精神分析的な考察
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1190回をお送りします。
5月28日、水曜日、7時半ですね。ようやく、なんかちょっとどんより空を抜けてですね、この地にも清々しさが戻ってきて、今日は富士山もくっきりなんですが、
なかなか寝られると、
まあいいや、あのまあでも月末はいつも私こんな感じになってる気がしますね。やっぱり月末って、
支払いが激しくなるじゃないですか。税金の徴収とか年金の徴収とかですね。
連発されるわけですよね。保険料の徴収とかですね。これは月の頭に回したって別にいいんだけど、大して事態は変わらないので、ただ、
なんかこう、なんていうか、欲打つ的な気分が月頭の方にも展開されるということになるに過ぎませんから、しょうがないな、これはっていうね。
まあ人間ちょっとみんな金に困りすぎですよね。もう少しなんとかならないのかなという感じも、
要りもしないものをいるように思わせれなければいいっていう感じもしなくはないんですけれども、大体それで世の中うまくいったことはないような気もするんですよね。
難しいですよね、この問題明らかに。人と物の関係ですよね。まあいいや。
まあまあそういうわけでなんとなくこう、
大体天気と裏腹に気分って結構なるような気が私なんかするんですけどね。
まあまあ、でもそんなに落ち込んでるわけでもない。お金がなくなってるってわけじゃないんで、大きく減ると恐ろしくなるという、
なんていうのかな、精神的習慣みたいなものであって、あの感覚はほんとね、お金でPSポジションが揺さぶられるところを感じるたびに、
自分で根本的に主線度なんじゃねえかって思う時があるんだけど、多分これみんな同じなんですよね。
どう考えても、あの、給料日っていうんですか、俗に。私の場合はまあそれは印税が振り込まれる、
これのタイミングもはっきりわからないから、まあ書いてあるんだけど、会社によってマチマチなんで、なんか不意に入ってきてラッキーボーナスみたいに思ってるんだけど、それは愚かなことで。
だいたいこう伸ばされて伸ばされた結果、今に至ってるに過ぎない。もう貰うことを忘れてしまってるっていうのが、そもそもそれを物語ってますよね。
この時のほう、こんなに電子だったら売れたんだと後から気づくみたいな。ここで誤魔化されてても気づかないんですよ。
でもそういう結構ね、あの日本ってすごいこう、国はダメだみたいなこと言われがちですけど、すごい消費者省とかよく頑張ってくださってて、
私のところにも消費者省から来るんですよね。不正に誤魔化されたりしてないみたいな感じで来て、過去分も戻って取り戻せるし、ちゃんと分かってなくても俺たちやるからみたいな、そういうのが来るんですよ。
まあ真面目にやってないんですけど僕はそれでも。そうやってもね、すごいごくわずか増えるか増えないかなので、あとあの僕がやったってことはバレないようにやりますみたいなことも書いてあったりしてですね。
ひそかに来てるんですよ、消費者省さんから。いつどういうタイミングで来るとかはわかんないんだけど、気はするんですよね。だからあの、あれですよ、コンテンツメーカーちょろいからと思って適当やってると適当に誤魔化しているとですね、結構ある種のことが起きたりするようにちゃんと仕組まれているんで、
まあ別に私は半元さんとの関係って悪いと思ってないんで、ぼんやりしてていいやと思ってるんですけどね。こういうどうでもいい話をしているということはつまりあまり調子が良くないということなのかもしれません。
ノラカウンセリング問題の考察
本題というか本題ないんですけどね、本当にこの番組。ただ私この番組一つに分けようかなって最近はすごく真剣に考え始めています。なんか最近こうどうでもいいジャスタイデンを次から次へと考えついてはここでベラベラ喋ってるだけのような気がしてくるんですけど、でもホームページ作りましたからね。
ホームページは近日中にちゃんと公開するぞっていうようやく5月がやっぱり終わろうとしているから、J松崎さんもおそらく無事に帰っているといいんですけども、ドイツの方にお帰りになって今頃は犬と戯れていると信じたいところなんですが、犬がねなんか見ると彼はメンタル戻るらしいんですよね。すごいなって思うんですけど犬がすごいよねと思うんですけども。
私も犬飼えばいいのかもしれませんけど、なんかちょっと違うような気がするんだよね。私実家には犬いたんでね。犬がいればメンタルが大丈夫っていうのは人による気がしますね。まあまあいいや。
で、というわけでJさんが帰られると、僕はある意味劇的にまた暇になるとも言えなくはないわけですね。これはJのせいで忙しくなったぜって結局そういうことになるんだけど、別にそういうわけではなくてですね。
彼がせっかく来てるからね、日本で彼と付き合える時間は全部そっちに回そうということで、そうすると当然自分の時間が激減するというたったそれだけのことで、彼は帰ってしまったんで、私はその分また元に戻ると。そういうだけのことですね。
