2021-12-24 40:08

【GMV521】グッドバイブスでよかったこと

一年の振り返り
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今日はですね、先日治ったばかりの値違いが再発し、これはグッドバイブスではまだ僕は解決しきれない悩みの一つですね。
冬になると、夏でも僕は値違いが増えるんですよね。
若い頃は、すげえきつかったけど1日あれば治ったんですけど、今は1日では治らないという状態なので、年齢なので。
これがなくなったらだいぶいいんだけれども、あるんですね。
先日治ったばかりなのにまた治るみたいな、ある種の間違った動きによるものだから、ゆだるっちゃゆだるなんだけど、
それをやっているのはほぼ夜中なので、意識がゼロじゃないにしてもですね、それを防げるかというと、今のところまだ微妙なんですよね。
これは今後のものというか、これも不思議なんですけど、以前ほど厳しいものではなくなったんですよ。
騙し騙しかな、みたいな感じ。でもあんまり気分のいいものではないんですよね。
明後日、先送りのオンラインセミナーをやりますと。話に来てくださいみたいなのも含めちゃいます。
結構ですね、以前よりはただ話すということが好きになっていて、これはグッドウェイブス効果だと思うんですけど、
ただ話すということであっても、割と相当萌え向きにやれるなという感じがあります。
以前は結構、決して後ろ向きだったわけじゃないんですけど、セミナーとか講演とかそこそこやってたと思うんですが、
以前はですね、常に仕事となるとモチベートしてたんですよ。
で、私はそれが結構できる人間だったんで、あれはイリュージョンなんだけど、できると思ってたんで、
だいたいタスクカフェとかもそうなんですけどね、毎朝。全然元気ないんですよ、朝起きた段階では。
5時とかの段階ではもう死にそうな感じなんだけど、やるときにはもうすごいかなり自分の中では、自分意気ではテンション相当持っててるんですね。
で、今はそういうことは一切していないんですよ。
最初から後ろ向き感は何もないので、こういう違いがあるのかなというふうに思っています。
見た目は多分違わないだろうなという気がします。
03:03
で、そういうことで明日ですね。
明日ってもう寒いということのようですが、書き上げ塾5期第1回が開催されますので、
これはもうお悩みの方は、なお悩んでいらっしゃる方は、クリスマスだと思って、よくわかんないですけど、
お申し込みいただくと我々としてはとても嬉しいです。
もちろんビジネスという面もありますけど、可能性という面も捨てがたいなと。
私最近この可能性という言葉を一生懸命考えるようにしているんですけど、
これはまたイリュージョン的な面もあって、いろいろややこしいんですけどね。
可能性というのはつまり、多分これ編集さんのところを感じる可能性と似ていると思うんですよね。
グラノンさんはもともと編集さんでしたからね。
僕なんかはあるんですよ。人の本を出す時でも。
人の本を手伝う時とかかな。
この本が飛ぶように売れると単純に嬉しいみたいな。
これないと編集っていう仕事は難しいんじゃないかっていう、
特にビジネス書みたいなのだと思うんですけどね。
自分の本を出す時もそういう単純な、何て言うんですかね、
賭けではないけどちょっとギャンブル性がある、あれだな。
株とか買った時に普通にあんまりめちゃくちゃ詳しい人とかじゃなくて、
むしろ素人みたいな人の方がテンション上がると思うんですよね。
あの感じって僕は未だになぜか本はあって、
やっぱりドアが開くときとか、
どうなるかわかんないぞっていうのがあるんですよ。
結構本って長く業界で生きてるとですね、
どうなるかわかんないなっていうのがあるんですよね。
昔、昔々、私がもう中学生だった頃、
うん、中学生だと思いますね。
広瀬隆さんっていう、原発を東京にというかなりラディカルなことを書かれる、
ジャーナリストがいて、結構ラディカルなんですけどね。
とにかく原発ダメだという論人があってて、
今なんかすごい、ある意味ちょっと炎上案件ですけど、
私その本は面白くて、別に彼が好きだったというよりは、
