1. グッドモーニングボイス
  2. 自転車で遠くまで行っちゃう女..
2024-05-08 39:55

自転車で遠くまで行っちゃう女の子の話【GMV980】

精神力動をどう取り入れるか?
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
えーと、5月の8日ですね、水曜日。朝というかな、まあ10時55分、もうすぐ11時になります。
あれなんですよ、イレギュラーなんですよね、最近は。
新学期始まったばっかりということもありまして、まあ、いろいろありますね、はい。
今日ももうピストン輸送みたいなことをしているうちに、あっという間にこの時間。
まあ、えー、今奥さんがちょっとね、あの、お出かけになっておりますんで、
家事をやってると一層こう狂ってくる。
でも今日、飛び込みで新しい、えーと、作業が入りまして、
こちらも出かけていかなければならないので、いよいよこう、そうですね、すごい不思議な、
これもう学校行事的な世界なんだなと思うんですけどね、CDを逆っつうんですよね。
今時、CD-Rのメディアとかって持ってなくないですか?
私もうちにひっくり返してみたんですけど、一枚もないんですよね、空のCDなんてものはですね。
それでこう、急遽買いに行かねばならないという、このよくわからないお使いも、
まあこれそこら辺のコンビニに多分売ってると思うんですけど、
あの、最近買ったことがないから、あの、もうだって、ブルレイとか、まあせいぜいDVDじゃないですか。
CDね、昔秋葉原の上の方のラジオ会館とか、通称ラジ館と言ってるところでですね、
あの、CD役機械とか、もうちょっと前ではMO役機械とかをね、
あの、当時は、こう割とこう、お偉い人に売り込むっていう、
よくわからない仕事をしていた時代があったんですけど、
それをちょっと思い出しましたね、CD役っての。
非常にこう、懐かしいですね。
はい、えっと、で、今日はですね、5月19日のタスクシュート手帳セミナーを、
これからどう運営していくかに、などを含めまして、
ちょっと皆様に、ぜひプッシュしていきたいと。
何をどうプッシュしていきたいのかっていうのが、僕は多分に伝えるのが下手でね。
ちょっとそこをもっと考えてやっていかねばならないんだけど、
考えても無駄な気もしてきましてね。
えっと、とにかくタスクシュート手帳というものの概念を、
ちょっと変えていきたいなっていうふうに思ったんですね。
紙の手帳のことを指すんですよ、直接的には。
それはもう全くそれでいいと思うんですけど、
最近タスクシュートクラウド2を、
J松崎さんが内々でベータテスターを募集されて、
今後その数を広げていくといったことが、
今年の前半の最大の山場になるわけですけれども、
これいいですね。非常に僕はいいと思っていて、
なんとですね、これはびっくりなんですけど、
03:00
びっくりすることもないのかもしれないけど、
今時、カレンダービューがあるんですよ。
これで僕はね、もしかすると、
ついにGoogleカレンダーから卒業できて、
今までこれも本当おかしいと思ってたんですけど、
タスク管理と予定管理を一元化できるんじゃないかなと思ったんですね。
合わせてついにですね、ノートビューがあるので、
これでノートの管理とタスク管理と、
カレンダーの管理が一元化できるだろうと。
以前、Nozbeが夢見ていたことだと。
夢見ていたと言っては申し訳なくて、
本当に統合されたのかもしれないんですけど、
何しろNozbeも、
DropboxとEvernoteを外に連携するという考え方なので、
この考え方を取るというのの最大の問題はですね、
これはNozbeの制度ではないんだけど、
Dropboxがサービス辞めると困るよねっていう問題が、
あるわけですよ。
いやその時にはiCloudドライブとかにすればいいとか、
Googleドキュメントにすればいいっていうのは分かるんだけど、
でもDropboxに溜めてしまったものはどうするんだっていうね、
それはDropboxの問題みたいになるわけですけど、
Evernoteなんて結構最近は勢い取り戻していますけど、
一時極めて危なかったじゃないですか。
危ないっていうのはつまり会社がっていう意味ではなくて、
会社はどうだか分かりませんけど、
このサービス続けるときあんのかな的な危なさがあったんで、
そういう問題を外部連携だと、
内部連携で内部においたって同じなんですけど、
そのサービス自体が終了してしまえばそれっきりという、
そこは絶対紙の強さというのは根本的にありますが、
でも紙だってその企画の手帳が消滅するということはあり得ますからね。
今どれほど流星を誇っていたとしてもですね、
それがなくなっていくということは、
ただ紙の場合やっぱりなんとかなる気がするんですよ。
でもとりあえず私はタスクシュート1本って昔から言ってましたけど、
それはタスク管理の話をメインで指してたんですけど、
これカレンダーもノートも可能だなと思ってきたときに、
つまりこれが手帳と呼ばれているものではないんだろうかと思うんですね。
