1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
  2. 私が今のような働き方をするよ..
2023-11-11 40:21

私が今のような働き方をするようになったわけ【GMV 875】

ショートのつもりが長くなりました!

サマリー

最近、彼は急に精神分析への関心を持ち始めた理由や、万能感について語っています。人々はカウンセリングによって救われ、心の持ち方によって現実に対応できるかどうかが変わることを考えています。人生相談のビジネスをするためには、現実に対処できるという信念が必要です。皆さんは毎日どれほどの偶然の出来事に出会い、それに対して意味を見出していくのでしょうか。そして他の全ての人も同じようにする方が良いですね。私たちは常に「現実をニュートラルには絶対に見ない」と言っていますが、それは癖です。カウンセリングを受ける必要のない人やカウンセラーにならない人は、自分の能力に基づいて万能感をケアすることから始めるべきです。家族や友人など身近な人たちのサポートを通じて、現実に対応できる感覚を持つことが重要です。トラウマや教えによって自分自身を傷つける必要はありません。

精神分析への関心
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
11月11日土曜日、21時19分ですね。
果たしてショートバージョンに今日できるのか。
本当は土日やっぱり、ショートバージョンはやりたいんですよね。
これのCM編ということにしたい。
週に1回でもいいのかな。
とりあえず、ショートバージョンのつもりでやりますが、ロングになっちゃうかもしれない。
今日はですね、たまたま今日、セッションでもちょこっと話題になったんですけど、
私がどうして最近急にね、もちろんグッドバイブスの影響と言ってしまえば、一言で言ってしまえばもう説明ってこと足りるんだけど、
やたらと精神分析とか、以前のライフハック路線から大幅に路線変更したのはなぜなのかという、
断続的にこんな話もしてる気がしますが、
それなりに自分ができる話をちょっとしてみたので、してみようと思っているんですけれども、
どこから行けばいいんですかね。
今日も万能感って話をしたんですね。
この万能感って言葉、言葉の響きからしても非常に微妙なところがあるわけですよ。
万能、人間万能じゃないだろって言われると、万能じゃないということを認識している方が真っ当だよねって考え方があると思うんですね。
それとは微妙にニュアンスが違うんだけど、精神分析と今日は言っておきますが、
精神分析の世界でも万能感って言葉にはどうもアンビバレントと言いますか、
いいのか悪いのかよくわかんないなっていうところがあるんですよ。
でも私はですね、基本人間はやっぱり万能感を失ってはまずいと思ってるし、
私自身、分析の世界で言われてるのもそっちに近いんじゃないかなっていうふうに思うんですね。
心のマトリックスっていう本を時々この番組でもオグデンって人が書いた本ですけど、紹介してますけど、
マトリックスは子宮なんですよね。心は子宮に包まれていると。
この情景について真剣に考えてみると、子供は私が子宮にいた頃があるわけです。
あったはずなんですよね。
ここで一つポイントとして押さえておきたいのが、
これは私の生前の出来事だったってことは見逃しちゃいけないと思うんですよ。
私たちの時代はオカルトから自分が駆け離れたところにいると信じたがっていてですね、
スピであれオカルトであれ宗教であれ、平気で簡単に切り捨てられると信じてる人が何とも多いんですけど、
例えば我々は死後のせいがあるのかどうかは知らない。
でも生前のせいがあったことは疑うことはできないと思うんですよ。
皆さんご自身の誕生日のことを思い出してほしいんですよ。
誕生日以前には子宮の中にいたはずですよね。
子宮の中にいたときは生前なんですよ。
法律の定義上は絶対に皆さんがどう考えていようともですね。
私は1973年7月30日生まれなんですよ。
7月1日の時にはまだこの世に生まれていたとは法的に見なされていないんですが、私は子宮の中にいたはずなんですよ。
子宮とのつながり
子宮って非常に微妙な表現だと僕は思うんですよね。
心のマトリックス、つまり心が子宮に包まれていた頃があったわけですね。
ていうか今も子宮に包まれていると言いたいんですよね、奥伝は。
で、その時私は子宮こそ世界だと思ってたに違いないんですよ。
この子宮の外に世界があってね、もしかすると母がひどい目に遭うと、私は子宮もろとも死んじゃうんだと一瞬でもよぎったらもういてもたってもいられなくなって、恐怖でいっぱいになっておそらく正気は保てなくなると思うんですよね。
私が当時正気というものを知っていたとすればの話ですけどね。