で、今日はですね、皆さんが多分お待ちかねでないノラカウンセリング問題について、だから調子が悪くなるとこの話がしたくなるんじゃないか疑惑はあります。調子悪くなってないな。お金のことを不安に思うとこの話をしたくなる疑惑はあります。
お金のことで不安に思う人はないんですけどね、はっきり言って。なんでかって言うと、やっぱり25日がクレジカの引き落とし日で、それに抗うするわけではなくて、その中辺に保険料やら税金やらがどんどん収納されていくから、怖くなるというそれだけのことですよ。
はい、えーと、で何だっけ。んーとですね、ノラカウンセリング問題と僕が言ったのはですね、ノラカウンセリング問題でもなんでもないんだけど、これがノラカウンセリング問題になってるんですよね、日本では。
日本ではって言うと、あらかもですね、みんなそう言うからそう思っちゃうんですけど、日本の心理カウンセリング界隈が遅れてるっていう風に考えられてるんですけど、僕は全然そう思わないですよね。日本めっちゃ進んでるじゃんって思うんですよ。
だってベースに来ているものがそもそもオーストリアだのドイツだのイギリスだのアメリカだのから来るから、それは遅れるに決まってるじゃないですか。第一に英語で来るわけじゃないですか。その段階で我々不利ですよね。これが日本発のものを日本語で出せばいいって言うんだったら絶対遅れないわけですよ、そこまではね。
反対のことをやるっていうことか、どんだけハンディがでかいかということを考えると、日本すごいよくやってるじゃんって思うわけですよね、私なんかはね。これはですね、もう一つ遅れている感じがするのは、人の国の最先端のものしか参考にするはずがないからなんですよ。
これはそうですよね、人の国の一番遅れている部分とか参考にするはずないですよね、わざわざ英語とかで、なんかすごいダメダメなカウンセラーのダメダメな臨床例をいっぱい並べ立てて、それ全部で英語で一生懸命読みましょうっていう、そういうアホみたいなことするわけないじゃないですか。このことはですね、人文知とかだから一番わかりにくくなるんですよね。理系だったらすぐわかる、少なくとも人文知よりはわかりやすいと思うんですよ、絶対理系だったら。
これがスポーツだったら一発なんですよね。だって試合すればわかるから。これがそういう比較の仕方ができない分野では、なんかこう遅れてるということが永続するわけですよ。最先端は常に向こうから来るわけだから英語で来るわけですからね。日本人だって英語で論文出して、向こうに結局のところその国際なんとか協会でチェックしてもらって、そのトップが日本人であることはまずない分野ではですね、遅れてるように感じるに決まってるわけですよね。
それを持ってどうして日本が遅れてるって思うのかが問題なんですけど、この見え方は絶対するんで。あのMLB見てるとわかるじゃないですか。大リーグですね、さっきも見てたけど、大谷さんが参戦しましたけど。明らかに日本人選手が今トップを、ホームランも1位が日本人だし、ピッチャーも防御率1位と2位は日本人なんですよ。まあ戦画という思うとだからねって感じもしますけどね。
で、そこだけ見るっていうことを僕らするわけですよね。そこだけ見るから、いやーなんか大リーグすごいよねって思うんだけど、そりゃそうですよね。世界で一番すごい人たちがそこに集まってるのを一番上の部分しか見てなければものすごく見えますよね。
あの大リーグでも僕がいたカンザスシティのね、カンザスシティロイヤルズの球場に行って、ほとんど消化試合みたいな試合見ると、大リーガーがどれだけ適当なプレーをするかっていうのを目の当たりにすると、なんかもう、いや日本のクソ野球ほどひどいとかは全然ないんですけど、もともと身体能力高い人たちがやってるから。
どう考えても日本の高校野球でもこれよりいいプレーはあるなっていうレベルになっちゃうときはあるんですよ。見てればわかるんですよ。だから、あの、全試合見てるわけじゃないですからね。どんな人たちは大概は。まあたまーにすげー大リーグバニアとかいて、なんか全試合見てましたけど、あの台湾人とかが、ああいう人たちはごくごく例外であって、お前はなんか野球おじさんかみたいな人なんで。
何が言いたいかというとですね、あの日本の心理臨床は僕は進んでると思います。私、日本でノラカウンセリングという問題と言われてるものは、この国のやっぱり心理カウンセリング状況がある意味進んでる。それは、だからイギリスに比べれば進んでないですよ。一番最先端のイギリスと比べて日本の最先端が遅れてるって言い方をするなら、そりゃそうなるよね。絶対。
でも、あの絶対じゃないな、これだって。でもそのノラカウンセリング問題みたいなものっていうのは、あのすっごい難しい問題だと最近は思うんですよね、やっぱりね。
さっきたまたま山崎隆さんのyoutube聞いていて思ったんです。動画を見ていて思ったんですけど、やっぱりそのホームページとかに認知コードやってますとか力度やってますとか、まあ彼はそうは言ってないけど、そういうのを書いといた方が利用者利用しやすいよねっていう趣旨のことがおっしゃってて、だからそのことを一つとってもですね、心理臨床会のややこしさってあるわけですよね。
