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2024-05-10 45:47

カウンセラーの「専門家」には何ができるのか?【GMV981】

夢を解釈する夢みる人たち。
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月10日金曜日の7時30分です。
もうまるで冬の朝のように寒い。
えーっと、まあ今日はなんだか、でも昨日より最高気温は5度も高いらしいんで、まあ暖かくなるわけですよね。
はい、お知らせですが、5月19日に繰り返し、この3ヶ月チャレンジじゃなくて、
えーっと、ポッドキャストでこのお話をしてもアレなのかもしれませんけれども、
手帳を、タッグシュート手帳セミナーをやります。
で、これですね。先日グッドバイブスファクトリーのTV収録がありまして、まあ動画収録ですね。
この動画をグッドバイブスファクトリーというコミュニティーに、月々2000円のコミュニティーだったと思うんですけど、初月無料ですが、
ご参加いただくと見られるんですよ。週に1回、私とクラゾノさんのトークということで。
私が何かクラゾノさんにお題を振り、寝川配って言うかな、できればお悩み相談形式、無理でも質問形式にして、
つまり悩みが私常々あるとは限らないので、あったとしてもその時あんまり自覚しないということもありますから。
あと再三再始全く同じ悩みばっかりというのも、一応動画収録ですからね、あれですので、全然悩み相談ではないこともあります。
そういうTVが週に1回配信されるんですね。よろしければどうぞというわけなんですが、
その中で手帳のお話もしてみて、ちょっと私の頭の中で整理がついたのでですね。
とりあえずまず手帳セミナー第1回は5月19日、これは確定ですし、ご参加いただく方もすでに何名かいらっしゃるので、
さらにここでは、いつも通り最初の30分のトークを認定トレーナーさんのですね、
一番手帳活動、タスク集と手帳活動に集中されている方のお話を伺うと。
あとは皆さんのどういうふうに手帳を使っていて、今後使っていきたいのかというのをお披露目していただく場にもしたいと思っているんですね。
さらに合わせて私が思ったのが、私も今タスク集とクラウド2を、これは完全にベータテスターとして使っておりまして、
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お祝い皆様の手元にも広がっていくと思うんですけど、お祝いというのはもうここ1、2ヶ月のことだと僕は思いますけど、
あそこまで来てしまえば、このベータテストしているうちにやっぱりこれはデジタルで手帳というともうこれに近いものを意味するに違いないと。
タスク管理というよりは、もはやこれは手帳って感じだなって思ったのですね。
あんまり手帳のメタファーをここで出しすぎるのも良くないと思うんですけどね、あくまでもタスクシュートだから。
でもこれやっぱり手帳ってこういうふうに多くの人が使いたかったに違いないというものを機能として備えているので、
この紙の手帳を中心で言うけれども、タスクシュート手帳セミナーというか、タスクシュート手帳の回というか、名前まだブレてるんですけれども、
このタスクシュート手帳という概念を私は一押ししていったら面白いなって思うように最近なりましてですね、
この話も合わせてタスクシュート手帳の回でやっていこうと。
これをやれればですね、回が少々こじんまりしているとどうであろうと構わないなって感じが、いずれこの考え方はある程度は受け入れられていくと。
最近、Notionでタスクシュートって、タスクシュート for Notion、逆だったっけ。
まあいいんですが、そういうものも開発されてるんですね、認定トレーナーさんの間で。
認定トレーナーさんのカメリンさんだったかな。カメリンさんが開発されたのかな。タスクシュート for Notionですかね。
私これを見たときも同じように思ったんですね。
Notionを使っている方の中には、もちろんブラウザー上のデータベースという側面と、
共有して使いやすいという側面と、さまざまあれは本当に超多機能、そこがネックになるだろうとは思うんですが、
超多機能なツールなんですが、あれをタスクシュートにしてみるとやっぱりですね、長期間が出てくるんですよ、私の感じでは。
どういうことかというと、結局タスクとノートがセットになっていて、しかもそこにカレンダーというものが概念としては少なくとも、
タスクシュートクラウド2はビューとして持ってますが、概念としてはっきりあるわけですよね。
これこそやりたかった方だと思うんですよ。
あと手帳に出てこないものとしてはですね、もう連絡帳ぐらいなものなんですよね。
連絡帳は今や手帳に集約されるべきものじゃないと思うんですよ。
滅多にというか、おそらくほとんど誰も、名刺等は別としてもですね、
Evernoteを人名データベース的に使っている方は少ないのではないか。
理由は簡単で、SNSが出てきたからだったんですね、LINEとかね。
各SNSごとに人名って持っちゃうじゃないですか。
いやでも、ここ集約してしまっても、いや集約無理だと思うんですよね。
だってフォロワーの数が数千とかいうオーダーになってきた場合には特に、
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しかもそれとSNS、例えばLINEを非常にプライベートで使ってますって人は、