引き込むんですよね。
不安を煽ると言われてしまえばそういう面もありますし、
やっぱり文章で持っていくっていうのがすごい、
あれですね、ラディカル系のジャーナリストってすごいなという、
なんてことないところから書くんだけど、一気に読ませるんですよ。
だって僕別に原発問題とかに当時ほぼ興味なかったし、
結構分厚かったりするんですよ、広瀬さんの本は。
それなのにあっという間に読んじゃう。
しかも推理書ですとかじゃなくて、
不思議だなというので、結構彼の本はその後も赤い盾とか、
全然原発とか関係ないですよね、読んだんですよ。
06:02
赤い盾はちょっと読みにくかったですね。
外国の人名があまりにも多く出過ぎて、
すごい調べる能力が高いのは分かるんだけど、
これはちょっと読んでられないなっていうのがあったけど、
でも一応上下巻を読んだんですよ。
それはどうでもいいんですけど、
広瀬さんの本が東北震災があったために大ブレイクしましたよね。
っていうことが起こるっていうことを、
東京に原発を書いていた頃には、
多分書いた党人ももちろん関係者も、
誰一人としてそんな事態が生じる、
それによって本が飛ぶように売れ始めるなどということ、
想定しようがないじゃないですか。
その後、広瀬さんの本が、
何十年後って話ですもんね。
30年後か。
でも本ってどうなるか分かんないなっていうのは、
作っておくと何が起こるか絶対分かんないものだって、
僕はそういう感覚がすっごい、
本を書いているとあって、
不思議ないきさつで、
党人も誰も意図できないいきさつで、
いきなりこう大ブレイクし始めるっていう現象があって、
何回も見てきて、
絶対書いといた方がいいんだっていうのが、
なんていうんですかね、
それはそれでイリュージョンだけど、
染み込んじゃったんですよね。
絶対書いといていかなる意味でも損はないみたいな、
今の広瀬さんの本はあんまりいい話じゃなかったかもしれないですけど、
白い犬に悪党だったかな、
白い犬と悪党だったかなっていう本があって、
この本も全然全く知られてなかったんだけど、
いい本だと、まあいい本なんだけど、
いい本だと思っているある書店の人が、
ポップというものは当時あんまりなかったみたいなんですよ。
いかにいい本かというのを、
ポップにめんめんと書いて、
唯一のその書店でのポップだったんです。
かなり古い話なんで、これ。
そしたら飛ぶ世に売れて、今でもロングセラーになってますよね。
今でもロングセラーになってますよね。
っていう話があるんですよ。
本当か嘘か知りませんけど。
でもこういう話はいっぱいあるんですよ。
つまりこれは宣伝なんですよ。
ぜひ書き上げ塾で一冊書いておきましょうということなんです。
倉園さんが買い入れしてくれて、
すごくちゃんとしたものになります。
ちゃんとしたものにさえなってれば、
どんな形でか分かりませんが、
あるいは世の中的に動いて、
いきなりそれによって、別に家建ても不思議じゃない。
僕のこの家は半分は親に借りた羽ですけど、
半分は先送り本で作ったようなところありますからね。
半分までは行かないけど。
しかもそれだって、
全然あそこまで行くと本人的には想像もしなかったんですよ。
09:01
これはさっきの白銀に割る都合的なほど、
ミラクルな話はないけれど、
うちの奥さんがですね、
渋谷に経文堂、
経文堂だったと思うんですけど、
名前定かじゃないですけど、
経文堂文庫大賞にノミネートをしないかみたいな話があった時に、
それはしないって選択はないと思うんで、
しましょうみたいな感じの時に、
10枚くらい絵を描いて、
ポップを描いたんですよね。
あれ大きかったんですよ。
落書きみたいな、落書きって言っちゃ悪いかもしれないけど、
冗談みたいな絵ですよ。うちの娘でも作れそうな。
そういうのを作った人は誰もいなかったんだそうなんですよ。
それで大賞を取って、それで大賞を取ったのか知りませんが、
そしたらもう、そこからは早かったんですよね。
一気に20万部くらいまでいったんで、
たぶんあれなければ、
10万部は行ってないと思うんですよね。
そういうもんなんですよね。何かが起こるって時って、
不思議だなとは思うんですけどね、自分でも。