だってあれですよ。
自分がある空間の中にあって、ここにいることしかできなくて、そこもろとも最大の存在の危機に瀕するような事態が発生し、そうなったら何が起こるのか全然わからないまま自分も生きているという判断はないでしょうけど命を落とすと考えて、そんなところにとつき十日もいられるわけないじゃないですか。
だから私たちは、地球こそ世界であり万能なんだ、この世界とのつながりは完璧なんだと信じていたに違いないんですよ。
この信念というのは僕はいろんな表現があります。規定欠損とかいろいろな表現があるんですけど、原則僕らの正気を支える一番の下地はこれだと僕は信じてるんですね。
だから、人間などというのは万能ではなく儚い存在だと俺は知ってるって人の言葉を僕は文字通りには受け取らないんですよ。
それは知ってることにしたいっていう看法はあるかもしれないけども、知らないはずだって思うんですよね。
で、先日も面白い話をしたんですけども、そもそも我々って自分が万能でいられるようなところにいるじゃないですか。
例えば、ここにいれば酸素が供給されます。気圧は1気圧です。重力も程よいです。
多分ですね、この重力が4分の1になる月とかに移住してしまうと普通の人は生きていけないと思うんですよね。
それだけのことで空気の存在とかがあったとしても、多分とてもじゃないけど健康ではいられないと思うんですよ。
それはたまたまでしょって言われるかもしれませんけど、たまたまっていうのは、例えば統計学的にたまたまかというと、人間はおそらく100%地球上に生まれ落ちるんです。
これはたまたまじゃないんですよね。確率的に0.01%木星に生まれますって人はいないんだと思うんですよ。
将来は知りませんけどね、現段階ではいないと思うんですよね。これはたまたまじゃないですよね。
100%決まってるようなことを人間はたまたまとは呼ばないですよね。
だから、私たちはある種の必然性を持って自分らは万能に生きていける世界の中に生きていると信じていられる理由があるんですよね。
これを信じてないけど俺はちゃんとやっていられるよっていう人の言葉を僕は辞儀通りに、文字通りには受け入れられないんです。
この人は明らかに間違いなく万能感という気持ちの徹底的なグラグラしない気持ちの大地の上に立っているからそんなことも言えるっていうだけであって、
本当にこの万能感、私は世界の中で万能に現実に対応できるんだという気持ちを根本から失ってしまったら、
これは僕の想像ではありますけど、ほぼ100%の確信を持ってその人は協力するって思います。
で、今ちょっと強い言葉を使っちゃったんですけど、それを防ぐために精神分析家とかカウンセラーとかがいるわけですよ。
あるいはそういう事態に近い状態になってしまった人のヘアをするために、多分僕は精神分析家というのが一番高いところで対応する専門家なんだろうと思ってるんです。
ある種の人に寄せると、それはすでに絶滅危惧種らしいんですけど、したら一体誰がこれやるのかなって思うんですよね。
グッドワイブスで倉園圭三さんがやっていらっしゃると言ってもいいんだけど、やっぱり日本に一人じゃまずいと思うんですよ、そういうのは。
一人ってことは絶対ないんだけど、絶滅危惧種じゃいけないと思うんですよね。そういう人は相当いないと思われると思うんですよ。
で、私はその精神分析というのを読めば読むほど、理解すれば理解するほどこの方向だっていう風に信じるに足る理由があるので、
なんでそう信じられるのかを説明するのはなかなか難しいんですけど、でも信じられると思っているから読むと落ち着いてくるぜ。
どんな状況にあっても読むと落ち着いてくる。
倉園さんが現実ならなんとかなるって言ったのとほぼ同じ真理というか完全に同じ心境を取り戻すために、僕にとっては分析の本を読むのが一番確実なんですね。
それはどういう真理かというと覚えてはいないけど、おそらく母の子宮の中にいたときの真理だと思うんですね。
ここが世界であり、世界は完璧で、自分もここにいて何の問題もないし、ここしか世界ないから、当然ここにいることによって私は万能だと。
用水で泳げたらしいんですよね、すべての赤ちゃんは。用水で泳ぎさえすれば完璧なんですよ。泳げないって子はいないはずなので、すべての存在は万能なんですね。
現実にはあらゆるこれから一生を振りかかってくる現実に必ず対応できるようにできているんですよ。
万能感と現実対応能力
お金がなくなるじゃんとかっていう人もいらっしゃるかもしれないんだけれども、太古の昔から我々はお金というもので生きてたわけではないですからね。
人間というのはお金がなくなったら立ちどころに死ぬ存在というわけでは別にないんですよ。
いろんな意味で我々はある種の空想を信じることで自分の万能感を傷つけるということを学んでしまっているんだけど、そんなことをしても少しも現実対応能力が高くならないんですよ。