LINEとTwitterの人のアカウント名を混ぜたくないと思うんですよね。
だから私、電話帳というものは非常にこうですね、今時の使い勝手としては良くないなと思うんですよね。
電話だけの何かになってしまうけれども、その電話すらですね、
ZoomでもLINEでも音声のやり取りしてるのに、
電話帳なるものをiPhoneが持ってみたところでですね、Googleフォンでもいいんですけど、
持ってみたところであんまり意味ないと思うんですよ。
だから多分、連絡帳なるものは手帳から落ちていく時代があると思うんですね。
最終的に手帳に残るのは予定とノートなんだと思うんですね。
そこにタスクが当然自然と入ってきて、あとはそれの位置づけなんですよね。
Evernoteがすごく私はやっぱり今、タスク集とクラウド2には近い存在というか、
あっちのほうが遥かに大きいと言えば大きいですが、
しかし概念としてはここが僕はやっぱり再三、最近言ってるけど、
競合してくると思うんですよ。
Evernoteも結局ノートとタスクが並列している。
ただしあれはノートが中心なんですよ。
その中にタスクがどう入ってくるか。
今カレンダーという機能が入ってきて、私は非常にあれを使っているんだけれども、
カレンダーとタスクとノートなんですよね。
それをあとはどこを中心の軸に置くかなんですよ。
Evernoteはノートなんですよ。
タスク集とクラウド2はタスクなんですよ。
もうあとそれしか考えられないです。
残ってるのはGoogleカレンダーがおそらくカレンダー機能を中心に取ってくるんだけど、
ノート機能が著しくやっぱり強くはないですよね。
意外とあれぐらいがちょうどいいのかもしれないんで、
ここは分からないんですけれども。
でもEvernoteはGoogleカレンダーと連携しているし、
タスク集とクラウド2もおそらくそれに近い状態になると思うんですね。
連携するかはして分かりませんけれども。
そうするとこの2つかなって感じが私はします。
ノーションっていうのは当然あるんだけど、
ノーションは多機能な上にデータベース感が強いので、
ごく一般の人が使うには難しすぎるんじゃない。
Evernoteでも難しすぎるって言われるんだと思うし、
タスク集とクラウド2も難しすぎるとは言われると思うんですよ。
でもノーションはその日じゃないなと僕は思うので、
多分そういうことにはならないっていう気がします。
これより一段と優しくしたくて同じようなことをしたいとなると、
実は紙になってしまう可能性が高いなっていう気が私はするんですよね。
Evernoteより優しいとなってくるとね。
紙にしちゃうしかないんじゃないかなと。
だからタスク集と手帳ってのはなるほどなっていう、
ポジション的にはそういうことになるのかなということですね。
09:00
5月19日にやります。
この感覚をちょっとお伝えできていけばいいかなと思ってます。
そして全然違うお話を始めるわけですね。
あとですね、これは今日は例によって、
ゴミを出す時間があるんですよ。
なのでゴミを出す時間が入ってきますので、
一旦どこかで中断しますね。
そこまでには話し切らないと思いますからね。
今日したいお話はですね、
まあまあいいや、適当にいきましょう。
最近京都大学最終講義で、
築国博先生の講義をずっと聞いてみたわけですね。
ちょっと感動してしまったわけですよ。
何に感動したかというと、
彼が生で喋ってるという、
生でつっても動画なんだけどね、
YouTubeで見たんですけど、
それに感動したんですよ。
だから生ってのはおかしいですね。
でも、人が喋ってるっていうのがちょっとですね、
私の中にはあって、
ロッテが優勝したときぐらいの感動をしてしまったわけですね。
やっぱり私は、なんだかんだ松木さんのおかげで、
精神分析なり対象関係がわかったと思っている人間なんですよ。
藤山直樹先生の本からすごく引用してるから、
藤山さんの精神分析集中講義とかの方じゃないのって思われると思うんですけど、
あれは素晴らしいとは思ったんだけど、
僕の中ではあれじゃないんですよね。
第一に、あれを先に読んだとは言い難いんですよ。
ここらへんちょっと順番意味あんまりないんですけれどもね。
ただつまりですね、
精神分析集中講義、ジョーを読んだときは、
いやこれぐらいのことは知ってるつもりだな、
自分はって思っただけだったんですね。
ゲから一段と面白くなったんだけれども、
そのジョーとゲを読む間がちょっと空いちゃってて、
その間ずっと松木さんの本をその前から読んでいて、
先に藤山先生の本を読んでいれば、
松木先生の本に相当する、
何て言うんですかね、開眼点ですかね。
分かりませんが、
なんで開眼って感じがしちゃうんでしょうね、精神分析って。
したのは藤山先生のだったかもしれない。
十分あり得ると思うんですよ。
ただ藤山さんの本というのはですね、
なんかこう、なんて言えばいいんですかね。
松木先生の本は、
ある意味素人にとっての教科書みたいな雰囲気が、
そういう書き方ですね。
まずメラニー・クラインはこうでした。
次にこういう話がありますみたいな。
僕たちはこうこうこうでみたいな。
非常に根絶丁寧でかつ教科書チックなんですよ。
藤山先生の本っていうのは、
パッとこうですね、
思いついたようにパッと入ってきて、
