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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
あっさり金曜日が来て、ある意味びっくりしてるんですけど、
昨日飛ばしたのはですね、たぶん平日週1回ぐらいは飛ばすことになるかなとも思ってるんですが、
意外に忙しくなっていまして、
あと、昨日は何か知らないけどお腹が痛くなりまして、
調子を崩すんですよね、時々。
それで、週に1回ぐらい飛ばしてることが最近多いです。
ネタが切れてるとかいうわけじゃない。ネタないですからね、そもそも。
6月4日に、何度も言ってますけど、
たちばなたけしさんとクロストークやるので、
できればご参加いただけるとありがたいかなと思っています。
この辺でだんだん固めていきたいことがいろいろあってですね、
こういう話をすると恐縮なんですけど、ちょっと恐縮なんですけど、
この固めかけてる時の話が一番面白くできるんじゃないかという疑いを私はうすうす抱いているんですよ。
だいぶ古い本なんですけど、野口幸男さんの超整理法っていう本があって、
私は野口さん生の本で一番面白いのは、あれか超旅行法とかいうやつかな、
あのどっちかかなぐらいに思っているんですけど、
その超整理法のアイデアが塊かけてきた時に本を書いちゃってたと思うんですね。
そのまま洗練されていくんですけど、
洗練されていった頃は最初のアイデアが生に出続けて始めた頃に比べると、
もう一つ面白くないですよ。これも不思議なんですけどね。
洗練されている時の方がわかりやすいし、しかもやりやすいし、
ハウツーですから、いいはずなんですけど、確立もされていますからね。
何かでもそうじゃないんですよね。
面白さには本人が発見の興奮みたいなのってあるんですけれども、
あの頃の方が面白い気がするんですよ。
今橘さんとやるクロストークは多分ですけど、
1から10まで同じような価値観であるということは考えにくいわけです。
そういう方とこのタイミングで私がやると、すごい生にえ感が自分の中で出ていて、
あってはまずいんだけど、あるんですよね。
不安の恐れと不安ってやつが。
これがでも忍び込んできつつあるのを頑張って、
クラズノさんの言葉を借りると、ガッツで排除しながら、
自分の言おうとしていることを絞り出していくというのを聞くのがですね、
私は一番面白いと個人的には思っているんですよ。
下手に確立されてしまったハウツー、
03:01
ハウツーというのは何にしても万有引力の法則みたいなんではないわけですよね。
それほど普遍的な法則性を持つはずのものじゃないし、
さまざま軽く聞くのがちょうどいいもので、
それに対して本人が過度に思い入れがある最初期の頃の話を聞くと面白いというのが私の考えなんですね。
なのでタスクシュートも実は私一番内心ではそう思っていて、
一番最初の頃のお菓子さんの仕事の記事を読むのが好きなんですよ。
あそこに全部があるみたいな。
今のタスクシュートクラウドの方があらゆる意味でみんなにとって使いやすいのは間違いないんですよ。
そうなると便利にはなるんだけれども、
もう話をそこから一生懸命聞きたいなとは普通なかなか思えてこない。
初めて触れる人は別ですよ。
初めて触れる人にはその人側からの発見の興奮があると思うんでね。
そういうことなのかなというのがありまして、
だから6月4日来てねという話ですね。
で、今の話の中にもちょいちょい出てきてるんですけど、
最近ですね、アマエの構造の一番最後の方に、
ドイ・タケオさんのアマエの構造の一番最後の方に、
ドイツカ、アイデアリゼーションかな英語で、
ドイツカとアマエは同じ概念だったみたいな話が書いていて衝撃を受けたんですよ。
同じじゃないのかなと私はすごい悩んでいたんですね。
その本をその場所を読むまで。
ところが先日読み返して見つけるというのはおかしくてですね、
これが発見の興奮なんだけど。
私はあの本は何度も最後まで読み終わってるんですよ。
最後って言っても、最後まで読んでるけれども、
一番最後の方の、ここは読まなくてもいいよね的なところではないんですよ。
だからあそこは読んだ記憶もあるし、内容もだいたい覚えてるのに、
なぜここのところの重要性をスルーしてたんだろうと思ったんですね。
ドイツカなんですよ。
