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  2. 【GMV 497】絶対大丈夫な根拠
2021-11-16 33:40

【GMV 497】絶対大丈夫な根拠

心に母親がいるから
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日、クロストークという、出版記念の技術評論者さんとの対談をしました。
夕方、夜ですね、オンラインで。
持ち時間が最初に、自己紹介を含めて10分というのがあって、
10分でですね、毎朝ここで喋っているような、グッドモーニングバイオスじゃないな、甘えみたいな話をやりきれるかどうか、
はなはだ難しいかなと思っていたんですけど、スライドぺらいちでやってみたら、ちょうど10分だったんですよ。
あ、なんとかなるんだなと、そんなに早口で喋っていないと思うし、そこまで飛ばさなかった気もするので、ほとんど省略しましたけどね。
なんとかなるんだなと思った次第です。
その時に、いくつか思いついたことがあったんで、今日はそれを話題にしたいんですけど、
その前に、明日ですね、ぶっちゃけ相談の収録があって、もうちょっとご相談をいただけると大変ありがたいかなと思います。
で、もう、私が作っちゃってもいいんじゃないかと思う時もないわけじゃないんですけど、
やっぱりそれを今まで、実際それ全く一回もしてきてないんですよ。
だから、危機的な状況があったんだけど、一回もせずに済ませてきてるんで、よろしければですね、やっぱり生の声が欲しいかなというふうに思いますので、
何かあったらお寄せいただければと思います。
グッドワイブス公式ウェブサイトというのがあるので、そちらにフォームがあります。
名前もメールアドも何にもいらないので、匿名希望さんでもいけますから、
要するに相談事を投げてさえいただければOKというフォームなので、お気軽にご利用ください。
で、そうそう、昨日ですね、この話には前段がやっぱりありまして、
甘えるというのは甘えさせるという表現を取るんですけど、要するに他人を甘えさせるというのは普通ですよね。
で、私は昨日ペラ1の中に自分の心の中に、この番組ではもうお馴染みですけど、母子というセットが構造としてあると。
これ内的母親対象とかっていう6文字熟語もあるんですが、それをもう少し簡単に説明しちゃったということなんですよ。
子と母というセットがあると。で、その母はどこにいるんだという疑問を投げかけられることが数度ありまして、
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このどこにというのは、ちょうどお魚が水はどこにあるのっていうような話なんですよ。
これはもう答えられないという感じなんですね。
心の中にあるとか、極小論みたいな言い方もあるんですけど、
例えば、私たちはよくフロイト以来なんですけど、心には無意識という領域があるみたいな言い方をしたとき、
それはどこにあるんだと問われても非常に困るわけですよね。
無意識のうちにこんなことをしてしまったって僕らは言うけど、その無意識はどこにあったんだという議論はあまりなされないじゃないですか。
そういうことなんですね。
で、この無意識の中の非常に重要な機能を持って、そういう存在としてあって、だから極小でありながら力を持つという言い方をする。
ここに精神力動学という言い方を昔、古くは精神分析学か精神力動学みたいな言い方をしていた。
力なんですね。力度を持っていて、しかもファンクション、機能もあると。
だから時々言われるんですけど、藤山先生という方がよく強調されていることですが、
内的対称は表彰じゃないって言うんですよね。イメージじゃないと。
だから昨日私も対談させていただいた堀田さんという著者の方の顔を覚えてるんで、過労死でイメージがあるんですけど、堀田先生は僕の中の内的対称には全くなっていない。
顔を昨日過労死で覚えられたというだけ。これはイメージなんですよ。
イメージと内的対称は全く違うものなんですね。
内的対称になっているような人ってのは、まずは親ですよね。
親だけじゃなくて、たぶん兄弟とかもいればなっていると思うし、何ならすごくインパクトに残っている、非常に強い心理的影響を与えてきた先生とかもなっていたり、