なると信じている人はいっぱいいるんですけれども、この万能感というのは空想であって、これを失ってもスキルを伸ばしてお金を貯めれば現実に対処できる能力を増させることができるから、増させることができるということは減り得るということですからね。
だから将来こういう目にあったりああいう目にあったりしても、スキルとお金で何とか対応できるのだって決して万能ではない、私は万能ではないことを知ってますよという人はとても危険な状態に僕は生きていると思います。
そんなことでは僕らは生きていけないと思うんですよね。
僕はもう今では確信を持って万能感と100億円というものを絶対交換したくないですね。
僕は今万能感というものを持っているから、現実なら何とかなると信じてますけれども、その根拠として100億円あげるからその万能感は手放しなさいと言われても絶対ごめんですね。
そんなことをすると100億円を握りしめて、誰にも知られない昔の大金持ちの人みたいに100億円を握りしめてホテルの最上階に行って、しかもそこは地震でも絶対に大丈夫なホテルってところに行って、
しかも自分が誰にも知らない、もちろん家族にも実家の肉親にも居場所を知られないようにして遠隔から、でも遠隔からのLINEとかではダメですからね、
突き止められる恐れがあるから自前のサーバーを立ててってやっていかなきゃならなくなるんですよ。
万能感を金で交換するっていうのはそういうことを意味すると思うんですよね。
そして現実は何ともならないという信念を携えて、あらゆる人を疑って、自分のあらゆる能力が失われる可能性を疑って生きていかなきゃならない。
僕はこれはですね、正気を保つのは無理だと僕では思いますね。
どうしてなのかと。
どうして例えば精神分析なのかという話になってくると、まず第一にこの万能感って言葉を扱ってるからですね。
そもそもなんでカウンセラーとか精神分析とかでいいんですけど、最近の尾形さんの言うところの普通の相談といったものがですね、
相談者としての専門家として彼らが言ってみれば食っていけるのかというとですね、万能感を失いそうになった人にとって、
今のような、今言ったような話が前提条件としてあるならば、一体彼らは何をすればいいのかということになるじゃないですか。
確実に言えるのはカウンセラーっていうのは別に金持ちなわけではないので、分析家も全然金持ちなわけじゃないので、
例えば本当に今月苦しいんですよって言って、これで生きていく自信もありませんっていう話をしに行った時にですね、
お金優遇してはくれないんですよね。お金の儲け方も彼ら知ってるわけじゃないから、それを教えてもくれない。
つまり具体的に何かをしてくれるわけではないってことは、僕らみんな知っているはずなんですよ。
カウンセラーのところに行ってできることは、つまり言葉による相談と応答だろうなっていう認識を持っているはずなんですよね。
これが有効だということの意味は、我々はある種の考え方を吹き込まれたり、あるいはある種の空想な信念を手放しさえすれば、
自分の現実対応能力を蘇らせることができるとある程度信じているはずじゃないですか。
カウンセリングの効果
それを信じていないんだったら、お金優遇してくれるところにいる。だからつまり優遇はしてくれないでしょうけど、銀行とか行ったほうがはるかにマシじゃないですか。
だからそう信じる人はですね、カウンセラーのところなんかに行かないんですけれども、実際には人に相談するということによって救われたっていう経験を持ってる人はいっぱいいるわけですよ。
それが可能だということは、つまり雷談社の心の持ちを次第では、現実なら何とかなるのか、それとも何ともならなくなるのかが大きく変化し得るっていう話になってますよね。そういう意味ですよね。
そうじゃなければ、世の中の人生相談みたいなものは一切ビジネスとして成り立つはずがないんですよね。
で、これらのビジネスをする人に一番必要なことは何かっていうと、どんな人でも現実には何とかできるはずだっていう信念が必要なはずなんですよ。
いやこの人がやってきたら、こいつはもう現実にはどうにもならないなっていう人が来ると信じていては、この商売は多分本当の意味ではやってられなくなると思うんですよ。
基本的に来た人をまず追い返したくはないじゃないですか。人生相談なんだから、いやその悩みは無理ですねみたいなことは言うべきではないと思うんですよ。そしたらもう来た人絶望しますからね。
で、ある、まあそうならないんですけど一般的には信用問題じゃないですか。例えば来た人に絶望させて、うつをもっとひどくしましたみたいなことが噂だったら大変ですよね。
だから相談を受けるという商売を、まあ商売をって言いますけど、するという人はですね、どんな人でもこの現実には何とか対応できると、どっかで信じているはずなんですね。
