グリッド理論の導入
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1210回をお送りします。
6月25日水曜日、7時58分です。
はい、えー、台風なのかな?近づいてきてるのかな?
若干、庭と言いますか、トランターが心配なわけです。ぶっ倒れるんですよ。
で、キュウリとかがぶっ倒れると、もう結構致命傷を負うことがありまして、
あのー、まあ、ね、場所を移して避難させればいいのかもしれないんですけど、
キュウリって意外と難しくて、あのー、なんていうのかな?
結構、鶴がですね、絡まっていてですね、下手に動かすと、結構それがそもそもダメージになったりするんですよね。
一つはすでに外の、外に外にと出ちゃうから、しょうがないと外に支柱を立てちゃって、そっちに絡むから、
もう動かせない場合ですね。こういうですね、しょうもない事態がどんどん進行中で、
なかなかもう、運を天に任せるしかないみたいなノリになっております。
えーと、スタンドFMだからこういう話をしているとかではなくて、
いきなりもう話しちゃえばいいんですけど、いきなり話すことがですね、
最近、頭の中がこう、まあ、なんかなグリッドになりつつあるというこれも相当不思議なんですけど、
グリッドの話を3ヶ月チャレンジのグループセッションでさせてもらったらですね、
僕はもう、なんかあれなんですよね、授業をした先生が生徒の表情に無駄な投影をするように、
これはオンラインでやるほど無意味なことはないんですけど、全然わかってないですから、
全員退屈してるんだろうぐらいに思ってたんですけど、意外に好評で、だからわかんないですよね。
でも意外に好評なのかどうかすら実はわからないんですけど、
まあグリッドの話をしていたわけですね、BEYONDのね。
で、えーと、基本的にあれは、基本的にっていうか、何も基本的に僕にわかる、
基本的に僕にはわかってないんですよ。でもあれはですね、何と言っても私にとって、前も言いましたけど、
自分の皮膚病の、心身症の皮膚病の感知には絶対になくてはならないものだったんで、
わかってなくてもなくてはならないものって世の中にあるんだなということを、
つくづく思い知ったんですね。
なので、えーと、この話はやっぱりどっかでしようと思っていたわけで、それをしたわけですね。
ベータ要素とα要素の説明
で、あのー、グリッドっていうのはまあ、
まあまあ、もうほとんど僕はここは松木さん、松木文博さんの説明をベタベタにただ繰り返していくことしか、
まだそこまで自信が全く持てない世界なんですけど、縦軸はさすが縦、行ね、行。
上から下に行くとどんどん概念化していくのはわかるんですよ。
なんつったって最初はベータ要素ですから、あの営業はベータ要素って書いてあるんですよね。
これ見たことない人には訳わかんない話をしてるなと思うんですけど、
ベータ要素って要するに何ていうのか、抽象度がゼロなわけですよね。
えーと、関東の物自体とか言ってるやつですけど、これを何と説明すればいいんですかね。
見えないものなんですよ、これも。
目に見えるってことはもう知覚してるわけだから、
知覚してるってことはどっか心の中に入ってるわけだから、
目に見える音が聞こえたらもうその瞬間にベータ要素ではないんですよ。
ベータ要素っていうのは外にあるものですよ。
その我々の世界なんですね。
我々の世界の外には何かあるわけじゃないですか。
例えばX線とか目に見えないわけじゃないですか。
でもあるわけじゃないですか。
X線とか本当にこう名付けているからあるんだってことを我々知って、
例えば重力とかもそうじゃないですか。
あることはわかってるけど、目には見えないし匂いもしないですよね、重力は。
つまりベータ要素と違うのかもしれないですけど、
とにかく我々の心の外にあるものですよね。
だから抽象度とか言っても意味がないわけですよね。
物自体とかそういったものが。
で、なんか一番下の方に行くと大数計算式H行とか大数計算式とか書いてあるわけですよ。
大数計算式はめちゃくちゃ抽象でいいじゃないですか。
だから一番上はめちゃくちゃ具体的なんですよ。
僕はやっぱりサルトルの小説を思い出すんですよね。
なんかこう、木の根っことか書いてあったり、
ズボン釣りとか書いてあって、なんかこう生々しすぎて、
それについてなんか言っててもしょうがないような。
だからなんかサルトルだからなのかもしれないけど、
彼は神経がうまい手だからかもしれないですけど、
なんかもっと生々し、
あ、もっと控えめに存在していてほしいとかね、言っているわけですよ。
そんなこと言ったってしょうがないじゃないですか。
木の根っこにもっと控えめに存在しろとか言っても、
なんか生々しすぎて不気味だとか言ったって、
無意味なこと言ってますよね。
だからそれは、物自体とかそういう表現を取るんですけど、
まあそれぐらい生々しいわけですよね。
α要素っていうのが2列目に来るんですけど、
2行目かB行に来てるんですけど、
α要素はもう少しマシですよね。
なんかこう、お母さんの微笑みとか。
部分的、つまり生々しいわけです。
めちゃくちゃ具体的で、
なぜそこにそういうふうにあるのかは、
赤ちゃんから見たおっぱいとかそういう感じです。
赤ちゃんから見たおっぱいとかね、
そういう感じなんですよね。
生々しいし、良いものなんだけど生々しくて、
掃除でですね、全部が良いものじゃないと思うんですけど、
