転移の考察
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1191回をお送りします。 5月29日木曜日7時38分です。
えーとですね、タイトルを
どこかで精神力動的ラジオに切り替えたいぞと、 まあどうでもいいようなことでまだ考え込んでいる私ですが、
たぶん誰もこんなことを気にしないだろうなと思いつつ、 気にするから変えたいわけじゃないんだけど、
変えたくなりますね、定期的に私はね、タイトルをね。 なんら良いことではないんですよね、これは。
まあでも変えたくなるんでね、もうどっちかというとも、 良いことかどうかを度外視してやってしまいそうですが、
まだ変えていません。 今日はですね、昨日タイトルこそアーだったけど、まあ嘘はないんですけど、
コニー心理師になりたいのだろうかと。 まあ自問しているとも言いがたいんだけど、
まあでもね、やっぱりね年齢ってことも現実にはありますからね。 今から本当大学院卒業相当の何かを取るっていうことを考えても、
もうまったくこのモチベーションのなさからして、 それはできそうにないなぁという感じがします。
まあこの話はこのくらいでいいですよね。 3ヶ月チャレンジですね。
今私やっていて、本当に最近いろいろ思うわけですが、 これもずっと同じような話をしております。
今日は転移ということを久しぶりにちょっと考え始めたので、 これについて考えようかなと思ってます。
文化の影響
東映、ドイツ科の方がいいんじゃなかろうかと思うことも多いんですね。
松木邦野さんの転移覚え書きですね。 私はやっぱりこうだんだん最近わかってきた一つこととして、
私はいざとなると結局、ご本人そういうのを言っても反応されないし納得もされないし同意もされないと思うんですが、
私のやってることはですね、私の中ではね、 今は松木さん流儀なんですよ。
似てるとか彼に指示したことがあるとか習ったというわけじゃないんですけど、 一番納得感を持ってやれてるのはこれだっていう感じが最近してるんですよね。
クライン流とかではサラサラないし、美音よくわかってないし、 そういう意味でクラインもわかってないところはいろいろあるんですが、
ウィニコット流とかでも全然ないんですよね。 そういうことはできそうな感じがやっぱり一つしないんですね。
なぜなんだろうと思っていて思ってるんですが、 一つにはですね、やっぱり文化が違うって結構気になって最近思うようになったんですよ。
理論のベースに松木理論みたいなのないから、 結局クライン理論になるのかもしれないんだけど、
クラインとかウィニコットって結局ヨーロッパじゃないですか。 やっぱりヨーロッパ人にはヨーロッパ人のなんかあるなっていうのを先日ね、
J松崎さん奥様ドイツ人なんで、イタリア系ドイツ人だったかな。 割と話し込めたんですよね珍しく。いや話し込んでる場合じゃないんですけど。
認定トレーナーさんの懇親会なんで、 新規の認定トレーナーさん、3期の認定トレーナーさんとこそ話し込むべきだったんだけど、
なぜかJの奥様と話し込んでしまって、 いやこれやっちゃ自分サボタージュに近くねえかと思いながらもそういうことになっていたわけで、
しょうがないので、しょうがないのでっていうのは失礼なんですけど、 しょうがないからではないんだけど、ことの成り行き上、あの居酒屋って、今東京の居酒屋って極端に席が狭いじゃないですか。
でああいうところで身を着取れなくなって、お隣がもう、 しかもドイツ人の方なんでなのかわかりませんけど、アメリカ人もそうですけどドイツ人の方なんで、
もうなんか沈黙ってありえないみたいな感じなんですよね。 なんか埋め尽くされるんですよ。ちょっと話が今日に乗ってくると。
僕が何言ってるのかがわかってなさそうなことがわかっていても、あんまりそんなことには構わずに、 とにかく会話で埋め尽くされるわけですよね。
英語だから、まあわかんなくはないんだけど、 これもまたですね、えっと僕よく思う、だからこの辺にあるんですよ。文化的な問題が。
傾聴って言うじゃないですか。で、松木さんの本にも一心不乱に聞けみたいなのも書いてあるんだけど、 でも私あの日本人のJさんもおっしゃってたんですけどね。
あの日本人が傾聴してしまうと、あまりにも傾聴しちゃうんじゃないかなって思うんですよね。 日本人が言う傾聴って、やばくねえかっていう感じがするんですよ。
彼らは人の話聞かないの前提ですから。 Jの奥さんは日本人と結婚するぐらいだからやっぱ話聞いてくれますよ。
すっごい聞いてくれる方です。私のアメリカ留学体験とボシイヨーロッパ旅行体験からすると、 まあ彼らは話なんて聞いてくれないですよ。
