってケースは僕はあると思う。
で、この中で特にカウンセリングとして、技法としてというのか、派閥として、なぜ私が精神分析を選択するのかというと、
取り扱える範囲が一番めっちゃ広いからなんですね。
そして取り扱える状況も最高級に広いからなんですよ。
実質そこなしと言っていいと思うんですね。
つまり口も聞いてくれないどころか、そもそもクライアントさんがやっては来たが口も聞かない。
何かを言っても全部に首を振るだけ、一本は違うのとなくだけとか、ものすごく不適されてるだけとかいうケースでも、
このぐらいのケースは軽いと言われるかもしれませんが、軽いも重いもないと僕は思うんですけどね、ある意味では。
でもそういうのの一番難しくなったケースでも取り扱えるのが分析だと思うんですよ。
そういうふうに僕が考えるのは結局勉強するっていうことを考えてみたときに、
認知行動療法を勉強することなら、私にも普通に一応やれたんですね。
私受けましたし、実際アメリカで勉強もしましたし、その種の本も結構読めました。
だって一人でもできるようになりましょうみたいなことは各認知行動療法課の人だって結構いらっしゃいますからね。
ということはつまり普通に考えて、その本誰が読むかわかんないんだから、子供が読むかもしれないんだから、
そういう読者さんでも理解して自分でもやれるっていう関係で話をされてるわけじゃないですか。
一つここで絶対に言えることは、言葉は通じるっていう前提が一応あるってことですよ。
これはあらゆるCBTが喋ってもくれないクライアントが扱えないと言ってるわけではないですよ。
しかし一応の基本大前提として言葉通じるっていうのがあるわけです。
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そして良い行動を良いと見なせる人だっていう仮定も、認知行動療法には僕はきっとあると思うんですよ。
だから一日中ギャンブルしているよりはちゃんと働いた方がいいんだっていう大前提を共有できるってことですよね。
つまりそれは最初から社会適応性が低くはないってこと。
もちろんいやでもついギャンブルしちゃうんですって人が絶対CBTに向かうってのはあると。
しかしその人は心の底ではギャンブルをやめてきちんと働きたいと思ってるわけですよ。
この辺から微妙な話が始まると僕は思うんですよね。
例えばあのあれですよ。
ロコン・ジョー・ガエル娘のお父さん。
ロコン・ジョー・ガエル書いた人は明らかにあの人はそう本音のところで思ってるのかもしれないけど、
実際は漫画書くのやめて速攻パチンコ行っちゃって、
核変が起きてるところに娘さんがお父さん原稿書いてると言うと激行する。
ブチ切れてもはや表現してしまうっていう人なんですよ。
この人本当にギャンブルをやめて仕事した方がいいと思ってるかそもそもって言うと、
思ってないような感じがあの漫画を読むとしちゃうわけですよね。
分かんないですよ。もちろんね。
本当のところは分からない。
でも本当のところは分からないっていうのをどこまで取り扱っていくか。
これつまり人間関係じゃないですか。
だからCBTではどう扱うのか。
CBTは何をするのかを学ぶということは、
つまり人間関係を勉強すると。
この場合はお父さんがそういう人だったらどうしようっていうのを学ぶ必要がある。
あの漫画でも学べる。
だから私はしばしば漫画というものを題材に取り扱います。
漫画はいろんな意味でいろんなことが書かれてますからね。
私の本の表紙を書いてくださった永田カビさんも、
アルコール依存になって病棟に入られましたけど、
そこを抜け出しちゃいますよね。
抜け出すというすごい話があるんですよね。
で、天敵のなんかを引きずりながら病院を出ていくと。
これやっぱりものすごく嫌なんでしょうね。
病院にずっといるっていうのはね。
何かあるんでしょうね。
その永田さんにとっては。
そういうことを学ぶってのは、
僕は人間関係を学ぶってことだとやっぱ思うんですよ。
永田さんにとって人間関係というのはさぞ何かお辛いものであり、
またああいう人と付き合うということの難しさみたいなものも
ここには含まれている気がするんですよ。
もちろんあれはいわゆるアルコール依存の病棟だから、
ちょっとカウンセリングを勉強するというのとは違う。
