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2022-01-06 26:02

【GMV 529】内なる母親とは?

実母とは違っていいのです
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
ぶっちゃけ相談のハガキが数枚いただきまして、
あのハガキじゃないんですけどね、どうもありがとうございます。
今日収録をしますので、たぶんですね、いつもとまた違った形式のものも
今年からなのか、今回だけなのか、織り混ぜていくことになると思いますので、
今年もよろしくお願いしますと。
で、そのいただいた中で、やっぱりこういう疑問って湧くよねっていう話が感じたので、
その部分についてちょっとこう、まず、このポトキャストでも何度も何度も登場している
いわゆるこう、母子一体っていうやつの話なんですけど、
なんていうのかな、うちなる母親っていう言い方をしちゃうと、
それは一体どこから来たんだろうというか、
それはつまり自分の母親のイメージのことなのか、そうではないのかとかいろんなことがあると思うんですよ。
で、私たちは知らず知らずのうちに、これが一つの問題というのか、しょうがないしポイントでもあると思うんですけど、
例えばモラトリアムって言葉があるんですけど、ナルシシズムでもいいし、あるいはそれこそエディプスコンプレックス、
多分ほとんどの人は今頃それをエディプスなのと言わずマザコンって言うんですけど、
マザコンって言葉もそうですが、ほぼ精神分析によって世の中にガッと広まっている概念なんですよ。
ヒステリーも間違いなくそうだと思う。
そしてそれがほぼ全く、全く違う意味じゃないけどものすごくずれるんですね。
でもこういうことは普通なことで、これに対して精神分析がそんなことじゃ困るよって精神分析側から言ってもしょうがないことだと思うんですね。
例えばタスクシュートだって誤解されている部分はいっぱいあるし、ライフハックの意味とかも最初に考案した人の意図した意味と今広がっている意味が近いかというと、
それは受け方にもよると思うんですけど近くはないと思うんですよ。しょうがないと思うんですよね。
誤解はいけないということであれば、言葉なんて作り出すべきではないですよね。サラサラないと思うんですよ。
例えば、仏教用語でもそうですけれども、王女とかって言うじゃないですか。
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多分絶対意味が違うと思うんですよ。最初に考案した人の意味とね。
主人公とかもそうなんですけどね。いっぱいあります。そういうのってしょうがないんですよ。これは。
そうなるに決まってますからね。
うちなる母親か。うちなる母親というのも、たぶん元々の意味はですね。
元々の意味っていうのかな。元々あった言葉としては内的対象としての母親っていうんですよね。
まずこれの意味、こう言われるとよくわからない。だからうちなる母親という言い方になる。
そういうのが世の中に普通に出回ってます。
それが自分のお母さんのイメージと近いものだと思われるのも当然だと思うんです。
そしてそこに嘘はないですし、確かに自分のお母親に近いイメージが全くないとも思えない。
ただ、これは特にお母さんが世の中で言うところの母性たっぷりの愛情たっぷりのお母さんとは違うっていうケース。
そうでなければないほどこの言葉の意味はむしろステレオタイプになっていくんだろうなという気もします。
世の中にですね、私、友達のお母さんとかもいろいろ、それや小学校時代に見てくるけど、
いわゆる絵に描いたようなお母さんというのは僕は一人も見たことがない気がしますね。
ほぼ問題がなければそれを指してるんですよ。内的対象としての母親というのは。
むしろそうでない側から見ると、ものすごく世のお母さんというかできたお母さんに見えるんだと思うんですけど、
おかれすくなかれ虐待っぽいことは特に私の子供時代だったらですね、あるわけじゃないですか。
例えばうちの母などというのは、それこそ虐待されて育ったところがあるんですよ、きっと。
だから絶対的に決めてたこととして、子供を殴らないと。
そういう意味で偉いもんで、殴られたことってほとんど数えるほどしかない。数えることはあるんだけど、数えるほどしかないんですよ。
でも母は、うちの母は、殴りに際しなければ何をしてもいいくらいに思ってたところがあるわけですよ。
それはしょうがないわけですよね。
例えば私は今48かぐらいまで生きてきましたけど、まだやっぱりですね、意味もなく娘に対して攻撃的になるとか、そういうことはあるわけですよね。
でも48も生きているとだいぶ、昔の基準で言えば、もしかするとじいさんですからね。