うんことかですよ。
だから生々しいわけですね。
そして一応抽象化というか、
心の中に入ってきてますから、
何らかの形で概念化されて、
全く概念化されてないとなると、
部分対象とかにならないわけで、
なんかそれが欲しいとか、
少し思う対象になってるみたいな、
そういう話ですね。
ここら辺は無意識ですよね。
事実上無意識。
だってそれをそこだけ意識して思い浮かべようとしても、
あんまり意味がないというか、
注意することはできますけどね。
おっぱいに注意するとかできますけど、
まあ、何て言うんだろうな、
相変わらず物自体っぽさはありますよね。
この物それ以外の何物でもない。
名付けたりするともう概念になっちゃいますから。
だからそういう感じで、
現実検討の重要性
下に行くほど抽象的なわけですね。
下に行くほどある意味、
存在感が、存在感が希薄。
あの大数計算式とか、
素晴らしい式だとか言ってる数学者にとってはともかくとして、
基本的に我々にとっては存在感が偉い希薄じゃないですか。
だから忘れますよね。
公式を覚えるとか頑張った記憶があると思うんですけど、
公式とか速攻忘れるじゃないですか。
大学を受かった途端、
なんか半分以上は忘れてもいいような気がしてますよね。
存在感がないんで、
あるんだかないんだかもよくわかんないじゃないですか。
iの事情イコールマイナス1とかも。
ほぼどうでもいいというか、
大事なんでしょうけど、
ほぼどうでもいいですよね。
だからそういう世界ってありますよね。
なんか横が縦なんですよね。
縦のこの列がよくわからん世界なんですよ。
縦の列は現実検討を表してるんですよね、これはね。
だから現実にどの程度ちゃんと検討できているか、
問いとか注意っていうのは現実検討式が高いじゃないですか。
だからこの縦列でも3,4,5ってなっていくと、
現実検討が高い感じなんですよね。
表記とか注意とか問いとか書いてあるんですけど、
なんかよくわかんないですけどね。
3,4,5が表記、注意、問いとかになってるわけですよ。
表記、注意、問いっていうのは、
現実をちゃんと検討しようとしている意欲を感じさせますよね。
現実に注意しようとか、
現実にちゃんと書いておこう。
ノーテーションって書いてあるんですよ、表記は。
ノート取るみたいなのは、
現実をちゃんと書き留めておこうっていうのかな。
なんかよくわかんないけど、
問いを立てるとかも、
やっぱり現実を検討しようと。
結局カウンセラーって質問ばっかりしてくるじゃないですか。
これやっぱりこの現実をよく、
よくよく検討したいっていう意欲の現れだと思うんですよね。
ただ、なんか縦列の6が行為とかになっちゃうんですよ。
いきなりアクションとか。
アクションっていうのは、精神分析の世界ではよく、
行動化とか、アクティングインとかアクティングアウトとか言うけど、
あの行動が出てきたら、
あんまり現実の検討がなされてない気配があるわけで、
なんで6列目にいきなり行為なんだよって思うんだけど、
なんとなくここに置くしかないかなみたいなのもあるんですよね。
ちなみに1列目が定義的仮説とか言う、
ビオンの造語なんですけど、
定義的仮説?
これは現実検討できてないというか、
してないんだろうなって感じがするんですよね。
なんかこう、絶対的真理みたいな言い方をしたりもするんですけど、
これはね、めちゃくちゃ臨床的だなって思うんですよね。
この種のことが出てきたら、
すごい困ることになるんですよ。
大体、厳しいっていうかなんかね、
困ったなーって感じを思い起こさせられるんですよね。
私たまたまその、何度も言ってますけど、
肉親がね、
徒歩主張なんで、分かる感じがするんですよ。
なんか絶対的真理が出てきちゃうんですよね、その口から。
絶対的真理が出てくると、もうなんかアウトだみたいな。
例えばこう、
なんていうのかな。
例えば、うちの父は共産主義だから、みたいな。
こうなってしまうともう、
なんかこれに、
あと、力があるんですよ。
迫力が感じられるんですよ、ある意味。
反論許さないからね、っていうね。
そういうこう、ある種の圧がかかってくるんですよね。
そしてこう、絶対的真理のように語られてしまうんですよ。
えっと、あのですね。
ビオンは、これは皮肉屋だなと思うんですけどね、僕は。
Aの1はともかくとして、
ベータ要素の定義的仮説とかも本当に厚なんで。
あの、例えばですけど、ビオンが言っているE1に診断ってあるんですよ。
概念の定義的仮説なんですよ。
でも診断って確かにそうですよね。
なんていうのかな。
現実検討してないっていうのはおかしいんですよね。
現実検討してるんですけど、なんか、
A、私立あるみたいな世界じゃないじゃないですか、診断って。
なんか産むは言わさないよ、みたいな感じがするじゃないですか。
だからよく漫画とかで、あなたは癌ですとかってね、そんな風に言わないだろうと思うんだけど、
なんかこう、さっきの、なんていうんですかね、
こう、世の中は腐ってるみたいな、そういう風に言われてしまうと、
負の能力の理解
もうなんとも言いようがないことになってしまうわけですよ。
世の中は狂ってるとかね、そういうやつですよね。
もうなんか産むは言わさないよ、みたいな、そういう感じ。
だからビオンがE1、診断はE1であるみたいなことを書いてるらしいんですけど、
いやー、それはまぁ、でもよくわかる気がするわ、みたいな。