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なぜここでこういう話がするんだろうっていうのは、
後になると分かるみたいな、
そういうちょっとこう、
なんて言うんですかね、
ああいう話ってありますよね。
コーチがやってきて、
パッと一声かけると、
急にその選手が伸びるみたいな、
そういう本当にあるのか知りませんけど、
そういう逸話があるじゃないですか。
そういう逸話を思い出させるような感じの人なんですよね、
藤山さんの語り口ってのは。
で、ここがポイントになるんだけど、
その藤山さんのその、
名口っぽさみたいなのって、
でも下地が全然ないと、
さっぱり分からない感じがするんですよ。
だからあれすごい、
なんか諸学者向けの本なんですよ、
後から読んでみると。
でもあれを最初に読んでたら、
分からなかったんじゃないかなって思い、
わせる本でもあるんですね。
だから全く何にも知りませんっていう人に、
あの本をお勧めしようっていう気には、
あんまりならないところもあるんですよね。
やっぱそれだったら、
松木先生の一番分かりやすい本から入る方が、
確実じゃないかなみたいな。
ただ、藤山さんの本は面白いんですよ。
これも結構大事じゃないですか。
最初に読む本としては。
最初に読む本が教科書チックであることは、
果たしていいことなのかっていうですね。
大学の教科書って外してそうじゃないですか。
割と分かりきったようなことを、
面白くもなく書いてあるから、
分かりにくいんですよ。
読む気がしてないから。
分かりにくくはないんだね。
読む気がしないからいけないんですよ。
読む気大事だよなって思うんですよね。
藤山さんの本は本当に読ませるんですよ。
だから私ノートとかでは、
松木さんの本より藤山さんの本の方、
ずっと多く引用したり紹介してるんですね。
これはやっぱりありますよね。
それはノート書く人間には下心が、
少なくとも2つあって、
少しはアフィリエイトが欲しいみたいなのがあるのと、
もう1つはやっぱり面白い本を紹介したくなっちゃうんですよね。
松木先生の本は本当に学ぶって感じになって、
あれを喜んで読むとなるとですね、
やっぱり興味本位で読むには、
いくら何でも手堅いかなっていう感じ。
あともう1つはですね、
これは当然だし当たり前なんだけど、
これは藤山さんが特別なんだと思うんですけどね、
臨床例を藤山さんはですね、
読み物として感性度を高めるという能力が、
ちょっと抜群だなって思うんですね。
これは何と言っていいんだか分かんないんだけど、
松木さんの本、土井武夫さんの本もそうだし、
お好みさんの本もそうだ。
あの辺の人たちの本って引用しにくいんですよ。
ここを引用するならこっちも書いておかなきゃだし、
とか思ってるうちに、
全部べったり実は臨床例みたいな感じで書いてあって、
繋がっちゃってるんで、
ここを引用すれば伝わるっていう部分を、
抜き出すのがすごく困難なんですね。
何の話を私はしてるんだ。
藤山さんの本ってすごくて、
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2、3行ここを引用すれば、
この本の章の、この章で言いたいことはバッチリだ、
っていうところがあるんですよ。
あれは絶対意識してると思いますね。
だから引用しやすく紹介しやすいんですよね。
こういう本ってやっぱり、
僕は読み物としてレベル高いなって感じがするんですね。
その分、ある意味では、
臨床例として書きかれている内容としては、
本当なのかっていうのは必ずよぎりますよね。
なんかこう、できすぎてないみたいな気持ちになるときあるんですよ。
でもその辺の塩梅が、
藤山さんの本本当に抜群で、
尊方さんの本となってきますと、
そもそも考察の部分が抜けてるんですね。
だから尊方さんの本って僕は、
一般的にあれすごい読みやすいと思いますし、
今のような話をするならば、
それこそ最初に知りたい人は、
尊方さんなんじゃないですかって言われるかもしれませんが、
僕はそうは思わないんですね。
尊方さんの本を読んでると、
よくある読み物のカウンセリングの本を読んでる気持ちになってくるんですね。
あれで精神分析が分かるかというと、
分からない気がするんですよ。
尊方武士と心理カウンセラーが生きているエッセイとして読むには最高なんですよね。
昔で言うと大蔵さんとか、
香山梨花さんとか、
そういう感じの、ある意味そういう世界の、
すごくそれとはまた違うんですけど、
延長線で何かを、何て言うんですかね、
概念を学ぶって感じじゃないんですよね。
例えば尊方会長さん、
たぶんどこにも東映ドイツ科という、
まあそうだなーんだけど、
彼は書いてる本が幅広いから、
むかつなことは言えませんね。
でも、私が読む限り、
一般的な本として売れてる本として読んだものに、
東映ドイツ科って言葉はなかった気がするんですね。
だからそうすると、
これを東映ドイツ科のつもりで書いてるよ、
あれですね。
なんて言えばいいんですかね。
ここらへんが精神分析のややこしさだと思うんですが、
どう思ってるかがそもそも分からないんですよね。
分析家なりカウンセラーが一体これをどう捉えてるのかって、
実は分からないんですよ。
で、松木先生の本が何と言っても親切なのは、
まずこういう図式があるんです。
ではその臨床例に入りましょうって言った後に、
さらにこの以上の考察をしてみるとっていうことを、
割とぴっちり形式だって書いてあって、