なんかね、自分が話してなんぼだっていう文化が強烈なんで、 これ良し悪しじゃないと思うんですよ。日本人はこれをなんか日本人の引っ込み思案とか、常に良し悪しで考えようとするんですよね。
日本人は共感力が高いとか。でもあれは文化の違いであって、価値観が根本的に全く違うと思って書かないと意味ないなと思うんですよね。
引っ込み思案だから話せないとか、英語力が足りないから話せないんじゃなくて、 あんなに話す意欲を最初から持ってる日本人は滅多にいるもんじゃないと思います。
私の付き合っている日本人の中であれほど話し好きな人は一人もいないです。 アメリカ人の平均的な話し好きってすごいものがありますよね。
何て言うんだろう、割って入る能力の異常な高さ。 ということはつまり、あれは最初からそういうふうに生まれてきているんだからしょうがないんだっていうことなんですよ。
話し聞かないですよね。自分が話すっていうことにあれほど意欲的になってる以上、あんま聞いてないです。 だから英語力が達者になったからって話し聞いてくれるわけじゃないんで、聞く気は別に向こうには最初からそれほどはないって思ってないと、
無理やりでも聞かせに行かないとですね。 すごい親切ですよ、私の話なんかを聞くアメリカ人なんて。 すげー親切なんだなっていうことを実感しますね。
私一時、これはちょっと自分でも気が咎めたんですけど、でもそれで英語力すごい上げたっていうのが、危険性もあるから人に絶対進めるようなもんじゃないんですけど、
ストリート生活者、必ずしも路上生活者が日本でいうところの、それとは違うんですよね。本当にトレーラーで生活を普通にして学校にも行くみたいな、そこがやり方だっていうのが特にリノに行った時はですね、
多いんですよ。やっぱりカジノがあるから、どうしても生活が困窮して問題があると思うんだけど、別に法律でやってることだからしょうがないですよね。
で、まあそういうことがありますが、そこのトレーラーに行って子供にですね、生活費を少しかそのお家にあげると、もう永遠に話をしてくれます。本当に。なんかこう、5ドルとかでもできる。
だから僕はここで結構、あの、とにかくこの会話の、僕は元々日本でもそうなんですよ。 別に割って入ったりしたいと思うほど会話意欲を持ってないから、
アメリカ行くと完全に沈黙するんです。話はね、さすがに5年もいたんで、4年目には言ってることは全部わかるぐらいな感じになるんだけど、話したいと別に思わないんですよね。
日本でもそうなんで、ましてアメリカではそうなんですよ。なんかね、当時はほら、イラク戦争を生んで、アメリカ人はもう一旦火がつくと、そういう中近都情勢の話とかめちゃくちゃ好きなんで、
延々、もう夜中までずっと話してられるんだけど、僕はそこまで興味持てないじゃないですか。最初は興味持ってても、常に毎度全く同じような話になって、
けんけんガクガクになって、ほぼ国会になってみたいな感じで、もう僕は途中で寝ちゃうんですよね、正直。悪いけど寝ちゃいますみたいな感じで。
だから、あれに入っていくというのはどういうことなのかを、このトレーラーの中でですね、結構学んだんですよ。
まあ全部ほとんど見失いましたけどね、そういうのはもうサバイバルに近いんで、別にいらなくなるじゃないですか。日本に行ってこんな能力は、むしろ変な人になっちゃいますから、
単にものすごくマニックな雰囲気の人になってしまうので、日本であれやってるとね、私はまた日本に行くと元のまったりモードに戻っちゃうわけですけど。
久しぶりにそのドイツ人の奥様とお話しして、でもすっごい僕の話に耳を傾けてくれる人でも、僕の5倍は喋るわけですよ、絶対に。
ということは、傾聴モードには全然、日本人の傾聴には全然なってないはずなんですよね。
っていうか、そんな感じになりませんからね、感覚的に。つまり、あの傾聴ってまずいんじゃないかなって時々思うんですよ。
Jさんも言ってたんですけど、日本人の傾聴ヤバいよねっていう感じがするんですよね。ごく普通の人でも、カウンセラーで3倍ぐらい傾聴してるんじゃないか。
私はアメリカでCBTを3人の人から1年に渡って受けたんですけど、誰も傾聴なんかしてくれなかったですからね、日本人の感覚では。
基本的に向こうが喋ってるようなって感じがしました。
言葉数が英語だと増えるってこともあるんで、全部主語喋るとかそういうことが実際あるから。
あるんですけど、でもやっぱり同じ30分とか短い感じだったんで余計そう感じたんですけど、3分の2は向こうがはっきり言って喋ってるような。
日本人でいうレベルのマシンガントーク、確かにアメリカ人の平均からすればあれで傾聴だってのはわかるんだけど、
日本人的にはあれを傾聴とは感じないよねっていうのはありましたね。
特に大学院生レベルだと聞いちゃくないですよね。