あなたはアトピーです、みたいなね。
もうなんか産むは言わせてくれないですよね。
そして一旦それが宣告されてしまうと、その後はなんかそれにのっとって動かない。
だから誤診とかすごい問題になるわけですよね。
そういうものとして、それは、現実そうなんです、みたいな顔をして動いていくわけですよ。
それが、ある種の場合には完全に嘘ではないんだけれども、
それにのっとって動くことには何のメリットもないなっていうことをさせられていくんで、
例えばだから世の中狂ってるみたいなやつに、それをこう憎しんに言われて、
もう世の中狂ってるものとしてあなたは行動しなさいね、みたいな、そういうノリになって、
まぁなんか世の中は少しは狂ってないんじゃないでしょうか、みたいなことを言うと、
もう殴られても文句は言えない、みたいな、そういうノリが起こるわけですよ、実際には。
あのー、いや世の中狂ってるだろう、みたいな。
トランプのやってることを見ろ、みたいな、そういう感じになって、
うむは言わせてくれないわけですよね。
だからお前が世の中狂ってないってことは、
つまりあのミサイルで人を殺してもいいと思ってるっていうことだよな、
みたいな、そういうノリになっていくわけですよ。
非常に難しい感じがするわけです、この定義的仮説ってやつ。
臨床におけるコミュニケーション
2列目の際はですね、
さらにこれとの違いを説明しながら話していくのが大変なんで、
ちょっと飛ばして、2列目はちょっと考えずに、
この1列目の定義的仮説がですね、
臨床的な場面っていうのか、カウンセリングの場面でも、
多分これはワンオンセッションでも、めっちゃこれ起こるなと。
だから私は初学者というか素人なんで、
この表でですね、一番見るものって、
なんか自分の中でこことここだけ気をつけるみたいなのがあるんですよね。
自分の中のそのアトピーとベータ要素みたいな話は一旦置いておくと、
ワンオンセッションでやっぱり一番ポイントになってるなと思うのは、
E5とC1だと思ってるんですよ。
思うんですよ。
まあ別にお前が思うから何なんだって話なんだけど。
まあ素人的にね、素人的に一番役に立つのはE5とC1ですよ。
これはですね、私は一般論として言ったのであってっていうことを言いたくなった時には、
E5を言ったつもりなんですよ、自分はね。
ところが一般論として読めたのであって、
あなたはそれをっていう気持ちになったら、
相手はC1として捉えたってことなんですよね。
これはですね、松木さんが2例出されていて、いずれもその形だなって思うんで、
すごくこう、普通に出てくるんだろうなっていう感じがするんですよね。
で、松木さんが書かれているのはこの背景抗議対象関係論の下に書いているのが、
まあこれ絶対普通によくあるよなと思うんですけど、
例えばこう、あなたはご自分が歌を歌うのには向いてないと思うんですねとか言う。
これE5なんですよ。
一般論の問いなんですよね。
一般的に言って歌を歌うのには不向きだと、あなたは思っていらっしゃいますねみたいな解釈ですよね、要するにね。
そして不向きっていうのはこの場合、一般論として、つまり概念ですよね。
E6、概念の問いで、一般概念の問いで不向きっていう概念が、
この世の中には普通に一般論として使われてるよね。
でも、相手の人にはそうは聞こえないんですよね。
これを松木さんが言って、それを聞くと、先生が前回、不向きって私が言ったんでもう生きていけませんみたいな、
E1になっちゃうわけですよ。定義的仮説になってしまうわけですね。
こういうことってでも、パターンあるじゃないですか。
別に僕は臨床の世界じゃなくてもあると思うんですよ、普通に。
どうしてもこうなっちゃうみたいなことが、
フルスカンの会話でも喧嘩を見ていると、このパターン実に多いなって思うんですよね。
どっちが言ってもですね、大体は男の人が一般論言っちゃいがちかもしれないけど、
そうは言ったってせいぜい6.4とか7.3とかであって、女性も一般論は普通に言うし、
それに勝手に聞いてる方が傷つく、勝手に言ってはいけないんですけど、でもしょうがないですよね。
それは一般論として言わないってことはできないじゃないですか、会話をしていて。
だからこれが、私も素人なんで、なんでこれに気を付けようと思ってるかというとですね、
これは自分のミスだって思ってしまうんですよね。
自分は一般論を述べて、不要意に人を傷つけてしまったんだみたいに思うんだけど、
よーく考えてみると、一般論を述べずにそんな会話ができるはずがないから、
このミスは絶対いずれは不可非とは言えないまでも、
これを全部回避していると、ほぼ会話は成り立たなくなるという現実もそこにはあるわけですよ。
もう一つのもっと古くてて、もう一つの例があるんですけど、
あなたはお父様が亡くなってから悲しい、亡くなって悲しんでらっしゃいますねって言うわけです。
これも一般論としての問いですよね。E5ですよね。
だからその時の松木さんの思考としてはですよ、これ思考の成熟度を表すのがグリッドってことになってるんで、
いろんな言い方ができると思うんですけど、いろんな言い方っていうか、
いろんな感じ方があるなと思うんですけど、その言い方には。
私はポジションがすごくこれに関わってると思うんだけど、
思考の成熟度といえばそうですよね、縦列は要するに一次過程か二次過程かっていう、
階原則か現実原則、特に3,4,5は現実原則的な感じがして、