あの時初めてテレビに、僕自身が取材はされなかったんですけど、
結局出たんですよ。
別にだからなんだってことはないんですけどね。
そんな感じなので、よろしかったら。
だからといって、
数十年後にブレイクしてもしょうがないじゃんと言われれば、
まあまあそれはそうかもしれないんですけどね。
数十年後の話ではないですけど、
今年1年、
まだ振り返るって話はもう一回ぐらいはすると思うんですが、
今日一応イヴなんで、イヴ関係ないですけど、
ちょっと振り返ってみたりも昨日してみたんですね。
で、
つくづく思ったのはですね、
やっぱりグッドバイブスと
ある種精神分析みたいなものって
よく似てるなと思ったところがあって、
一番似てるのはですね、じわじわ来るってことだなって思ったんですよ。
よくよく考えてみると、
これはもうあらゆる人生相談系に
ほぼ共通することなんですが、
相談してくれる人というのは、
つまりカウンセラーですね、あるいは精神分析家とか、
倉園さんもそういうセッションやってますけど、
そういう人たちは別に直接何かはしてくれないんですね。
例えば、うちの奥さんと本当に困ってて、
別れるのも考えててみたいな話をしたからといって、
それが思考と情緒のもつれみたいなのをほぐしてくれて、
そこがポイントではあるけれど、
じゃあちょっと奥さんと話してみましょうみたいなことにはならないわけですよ。
あるいはうちの子が不登校で困っててみたいな。
でもやっぱり一般的に言うとね、
ここでじゃあちょっと息子さんを私が学校に連れ出しましょうとかはやばいし、
12:05
まずそういう展開にはならないし、
そういうことをしてくれるわけでもないんですね。
でも来談者の立場としては、
はっきり言ってそれをやってほしいと思う人っていると思うし、
頼まれることだってあり得ると思うし、
頼まれることだってあり得ると思うんですね。
そう、私この顔色の伺う本で、
永田神さんが寂しすぎてレズ風俗に行きましたという本の中で、
彼女がカウンセラーに受けに行ったとき、
話してないで抱きしめてくれっていう風に、
僕はあれが精神分析だってものすごい思ったんですよね。
精神分析というのはすごくセクシュアリティにこだわりすぎるって言われてるんだけど、
そうじゃないんだよねって思うんですよ。
あれまさに抱きしめてくれっていうその気持ちをどうにかする。
一切手を触れたりはせずにですね、
それを可能にしたのがフロイトの技法だと僕は思っているので、
そう思ったってところはすごい大事なポイントで、
そこでもうちょっとかよい詰めるみたいなことがあるといいんだろうなって思うんですよ。
誰にとって何がいいのかはうまく説明できませんが、いいんだろうなと思うんですね。
代わりに本当に抱きしめてくれたんではダメなんですよね。
そうするといいように思われるんだろうと思うんですけど、
それだとそのカウンセラーは一生その人についていってあげない。
一生その人についていってあげなきゃなんなくなりますよね。
そういうことができないよっていう現実の中で、
でもどうにかする方法はありますという、
方法じゃないんですけどね、心の持っていき方みたいな、
そういうことをやってくれるのがやっぱりカウンセラーだと思うんですよ。
代わりに何かを具体的にはやってくれない、やってはまずいんだろうなとやっぱり思います。
この種のことは実は結構自己啓発でもライフハックでもあって、
代わりにやってあげるよって言いたくなる瞬間ってなくはないんですよね。
僕もタスクカフェずっと100回とか大橋さんとやりまして、
毎度毎度同じことを持ち込まれるってことはあるわけですよ。
東映ドイツ語みたいな話になりますけどね。
毎度毎度どうしても先送りする、どうしても先送りする。
僕先送りの本でヒットしたりしたからそういうことは起こるんですよね。
なんていうんですかね、しぶとくしぶとくいらっしゃるなというふうに思います。
先送りするって僕に言わないで、仕事をこの場ですればみたいな、
タスクカフェってそういうところでもあったんでね、
代わりにちゃんとそこで仕事をしてもいいですみたいな、
来談して相談している間に、そういう回もあったんですけど、
