推し活の非対称性
はい、えー、途切れてしまいました。
聞いてくださっていた方には申し訳ないんですけど、途切れたのが電話なんで、
これ電話がかかってくると途切れちゃうんですよ。
ま、この時間に電話がかかってくるというのが既に大問題なんですけどね。
ま、今私の身の回りはなかなか大問題で、
新しいYouTube活動とかを実はしている余裕がないと言えるんですよね。
ままままままま、このままいきますが、
ま、電話終わったからね。
えー、1282回でしたね。
タイトルもですね、決めました。
いやー、もう本当にね、困る。困る困る。
えー、それでね、話をしていたのは何かというと、
つまり推し活の話をしていたわけですね、つもりなんですね。
推し活というのは、私は子供を持ちたいというか、
子供を養いたいという欲求だと思うんですね。
で、推し活って独特の非対称性と共に対等関係にあるじゃないですか。
つまり、頑張っている人に支援をする。
けれどもそれによって、向こうがどんどんある意味輝いていく。
うまくいけばね。
つまり、えーと、対等じゃないというのは、
向こうが輝いていてこっちは支援者でしかないという意味では対等ではない。
あるいは向こうが歌を歌ってくれたり踊ったりしているのを、
こっちは、いわばその、
そういうコンテンツの発信者と受信者は、
対等かもしれないけれども、対称的ではありません。
非対称的ですよね。
つまり、同じじゃないですよね。
一方ででも、向こうは支援を必要としていて、こっちは支援をしている。
で、この数が一体多ですけど、
一体一万と一体十では、感じ方が全然違うと思うんですよね。
フロイトの視点
私はここをですね、すごく精神分析というのは強調した考えだと思いますし、
フロイトはあからたまにそれを言ってますから。
8分の1、ひょっとすると7分の1みたいな表現があるんですけど、
だから、俺の年収の8分の1をあんたが持ってんだからね、
っていう表現なんですよ、これは。
だから、ただとかではできないよってことなんですよね。
福祉、事前企業ではない。
福祉はまたちょっと違うと思うんですけど、
ボランティアじゃないよとは言ってるわけですよ。
人の悩みとか苦しみを支えるんだから、
お坊さんみたいにやるべきなのかもしれないって思う人がいるかもしれないけど、
そういうことではないですからね、っていうことなんですよね、これはね。
で、その時に8分の1とか7分の1を出していると思う人、
なんすんですかね、世の中でよくこれ言われるじゃないですか。
私の存在意義って何なんだろう、みたいな話ってあるじゃないですか。
で、精神分析が効果があると思えて初めて意味が出てくるんだけど、
でもこの精神分析かフロイトっていう人によって他にも絶対助かっている。
それをものすごく助かっている人いるよなと思った時に、
その人の整形の8分の1を自分支えてんだなと思うっていうのは、
すごい独特の社会参加感が出てくるじゃないですか。
例えばですよ、例えば。
フロイトがめちゃくちゃイーロンマスクみたいに金持ちだとか出てこないと思うんだけど、
そうでないのは明らかなんで。
しかも今だってそれに近いと思うんだけど、
それは僕問題だなと思ったんですけどね。
当時フロイトをはじめとして精神分析やってる人、
3人とかしかいないわけですよ、ドイツ中にも世界中にも。
そういうことができる人の整形の10分の1以上を自分が支えていると思えるっていうのは、
でかいじゃないですか。
なんとなく私たちはやっぱり、
キップとか買えばね、私だって東急電鉄を支えてるぜとか思うかもしれないけど、
でも明らかに何かすごい時々あるじゃないですか。
すっごい、昔あったんですよね。
駅員さんに説教されるとかね。
学生とか見たりは。
東武東上線とか、例えばですよ。
名前出すのよくないね。東武線とか東急線とか西武線とか何でもいいんですけど、
JRとか特にでかいもんね。
なんか嫌じゃないですか。
こんなの使ってやるかと思ったって、
自分が使わなくたってビクともしないじゃないですか。