おじおばとかもあるでしょうね。私の場合には娘とかもそうなっていると思うんです。
これが内的対称というんですね。中でもこれらは、どこに母がいて、どこに父がいてっていう、そういうものではないので、
心の中の何らかの機能として、あるいはエネルギーとして、パワーを秘めたものとして、
ごめいているという言い方はちょっとあれなんで、活躍しておりますよということなわけですよ。
夢に出てきますよね、内的対称は。そんなの本当にいるのかと言われると困っちゃうんですよ。
エビデンスはどこにありますかと言われて、この内的対称は大脳神秘室のこの辺りを刺激すると誰でも蘇らせる、意識するんですとか、
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そういうことにはなるかもしれないし、ならないかもしれないんだけど、ちょっとこれはですね、そういう話とはまた違う気がします。
どこには困るとしても、どのように起動すればいいのか、これはもう私は最初ちょっと困ったんですけど、
昨日ですね、喋っている最中に不意に当然そうだって思ったことがあって、
自分の中の子供、だから母というものはですね、母だけで出てきてないんですよ。
必ず自分が幼児だったときの子供、そのセットなんですね。
ケアされていた自分とケアする母親と、これがセットなんです。
ここが非常にですね、僕はポックメイキングだと思っておるんですけども、基本ウィニコットっていう人の発想なんですよ。
ここが僕らが非常に現代的に教育されているせいで分かりにくいところなんですけど、
子供は無力じゃないんですよ。なぜなら子供は常に母と一緒だからなんですね。
でもそれは子供無力じゃないですかってそこで言い張るというのは、
一人一人をばらさなければ気が済まない意識の表れってしかなくて、
母と子はセットだから、セットで機能していれば無力というものではないんですよ。
これは一人きりでいるような幼児は存在しないっていう言葉と全く表裏で、
生まれてくる前から母と子は一体だけど、生まれてきた直後も一体で、
一体である以上は一体なんですよ。ばらして考えちゃダメなんですね。
ヘルプレスネスというのは、頼りなさというのは子供だけにしちゃうから頼りないわけですよ。
でもそれをやっちゃったら我々だって変わらないんですよ。
一人で土星とかに行ったらすぐ死んじゃうというそういうことをして、
機能しないものをヘルプレスネスとは言わないんですね。
母がついているのは必然であるというふうに考えた場合、
子供だけを取り出しちゃダメなんですよ。
そうすると心というのも子供の心というのはないわけですよ、この段階では。
母子の心なんですよね。母子で一つなんですよ、文字通り。
そういう時期があるんですって話なんですね。
この時には母子で機能すればいいのであって、父子でもいいけれども、
看護師と子供でもいいんですけど、あるいはおばと子供でもいいんだけど、
とにかくこの二者で機能すればいいのであって、
二者で十分生きていければこれを万能と呼ぶんですね。
この時まだ子供には心はないわけだから、厳密な意味ではですね。
母子というセットの心、あるいは父子というセットで心なんですよ。
この場合、面倒くさいので母子に統一してあるわけですね。
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母子の心なんですよ。母子の機能なんですよ。母子として生きるわけですね。
だから二者をもって一者なんですよ。
どっちかだけっていう考え方、この場合には意味をなさないというふうに、
そういうふうにみなすわけですね。
ここでロイ・タッケオさんという日本の人が、
その時に甘えというものが母子の間を行き来しているというか、
包み込んでいるというか、機能しているというか、そういうふうになっていて、
これを日本社会は社会の純活用的なものでもあるし、
もっと大事なものとして日本全域に機能させるような、
そういうやり方でやってきたんであるというような話をしているわけですね。
だからここでも子供だけが甘えるとかではないんですよ。
子供と母親は同時に相互に行き来するものとして、
甘えというもののやり取りをしているみたいな。
それは同時に甘えの中にいるみたいな、そういう認識なんですね。
だからもう本当に魚と水の関係というか、
だからもう本当に魚と水なんですよ。