あの認知コード旅行をやってますとか、力度やってますって書いたからと言って、我々がわかるほどのリテラシーをですね、まだ展開されてないような気がするんですよね。知れ渡ってないと言ってもいいと思うんですけど、我々はその自備化なのか眼科なのか、
歯医者なのかは、もう別に何も考えることそれほどなくパッと分けられるんだけど、それは習ったからとかじゃないですよね。身体だからっていうのが一番適当だと思うんですよね。ところが、心理臨床ってものは扱ってる部位という言い方をするならば全部心だから、わかんないわけですよ。認知行動と精神分析はどう違うのかっていうのがわかんない。
しかも、分野ごとにすごく独特の偏りがあるので、わかりにくいだけでなく選びにくくもあるわけですよね。こういう問題があるもんだから、それを持って遅れてるとかいう話じゃないと思うんですよね。もともと精神分析も認知行動も日本初じゃないんですから、だからこれが偏ったり、最先端からずれて出てきたりするっていうのは、
そしてそれを大抵の日本人はリテラシーとして持ってないというのは当然のことだと思うんですよ。こんなことで10分使うつもりは全くなかったんですけど、ここから一生懸命本題に近づこうと、一旦こういう展開しちゃったからね。この流れで行くしかないなって思っております。
つまり何が言いたいかというと、別にこういう話がしたかったわけでは全くなくてですね。私たちは何かしらの困りごとというものを抱えると。私は今心理臨床を名乗る必要ないなとここ数回言ってるわけですけど、それはつまり悩みというのは別に心の悩みだけではない。
心理と行動の関係
現にほら、私今金のことで悩んでるわけじゃないですか。ある意味ね、不安になってるわけじゃないですか。不安というのを取り出せば、それは心なんだけど、これは金の問題であって、金が少なくとも何でもいいんですけれども、セミナーするなり本を売るなりしたい奴がもっと入ってくれば、このことでは悩まないわけですよ、私は。
でも一方で、そういうアプローチの仕方もある。つまり金を儲ければいいっていう考え方もあるわけですよ。それを認知行動とは言わないと思うんだけど、でも行動によって事態を修正していくということになってくると結果が伴ってくるじゃないですか、そうするとある意味では行動を扱うということは、すごく心理臨床ではない感じの心理臨床になっていくわけですよ。
だから認知の歪みとかって言ったりするんでしょうけれども、でも認知は心なのかっていう、今は認知って脳だって話にだんだんなってくるから、認知心理学っていったようなものもありますけどね、すごくだからその辺も微妙になってくると思うんですよ。
心だけをとにかく取り扱うなら、金の儲け方とかいう話をするのはおかしいんで、心理臨床では多分金の儲け方は話さないと思うんですよね。だからそういうところに、さっき言った野良カウンセリング問題っていうのが出てくるわけですよ。でも私はそういう話をしたいと思えばできるわけですよ。
私金の儲け方なんか知ってるわけじゃないから、知ってれば自分がそんなことで不安になるはずないわけですからね。知らないんで、そんな話はしないんですけれども、したいと思えば別に僕はできるわけですよね。心理臨床やってるわけじゃないんだから。しかも専門である必要すらないわけですから。専門だと言ってませんからね。
だから金の儲け方を話しますって言って。だってお金儲かればお金がない不安っていうのは解決するじゃないですか。そういう観点から考えれば、実は人間関係の問題は、いやだってそれは人間関係であって心の問題じゃないからとか、それはお金の問題であって心の問題じゃないからとか、体の病気の心配をしてるのは体の病気の話であって心の問題じゃないからっていうと、心の問題って何よっていう感じにだんだんなってくると思うんですよね。
私、ずっと力道のことを、何かというと力道を参照し、何かというと力道を話題とし、何かというと力道的に説明したがる私ではあるんですけれども、力道の話ってどんなにいろんなことを言っても、なんだかんだ親子の関係について喋ってる感じがするわけですよ。
最近はとかくそうなってきたんですね。3ヶ月チャレンジにおいても、こういう3ヶ月チャレンジに入ってくる人にハードル上がる、あるいは興味なくなるかな、何でなのかっていうことをつらつら考えてるわけですけれども、我々は人間関係というものを難しくしてしまうんですよね。
難しくないのかもしれないけど、人間というのはやっぱり、ものと違ってですね、裏表がそんなに巧みに使い分けられてるわけでも、裏表をね、サイコパスみたいにこう、ものすごく裏表が凄まじいですみたいな人が周りにずらっと今、そういうふうに主張する人もいますが、僕は信じてないんですね、基本的に。