キップ代は、だからいいんだけどインフラってそういうもんですけどね。
キップ代300円とかで、明らかに痛くも痒くもないわけじゃないですか。
そういうでも現代の世界っていうか近代社会ってそういう風になりがちですよね。
だから僕は推し活ってものが流行るんだと思うんですよ。
これは医者対患者の関係では成立しにくいんですよ。
特に名医なればなるほど成立しにくいんですよ。
明らかに医者によって自分が救われてる感しか出ないんで。
だって私たちって、ここでもそうなんですけど、
一番ここら辺でいい皮膚科は今8時20分か。
半になると埋まるんですよ1日分ぐらいが。
一気に。
マフコンちょっといろいろやってくださっていて、
電話予約ができなくても直接行ったらもしかして、
でも直接行っても並ぶんですよ。
これってやっぱり午前中だけで診療者50人とか下手すると行くわけで、
もちろん午後はもっと行くわけで、合わせて100人は行くわけじゃないですか。
100人行かない日もあると思うんだけど、
100人近く行くわけで毎日毎日ですよ。
全然自分が医者を支えてるって思う必要ないですよね。
そういう関係にないですよね。
代わりに安いですよもちろんね。
保険も利くし。
これと精神無敵は違うんですよ。
全く違うんですよ。
これを私はなんとかできないかなと思ってるんですよね。
なんとか。
ギリギリの線で。
私はもちろんブルジョア人とかいないし、
時代が違いますんで、明治時代じゃないんで、
大家族とか支えてるわけでもないし、
なりようだなって思って、
ギリギリの線を探ってるわけですよ。
私が母親で来ていただく方が、
乳幼児ってことはないんですよ。
でもそういう定義に近い形になるケースは、
例えばビジネスコンサル張っててもあるわけですけど、
逆の側面がロイトはすごく大事だと思う。
自分こそ幼児なんだと。
相手が親なんだと。
だから生活の面倒見るっていうのは、
まさにそういうことじゃないですか。
親ですよね。
このコンテナとコンテインドの関係は、
常に入れ替わるんだと。
転移と逆転移はしょっちゅうひっくり返りうるんだっていう、
この感じなんですよね。
この感じによって、
子になるという気持ちとともに、
親になるという気持ちも、
情緒的に力度で動かされていくっていう、
これがその人のアルファ機能を、
あのなんていうのかね、
稼働させていくと言いますか、
アルファ機能を稼働させるって、
なんかちょっと違うような気がするんだけど、
夢見る力を活性化させていくわけですよ。
夢見る力を発揮するって感じですね。
夢見る力が発揮しやすくなるんですよ。
親子関係の、
子であるとともに親であるっていうのは一番いいんですよね。
子である気持ちばかりだと、
ここにこれ以上依存できないとか、
フロイトにこれ以上迷惑がかけられないとか、
そういう定義ばっかりになっちゃうんだけど、
でもフロイトを支えてるのは自分なん。
それは事実そうですから。
フロイトの場合は間違いなく。
だって彼はそもそもお金がなくて、
あれを始めたっていう側面がありますから。
近代社会の構造
ある程度以上稼ぎたくて、
あれを始めたという側面がありますから。
藤山直樹さんはそこをすごいはっきりさせるんですよね。
自分貪欲な心を示すんだみたいな、
そういうことを言うわけですよね。
貪欲なことを示すことによって、
利用者さんは藤山さんに貢献してるという、
というか藤山さんを支えているという面が
はっきりしてくるわけ。
この人の貪欲って乳児ってことですからね。
乳児はもっとおっぱい欲しいの。
世界に生きていて。
そのおっぱいを出せるのは自分だと。
利用者さんは思えるという。
こういう非対称性ですよね。
私は思いっきりそれをやるのは無理なんで、
無理だし、やろうとは思わないので。
だからさっき前編の方で、
前編どこら辺に言われちゃったんだけど、
レズ風俗とか押し勝つとかいう話をしてるわけですよ。
利用者は親でもあるという状態。
ことして利用者は言ってるんですよ、ある意味。