僕はそのことを、特にそういうのって結局ある意味気持ちの問題ってやつなので、そういうのはもっとも実は気持ちで対応するのがやっぱり必然だろうと思うんですよ。
もちろん色々ありますよ。例えば薬で対応するとかね。あるわけですよ。抗不安薬っていう。この名の薬の名称をよくよく考えてみるとすごいじゃないですか。
現実に生きていくのが不安なんです。わかりました。抗不安薬ってものがあります。これすごいことですよ。
でもこれもやっぱり抗不安薬なんですよ。現実対応の増進能力剤とかじゃないんですよ。
これを飲むとあなたはエクセルが使えるようになりますとかいう恐ろしい薬ではないってことですよ。
抗不安薬を飲んで不安にこうすることができるようになったとしても、この人のスキルは別に本当は伸びるわけじゃないじゃないですか。
実はこういうので伸びることがあるんだけど、まあ伸びるわけじゃないですよね。伸びたとしてもごく微量ですよね。
つまり必要なのは少なくとも精神療法家に言わせれば必要なのは抗不安なのであって、能力増進とか金融とかではないわけですよ。
まあそれはわかんないですよ。本音のところでありや実はこいつには1億ぐらい渡した方が抗不安薬なんかより効くんだけどなっていうケースはあるのかもしれないけど、
僕は実はそんなものはないと思ってるんですよ。何回分析の本を読んでも、この問題というのは結局そういうことではどうしようもないなと。
万能感というものが損なわれてしまったら、ある意味取り返しがつかないんだなっていうふうに私には読めるんですよね。
お金なんていくらあってもダメだなと。脅迫症のこの番組でももう繰り返し飽きるほどお伝えしているあれですよ。
平気で嘘をつく人たち。あんな人たちにいくらお金があっても無駄な感じがするんですよね。
結局最初に登場してきた人だってお金に困ってるわけでは全然ないんですけれども、どっかで人を引いたっていう間違った信念にとらわれて、
真夜中に何時間もドライブしてはそこに行って足殺しなんか引いてなかったっていうのを確かめに行くと。
これが万能感を失った人の姿なんですよね。現実ならなんとかなるということが心の奥底で不信感に染まってしまうと、
何を自分がしたか。だって現実の中の一つにある種の記憶が定かでなくなると、
どこかで人を引いたかもしれないけど、自分はそのことを引いてないと確信することも、引いたと確信することもできない。
これは自分の脳みそに対するある種の強い不信感の現れですよね。本当はもっと違うんですけどね。
将来への不安とかいろんな不安がその人のありもしない現実感というものを作り出しているんですけれども、
どっちにしても同じことですよね。現実に生きていくということに自分は対応できないかもしれないという不信感を持ったが、
最後、どんなことでもこの世の中では起こり得る空想というのが空想なんで、いくらでもできる。
つまり万能感というものが逆転するんですよね。
全てがダメになる感みたいなもんですよね。だからどこを向いても失敗とか致命傷とかそういった恐怖に苛まれなければいけない。
そういう事態を自分の心が引き起こしてしまう。
そういうのが私が思うに、全ての精神症と呼ばれているものに共通する傾向なんだなと。
そういうことも臨床の本っていうことをよくよく感じられるわけですよ。
逆転移と逆転の空想
よく言うのがですね、精神分析ではすごい生々しいと。
これは時々話題になるんですけれども、例えばここにある手元にある藤山直樹さんという方の本でも、
とにかく生々しいと。大人がもう一人の大人と二人きりで、片方はしかも横になっている。
この世の中ではとても生々しいことである。まあそうですよね。
一方違うと問題になってしまいそうな状況をそこに設定してあるわけですね。
藤山さんはその中でパウチのタオルを変える。
つまりどうしてタオルを変えなければならないかというと、他の人も使っているからなんですよ。
タオルを変えなきゃならないし、洗濯もしなきゃならない。
この辺もまた非常に生活習みたいなものがしますよね。
実際この臭いってものが、タオルを変えるその瞬間に感じる患者の臭いに対する自分の反応を見て、
その時の私の患者に対する逆転的空想の質に気づくこともある。
これは非常に専門的な表現で、今ちょっと引用的に読んでみたんですけれども、
実に専門的な表現ですが、やっぱりこういうことって何のためにやってるんだろうと。
転移と逆転移というのは、つまり最初には患者さんが藤山さんのような精神分析家に対して、
お父さんみたいだ、お父さんみたいだ、お父さんみたいだ。
やがて態度がお父さんに対する娘みたいになっちゃうわけですね。
そうするとその反対に分析家の方も自分がお父さんで、
この患者は娘みたいだなって感じを抱き始めるわけ。
これが逆転移ですね。
転移の後に来るものですよね。