15:00
会社の仕事とかでは勝手に持ち出したり、
そういうのが非常に厳しい時代でもありましたし、
今でも厳しいと思いますけど、難しいんですよ。
それを聞いていると代わりにしたくなっちゃうぐらいなわけですよ。
分かりました、私がその仕事をしますよぐらいな勢いで言いたくなるぐらい、
その人にとっては何か引っかかるところがすごいあるんでしょうけど、
他人である私にはそういうことは別にないから、
片付け術とかの人もよく言われるみたいなんですよね、
片付ける方法を教えるのであって、代わりに片付けはしませんと。
でも当然そこでは代わりに片付けてあげますよみたいなサービスっていうのかな、
自己啓発プラスサービスみたいな話もあるって話は私は聞いたことがあります。
そりゃ分かる気がするんですよ、家の中がゴミ屋敷のようだと。
片付けの方法を教えるんじゃなくて、代わりに片付けてくれよと。
僕これはね、僕のこれはもう偏見かもしれませんが、
片付けるのはダメだと思うんですよ、でも。
これは僕の考え方なんでしょうね、代わりにするのは良くないと思う。
精神分析だったら絶対ダメだと思うんですけど、
片付け術だとしてもダメだと思うんですよね。
なぜかって言われるとちょっと困るんですよ。
でもそれだと多分その人はまだゴミ屋敷にしちゃう気がするんですよね。
僕は多分こういう風に考える傾向が強いので、
だんだん内面からなるべく問題を解決していきたいと思うんでしょうね。
片付けはそれで良いというケースはあるはずで、
綺麗になったら二度とゴミ屋敷にはしなかったですっていう人もいると思うんですけど、
綺麗になったら二度とゴミ屋敷にはしなかったですっていう人もいるはずだから、
必ずしもこの発想、根本的にやりたいというのが良いかどうかは分からないんですけど、
僕はそう思っちゃうということです。
だから片付け術とかでは本当にそこら辺が来るわけで、
実は僕はやってもらったことはほぼないんだけど、
でも編集さんってやっぱり赤入れってするわけですよね。
後生さんもするし。
赤入れが最小である人から最大である人までいるわけですね。
書き上げ術の話じゃないんですけど。
赤入れが最大になってきた場合は、
変わりに編集さんが書いたらぐらいな勢いになりかねないケースも出てくる。
忙しい著者さんの場合には、そして書くのが特に大好きってわけじゃない場合、
代わりに書くっていう話はあるんですよね。
この話も時々思い出すんですよ。
カウンセラーのところに人間関係とか先送りとか片付けとか、
子供のこととか旦那のこととか困っているなら、
18:01
直接その人たちにカウンセラーがそんなにわかっているなら、
やってくれたらいいじゃないかと。
そんなに編集さんがどういう本を作りたいのかはっきりしているなら、
著者が書いたものをいちいち直していないで、
あなたが書いたらいいじゃないかみたいな発想になるところはあると思うんですよね。
原に書いちゃうって編集さんの話は聞いたことがあるんですけど、
やっぱりこれも私の偏見なんでしょうけど、
代わりに書くのはダメな気がするんですよね。
それは読者に対して良くないってことももちろんあるんですけど、
つまり読者はこなれた上手い文章をただ読みたいだけじゃないと思いますからね。
でもやっぱり僕が思うのが、それをやっていると書けなくなる気がするんですよ。
なんていうんですかね、そういうのってあるんですよね、僕の漢字の中では。
代わりに、やっぱりコウホーね、旦那さんの代わりに奥さんの気持ちをカウンセラーに晴らしちゃったら、
カウンセラーが旦那になればいいみたいになっちゃうじゃないですか。
なんかそれっておかしいような気が。
それとなんかですね、この編集さんと著者さんの代わりに書いちゃうという関係までいくと、
便利なのはわかるんだけれどもある意味、非常に。
忙しい時とか特にですね、自分その人は売れっ子で平行で6本書いてますみたいなケースで、
どれか1個うまくいかないやつを代わりに編集さんが書いて、
しかもそれが本として出て売れたら3本うまくいくわけだから、
それが良くないってことはない気もするんですけれども、良くない気がするんですね。
で、そして何がこの話の元かというと、