でもここにカウンセリングがよく出てくるというのは確かだと思うんですよ。
いろんなカウンセリングがありますが、
それについて知っていくということは、
つまり人間関係について知っていくと、
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より理解を高めるということですね。
理解に行き着くってことはできないので、
全ての人との関係を先に洗っておくことができるはずがない。
だからどんな人が来るかわからないんだけども、
どんな人が来るかわからないという前提に立つならば、
難しい人がやってくるという前提を持てれば持てるほどいいと思うんですよ。
そうすると私は結論として、自分の結論としては、
一番難しい人が結局カウンセラーに会いに来て、
そこに意味があるのは、
一番難しい人にとってはやっぱり僕は力動だと思うわけです。
字も聞きません。というかもう固まっちゃってます。
1時間の沈黙です。みたいな人のところに、
アドバイスってもう意味をなさない感じがするじゃないですか。
それこそそんなに難しいと思われてないかもしれませんが、
接触障害みたいな柔度のですね。
なんかもう私別に何も問題ないから、
女の子はみんな痩せたいんだからって言って、
あとはずっと黙ってるみたいな。
そしてこう応答したり過食をしたりを繰り返しているっていう人がやってきたときに、
アドバイスってなんかダメな感じがしますよね。
普通に人生相談で、じゃあアドバイスします。
あなたの心の中に傷ついている小さな女の子がいるんだから
慰めてあげましょうとか言っても、
ふざけんなとか言われて終わっちゃう可能性が、
僕は高いと思うんですよね。
そんなことを言ったって。
それはアドバイスになってないだろうって感じがする。
お母さんが悲しむからそんなに吐いたりしちゃダメだよって言っても、
やっぱふざけんなって言われそうな感じがしますよね。
つまり素人的に考えても、
このアプローチでうまくいくとはとても思えない。
そうしたときに何ができるのかって考えていくと、
というかそもそも何をするんだろう、
何を喋るんだろうって考えたくなりません?
私なるんですよ。
何でなるのかわからないですよね、私は。
でもなるんですよ、私は。
それを実際にどうやっているのかをビデオで見られたら
絶対僕は見ちゃいますね。
これがカウンセリングを勉強したいというモチベーションなんですよ。
たぶん。
のぞき見趣味的だって言われれば、
そういうところがないとは言いませんが、
でもやっぱり私は別にのぞき見したいわけじゃないんですよね。
どうしてそれが有効なのかを知りたいんですよ。
ということはつまり、
何がその種の人にとっての心をそうまで閉ざしたくなるわけであり、
何がそういう閉ざした心にとって、
どういう働きかけがどういう意味を、
例えばネガティブな意味だとしても持つのかといったことをやっぱり知りたくなるんですよ。
これを知りたくなるということが、
つまり自分の心の閉ざした部分に対しての働きかけになると僕は思うんです。
そういうことをしていくことで、
仕事の関係者に、別に僕が腹が立ってないけど、
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じいさんにむっちゃ腹が立ったみたいになったとしても、
それって心を閉ざしたくなるってことじゃないですか。
そのときどういう働きかけが自分にとって意味があるんだろうって考える。
きっかけにはなる。
それで仕事に取り組んでいく気がしてくる。
妻が口を聞いてくれませんの奥さんは、
でも口は聞かないけど家事はやってるんですよね。家事も育児も。
でも絶対に、最後になれば分かるんだけど、
絶対に旦那さんに向かってめっちゃ腹を立ててるんですよ。
だから離婚したいわけだけど、離婚できない理由が家庭内別居の限りなく近い状況ですよね。
心を閉ざしてるわけだけど、
でもそこにはやっぱり働きかけてほしいという気持ちがゼロってことは考えにくいんですよ。
ゼロの日もあるかもしれないけどゼロじゃない日もあると思うんですよ。
で、お、旦那さんいろんなことをするんだけど全部跳ねつけられる。
私これは絶対カウンセリングだって思うんですよね。
絶対そうだと思います。
この旦那さんはすごいいいことやってるなって思うんですよ。