まだ女性はやや聞いてくれるかなって感じはあるんですけど、すぐ例によって例のごとく例のアメリカ人長で、親切なのはよくわかるんですけどね。
例によって例のごとくな。
みたいな感じで始まっちゃうんですよね。
始まっちゃうなみたいな感じで、これを始まらないようにできないかなみたいに僕は一時努力してたんだけど、当然できるはずもなくだったわけですね。
変移の理解
何が言いたいかというとですね、話が盛大にいったんですけど、変異というものは起きるんだってことなんですよね、僕が思う。
まして日本人が傾聴するように傾聴してしまったら、変異が起きないわけがない。
だってやっぱ僕も結構アメリカ行って泣いてましたもん。
なんかカウンセラーと話をして、あんなに傾聴されなくたって泣いちゃいますもんね。
やっぱり苦労するんで、留学生ってやっぱ苦労するんで、話聞いてくれるアメリカ人親切だわ、僕はそういうのに弱いんで、すぐ泣いちゃいますからね。
そしてしょうが大丈夫よみたいな感じで、すごい優しいお母さんみたいになるんだけど、向こうは何とも思ってないんですよ。
何とも思ってなくはないんだけど、日本人が感じるそれとは違うんですよね。
つまり、変異ですよね、これは。
起きるんですよ、これは。どうしたって。
起きずには、起きなかったらむしろサイコパスなんじゃないかって思うぐらいには起きますよね。
で、そうは言っても非正規なんで私は。
変異をマッシブルに扱うってわけにはいかないし、なるべく起きないでほしいなぐらいに思っているのと、
逆転移は、自分の状況を探るぐらいにとどめているケースがほとんどですが、
そうは言っても、のっぴきならず変異ですよっていう、これを変異と言わないんだったら、あなた自分、嘘ついてますよっていうぐらい変異になっちゃうことはあるわけ。
で、特に真っ最中はそうなんです。
その時に、松木さんの定義覚書みたいなものを読んで理解できるような、やっと読んでやっと理解できるみたいなものは全く使えないんで、
臨床例で読んでいても定義がこうだったみたいな、さらっと書いてある、
あれが本当はどうなのかとかは、その人にならないと絶対分かんないことだと思うんで、
私は安易に行こうと、こういう時は。
もう分かる範囲でやろうというふうに思う。
開き直ってるとも言えるんだけど、しょうがないんですよね。
その時分かることには限りがあるんで、これは定義なんだし、もう逃れられないんだ、こういうことやってる以上はっていう。
だから僕は逆に考えるんですよ。
世の中に対人支援というのは心理支援だけがあるわけじゃないんだから、やっぱりこれはもう開き直りに限りなく近いですけど、
すべての対人支援者は力道の概念は使っていいんだっていうふうに僕は思うことに、
10期入る前あたりに決断して、これは対人支援なんだから、心理支援じゃなくたって対人支援なんだから、
変異は起こるし、起こる以上は使うんだという。
完全なんか分かってなくてもしょうがないから。
転移の理解と重要性
だって完全に分かるの待ってたって、支援者は待ってくれませんからねっていう非支援者ね。
参加者さんはそれを待ってる場合じゃないんで、
しかも他に行きましょうとか心理支援につなぎましょうとかいうのはデタラメだなって最近思うんですよね。
デタラメではないけれど、非現実的だなって思うんですよ。
いつでもそんなに都合よくはできないよねっていう。
だって、たとえ1週間待ってくださいだっておかしいような気がするんですよ。
今喋ってるわけだから。
今喋ってることは、いまいま何かが求められてるわけじゃないですか。
答えられないことに答えてはいけませんっていう話もあるんだけど、
そう言いながらもいろんな正規の本を読んでいて、2回に1遍は何に答えられるかは自分らだって完全には分かってないってセリフがサラッと出てくるわけですよ。
サラッと。そこに嘘はない感じがするんですよね。
それに1回や2回で答えが出ない以上は結局時間はかかるわけじゃないですか。
心理支援にまつわる事柄というのは、しかし本当にそれを解決しなければならないことかっていう問題も常に問われているんです。
もちろんことが緊急性を要する場合、でも緊急性を要するのにこれから一緒に探しましょうっていうのもおかしいし、緊急性を要しないのに、
なぜすぐに心理につながなければダメなのかっていう問いにも直球で答えるのは実は難しくて、
しかもすぐに転移というものが進行し始めるというのを3つ合わせて考えると、
やっぱりこれはまず転移っていうものについて知っておくよりはしょうがなくて、
知っておいた知識で間に合わせて使っていくよりは仕方がなくてっていうところが、
だって起きてることが転移っていうのは怪しげですからね、普通に考えれば。
自己愛パーソナリティとの関係
全然怪しくないんだけど、普通に考えれば怪しげですからね。