つまり僕はじわじわとしか変われないと思うんですよ。
自体を完全に丸く収めれば、本を書けないところを代わりに誰かが書くとか、
片付けられないところを誰かが代わりに片付けるとかが一番早いでしょうけれども、
一番遅いんですよ、精神分析というのはね。
毎日毎日し平日5日もいって、しかも何がどう変わるということもなく、
ただただ連想されることを喋って、それに対して精神分析の人がおそらく
慎重の上にも慎重に言って岸出しを言ってましたけど、
そんな調子で介入を時々するということを繰り返して、
これは一番古典的なやり方ですよ。
今はみんながみんなこうしているとは到底思えないんですけど、
でもこういうところからじわじわ来ると。
じわじわ何が来るのかと。
ねじ替えが減るとかもあってほしいんですけどね。
じわじわ、例えばセミナーの前にテンションを上げなくても、
テンションを上げようという意識を持たなくても前と同じようになるというか、
21:04
前よりも遥かに前向きにやってられるとか、そういうじわじわ来るんですよ。
気がつくと奥さんに怒られても、前ほど怖いという意識は起こらない。
つまり、例えばですけども、私が暮らす奥さんのところに行って、
奥さんと喋ってくださいよって言いたくなってたとするじゃないですか。
今はそうは思わない。こういうのがじわじわ来ているんだと思うんですね。
一番最初のときは悩みは同じなんですよ。
形式的にも似ているし、言っていることも変わってないんだけれども、
そのときは自分が今より遥かに弱くなっちゃうので、
その弱さというのは、一見したところその人は弱いとか、
今では強くなったとかって言うんですけど、というよりは、
そのとき弱くなったり、元に戻ったり、それを繰り返すんだと思うんですね。
妄想分裂ポジションとか、欲打つポジションとか、
この番組ちょっと前に盛んに言ってたんですけど、
要するに精神病部分でその人は動いているとか、
今は非精神病部分で動いている、同じようなことを言っていると思うんですけれども、
このポジションは常に並存していて、精神分析のある派の考え方では常に並存していて、
その人がすごく調子が悪く弱くなるときはあるんですけど、
そういう日はあるんだけれども、そういうことがなくなりはしないという考え方があるんですけれども、
でも、そっちじゃないときにはその人はすごく普通に自然にちゃんと動けるわけですよ、特に苦労もなく。
それは強くなったのではなくて、どっちの部分でその人が動いているかという考え方を取るんですね。
伝統的に割と取るんです、そういう考え方を。
極小論的な発想だけど、無意識に近い部分、こっちで動いているときは厳しくなるわけですよ。
厳しいときこっちで動いちゃうとも言えるし、自我で動いているときはちゃんといけると。
だけれども無意識がなくなったりはしないし、全部100%自我になるとかないし、
自我も完全に崩壊しちゃうなんてことは普通はないので、やっぱりオンとオフみたいになるわけですよね。
どっちかが前に出て、どっちかが後ろに引っ込むっていう。
要は何がやりたいかというと、非精神病部分でなるべく痛いわけですよ。
プラインの言葉で言うならば、抑鬱ポジションでなるべく痛い。
正直、1日の95%がもし抑鬱ポジションでいられるんだったら平安ですよ、はっきり言って。
この名前がなぜ抑鬱ポジションなんだっていうのは今日は説明しませんが、
1日の90何%も抑鬱ポジションだけでいられるんだと、全然平安ですね。
妄想分裂ポジションにはほぼいないと。
24:01
この辺を、だからなんですけれども、成長ラインみたいな考え方を取らないんです。
発達ラインっていうんですけどね。
私はそっちの考え方を取りたくないわけです。
ずっと幼かった頃は、妄想分裂ポジションでとにかく甘えまくって、
苦しくなったらすぐ泣くと。
そういう風に生きるという生き方の人もいますよね。
周りから見ると迷惑をかけているし甘えまくっているから、さぞ本人は気楽なもんだろうという人もいるんだけど、
あれは全然気楽じゃないですよね。
赤ちゃんが泣くのを常に切発待っているときで、1日中切発待っている人が楽なわけはないんですよ。