ドイツカというのはフロイトの概念で根本的には。
要はそうですね、
幼児がよくカメハメハ。
孫悟空の真似とかするじゃないですか。
あれがドイツカですよね。
ドイツカはいっぱいあって、一般的に感情移入とか呼ばれるんだけれども、
それもドイツカの一種だと思うんですが、
要は子供は最初親になった気になると思うんですね。
それがドイツカの原点かなと思うんですが、
だから孔子一体って話になるんですよね。
ここでジェンダーを持ち出すと、ややこしいことをこなおえないし、
06:01
得るものがほとんどないので、
ここはドイツカで済ませればいいと思うんですよ。
最初に母親にドイツカしようとすると子供は害してる。
相手が相当ひどい親でもすると。
そういう難しさがあるんだけど、するんですよ。
だからなんですけれども、
例えばパッと思い浮かんじゃうのがあんまり多くないんですけれども、
創跡の心で先生と私って出てくるじゃないですか。
読んでない方は申し訳ないんですけれども、
別に読んでなくても簡単な話でして、
つまりあれは同性愛の話に通して
瀬戸井さんは解釈していて、そうだろうなと思うんですよ。
それに近い表現出てきますよね。
あなたはこれから異性の恋愛に向かう前に、
まず同性の私のところに来たんです。
あの通りなんだと思うんですね。
あれは同一化なんですよ。
つまりそれってかなり複雑な心理形態に変わってるじゃないですか。
母親にドイツカしようとしたときは、
相手は母親なんだから女性に決まってるんだけど、
異性だ、同性だを選ぶって話になってくると、
同一化の対象を探し始めるわけですよね。
私たちはそういうことをやりますよね。
昨日だって私やってましたよ。
ロッテと同一化しちゃうんですよ。
そういうもんですよね、ファンってのは。
そうじゃなきゃ応援するメリットとか言い出したって、
何の意味もないじゃないですか。
どっちかというと今だったら楽天のファンやってる方が便利なんですよ。
そういうふうには同一化の発想は取らない。
私見てませんけど、鎌倉殿の13人とかで、
カズサムスケって人殺されるじゃないですか。
あれに同一化しちゃうととっても辛くなるでしょ。
でもあの人が殺されたのは史実であって、
今更テレビでそれを確認することによって自分が辛くなるっていうのは、
何の説明もつかないと思うんですが、
あれ同一化するから辛くなるんですし、
またドラマはもちろん同一化するように作ってますからね。
ちなみにこの同一化っていうのはさっき言った通り、
便利だからこいつに同一化しようっていうのはなかなかいかないんですよ。
例えばドラえもんでもみんなドラえもんにはならないんですよね。
伸びたくんになっちゃうんですよ。
それって不便じゃないですか。
伸びたくんと同一化してもあんまりいいことないと思うんだけど、
多分多くの人は伸びたくんになるんですよ。
これが同一化の面白いところで、
同一化っていうのは対象を自由に選べるようでいてそうじゃないし、
物語作者は無意識なんだと思うんですけど、
意識的に計算してやってる人も間違いなくいますが、
誰に同一化させるかは考えつつ作っていて、
大体その通り読者は読むことになると思うんですね。
私の子供の頃はですね、
セイントセイヤに同一化する人とか、
ケンシロウに同一化するやつとか、
ラオウに同一化するやつとかがいて、
はなはな迷惑だったんですよ。
それは迷惑じゃないですか。
大体いじめの対象にするやつを見つけてはボコボコにするっていう、
09:02
そういうために同一化する。
逆なんだけどね。
同一化するとそれがやりたくなるんですけど、
その少し前ではですね、
忍者に同一化する人多かったみたいですね。
父の話とか聞いてると。
とにかく同一化ってそういう極めて子供っぽいものでもあるし、
でも大人になってやるものでもあるんですよね。
同一化と甘えが同じだっていうのは、
全くそうだと思います。
あれは甘えですよね、完全に。
相手になることによって、
私の強さだの、表現できない部分だのを表現できるようになるとか、
情緒的な満足、これは完全に甘えということなんだけど、
情緒的な満足のために何かの対象を使うわけですから、
その対象を使って自分の情緒を満足させるというのは、
甘えの極めて基本的な形態なので、
同一化というのがある。
そしてメニコットが言った通りで、
甘えられないんですよ、私たちは究極的には。
究極的に甘えられるってことだったら、