その間には相互に甘えがあるというのは、ちょっとこの場合は変ですが、
そんなイメージなんですね。
だから甘えというのは、頼りない方が頼るべきものに甘える。
これも甘えなんですけれども、基本的にそこにはある種の必然性があって、
情緒的なやり取りをそこで働かせることができるわけです。
昨日喋って、これがやっぱり一番僕の感じでは近いなと思ったのが注射なんですよ。
痛くないって言うじゃないですか。
痛くないはつまり甘えを起動させているわけですね。
生まれた時や生まれる直前は母子で一体で本当に心はないんだけど、
この甘えたいという、甘えなければ生きていけないという、
呼吸がギリギリですからね。
子供をすぐ喉をつまらせるような感じになりますから、水とか飲むとね。
だからトントン鳴るわけですよね。呼吸すら助力がいると。
こういう動物は珍しいですよね。
生まれてきてすぐ走り回り出す、すぐじゃないんだけど走る馬みたいなのもいるのに、
しばらくは寝返りも打てないわけですよね。
寝返りを打つと何が起こるかというと、手が体の下敷きになるので、
この手を抜くという動作ができないんですよ、赤ちゃんは。
そもそもひっくり返るということもできないので、
という時にくるっとやってあげたりしないとですね、背中がただれちゃうんですね。
そういうようなものすごい無力ぶりなんですよ。
でも代わりに人間の場合は、つききりで成人の側がいるという、
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このセットで生きていくようにできているから、それでいいんですよ。
ここことさら無力だと、一社だけを取り出してきて無力だっていうのは、
例えば駒だってそんなことを言えば無力なわけですよ。
何だってそういうことになってしまう。
必然的に整えられた環境の中に落ちなければ、うまくはいかないわけじゃないですか。
魚はいきなり陸に生まれたんではすぐにダメになってしまうんですよ。
やっぱり水の中にいるから、特に海水魚は海水にいるから、
ここをヘルプレスですとは言わないんですよね。
自分で自助できない存在として弱いというふうにみなすのは、何かナンセンスなわけです。
だからここに当然うまくいくようになっているからうまくいくというふうに捉えておいて、
そうすると母子は一体だからうまくいく、一体だから万能だというふうに考えておいて、
ここに心の原型を見るわけですね。
これがそのまま何度も何度も甘えさせるということをやっていれば、
そのうちこの甘えさせるという機能そのものが自分の心の中に備わるわけですよね。
機能するようになるわけです。これを自律と言うんですよ。
だから注射は痛くないと最初は言われているけど泣くわけじゃないですか。
泣くんですよ。痛いか痛くないか重要な問題なんだけど重要な問題じゃないわけですよね。
痛いから死んじゃうということはないわけだから。
痛いけれどもよく頑張ったねとか言われるわけじゃないですか。
あれを繰り返しているうちに自分でそれができるようになると、
そうすると子どもは泣かなくなるわけですよね。
私、記憶している限り2歳半のときに泣く前とした記憶があるんですよ。
泣かないというのはスキルじゃないですよね。
泣かない知力とかでもないですよね。泣かないのは情緒の問題だと思うんですね。
泣いてもしょうがないと思うか、それは様々ですけど、
それをスキルとは呼ばないと思うんですよ。
つまり泣かなくなるということは情緒的な、
この場合心の中の母親がケアしてくれるから、
いい子いい子してくれるから泣かなくなるというのは、
それが自律であるとするならば泣かなくなるという、
この母親の心の中の母親機能が機能しなかったら、
成人にも泣くんだと思うんですよね。
そして怖くてしょうがないと思うんですよね。不安でしょうがないと。
いらっしゃいますからね、注射が不安でしょうがないと。
半ば気絶するぐらいな。私の知っている人の中にもいました。
女性ですけどね、顔面蒼白になってほぼ貧血で倒れそうになる。
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注射するってだけでですよ。
これは、その人は僕の中ではそういう感じはなかったんですけど、
やっぱり心の中の母親機能がそういう時に弱いんですよ。