輝いてるのは向こう。
発信してるのは向こう。
供給してるのは向こうなんだけど、
しかしその人を支えてるのは私っていう、
この関係ですよね。
この関係は私は近代には必須だと思うんですよね。
これがなくなってしまうと、
鉄道会社と消費者みたいな世界になって、
消費者ってどうすればいいのかと。
ある意味では、
これは私は現代の引きこもりとか、
社会的引きこもりとか、
ニートと言われてる問題に直結してる気がするんですよ。
巨大なものによって支えられている人は、
特にお金持ちになってしまうと、
やることがなくなっていく。
だから私は意外と、
世界でも稀に見るお金持ちになった人が、
引きになって働き続ける。
どっかの首相じゃないですけど、
馬車馬のように働くじゃないですか、割と。
Xの人とかね。
すごいじゃないですか。
Xとか書いとって、
バリバリツイッターはXにするんだみたいな、
気合が入ってますよね。
そんなこと別にしなくたって、
彼は一生困らないはずなのに、
やりますよね。
ああいうのって結局僕は、
コンテンツ受給者になってしまったら、
生きていくのはすごく困難だっていう側面が、
人間にはあって、
鉄道会社と300円の切符を買う人になってしまうわけですよ。
私そうなった時に、
どんなに鉄道に対してイラッとしても、
自分で生きることは何にもないという、
巨大な機構対無力な私っていう関係に、
はまってしまうんですよね。
はまってしまうというか、
そうできてるんでね。
精神分析の視点
ここで精神分析とか、
お仕方とか、
そういうものが生きてくるんではなかろうかという感じを、
私は持つんですよね。
対象、非対象的な関係にあるんだけど、
向こうが専門家で、
こっちが利用者で、
向こうが何者かになってる人で、
こっちは一般市民なのかもしれないんだけど、
でもそれを支えているのは私。
そうすると、
金がいるってことになっちゃうんですよね。
だけど結局のところ、
金は出せるわけじゃないですか。
コンテンツにお金を払える人っていうのは、
消費者っていうのは、
結局コンテンツメーカーって、
消費者なしでは成り立たないですよね。
問題なのは、
あまりにもそれを自覚するには、
一体他でありすぎる。
その他大勢の一人という感じを、
持たせられすぎることにあると思うんですよね。
なんとかこれを僕は、
したいなといつも思うんですよ。
この関係というものにおいて、
なんと言えばいいんですかね。
一体他みたいなものから、
なるべく離れていきたいと。
ただ、完全に離れてはいけないので、
例えば私は、
ビジネス書を書くときはやっぱり、
基本的にはベストサラサッカーみたいなものになることを、
求められるわけですよね。
多数の人に売れると。
別にディスるわけじゃないから、
いいと思うんだけど、
勝馬和夫さんが最近、
勝馬家電という本を、
ダイヤモンド社の方から出したんですけど、
結構売れてるんですよね。
かなりいい位置につけてるんですけど、
私これ考えた人、
かっこいいなと思ったんですよね。
勝馬和夫さんってやっぱり、
一体他の他の側、
つまり消費者の側でありながら、
そこをものすごく賢い消費者をやるっていうことによって、
みんなのその、
その他大勢の一人の消費者かもしれないけれども、
抜群に賢くそれをやるから、
いい暮らしができるんだよっていうか、
いい人生、救護を得るみたいな、
そういう話で、
その他大勢ではなくなった人じゃないですか。
だから勝馬家電って面白いタイトルだなって思ったんですけど、
僕だからこれ、
パッと見たときに、
これはすごい売れそうって思ったんですよ。
そういうことなんですよね。
今のこの社会の問題っていうのは。
親子関係の重要性
その家電に囲まれていて、
コンテンツに囲まれていて、
ただ同然の、
音楽も一流のが聴けるわけじゃないですか。
ショパンコンクール第一位の音楽とか、
すぐアップルミュージックで聴けるわけですよ。
こうして聴かなくなっていく。
なんて言えばいいんですか。