で、下に行けば行くほど概念化するから、
だからE3,E4,E5あたりでやり取りしてる間は、安全ちゃ安全なんですよね。
概念的な現実検討の概念。
だからなんていうのかな、そういうふうにしたい人はよく概念で質問をします。
でも概念でいっから質問していても、相手がそう受け止めてくれるとは限らないわけですよ。
だからC1になっちゃうわけですよね。
夢思考の定義的仮説、そうするとものすごく個人的な、
しかも多くの場合は自分にとって痛いことを言われた感じがするわけじゃないですか。
だからお父さんって書いてあったけど、お母さんが亡くなって、
あなたは寂しい思いをされているんですね、みたいなことを言うわけですよね。
解釈ですよね、これは一応ね。
この寂しいは一般的な意味ですよね。
一般的に言ってお母さんが死んで寂しい感じがするのはおかしくないよね。
で、これに対して、いやいや一般的にはそうだけれども、
私はそうではなかなか慣れないんだよねっていうのは普通の会社ですか。
でもこれが一気に夢思考に進むとですね、先生はなんでそんなに酷いことを言うんですかっていうことになっちゃうわけですよ。
私が悲しまなければいけないと言ってるんですね、みたいなそういうことになってしまうわけですよ。
C1ってことになってしまうわけですよ。
あの定義的な仮説なわけですよね。
悲しまなければいけないということになっていくわけですよ。
私は悲しまなければいけないんだみたいな、そういうある種の命令みたいな、
絶対的な真実みたいな雰囲気を帯びてくるわけですよ。
悲しむべしみたいな、悲しまないものは人手なしであるみたいな、そういうことになって、
その人は何て言うんですかね、苦しむというのか、苦しむんですよ。
これはでも、何て言うのかな、分かることは分かると思うんですよね。
ギョッとはすると思いますよ、当然。
このギョッとするについて、後からお話ししたいんですけど、
要は、例えば、最初からそれを聞いてないから、だから一般なんだけれども、
例えば、実はうちの母はものすごく酷い人で、私のことを毎日のようにいじめていたと。
そういう背景があった場合、お母さんが亡くなって、実はすごく私は開放感でいっぱいなんだけど、
そういう私が人手なしだと先生は言っているって悲しみになっていくわけですよ。
だから一般論が、その人の中では一般論としておけない何か強い事情があって、
だからこういうのが一般的な会話の中で起これば、
ああそれは失礼しました、私ちょっと無神経でみたいな、いやいやそうじゃなくて、あなたは一般論として言ったんだからみたいな謝り合戦みたいなノリになってくるわけですけど、
これは当然どこでも起きてるし、でセッションの場面でも必ず起きるだろう。
だってお互いのことをよく知らない中で、割と深いことを喋っていきますから。
一般論のリスク
お互いのことを知ってたって、深いことを喋っていけば、
そのあらゆる事情について、どの程度深くその人が困惑したり傷ついているのかが、
全部について分かるわけでも、全部について覚えておけるわけでも、現実にはないわけですから、だからこれ起きるわけですよ。
ただ、まあ起こしたくないと思わなくていいって話にはならないと思うんですよね。
だからこのE5で問い合わせをし、相手がC1で捉えるというのは本当やっちゃいます。
だってですね、私自身、これね、病気だからとかではないんですよね。
病気の場合にはそういうことが起こりやすくなるかもしれないんですけれども、だから心理的な症状を持ってるからと言い切れないんですよ。
私は持ってないような気がしてますけれども、自分にとって弱い部分をつかれれば同じことが起きがちなんですよ。
例えば、昔こういうことがあったんですけど、結構親しくなった、私にとってそれは重要な意味がありますからね、大学時代に、そこそこ友達関係になった女性に、
あの女の子に、大学生なんで別に悪気はなく、スザキさんは男の子として見るとちょっと気持ち悪いかなみたいな、
これがもう全然ダメですよね、僕みたいなのには。もう、男としては僕はめちゃ気持ち悪いんだみたいな、C1になっちゃうわけですよ。
一般論に近い部分で、まぁちょっと、はなはな問題がある発言かもしれないけど、まぁでも平成の大学生はそんなもんですよ、バブル時代だった時代なんていうのはですね。
男の人はもう三つ指で足あって飯をごうるのは常識だったぐらいの時期ですから、これぐらいのことは女の子はちょっと親しくなれば、
しかも普通に言いますから、で私はしかも普通に言われるキャラだったから、いいんですけど、いいはずなんですけど、やっぱC1になっちゃうわけですよ。
うわもう、なんか佐々木翔吾は男としてはめちゃ気持ち悪いみたいな、近寄ると吐き気が出るみたいな、そういうC1になっちゃう。定期的仮説になっちゃうわけです、僕の頭の中で。
柔道の神経症の考察
でこれは、ほとんどこれだけを言うと少なくとも柔道の神経症だなって感じがするんだけど、でもそれはこの件に関わるとそうなるんですよ。普通はそうはならない。
だからこれが男友達が、いやお前男としてはちょっとキモいよって言われても気にならないんです。こういうことは起きるんですよね。
だからこういうことが起きるということが、どういうことであるのかをグリッドが示してくれるんですよ。