で、私の母が私を作った頃というのは、24後だと思うんですよ。半分ですよ。
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大卒してすぐじゃないですか、うちの母は大卒じゃないですけど、大卒してすぐですよね。
まあ、そりゃ殴りに際しなければ何をしてもいいんだくらいに思っているのが妥当なところです、はっきり言って。
だからしょうがないわけですよね。
そこで理想的な母性というものが発揮されてないとか言っても始まらないし、そんなことは精神分析では全く言ってないわけですね。
だからパーフェクトマザーという概念が出てくるわけです。
存在しない母親という意味にあれはほぼ等しいんですよ、パーフェクトマザーというのは。
グッドイナフマザーというのは、要するに実在している母親をほぼ全域指しているわけですよ。
十分良いとか言うのかな、程良いというのかな。
日本語にはあれは訳しにくいと思うんですね。範囲の問題なんです。
つまりパーフェクトじゃないよって言ってるんですよ、グッドイナフマザー。
私はウィニコットが言ったのかな、グッドイナフマザーというのが内的対象としての母親のようなものなんだろうなと。
この辺にもテストに出て答え合わせをするみたいな厳密な回はないんですけど、
つまりグッドイナフマザーというのが私たちのなぜなのか、多分遺伝的に一つの機能を作り出すと。
その中でも重大な機能として我々の忌みづけを支えるんですよ。
忌みづけをしてくれるんですね。
だからうちの母親というのは絶対に味方になってくれるとか、私の心を支えてくれるとか、そういう意味になるんですか最終的には。
だから優しかったとか虐待しなかったとか、ニグレットしなかったという意味には多分僕はならないと思うんですね。
だってうちの母親は殴りこそしませんでしたが、ニグレットというのも違いますけれども、結構すごいことをやってましたよ。
でも母親機能は十分に機能すると。
母親機能が機能するというのも一つに、私が言葉を喋れるというのがあるんですよ。
これがでかいんですね。
その前の段階としてまず忌みづけができるというのがあるんですよ。
忌みづけというのはどういうことかというと、お腹が空いた、これ忌みづけなんですよ。
必ずしもお腹が空いてなくてもお腹が空いたって思うことがありますよ。
いっぱいありますね、私なんかの場合。
これ忌みづけというのは間違うわけです。
忌みづけが正しいという故障はどこにも全くありません。
例えば信号を見て止まれだ赤だって思う、あれは忌みづけですよ。
本当はそんな意味はないわけですからね赤に。
だからカレンダーの赤を見ても止まれだと誰も思わないじゃないですか。
忌みづけというのはこういう風になっているわけです。
都合よくできているということですね。
だから眠いという忌みづけも、さっき僕は今しがた起きてきたんですけど
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忌みづけとしてどこにいるときはすごい眠いというのがあったわけですよ。
ところが今起きてみると眠くも何ともないわけです。
忌みづけというのは間違うわけですよね。
でも間違おうと何しようと忌みづけしないで人は生きていけないので人間は。
まず忌みづけという言葉を使っているかどうか微妙なところですが
たぶん使っていたと思うんですよねミニコットはね。
忌みづけを最初にするのは母親だと。
たぶんですよ。
もしかして生まれてすぐ母親がいなくなってしまったケースにおいては
母親じゃない人が忌みづけしたかもしれませんが
その場合その人が母親なんですよ。
ここが大事なんですね。
実部じゃなくても母親機能は機能するんです。
そして私たちこれはただ人間にしか適応できません。
一生懸命そういう実験あるんですけどね。
シンパンジーの赤ちゃんを一生懸命人間のお母さんが
もう自分の赤子供のように育てても忌みづけはさせられない。
つまりいくら忌みづけをこっちが頑張っても
遺伝的に何か働かなければ忌みづけって成立しないんです。
この種のことがいくつか重要なポイントがいくつかあって
人間の心というか最初からそういうふうに働くように
セットされているんだとプログラムされているんだと
いうのが精神分析の頑目なんだと思うんですね。
でもそれをしかも生物学的には証明してないんですよ。
しかも観察学的にも証明してないんですよ。
そういうことはあったはずだという前提の下で
患者様を見ると、カウンセラーを見るというか
来談者と話をするというか、そういうことをすると。
要するに精神分析をするということですね。
カウンセリングというのはそういうふうに
人間の場合はやるしかないんだみたいな
そういう考え方であって
実際の赤ちゃんを見ていたら忌みづけをしているところを目撃しましたとか
