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2021-08-24 31:42

【GMV 443】トマトが悪いのではなく、虫歯が痛む

夢よりも現実が幸せだと言えるために
00:04
おはようございます。
おはやくもなんともありませんが、グッドモーニングボイスです。
どう考えてもグッドイブニングですけどね。
それはどうでもよくてですね。
昨日、ついにワクチン1回目を接種してきまして、
その点やわんやが若干あったんで、
時間もそれなりにかかりましたし、
手が痛いからいつもとはちょっと違うことをすると。
そういうことを言うと、いろんなところのリズムが、
今日は朝もゆっくり寝てましたし、しかも散歩も行かなかったんで、
そういうこともありつつ、時間が結構狂っています。
これを言うことを言っていると、本当に毎日毎日時間が狂うんですけどね。
しょうがないかなと思っています。
それで、多分前回、昨日だと思うんですけどね。
対象という話をしました。
ピンとこないということもあると思うんですよ。
でも、この対象という話をして、私がお伝えしたいのはですね。
人は自分を傷つけることは絶対ないってことなんです。
そして、ということはですね。
他人をコントロールしようというのは、絶対権力とかグッとか警察とかを持っていない限り、
無理だってことなんですよ。
ということは、他人に何かこうちょっとした、何て言うんですかね。
こう、威圧とか、なんとかハラスメントとかでコントロールされることは本当はないんで、
本当はそういう心配をする必要は本当はないはずなんですよってことをお伝えしたいんですね。
なんでこの話が対象と関係があるかというと、
私、対象という言葉で言ってるのは、間違いなくカウンセリングも精神分析も、
その他この種のものは全部主観と客観を分けろって言ってるんだと思うんです。
でも私たちは特に二者ではそれは無理なんですよね。
なぜなら二者関係においては主観しかないからですね。
これをすぐ踏み外すんですよ、私たち。
二者関係なのに自分の方が客観的だと平気で思うんですね。
でもお互い主観ぶつけ合ってるだけなんで、ここに大きな秘密があると思うんですね。
一者だったら絶対主観しかそこに基本ないはずなんですよ。
これが怖いんですね。
何でかというと、外側がないということは、
つまり自分は夢を見ているかも。
夢を見ている人が自分夢を見ていると気づけないという話を
私はGood Morning Vibesでめちゃくちゃたくさんしてきたと思うんですけど、
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ということは今私がこうやって喋ってるのは常にそうなんですよね。
夢かもしれないということを忘れちゃいけないと本当は思うんですよ。
まるまるこれは幻想かもしれないんですよね。
目の前で見ていること、今やってることが。
昨日ワクチン打ったせいなのか知らないんですけど、
帰り道、非常に現実感が乏しいなと久しぶりに思ったんですよね。
現実感が乏しいということを最近すっかり忘れてたんですけど、
現実感が乏しいってそう、こういう感じだったなと。
あの駐車、夢じゃないといいんだけどなとつくづく思ったんですよ。
夢だったら損臭いなと思ったんですよ。
多分夢じゃないと信じてるんですけど、
でも夢じゃないっていうのは保証されるわけじゃないんで、
夢じゃないとどこかで思い込んだからって
そうでないという保証は別にないんですよね。
最近、Ogdenという人の心のマトリックスという本を読み直しているんですけど、
この本、入手しようとはされなくて全然いいと思います。
フル本でも1万円近くするというですね、
結構精神分析の、しかも英国、ロンドン派の側の人が好んで買われるので高いんだけれども、
基本的には当然絶版になり、二度と電子化もされる気配は多分ないのでやら高いんですよ。
心のマトリックスというタイトルからしても非常に何かを連想するじゃないですか。
映画は後ですよ、もちろん。
精神分析では現象学的な全てが主観であって、
その中でどういうふうに心が働いているかという、
映画のマトリックスで漢風的な話じゃないですけど、
考えていたようなことをずっとフロイト以来考えてきているんで、
当然こういう心のマトリックスというタイトルは出て不思議なものではないんですね。
そういうキーワードはしょっちゅうあったんでね。
あの映画はもちろんアメリカの映画なんで、
マトリックスはアメリカの映画なんで、
精神分析はものすごい日本より1万倍ぐらい流行ってますから、
少なくとも流行ってた時代がありましたから、
マトリックスといえばピンとくるわけですよ。
我々はピンとこないですけどね。
日本では精神分析なんて全然全く流行ってませんからね。
どうしてこんなに違うんだろうっていうぐらいですよね。