学校の先生は間違いなく絶対的に体験しているんですよ。
お母さん扱いされたことがあるっていうふうにおっしゃる学校の先生は、私はもう50人今知ってるなって感じがするんですよね。
そうなりますよね絶対、ああいう体制をとっていればですね。
その中にはもう本当に完全にそれお母さんでしょうみたいになっているケースも稀にありますよね。
当然それは後で困ったことになるけど、そうは言ってもしようがないだろうっていう感じってやっぱないわけじゃない。
そういう時に真理につなぎましょうっておかしいじゃないですかやっぱり。
つなぐことができて即座につなげて、しかもそれが絶対いい結果になるっていうならそうするべきだと思うんだけど、
普通は多分そうはできないだろうなって思うんですよ。
例えば金誰が出すんだっていう話をした瞬間にもう吹っ飛ぶ可能性も十分ありますよね。
共同先生がダメだと言いましたみたいなそういう話も絶対あると思うんですよ。
ことはそんなにスムーズには運ばないだろう。
やっぱり無理してでもやらなきゃいけないケースはあるかもしれないけどですね。
でこの無理してでもやらなければいけないケースがあるかもしれないって思った時、
一番どういう時だろうと考えてみるとですね、相性が悪い自己愛パーソナリティの人と対面した時が、
自分は必ずそのことを考えなければならなくなるというか考えたくなるみたいな日がちょっとしました。
だけどこれはわかんない。今のところ架空の話でしかないんですけど、
相性が悪い自己愛パーソナリティという人と対面した時に、
自分はおそらくこれはですね3ヶ月チャレンジ以前にちょいちょい体験したんですよね。
ちょいちょいですよ。個人セッションで体験したわけじゃないんだけど、
ちょいちょいあれはあったみたいな。
で、あの時だったら自分はもうなんか非正規云々じゃなくて心理史につなぎたくなるみたいな。
逃げたくなるってことなんだけど、そういうことが起こる。
でもこれはある意味、だからここで2つの倫理に板挟みになるなって倫理的に言うなら。
それって逃げじゃんっていう、逃げって倫理的じゃないじゃないですか。
でも心理史につなぐことこそが倫理だって概念があるじゃないですか。
だから、はっきり言って低欲に逃げたくなるわけですよ。
いやもうこの場合、僕に責任ないんだから心理史に押し付けられるんだ。
ぜひそうするよっていうケースですよね。
だから重篤薄皮、自己愛であることはほぼ確実で、しかも自分と相性が良い感じがしない。
ついでに言うなら男性みたいなね。で、なんかちょっと暴力的みたいな。
これは見た感じの暴力性ってことですよ。殴られたことがあるってことじゃないですよ。
転移の実践的側面
でもこの人に殴られると自分はなんかこう、結構致命傷多いそうで。
しかもスカワで、しかも相性も良い感じがしない。
なんか昔のいじめっ子に似てるとかね。
そういうことであれば、ぜひ心理史につなぎたくなるみたいな感じしますね。
なんなら自分のことをよく思ってなさそうな心理史のところにこの人連れて行きたくなる。
もう全然倫理的じゃないよね、これは。っていう感じがしますけど。
あり得ない話ではないと思うんですよ。
で、テイがしかしそういう人に直面すると、瞬速で起きる気がするんですね。
まず僕、怯えますもんね、絶対に。
それって悪いお父さんを相手に見ちゃうわけじゃないですか。
で、相手の人も間違いなく薄皮の人であればですね。
まあ屈辱感というものを常に警戒してかかって僕と対面しますよね。
恥を欠かされるに違いないっていう。
もうなんか僕の前に立つことが恥だぐらいな勢いでいらっしゃることもあるんですよ。
まず絶対タスク修道の悪口とかが始まりますよね。
もうこれは何度か体験していないことではない。
全部が自己愛とは言いませんけど、その方のナルシシスティックな部分が発動すればまず言いたくなること。
いや、タスク修道使えないじゃないですか。
いや、これ分かるんですよ。
今まで当時は分かんなかったんだけど、タスク修道ってダメですよねみたいな。
いや、それは大橋哲夫さんに言ってくださいみたいな気もするんだけど。
あるいはなんですけど、ビジネス書書いてるやつってクズですよねみたいな。
これも1回あるんですけど。
それは分かる。私に来たいっていうのは分かるんですよね。
なんかもうその人の中ではナラティブが十分出来上がっていて、心の中の佐々木翔吾と何回か喧嘩してると思うんですよ。
シナリオも練りに練ってきて、そのシナリオの途中から始まってるから、僕にはすごい唐突に感じられるわけですよ。
シナリオはもうすっごいその人の頭の中で何度も再生されてるから、
どこまでが自分との会話で、どこからが僕との会話かが、もうすでにその人の中では分からなくなりかけている。