同一化を取り越してその人になっちゃう、
ラオウになっちゃうって話になりますから、
できないじゃないですか、そういうことは絶対に。
だから究極的に甘えられないということを
どこかで私たちは理解しなきゃいけないんですね。
私はやったことはほぼないですけど、
コスプレってあるじゃないですか、
あれが同一化のための道具立てですよね。
メニコット的に言うと意向対象ってことになるのかなと思うんですが、
つまりそれを使うと同一化がやりやすくなると、
女の子はママオードセットを使うと母親になりやすくなると、
そういうところから意向対象というものを引っ張り出してきては、
自分を何かに同一化して、
それによって自分の強さというものを発揮するわけですよ。
この時に甘えてるんだけれども、
情緒的にはですね、
それによって何か誰かを甘えさせることもできる。
だから甘えるということと甘えさせるということは
同時に起こるんですね。
同一化っていう概念を通ると、
これは簡単に説明がつくところもあるなと思います。
母親役になった女の子っていうのは、
割と恋愛の初期のうちにはですね、
男の子とかを甘えさせるじゃないですか。
それ完全に同一化しているわけですよね。
母親か何かに。
息子股扱いなわけですよ。
そういう形態ってめちゃくちゃ世の中にはあると思うんだけれども、
それをやるんですね。
甘やかすというのが甘えさせるのと全然違うのはですね、
恋愛を事例にとると分かりやすくなります。
相手にさほど好かれてないか、
ほぼ関心を持たれていないように、
一方的に言い寄りというのが甘やかすってことなんですよ。
この人は、私はよくやったんだけど、
12:00
何をやってるかというと、
相手に同一化しちゃうんですね、まず。
いきなり相手に同一化して、
相手は素晴らしいものだと見なし、
しかもその素晴らしいものを自分だと見なすことで、
だから相手に優しくしたり、
いろんなものを持っていったり、
一緒にいたりするだけでも、
全く安心感が得られて、
完全に充足感が得られるわけですよ。
これで相手がそうならいいんだけど、
先に相手が自分になっちゃった。
つまり、私が誰か女の子に言い寄ったときというのは、
私はもうその女の子になろうとしてるわけですね。
そうすると、相手の女の子は困るわけですよ。
相手の女の子からしては、
もう相手は私になっちゃったってことになると、
その相手になってもしょうがないじゃないですか。
ここに恋愛がうまくいかないときのパターンが
大概あるなという気がします。
同一化の先取りみたいな言い方を
専門用語ではしてるんだけれども、
全くそういう感じのことが起きて、
美学にもありますよ。
私もやっちゃうことがあって、
ちょっと後で調整をかけるというか、
少し反省するというか、
少しやらないように心がけるとかはしますから、
娘になってしまうんですよね。
そうすると、娘にいろんなことをしてあげることは、
結局これは私が私のためにいろんなことをするのと
何にも変わらないことになってしまって、
娘にとってあんまりいいことじゃないんですよ。
娘は甘えたい方じゃないですか。
甘やかすというのは、
甘やかすというのは、
実は自分が猛烈に甘えようとして、
うまくいってないときに、
よく起こる現象なんですね。
同一化を一方的に先取りしていくんですよ。
本来逆である部分が必要なのに、
逆の部分が全然成立しなくなってしまうという、
だから子供を甘やかしちゃいけないというのは、
そういうことなんだろうなと、
精神分析的にはそういうことになるんだろうなと、
思うんですね。
そういうことが書いてあったんだけど、
非常にびっくりしました。
なぜこんな大事なところを何度も読んだのに、
同一化と甘えというのはどういう関係なんだろうと、
ずいぶん考え込んだんですよね。
フロイトの読んでも、
同一化というのはこういうことだとしか思えなかったんですが、
多分こういうことなんですよ。
言語のドイツ語とかにはさすがに僕は当たれないんで、
よく分かんないところもあるんだけど、
話としてはむしろよく分かる話なんですよ。
子供が忍者ぼっこするとかは、
全部それだし、するじゃないですか。
みんなすると思うんですね。
だから同一化、これしないで過ごした子供って、
結構大変だと思います。
同一化という現象は、
人間の心理ではすごい当たり前に起こることなので、