0歳で1日目2日目から既に
お母さんは忌みづけをするということが観察されましたとか
報告例は専権ありましたとか
そういう話はどこにもないんですよ。
だからお母さんがどうしたかこうしたか
ちゃんと育てたのかどうなのかみたいな議論が
そもそも精神分析の話に
本当は出てこなくてもいいぐらいなんです。
ここはややこしいんですけどね。
でも実際にはそうだっただろうなと言うんですけどね。
心的現実でそういうことなんです。
お母さんが本当に虐待したかどうかは
どうでもいいんですよ。
お母さんはすっごい優しかったかもしれないし
手をもう一回も挙げなかったかもしれないし
それどころかどなりすらしなかったかもしれないけど
私は虐待されたと思ったと
信じ込んでいると
そういうケースがないわけじゃないんですね。
だからそれは心的現実なんですよ。
心的現実なんてつまり嘘っ端じゃないですか。
心の中だけにある現実なんだから
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本当のことじゃないんですね。
その辺フロイトは多分迷ったと思うんですよね。間違いなく。
最初は患者さんの言うことを多分
信じるという観点から言ったと思うんですね。
ヒステリーを見ましたから
ヒステリーって要するに巨減壁みたいなものを含むケースが
100%じゃないかもしれませんが非常に多い
私もそれに近い方を
ドコモサービスに勤めているとき
でっかい会社だったから何回か目撃しました。
びっくりさせられます。
この人は一体どういうつもりでいるんだろうって思っちゃいます。
嘘をついているのか完全に記憶を失っているのか知らないけど
言うことが180度ガラッと変わっちゃうんですよある日。
それでも私はあれは今の感じから言うと
ボーダーラインとは言えない気がします。
でもヒステリーという言葉があるならば
ヒステリーという言葉が正しいだろうなと。
とにかくあの課長の言うことさえ聞いていれば大丈夫だから
みたいなことを言ってた先輩がいきなり
あの課長の言うこと聞いちゃ絶対ダメだからだって
言い出すんですよ。びっくりしますよね。
親が信用できないというのは
いろんな意味があそこに含まれていると思うんですけれども
とにかくそういう話をフロイトの前でした人がいたに違いないんですね。
あることについて言ってることがガラッと変わってしまうと。
患者は嘘ついてるんじゃないんだろうかとか
本当にそのお父さんが性的に迫ってきて大変でしたとか
本当にそういうことがあったんだろうかとか
この人の単なる願望じゃないんだろうかって思いますよね。
カウンセリングとかしてれば絶対そういうことを思う日がやってくると思います。
とにかく逆転しちゃうということがあると思うわけですよ。
それは嘘なのか、それとも本当にあったと
嘘なんだと多分思った時代もあったと思うんです。
その前に絶対これが本当だとすればそれはさらにショックだろうと
我々は思うからトラウマになったというふうに判断しますよね。
でトラウマという論法が出てくるわけですよ。
ところが本当にあったことじゃないらしいぞということが
何度も何度もいろんな人に聞いてれば当然誰でも考えます。
私なんかは留学中にいろんな人が言う
いろんなトラウマ体験みたいなのを聞くうちに
全く信用できないなって思うようになりましたやっぱり。
ただ聞いてるだけでも嘘くさいと考えてみると
それが本当か嘘かを判断する材料は聞いてる方に一切ないわけじゃないですか。
ゼロなわけですよ。
そうなってくるとフロイトが思ったのはどうやら嘘らしいと
虚言癖みたいなのを考えたと思うんですけど
やがて嘘ではないのかもしれないと。
実際ミュンヘハウゼン症候群というのは
私もアメリカで習いましたし
ビデオを見てそれもびっくりしました。
自分が看病している身内の点滴とかを外しちゃうとかするんですよ。
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そして腰大圧迫するじゃないですか。
で、びっくりして泣き叫ぶと。
演技なのか記憶を失ってるのかなんだかもう
見てるだけでもさっぱり分かんなくなってくる。
頭おかしくなりそうになりますよね、あんなの。
ビデオで、それは実録なんですよ。
その外したところから泣き叫ぶところまで
全部ビデオに撮ってあるんですよ。
で、演技じゃないんですよ。
でも演技なのかもしれませんね。
分かんないんですよ、そういうこと。
ただ、こういう人がいて
そういう人をカウンセリングする人がいたとしたら
間違いなくその人の養育歴っていうところに
我々は問い合わせますよね。
この人一体どういう育てられ方を
どんな親にしたんだろうって考えちゃうじゃないですか。
グッドイナフマザーというのは