ここがちょっとまたややこしくなってくるんですけど、信じてなくはないですよ、話としては。でも、事実はそうではないだろうなというどっかに思ってるんですよ。というのは、私が知る限り、人ってのはそこまで巧みじゃないんですよ。でも子供にとっての親は巧みですよね。親が巧みでなくても。こういうふうな問題があるもんだから、どうしても親子関係というものは、ややこしく、ややこしくなっていくわけですよね。
子供は親に裏切られるというシーンが多いんですよ、どうしても。私自身のことを考えても、うちの親のことを考えても、いや、あの人たちにそんな芸当がやろうとしたところでできるかっていうとできやないんですよ。それはもう火を見るより明らかなぐらいできないんですよ。あの人たち素朴ですからね。すぐ騙されそうですから、どっちか。いや、そんなに簡単には騙されないけど、人を騙す能力が抜群に高い。
まあ坊主だから、それはもう多分それじゃ成り立たないと思うんですけど、父親はね。母親だって結局寺の奥さんですから、やっぱり人を騙す能力が抜群に高いとかでは、むしろ務まらなくなってしまうんで、そんなことはないわけですよね。でも子供は親に騙されたというふうに感じがちなんですよね。
どうしてもごく普通の、そんなどっちかっていうと、騙す能力の低い親であっても子供なんで、子供はもっと素朴なんで、騙されてはいないんだけど、騙されたと思うんですよ。
騙されるっていうのって、すっごくその人の世界の文脈というものをよく表していて、騙されてるのか騙されていないのかを、実は事実としてあるだろうというふうに、すぐに我々は思いがちですが、事実としてないと僕なんかはめちゃくちゃ思うんですよね。
親子関係の複雑さ
クラザノケイゾウさんが面白い話をしてくださったことがあって、うちも全く同じようなことがあるなと思ったんですけど、お母さんはそんなに学歴高いとかじゃないんで、クラザノケイゾウさんは一応申し訳ないね。
大学で、多分英語が結構大事だった大学に行かれてたんだと思う。何にせよ大学なんで、お母さんよりは英語は全然できますよね。大概の場合そうです。
お母さんがそれで、せっかく息子がそういうのがわかったから、あの時代の人って英語コンプレックス強いんですよ。だから私も通信で英語勉強するわみたいになったらしいんですよね。
それで、でもあの時代の人なんで、通信は間違いがあると恥だって考えるんですよね。だから事前にクラザノさんに全部添削してもらうというね、Good Vibesのクラザノケイゾウさんね。
まあこの話はね、すげーよくわかる気がするんですよね。でも満点じゃなかったと。だからもうお母さんは辞めちゃったと。
で、クラザノさんに向かって、お前が嘘をつくからこういうことになったんだと、すげー怒られて、いや嘘はついてない。そういうことってあるじゃないですか。
つまり嘘とはそういうものなんですよ。そのお母さんにしてみるとそれは嘘なんですよ。騙されてるわけですよ。
どんなに騙してなくて、その事実のどこにも嘘も騙しもなくても、やっぱりお母さんにしてみればそれは騙されてるし裏切られてるし、結構傷ついてるわけですよ。
これほど自分が恥をかかる。だから、まああの九州の方の女性なんて本当にあるんですよね、そういうのは。
だからその、子供が親が毒親だと。本当に酷い目にあったんだ。なんで信じてくれないんだってなるのは、信じてないわけではないんだけれども。
いや、わかんないですよ。虐待というのが世の中にないと言ってるわけじゃないんですよ、これは。
それを言うならば、ただこの倉園さんのお母様は、倉園さんに全く騙されてなかったことは言い切れないんですよ。
もしかすると三単元のSとかを見落としてたのかもしれないんですよ。
で、倉園さんのお母様から見た倉園さんは、大学に英語の成績を持って、なのか知りませんけど、入学している、英語が有名な大学に持って入学してるんだから、
自分が通信添削やる中学の英語ぐらいで、パッと見て満点が取れるような答案に添削できないはずがないんですよ。
はずはあるんだけど、わからないじゃないですか、そんなこと。
もう絶対、2たす2とか3たす3とかいう問題が並んでいるところを、大学の数学の先生が添削して見落とすぐらいに思われるんですよね。
まあ、それだって見落とすことあると僕は思いますが、そういうことですよね。
だからもう絶対許せないことになるわけですよね。絶対そんなことはあり得ないと。
これを見落としたということは、私に恥をかかせるために、大丈夫、大丈夫って嘘をついたということになっていて、
その事実は、もう心の中では絶対に取り返しがつかないレベルで本当なんですよね。
親的現実。私そういうことで、母とか妻とか父とすら、どうしてもいい争いになることって何回もあります。
いや、俺は嘘はついてないと言ってんだけど、相手はそうは捉えないわけですよね。
絶対お前はめんどくさいからやらなかったとか、まあそういうこともあるけど、嘘をついたとか。
つまり、グッドイナフマザーって言われているものは、こういうポイントに食い込んでくるんですよね。どうしても食い込んでくる。
そして当然そこに深刻さのレベルの差っていうのが出てくるわけですよ。
あの、なんだっけ、まつきさんの章例は結構ひどいのが多いから、やっぱり柱に子供を縛りつけて、1歳児とかですね。