そのものの価値が下がったように感じられてきて、
さらにそれを受給しているだけの自分が一層価値がないような、
そういう脱価値化されていく世界みたいなものに
生きている気がするんですね。
これをひっくり返すためには、
つまり親感というものを持つ。
親というのは子にとっては極めて特別な存在ですから、
ここにアルファ機能が機能する大事な要素があると、
私は思うんですね。
子にとっては特別な存在である。
どんな人であったとしてもね。
ここですでにどんな人であったとしてもって
言ってる段階でその他大勢感が出ちゃってるんだけど、
そういう世界じゃないのが二者関係じゃないですか。
まさに二者しかいないんだから。
お互いはお互いにとって特別ですよね。
二者しかいないんだから。
その他大勢っていうのは、
つまり三者以上の世界において言われてることなんだと思うんですよね。
だから、
特定の親と特定の肉体関係に入れる特別な、
自分はそれだけ特別なものなんだという感じを抱いて、
そこに何の疑いも抱かなくなったときに、
いることの不安とか、
つまりいていいのかどうかみたいな問題とか、
生きていていいのかみたいな、
そういう問いが成立しなくなるというのがある種の人にとっては、
特に私はやっぱりボーダー水準にとっての重大な課題だなと思うんですけど、
その立存的な問題をあえて問題にしてしまう。
私の存在理由は何でしょうみたいなね。
本来問わない、問うことの、
問わないのが望ましいと思うんですよね。
ここを問うから、
母親は実はお父さんとのいい関係によって、
しかもそれによって私は生まれたのかみたいな、
そういう問題にならなければならなくなるわけですよ。
エリプソドマックスだったり、原稿系問題だったりするんだけど、
どっちにしたって苦い気持ちになるわけじゃないですか。
自分はナンバーワンだと思ったのに、
ツーだったみたいな問題ですよね、これって。
で、ツーだったということは、
スリーかもしれないし、フォーかもしれないしということで、
なんていうのかな、脱価値化されていくんですよね、自分の価値が。
で、この問題にはまってしまうと、
いい答えは出ないわけですよ。
自分が社会で最も特別扱いされるべきである理由って、
実はないなってことになりやすいんで、現代社会はですね。
で、ここで精神分析なわけですよ。
特別扱いされるだけの重要な理由をちゃんと持てるということになっていて、
だから特別扱いも確かにされているということになっていて、
その中でもっと特別扱いしてよっていう欲望が、
自分を振り回し始めるっていう話に、
自覚できるというんですかね。
で、特別扱いされないってなると、
現実にぶつかってベータ要素なわけですよね。
これをどうやってアルファ要素に変えていけるかっていう話をずっと私たちはしていく。
それで人生ってのはOKなんだという感じを持つ、
私は持つようにしてるんです。
これは私の価値観であって、他の人がこういう価値観を持つ必要はないし、
価値的には中立であるべきなんだけど、
価値の変化と無意識
その価値観的要のところ、人生というのはベータ要素をアルファ要素に変えていくことの、
永遠に繰り返すことだとある意味では。
一つ一つのベータ要素は全て異なるものだから、
特にベータ要素というのは具体物ですから、
だけどそれを心に収納して、その中であんまり無意識で悪さをしないようにする、
悪夢を見ないようにする、ましてや妄想幻覚を見ないようにするということを
やっていくことができれば人生OKというふうに私は思うんですよね。
それ以上、私は望まないんですよ、あまり。
だから生まれでから死ぬまでベータ要素を人の力を借りてアルファ要素に、
なんていうのかな、無意識の中に落とし込み、
そこで暴れ出さないように、だからベータ要素じゃないってことなんだけど、
暴れ出さないようにする。
これを暴れ出されるようなベータ要素に遭遇しますが、
なるべくその遭遇をしてはアルファ機能を使って、