だからビジネス書書くやつとかクズだと思うんですよみたいな。
これがもう挨拶の前に来るみたいな。
はじめましてみたいなのの、はじめましての代わりにこれが来るわけですよね。
で、今はそれがよく分かるんですよ。
これって東映なんですよね。
まず東映から、でも人間関係、東映からスタートするんで、この内容から始まると驚きますけど、そして当然不愉快にはなりますが、
でも考えてみるとこれってそんなに驚くようなことじゃないなと。
東映が始まり、人と会い、東映したままの、つまり佐々木と喋ってるつもりになってるけど、自分の心の中の会話が続いているということが始まり、
で、その佐々木の姿形は多分僕と似てるでしょうし、喋り方も僕と似てるでしょうし、考え方も僕と似てるところがないわけじゃなさそうな、
その佐々木イメージみたいなものが僕に投影されてるわけだから、僕はだんだんそれに合わせていく。
こいつ不愉快だって、こいつに俺は恥をかかされるんだっていう、そしてこいつは心の中で俺を見下してるんだっていうその気持ちがあるから、やっぱり僕はそれにこうして一化させられるわけですよね。
僕がそれと関係なくに対応しても無視されるわけですよ、基本。
無視されるか拒絶される。
例えば、ビジネス株安ってクズですよねってなったら、僕はなんか反論するっていうふうにその人の心の中でなってる、決まってるはずなんですよね。
で、僕が反論せずに、いやまあそういうこともあるかもみたいなことを言うとすると、ここは無視するか切り捨てる必要があるわけじゃないですか。
その人の佐々木像に合致しないから、と想定していたナラティブと合わないことを僕が喋りだすと、うーんみたいな感じで、そういう発言をする奴は無視みたいな感じで無視されて、
いるうちにですね、だんだんその人が対応しているときには、私はどういう反応をするべきなのか、そしてだからこそ自分はこういう態度なんだっていうのに、合うように合うように奮いにかかっていくようなことが起きるわけですよね。
まあ同一化が始まるわけですよね。力が僕に、プレッシャーがかかるわけですよ。佐々木役をやれ、その気に食わない佐々木役をやり、ここで喧嘩しようぜっていうことになってるから。
そして10分ぐらい開放すれば、そういう展開がスタートしますよね。
いやでもそこまで言われますと僕もね、みたいなことを言っちゃったりしないですけど、するとするじゃないですか。そうするとだんだんだんだんこう乗ってくるわけですよね。
これが転移と逆転移だと思うんですよ。これが一番確実にか言いますか、起こすためのルームはカウンセリングルームでしょうし、こういうことが成立するっていう世界はあり得ると思うんですね。
でですね、大事なことは、その人は少しも悪くないんですよ。これが大事なんだと思うんですよね。
同情しろっていうわけじゃないんだけど、これはパーソナリティ障害って全部基本、基本的にやっぱりボーナーライン付近の話って基本的に同じで、僕らもみんなそうなる時はあるし、
この人はそうなってる時が長いか、あるいは私といるとそうなっちゃうとか、そういうことがあって、その人がすごい礼儀正しい感じがしようか、なんかかなり失礼な感じがしようか、そんなことは大したことじゃなくて、
その人は、なんていうのかな、悪くないってことなんですよ。これはすっごい大事なんですよね。なんていうのかな、その人は自分の心の中で対話してるだけなんで、
私はそれを真に受けちゃいけないんですよ。真には受けるんだけど、真に受けさせられるんだけど、でも真に受けるもんではないんですよね。
だってその人は心の中で対話してる。つまりですね、私が学生時代みたいにある女の子とイチャイチャしているという妄想を持ちながら、
その方の女の子と対面して喋ってる時には、急にさすがにイチャイチャはできないじゃないですか。僕だとしかねなかったけど当時は。
この感じで別に僕悪くはないと思うんですよ。その態度を出さなければ特にですね。
妄想の中でそういうのを繰り広げちゃうのはしゃーないと思うんですよ。
まして、結局私はイチャイチャしてた母親なんだけど、なぜそんな年になっても母親とイチャイチャしたかったかというと、
たぶん、本来そう扱われるべきでなかった年に、ひどく大人びた扱いをされたからだと思うんですよね。
そういうことをうちの母は言ってたりしました。これをもっとひどい状態にしてみるとですね。
ひどくお父さんが息子さんに屈辱的な目に合わせるとかね。屈辱的っていうのは別にあれですよ。性的な意味である必要はなくて。
例えば、円筒とかさせて、5メートルしか投げられない時にお父さんが横で50メートルくらい投げてみせて、
お前ダメだなーみたいなことを言う。めっちゃ屈辱的なケースがありますからね。これは100回やるとかね。