1歳児を縛りつけて、もうちょっとでご飯に届くってところまでは縄があるんだけれども、どうしてもご飯には届かないというところに縛りつけられた経験みたいな、これがもう非常に大変なことを生むわけですけど、
心理臨床の重要性
そういう話があったりするんですよね。それもグッドイナフなのかドッグウェアなのか虐待なのかみたいな、この議論でもですね、私はすることは自体をひたすらややこしくするような気がするんですよね。
で、でですね、私は今日その話がしたいわけではなくて、で、ここで野良カウンセラーという言葉の響きの怪しさというか、怪しさとその使われ方っていうものを、私は自分の立場があやふやだから考えざるを得ないんですよ。
この縛りつけられた人を扱い切れなかったとした場合、した場合ですね。私はだからこの松木さんの症例について書いていて、彼が非常に独特のこれの切り抜け方をされて、どう考えても非常に難しい局面で、僕は一箇所も松木さんに責められる部分はないと思うんですけど、でも松木さんはつまりグッドイナフマザーなんですけど、
いやいやそれはダメでしょうっていう、この話はね二重に話がややこしくなってるんで、一旦切り分けますね。私はここで野良カウンセラーの話に持っていきたいんですけど、要するにこういうの、こういう方は取り扱うのはすっごい難しくなるに決まってるわけですよ。
だって、ものすごい世の中に対するある種の恨みを持って、それを投影してくるわけじゃないですか。松木さんのちょっとのミスも疎通も一切許さないですよね、この種の人にしてみると。
この一切の時の記憶が残っている人にしてみればですね、本当にこう自分に対して世の中というのはこう、なんだっけな、シャメルベケットっていう非常に虚無的な劇作がいるんですけど、
あるんですよ、よく似た、あの人そういう目にあったんじゃないかと思うんだけど、もうちょっとで食べられそうなところまで、飢えた囚人たちみたいな人たちのところにこう糸でするするするって食べ物が降りてくるんだけど、食べようとした瞬間にフッてあげられるっていう、つまりですね、ベケットが何が言いたいかというと、
これがだから不在のおっぱいと悪いおっぱいの問題だと思うんですけど、問題なのは飢えだから、食べられないということだけのはずですよ。不在のおっぱいですよね。おっぱいがない、それが問題。でもそれはないだけなんですよ。でもベケットからするとそこには不意があるわけですよ。
ベケット流の表現を使うと、彼がそういったか知りませんけど、神は存在しないが悪魔は存在するって感じなんですよ。でもそれって論理的にちょっとおかしくないかって感じもするんだけど、神は存在しないが悪魔は存在するっていうのがまさに良いおっぱい、悪いおっぱいの、特に悪いおっぱいの的な世界だと思うんですよね。
不在なんだけど、不在じゃない。積極的にそこに攻撃してくる母親っていうのがいるんだと。だから悪鬼みたいなやつがグワーってやって、ヤマンバみたいなやつがグワーって食いに来るわけですよ。
ファンにミルクくれないとか、ミルク忘れられてるだけじゃないんですよ。喰らいついてくるわけですよ。悪意があるわけですよね。
梅津和夫さんもそういうような作品よく描かれるんで、やっぱりそういう目にホラーの人ってあってることがあるんじゃないかなって時々思うんですけどね。
まあそういう目に合うんですけど、でもさっきのほら柱に縛り付けられていて、ちょっとでこうご飯が食べられるんだけど取れないという目に合わされた人は絶対世界に悪意を見ちゃうじゃないですか。
本当はそれもある意味では単に何かがないんだけれども、そうは取らないですよねその状態。どう考えたって悪意があるって感じがしてしまう。
あるじゃんと言われればあると思うんですよ私も。ただそこに悪意があったのか、実際には何かがなかったのかみたいな議論をここで一生懸命するメリットってトータルとしては少ないなと私は思うんだけど、この考え方自体が悪意ですよ。
そしてですよ、これを言うのが正式なのか非正規なのかで、私は大きく扱われ方が変わるだろうなってやっぱ思うんですよ。
でもこの議論をしているということはですね、このことを私のような人間にしてもですね、してるってことは意識してるってことはやっぱり私は日本の心理臨床は進んでる方だと思うんですよね。
これかなり高度な議論だと思うんですよある意味。つまり私のような人間は野良なんでどうしてもこのグレーゾーンにある悪みたいなものを寄せ付けられてしまうと思うんですよね。
こういう目にあっている人というのが世の中には私はたくさんいると思うんですね。感情のゴミ箱にされるみたいな言い方ってあるじゃないですか。
結局家族関係にはそこをクローズアップしてみるとそう見えるってことはあると思うんですけど、別にこれは私は野太紗友子さんのような方を批判しているつもりはないんですけど、
つまり家族の中とか権力勾配みたいなものに敏感であるということは悪いことじゃないと思うし、敏感であることによってやっぱり割り置く側の人たちに押し付けられている悪事みたいなのってひどいよねってのはひどいと思うんですよ。