だから私はグッドワイプス最初に聞いた時も、
ものすごく新鮮な部分があったんですよ。
こういう話が分析家じゃない人から出てくるっていうことが、
そもそも滅多にないんですよ。
っていうことを、しかもどっちかっていうとアメリカ型の分析っていうよりは、
イギリス型だったんで、
そこも非常に興味深いなと思ったんですよね。
あんなフロイト的ではなくて、
非常に聞いているはしばしで、
倉園圭三さんが渋谷で10回ぐらいセミナーしてくださったんですけど、
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私それを横でずっと聞いてたんですけど、
回を追うごとに、
ウィニコットが喋っているような話が、
全く違う文脈で出てくるっていうのが非常に不思議だったんですよ。
回を追うごとにそういう感じを抱いててですね。
他人は自分を傷つけないとか、心は傷つかないとか、
本当にですね、つくづくそれなんですよ。
心、形がないから傷つかないっていう、
これは非常に分かりやすい表現を取られていましたけど、
対象ということを僕がやっぱりどうしても考えないとならなくなるというか、
すっかり売っちゃっていたという、
ライフハックでダイレクトに役に立たないんで、
ライフハック心理学とか言っても対象っていう言葉を
持ってくること自体がナンセンスな感じなんですよね。
だから使わなかったですよね、私。
少なくとも2010年より前、2013年より前、
もっと最近でも2016年より前は、
一切その種の分析的用語っていうのはもう封印していたというか、
使う気にもならないというか、
返りとか、返りとかどう使えばいいんだって感じじゃないですか。
あるいは東映同一化とか、
何て言うんですかね、無用に難しく、
かつライフハックとあまりにも相性が悪いんで、
どうしても認知行動系の言葉ばっかりで、
上積みっぽいなと思いながらっていう部分もあったわけですよ。
比較的私の話で受けていたのがMPとか認知資源って言葉ですけど、
あれだって認知資源ってなんだよ、
どこにあるんだよって言われるともうアウトな感じだったわけですよね。
なんとなくみんなが受け入れてくれるからそれで納得できるんだけれども、
認知資源っていうのは全トヨが使うドーパミネエネルギーですとかって言えないんですよ、そんなことは。
言えないものは要するに、
差もあるかのような振る舞いをしてくれるときはいいんですけど、
実際にはそんなのないんで、
MPはゼロでも100でもどうでもいいものになってしまいかねない、
要するにおとぎ話になっちゃうんですよね、そういうのって。
精神分析もよくそういう問題に引っかかるんですけど、
良いおっぱい、悪いおっぱいなんて言ったって、
本当に幼児はそんなこと考えてるのっていうのは証明できませんからね。
ただ、そのことを言うと相手の人が、
ああそういうことですかって言ってくれると納得がいく。
この辺が主観対主観なんですよね。
どこにも客観性がないと。
そこのところがマトリックス的ですよね。
マトリックスってそういう映画だったじゃないですか。
どこにも客観なんてものはないじゃないですか。
ああいう考え方を取っちゃえば。
現象学的とも言えますけどね。
対象というのはですね、
昨日お話ししたその良いお母さんというか、
優しいお母さんが出てきたときは、
良い自己対象も出てくると。
自分の感じも良い感じで自分が出ていくと。
厳しいお母さんに怒られてると、
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悲しい自己対象が現れてしまうと。
こういうセットが極端な形で分離するとですね、
私がその自分なのに、
良い自己対象と悪い自己対象、
しょんぼりしている私と元気な時の私は、
どっちも同じ自分なのに、
繋げられなくなってしまうというのが、
割と乖離という、
ボーダーみたいな境界例みたいな時に出てくる
章例なのかなと。
そういうことで困っているというか、
内心がそういう分裂が強く抱いている人は、
どうしてもやっぱり、
幻滅したくないわけですよね。
幻滅したくないわけですよ。
例えば、私が良いクラゾノさん、悪いクラゾノさん、
こういうふうになりやすいのが宗教の怖いところなんですよね。
良いクラゾノさんの時は、良い自分が出るじゃないですか。
そうすると、良いクラゾノさんしかいないという状態に、
持ち込みたくなりますよね。
良いクラゾノさんじゃないのが出てきて、
自分があるクラゾノさんの態度に対してしょんぼりするというのが、
耐えがたいというレベルに達してしまうと、
幻滅するしかないんですよ。
これがボーダーだと思うんですよね。
非常に人を理想化するか、あるいは幻滅してしまうか。
実は理想化と幻滅って同じことですよね。
幻滅というのは理想の反対じゃないですか。