人の自分のですね、これ人のを使わないと自分のが不活化しないというか、
スイッチがオンにならない感じがするようになってるんだろうな、
多分って思うんですよね。
これはもう僕が勝手に言い出してることかもしれないですけどね。
絶対そういうことはあるんだろうな、でもって感じがするんですよね。
そういうことです。
そういうことを3カ月チャレンジというのはやりますということです。
アルファ機能で機能というものが機能しなければ、
仕事というものはどうしたら辛くなりすぎて、
どこかで自分は特別な存在ではないんだみたいな話になって、
なんていうのかな、無意識の中での事態が安定していくっていう、
そういうことなのですよねっていう話をしたいし、
しているわけですね。
話をするよりはその人のアルファ機能が機能するように、
なんていうのかな、無意識でいろんなことを、
なんと言ったらいいんですかね、これはね。
本当にこれを言語化でしようとしているビオンって
凄まじいなと最近思うんですよね。
なんと言ったらいいのか全然わからないところがありますね。
つまりその相手のアルファ機能、
自分のアルファ機能を機能させて使って、
相手のベータ要素をアルファ要素に少しでも変形させて、
全部ビオンの用語ですね、これはね。
彼はファンクションを使って変形とか言うんですよね。
FXの世界なんですよ。
FXイコールXXOプラスBプラスなんたらかんたらですよ。
完全にこれそれですよ。
彼は間違いなく関数方程式と全く同じことを考えていたんだと思うんですよね。
心に収納すると、そういうことであると。
脳科学的に言うならば、
物理的にぶつかってきた光の波長を電気信号というニューロンの信号に
変えるというのは変形なんでしょうけど、
つまり私たちの目の外にある間は光の波長エネルギーじゃないですか。
そいつの波長が目を盲目にぶつかると、
どこかでどこかでっていうかすぐに電気信号に変わるからニューロンによって。
電気信号に変わったから先が主観の世界に入っていくわけじゃないですか。
客観の世界ではあくまでもフォトンなのか何なのか知らないけど、
光のエネルギーなわけですよ。
視覚の話ですよこれは。
音であれば空気の振動というエネルギーなんですよ。
でもそれは心の中に入ったらもう空気の振動ではなくて、
電気信号に変わるわけじゃないですか。
NとKのプラスとマイナスのイオン電化がひっくり返ることによって、
糸電話みたいにヒューヒューヒューって繋がっていくわけですよね。
その間スピードが遅いと、
爬虫類のティラノザウルスが尻尾に石がぶつかったら
10分後に気づくみたいな話になると役に立たないので、
これを鞘ですよね。
ニューロンに鞘がくっついていって、
要するに電気通さないところから飛ばしていくんですよね。
あれもすごいシステムだなって思うんですけど、
それが主観の世界じゃないですか。
感情の変換と相互関係
変換されるわけですよね。
だからこの変換をファンクションと呼んでるんですよね。
だからアルファ機能っていうのはこの変換、
この変換が効かないままだとどうしようもないわけですよね。
我々は外界にあるものがただあるだけで、
雨だったら雨だとか傘をさすとか、
これから振り強くなりそうだとか、
そういうのは全部主観の世界ですから、
それがない、そういう変換ができないんだったら、
外に行って濡れるか、どっかに雨宿りするか、
どっちかを選ぶしかなくなる。
つまり行動で対応するしかなくなってしまうんですよね。
考えるということができないっていうのはそういうことですよね。
だから寂しいっていうのはすごくいい感情なわけですよ。
寂しすぎてレズ風俗行きましたがまさにそうです。
寂しすぎるっていうここなんですよね。
ここにベータ要素をアルファ要素に変換されようとしつつ、
ある何かがあると思うんですよ。
寂しすぎるっていうその表現の中。
パートナーがいないというのは単なる客観的事実じゃないですか。
寂しすぎるっていうのは主観に入ってきてるじゃないですか。
変換が行われてますよね。