そういうことをやられている人がですね、ビジネス書なんか書くやつダメですよとかって言うというのは悪くはないと思うんですよね、その人に。
別に罪はないというか、そういうことなんだと。別にこれと同じことがあったと思う必要はないんですよ。
心の中に屈辱感があるということは、決まってそういう話と関係がないはずはなくて、当然そのお父さんにやり返したくなりますよね。
そういう役をたまたま僕が振られているというのであって、だから転移が起きるわけですね。
転移の理解
これはわかりやすい例であって、多かれ少なかれ起きるんですね。で、多かれ少なかれ起きる以上は、多かれ少なかれ対応しないわけにはいかなくなります。
その時に、この相手の転移像というのを何らかの形で、それがつまり学科に寄っていくんですけれども、何らかの形でそこを乗り越えていくしかないんですが、これができないんですよ。
というのは、相手にとっての、さっきも言いましたけどナラティブで、合わない部分はスルーに落とされたりするんで、私がいくら、ビジネス書を書くやつはろくでなしだっていうあなたの気持ちがよくわかりますって言っても、それはスルーされるんで、
基本的に私は、その人が見たいと思ってるっていうか、見ることになってるササギ像以外の姿をすることが不可能になっていくんですね。
ここで一旦行き詰まると、ここでどういうふうに動けるかっていうか、動かないんですよね。動かないのが一番いいっていうのが、まずベーシックにあるわけです。
何でかっていうと、その人の想定をどこかで外さなきゃならないからなんだけど、具体的に外してみせても意味がなくて、唯一意味が残ってるのがですね、具体的には何もしないという外し方なんですよ。
これだけがその人が体験しなかったところの多分差先なんですよ。
もし親がですね、結局のところちゃんとしてくれていた場合は、隣にいてくれたはずなんですよね。
親がしなかった唯一のことは、じっと黙ってどんな状態になっても隣にちゃんといるってことだけは多分しなかったと思うんですよ。
事故あいとか回避とか、子供がそういうふうになっていくとするならば、その親は多分言うべき時に言うべきことを言わないし、やんなきゃいいことをやたらやるみたいな、特に後者多かったの。
なんか昨日も柱に縛る話とか出しましたし、水風呂につける話とかもしましたし、あるいはこうなんですかね、一番絶対目を離していけない時にはパチンコ屋に行っちゃうとかね、そういう話をしましたし。
それがいけないって話じゃないですよ。それはまあ、事故になったら問題になっちゃいますけれども、何にも起きなければ、それはそれで親だってパチンコ行きたいよねってのはわかるんですけど、
親子関係とその影響
そういう話とちょっと違って、親は何かをしてるってことなんだと思うんですよね。
だから時間がかかるんですよ。だって時間かけないと何にもせずにいるってことを示せないですよね。
つまり、挑発めっちゃされて、その時腹を立ててもなお、腹は立てるんだけど、腹を立てた様子も見せるんだけど、しかしその人は結局その人に対する態度を変えないし、いなくなっちゃったり、いやもう連絡してこないでくださいとか言わないし、やっぱりそこに繰り返しいるわけですよ。
何か木みたいだなって思うんですよね。木みたいってのも変なんだけど、植物ってそうじゃないですか。植物だって傷つきますよね、傷をつければ。薄材とかをついても、でも黙ってるじゃないですか。何か植物みたいであるべきだなっていうのはしばしば思うんですよ、こういうことをやってると。
これを乗り越えようとして、相手のナラティブを裏切ろうと頑張っても、だいたい相手のナラティブ通りになってっちゃう。これがだから東映ドイツ科の偉いところというかすごいところなんですよね。
大体の場合、親じゃなくてもいじめられたとか、ある種の出会った人が良くなかったということで、こういうふうに対応されるっていうことに、自分のこの心持ちだと相手はこういう態度になってしまうっていう、そして関係が破綻すると。
だから一番ポイントになるのは関係が破綻するということなんですよね。親子関係であれば、そもそも関係が成立していないってことだと思うんですけど。
だから対象喪失なんですけど、親対象喪失するっていうのは親が亡くなってもいないのに喪失するということは、喪失なんていうのかな、成り立ってすらそもそもいないって感じなんですよね。
だから成り立ち続けている関係は既にカウンセリングになってるはずなんですよね。代わりにその成り立たせるのがすごい厳しいわけですよ。
破綻させようとある意味していて、破綻プレッシャーがかかってくるわけですよね。
だから私だったらタスクシュートとか教会とかビジネスショー作家とか、足様に言われ続けなきゃいけないわけですよ。
既にこればっかりじゃないけど、最もやりにくそうなものとしてこれなわけですよね。