理由は不明ですが弱いんだと思うんですよね。
そうなると大人でも結局泣くのと何ら変わらなくなるんですよ。
ここスキルじゃないですよね。その人頭のいい人だったんで。
頭の良さとかではどうにもできないことってあるじゃないですか。
鼻石が溶けたってこの問題で注射が怖くて泣くっていうのが
なんとかできないっていうことはあり得るわけですよ。
その際に何をどうすれば泣かなくなるのかということを
答えるのは非常に難しいですよね。
要するに泣かなくしてくれた人たちがいて、
それらの人たちの何らかの励ましでも何でもいいんですけれども、
安心させてくれたのでも何でもいいんですけど、
要するにそれを甘えさせると言うんだけど、
これが機能すれば泣かなくなるんですね。
私2歳半の時に泣く前とした記憶があるけど、
泣かなくなるまでにはもうちょいかかったんですよ。
ということはつまり、この機能を心の中に収納するのに
やっぱり一定の期間がかかった。
意思欲だけでは無理なことなんですね。
世の中にはよっぽど知的な人がいて、
ハリーというものが皮膚に刺さってもこうこうこうで、
頭角がこうでもっていう人はいるかもしれないけど、
そうなるまでには一定の年月がいるじゃないですか。
8歳、9歳くらいまで行く必要がありますよね。
だから知力じゃないんですよね。
痩せ我慢とかでもいいんですよ。
何でもいいんですけど、
何かが機能しているから泣かなくなるわけですよ。
この何かを甘えと言い、何かを内的な母親と言い、
何かを母子の一体の心って言うんですよ。
これを心の中に一つの機能として追加する。
これができるようになると万全なんですよ。
なぜ万全かというと、
情緒上の不安というのはここに投げ込めば
解決できてしまうはずだからなんです。
だって子どもが注射を怖がるのは冗談ごとではないんですよ。
真剣に怖がるんですよね。
ここも上手い言い方がないせいなんだと思うんですけど、
精神分析では心がバラバラになるという表現を取るんですよ。
あるいは自分が崩壊するという。
これが大人になって起きたら大変なんですよね。
でも大人になってこれが起きることは滅多にないんです。
なぜなら心には子どもが一つの心として
しっかりとなった状態であり続けられるように抱え込むという機能。
これもまったくさっきのと同じです。
非常に母親的ですよね。
抱き抱えるという機能を持っているから
心がバラバラにならずに済むという、そういうものがあるんですよ。
これもどいたけおさんの甘えの構造の中では
結構強調されていることですよね。
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とろかすみたいな表現を甘えだけにとっていますけれども。
この大丈夫だからと言うということの意味があるならば
大丈夫なんだなと思えるから、
泣かなくなるわけですよ。
この機能をどうやったら起動できるかという質問には
泣けばいいわけじゃないですか。
つまりこの小さい子どもになって
自分がその母親に抱きかかえられていた頃の
自分の子どもだった時代の自分というものが心の中にあり
この子が泣けば母親が大丈夫だからって言ってくれる
そういう機能をどうやって起動できるかというと
こういう心の構造なんですよね、これは。
昔は本当にそうだったのは
今では心の構造として成立したということになると
泣けばいいわけですよ、自分の心の中でね。
そうしたら自分の心の中で母親が起動してくれる。
だから母親はどこにいるんですかとか
その内的な母親を機能させるにはどうしたらいいんですか
と言うならば泣けばいいんですよ。
甘えを自分の心に投げ込めばいいんですね。
そうすると起動するはずです。
これ以外に自分の母親を機能させる方法はないんじゃないかと思うんですね。
つまり自分にしかこれができないってことですよ。
他の人がこれができるはずはないんですね。
私の心の中にいる母親は私のためにケアしたんですよ。
他の人のためではないんですね。
私のために機能した部分が私の心にセットされたんだから
私の心の中の母親を動かすには私が泣くしかない。
他の方法では一切動かないと思うんですね。
だから私が私の母親に甘えようとすれば
必ず心の中の母親が動き出すはずなんです。
動き出せないとするならば私は今でも注射で泣くはずなんですよ。
ここがピンとこないというのは