東映を通してやるんですけど、
ちなみに東映同一化っていうのはすごく厄介、
ややこしい話で、
東映同一化っていうのは、
今の同一化は単に誰それになっちゃうとか、
キャラクターになっちゃうとかなんですけども、
東映同一化は2人という感じで、
15:02
自分のあるシチュエーションをその関係性に持ち込むんですね。
一番簡単に言うと、
私と私の妻の関係が、
私と私の母の関係をそこに持ち込んじゃう。
あるいは相手がその役をやる。
これも同一化なんですよ。
私は息子役、相手は母親役みたいな、
そういう形で同一化していますが、
セットも一緒に持ってきてるだけに、
すごい複雑になってますよね。
この形を、
戸畑海人さんの本を読んでもよく分かりますが、
カウンセリングの現場では、
必ずこの形に持っていくようなところがあって、
これを意識的にやるというよりは、
無意識のうちにも、
何にせよなりゆきでそうなっていくんだけど、
そういうものをすることで、
その相手がどういう目にあってきたのかを、
納得するというのが、
カウンセリングの一つの仕事なんだろうなという感じがします。
すぐやり始めるんですよ。
精神的に不安定というのは、
同一化の対象をやたらと変えていくということでもあるので、
これはすぐ始まるんです。
心が安定しないという人にとっては。
同一化というのをしても、
さっき途中でちょろっと言ったように、
究極的には無理ですよね。
昨日呪ってもそうだけど、
試合を見るのが終わったら、
その同一化は終わるわけです。
引き上げてこなきゃいけない。
ある意味同一化というのは、
仕事だとするならば、
これ私は大事なポイントだと思うんですけれども、
同一化ってある意味仕事じゃないですか。
何にどう同一化しているかは分かりませんけれども、
たぶん会社で、
例えば獣薬さんとかは何かに
自分を同一化させている可能性が
すっごい高いと思うんですよね。
そればっかりやっているわけではないんだけど、
同一化というのは非常に仕事でよく使われているやり方で、
人間はそれだけ甘える生き物だという
言い方をしてもいいんですが、
私なんかも、
今はもうさすがにほぼ
そこを必要としなくなりましたけど、
キーボードなどというのは意向対象ですよ。
私はそういう考えがするんですよね。
iPadのタブレットとかに
ペンをつけたくなるのも、
結局は意向対象だと思うんですよ。
その人の能力には、
能力の中にはっきりしたイメージはないですよ。
何かすごい仕事のできる人というのがいて、
その人に同一化するためには
うってつけのああいうデバイスなりが
意向対象になって、
それを使って、
私は仕事ができる人という
アイデアリゼーションをやるわけですよね。
そうすると仕事ができるようになるんですよ。
人間というのは。
これをやるのはいいんですが、
みんながこれをしたいわけですよ。
さっきも言いましたが、
誰も彼もが便利な同一化対象を
探し求めてはいいのを選択するから、
みんなドラえもん役をやりたいわけですよね。
ジャイアン役とか。
伸びた役とかやりたい人はいないわけですよ。
2つここに問題がありまして、
1つはですね、
心理的に器用な人は、
結局これは心が安定していると
18:00
言われちゃうんですけれどもね、
心理的に器用な人は、
このアイデアリゼーションの出し入れが
非常に自由に見えるんですね。
だからつまり、
好き勝手に自分の都合のいい
同一化がスムーズに
チェンジできているし、
やめようと思えと
やめられるというのがいいわけですよ。
こういう人というのは、
同性理性とかにこだわらないし、
好き嫌いにもあんまりこだわらないんですよ。
必要な同一化を必要に応じてやる、
これ究極的にそんなに
うまくいく人ばっかりじゃないですよ。
でもそういう人と比較的
すぐ伸びた国にさせられてしまうとか、
何かというと伸びた国しか選べないとかいう
タイプの人もいるわけです。
これはですね、
タイプというよりやっぱり私は
育ちなんだろうと思うんですよね。
育ち方が非常に難しい人ほど、
同一化の対象を
自分で選択するというのが困難だと。
ウィニコットが
結局のところ
意向対象というのは
ライナスの毛布のように。
ライナスの毛布ってそうじゃないですか。
自分がお母さんになるための
つまり道具立てなんですけれども、
あれが。
あんなのにしがみついているのは
幼児じゃないですか。