そして、「いやいや、あなたがそういう気持ちになるのはわかりますか?」って言ったら、それは無視されるか罵倒されるかになってしまうわけですよね。
いやいや、わかってないから、みたいな感じで、さらっと。
そして結構厳しくやられるわけですよね。
でもこれを繰り返していても、じゃあまた来週ってことで、実際来週になればちゃんとその関係は戻るっていうか、その関係は継続されるっていう。
これもただ来週になれば全てを忘れてるっていうんではダメだと思うんだけど、少なくともやり返すとか、関係ぶっちぎるとかそういうことをしないということによって、
その人とそれまで関わってきた全ての人の態度からずれた態度に出ていられる。
で、ずれた態度に出ようとすればするほどずれなくなっていってしまうという、東映ドイツカの、不思議ではない。不思議ではない。
不思議ではないんだけど、非常に精密な働きが働いてしまうので、
だからどうしても相手の人には私が嫌な母親役だったり、嫌な父親の映像そのものにだんだんなっていってしまって、
その彼の映像の中に入っていけないわけですよ。
私がどうしても私が本当はこういう気持ちですっていうのは外に留め置かれてしまって、
彼は現実の外の方は見に来ては絶対来れないわけですよね。
一番見る必要があるものは絶対見ようとはしないっていう、そういう感じが続くんですよね。
これが多分定義な。定義はそして起きるんですよ。とても厄介なんですよね、これは。
なんとかこの人に私悪意ないですって伝えようとしても、悪意ないですと伝えてくる悪意みたいになってしまって、
どうしてもこの映像の、彼の映像の中には入っていけないっていう事態が続くんだけれども、
にもかかわらずなぜかこの関係は終わらないっていう。
普通だったらこの流れの中で終わってしまうのがパターンなんだけど、終わることだけは決してないみたいな。
そういうことによって、何か一定の効果っていうものが上がってくるんでしょうね。
だから本当は3ヶ月で切る理由はないってことになるんだけど、
ということをやるから30ヶ月チャレンジですとか言っても、人は猜疑の目で。
だからこれも投影されてしまうというんですよ。
やっぱりこう、ここがだから正義と非正義の問題を一番クローズアップさせてるところだと思うんですよ。
正義の心理、婚姻心理師さんとか臨床心理師さんにしてみると、
心理カウンセリングというものに対する偏見というものを減らそうとしているのに、
わざわざ増やしにかかる奴らがいるっていうのが最大の問題だと思うんですよね。
でも私はそもそも心理臨床の世界ってのは投影を扱う世界のはずだから、
そこはもう有名勢みたいなもんじゃんという気もしなくはないわけですね。
そこも一緒に乗り越えるっていうのも一緒にはまして変なんだけど、
でもそういうことになるんじゃないのかなっていう感じは、
最初から好意的な人が来たらなんか妙な感じがするんですよね。
ファンだから心理支援に来るってもんじゃないと思うんで。
やっぱりやりにくさっていうものが気に食わないっていうのは、
僕らがPS的になるとき、やりにくさというものは歓迎するべきとまでは言わないですけど、
やりにくいから仕事になってしまうわけじゃないかなって感じはします。
仕事ってのはやりにくいもんだろうって感じがするんですよね。
やりやすい仕事が来るのを望むってのは、
やっぱり部分対象を期待する自己愛みたいな感じが、
支援的な自己愛みたいな、そういうことを言う資格も権利もないんですけども、
そういう感じが、だからなんですよ。
だから相性が悪い人が来たら嫌な心理診断に連れてっちゃおうみたいに思うというのは
倫理的でないと思うんですよね、やっぱりね。
でもそういう手に余るのを引き受けちゃうのも倫理的でないみたいな話があって、
こういうジレンマみたいなものがあるってことが仕事らしさってことになるんではないだろうかと。
あんまりこういうことに自分を頼んじゃいけないと思うんですけども、
でもそういうことぐらいはあるよなと思うんですよね。
だってみんな会社とかに行って大変な思いしてるわけだから、
なんか心理支援とか大臣支援と言いながら、
なんか気持ちよくやってるっていうのはあまりにも、
みんながみんな同じように苦労するべきだって話にもならないんですけども、
そこは本当にいろんなことがありますが、
少なくとも相性悪いぐらいは引き受けられないとあれなんじゃないだろうかと。
でもこれはあれですけどね、
相性が悪い人を引き受け続けるっていうのは本当にどうかと思うんで、
結局一対一になってる以上は、
相性が全く作用しないはずはないし、
分かんないんですけどね、相性とか言ったって。
終わってみると全然違う人間像がそこに登場するのが、
この話の常なんで。