こういうことをタオルについている香水の匂いから逆転移を空想してしまう。
逆転移って空想ですよ。娘じゃないわけですから。
それを患者を娘扱いするんだから。これは空想ですよね。
そういう空想の質と書いてあるけれども、まさに質なんでしょうね。
そのヒステリカルな患者のつけている、
強烈な香水の匂いのついたタオルをかえている時に、
ある種喜んでいる自分も、自分がいることもあれば、
ヘキヘキしている自分がいることもある。
そうですよね。きっとそうだと思うんですよ。
こういうことが書いてあるものって、
僕はほとんど小説ぐらいしか他は出てこない。
でも小説はやっぱり作り話ですし、
どこかにフィクショナライズってものをしてますけど、
これは逆だから、どこかでそのまま書くわけにはいかないから、
話を変えてあるかもしれないけど、
基本的にフィクションではないわけですよね。
まさにこういうことがこの世のどこかで行われていて、
何のためにやっているのかというと、やっぱりですね、
僕らはいろんなことを思い出したり空想したりして、
例えば仕事をしたりしているからだと思うんですよ。
ごくわかりやすい事例で言えば、
私の3歳だった頃の母を思い起こさせるような女性が、
出版の編集さんとして僕に仕事を依頼してきたら、
僕はその人からの依頼の、
例えばメールなりショートメッセージの文章というものを
脚色して読んじゃうと思うんですよ、絶対に。
逆に、これは結局店員みたいなもんだけど、
逆に私を部活の時代、中学時代の部活で、
さかずにいびり続けてきてくれた先輩というのがいてですね、
彼とそっくりの声をしている編集さんからの依頼というもの、
その編集さんが直している構成というものを見るとですね、
僕が歌詞の構成を見ると、
いや、なんでここを直すかなとかって思うと。
で、仮にそんなことはしょっちゅう思うけど、
そう思った時にですね、
果たしてそれは直されている箇所が妥当でないからなのか、
それともその編集さんが私をいびった先輩にそっくりだったからなのか、
僕には区別がつかないんですよ、情緒的にね。
頭では区別することができても、
感情では決してこれを区別することができない。
こういう時に僕は仕事の先送りとか、
あるいは仕事がしたくなくなるとかですね、
もうちょっと進行してしまうと、
その本を出すってことに、
そもそも嫌気がさせてくるみたいなことがあるかもしれない。
あるいはさっきのようにね、
母そっくりの女性が、
しかも若くなって再登場してくれたような女性の依頼だったとすると、
そこで相当の無理難題を持ってこられても、
危機としてやってしまうかもしれないわけですよ。
そういうことには何の一貫性も僕はないと思うんですね。
しかもそれは無意識になってるんで、
そういう記憶早期は無意識なので、
自意識の上では全然違うことを考えると思うんですよ、きっと。
いやー、このタイミングでこういう依頼をしてこられたから、
自分はやってるんだよな、
やっぱりこれはウッドファイブスかもしれないな、
とかって言い出すわけですよ。
だから僕はおよそ仕事を楽しくするとかですね、
これは仕事だぞっていうブログの話から取ってるんですけど、
あるいは仕事を先送りしたくなると、
僕は先送りの本で最近も書いてるわけだけど、
その原因とか要素、要因というものを探りに行ったら
絶対ダメだろうと思うんですね。
少なくとも私に関して言えば、
どう考えてもそれは間違ってるんじゃないかと思います。
特に第一巻で出てきたこと。
あと記録に残ってるようなことは信用ならないと思うんですよ。
なぜなら記録に残せるのは自意識の部分ばかりだから。
いくらその長い間の記録をいっぱい取ったとしても、
そこには無意識からのは出てこないと思うんですよ。
編集は母親そっくりだからこの編集からの依頼は
全部受けるであろうとかって書かないんですよ、私は結局。
で、これがですね、ものすごく微妙な形で出てくるんですね。
顔がそっくりだとか、声もそっくりだとか
いうことまで似てるってなれば、
さすがにそれは意識的に気づくこともできますけど、
さっきのカウチのタオルみたいな話、
これは分析家だからこういうところに目が行くわけですよ。
タオルを替えてる時の匂い、
この匂いが娘さんの香水と似てるとかじゃないんですよ、絶対。
そうではなくて、似ても似つかなくても
無意識ってものはこれをですね、
いろんな近くの仕方をこねくり回しながら、
例えばものすごい嫌な匂いだとしてもですね、
娘がこういう匂いの香水をつけていたら嫌だなと、
意識の底の方でチラッとでも思うと、
意味のつけ方
もうその感覚がですね、
いろんな態度の仕方に出ていったり、
この態度を見てまた相手の患者さんが
いろんな反応の仕方を変えて、
そういう意識の上に上らせることができない、
こう微妙な信号の小さなやり取りみたいなところから