どうやって自分が注射で泣かなくなったのかを思い出してみればいいと思うんですね。
多分分数を解くようにしてではないはずなんですよ。
つまりこれは知的処理ではないと思うんですね。
また自転車に乗れるようになったということは違うと思うんですよ。
泳げるようになったとかとも違うと思うんですね。
やっぱりスキルじゃないと思うんですよ。そこにあるのは。
だから泣かなくなるということが身についたのは
怖くなくなるでもいいんだけれども
知的解釈とかスキルアップとかの結果ではないはずなんです。
もちろんラインハックじゃないですよね。
上から泣かなくなるチェックリスト
もしもしそんなものであるならばですよ。
今だってそのチェックリスト見ない人はみんな泣くことになっちゃうんじゃないですか。
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そんな人はほぼいませんよね。
注射前にこれとこれとこれとこのチェックを確認すれば
痛くはなくなるんだというものがあるならば
むしろ注射恐怖症の人にそのリストを配ればいいこと足りるじゃないですか。
そうではないわけですよね。
あくまでも情緒的な問題であり
情緒的な受け止めなんですね。
それは情緒的にやってもらうしかないんですよ。
そしてこれができるということは
何にでもこれは適応できるはずなんですよ。
なんかちょっとざわっとくるだろう。
違和感があるだろう。
心がモヤモヤするだろう。
全部ここになければいいわけです。
そうすれば母親が何とかしてくれる。
何とかすればですね。
私は上司の出席、上司いませんが
クレームの出席、レビューの出席なりが怖くなくなる。
怖くなくなるということは
つまり彼らを敵視しないで済むので
彼らを甘えさせるってことになるんですよ。
こうして私が自分を甘えさせるということと
自分を甘えさせるということと
私が他人を甘えさせるということは
同時に起こるんですよね。
同時に起きるはずなんですよ。
なぜならこれをやっているのは
私の内的な母親だから。
内的な母親というのは
甘えさせるという機能をここで発揮しているんだから
自他は関係ないんですね。
それは一つの機能ですからね。
ということを
昨日考えついたんですね。
だから自分が泣いたらいいんですよ。
心の中でですね。
泣きたいと思っている自分が泣けばいいんですよ。
全面的に泣かなくてもいいんです。
これが母親の機能によって
自分の甘えが受け止められるということを
忘れてしまうとですね。
見失ってしまうと
外に出すんですよ。
外に出るしかなくなるんですね。
外に出してもいいんですよ。
なぜならば外のお母さんが
何らかの形で甘えさせてくれるはずだから。
それが日本社会ですし
おそらくドイタ共産は
これは世界普遍の形なんだと言うので
多分そうなんでしょう。
でも甘えはいけないという世の中では
つまりこれが突っ跳ねられる可能性はあるわけですよね。
しょうがないんですよそれは。
お互いがお互いのそれを見失っているわけだから
しょうがないんですね。
でも外に出てしまってはいけないってことではないんですよ。
グッドバイブスで言うじゃないですか。
攻撃や恐れや不安による
おかしな行動というのかな
攻撃、怒りとかを手放しましょうと
手放すんであって
禁ずるとは言わないんですよ。
甘えが出てしまうというのは
甘えを外に出してしまうのは
一つのオプションなんですよ。
手段なんですね。
手放せばいいんですよ。
手放せるのであれば。
禁ずるとか不安による
禁ずるとか封じるとは言ってないんですよ。
封じるとかね。封じ込めるとかね。
だから甘えが外に出てしまうということを
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自分に禁止しましょうって話はしてないわけだから
手放せばいいのであって
手放せるのであれば
手放せないときは出てしまうんですねこれは。
出てしまうということを
自分に禁じたくなければ
他人から出てくるのも
禁じてはいけないんですよね。
ここぐらいじゃないですか。
つまり人が自分を攻撃してはいけないという風に
言うわけにはいかないんですよ。
これをいけないにすると
自分の甘えが外に出ちゃダメだってことになってしまう。
そしたらこの母親機能を
機能させられなかったり見失っていたり