どうしようもないという話になるわけですよね。
どうしようもないというのは、ものすごく素晴らしいというのの反対側にあるものですよね。
この自分の中にあるものすごく素晴らしいものに対している時の自分は、
とっても良い感じだけれども、
ちょっとでもそうじゃないものが出てくると、
もうすっかりダメになってしまう自分がいる。
そんな風な自分になりたくないから、
全部相手のせいにするしかないんですよ。
相手があんなに素晴らしいと思っていた、
あの暗殿さんが、実はこんな幻滅することを言うんだ。
できれば焼き殺そうみたいなことになりかねないんですよね。
そうはならないので、どうなるかというと、
離れようということになりますよね、普通に考えれば。
多くの場合、離れようになるんですけれども、
このボーダーを抱えている時に離れなきゃいけないという風に、
私たちが考えるんですけれども、
離れられないというケースも多々あると思うんです。
これは例えば自分の親であれば、
当然簡単に離れるわけにはいかないし、
会社とかにいる場合でも、
やっぱりそんなに簡単に離れるわけにはいかない。
素晴らしい会社と、
それがすごく幻滅させられるところだったからといって、
じゃあやめます、というわけにはいかない。
何でかというと、生きていけなくなるからそういうわけにはいかない。
そしてすごい強い幻滅の中で、
会社に繰り返し繰り返し行かなければならない。
ここでモチベーションというのが多分問題になるんだと思うんです。
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この時に本当に問題にするべきなのは、
理想的な相手に対している時の自分、
つまりとってもいい感じの自分と、
幻滅してしまった、しょんぼりしている自分が
同一であるということ。
つまり自分の中で繋ぎ直せるかどうかということだと思うんですよ。
これが、もちろんこの乖離がはなはだしい人ほど厳しいですよね。
難しいです。
でもどんな人にとってもこれは簡単なことではないからこそ、
この遥か手前のですね、
どうでもいいような話の時でもですね、
さっきみたいに離れるか、
それとも相手を叩くかのどっちか、
二者卓一みたいなところまで行く、
遥か手前のところでも、
夫婦喧嘩の時とかでも、
意外と私たちはちょっと極端な態度に出てしまうということなんですよ。
一生愛するか離婚かみたいな、
よくあるじゃないですか、そういう風になってしまう。
理想と幻滅と全く同じなんですけど、
これはこういう相手とあれば、
とても一生一緒に行くわけにはいかないから、
賠償金もそこそこに分かれようみたいな、
急にそういう話に転換してしまうんですよね。
それは自分の中にある、
この幻滅する自分というものを、
受け入れられないからだったと思うんです。
という意味で、客観的に他人は自分を傷つけないんですよ。
この話は今の流れでも、
大変分かりにくかったかもしれませんけど、
自分の中にある自分を受け入れるということが、
実はとても困難だということなんです。
それがすごく嫌なんだということなんです。
相手は関係ないんですよ。
理想化した蔵園さんじゃないから、
離れなければいけない、ではないんですよ。
本当は、理想化した蔵園さんに相対している時の自分が、
楽で気分がいいって思えれば思えるほど、
その反対側にいる自分を、
自分として引き受けてしまうのは辛いと。
もっと単純な話をするならば、
健康でおいしいものを食べている時の自分の歯は、
とってもいいんだけど、
今の私がそうなんですけど、
奥歯にビリッとした痛みが走った時の歯の荒れは耐えられないと。
だからついつい私たちは、
食べ物の責任だと考えるんですよ。
この冷たいトマトの酸味の強い冷たいトマトがいけないんだと。
でも甘くてちょっとぬるい感じの時に、
歯を痛ませないトマトはいいんだと。
おかしいんですよ、これ。
同じなんですよ、食べているものは。
たまたま痛いかどうかの話だけじゃないですか。
自分の歯に責任があるんですよ。
これが肉体だと分かりやすいんだけど、
精神だと分かりにくくなって、
ついついトマトのせいにしてしまうんですよね。
トマトを分けているつもりになっている。
つまり、いいトマトと悪いトマトがこの世にあるんだと、
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言っているのが妄想分裂ですよね。
確かにそうではないはずなんですよ。
確かに自分の歯が健康な状態の時の歯がいいに決まってはいるんだけど、
しょうがないんですよ。
むし歯になっちゃったんだから。
このむし歯の痛みも自分が引き受けるより他ないんだけれども、
引き受けられないということになった時に、
外側に向かって排出するという言い方がここで出るんですよね。
トマトが悪いんだと。