例えばどういうことを奥さんにしてしまって、
どういう目にあっててもこれほどカウンセリング、つまりケアをやってるってことは、
将来この旦那さんの、これを全部やったんならってことなんだけど、
この旦那さんの自分自身の心に強烈に効いてくる日が必ずやってくるんで意味はあるんですよ。
奥さんは口を聞いてくれなかったかもしれないけど、
そこはまあそこは辛いんですがきっとめっちゃ辛いと思う。
私じゃ到底耐えられそうにないですが、でもあれは意味があるんですよね。
両方にとって間違いなく意味があるんですよ。
私あれはもはや夫婦関係というよりはカウンセラーだって思うんですよね。
で、ああなった場合でもこれならまだ認知行動両方なのかもしれないというか、
いいんですよ、何でもいいんです。夫婦カウンセリングなのかもしれない。
でも私はこれだったら精神分析の方がいい気がする。
そこまでこじれちゃったってことなんですね。
宗教でもいいのかもわかんないんだけどね。
宗教はこの際ちょっとやっぱ置いとこうと思うんですよね。
勉強するのが大変だからね。宗教ってやっぱりね、説明がしたたらずだと思うんですよ。
究極的には近いことを言ってることもあるんだけど、本当はどう言ってるのかよくわかんないんですよね。
信じましょうみたいなところがある。
まあでもあるんですよ、これは。
CBTだろうとポストだろうと夫婦カウンセリングだろうときっとある。
信じましょうになってくるところはあるんですよ。
信じられるまでのナラティブをどう繋いでいくかみたいなところが絶対あると思うんですよ。
ただ僕はその口を聞かないとすっげー怒って、しかも怒ってること否認すらするっていう、
自分にしてるだけなのか、相手にしてるだけなのか自分にもしてるのかちょっとわかんないですけど、
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怒ってないよって言うわけですよ。
怒ってるんだけど、これをいや怒ってるじゃんって言うんだけど、ご主人は当然ダメですよ。
それはアプローチとしてはダメですよね。
アプローチとしてはダメだが、このアプローチをするってことはいいことだと僕は思うんですよね。
将来自分にとって絶対いいと思う。
だってあれ、黙って出て行ったってもうおかしくないシチュエーションなんで、
黙って出て行かないってことが必ず持ちこたえる力をあげてるんですよ。
持ちこたえる力っていうのがやっぱり、これはどんなものにも出てくるかもしれないけど、
僕は分析に最も出てくる言葉だなと思うんですよね。
まずは持ちこたえるんですよ。
持ちこたえない限り考え始めることはないですからね。
で、あのご主人は考え始めてみる。
あれをやったからなんだろうか、これをやったからなんだろうか。
これがKですよ。
Knowing、知りつつあるということ。
何も分かってないかもしれませんが、でも知ろうとしてるじゃないですか。
持ちこたえてから知ろうとする。
何も分からないかもしれませんが、それはいいんですよ。
大事なのは知ろうとすることなのであって、
赤ちゃんはなぜ泣いているんだろうか。
奥さんは泣いてるのと同じなんでね、ああなったら。
なぜ泣いているのかを知ろうとする。
Knowingなんですよ。知りつつあろうとするんですよ。
めちゃくちゃアリさん亀の歩みですが、いいんですよ、そんなこと。
歩みが早いかどうかは関係ないですね。
どっちに向かって歩いているかだけが僕は大事だと思う。
これはやっぱり修行とかではないから、やっぱり知ろうとする、理解しようとする。
相手のことを分かろうとする。厳密に言うとその関係を分かろうとするってことですよね。
だから人間関係を学ぶことになると思うんですよね。
心を閉ざしている上司っていらっしゃるでしょう。
仕事の関係している人に。
心を閉ざしている取引先もいらっしゃるはず。
それはどういうことが起きて、どうして心を閉ざしているのかを、
自分の責任ではないかもしれないが、自分の責任であるかもしれないが、
いいから知ろうとするってことですよね。
愛のようなものとか憎しみのようなものを前面に出すのではなくて、
理解しようとしつつある。
理解しようとするっていうか、理解しつつある方向に向かっていく。
理解することはできない。
理解してしまったらそれは多分嘘になってしまってマイナスKになる。