いやそれグリッドに示されないとダメかって感じなんですけど、グリッドに示された方がいい気がするんですよ。何が起きたかというのを少しでも厳密に見ていこうとするならば、やっぱりこういうことをやっていかないと始まらないなと思うんですよ。
どうしてE1、E5だったのにC1にするんだろう自分はって、考えることができるじゃないですか。
でそれを考えることができることによって、例えば逆もあってE5、C1にされると、なぜ自分はギュッとしてドキッと、ギュッとしてドキッとしますよね。
相手が涙グームとか起こるからどうしたってギュッとするわけですよ。でも例えば松木さんのように、私なんかよりもはるかに臨床例を数多く見てきて、
グリッドについて解説をする本を書ける人でも、ギュッとするんだろうかっていう問いはあると思うんですよね。
で私は、ギュッとすることがやっぱり必要なんじゃないんだろうかと。同じような事柄には当たってきたと思うんですよ。
で普通の人はちょっと回避しに行ってしまう。私なんかでも回避しに行ってしまいそうなんだけど、でもこれを回避することによって、起こるべきだった何かが起きなくなっていくだけですよね。
回避したからって、その問題が何かセッションなり精神分析でもいいんですけど、進むわけじゃないですよ。
だから回避してはいけない気がするんですよ。一方で。だからといってやっていいかというとそうでもないんです。
そういうジレンマが常につきまとっている中で、何が起きるのかということを精密に見ていく必要があって、
それがこのE5からC1っていう、僕はここだけはいつも一応、どうせいつかは起きることに違いないと思うんで、
どういう形でどのぐらいのインパクトでどんな風に起きるのかはともかくとして、だからそれを抽象化するからE5からC1って感じなんですよね。
定義的仮説、その問いは一般概念として、だから私は、いや一般論としてお母様が亡くなられると人は寂しく感じるものなんじゃないかと思いましたみたいなノリなんだけど、
それは一般論としてはどうであれ、私にとってはそうではないみたいなそういう話になった時に、C1っていう夢思考水準における定義的仮説になっちゃう。
これはここを見るだけでももう十分、ビヨングッチョブって感じなんですよ。ここを見るだけでもね、本当はいろいろあるんですけどもっとね。
だけどつまりこれは抽象水準が下がり、現実検討式も下がるっていうことが起きると、で自分からの世界と相手から見た世界、まあそれを定義と言っても変形と言ってもいいんでしょうけど、
変形がかかるわけですよね。見ているものの言葉の意味が少しずつ少しずつグッと変わってしまう。そのグッと変わってしまうとそういう話になっていき、とてもとてもこじれるというか、取扱いが一気にややこしくなり、
情緒的にお互いが苦しい思いをしなければならなくなるんですよ。そういうふうに考えるとやっぱり、ギョッとはしなきゃいけないような気もするわけですよね。ギョッとしたくないんですけど、ギョッとしたくないからこそギョッとするわけですよね。
ギョッとして、ああ、なんか言っちゃったなっていう、言っちゃうっていうことがでもできることがある意味大事なんだと思うんですよね。で、反論されるっていうのは黙ってそれを通されてしまうよりもあるいは良いことなのかもしれないので、そういう、もちろんこう、これはあのこの本にすら書いてあったことなんですけど、
分析家というかアナライザーと同じか、要するに話カウンセラーの方ですね、には身に覚えのないことなわけですよ、はっきり言って。だけど身に覚えがなくたって、そういうことは起きますよというか、身に覚えがないからこそある意味、そういうことが起きますよと。
これは権力褒美とかってよく言いますよね。だからそれは権力がある人が一般論述べるからあれなんだよって話になるんですけど、僕はですね、そうじゃないだろうって思うんですよね。それは確かに権力っていう言い方もできると思うんですよ。一般論として言ってる方が健常だし力も強いから、相手を傷つけてしまうんだからもっと気をつけなさいみたいな、そういう議論もあると思うんですけど、
これはある程度親しくなるからやることなのであって、権力は関係あるかもしれないんだけど、私とその前のスタックンキモイっていう話をした女の子が別に僕より権力があったわけじゃないんですよ。権力褒美はそこにはないわけですよ。むしろどっちかっていうとやや親しくなるからこそ言ってしまうことであって、言えることなんですよ。
だからこのラポールに近い話だと僕は思うんですよね。その権力褒美みたいなことかもしれないけれども、それはやっぱり権力褒美じゃないと思うんですよね。この話は本当ずーっとずーっといろんな形でですね、そのグリッドの話から入ってるわけですけれども、
今日はあの、だって世の中でもよく言ってるんじゃないですか。私は一般論として申し上げたのであってみたいな、そのエクスキューズするときにこれ出てきますよね。一般論としてというのはあなたのことに当てはまるとは思ってなかったんですみたいな。
もっともこのセッションだから、当てはまるにどこかで当てはまるからそういう話をしたんだろうけれども、でもやっぱり一般論を使わずに話ができるかというとそんなことは絶対できないはずで、それを言えばですね、お互いがどこかで必ず傷つけ合うことになるとも言えなくはないわけですよね。