俺の歯はいつも同じなんだと言っているんですよ、その人は。
痛いというのは痛ませたトマトが悪いんだと。
これが物理的な話だとすごく変だなって感じがすると思うんですけど、
精神的な話だとこれがすごくスムーズだって多くの人は思っているってことなんです。
客観的に人が自分の心を傷つけると思っちゃっているんですね。
そうじゃないってことなんです。
そうじゃなくて、あなたには心のむし歯みたいなのがあるんですって言うと、
今度は自己責任なんですかっていうふうに言いたくなるじゃないですか。
むし歯だと誰もこの抗議をせずに済むんですよ。
いやー、自己責任だなって思うしかないじゃないですか。
あの治療は嫌なんだけど、
でもむし歯になったのは自分の責任だなってみんな思っていると大体の人はですね、
むし歯になったのは甘いトマトを作り出した農家が悪いんだよって
普通の人はそこまでは思わない。
だからやっぱりむし歯の場合は自己責任だって思うのは簡単なんですけど、
これが夫婦喧嘩とか、人とのいざこざになるとですね、
あるいは自分がとってもいい人だと思っていた、
それがさっきの例なんだけれども、
思っていたというケースになると、
自分の心のむし歯のせいではないと。
そういうものは自覚しようがないですからね。
会社さんほどクリニックがそこら中にはないですから。
ちなみにブラジルとか南米ではですね、
会社さんと同じぐらい精神分析家がいるみたいなんですよ。
だからこれはお国柄とか文化が結構物を言うんだけれども、
そうはいかないと。
日本には会社さんは街に数軒ありますし、
こんな小さな街にでもちゃんとあるんですけど、駅前とかに行けば。
精神分析家なんかいやしませんからね。
二宮町とかには多分いないと思う。
関東を一円探して10人見つけられれば、
もっと今ならいるのかな。
でもとにかく少ないんですよ。
カウンセラーももっとはるかに多いけど診療ないかとかですね。
そうはいったって会社さんのように簡単には見つからない。
つまり自分の心の中にむし歯みたいなのを抱えている人は、
大変苦しいと思うんですね。
僕はそこでちょっと考えたんですよ。
つまりこの原因がトマトにあるのか歯にあるのか、
そもそもそれが簡単にわかる歯の問題と違って、
内面の問題が簡単にわからないと。
グッドバイオスみたいなものがどうして出てくることができるんだろう
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っていうふうにちょっと思うんですよね。
これって大変なことが起きているんですよ。
こういうフロイトがそうだったし、
メラニー・クラインちょっとわかんないですけど、
でもメラニー・クラインが見たのは子どもたちだったんですよね。
精神分析しなきゃならない子どもって大変なことが起きていると思うんです。
私は究極的には主観と客観を人が分ける能力はあるだろうと思うけれども、
滅多に発揮されることはないと思っています。
夢の中で夢だと気づける瞬間ってすごい少ないじゃないですか。
あれと同じなんですよね。
私が妻に対して怒るって言ったときにやってることは。
怒ってるときは実に理にかなってることをやってる気がするんだけど、
でも夢の中でも怒ってますからね。
全然理にかなってないですよね。
でも人がクレームメールをもらったり、
誰でもいいんですよ。
私と大橋さんでもなんかトラブルになって
言い争ったりしたことはほとんど全くないんですけど、
でもあったとするじゃないですか。
お互いそれ夢だとは思っていませんし、
自分が幻想抱いてるなんて思ってないと思うんですよね。
ところが幻想抱いてるし夢を見てるのと何にも変わらないんですが、
そのときほどそういうことには気づきにくいもので、
やっぱり歯が悪いんじゃなくてトマトが悪いような気がするんですよね。
だからこのときにどうしてもですね、
2者しかいないときは特にそうなんだけど、
第3点っていうものが、
どこかで見出されないとどうしようもない、
これは夢じゃなくて現実なんだっていう部分を見つけ出して、
現実であるということは、
多分ですが、
自分の中の良い対象と自分の中の悪い対象を接近させようとしている、
これは苦しみなのであって、
悪いお父さんが自分をぶん殴ってるからつらいんではない、
実際にぶん殴られてれば別ですよ。
だけど会社で嫌味を言われているみたいな、
あるいは会社で理不尽な言いがかりをつけられているといったような話であった場合、
直接物理的にダメージをくらっているのでないとすると、
その心理的な辛さというのは、
必ず自分の心の中にある良い部分と悪い部分が
くっつけられようとしているときに起こるはずの痛みなんです。
これを離しておかなければいけない、
良いお母さんと悪いお母さんに対応している、
自分の良い部分と悪い部分は
距離を空けていなければいけないというのが、