こういうケースでもやっぱりグッドイナフなんだろうかと
考えてしまうじゃないですか。
これはつまり、記憶っていうもの
意味付けっていうものの中で生きている
私たちならではの発想で
例えば同じくらいおかしな行動をする
カエルとかがいても
カエルの養育歴には誰も興味を持たないわけですよ。
そういう記憶力はないですからね。
それ以上行動ってカエルって取らないと思うんですけどね。
つまり、人だからなんですね。
ということは、人は遺伝的に何らかの理由で
母親に意味付けをされて育ってくる
というところからスタートする。
意味付けをしている現実が私たちにとって現実じゃないですか。
赤信号になったらピタッと止まりますよね、車は。
現実なんですよ。
でもあれは、本当はシグナルはシグナルという通りですけど
実際には全くない。
無視しようと思えば無視できる。
私2回赤信号を真っ白に無視した車を見て
ぎょっとしたんですけど
ちょっとしたことでも大事故になるなというレベルだったんですけど
でも人っていうのは
普通は意味付けの現実に生きているから
そんなことは決してしないわけですよね。
だから意味付けってめちゃくちゃ重要なわけですよ。
その人にとって現実がどう見えるかを
ほとんど規定してしまうわけです。決めちゃうんですね。
その人にとっての意味付けはその人にとっての現実であって
母親がどういう意味をつけたのかによって
大概の場合、ただグッドイナフというのは
同じような意味をつけるから
例えば赤ちゃんが泣けば
どんな親でもお腹が空いているのか眠いのか
暑いのか寒いのかって考える
これぐらいしか考えることができませんからね。
泣きやませようとも大概の親は一応する。
だから結局そこで範囲というものが出てくるわけですよ。
やがて私たちは
それを人に泣いて知らせるという
やり方をやめますよね。
移行期というものがあるわけです。
だから意味付けは自分でできるようになる。
これはつまり母親機能なんですよ。
多分こういう言い方をすると
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自分の母親のイメージとか
うちなる母親という意識を持っている人はいないと僕は思います。
赤信号止まっているのはうちなる母親の機能だと
人は思わないと思うんですよ。
私は働いているわけだからほとんどの人には働いているんです。
どんな親であろうと。
極論すると親がいなくても働いているはずなんですよ。
私の母親がどういう母親であったかとは
関係なく赤信号は止まるんですよ。
でもこれは私が発明したわけでも
発見したわけでも自力で生み出したことではないわけです。
だからみんなと同じことを取るわけじゃないですか。
私がオリジナルで発見したことでは
全くないわけですよ。
だからうちなる母親というのは
自分の母親であるケースが多いだろうし
うちなる母親じゃないのはやっぱり母親機能なんですよね。
私の中の母親機能。
たぶん実母である可能性が高いし
そこには実母ならではの感じというものが
その人その人に含まれているにきっと間違いないと思うんです。
私も母親機能といったとき
母親の顔とか雰囲気がさっとよぎるんですよ。
ここが大事なんですね。
母親機能というのは単なる認知能力とかスキルだけじゃなくて
そこに必ず情緒が含まれてくると。
だから母親が絶対に
味方してくれるとか大丈夫だからと言ってくれるから
大丈夫ではないんですよ。
必ずしもそのようなことをうちの母親は
してくれたわけではない。
父だったりあるいは私が駐車されるときに
励ましてくれたのは看護婦さんだったり
それらはすべて看護婦さんが母親だし
父が母親だ。この言い方をするとわけわかんなくなってくるんだけれども
まずそうなんですよ。
だからうちの母親というのは
そういう意味でうちの母親。
情緒的な母親機能というのはですね
甘えさせてくれるとかもそういう意味でそうなんですけれども
つまり
実母とは関係ないケースも
違うな。
実母がその場にいたとは限らないけれども
私の中では実母というのが強く関与している。
看護婦さんが大丈夫だよ強い子だから泣かないでね
って言うから泣かないんだけど
その時看護婦さんに私は母親を見ている
っていうのが自立の一歩なんですよ。
母親を代用にしている。この言い方ちょっと微妙ですけど
代用にしているじゃないですか。
こういうのを意向対象とは言わないんだけど
意向対象の一種なんじゃないかなと思います。
看護婦さんに励まされているというか
そういう風に言われているから泣くのをやめるというのは
看護婦さんを私が甘えさせていることになるじゃないですか。
なるんですよこの場合。
看護婦さんの希望を
私が入れる理由はないわけだから。
泣いたっていいわけですから。