だからっていう風に出てくるわけですよね。
毛布を安心毛布を見つけるとか、
これは思考の後に出てくる発想ですよね。
だから誰かに電話するとか、
これも思考の後に出てくる本来発想ですよね。
このいかに思考の段階で変換を聞かせられるかという話を、
なんて言うんですかね。
してみせるってことなんだと思うんですよね。
親って結局してみせるところから最初始めるんで、
それしかできないんで、
言葉が通じない赤ちゃんに相手をしていますからね。
押し勝ちもしてみせるんじゃないですか、結局は。
支えているよということを。
これが相互に変換、
お互いの間で変換が繰り返されていくっていうのが大事なんだろうなと。
それが多分僕はビジネスの現場でできるかどうかに、
そうしないとどうしても恥みたいなものになってしまうと思うんですよ。
変換が効かないと。
どうしてもその長寿がと恥みたいな。
お前は恥ずかしい存在だみたいな。
そういうすごい古臭い、
幼い頃に投げつけられてしまった暴言みたいなものによって自分を支えるっていう、
すごく苦しいし、無理があるし、
機能もとても弱いですよね。
言葉ばかり強いけど、機能もすごく弱いと思うんです、これではね。
できることってそこの恥ずかしいだと少なくなるじゃないですか。
ちゃんとした文章を送るとか、すごく行動によってしまいますよね。
そうではなくて、この文章で本当に伝えようとしていることは何なのかを考えられるようになるためには、
やっぱり夢を見るみたいなのに限りなく近くなると思うんですよ。
文章を読むって夢を見るってことなので、そうだと思うんです。
この文章で相手が何を言わんとしているのかのイメージを持つというのも夢を見るということなので、
その夢を見る前に恥ずかしさに圧倒されてしまうということは、文章を読めなくなるということは、
やっぱり今後はものすごくきちんとしようみたいなそういう決意をしてしまうとか、
そういう行動をしてしまうというだけになってしまう感じがするんですよ。
限りなくデータ要素がある要素になってないわけじゃないと思うんですけど、
夢が見られてないわけじゃないと思うんですよ。
夢が少し見られた瞬間にものすごく恥ずかしくなるとか、ものすごくきつくなっていくということで、
やっぱり次に行動に出なきゃっていうふうになっちゃうと思うんですよね。
すごくだから行動に押し出されるというか、つまり現実世界から変換が効いてない感じがするんですよ。
ニューロンの働きをもっとできると、
そのためには他者のニューロンを動かしていくっていうのが一番なぜか有効なんですよね。
なぜなんだろう。
他者のニューロンを動かしていく、言葉で他者のニューロンを動かしていくっていうことを、
こういう説明の方がもしかしてある種の人には聞くのかもしれないんだけど、
この説明って結局非常に近代的だったと思うんですよね。
だからどうしても物理法則と役理って話になりやすいんだと思うんですよ。
でも私はそうじゃないだろうと思う。
だって役理はすごいかもしれないし、魔法のようだけど、やっぱり最後の手段ですよね。
まずこのニューロンを動かすために必要なのは言葉であって、
その言葉のやり取りで人類は何万年も前からやってきてるわけじゃないですか。
この方法確実なんですよね。
確実にうまくいくし、確実に有効だと思うんですよ。
役理はすごいとは思うんです。
言葉なくしてニューロンを動かすから。
だけどそれは本当にここ最近100年も歴史がないわけじゃないですか。
だからといって批判して役理なしでやれというのを広めるなと言われると思うんで、
こんぐらいにしておきますけれども、役理はいいと別に思うんだけど、
ただだって実際に私だって明らかに頼ってますから、
麻酔とか打たれますからね。
麻酔なしで歯の治療したいとは思いませんから。
ただこれは緊急手段だと思うんですね。
これをファーストチョイスにするものではないと。
ファーストチョイスはやっぱり言葉で情緒を動かすっていう展開にあると思うんですよ。
おしまいにしますね。