完全に忘れてしまっていた人にとっては
めちゃめちゃ厳しいことになるわけですよ。
ひたすらこう
注射で泣きたいという気持ちを
ここに抱え込んだまま
何にもできないまま
つまり赤ちゃんに
泣くことを禁じるみたいな話になっちゃうわけですよ。
ただむちゃくちゃな結果になりそうじゃないですか。
そういうことはもしかすると
できるのかもしれませんよ。
できるのかもしれないけど
まともな結果になるとは考えられないですよね。
赤ちゃんに甘えることを禁じてしまったら。
だから禁じちゃいけないんですよね。
自分にも他人にも。
自分に禁じない以上
他人に禁じることはできないわけです。
こういうふうに考えると
つまり自分に禁じないという段階で
すでに他人を甘えさせるということになるじゃないですか。
自分に禁じなければ
他人に禁じることができないから。
もし自分に禁じないにもかかわらず
他人には禁じるといったら
それはもう十分甘えですよ。
結局だからここから逃れるというわけにはいかないわけですね。
で、そうなんですよ。
昨日それで高津監督の話を出したんですね。
絶対大丈夫という。
この絶対大丈夫
ほぼほぼ戯言じゃないですか。
東京ヤクルトスワローズは
去年最下位だったんですよ。
結構僕が見ている限り
記録的に弱い感じだったんですね。
でも今年
そんなにメンバーめちゃくちゃ変わったかというと
そんなことはないんですよね。
新人のピッチャーは今年出てきました。
一人ね。
あと言うならば
その予判は去年もすごかったんで
最下位の時もすごかったんで
俺も新人なんだけどすごかったんで
今年もすごかったです。
で、優勝したんですよ。
で、何かにつけて話題になっているのは
絶対大丈夫って言い続けてたって話なんだけど
これなんだと思うんですね。
これが
私たちの心の中に
母親がいるんだということを思い出させる
一つの手法だったんですよ。
つまり
絶対大丈夫しか言わないじゃないですか。
母さんって言うのはね。
絶対大丈夫だからとか
とにかく大丈夫だからとか
言うわけですよ。
で、これを
単なる呪文のように
呪文っていう言い方もあれなんですけど
要するにただ言ってるだけではダメなんですよ。
ただ言ってるだけでは
27:01
意味が
力を発揮しない。
つまり
みんな上手いわけじゃないですか。
野球はね。
あとは
この絶対大丈夫が信じられるかどうかに
かかっている。
つまり絶対大丈夫だと思えるということは
自分の中のもやもやとしたもの
失敗しそうだとか
不安だとかいうものが上がってきた時に
自動、それが
絶対大丈夫という
母親によって解消されていけば
あとはもう行けるわけですよね。
行けたから優勝できたんですよ。
じゃなかったら
あのチームのままで
行けるようになる他の理由は
スキルだとみんなは
ここで考えるわけですよね。
今年は4番が打って
こういうピッチャーと
こういうスタッフが揃っているから
優勝できる。
だから大丈夫って言うんじゃないですか。
普通に考えるとこうなってますよね。
でもこれは赤ちゃんに言ったら
ナンセンスの極みになってしまう。
生まれてきた時から自分で呼吸ができて
それどころか自分で立ち上がることができて
日本語も生まれてきた瞬間から
喋れるから大丈夫って話に
したいわけですよね。
スキルを先行させるというのは
そういうことになると思うんです。
気持ちが悪いだけですよ。
これでは。
だからこういう順番には
なってないはずなんですよね。
まず絶対大丈夫が先にあるんです。
これが変に聞こえるんですよ。
大人になると。
でも昨日も出しましたけど
上司が理不尽に激怒しているという時に
果たしてどんなスキルが役に立つのかと。
私はどんなスキルも役には
立たないと思うんですね。
絶対大丈夫と自分がまず
何よりも最優先の課題であって
どんなに上司が
だって母親だったらそう言うでしょうし
それしか言いようがないですよね。
すっごい上司に怒られて
もう厳しいんだって
絶対大丈夫だから
これぐらいしかないじゃないですか。
そしてこれで僕らは
注射も何もかも乗り切ってきてるわけじゃないですか。
多分そうだと思うんですよ。
内的な母親がですね
絶対大丈夫だからと。
その上司に取ってくわれたりはしないからと。
何と言うかは分からないですけどね。
結局大丈夫じゃないですか。
大丈夫だと思えれば大丈夫ですよね。