しかもそれが非常に納得感が高い方なんですね。
あれでも納得できないよって人はいらっしゃると思いますけど、
しょうがないんですよね、それはね。
だってあれですよね、
例えばですけど、
万能的な良いちぶさがとかって、
メラニ・クラインとかの本とか、
その系列に書いてあるんですよ。
万能的な良いちぶさって、
一生懸命説明されれば少しは分かるような気がするけど、
そういう時点では訳分からんじゃないですか。
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万能的な良いちぶさって一体何を言わんとしてるんだろうって感じじゃないですか。
だけど赤ちゃんからすると、
お母さんのおっぱいで、
すごくおっぱいが欲しくて、
しかもよく出るおっぱいでしたっていう時は、
素晴らしい感じがして、
何でもこの世のことはバッチリだっていう気持ちになれる、
その気持ちの源泉みたいなものを指していった時に、
万能的な良いちぶさって言うんですっていう説明を、
根本とされていれば、
なるほどそういうことなのねっていう感じがするわけですよね。
でも臨床例に入ってくると、
登場してくるのは40歳の医師であるみたいなことが書いてあって、
40歳のおじさんのお医者さんがですね、
万能的な良いちぶさって、
そんなもの欲しがったら、
ただの危ない人になっちゃうじゃないですか。
彼にとっての万能的な良いちぶさであったって、
何のこと言ってるのか全然分かんないわけですよ。
これはしかも、
この前の説の説明が松木さんのように常に、
常にではないんだけど、
事前に必ず分かるところに置いてあった場合は、
まだ分かるんですよ。
昔のある種の人の本って、
こういう考察みたいなものは一切なくて、
唐突に臨床例から入ってたりするわけですね。
もちろん知ってるよねって顔をして、
万能的な良いちぶさであったみたいなことを書くんだけど、
全然分かんないわけですね。
こういうことが精神分析の昔の、
ある種のすげー不親切な、
そういう本が平気で一般的な書棚に置いてあるから、
さっき何を言わんとしていたかを忘れてしまったので、
ちょっと巻き戻しますが。
つまりですね、
万能的に良いちぶさみたいなことを言ったときに、
要は、なんて言うんですかね。
そのときのお医者さんなり、
私でもいいんですけど、
一つはすごく幼くなってるって言ってるわけですよね。
そういうものに浸るっていうのかな、
頼るっていうのかな。
それさえあれば大丈夫、みたいな気持ちになろうとする。
なんか対象を見つけちゃうわけですね。
そういうこと、遠畑さんの本では書かないってことなんですよ。
分かんない。書いてるのかもしれないけれども、
僕が読む限り、彼の書き方っていうのはですね、
同じようなものが出てきても、
そっちの事実描写だけを書くんですね。
そうすると分かりやすく一見思うじゃないですか。
ところが、そうすると、
単なる人生相談と何が違うんだろうって感じしかしなくなってくるんですよ。
今でもよく遠畑さんの本で覚えてるシーンがあるんですけど、
すっげえ女の人に怒鳴られるっていうシーンがあるんですよね。
その女の人は、
21:01
これは遠畑流なのかもしれないけど、
やたらとPDCAを回すっていう表現が出てくるんですよ。
本当にこんなことをワンワン言う人も今はいるのかもしれないなと思うんだけど、
ライフハックの権限みたいにして出てくるわけですよね。
僕が知ってる限りライフハック界隈で、
二言目にはPDCA回すなんて言う人はいないんですけれども、
いるのかもしれませんからね。
それは分からない。いても不思議ではないと思います。
そして遠畑さんの世界的には、
ライフハックってPDCAを回すことなんだなって思っちゃうぐらいなんですけど、
それはいいんですけどね。
余談なんですが、
女の人が遠畑さんのことをすごい怒るわけですよ。
そういうシーンが出てくるんですね。
カウンセリングってこうなんだっていう風に多分読む人からすると、
あれで十分なんでしょうけど、
私はですね、
だってこれある人がやってきて、
カウンセラーをガンガン怒りましたみたいな話だけで見てしまうとですね、
なんて言えばいいのかな。
一見そこで起きてることはよく分かるような感じがするんだけど、
実はよく分からない感じもするんですよね。
彼は専門家としては、
他の普通の人がこういうシーン、
だって女の人にいっぱい怒られる男っていっぱいいるじゃないですか。
そういう時にはどう対処してもある意味いいわけですよね。
そのどう対処してもいいっていうのと、
専門的に対処するっていうのは何かが違うはずですよね。
例えば誰かが病気になりましたって時、
お医者さんの対処と普通の人の対処って、
普通の人はどう対処してもいいかもしれないけど、
お医者さんはどう対処してもいいわけじゃないじゃないですか。
ここら辺がカウンセリングってものが専門的に見えないポイントだと思うんですよ。
例えば虫歯になりましたって時、
私も親友に酷い虫歯の男がいたんだけど、
氷買ってあげたわけですよ。
コンビニ行ってですね。
買ってきてって言われたから買ってきたんだけど、
これ普通の人の対処じゃないですか。
会社さんがただ氷で冷やしただけじゃダメじゃないですか。
だけどカウンセラーの場合、
特に尚方さんがその時の、
やってたっていうのか、
そのシーンの時はすごく打ちひしがれたようになってたわけですよ。
雰囲気の描写としては。