妄想分裂ポジションで過ごす時間が長いということは、つまりひどく弱っているわけですよ。
そういう人が例えばグラゾンさんのグッドバイブスのセッションを受けたりするとするじゃないですか。
今1万円でセッションだったら10万払うから、うちの奥さんを代わりに説得してくれとか言い出しかねないわけですよ。
これはすごく妄想分裂ポジション的だし、精神病部分的に見えるんですよね。
その人は自分で十分対処できる事柄であっても自信がない。
自分がすごく現実対処能力が弱くなっているから、お金払っているから現実に対応できていると思うんでしょうけど、
そうではなくてすごく弱くなっているからこういう風になっていくんだと思うんですね。
これ楽じゃないんですよ。楽そうなんですけどね。この状態って楽ではない。
自分だったら今そういう風な事を人に期待したいとは思わなくなっていて、
それはやっぱり欲ずポジションでいられるからなんですね。
こっちのポジションにいるというのは単純に成長とかではないんですよ。
この欲ずポジションよりもっと良いポジションはないんでしょうかという質問が実際精神分析の世界でもあるみたいなんですけど、
そういうことではさらさらないんです。どっちの方が上ということですらないんですよ。
ただ、世の中で生きていく上では人間は欲ずポジションで生きている方がおそらく適応的にはよりベターであると。
だからといって妄想分裂ポジションをなくせばいいって話にはならないし、土台なくならないんですよ。
さっきの代わりに片付けてもらうとか代わりに書いてもらうとか、お金払えば今全部できるじゃないですか。
そうして僕らはある意味弱くなっていっちゃうんだと思うんですよね。
そういう時期をよく今思い出してみると、強くなったというよりはこのカラクリを理解するようになったんで、
やっぱりじわじわと変化してきているという感じなんですね。じわじわとこれが効いてきている。
27:05
だから何かをトレーニングしているとかではない感じなんですけどね。
むしろ何もしなくなっているとしか言いようがないんですけど、
ここのところが発達系の考え方や来伐系の考え方とむしろ逆を向くから難しく感じるというある種の皮肉なんですね。
何かをする筋トレみたいな、何かをすることによってのみその人はよりポジションが上がっていくという感じ。
ステップですよね。ステップが高まっていくという感じ。
常に何かが以前できなくて以後できるようになったなら、そこにはトレーニングみたいなもの。
トレーニングみたいなもの、あるいは前へというのかな、より何かが増強するような現実的活動があるはずだという考え方に
僕らとらわれやすくて受験勉強とか筋トレとか全部そうだからそういうふうに考えるんですよね。
無意に過ごすというじゃないですか。先々日お伝えしたうつせみの家でもお父さんは繰り返し日記に書いていました。
親一は無意な時間を過ごしている。このままどうするつもりなんだろうみたいな。
あれが非常に現代的かつ超自我的な、現代的といっても昭和的でもありますけどね。
逆だなって思うんですよね。僕らもじわじわと自分の何かが良くなっているというのは、
漢方薬を飲んでいるとかではないんですよ。何もしなくなっているんですね。
特に不安にならなくなっている。不安にならないというのは、その前に不安になってしまう自分というものがいて、
妄想分裂に放っておくと近づいていく自分というものがいて、それに歯止めをかけるという意味で何もしないんですよ。
何かをしだしちゃっているわけですよね。不安になるようなイリュージョンを見るとか、
オミクロン株のテレビを見て、見るだけでは済まないんですよね。見て、自分で不安を作り出すわけです。
つまり何かをし始めるわけですよ。もっと今風に言えば、マネフォーアドとかを見て、
このまま行くと赤字が続くなと、手を打とうと、これをやり始めるんですよ。
こういうことをしない。こういうことを一切しないようにするという、そういう無意なんですよね。
とことん頑張って、そこだけ頑張って、自分がそこにただあるという状態に対して、
否定的な何かを同意しない、アグリーしないということなんですよね。
否定的な何かがすぐ来るんです。このまま行くと感染爆発しますから、