このような件は。
大丈夫じゃないと思ってしまったら
もう絶対どうしようもないですよね。
怒鳴ることを止めることは
できないわけですから。
スキルとかによってではですね。
ここでですね。
先に何かが欲しくなるんですよね。
私たちは。
保証のようなものが
何デシベル以上で怒鳴ったら
パワハラと乱すから
その上司は退場しなければいけない
というのがあれば大丈夫だって
思いたがるんですよ。
でも僕はその考え方を取っていたら
今年のヤクルトが優勝できる可能性は
全然なかったと思うんですね。
だって今年のヤクルトって
最初から強かったわけじゃないんですよ。
ご存じない方も多いと思うんですけれども
昔みたいにみんなが
見てるわけじゃないですからね。
30:00
阪神大会はすごかったじゃないですか。
前半は圧倒的でしたよね。
絶対優勝するなって思ったんですよ。
あの時ヤクルトは
2位ですらなかった時期もありましたからね。
ジャイアンツに抜かれてたり
している時期も結構ありました。
絶対大丈夫っていうのは
戯言でしかないんですよね。
何かの保証があって
言ってたことではないんですよ。
どう考えても絶対ダメだろうと
ファンの人も思ってたと思うんですよ。
でも高須監督は
絶対大丈夫なんだって
言ってたわけですよね。
で、そっちが先なんですよ。
どうしてもこれがおかしいと思う
というのは
つまり先にスキル上の
戦力上の保証があってこそ
大丈夫だって言えるっていう方が
合理的だって考えて
いらっしゃるからなんですが
それは多分大きな間違いなんですね。
多分絶対大丈夫って
先に思えることが大事であって
そしてそれは可能なんですね。
これが不可能だと思うから
スキルに頼りたくなるんですよ。
でもこれが不可能であれば
私たちはまだ注射される度に
泣くはずなんですよ。
もっと細い針ができるとか
痛くない針ができるとか
そういったことが起こらない限りは
泣き続けるはずなんです。
これは冗談元ではないんですよ。
泣く人はいるんですから世の中には。
で、その人がバカだってわけじゃないんですから。
で、その人には
特別太い針が使われてるわけでも
ないんですから。
泣く泣かないというのは
情緒上の問題だけであって
つまり絶対大丈夫って思えない限りは
泣くはずなんです。
泣くはずなんですよ。
僕らは何の保証もなく
絶対大丈夫って信じているから
泣かないようになったんですよね。
で、多くの人
僕なんかがそうですが
怖くもなくなったんですよ。
痛くなくなったわけではないですよね。
痛いですもん、私だって。
ただ怖くはない。
これは完全に情緒が先に
受け止められているからなんです。
で、この絶対大丈夫という
魔法では全くないけれども
魔法のようなセリフが
出てくる時に
自分と他人を
同時に甘えさせるということが
成功するわけですよね。
そしたらもう万能なんですよ。
野球選手は万能じゃないですか。
野球をやる限りにおいては。
近くで見てみるとすぐ分かるんですけどね。
彼らは野球のマシンみたいですよ、みんな。
下手な人なんか一人もいませんよね。
だからあとは絶対大丈夫だと思えるかどうか
にかかってくるわけです。
私の応援してたロッテは
今年厳しかったんですよ。
優勝はまず確実にできそうだな
と結局逃したんですよね。
あれが絶対大丈夫と思えない
問題なんですよ、一つの。
50年ぶりの優勝とかですからね。
絶対大丈夫というものは
難しいかもしれないんですけど
上手くてもダメなんですよ。
上手ければいいんだったら
みんな上手いんで。
こういうふうに考えていくと
起動する方法は簡単なんですよね。
不安になればある意味いいんですよ。
33:00
不安になれば
子供が不安になったら
絶対大丈夫と言ってくれる。
この親が言ってくれるように
自分の不安というものを
自分に強く、はっきりと
示すってことだと思うんですね。
これを我々は
すぐに外に出してしまう。
あるいは外に保障を求めに行く。
そうすると
自分の内的な母親が起動しない。
死んだままになっちゃう。
そうすると
私たちは不安というものを
外に出していって
子供を不安に焼くとかに頼るんですよ。
これは全然合理的じゃないと思うんですよ。
33:40

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