でも打ちひしがれたようになったら、
僕もなるわけですよ。
で、どう違うのかって話をしていく時に、
何かが必要だろうなっていう気がしますよね、やっぱりね。
ここで万能的な自分差があったとか、
唐突に言われても困るんだけど、
でもやっぱ何にも出てこないとなってくると、
いやもう本当、
本当にこの女の人の言う通りだ。
私は本当に自分に失望したみたいな。
それだったら別に、
私でも全く同じになっちゃうわけですよ。
どこかが違うはずですよね。
専門家なんだから。
それは書いてあるんだけど、
分かるように書いてないんですよね。
例えばそのすごい罵られた時、
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いやそれ排斥でしょうっていう風に言えればですね、
女の人に対してではないですよ。
読者に対して、
いやこれは排斥だろうって言えれば、
ひとつ専門家的な解釈として分かるわけですよ。
うんこ投げてんでしょうってやつですよね。
つまりそれだったら我々も、
ある現象、
非常に誰かが取り乱してパニックになって、
ものすごく理不尽なのもあれば、
いくらかは理にかなったのもあるんだけど、
とにかく怒りをガンガンぶつけているといった時にですね、
それは恋愛関係の修羅場ではなくて、
カウンセリングルームで起きていることなんだと、
言うためにはですね、
やっぱりそこに何かしらの専門的な解釈ってものが、
入るはずなんですよ。
そういう言い方は決してしないけれども、
倉園圭三さんのGood Vibesでも、
ここでまた唐突に野の医者的な話出してきちゃいますけれども、
倉園圭三さんのGood Vibesでも、
ちゃんとそのGood Vibes的なものの見方では、
これはどう見えるかっていうのが、
するとは限らなくても言語的に説明できるんですよ。
言葉で説明できるんですよ。
これが野の医者でも専門的だっていう話になるんですよ。
私は多分今日この話がしたかったんだな。
野の医者でも専門的なんですよ。
専門値ってそういうものなんですよね。
ある種の現象の抽象的解釈を可能にする見方を、
モデルとして持ってるってことなんですよ。
これがないならば、
もはや野の医者だとしても非専門的すぎると思うんですね。
ここがすごく僕は大事だなと思います。
野の医者を理解する上で一番大事なポイントです。
専門の値の体系だっているところまでは言ってなくても、
多くの現象をそのモデルで説明しようと思えば、
コンセンサスが取れそうだって感じがするかしないか。
それはもう感覚的なところもありますから、
しないって言われればもうそれまでなのですよ。
だから僕は仏教だってそうだと思うんですね。
仏教って完全にそうだと思いますね。
仏教の話は今日はもう全く立ち入れませんけど、
終わらなくなりますからね。
東亜高井戸さんの説明の中にはちゃんと、
彼は専門家なんだってことが分かる人に分かるように書いてあって、
そこがもう非常にうまいんですよね。
一般の人はそこは多分よく分からないままというか、
よく分かった気がしてスルーする。
でも分かる人が読めば、
この人はここで愛説とか東映ドイツかと言いたいわけねってことも、
分かるように書いてあるわけですね。
そこら辺が多く読まれている凄みなのかなって感じがするんだけれども、
とはいえですね、
分かる人からするともうちょっとはっきり書いてくれた方が、
27:01
分かりやすいんですよ。
一見したところあれは、
あの方が分かりやすいと一般読者さんが思うから、
そう書くべきなんですよ。
用語は押さえておくべきなんですけど、
でもある程度分かってくるとですね、
ここでこの用語を節約しているというか、
節制しているばっかりに、
つまりこのシーンで何が言いたいのかが、
こっちとしては不安になるというか、
置き去りにされている感も拭えなくはない。
こっちってどっちだよって話なんですけど、
野々医者的な観点かな、これはね。
専門家なら分かるんでしょうし、
非専門家なら分からなくていいっていう話なんでしょうから、
その間っこにいる非専門家でも専門家でもない人間って、
何者だって感じなんだけど、
それがつまりグレーゾーンなわけですね。
私のような人間は多分グレーゾーンなんだろうなって感じが、
ああいう本を読むと感じるんですよね。
例えば考える力が戻ってきましたとかって、
その罵られた後、
罵られてガーッと言われて、
言葉をバンバン、排泄的って言うんでしょうけど、
浴びせかけられると考えられなくなるんですよね、
普通に人は。
で、考えられなくなりましたって、
頭が真っ白になりました。
もうその、自分はカウンセラー失格なんじゃないかみたいな、
これは罪悪感がぶつけられてるっていう、
だから東洋ドイツ化なんですよね、このシーンは。
そう言いたいんだと思うんですよ、多分ね。
変異という言葉を使ってもいいと思うんですけど、
とにかくそうなりましたって、
なってるのかなってないのかわかりませんけど、
なったような感じに書かれているわけですね。
でもしばらくして、
なんかこう言葉をひねり出していくと、
相手が冷静になる。
この辺に専門値があるわけなんですよ、実はね。
あるんだけど書いてない、そういうふうに。
なんかこう、たまたまうまく、
まあそういう面もあると思うんですよ。
でもたまたまうまくいったかのようにして、
取り乱していた女の人がなんとなくしみじみとなったみたいな、
これもよくある書き方なんですけどね、