この奥さんはこういう子供っぽい人なんだみたいなマイナスK。
知識であるものによって理解することを断念するんですね。
知識をそこに張ってしまうって感じですね。
知識が目隠しになってしまうんですよ。
その知識を持って理解したことにして、理解する努力を放棄するって感じですね。
それがマイナスKですね。
あるいはもうダメだ、この奥さんのことは分かんない。
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そう思いたくもなると思うんですけど、これがノーKですね。
だから、こんな不適されている接触障害の人のことはもうほっとこうって、
カンセラーはそういうことを言っちゃダメじゃないですか。
だからノーKとかは許されない。
マイナスKももちろんダメなんですよ。
若い女の子はこうやってダイエットこじらせることもあるよねっていうのではダメなんですよ。
そういう理解したことになる言葉を使って理解しようという努力を途中で捨ててしまってはいけないんですね。
そうするとそこで全てがストップしてしまう。
それだったらクライアントさんが来なくなったことと結果としては同じなんだと思うんですよ。
まあでもこういうふうになることも含めて、
だからそこがやっぱり精神分析で粘り強いなって感じがするんですよね。
いやもうカンセラーもマイナスKになるよねっていう、
ミニコット的に、ミニコットなのかわかんないけど、
失敗するよねっていう、失敗するってことも大事だよねっていうような、
そこで終わらせないんですよね。
無理やりでも前進しようとする。
そこのところの異常な、なんていうのか、
行き詰まり感と発泡塞がり感とさらににじり寄ろうとするところに、
私は精神分析ってものを期待したくなるんですよね。
解釈はやめないみたいなね。
解釈だったらアドバイスができず、介入もできない。
もうダメだ、これはもうお母さん呼ぼうみたいな、
あるいはもう食べるように強く説得しようみたいな、説教ですよね。
だからお前、黙ってないで口聞けよみたいなことを言うっていう、
これがまあ介入だと思うんだけど、
あるいはもうなんか子供を使って、
そんなんだと教育に悪いからとかなんとか言って頑張るっていう、
介入ってのもあると思うんですけど、
つまり介入ってのは、それよりさらにまだできる可能性があるわけです。
介入すれば相手が口聞くと思ってるってことは、
可能性が十分検討されてるじゃないですか。
アドバイスっていうのは、そうやって黙ってると、
体に良くないよとかなんとか言うっていう、
マイナスKはいっぱいこういう時出てくるんですよね。
アドバイスにせよ、介入にせよ。
なんとかしないと、動かさないとってことで、
動かせるっていう可能性を信じていないとできないことですよね。
少なくとも本気にやってられないと思うんですよ。
でもまあ無理でしたと。
奥さんは怒ってないよと言ってもまだ黙ってるっていう状態が永遠に続く。
いつまででも続く。
でもできることがあるんですよね。
解釈なんですよ。
つまりこの沈黙は、
こうこうこういうことだと自分は思うと言い続けること、
考え続けることができるんですよ。
本当なことはわからないけど、
あなたは黙っていることによって、
私を罰しているんだと思うってことは言えるじゃないですか。
これに対して何を言えとは言ってないし、
どうしろとも言ってない。
口を聞けとも言ってないし、
子どもの教育上良くないからそれをやめろとも言ってない。
離婚するとも言ってない。
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離婚しないとも言ってない。
解釈は続きますよね。
だから私は解釈をする人になり続けるんだみたいな、
藤山直樹さんの読んだ時にそういうことなんだなって思ったんですよ。
もう本当にどうにもこうにもできない人間関係が
そこにあった時でもできることってこれしかないよなっていう。
一言で言うと感想を述べるみたいな感じですよ。
で、松木さんがよくおっしゃるところのその感想が
ちゃんとしたものでなきゃいけないってことなんですよね。
松木さんは解釈の中身にこだわるっていう感じのことを書かれるんで。
だからただただあの沈黙が起こってるんだと思うだけじゃダメなんですよね。