一つの仕事が楽しくなったり嫌になったり、
いろんなことが起きるわけですよね。
これの全部を記録に残すと、
そもそも土台、現実的ではないですよ。
こういうことに近いことがおそらく起きてるんですよね、
私たちの身の回りでは。
ものすごいしょっちゅう、
数億回とかいうレベルで僕は起きるんだと思うんですよ。
ものすごい半時間の間のやり取りだから。
だから全部を記録するっていうのは、
それは当然無理ですし、
万能感と傷つける欲求
意識することすら無理なんだと思うんですね。
ただただそういうものが進行していく。
で、私もきっとですね、
かつて書いた本の中にはそういうものがあったと思うんですよ。
往復をたどれば、
おばあちゃんの影響があって、
この本のこの文章のこの行をこう書くことになり、
直せと言われた要求を受け入れることにしたと。
逆におじいちゃんとかあるいは父親とか、
さっきの部活の先輩とかの遠い影響があって、
この文章のこの場面のここは直す、
直されても拒否することにしたとか、
そういうことがあり得ると思うんですよね。
これをでも僕らはムカつくからとか、
よくわからない、わかったような気でいて、
よくわからない理由で却下したり、
いや昨日寝不足だったからとか言い出すんですよ。
で、それはいかにももっともらしい作り話なんですね。
見てきたようなというか見てきてるんだけれども、
昨日ね、ナイター中継をずっと見ちゃったから、
夜ダラダラしてしまったから、
寝るのが遅くなり、
今日起きたときに寝不足だったから、
仕事に身が入らなくて反省するとか、
僕はもうナンセンスの極みだと思うんですよね。
それは多分全く真実じゃないと思うんですよ。
確かにそういうことが1万分のとか、
もしかすると1000万分の一つの要因として
言うことはできるのかもしれないけれども、
それがもう100%それしかありえないんですとか、
いう話をしていたら、
どちらかというとですね、
やっぱりさっきのカウチの藤山直樹さんがですね、
カウチのタオルをかえているときの、
ほのかなというか、
かすかなかもしれないじゃないですか、
体臭みたいなものを嗅いだときの、
自分のおそらく普通の人なら気づかない煙窪感とか、
あるいは静的興奮みたいなもの、
そういうものをキャッチして、
で、何かが起きると。
そういうことを未然に防ぐとか、
それを自分に有利な方に切り替えるとか、
できるわけがないですよね。
私たちは一体どれだけ毎日、
どれだけの匂いを偶然嗅がされることになるのか、
それに対していちいち意味をつけていくわけですよ。
間違いなくやりますよね。
僕らはいつも僕は癖のように言ってますけど、
現実をニュートラルには絶対見ないですよ。
ああいい香りだ、コーヒーの香りだから。
コーヒーの香りがいいと思うのは人間だからですよね。
あるいはああ嫌な匂いだ、
これはあのなんだろう、
なんかこう虫の死骸かなんかの匂いだみたいな、
そういうのって、
それは人間だからそれが嫌なわけじゃないですか。
しかも全ての人間が同じように嫌がるわけじゃないわけですよ。
ディスガストとライクなんだけれども、
それは非常にですね、恣意的というか、
この人個人の歴史と、
切っても切れないもの、
そして全てのものを、
いいとか悪いとか好きとか嫌いとか言ってられるから、
人生生きていけるわけですよね。
じゃないと、私たちは紙とか食べ始めちゃうわけですよ。
紙に美味しそうな牛肉の写真が載ってたから食べてしまいました。
おかしいかもしれないけど、
それは全然おかしなことじゃないですよね、本当のところ。
でもそれが食べ物でないってことを、
僕らは何も考える必要はない、
一切考える必要がなく、
一瞬でそれを見抜いて、
食べるものと食べないものをスパッと分ける。
どれほど食べ物に似ていても、
食べ物でないものは食べない。
世の中をものすごく自分に都合よく見ていて、
つまり我々は現実なら何とかなるように生きているわけですよね。
もしこれがコンピューターみたいだったら、
多分絶対に現実は何ともできなくなってしまうと、
そんなにコンピューターにとって、
この現実って都合よくは作られていないので、
やっぱりこの地球上の生物にとって都合よく作られている。
だからここに我々生物は生まれ落ちるわけなんでしょうけど。
そういうことを回復し続けていかなきゃいけない気がするんです。
ずっと万能だと自分は、
現実ならずっとどんな現実がやってきても、
基本的にはどんな人間であったとしても対応できるんだと。
まして自分は都合よく都合のいいところに生まれ落ちているわけだから、
つまり現実は好意的なはずだから、原則的にですね。
絶対に対応できないような出来事は起こるはずがないんだと。
これを言った瞬間にですね、意地の悪い人だと、
でもこうこうこういうのは佐々木さんは対応できるんですか?