だけれどもその議論に行かないのがある意味心理臨床だと思うんですよね。これが冒頭の体の問題とかお金の問題とか取っていったら心理臨床に何が残るんだと思うんで、私はむしろ心理臨床は積極的にこっちを自分の領域に取り込んでいったほうがいいんじゃないかと。
これを福祉とか社会問題とかに押し付けていけばいいほど自分の領域が空っぽになっていくような気がするんですよ。これをだからこれを野良が言うのと正義が言うのとでは扱われ方が著しく違うし、私たち、まあ私たちって言っちゃいましたけど、野良的な非正義的な存在としてはですね、グレーゾーン本音を言うと扱いたくなくなりますよね。
切ることの重要性
だってグレーゾーンを扱った時に失敗した時の風当たりの強さは常に非正義の3倍から10倍みたいになるわけじゃないですか。同じことを非正義がやった場合と正義がやった場合じゃ絶対私は、つまりですね、松木さんがその種の人たちのその話、つまり手が届かないところとか押し入れに閉じ込められた人って話をした時に、結局のところあまりにも長いから。
なんかかかりすぎてるから時間を切ったと。だからこの時にですね、何だっけあれ、ウィリアイも来日だったな、来日からの文章を引用して、あのここまで行ってしまったらもうただ続けているということは、フライヤーにとってもカウンセラーにとってもここから先やり続ける意味はないという、つまり終わりある分析終わりなき分析の話なんですけど。
つまり、だから時間を切ったと。でも時間切らないのがやっぱりフロイト流だったと思うんですよ。松木さんはどこまで行ってもフロイトには忠実みたいな雰囲気の書き方をしばしばされますから、でもやっぱりこう切ったみたいな、松木国弘さんの本の中に切った話が出てくるというのはですね、あのやっぱりそのいわゆる軸字だろうを言ってるんですか、字書けないやつであったと思うんですよね。
でもこれ以上やっててもしょうがないよなっていうふうに。で、切ったことがこう、どう考えても切ってよかったというふうに僕には読めたんですね。僕の読み方ですけどね。切ったことによってこういう進展を得たんだろうなと。少なくともそういう書き方だし、まあそうだよねと。むしろ書き方がえらい慎重だよねと。
切っておいて、こうなってよかったですって言うんで、いいじゃんって感じがするんだけど、あの先生の書き方は常に愚道者的なんで、切って本当によかったのかどうかわからんみたいなノリがどこまでも残っていて、いやー真面目だなっていうふうに思うわけですよね。まあいい意味でなんですよ。
で、私は最初から切ってるわけですよ。とにかく3ヶ月でですね。で、3ヶ月なんかでは切れないというケースは多々あるっていうのは承知の上ですけれども、何しろ同じ問題、つまり同じ問題が正規か非正規がやってるかによって、ほとんど意味が真逆になるということっていくらもある。この切ったっていうのがまさにそうで、切らない、時間を長くしますというのだって、
正規の精神分析の世界で見ると、長く責任感を持って最後までやり届けようってしている立派な話になるんですよ。これを僕がやると、搾取してダラダラと意味のないことを続けている、あの、なんていうの、そういうやつってことになっちゃうわけですよ。真逆になるわけですよ、意味がね。
だから、この話、この種の話には非常にセンシティブになるしかないわけですよ。同じ10年ってなったって10年間分析をやって偉いですっていうふうに、正規の方ではみなされるでしょうし、知らんけど。で、僕がそれをやると10年間、効果のないことをやり続けていて、金だけもらっているやつってことになっちゃうわけですよね。
この種のことが、私はグッドイナフって言葉の中には、両方絶対含まれなければダメだって思うし、グッドイナフなんだから当然そうなるはずだとは思うんですよ。だから私は野良でしょうからグッドイナフカウンセラーなんですよ。しかし、一番素晴らしいところから一番素晴らしくないところまでグッドイナフなんですよ。そうでなければおかしいと思うんですよ。
グッドイナフじゃなくなって、グッドとバッドになっちゃうじゃないですか。グッドとバッドということを言い続ける限り、良いおっぱいと悪いおっぱいのスプリッティングから逃れられないと私は思うし、やっぱりこう、一番悪いのと一番良いのと足して2ではあることはできませんけど、でもその足してしまって、もやっとする。
だってもやっとするじゃないですか。正規と野良を足してどっちもグッドイナフです。そんなはずあるかよって怒り出すじゃないですか。怒るということはPSポジションじゃないですか。ここで何かを分けなきゃいけない線を引くのが正しいんだと操作的に考えるっていうのが、線を引くってめちゃくちゃ操作的じゃないですか。一歩間違えば線を引いた向こう側は人権なくてもいいんだぐらいなこと、この話っていうのはよく人権的な話で出てくるんだけど、これを言い出すといくらでもこの種の議論ってできちゃうんですよ。