そこで陳詞もっこしないとダメなんですよ。
考えるってことはつまり物思いにふけることになりますよね。
あらゆる可能性を探んないとダメですよね。
シャーロック・ホームズみたいな世界なんですよ。
でも僕は自分がシャーロック・ホームズほど賢くないので
特に男女関係に関してはバカなんで
陳詞もっこしないと大していいこと考えつかないんですよ。
そこで総力を上げるわけですよ。総力を上げる。
意識だけで考えたり言語だけで考えても不十分だから。
この人のこうなった気持ちがどこまでもはわからないので
これでどうすりゃいいんだろうっていうのを
無意識を使って総動員して考え。
そうするとまるで今起きている現象に対して
自分は夢の中に無意識使ってるんで
半分まどろんでるような状態ってものがそこに浮上してくるというか
自分の意識状態がそうなってくる。
ある種混濁したようなふわふわっとした感じが浮かび上がってくると
松木さんは述べていてそういうことが起こるわけです。
なんかもうよくわかんない。
一体なんでここにいるんだろうみたいなことも含めてですね。
それこそ自分が小さな頃から生まれたり
親が生まれた話みたいなのがわーっと上がってきたりして
急に太陽系がどうしてこういう風になってるんだろうとか
ビッグバンとかそういうものまで出てくるんですよ。
こういうビッグバンがあってこういう大きな宇宙の中で
どうして今ここで私とホモサピエンスのオストメスは
黙って一緒にいて怒ってるんだろうとかそういうようなことですよね。
どういうことでもいいんですよ。
要するに無意識なんだから自分が知ってるあらゆることがそこで
上がってくるわけですよね。
これをただやるっていうことに意味を認めているものが
僕は精神分析の本でしかなかなか見ないんですよね。
わかんないんですよ。
CBTだってポストだって夫婦カウンセラーだって
こういうことをやってるのかもしれないけど
僕はそういうのをやってるというのを読んだことがないんです。
時々自我心理学では出てくるんですよ。
なんだか熱に浮かされたような気分になってきたみたいなことが
割と通俗的な本の中にも出てきて
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そういうのが私を捉えるんですよね。
そうか、やっぱりカウンセラーも熱に浮かされたような気分に
こういう時になってんだなみたいな。
で、私がそういう風になるとすると
やっぱり人間関係の中で怒るんですよ。
これをどうにかしたいって時に
でも相手はものすごい怒って
どう考えてもこの人は円を切る一歩手前だみたいな
どうすりゃいいんだろうって時に
考えていくと
もう考えられない領域に入っていくしかなくなるんですよね。
なんだかこう空想してるのか夢を見てるのか
目の前のものをただ見てるだけなのか
ぼーっとしてくるんですよね。
ぼーっと。
うちの娘がですね
本当に何をしてもギャン鳴きが止まないっていう時が
しかも妻がたまってもいない時にそういうことがあって
一回だけなんですけど
2歳ぐらいの時に。
言葉も喋れなくはないんだけども
喋ってなくないわけですよ。
うっほーって鳴いてるだけ。
そして部屋中をこうガンガンガンガンガンやって
あれ、悪いおっぱいと戦ってるんだけど
分かんなかったのね、私もね。
本当に怒ったり怒鳴ったりいろんなことをしてるうちに
疲れ果てて
ぼーっとして
寝ちゃったのか起きてたのか
僕自身がね。
分かんないんだけど
でも娘がそんなに難ってるのに寝るわけにいかないから
起きてるわけじゃないですか。
ぼーっとしてた時に
なんか幻覚を見たんですよね。
そういう経験があったんですよ。
で、その幻覚をずっと追ってるうちに
その幻覚はうちの娘が
あの走り回ってまだ走れる年ではなかった
走り回ってる幻覚だったんですよね。
なんなんだろう走りたいのかなこの子で
なんで走ってんだろう
走れるったんだっけみたいなことを思ってたら
娘が泣きあんだんですよ。
僕はこういうことを書いている
一番出てくるのが精神分析だけだと思ってるんですね。
他の本に書いてあるということがありましたら
それを教えていただけると嬉しいです。
何でもいいです。
サンセリングの技法は何でもいいです。
最近ベテルの家に関する本を読んでるんですけど
あれは自助グループ