だって絶対にアナライゾントのこと、つまりカウンセラーのことは気にかけなくていいことになっている上に知らないわけですから、いくら私が自己解除いっぱいしてるからつったって私のこと何でもかんでもみんなが知ってるわけじゃないじゃないですか。だから当然あの相手の、つまり私の場合は参加者さんが一般論として述べる、それに対して私がいちいちC1にするってことは起きるわけですよ、どこかで。
でもまあそれは、自分で何とかすると、立場上ね、お金をいただいているということもあれば募集をかけたという側の人間だから、それは自分で何とかするということになるわけですけれども、そのためにスーパーワイザーがいるわけじゃないと思うんだけどね。だからだけれども、やっぱりこう自分でもやるわけですよね。相手のE5をC1にしてしまう。さっきの、さっきのキモいみたいなやつですよね。
あ、佐々木翔吾はキモいんだなっていう、そういうふうに勝手に傷つくのは勝手に、これもだから難しいんですよね。でも一般論として言われていることを個人的なこととして受け止めれば、当然そういうことが起きてくるわけですから、あの、あなたは音楽をやるのに不向きだと思っているみたいな話をしても、えーと、私は人生に不向きだというふうに、あの、あなたはおっしゃったんだから、もう生きてはいられませんみたいな、そういう生きていくのが不向きならば、
死ぬしかありませんよねみたいな、そういうふうになりかねない定義的仮説なわけですよね。定義的仮説っていうのは不思議と、あの、なんていうのかな、本人にとっては絶対的真理なんで、えーと、いわゆるサインみたいなマイナスKとか、マイナスKみたいな含みもすっごくあると思うんですけどね。
本当にその辺、ややこしいなと思う。嘘ではない。嘘をついてるつもりもない。何かを隠そうとしてるっていうのともちょっと違う。ただ、現実見当を、この発想を持つがゆえにしにくくなってるってニュアンスはありますよね。で、現実見当をしなくなっちゃうみたいなところもあります。
例えば私のアトピーはダニのせいだとか、生まれつきの遺伝だとか、そういうやつですよ。どっちも真実ではないんだけど、もう世の中的にそうなっちゃってるし、お医者さんもそう言うし、血液検査とかして、いやちょっとダニがね、みたいな。本当でしたからね。嘘じゃないんで、本当に。別にお医者さんはそれを、何か真実を隠すためにやってたわけじゃないと思うんですよ。
むしろ、私のアトピーを突き詰めて治そうとすれば、やっぱり何か原因があるはずだ。で、そこには絶対的な真理として、これは身体の病であるっていうのがあったわけですよ。そこが嘘だったんですけど、でもそれは、お医者さんは、当時のお医者さんが特に、全く考える必要を考えることができない話だったわけですよね。それは無知とか視野が狭いとかそういうことではないですよ。ただただ定義的仮説なんですよね。
心理的仮説の形成
だから定義された仮説なんですよ。この人はアトピーだ。アトピーは体の病である。それは身体のアレルギー反応が起きるようなものが何か体の中に入ったから、そういう痒みが生じたり、皮膚の炎症が生じているのであるということなんですよ。しかもしばしば本当にそうなんですよ。ですけれども、それを引き起こしているのが真理なんですよね。だから心身症なんですよ。
体の病気である丸っていうことにはならないんですよ。でも、お互いそう信じてる。社会もそう信じてる。だから血液の中を一生懸命調べて、何を摂取しているからいけないのか。甘いものなのか、ほうれん草なのか、ダニなのか、醤油なのか、何でもいいわけですよ。ことごとく廃止していくっていう食事旅行もあるんですよ。やったことがあるんで。米も食べないみたいな。
米の中にある種のタンパク質が入ってるんで、タンパク質がアレルギーになるから、米を食べるからアトピーになるんだみたいな。言ってしまえばそういうことですよ。だから食べなかった時期があるんですよ。
あの、イタリアのですね、クツクスというやつがあって、お湯をかけるとなんかちょっとフワッとして、ちょっとご飯っぽくなるんで。それで僕お刺身とか食べたりしてた時期ありますから。すごいですよ。全然関係ないですよ。今米とか普通に小泉米は食べてませんけど、備蓄米とか食べても、全然アトピー出ませんから。
何だったんだあれはっていう。本当ですよ。全然違いますよ。信用されると別に思ってるわけじゃないですけど、体中から吹き出ていたのに、今一つも出ませんから。しかもあれですよ。食べた途端に出てたんですよ、昔は。何だったんだっていう感じがするぐらいですよね。これぐらい心身症ってすごいなって思いますね。でも定義的仮説なんですよ、これは。やっぱり。
定義的仮説は心理なんで。だってそうですよ。いまだにそうだと思うんですよ。アトピーは心身症であるって言ったら結構炎上しますよね。誰もそんなことは信じてないから。やっぱりこれは太陽が地球の周りを回ってるのか、地球が太陽の周りを回ってるのか。みんなが確信を持って太陽が地球の周りを回ってるって言ってる時に、逆を言うと火あふりとかになるわけですよ。なるわけじゃないですか。
つまり、絶対的な心理というのはそういうものなんですよ。人が無知だとか、ろくでもないとか、それもまた絶対的心理になっちゃうじゃないですか。だからそういうキリスト教の暗黒時代みたいな、人間は狂っていたみたいな、言う方は言うじゃないですか。今でもそれは変わらないみたいに言う方は言うじゃないですか。
それはその人にとっては真理だから。私の身内みたいに財務省が全て日本を悪くしているみたいな、あるわけですよ、そういう定義的仮説が。これ定義的仮説だと言ったって別に僕は炎上案件だとは思わないですよ。あくまでも定義的仮説ですよね、それは。本当だったとしても仮説は仮説ですよね。