表現というのかな。
それで考える力が戻ってきました。
これは完全に美音だなって感じがしなくはないんだけど、
そうは書いてないから、
美音の美の字も出てきやしないし、
考えられていない考えみたいな言葉も全くどこにも出てこないから、
多分そういうことを言わんとしているんだろうなと思いながら読む。
でもそういう余計なことを知らない人にしてみると、
取り乱した人を冷静にさせて考える力が戻ってきたんだなっていう、
普通にそうも読める。
そういう仕立てになってるわけですね。
だからいいわけですよ。
だからいいんだけど、だからよくないわけですよ。
なぜかというと、ここで美音の考え方を導入してるよってことを、
考察でも何一つ言ってくれないとなってくると、
結局自分のそういう当て推量が読者的にはですね、
正しいんだか正しくないんだかわからんなっていうまま、
ずっと先へ行かれてしまうからっていう話なんですね。
だけれども、
用いてるはずなんですよ。絶対そういうものですね。
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だって同じようなシーンは何回もあったはずじゃないですか。
カウンセラーさんなんだから。
罵声浴びせられたことだって1回目ってことは考えられないんですよね。
何度あったかわからないぐらいあるはずだと思うんですよ。
で、どうしてそんなに罵声を浴びせるんだろうっていう、
あのいきさつを読むといきさつがちゃんと書いてあるから、
あたかもそのいきさつが正しく見えるんですよね。
あなたは私の話を聞いてないって、
北山オサムさんがそういう話をよく書かれますけれども、
あなたは私の話を聞いてないと言って、
どなりまくっている女の人がいるわけですよね。
つまりカウンセラーのくせに人の話を聞かないのかと。
この話っていうのがですね、やっぱり東映ですよね。
東映同一課だし、配説でもある。
つまりそういうことってよくあるじゃないですか。
なんて言えばいいんですかね。
ある程度、これは自我心理学的に言うと、
ある程度自我が成長している人は、
この不快の源泉はどこにあるんだって、
いかってる真っ最中でも問えるんですよね。
PDCAしまくっているという人であっても関係ないんですよね。
それはPDCAしてるかしてないか、
ああいう風に書かれてしまうと、
そういう人がPDCAしまくってるから、
こういう風に怒りの発作に囚われるみたいになってしまうんだけど、
そういう因果実はないわけですよ。
PDCAしまくっててもしまくってなくても、
怒りの発作をどう扱うかは人によって違うわけですね。
だからああいう書き方ってどうかと思わなくもないんですけど、
それはライフハッカーの非神かもしれませんからやめておきますが、
要はPDCAしまくっているっていうのは何を言ってるかというとですね、
少し脅迫的なわけですよ。
未来にはこういう風に最終的には良い状態に、
途中PDCAですから一応は改善しなければいけないかもしれないが、
最後は良くまとまるはずだという、ある種の信念があるわけですよね。
きちんとやればきちんとなるってことですよ。
だから悪いわけじゃないんですよね。
きちんと部屋を掃除して、きちんと仕事をして、
きちんと約束を守り、きちんと人の話を聞き、
そうしていけば自分の未来はきちんとなっている、
ちゃんとなっているはずだと。
いいようにちゃんとなるはずなんだっていう、
そういう一つの信念があるわけですよ。
だけどそこが、だからつまりさっきの万能的な良いチブさんになってしまうわけですよ。
きちんと赤ちゃんの背をして、きちんとした家庭にきちんと育てば、
私の人生はきちんとしたものになるはずだという、
ものすごくある意味コントロール欲求がうまくいかないときほど、
これはライフワークやってる人はみんな身に覚えもあると、
僕もありますし、あると思うんですよね。
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コントロール欲求を高めていくしかないんですね。
うまくいってないときほど。
コントロール欲求そのものが悪いというよりは、
うまくいってないときほどコントロールを強めていくという傾向が出てくる。
つまり、例えばお金が少し乏しくなってきたとか、
最近仕事が回ってなくて先送りが増えてるとか、
残務が増えてきたとか、残業が多くなってきたとか、
自分の朝活ができてないとかそういうときほどですね、
より多くの時間をきっちりコントロールして、
無駄を省いて余計なことをせずにという風になるんですよ。
こうなってくると、割と後は話が早いといいますか、
うまくいかなくなる速度には加速器がついていきがちで、
つまり先日から繰り返し言ってる接触障害みたいな話と似てくるわけですね。
長自我に加担する程度が強くなってくると、
これはもう完全に自我心理学的な話になっちゃうけど、
長自我に加担する傾向が自我の方で強まれば強まるほど、
異度は苦しくなってくる。
異度で僕らは生きてるってことを忘れてはいけないわけですね。
それが食欲であれ、性欲であれ、
あのPDCAの女の人は性欲の話を実はすごく背景に持ってるじゃないですか。
タツヤさんという、たぶんそんな人はいなかったと思うんですけど、
架空の人物がいたんですよね。タツヤさんはひどいんですよ結構ね。
タツヤさんは、タツヤさんであの辺だからすごいコミ言ってますよね。