っていう空想を投げてくるわけですよね。
それは何のためなの?
それは万能感というものを傷つけたいという気持ちが、
その人の中に何らかの理由があって芽生えるからなんですよ。
じゃあそれはどこからそういう気持ちが芽生えるのか?
ということを掘っていくのが精神分析なんですね。
なぜなら精神分析のところに来る人は、
人の他人のなり自分の万能感というのを傷つけたいという、
創作的な傾向を持っているからなんです。
本当はそういうことはありえないじゃないですか。
ショートヘンでは済まなくなってきた。30分超えちゃったな。
本当はそういうことはありえない。
自分自身があるがままの姿で、あるがままの能力で、
特別なスキルとかを持ったり、老後まで十分な資金を蓄えたり、
兄さんなり保険なりをしなくったって、
万能に生きていけるって信じる方が幸せに決まってるじゃないですか。
そう信じられるんであれば。
そして他の全ての人もそうである方がいいはずですよね。
だけれども、いやいやそういうことは信じたくないと。
信じてしまって本当にひどい目に遭うという可能性をやっぱり意識しておきたいと。
やっぱり兄さんぐらいはやっておきたいということになったときに、
僕らは万能感を差し出し始めるんですよね。
しかもそういうことをするとなってくると、
他の佐々木みたいな人間が兄さんみたいな知識を一切なく、
いやいや万能感を持って現実なら何とかなるんですといって、
ノホホンと生きているのが何となく許せないような気がしてくるんですよ。
それだと自分が損をしているような気がするという感じで、
代わりにじゃあ佐々木の万能感もぜひ傷つけておこうという気持ちになったとき、
どういうことが起きるのかというと、
周りの人が万能感を傷ついた人になっていくんですよね。
傷つけられた万能感を持っている人。
そうするとその人の顔色を伺わなければならなくなるはずなんですよ。
私の万能感なりを誰かが傷つけてしまったとして、
その人がすぐそばにいた。私の肉親でもなんでもいいんですけどね。
そうすると、私の仕事仲間とかがいいのかな。
Jさんなりが私の万能感を傷つけると、どういうことが起きるかというと、
私に何かを頼むときに頼みにくくなるんですよ。
私が万能感を持ってノホホンと生きていればですね、
安井さん、今ちょっと状況があれなんで、
無料なんだけれども1日10時間くらいかかる仕事なんですけど、
やってくれますかって言っても、僕はやるんですよ。Jさんからの依頼であれば。
でもそれは僕が万能感を持っていてこそできる話であって、
僕が万能感を持ってなかったりすればですね、
そんな依頼を引き受ける理由がなくなりますよね。
老後は心配だし、今10時間もの仕事をして、
明日寝不足になるかもしれない。不安におののいている。
今幸不安薬も飲んでますっていうような状態で、
そんなもの引き受けるはずないじゃないですか。
そうすると、いくらもらえるんですかねみたいな話になりますよね。
時給で換算するとどうなんでしょうみたいなことを言い出しますよね。
そうするとその分頼みにくくもなるし、頼りにくくもなりますよね。
これを人の万能感を傷つけるっていう人は、
必ずこの問題に直面しなければならないはずなんですね。
迫害妄想症
自分の万能感も傷ついて。
だからこれが蔓延していくと、すっごい生きにくい世の中になっていくし、
人生そのものもすっごいやりにくくなっていくはずなんですよ。
それが極まった先にあるのが僕が思うに、
最近ちょっとそういうタイトルの病気も、
新しい病名をつけてるだけなんだけどね。
迫害妄想症って言うんですけどね。
迫害妄想症っていうのは、たぶんその運と先、
この延長線にあるんですよきっと。
あらゆる周りの人の万能感を傷つけてやりたいと。
機会があれば傷つけてきましたと。
もちろん自分の万能感なんかもうとっくにズダズダですという人にしてみればですね、
世の中のすべての人が自分を狙っているって感じで、
決しておかしくはないですよね。
世の中のすべての人、誰一人本当の意味では頼りにならないと考えても、