まだ証明とかがされる、証明とかされないと思うんだけど、証明とかされる話じゃない、あくまでも定義的な仮説です。で、これもビオンが言った通り、僕もその通りだなと思うんですけど、これは定義的仮説というのは否定なんですよ。
この仮説を取ると何かが否定される。例えばアトピーは体の病気なんだって言われると心の病気ではないって言ってるわけですよ。太陽が地球の周りを回っているんですって言ったら、地球は太陽の周りを回ってはいないんですよ。何か定義的仮説を取ると何かを否定することになるんですよ。で、その否定の煽りを受けて破りとかになっちゃったりするということも起こるわけですよね。
それぐらいこのあつは義理とあって強力なわけですよ。そしてどこかで現実の見当を打ち切ってるわけですよ。先生は私を不向きだと言ったみたいな。あなたは私のことをキモいと言ったみたいな。キモくないと言ったっていうのはここで否定されるわけです。
あなたは親が死んだら悲しまなければいけないと言った。言ってないんですけど、そうなっていくってことですよね。変形をこむると。ビヨンが後期のビヨンって言うのかな。変形と言ったようなんですけど、天威だとか東映だってことだと思うんですけど、変形と言ったわけですよ。
あれですね。そこで増木さんが書かれてますけど、僕も同じものをしたんですけど、僕も心理学の学部卒なんで、ルビンの壺を思い出すんですよね。ルビンの壺ってあるじゃないですか。向かい合った2つの顔なのか壺なのかっていう。変形ってまさにそういう感じなんですよね。何かが反転して見えちゃう。
だから先生側の立場としては、いや奥様が亡くなって悲しいでしょっていう風に言った。そしたら相手からは立場が逆転してるんで先生と患者さんだから先生は奥さんが亡くなるから一般的に言って悲しい。あなたは悲しいんでしょうっていうのが先生は私が悲しくないとでも思っているんだみたいな。反転してしまいますよね。
私が妻を殺したとでも言うんですかみたいな。そういう言葉になってくるわけですよね。で、そのやりとりが狂気だとは僕はもう思わないんですよね。そういうことはいくらも起きてると思います。
昨日だって本当にしょうもないレベルで言えば、私と私の妻の間でも昨日の中には起きてると思うんですよ。だって言いますもんしのくさん時々ね。
例えばですよ。外でお肉とかいっぱい食べて美容片面とか飲むじゃないですか。飲むと機嫌が悪ければですけど、私が作ったものがお腹を壊すってわけみたいな。そういうことっておっしゃいますよ。
いやいや、だって昼で焼肉食べたわけだから、別にあなたが作った食べ物のせいじゃないじゃんっていうと、だから焼肉を食べなければならないように私がご飯を作らないからいけないんだよねみたいなノリ。こういうノリってあるんですよね。
これはですね、私は反転だなってやっぱり思うんですよ。逆転されて逆転されていく。なんかそのロジックをすごくねじ曲げればそういう話にもなるかなみたいな。認知行動で言うところ、認知良好で言うところ、認知の歪みみたいな言い方するんだけど。
これを歪みって言うってことはやっぱりどっかですね、立場っていうものを無視。無視はしてないと思うんですけど、僕はそれは歪みではないように思うんですよね。その認知が歪んでる。じゃあ真っ直ぐな認知ってのがあるんだろうか。どっちかっていうと単なる一般論に対してすごく個人的にそれも非常にネガティブに捉えてる。
だからあのヴィオンがネガティブケーパビリティって言ったのはすごく意味がある。結局のところ何がネガティブかって家族の体調が良くないっていうのはネガティブなんですよね。やっぱりそれはあのうちの奥さんにはそういう昭和的な価値観が真類筋から植え付けられたものがあると思うんですよ。奥さんたるものは家の家族のものがみんな健康に過ごせるようにある。
持っていくのがいい。それは別にそれ自体悪いことじゃないじゃないですか。古臭いかもしれないけど。悪いことじゃないんだけどこれを反転させています。ということは家族の中で誰かが調子を崩したらそれは奥さんの責任である。すぐこうなるって思うんですよね。だから定義的仮説ですよね。結局暴動の一見ポジティブに聞こえる定義的仮説がこれ一般論として述べられてるわけですよね。
家のものの健康に気を配るのは良いことだ。これが一般論として述べられていて、それはそれでそれほど悪いことじゃないんだけど、個人的に捉えて定義的仮説に持ってって、しかもそれはネガティブにしてしまうと現実見当がどっかすっとぶわけですよね。
ああ、だから家族の調子が悪くなったら全て私のせいなんだみたいな、そういうノリになると。これは一見どっかちょっと神経症気味にも見えるかもしれませんけど、私はこういう会話はそこら中で無数に行われてると思うんですよ。
コミュニケーションの逆転
それが認知の歪みという感じで捉えても、認知の歪みなんて正せないじゃないですか。正すっていうのはそもそも無理難題だし、喧嘩の種でしかないと思うんで、そうじゃないだろうという感じがするんですよね。
やっぱりね、現実見当と抽象度の問題で、抽象度が高くなっていて現実見当もされているっていうのがひっくり返りやすいポイントっていうのがどっかにあって、まあどっかに大体あって、その対照的に出てくるところ。