だって死刑制度ってそういう問題を必ず含むじゃないですか。この種の議論ってすぐできるんですよ。だけれどもグッドイナフっていうのは僕は真逆だと思うんですよね、その発想。だからPS3ってある意味真逆だと思うんですよね。操作できないということを納得する世界なんですよ。納得できないんだけども、納得するしかないから納得する世界なんだと思うんですよ。
今正規と非正規をこれほど真剣に分けようとしているときにごちゃ混ぜにするということ。でも私はこれを線をピッて引くっていうことほど、PSに近づくやり方はないような気がするんですね。これはある種の批判になっちゃうんでしょうけど、そこはもうしょうがないなと思っています。
だけれども多分線は引かれているし、引かれ続けていくし、線はある意味濃くなっていくのかもしれないですよね。それはそれでもうしょうがないと思うんですよ。別にそこに僕は不平不満をそれほど強く鳴らす理由も持ってないし、立場でもないんですけれども。でも、これって結局そういう話に最後はなっていく気がするんですよね。
やっぱり親は、つまり親に不平を鳴らすの当然だと。私だって鳴らすんだから。で、そのとき鳴らす資格なんてものは問われる理由がないと思うんですよね。親に不満を言う。お前はだってよくしてもらったんだから不満を言う理由ないだろっていう話をしてしまったら、もうどんな人にどんな資格があるのかを誰が認定するのかわけわかんなくなっちゃうじゃないですか。
だから、鳴らすということはできると思うんですよ。あとはもうどっちの方が酷い目にあったか論争を避けたいのであれば、でも最終的には何をもって良しとするかっていうことになってくるんですね。それについて何かを言うことはできなくなると思うんですよね。何をもって良しとするかとか、十分に良いくされたでしょうと誰が言えるのかって話になったら、私は誰も言えないはずだと思うんですよ。
誰かがそれを言う、誰かはそれを言えないっていうのはおかしいような気がするんで、誰も言えなくなると思うんですよね。誰も言えなくなることを納得するかしないかなんだろうなと、最終的には。
それはだって、すごいちゃんとした大学に入れてもらいました。その時までのお金も全部出してもらいました。親はすでに新民になってくれましたっていう方と、殆ど殴る蹴るの暴行でしたっていう家とあるんだから、その場合は線引けるでしょうって思われると思うんだけど、僕は木を追うごとになんですけど、さんちゃれやっていて、それすらも微妙だって思うんですよね。
どっちの方がいいかって言われると、みんなこっちでしょうって言うかもしれないんだけど、そんなことはないっていうのが最近。だから教育逆転みたいな話ですけど、それは新民になっているように見えて、親はいつも家にいてくれるように見えるかもしれないけど、明らかにいてほしくない親が常に家にいて、そして常に良いことを言い、常に正しく生きさせようとしていて、親は間違いなくそう思ってるんですよ。
そしてまあ子供は全員東大に入りましたみたいな家に育つということの苦痛がどんなものなのかということを私は知らないんで。だって親はそういう意味じゃないからね。両親とも東大ですみたいな、兄弟も全部東大ですみたいな、そういう家で、そして常に正しくいいことしかしない家。
社会的役割と自己認識
例えば、程よくゼルダの伝説はするみたいな。ある本に書いてあったから、1日25分だけはしていい。その後5分必ず休まなきゃいけないみたいな。そういう家に育つことがどういうことなのかっていうのを私は知らないんでね。
それはパーフェクトですって言われればパーフェクトなのかもしれないけど、パーフェクトな家に育てられるということは実はめっちゃ大変なことなんじゃないんだろうかというか、正気ではとてもいられないんじゃないかなって感じが自分は時々します。そしてそれに近い話を話しとして聞いてみたりするとですね、まあ率直にこう思うんですよね。
いやー俺この家に生まれなくてよかったってホッとしてしまう。でも次の瞬間こう思うんですよ。だけどお前自分の家にいたことはそれほど幸福なことだったのかっていうと、果てって思うんですよね。これ非常に不思議なんですけど、自分がどんな家に育ったか忘れてしまうんですよ。そういう特殊な話を伺って。
特殊だと僕が感じた話を聞いた時にはですね、特殊な話しかある意味聞かないので、聞く話聞く話が特殊に聞こえるので、その分自分は普通だと思ってるわけだけど、そして普通とはいっぱいあると思ってるんだけど、そもそも自分家普通かっていう風に考えてみると家寺だったしな、鳥必ず避けるっていうことしていた時期があったし、クリスマスは絶対ないし、それが悲しかったってんじゃないですよ。
ただマジョリティではなかったよね。一番悩んだことがあったのが、子供の悩みって本当そういうやつなんですけど、あのうちの少年野球でですね、おみこしを担ぐっていうのがあったんですね。これは知ってる人は知ってると思うんですけど、おみこしは中にご神体が入ってるわけじゃないですか。私絶対担いじゃダメなんですよ。肩がもげるみたいなこと言われるんですよ。でもあの時はもう担がないという、自分はだって微妙なポジションだったんですよね。