思った以上に展開が変わるなっていうのはありますから、
相性を言っててもしょうがない、
というか相性なんてないなって感じもしなくはないんですけど、
でも最初からお前相性なかったかっていうと、
相性ありましたみたいに。
それはあるんで、実際。
最初の方は僕は母親コンプレックス強かったから、
女性の方がやりやすいという大きな誤解をしてましたから。
今では別にそんな風には思わないですけれども、
当初は女性の方がやりやすいなみたいなのって勝手に思ってましたからね。
そういう風になるのも、自分のコンプレックスに強い作用を受けますよね。
ここにも逆転医がどういう逆転医だと妖精転移になりやすいかっていうのはやっぱり、
それを人は相性と呼ぶんですけれども、
あるんですよね、絶対にそういうことって。
起こす前にと僕は、
自分のコンプレックスに強い作用を受けないといけない。
起こす前にとするという発想そのものが、
もう既に非常に素人臭かったなって思うんですよ。
素人なんだけど。
起こす前にとすれば起き、起こすのを少なくともディレイできるとでも思っているところが甘いんですよね。
やっぱりね、考えてみればわかる話なんですよ。
だってあってすぐに起きて、
起こす前にとすると、
自分のコンプレックスに強い作用を受けないといけない。
起こしてるところが甘いんですよね。
やっぱりね、考えてみればわかる話なんですよ。
だってあってすぐにタスクシュートはダメですよみたいなこと、
これが開口一番だからねっていう、初対面だしね、
っていうことがあり得るのに、
変異というものがそこに起こってないとでも思ってるのが、
嘘くさいじゃないですか。
明らかにその方は私に向かって喋ってる。
本当に私に向かって喋ってるんだったら、
私やっぱり怖くてできないと思うんですよね。
だって私のこと全く知らないわけじゃないですか。
私はおよそ人に食ってかかるとか、
殴りかかるとか増してないですけれども、
何が起きるかなって分かんないわけだから、
やっぱりこう、分かってると思ってるからこそ、
それが言えるんですよ。
こういうことは、分かってないのに分かってると思うということは、
その人は心の中で会話をされているのであって、
僕と喋ってるわけじゃないんですよね。
これがもう教科書通りといえば教科書通りなんですよ。
彼は自分に囲まれて、テレビに囲まれていて、
そこに佐々木が映ってるように見えてるというだけなんですよ。
映ってるんでしょうけど、
でも私はそこにはいないんですよ。
これは本当にポイントで、
私がそこにいるようになってくると、
だんだんテレビに映ってる佐々木らしく振る舞うようになるというだけの話なんですよね。
東映ドイツカーは。
面接における転移の考察
あなたこうしたいんでしょう私をっていうのに、
乗ってしまうということですよね。
で、乗ってしまった以上は、
今後乗ったものとして扱われるのは当たり前なんですよね。
いや、本当は別にあなたのこと嫌だと思ってないですからと言って、
もうスルーみたいな感じで、
本当は嫌だと思ってるのは分かってんだよみたいな話で、
終わってしまうわけですよ。
まあ、うちの肉親と兄弟と話していると、
もう、ここは本当徹底してるなあみたいな感じで、
もう親について何を言っているのか、
親について何を言おうと私が何を言おうと無駄だなっていう、
スクリーンだなっていう感じ。
なんかこうね、よく忍者漫画みたいな、
昔、車のワサミさんの風魔の小次郎とか読んでると、
気がつくと霧が立ち込めていて、
そこからなんか敵の幻影みたいなのと戦ってるうちに、
後ろから刺されてやられるみたいな、
そういう幻影技みたいなのがよく出てきますけど、
まさにそんな感じで、
いやもうこの人絶対幻影の世界にいるから、
もう私がなんだかんだ言う言葉、
一つ一つが虚しいっていう感じがするんだけど、
でもやっぱあれですよね、
フロイトが言いましたけど、
無意識に受話器を差し向けるみたいな、
なんとかこう無意識でいいから届けようとしないと、
何にもしなくなってしまうと、
不作為ってやつだよねっていう感じもするし、
その辺からやっぱりその辺で、
立ち往生しちゃうんですけれども、
でも立ち往生してからなんだなっていう感じはします。
立ち往生してからが本番っていう感じ。
相手が間違いなく投影を始めている、
これももうそう思うよりもか仕方がないという、
そこからがスタートであって、
ここでやっぱり終わってしまったら、
何も始まらないし、
ここまでに起きたほどっていうのは、
応援のための準備段階と言いますか、
だからその時にすでに3ヶ月経っちゃってたら、
どうするんだよっていうことはあるんだけど、
そこはやっぱり現実原則ですよね。
それは個人の限界ですってことなんだろうなと思いますね。