非常に精神障害の人とか
そういうところの人と一緒にやっていく
ある種の自助グループなんですけど
そこで出てくる話ってのは
これに限りなく近いなと
何やってるのかよくわかんないんだけど
うまく一応何とか回ってるんだよねっていう状態の
をかなり読ませる形で書いてくださってるんですよね。
私はああいうことをやりたいわけでも
ああいうことをやってるわけでもないんですけれども
でもこれを知っておくってことが大事だと思うんですよね。
実際には私のこの個人セッションの中で
そこまで言葉全然通じませんみたいな人とか
全くしゃべりませんみたいな方はいらっしゃらないから
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ここまでいらないだろうって思われるかもしれませんが
意外とですね
でもね僕らは普通に生きてても
この独特の発泡ふさがり感というものの中に
閉じ込められるっていうことは意外とあるんですよ。
意外と意識の上でのやり取りだけでことが足りるとは限らないんですよ。
たとえ神経症水準だったとしてもですよね。
健常者水準だったとしても
やっぱり意外と
こんなところまで行かなきゃなんなくなることはあるんですよね。
何に起きられませんみたいなケースであってもそうなんですよ。
もう起きたくないんだと。
ただそれだけなんです。
でも起きなきゃならないんだと。
それはそうですよね。
どうしたらいいんだろうってことになったときに
どうしたらいいんだろうな
これとさっきの娘がギャン泣きしまくって
どうしたらいいんだろうな
お前って本当どうしてほしいわけ
みたいな感じになって
しかもそんなことを言っても娘は何も答えちゃくんない
ただひたすら泣きまくって怒ってるだけなんで
どうしたらいいわけって感じの時に
意識で考えてても仕方なくなってくるわけですね。
もはや意識で考える上での晩酌はつきましたと。
別に普通の親子ですからね。
娘が障害を持ってるわけでも
私が障害を持ってるわけでもない。
でも、そしてそこそこうまくやってきてる親子でも
こういうことはあるわけですよね。
その時にこの物思いにふけるっていうのは超大事だなと。
考えてみれば全てのお母さんおそらく
一度や二度、つまりそれはものすごい数の物思いが
この世にあったということで
それをやっぱり取り扱ってる。
物思いにふけるのが嫌だから僕らは
ついつい行動に訴えたり
カフェインに頼ったりしようとするわけですよ。
起きられないどうしたらいいんだろうって考えても無駄だって思って
覚醒をするためのカフェインを飲むとか
濃いコーヒーを飲むとか
熱いシャワーを浴びるとか
そういうことをすることによって
何かを捨ててしまうと思うんですよね。
本当の問題というものが
何て言えばいいんですかね、そこにあった
どうしてもどうにもならない
生身の私ではどうにもならない
葛藤みたいなものを
振り捨ててしまうことになってしまうと思うんですよ。
私はそれが嫌なんですよ。
もうあらゆる意味で
あるタスクを前にして
これをしなきゃいけない
絶対した方がいいというか
しないでは済まされない。
仕事辞めるんでない限り。
しかししたくないって時に
ありとあらゆることをまずは考えますが
言葉で考えられる水準で
しかしさ、それを全部考えてみてもなお
事態が変わらない
奥さんは口コキ聞いてくれない
娘は泣きやまない
起きられない
っていう状態が続いているときに
こう
何て言えばいいんですかね
宇宙空間のことに思いを馳せるわけです。
関係ないかもしれないし関係ないんですけど
関係あると思ってしまうと
多分にスピリチュアルみたいになってくんで
あるいはオカルトになっちゃうので
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関係がないんですよ。
関係ないんだけど
わけあって、だってわけもなく
何かが思い浮かんでは来ないんで
きっと何かわけはあるんですよ。
どんなわけがあるのかを
なお突き詰めて考えていくと
いよいよ現実離れしていって
本当にこう夢空間みたいになってくんですよ
その空間が
ここに何かのヒントがあるんですよ。
しかし
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