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でも看護婦さんが言ったら泣かないということができるようになったら
自立でもあるし私が相手を甘えさせるということでもあるわけです。
こうやって甘いの世界というのが成立するんですね。
ここに搾取はないんですよ。私の考えでは。
ここで泣くのをやめたから
私は看護婦に搾取されたというのはおかしいと思うんですね。
だから
甘え甘えさせるという世界には
実際のところ搾取はないとは思うんですよね。
この場合の母親役は
看護婦さんです。
そのうちこの機能が私の中に取り込まれると
注射で泣かないということ。つまり私が母親をやっているんですよ。
泣きたい私はどこかにいるんでしょう。
でも実際には全然泣かない。
これは私が母親をできるようになった。
そういうために母親というのはグッド・イナフであるのがいいわけです。
パーフェクトだとここまでは持ってこられない。
なぜなら母親の完璧に全部やっちゃうので
私は自力では泣き止めることができなくなってしまう。
そういう病理はあるわけですよ。
パーフェクトではやばいわけです。
ただし実際にはパーフェクトな母親はいないので
ほぼパーフェクトになってしまったせいで
何かが私の中で機能したかったというのが
説明としては成り立つのでしょう。
ホマモードセットって
意味付けしやすくできているじゃないですか。
いかにもご飯茶碗ですよって思いなさいみたいな
そういう風になっていますよね。
私たちの生きる世界というのは最初からそうではないわけです。
最初は意味付けができないから
何を?だって赤ちゃんがご飯茶碗を見てこれはお茶碗だと思わないですよ。
だから投げて壊したり平気でしますよね。
母親が意味付けをしてくれて
やがて壊してはならないものなんだということを徐々に知っていくんだけど
その過程の中で
ホマモードセットみたいな
いかにも意味がつけやすそうなものが登場するわけですよね。
やがてパソコンのようなどう意味付けていいのか
よくわからないようなものを
我々は自分で自分なりに意味が付けられるようになって
この種のことをやっているということは
母親機能がないとか
どこにも見当たらないということはありえないはずなんですよね。
この種のことの中に間違いなく
私たちは自分を甘えさせる機能というものが
含んでいるはずなんです。
意味付けができるということは
つまり社会を信頼しているということになるはずです。
赤信号で止まる必要があるのは
赤信号で他の人たちが止まってくれるからです。
我々は平気で
コンビニが長だと列だと腹を立てる
すぐ買えるということを期待しちゃうくらい
我々は社会に甘え出すわけですよね。
電車が8時11分のほうが1時間遅れとか
非常に困ると思う。
これは甘えだと思うんですよね。
意味付けももちろんその中に強烈に含んでいますよね。
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電車は時間通りに来るもんだという意味をつけています。
こういうふうに甘えてもいるわけです。
母親というのはそこら中に
我々は発見しているはずで
そうだから生きていけるわけです。
だからこの機能が自分の母が
冷たかったから機能しないとか
そういうことはないと思います。
これは大人になっても駐車で泣く人はいると思いますよ。
そしてその場合は
機能不全というのは言い過ぎな気がする。
機能が自力で十分
稼働させられない理由は何かあるんだと思います。
あるんだと思うんですけれども
だからといって機能をしていないとか
そこまでは言えないとか、その人は子供のままだとか
そんなことは言えないと思うんですよね。
そういうことではないと思うんですよ。
私たちは自分で立って喋っている以上
その場合ただの自分のお母さんの
コピーとかではないんですし
ちゃんとやってくれないと
それが私たちの中で機能しないということもないんですよ。
本当に子供のままだったらかなり大変なことになっちゃいますから
はいはいもできないという
ところまでは言いませんけれども
例えば一人では絶対いられないとか
一人ではお風呂に入れないとか
一人では眠れないとか
まあまあそういうことが時々ないわけではないけれども
信号を見て止まろうと思えるということは
子供だけではできないという話なんです。
子供だけでできないことを考えてみて
いくつかのことを自分がしているのならば
ちゃんと育てられたかどうかを考えるのではなく
母親機能をちゃんと自分が持っているんだと考えるのが
妥当なんじゃないかなと。だって母親機能を持っているということは
つまり自分を甘えさせることができるという意味になりますから。
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