あれを会社に持って行ったら変ですよね。
つまりそれはどういうことかというと、
融通が効かないということなんですね。
幼児が融通が効かないのは
当然ですよね。
親ぐらいしか人を知らないのだから。
だから一番頼りになるのは
親ですと。
これはですね、よく虐待との兼ね入れ
出てくるんですよね。
虐待されている子というのは
これも非常にパターン化できる
ということ簡単じゃないけれども、
少なくとも親がひどく
必要以上に厳しいなという
親の子というのはですね、
人前でもものすごく親にしがみついている
というシーンが非常によく見受けられて
私は非常に無慈悲だったんですけどね。
でもその子からすると
親が一番
宛になるんですよね。
だから公的な場面では
常に親になろうとするという。
それが
ライナスの毛布に
典型的に現れるんだけど、
成人ともなれば、たとえば私の
ぐらいになってくると、
お母さんになってけば死んだというのは
論外なんで、本当に論外なんで、
全然仕事になりゃしないですよね。
そういう意味でも
親が選択肢として
ほとんど
唯一であるというのは
まずいということがありますよね。
で、
そうやって同一化同一化していく
そしてやめたりやったりやめたり
やったりする中で
人は消耗するわけですよ。
当然ですよね。
伸び田くん役とかしたくもないのに、
しかも自分伸び田くんじゃないのにね。
二重に疲れるわけですよ。
私が多分思うに、ラ王やったって疲れるんですよ。
やっぱり自分は自分で
ありたいじゃないですか。というか
自分が自分であるのが一番楽じゃないですか。
この辺がグッドバイブスなんですけれども。
だからあれなんですよ。
東洋同一化っていうのはある意味
一つ意識の
21:00
確立になるんですけど、
大変ネガティブなもので
同一化と一つ意識は
全く関係がないわけじゃないし
この話
ややこしい話をまた簡単にやっちゃってるんですが
入り口付近に
一つ意識の入り口付近に
同一化はあると思うんだけど
同一化が目的では
決してないんです。
一つ意識と同一化ってのは同じじゃないんですよ。
すごく似たような感じがする言葉ですけどね。
一つ意識ってのは
自分が自分であるままで
たぶん一つになるという話をしているのであって
自分が相手になる話は
してないと思うんですよ。
ただ私たちの
心理というのはそういう風になりやすいんですね。
やろうと思えば
私は
それこそグッドバイブスの
ワークの中で
できるようになったことなんですが
物に自己投影するのはそんなに難しいことじゃないと。
知覚してるんだから
当然ですよね。
知覚って脳内にあるもんですからね。
だから目の前の
気がいいなと思って
気になってみるみたいなことは可能なんですよ。
こういう話をすると
宗教じびて聞こえると思うんですが
そんなことはないですよね。
ラ王になるというほうがよっぽど本当はおかしいじゃないですか。
あれは
そこら辺にいるわけじゃないんですからね。
つまりなった気になるというのは
そんなに難しいことじゃないっていうのは
みんな知ってると思うんですね。
問題なのは
これをやるということは
結構消耗する可能性が高い。
ポジティブにやってる人は
まだいいんだけれども気分いいから
これをネガティブにやらされている人とか
ネガティブにやっちゃう人は
結構苦労するとか
そうして私たちはですね
仕事をしたり
いいことをしたり
家族の前で
いろいろ頑張ったりしてるし
緊張してるからですね
必ずしもしなくていい緊張
必ずしもしなくていい同一感をしては
消耗していくわけです。
甘えているようで
甘え切ることができない。
同一化ってそうですよね。
同一化できてるようで
同一化は究極的にはやりきれない。
ロッテにはなれないし
ラ王にもなれないです。
母親にもなれないし
だから結局
同一化はやりきれなくて
ハンピレーのグラフの線みたいなもんで
どこまで行っても一致はしない。
どこかで諦めて戻ってこなきゃいけない。
そういう時に
わりと疲れがドッと出ると。
そして人は何をするかというと
対抗をするんだと思うんですよ。
対抗というのは甘えの
もう一つの形態で
甘えというのは精神分析的には
良い用語だし
ちょっとでも半径が広すぎるかなというような
用語でもあるんだけど
対抗ってのはやっぱり甘えだと思うんですね。
幼児対抗ってやつですよ。
子供に戻ると。
あれって感じじゃないですか。