一番私たちが小さな子供の頃に身につけた心理的対処法なんですよ。
良いものと悪いものを分けておかなければいけないじゃないですか。
私たちは必ずそれをします。
生物として普通にそれはするんですよ。
だって怖そうなものから遠ざかるじゃないですか。
蜂を見たら自分、自分という大事なものを蜂を見たら
家の中に退避させる。
つまり良いものと悪いものを距離を空けるというのが
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生きていく上での一番原始的で基本的な考え方なんですよね。
娘とかに対して私は今でもそうです。
悪質な蚊がいるとか蜂が来ているとか庭にいたら退避させる。
つまり悪いものと良いものを分離させる。
これを私たちは心の中でも絶対やっているはずなんです。
良い私と悪いものに対処してしまっている。
悪くなっちゃっているというのかな。
弱くなっちゃっていると倉頼さんはぐっとワイを背負いますよね。
弱くなっちゃっている私を分離しておく。
だから一緒になろうとするとつらさが発生するんですよ、そこで。
分けようというのが基本なのに
要するにそれはある意味娘と蜂が同じところにいて
凍っているみたいなものですからね。
そういう風にならないように
良い部分の私と悪い部分が悪い。
弱った時の私というものを分ける。
通常はこれでうまくいくわけです。
良い人と会って自分が食べて気持ちの良いものを食べて
空調を聞かせて
良い環境に自分を対応させるということばかり私たちはしているから
これで良いんですよ。
これが嫌な人とは距離を空けましょうの基本原則ですよね。
その幼児の時に培った原始的な方法論をそっくりそのまま
成人になってもやるんですができない時にどうなるかというと
良いところと悪いところが混ざってくる。
そのつらさなんですよね。
それを私たちは外部に投影するんですよ。
外側がそういうことを強いてきたという風に考える。
だから心が傷つくという表現をとるんですよね。
実際には私の中で起こっていること
多分この良い対象と悪い対象を出会わせるということを
ある程度できるようになった時に客観性というものを帯びることができるんだろうなと思うんです。
違うとこれが暗黒みたいになるんですよ。
良いものが悪いものに全部取って変わられるような感じになってしまう。
ここが非常にややこしいところだと思うんですけれども
ただ最近よく思うのが
じゃあどうしたらいいんですかって聞かれるかもしれないんですが
聞かないでください。
私はこのことは自分の心の中で自分でやるしかないような気がしてるんです。
毎日都度こういうことが起きたらやるんですよ今では。
かつてこういう風に切り離したものがくっつくということはどういうことなのか。
この辛さに耐えられないくはないと思うんですね。
この辛さに本当に耐えられなくなってしまうと乖離が起きるはずなんですよ。
でも良い自分と悪い自分、弱っている時の自分と元気な時の自分は
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同じ自分だと頭の中で少しでも分かっていれば
多分この合体が起きても耐えられると思うんで
耐えられるから同じ自分でいられると思うんですね。
耐えられなくなるから人格が分かれてしまうんですよ。
耐えられなくならない限りは覚えてるはずなんです。
覚えてるというのはどういうことかというと
自分は倉園さんとやることにしたよなと
前にそうしたよなっていう
これを忘れてないってことは逆転しないってことなんで
逆転からっとするということは発見しちゃうんですよ。
同じ倉園さんがこういう面もあったじゃなくて
乖離してしまうというのは
あの倉園さんはそうではなかったんだってことになるんですよね。
発見しちゃうんですよね。
悪い人を発見するみたいになってしまう。
会社とかではよくありますよね。
良かった部分は全部なかったことになるんですよね。
歴史的経緯というものが一切認められないことになる。
私は大橋さんというパートナーと長くやっているので
彼のこういう面もあるという捉え方をしている限りは大丈夫なんですよ。
彼はこういう面しかなかったんだってことになったらアウトなんですよね。
その時僕の方が乖離してるんです。本当は。
こういうふうに取らないとおかしなことになると思うんですよ。
夫婦関係が一番多いと思うんです。
あの人は本当は優しい面は全部嘘だったんだっていうやつですよね。
不思議なセリフじゃないものとなっているんだけど
これを言った時はその人はたぶん僕は乖離に走ってるんだと思うんです。
少なくともある程度。
どっちが悪いっていう話を始めるためには客観が要りますよね。
だから裁判所ってものがあるんだと思うんです。
だけど2者しかいない時に客観性はないので
自分が乖離をしたという、たぶんそういう時に自覚するのは非常に難しいんですけれども