外に行くという、自然に外に行っちゃうというのをここはやめておく、
30:04
そういう想像力を持ちましょうみたいな、何かを始めちゃうんですよね。
始めさせようとされてしまう。外に行かないのはいいんですよ。
この空想をやめればいい。でもこの空想をしろって言われるんですよね。
このまま行くと赤字になり続けるということを分かれと言われるわけですよね。
ファイナンシャルプランナーの用意がありますみたいなのをしょっちゅうCMするんですけど、
全部言ってることは同じですよね。そういう危機意識みたいなのを持って、
手を打つという方向に自分を持っていけると、これがかつて私がやってたことなんですよ。
一個一個を取り出してみると大したことではない上に、悪いことにも見えないから、
これをやることに誰も止めてくれないんですよね。
止めてくれるのはグラソンさんぐらいなもので、本当に誰も止めてくれないんですよ。
むしろそれをやらずにいると無意に過ごしているって話になってしまうんですよ。
多分周りの人はそれを見ていて不安になるんでしょうね。
だけども、これをやればやるほど自分が結局最終的にはお金を払って部屋を片付けてもらうような方向に
自分をそういう方向を向かせているわけだから、そっちを向いてから一生懸命走るように
努力すればするほどヤバくなっていくっていうことが起こるんですよね。
ずっと私に長年、それこそ小学校の5年あたりからもう4年ぐらいかな、
断続的に私が苦しんでいた最大の理由はこれ。
私、中学受験しましたから3年かけてね。しかも大学受験もしている。
その後もラインハック的じゃないですか。この方向にペットなんですよ。
最後にだから私が最後の方で何をやろうとしていたかというと
グラソンさん、うちの妹と夫さんの説得してくれないかなっていうことだったんですよ。
何もできなくなってしまうんですね。不思議な感じがしますよね。
何か有効な手段を打つっていうことを繰り返し繰り返し
そういう価値観を最初は持たされたんだけど、親とかに。
そういう方向で自分をある種プロテスタントみたいに
自己友好感みたいなものを持っていくわけですよね。
現実の問題に対処できるという、一見不思議なんですけどね。
だからできなくなっていくっていう結果に落ち着いていって
突き進んでいってたというのが非常に苦しみましたしね。
受験勉強もよく3年、小学校3年間丸々やれたなと思うぐらい
結構大変でしたし、内学も大変でしたし、大学は1年卒任してますけど
この路線って非常に大変な上に、自分のある種の
33:02
いわゆる自己効力感とは全然違うところで
自分が機能しない方向に突っ走っていくんですよ。
唯一最大の原因は無意というものをやめさせられてしまうからなんだと思います。
無意に過ごすってことは、つまりあのうつせみの家でも
最も足りなかったのはそれなんですけどね。
お父さんの目には家全体が無意に見えたんでしょうけど
一番あの家に欠けてたものは無意なんですけど、無意がなくなっちゃうんですよ。
無意ってものが耐えられないからなんだと思います。
お金なくなっていくというのに何もしない。
何もしないというのがすごく耐えがたくなっていくんで
何もしない瞬間を消し潰してしまうんですよね。
1日の中でゼロにしちゃおうみたいな。
あれあるじゃないですか。朝2時に起きよう。朝じゃないしそれっていう。
寝るの12時で朝2時に起きようみたいな。寝るのは一番無意だから。
こういう発想になっていくんですよ。
寝るっていうのも無意じゃなくて
なんかこうドーパミンが回復するとか
何かの機能を持つものに説明づければ
まだそれに時間はつぎ込めるんだけど
無意になってしまったらもうできなくなるんです。
多分その人はそういう価値観を強く抱いたまま
眠ることは無意ですって言われたら寝なくなると思うんですよね。
眠れない病気になると思います。
そういうことなんだと思うんですよ。
私がハマり込んだのは無意ゼロみたいにすると。
無意ゼロってことはつまり
あるがままである自分は全部ダメだって意味ですよね。
あるがままであるからお金がなくなるし
バカになるし片付けられないし
奥さんと喧嘩になるし
自分は変な病気になるし
実家はむちゃくちゃになると。