だから私はE5とC1なんですよ。EからC1。すごく見える、よく見られる現象、現象に近いと思うんですよね。これをじっくり時間をかけて、注意と問いを立ててですね、現実見当を上げていって、つまりCで言うところのC3とか4とか5を使っていって、
さらに可能であればEの列にそれをEの行かEの行までそれを引っ張っていくような、その時アルファ機能とか意識的な思考といったものが、まあ僕の場合大筋意識的な思考ばっかりですけれども、とにかく意識的な思考をゆっくり回していくということをくり抜こうしつこくやるみたいな感じ。
だと変化収まったりするわけですよ。めんどくさいとか言われる話あるんだけど、めんどくさいって僕はおかしいなーって最近思うんですよね。めんどくさいってどういう意味なんだろう。どこにめんどくささというものがこの話にあるのかと思うんですよ、最近。
売り取ってものを意識するようになって、めんどくさいというような話とは違うような気がするんですよね。めんどくさいということは、他のことをやった方が自分の人生にとって利益が高いっていうようなのかもしれないんですけど、あるいは労力が少なくて収益率が上がるとかね。
でも僕はそんな風には全然思わないですよね。こういうの放っておくと高くつくと思うんですよ、むしろ。で、非常に簡単なんですよね、ある意味では。もちろんセッションとなってくるとこれは簡単では絶対ありませんけど、夫婦間ならこれはそう難しいことではないんですよね。そんなにコンパッションとか何とか言うことがいるわけじゃないんですよ。
一般論を個人的に受け止めて、ある程度ネガティブケーパビリティが発揮されてない場合ですよね。お互いもそうなんだけども、ある程度こうもやもやしたものを抱えておいて、よくよく考えてみればですね。要するにうちの夫さんが言ってるのは、偏向を奥さんが留意しているということが必要だっていうふうに信じているだけで、その信念を緩めるか、それともそれに沿うように僕が動くか。
だいたいどっちかすれば話は収まるわけですよ。私で言うと、ごめんごめん、でもビオヘルミンを用意してくれているから飲めるわけだしって言うと割と収まるんですよ。これはつまり、奥さんがビオヘルミン買ってますからね。
つまり、結局のとおりうちの奥さんが考えているのは、私が家族の健康の責任者なんだっていうような定義的仮説を持っちゃってるわけですよね。これを緩めると言うんでもいいんですけれども、折に触れて緩めたりもするんですけど。
つまり、うちの奥様の母方の心霊筋が言ってることにそういうのがすごく多かったっていうのを笑い話として喋ればいいんですよ。そうすると緩むんですよ。でもそういうのをビオヘルミンの時に言うのは難しいんで、違う方向から行くみたいな感じですよね。
結局奥さんがそれについて検討しているので、家族は健康になれています。大筋みたいに。これで納得されるんですよ。嫌味ぐらい言われるかもしれませんが、トーンは下がるんですよね、明らかに。
だから定義的仮説は何であるかっていうことが、この場合は、この場合に限らず必ずそういう意識になりますけど、なぜこの人はこれを言い出したんだろうってなるじゃないですか。これはだから、なぜこの人はこれを言い出したんだろうっていうのはCの5かな。わかんないですけど。要するに夢水準における質問、問い合わせですよね。
これをぐるぐる回すっていうことが本当に良いなって思います。Cの行とEの行を問い合わせで定義的仮説を少しずつ解消していく形で、現実検討を上げては抽象化する。そうするとコンテナの負荷が下がっていくんで、楽になれるわけですよ。
とにかくコンテナの負荷を下げるっていうのは現実的な目標にはなると思うので、コンテナの負荷を下げたければ現実検討を立てては概念化していくという、最終的に家族の健康を定義的仮説というよりは表記に持っていきたいって感じはするんですけどね。
ちょっとなんだっていうのは言えないんですけど、なんだっていうのが言えるとですね、多分もっと楽になれるんだろうなって思いますね。そういう方向性がこういう思考の成熟度を単に図式化したというか、図表化したものがになってくれると思えるだけでも違うじゃないですか。
僕はもうほとんどこれで使えてるのが2マスぐらいでしかなくて、しかもそれが松木さんが示してくれた部分だけなんだけど、それでもこれぐらい役に立ちますからね。役に立つと僕は思うんですよね。これは認知とか行動を改めるよりよっぽど簡単ですよ、ある意味で。
本当にだって毎回毎回奥さんに感謝の念を述べるとか大事ですけど、大変ですからねそれはね、すぐに効果が現れるわけじゃないし、100回ぐらいやらなきゃならないし、これは本当に理解さえすれば、極端に言うと何もその場で言わなくたって自分が怒らないで済むぐらいの効果を発揮できますから、ネガティブケイパビリティを発揮するぐらいのことはこの図を意識するだけでできたりしますから。
だって理にかなってますから、ある程度は確実に。我々はそうなるじゃないですか。概念的な水準で動くこともあれば、夢概念で動くこともあり、現実検討が非常に難しくなるケースもあれば、現実検討が十分効くケースもあります。
得意分野、不得意分野、完全にあるじゃないですか。僕の場合は男性的に生理的に受け付けないとか、そういう分野が苦手なんですよ、めちゃくちゃ。これが入ってくると、もう一気にC1の世界に入っていって、一歩間違うとベータ要素の散出が始まっちゃったりもするわけです。最近はないですけど。昔、体痒くなったりしましたもん、そういうことで。