あれ何だったっけ。何でも見つかる夜にの方でしたっけ。
もうちょっと違う方だったような気がするな。
ちょっと忘れましたけど、最近出た、ちょっと前に出た、
戸畑さんの2つのベストセラーのうちの1つですよね。
あの人ベストセラーバンバン出してるから、どれがベストセラーだったかを。
1個普通ベストセラーなんてものは1個で、1個しかない羽なんだけど、
何個もある人の場合はどれのことをやってるのか、
自分でも分かんなくなって、自分じゃないんだけど、
自分でも訳分かんなくなってきますけれども、タツヤさんって人が出てきますよね。
そのタツヤさんって人との恋愛関係が進行して破綻していくところで、
戸畑さんは怒鳴られまくるわけですよね。
タツヤさんはタツヤさんで、明らかに非常に神経症だと思うんだけれども、
かなりの厄介な人物像として描かれていて、あれも性欲なんですよ。
あれは要するに女の人にお母さんを完全に投影するという感じで、
やっぱり排出していくわけですよね。
悪いものは全部相手のせいにする。
これも恋愛では非常によくありますよ。
自分は恋愛してうまくいってるんだから、何もかもいい気分でなきゃいけないっていう、
完全に万能的にそれこそいいおっぱいにべったりになるわけですよ。
そうすると、万能的に何もかもうまくいくおっぱいじゃないものを差し出して来られようものなら、
36:03
特に相手の女性から激怒するわけですね。
泣き叫ぶという状態になる。
これ完全に性欲ですよ。
これも意図がものすごくこう、何とかしなければならないっていう、
つまり生きてるってことはそういうことを含むんだけれども、
そんなんじゃダメだっていうふうに世の中的にも言ってくるし、
自分の長時間もそういうふうに考えてしまうんで、
締め出そうとしてしまうんですよ、自分の中から。
だから自分の中に置いていけなくなる人は外に出して、
一番当たりやすい人にぶつけるし、
それをぶつけられた女の人の方ではこれは恋愛なんだからということで、
これを抑え込んでいくわけですよね。
自分の心の中に入れていく。
でもこの心の中に入れていくという作業は厳しいですし、
非常に当人欲物的にしていくので、
だからその女の人の方が対応は大人なんですよね。
結局のところ、悪いっていったものは何かしら自分の気分を害させるわけです。
理由は分かりませんが、なんかあるわけですよ、生きてるからには。
たとえに体が痒いのかもしれないけど、
これだって何に原因を置くかってことによって、
リンク先が変わっていくんですよね。
タツヤさんは何か非常にうまくいかないとか、
仕事で嫌なこと言われたっていうときに、
それをまずぶつけるわけですね。
でもその受け止め方が悪いっていうので、
その女の人を責めるみたいな。
つまり、厳選は自分の不快感なんだけれども、
その理由を外に置こうとするわけです。
一般的にこれが悪いとされやすいんだけど、
これが悪いかどうかじゃないと思うんですよね。
これは対応の問題であって、
どこにその厳選を置くかっていうのが、
つまり排出するのか、自分の中に溜め込むのか、
どっちにしてもあまり良いことにはならないわけですよ。
だからそこで色々やっていかなきゃならないんですけども、人は。
で、排出してしまうタツヤさんはタツヤさんで、
気分がすっかり良くなるかっていうと、
そういうことは決してないわけですよね。
気分の悪さは元々自分の中にあったものだから、
一時的に排出して女の人のせいにして、
その女の人を責めると、
すごく自分がすっきりした気がするんだけど、
また気分の悪さはすぐ戻ってくるわけですよね。
気分が悪くなったその気分は自分の気分なので。
で、そうやってぶつけられた女の人の方は、
すごく気分が当然悪くなりますよね。
それをPDCAで何とかしようとしているってわけじゃないですか。
ライフハッカーだからね。
この関係を、これが悪かったのなら、
ここにチェックポイントを置いて、
分析して新しい良い関係になるプランを作ろうと。
すごく前向きな感じはしますが、
すごく無理のある感じもしますよ。
いずれにしても悪くなった自分の気分は、
タツヤさんのケースと同じようにそこにあるわけです。
自分の中にあるわけですよね。
外にあるわけではないわけです。
ただ彼女はそれをうちに置いておいて頑張っているので、
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せめてそれをPDCAで良くしようと頑張っているので、
表面的にはすごく対応は大人なんだけれども、
結局それも長自画と異動の関係でいうと、
異動的に怒っているのに、
これを長自画でコントロールしている感じになっていくので、
つらいんですよね、すごく。
エネルギーがどんどん余計に必要になっていくじゃないですか。
こういうことが書いてあるんだけど、
一切今みたいな説明用語は使わないわけですよ。
だから普通に起きている出来事を描写しているように見えていくので、
分かりやすいんだけど分かりやすくはないんですね。
最終的にその内側に溜められてしまった怒りは、
すべてトウガタさんにぶつかることになっていくわけですね。
対応しきれなくなるので、そんな女の人からすると、
どんなプランを立ててみたところで、
PDCが回らないというところまで来るわけですよね。
何しろ何かが良くなっているわけではないので、
プランをいくら立ててそれを実行したからといって、
何かが良くなっているわけではないので、