子供はどういつかだって子供っぽいことをやってたのに
それに疲れてまた今度は別の
子供っぽいことをやると。
でも僕らってそういうものなんだと思うんですよね。
24:00
これが上手にやれてるうちは
精神分析なんて
およびじゃないわけですよ。
これが難しいから
精神分析というものをやってもらうんだけど
やってもらう人は
あるいはやってもらう機会があれば
私もやってみたいんですけれども
幼児対抗なんです。
私たちは
対抗するじゃないですか。
対抗するというのはつまり
幼児に戻るわけです。
ダダをこねるとかね。
ネタムとかソネムとか
プテクサレルとか
全部こう
これは土居さんの本で一番最初に
簡単に理解できたときなんですけど
人が甘えられないときに出てくるものは
全てこういうことであって
つまりそれは甘えの別形態でしかない
というような言い方なんですけれども
その通りですよね。
プテクサレルとかネタムとか
全部甘えてるからこそ
というか甘えたいからこそ
出てくるわけです。
戻る。
例えば喧嘩をするってところまで戻る。
いい大人は喧嘩しませんから
幼児になると
喧嘩をするわけですよ。
それは幼児に戻っていくわけです。
現実世界を
いろいろと同一化してうまく
切り抜けようとしたんだけどうまくいかなかったり
疲れちゃったりしてるから
嫌になったというわけで
3歳児付近まで戻っていくわけですね。
戻る先が
ある人はいいんですよ。
戻る先が
あるということは
そこまで戻れば
なんとかなるっていう
これどういうことかというと
そこまで戻ればなんとかしてくれるって意味ですよ。
現実ならなんとかなるに
近づくんだけど
幼児対抗とか対抗というのは
もう嫌になっちゃったよ
っていうことで戻ってみると
意外と周りの人がなんとかしてくれる
これが対抗の
価値なんですよ。
こういうことをするのが
いろいろと精神的に難しい人は
例えばそういう場所に
行けばいいんです。これも意向対象に近いですよね。
お酒を飲んだり
女の人が相手をしてくれる
これは母親ですよね。
ところに行けばいいわけです。お金いりますけどね。
今コロナだから
生きにくくなってるけど
これをやることによって
アイデアリゼーションというのが
難しいといつかじゃなくて
比較的簡単で、かつ自分を
必ず甘えさせてくれる
ようなところに戻ることができるわけです。
言いたいことを言うとか
お酒の力とかいるかもしれないけど
要は幼児に戻るんですよ。
これはつまり
その頃には
うまくやれていたなっていう
意識がないとやれないことですよね。逆に言うと。
あの頃わけわかんなかったけど
ちゃんと親がやってくれたな
みたいな記憶があればいいんですよ。
ない人は
ここに戻った程度ではダメだから
もっと対抗しますよね。
この辺から話が一気に複雑になるというか
カウンセラーとか
精神分析とかの
出番になってくるわけです。
倉園さんかもしれないんだけど。
27:00
つまりここから先の対抗は
社会的には
面倒を見切れる対抗の
レベルを
超え始めています。
超え始めているというのは
1歳0歳へと戻っていく
という意味なんですよ。
2歳付近のボーダーがあるでしょうね。
ボーダーラインという言葉は
いい言葉ですよね。
こういう風に発達観察的に言っては
ダメだというのが精神分析にはあって
いよいよややこしいんですけれども
つまり2歳児だから
欲打つで3歳児だから
なんとかとか言っちゃダメだから
もっと後だな。5歳児ぐらいだな。
1歳児だから統合主張症とか
言うのはダメだってことなんだけど
そういう部分はあって
アメリカの精神分析確保は
こっちのほうは
採用次第のところがありますよね。
発達ラインという表現を
使ってますからね。
だけれども
イギリスの対象関係でも
そういうのは認めないし
多分あんまり認めないほうがいいと思うんですよね。
そんなにフェーズフェーズで
分析しているものじゃないし
ヒッセリーと統合主張症みたいなものは
並行してあるしですね。
何歳なら何っていう
簡単に言えるような話ではないし
大人の対抗と幼児に戻ることは
イコールじゃないですからね。
もろもろあるにせよ
ボーダーというものがありますと
多分このボーダーというのは社会的に
社会といっても西洋と東洋では
全然違いますが
それでも許容できる限界線
ぐらいな感じはありますよ。
そのボーダー付近
好きな人と嫌いな人は同一なんだけど