でも自分が乖離したということに気づかないということは
主観の世界にだけ行きますっていうことになると思うんですよ。
それが夢であっても現実であっても同じですっていうことになってしまうと思うんですよ。
客観を見に行くっていうのはそういうことで実は結構大変なことで
自分にとって一番良かったはずのものが悪くなったではなくて
自分が一番良い状態と自分の一番きつい状態は同じ自分なんだっていうことを
引き受けられないか引き受けられるかっていうことなんだと思うんです。
引き受けたくはないんですよ。
だって歯の痛みって引き受けたくないじゃないですか。
ただ引き受けたくないと思っているこれは
いつどういうふうに作り出されてどういうふうに痛いんだろうっていうことを
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観察していくことになると思うんです。
だからだいたい昔のことを思い出すことになるんですよ。
昔でいうと幼稚園時代とか小学校時代とか
記録じゃダメなんですよ。なぜ記録じゃダメか。
これは情緒的な記憶を引っ張り出してこないとあんまり意味がないんです。
情緒的な記憶って書いてあるだけでは結構思い出しようがないんですよ。
例えば悲しかったとかそういうことが書いてあってもしょうがないんです。
自分に感じた恥ずかしさとか辛さとか
そういったものを引っ張り出してこないことにはどうにもならないんですよ。
そういうのが再現しようとしている。
そしてそれを再現させないとするから相手と別れたくなるわけですから。
そういうことを今しきりにやろうとしているというか
やっているという最中なのが今私のやっていることなんです。
これがマトリックスなんですよ。やっぱりどう考えても。
この恥辱的な感じとか
とにかく切り離しておきたかった自分みたいなものが
蘇ってくるという時に客観性を求めているからこそそういうことをするんです。
主観だけでいいならばそんなことはしないんで別れちゃったらいいじゃないですか。
あるいは別れないにしても相手がこういうことを言ってきたから
自分は距離を置きたいんだって言っていれば済むじゃないですか。
こういう歯の痛みを思い出させるようなトマトだからいけないんで
食べないようにしようみたいので済むじゃないですか。
会社に行くというのは客観的な態度ですよね。非常に。
この話って現実に行くと苦しいというふうに聞こえかねないんですけど
僕はそうではないだろうなというふうに思っています。
そうではないと思わなかったらですね。
考えようによっては精神病でいたほうが幸せだみたいな話になりかねないんですよね。
多分この精神分析とかカウンセリングとかグッドバイオスもそうですが
こういったものが開発される、発案される大元になったときのところには
この部分があると思うんですよ。正気でいることは幸せだという
そういう信念みたいなものがあるはずなんですね。
なかったら治療するという概念が崩壊しますよね。
虫歯なんていい例なんですよ。
歯医者さんに今回言われましたから、大人の虫は特にそうなんだけれども
治療後のほうが痛いことがあると。
だからといって放っておいたほうがいいってことにはならないんですよ。
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それは歯医者さんの言い分ですから当然そうなんですよね。
これは結局痛い思いをしてでも治したほうが幸せですよって言ってるのと全く同じですよね。
ここに多分客観に向かう意味っていうのが出るんだろうなというふうに
そういうことなのかなと。
これが痛まないほうがいいから麻酔とか打ったほうがいいと思いますよ。
麻酔なしじゃ到底あんな治療はやってられないですよね。
それと同じように何らかの意味で
痛みのある自分みたいなものを取り込むときには
それがトラウマになってどうしようもなくならないように
移行対処というものを使いましょうって言ったのがミニコットっていう人なんですけど
移行対処っていうのは麻酔みたいなものなんですよね。
考えようによっては。
これをまたどう捉えるかっていうことはあるんだけれども
それは幼児の問題です。
大人になった場合は多分普通にやっぱり現実に向かうのが一番いいんだと思うんですよ。
一番だからそのときに問題になるのが自己責任って言葉なんですけど
そんな言葉は僕はいらないとは思うんですけれども
結局歯が痛いのは自分の歯が痛いんですよね。
それに対応するような心理的なマトリックスが目に見えると一番簡単なんですけれども
残念ながらそれは目には見えないので
こういう内省を繰り返していくということに
面白みはないかもしれないけど話としてはなるんだろうなというふうに思います。
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