自分と何の関係もないのも結構こんな感じで
あるんだけど
こういうことは全部
自分があるがままであれば
いくつかの問題は少なくとも
実は全然これほど信仰せずに済む
あるがままであるっていうことが
有効に作用するようにここがすごく言っていて
あるがままで無意なのに有効に作用って変なんですけどね。
でも私はグッドバイオスはそういうことだと究極的には思うし
精神分析は間違いなくそういうことを繰り返し言ってるなと
だから表現が全部パラドキシカルなものになってるなと思うんですよ。
何もしないのにうまくいく。
うまくいくようにそれじゃあしてるんじゃないかって話になっちゃうんだけど
そうではない。
でも何もしないまま
何もしないまま
36:00
それには十分に対応できるということを伝えていくっていう話
オグデンっていう人が書いた
あれも精神分析家の有名な人ですけど
オグデンって人が書いた本の中に
なぜか分析家が役所の
今私が言ったような話ですね
役所の処理提出の期限が迫っているんだけど
どうしてもそれができないという人の相談を受けて
この人はかなり重度の分裂症かなと思うんですけど
その人の代わりに役所の手続きを代わりにしちゃうという話が出てくるんですよ
ひどい話だなと思うんだけど
ただこの人の失敗っていうのはすごく有効に
これはどう考えても失敗なんですよね
やっぱりカウンセラーに対して
クライアントはほぼ殺意を抱くレベルで来ちゃうんですけれども
親切心でやってるんですよもちろん
親切心でやってるんですけど
これをやられるということは
片付け師に片付けられるということにも
ある種の危うさはあるけど
そんなレベルではなく
精神障害をはっきりと抱えているような人の
やれないと言っていることを仮にやってしまうということは
何と言うんですかね
時々そういう話を聞くんですけど
親が子供の工作とかを楽しみにしている工作とかを
全部代わりにやっちゃうというような話なんですよ
そういうふうになってしまうんですね
殺意ぐらい抱かれてもしょうがないかなと
殺意は行き過ぎだと思いますけどね絶対に
でも非常に相手が
それは普通の人だったらそうはなりません
むしろ先生親切ですねぐらいになると思うんですけど
それは自信があるから言えることなんですよ
全く自信がない人が
親代わりみたいに誰かがしてしまった場合には
自分がものすごい無能になったという
決定を下されたような
しかもそれは相手は医者ですからね
結局医者だと思ってますからね
そういうことが起こる
起こりはしないんですが我々の世界では
でもそういうような感触というものは
少し来ちゃうだろうなと思う
私なんかは多分
すごい優秀な編集さんが
僕代わりに書けば売れますからといって
全部代わりに書かれちゃったら
ものすごく自分は無能になったような気は
やっぱり起こりはしないですよ
下浮上もしないしまして殺意は抱かないし
それで売れればお礼も言いますけど
でも非常に見下されてる感じは
持っちゃいそうだなとは思うんですよね
見下されてるってのとは違うかもしれないけど
要するにこうなんつうんですかね
著者として必要のない存在になっちゃうじゃないですか
こういうことがですね
なんて言うんですかね
無意というものと関係があると思うんですよ
無用と無意はすごくある意味違うかなと
39:01
思うんですよね
無用のようという言い方もあるから
無用という言葉をこの文脈で使うこともありますし
非常にいろいろややこしいんですけれども
とにかく
その人があるがままの状態で
発揮できる力というものがあって
あるがままの状態であってはダメだということになると
その人が発揮できる力を
その人が発揮できる力の多くの部分が
損なわれることになって
その状態のまましかし
エンジンだけは全開にしていかなければならないという話にして
突き進んでいくと
だいたいその人はだんだん
故障していくしかないと思うんですよね
それを逆の方向に持っていこうという話が
たぶんグッドワイブス的かなというふうに
今年振り返ってみてちょっと思ったわけです
40:08

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