嫌いな部分が出てきたときは許せない
というのをあまりにもあからさまにやると
社会関係は壊れていくと
いいおっぱい悪いおっぱいは
同一であるということを
どこかで人間は意識しておかないとだめだと
ここは社会が
ケアしてくれる
限界線付近
みたいなところに一応ボーダーがあって
ここまで私たちは対抗する
ということが
多分社会的には容認されているのかなと
ここから先になると
なぜダメかというと
乖離が起こるからだと思うんですよね
一つは
あるいは関係を破壊してしまうから
本当に
悪いおっぱいを不機嫌で拒絶する
というのは許されると思うんですけど
本当に噛みちぎるという話になってくると
ちょっと違うと思うんですよ
あるいは噛んだことは忘れてます
というのもダメだと思うんですね
だけどお酒飲んだから
昨日何言ったか覚えてませんというのは
日本では意外に許容されているじゃないですか
だからボーダーラインはやっぱり
グレーゾーンなんだと思うんですよ
とにかく対抗というものを
始めると
例えばなんですけど上司が理不尽なことを
言ってわめき散らしていると
あれは対抗なので
だからみんなで無視しようぜって
だめだと思うんですよやっぱり
だからみんなで無視するっていう感じじゃないですか
距離を置くというのは
ああいう人は一生治らないからみたいな
そんなことはないと思うんですよね
30:00
酒の力がいいのは
抜けるからなんですよ
わめき散らしている
パンハラ上司というのはそういう表現が
厳しすぎると思うのは
なんかそれが
抜けないもののように見えてしまうからだ
と思うんですね
同じなんでやってることは対抗なので
酒の力を借りてるということは
その力がなくなれば
元に戻るんだけど
そういう言い方をするのであれば
パンハラ上司だって元に戻るんですよ
ここで議論が始まっちゃうでしょ
奴は元には戻らないんだよっていう
意見が出てくると思うんですけど
私はそういうことはないと思うんですよ
保育園で見ていてもそうだと思うんだけど
ずっとっていう子は
そうはいるもんじゃないし
その子は永遠に子供なわけでもないですから
で
究極的に
どこまで対抗していくんでしょう
っていうのがあるわけですね
どこまで対抗していくかというと
私が思うにですね
生まれる前までかなっていう感じが
そうすると死んじゃうんで
お腹の中にいたところまでかな
って感じがするんですね
ウィニコットの言う
子供
たった一人でいる幼児はいないっていうのは
とっても頑畜のある言葉で
たった一人でいる幼児はいないっていうのは
母親と言いますよって言っているわけですね
で
その時には
彼はどういう存在かというと
ゴインゴンビーングだって言うんですよ
ここが対抗の
最終到着点かなって
思うんですよ
ゴインゴンビーングっていうのは
訳しようがないような奇妙な英語なんですけど
ビーングの上にゴイン
しているわけですよ
静かに息づいている存在みたいに
訳されることが多いんだけど
これがグッドバイブスの平安の
私というのと
愛である存在というのと
非常に近いなと私は聞く度に思って
そういうものなのかなと
思うんですよ
赤ちゃんって叫んだり喚いたりしますけど
やっぱり静かに息づいているというような
時間の長い子の方が
圧倒的多数ですよね
だからつまり
恐れも不安も何もないときは
ゴインゴンビーングなんですよ
存在としては
ここに来ると安らげると
その時には母親と一緒にいると
母親と一緒にいないじゃん今はと
50にもなってね
私もそうだけど
だからこれを自分でできるようにならないと
いかんでしょうと
こんなことは自分でできるでしょう
って話なんですね
寝てる時はそうですよ
みんなゴインゴンビーングですよね
究極的な対抗というのは
寝るってことだと思うんですけど
そこまで行く直前の
赤ちゃんお昼寝してるとか
静かにしてる
ってことってあるじゃないですか
あのような状態
あのような状態に戻る
戻れないわけはない
つまりこの時は
もう親が
虐待であるとか
もらはらであるとか
関係ないわけですよ
33:00
お腹の中だから
もちろんそういう
話してもですね
ドラッグ飲んでるとか
アルコールやめられないとか
まあとにかく
ギリギリのラインがあるということですよね
ここに来れば
自分が生きてるということが
肯定されているポイントっていうところがあると
そこまで戻れば