松屋さんが良くなっていくわけでもないので、
だから最終的には回らなくなったところで、
一切を排出して全部トウガタのせいだということになるわけですよ。
これを受け止めなければいけないわけですね、
カウンセラーという商売は。
これを受け止められる人がどこにもいないと、
すべてが排出されまくっていく世界になっていってしまって、
一つも問題が前へ進んでいかないので、
お互いがお互いを罵り合い続ける世界ということになってしまうので、
だからといって誰かが一生懸命それを自分の中に溜め込んでおいても、
その人が抑圧的になっていくだけなので、
だからやっぱりトウガタさんが必要なわけですよ。
トウガタさんにガガガガガガガって投げて、
彼が今度はそれを受け止めて落ち込んでいって、
つまり抑圧が垂れ回しになっていくわけですね。
でもそこで彼はカウンセラーなので、
考える力というものを取り戻すタイミングを得るわけですね。
この辺にビヨン的なものがいると思うんだけど、出てこないですよ。
そんなビヨンとかいうウォルフレットみたいな名前はどこにも出てこない。
そこが彼の本の人気の源泉だし、
僕が読むとよくわかんないからとりあえず藤山さんの本を読んで、
ここの解釈を藤山さんの力を借りようっていう非常に二度手間なことが起こるので、
書いておいてほしいなと思ったりもするんだけど、
でも書かないのが正解なんだよなと思ったりもするわけですね。
こういういろんな巡り合わせがあるわけですよ。
だから最初にこのことを教えてくれたのが、
僕にとっては松木邦博さんだったから、話がここに戻ってくるんですけど、
京都大学の最終講義を見たとき、
フロイトはこう言いましたみたいな別に何にも抑揚がなくて、
隣でソファに寝っ転がりながらヒルナンデスを見ていた奥さんは、
この声が入ってきたという理由によって寝てしまったんですけど、
ヒルナンデスを見ていたわけで、
別に京都大学の最終講義を僕と一緒に見ていたわけじゃないんでね。
42:02
僕はただその横でiPadのミニを使ってですね、
フロイトは言いましたとかっていう抑揚が全くない、
いかにもおじいちゃんな講義を聞いていて、
すげえ感銘してたんだけど、隣で奥さんは寝てしまって、
この声が入るとテレビ見てても寝るんで、
消すようにって言われて、しょうがないのであれなんですね。
iPodの無線のやつを引っ張り出してきて、
それで聞くという、ちょっと残念な、残念ではないんだけどね、
残念な感じになったんですけど、
それぐらいあれです。
物事、人によって見え方が全く違う。
この場合は当然やむを得ないわけです。
これに感銘を受けているのは僕ぐらいなもんだって、
しょうがないわけですよ。
でも見に行く人はもっと感銘を受けているから、
見に行ってるわけですからね、京都までわざわざ。
それは京都近い人も多いんでしょうけれども、
大学の人が多いんでしょうけど、
ほとんど全部そうかもしれないけど、
そういうことなんですよね。
解釈なんですよ。
何の話をしてるんだか、またすっぽんでるんだけど、
解釈ってすごいあるなって気がします。
見え方が全然違うじゃないですか。
大和さんの本にしてみても、
京都大学の講義にしてみても、
ヒルナンデスにしてみてもですね、
見え方が全然違うんだと思うんですよ。
人によって人が生きている世界ってのは全く違うんですよ。
人それぞれで。
全然違う世界を見ているわけだから、
だからお互いがお互いの世界をどう見ているか
ということを解釈し合うってのは
大事なことなんだと思うんですよね。
カウンセリングであってもなくてもですね。
こう見えるんだよ、自分には。
それが他の人のとは全く違うんですよね。
そうは見えてないってことなんですよ。
だって方や何かね、
20何年も優勝してないチームの優勝ぐらいな
勢いで感動してる人間が見ているものを
隣で見てる人はあまりに退屈で
そっちを見てないんだけど、
声を聞くだけで寝るみたいな
勢いになってしまうわけですから。
どんだけこれが違うかという。
夫婦でそうですからね。
だからいいんですよ。
いいっていうか当然なんですよ。
それぐらい違ってて当然だっていう風に
思ってないと
同じだろうみたいに
我々なぜか思う。
同じだったことがないのに
同じだろうぐらいに思ってしまうことが
すごく多いじゃないですか。
逆感的にそうだみたいな。
これほど怪しげなものはないと思うんですよね。
逆感的にあの人は私をバカにしてるとか
逆感的に見てあなたは私の話を聞いてないとか
そんな話はどこにもないわけです。
僕ら完全に夢見る人なんですよ。
無優描写みたいなもんだぐらいに
思っておけないんですけれどもね。
思っておくとちょうどいいんだろうなと。
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いろんなシーンで思います。
私が最近お話した
締め切りの話もそうですし
接触の話もそうですし
何でもそうですよね。
夢を見ているぐらいに思っておかないと。
起きてるぐらいに思ってしまうと
騙されるなって言いますか
騙されるんですよね。
騙されてからいけないってことは
全然ないんですけれども
自分で自分を作り出した近くに
自分で自分を信じ込ませて
そうやって僕らは生きていると思う。
それにしちゃうまくやってるんじゃないかなって
思ってるんですけれども。
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