レギュラーっているじゃないですか。レギュラーは絶対真ん中を担ぐんだけど、私純レギュラーだったんですよ。純レギュラーってのは一番そういう時に、ある種の何か、子供の感じ方ですけどね、何かを示しをつけるみたいなことだけを要求されがちなんですよ。あの種の時代の子供の純レギュラーみたいなのは。
だからお前ダメなんだよみたいなことを言われがちで、何かにつけて示しをつけることばかりを要求されるんですよ。大して技術差はないからね。そういう純レギュラーが、いやおみこし家で担げないんですよみたいなこと言っても怒らないんですよ。あの時代のおじさんたちには。でもめっちゃ怒られましたね。担いでるところをお母さんに見られた後に。
あの時の怒られ方は、ああ、我が家でもこういうことはあり得るんだというふうに、宗教論争って大変なんだというふうに思う一つの契機にはなったんで、まあいい経験だったんですけどね。担いだのは後にも先にもそれ1回だけなんですけれども。まあガンとしてそのまま僕は担ぎませんでしたからね、やっぱりね。
まあ、でもこういう家に育たなくて良かったとまでは思わないような出来事なんだけど、つまりどういう家に育つのがいいなどというのは、やっぱりこう一般論として喋る、一般論として話せますけれども、一般論として話すことの意味って、まあ薄いなという感じがやっぱするんですよね、私はね。そしてこの種の発言は常に迂闊であるはずなんですよ。ここが最後の話ですね。この種の発言が迂闊でないはずはないんです。
私はグッドイナフー何なのか知りません。カウンセラーではないな。グッドイナフー何なのかは知りませんが、グッドイナフーな存在でしかありえないんだなってのはそういうことなんですよね。パーフェクトでは絶対ない。私に誰かがこういうことは言ってほしい、言ってほしくない。
セッション5をやってるわけだから、これをここを徹底的につけば、この人は問題のある人なんだと人を認定するのはあらゆる人について私は可能だということを最近理解しました。
これができないように、自分は何としてでもこれをされないように気をつけているって方は残念ながら脅迫的になり戒止的にならざるを得ないんだっていうことが最近ようやくわかりました。
家庭環境の影響
迂闊にしか意気込まない。これはグッドダイブスで倉田健さんが言っている話にほぼほぼ合致しますけども、でもどんな人だってこのことでは悩んでいると私は思うんですよ。
いやもうそんな浮かすでしか生きられない。決まってんじゃんと言ったって気をつけるもんなんですよ。いくらか気をつけるからグッドイラフなんですよ。逆説的なんですよ。これはどこまで言ってもですね。
全く気をつけない人はある意味パーフェクトですよね。でもそんなことできるはずないんですよ。今時外でタッチションできないでしょう。こんなことすらできないじゃないですか。
まあしない方がいいですけどね。でも昔はしてたんですよ。本当にそこら中でおじさんたちが、私もしたこと何度もあるし、子供の時に。別に不思議はなかった。おまわりさんの前にしたことだってありますもん。捕まらなかったですもん。
怒られもしませんでした。それが昭和だったんですもん。あの時代から見てタッチションを原罰に処置とかっていう法律が追加されたわけじゃないのに、いつしか誰もしなくなりましたよね。
非常に面白いですよね。で、こういうことすらも気をつけてるんですよ、我々は。気をつけなければ元に戻るはずなんですよ。
だって僕、毎日とは言わないまでも週に1回は誰かのタッチションを見てましたから、外でですよ。
今全く見なくなってるってことはその分世の中は脅迫的になったはずなんですよね。そういうふうな意味で僕らみんなグッドイナフなんですね。
より良く見えるようになろうと、よりだらしなく見えるようになろうと、そこに明快な線は引けなくて、そして両極を見ればどっちがいいか自明じゃんというふうに見えても、決して実は自明ではなくて。
だって私はどっちか選べと言われたら究極の選択で2択。
皇族として生まれるか天皇家に生まれるか、家で水風呂につけられるような家に生まれるか選べって言われる。めっちゃ悩むと思いますよ。
いいとされてる方がどっちか自明ですよ確かに。だけれども本当にそれが自分はそうしたいかって言われると、
いやーなんか家でいいわみたいになるんだけど問題はその家というのはそんなにものすごく良かったのかと。
お前40年もアトピーだったのにどうしてその家はそんなにいいんだと言われると、果てとなるわけですよ。
で、果てとなった時にこの次の問いが私は余儀るんですけど、今あなた正規のカウンセラーにすぐしてあげるって言われたら、なるって聞かれたら、果てって思うんですよ。
自分心理カウンセリングとか心理臨床、正規の人間としてすっごい楽になる部分はいっぱいあると思うんですけど、やりたいかって言われると、取りたい、公認心理師欲しいと言ったらあげるよって言われる。
本当にねこのボタンを押せば公認心理師になれますって言われてボタンを押すかって言うと押さないと思うんですよね今の私は。