どんな人でも自分が生きているということを
肯定することができると
そういうライン
フレーズかな
状態ですよね
そして私たちは
実はこのゴインゴンビーングをずっと持ってますよね
起きてるからこれはなくなりましたとか
怒られたからこれはなくなりましたとか
本当はそういうことは絶対ないわけですよ
これは多分
あれなんでしょうね
実は何も失っていないということなんでしょうね
私もその思うんですよね
ゴインゴンビーングな
自分というのは割とイメージしやすくて
私は
たぶんその頃は私は一番問題なく
過ごせてたんだと思うんですよね
子供の頃から静かだったと言われてるから
ここに戻った
戻ることができないということは
ありえないわけですよ
これは存在してるってことだから
そうですよね
私たちは何をしているときでも
存在はしてますよね
なんだら呼吸してるぐらいでもいいんですよ
ゴインゴンビーングってのはだから
分かりにくい言葉なんですよね
呼吸してるぐらいだったらまだ分かりやすいんだけど
とにかく呼吸してないときってないですよね
だから
私には平安がないんです
っていうことはないんですよ
あるはずなんです
良いことのことがあったとしても
呼吸はしてると思うし
存在はしてると思うので
こういうところまで戻ってこれれば
究極的に対抗ですけど
完全に甘えてますが
ここで一息つけると
これはどっちかというと
ユング派の発想で
河合はやまさんなんかがよく書きますけど
対抗しているうちに私たちは
エネルギーがどこかからやってきて
また活動できるようになるんだと
それをいついつとか
短い期間で済まそうというわけにはいかないんだけれども
だから河合はやまさんは
ユングのユング派として
カウンセリングしてるときに
そういう人が来ると
完全に無意みたいな感じで
アパシーって言うんですかね
よくわかんないけれども
とにかく来て
私は何も言う気がしませんと
そういうときに対して
何かやることないでしょうかって言うと
河合さんがありませんねと言うと
こうやっていくうちに
こうやっていくうちに
少しずつ
好転していくってことがあるんだって話ですね
好転したからと言って
そういう人が活動すると
ろくでもないことをやりだしたりするんだけど
それでも好転だと
だってあれですよね
はいはい始めたばっかりの子供がやることが
極めて生産的で社会的だなんてことは
考えられないですよね
対抗したところがそこまで戻っていく以上
最初にやりだすことが
ろくでもないように見えてしまうというのは
しょうがないという
36:00
話なんですよ
だから
話が飛躍するようだけど
youtube見てるからと言って
罰つけてちゃダメなんですよ
対抗ですからね
対抗ってのは悪じゃない
対抗が悪だったら大変なことになりますよね
でも私たち時々そういう本に遭遇するじゃないですか
寝てるのは対抗だから
ゼロ時間にしなさいみたいな
そういう本ってあるじゃないですか
これたぶんですね
私たちは多分
そういう価値観に乗った時っていうのは
自分が生物であるってことを
やめたいんだと思うんですよ
ゴインゴンビーングの部分をゼロにしよう
っていう話なんだと思うんです
理不尽なことをわみき知らすのは
当然ダメで
ある意味では恋愛とかもダメで
眠るのはものすごい
論外で
そういう話になってるんですよ
だから冗談みたいな話なんですよ
だって僕らは生物ですからね
冗談みたいな話になってしまうんだと思うんです
そういう話を
押し進めていってしまうと
この
何ですかね
対抗と同一化というのが
両方甘えという言葉に
包含されていくっていうのは
なるほどなという感じが
しました
同一化でも対抗でも今は私たちには
別にわからない言葉じゃないんですけれども
甘えの方が
わかりやすい
対抗が甘えなのは誰の上にも
明らかじゃないですか
スヤスヤしている
とかいうのも
基本的にそれがどういうイメージであるにせよ
わかりやすいと思うんですよ
同一化も別に
わかりにくいわけではない
ただ同一化は甘えだというのはちょっとわかりにくい
んですけれども
でもやっぱりですね
忍者ポッコをしたり
コスプレをしているということが
いるということ
あれはそうだけれども
いわゆるダダをこねているとか
昼寝して
健やかに眠っているとかに比べると
大人的な行動であること
違いはないので
同一化の方が甘えを
脱却しようとしている
という感じはしますよね