決しておかしくはないんですよ。
ここまで来た時に、どんな人が必要になるでしょうか。
一つにはやっぱり、お金さえ払えば自分の話を間違いなく聞いてくれて、
可能ならば自分を良い方向に持っていってくれる。
つまり、現実ならなんとかなるって信じている人ですよね。
それがカウンセラーなんだと思う。
あるいはフェットワイブスでクラズの慶三さんなんだと思うんですよね。
お金払う必要は出てきますけどね。
たぶんこの構造の大きなもう一つの意味は、
もちろんこの国が資本主義だってこともあるんだけれども、
たぶんそのうんと先の方まで行った人は、
もはやお金を払わないでも、ただ話をしに行った相手が、
自分の万能感を回復させてくれたり、
その人自身が万能感を持っているとは1%も信じられないんだと思うんですよ。
だからお金を払った方がマシなんですよね。
最初は不信感の塊の中で生きているわけだから、
お金ぐらい払っておかないと話聞いてくれもしないんじゃないかっていうところから
スタートしなきゃなんだかなる。
分析家の人は少なくともカウンセラーの人は、
お金さえ払えば話は聞いてくれる。
こっからその万能感の回復っていうものがスタートするんだろうと思うんです。
ということは結局何をすればいいのかと、
カウンセリングを受けない人へのアドバイス
我々のようなカウンセリングをおそらく受けに行かない人が多い、
これを聞いている人。
あるいは自分はカウンセラーにはならないという人が多いという人は、
第一歩としてどこから始めるのがいいかというとですね、
僕が思うに、
人の万能感をケアするところから始めるしかないと思うんですよね、やっぱり。
その人はその人の能力を持ってすれば、
現実ならどんな現実でも対応できるんだという風に
勇気づけてあげるというのが一番手っ取り早いと思うんですよ。
自分自身の万能感を回復するにあたって。
これをおそらくお金を取る必要のない相手、
家族なり肉親なり、つまり一番身近な相手にやっていくことによってですね、
お金取る理由ないですからね、そうであれば。
やってあげることによって、
例えばうちの娘なりに何かですし、
しくじったと信じていたとしても中間ですとなり、
今もこれからもずっと、
多分私のような人間のサポートを使うことは当然あるだろうけど、
あるいは学校の先生とか友達とかね、
そうすれば必ずあなたの人生で対応できないような
現実に直面することはないから、
言うでしょ、そういうこと。
それに類すること、必ずいうことになると思うんですよ。
これは結局のところ、
自分のそれまでの人生経験でも何でもいいんですけれども、
そういったもので、
現実には対応できてきたよなという感覚が来てるわけですからね。
現実には対応できていたよなという感覚抜きには、
これを本気で言う気には絶対にならないと思うんですよ。
で、この一番のベースには、
僕らの生前があったと思うんですよ。
生まれる前に、私たちは地球の中で万能でしたと。
現実には困ったことは起きませんでしたと。
覚えてませんけどね。
そのとき私たち何ができたかというと、
せいぜい用水のダンスができただけなんですよ。
でもそれで十分だったわけじゃないですか。
そしてそれ以上の現実というものに直面することは結局なかった。
これに対して空想を持ってしてですね、
自分を傷つける必要って本当は全くないはずなんですよね。
もしあると思うんだったら、
その動機はどこから来たのかということですよ。
それは多分これまでの人生で、
そういうふうなものと信じそうになったトラウマか。
それに類する教えというものは同じことですけれども、
トラウマに対応する教えみたいなものを吹き込まれて、
納得しかけてしまったというようなことに
おそらく由来するんだろうと思うんですね。
それはちょうど、
さっき散々言うような意味では、
カウンセラーという人たちとおそらくやることが真逆なんだと。
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