つまりタスクシュートクラウド2そのものが、
タスクシュート手帳と言ってもいいんじゃないのかな、
って感じを抱くんですね。
まあそうは呼びませんけどね。
あくまでもこれは僕の概念をただ幅広くしただけの話なんですけど。
そうやって考えてみると、
タスクシュート手帳の回というのを、
タスクシュート手帳セミナーというのを5月19日に第1回で発信するんですけど、
これすなわちタスクシュート手帳の概念をですね、
タスクシュートそのものに持つようにすればですね、
そういう回にしていくことができるんではないんだろうかと思ったわけですね。
紙だけではなくてね。
紙メインにしますけど、リアルでもお話しますし。
06:02
その際、紙の手帳の使い方って僕は、
マニュアルがあってそれを習うっていうのはやっぱり、
そういうのも好きな人はそれでいいと思うんですけど、
そういうもんじゃない気がするんですよね。
これはやっぱりみんなの使い方をお披露目するみたいな、
そういう回であるほうが適切だろうなって感じがするんですよ。
だからタスクシュート手帳のセミナーは、
セミナーと銘打ちはしますが、
回のほうがいいのかもしれないとか思ってですね、
ここら辺ブレる可能性がありますが、
ライドニングトークみたいな、私あんまり得意じゃないんだけど、
ライドニングトークみたいなのもさらにあそこに追加導入していってですね、
そういう回にしていけたら面白いかもなという、
タスクシュート手帳という概念を楽しむ回みたいな、
この中に自分が3ヶ月チャレンジとかで、
ちょっと話をでかくしてるんですけど、
無理やり3ヶ月チャレンジというものでですね、
考えているこの、
力動的なものを仕事にどう生かすかっていうのの勉強会を、
これは別会でやったほうがいいかなやっぱりな、
でも合わせてやっていっても面白いかなっていうのをちょっとね、
無双しているわけです。
でも単に無双にとどまらず、
5、6月は難しいかもですけど、
7月あたりからは順次スタートしていってもいいのではないかと、
その頃にはタスクシュート手帳も紙のね、
タスクシュートクラウド2も今よりも多くの人に、
多分使っていっていただけてるはずだと思うので、
まずそうなってると思うんですよね。
合わせて設置も7月に新しく出るはずなんですよ、
これも。
これは出ると僕は思うんですよね。
現状の出版社さんの推進パワーをちょっと見ていると、
これは出そうだなって感じが、
そういうのあるんですよ、やっぱり。
この本結構原稿書いたけど、
そのままフェードアウトするつもりっぽいよねっていうのと、
明らかにこれはもうタスク満々だよねっていうのはやっぱり、
著者は当然そういう内部授業のど真ん中にはいませんけれども、
一番近いところにいる部会社なんで、
知ってはいるわけですよね。
下請けの一番近いところにいる下請けみたいなもんですね、
著者図の。
本当にそう思うんですけどね。
私はつくづく下請け向きなところがあるんですね。
それは機質なんだなってやっぱり思うんですけどね。
どっちがバックグラウンドで動いているのかが、
ちょっと分かりにくいのが、
著者と出版社の非常に不思議な関係なんですけど、
下請けだけど立ててもらえる下請けみたいなね。
僕はそういうのは合ってるなって自分では思うんですよ。
これ向き不向き非常にありますんで、
いろんな人が本出したかったり、
作家になりたいのはよく分かるんですけど、
例えば私は作家とライターは、
全然日本におけるライターっていう存在ですね。
英語ではライターと作家に違いはないと思うんですけど、
でも難しいですね。
ここは本当に難しいですが、
09:00
日本語におけるライターと作家というのは上下はないんですけど、
意味は僕は全然違うといつも思うんですよ。
ライターさんが作家になりたいというのも、
本出したいというのとはまた別にですね、
それはどっちかにした方がいいと、
僕にライターは絶対勤まらないんですよ。
これは本当につくづくこの商売をやってて思うんですよね。
ブログを書くというのも本当に微妙かつ絶妙なポジションで、
作家らしくブログができる人って確かにいるんだけど、
僕は書かなくなったじゃないですか。
それはもうはっきりとした理由が僕の中ではあるんですけど、
これをいちいち説明しても、
大して誰の得にもならないような気がするんで、
いちいち誰かに説明することは滅多ないんですけれども、
本当にね、作家とライターを両輪回していくっていうのは、
大谷翔平みたいなものなんで、
やめた方がいいんじゃないかって思うんですよね。
やっぱりね、ピッチャーやりながらバッターやるべきじゃないんですよ。
ああいう一部特殊な人間を除くとですね、
本当それは辛いことになっていく気がするんですね。
作家とライターっていうのは本当に二刀流ともまた違うんだけど、
同じようなものだと思われているらしいんですよね、一部では。
僕は全く違うもんだって思うんですよ。
だから僕はライターはやらない。
少なくともできないとまでは生きるのは語弊があるかもしれない。
少なくともイラストレーターを僕がやるよりはマシだけど、
でもまあ変わらないな。
作家とライターさんは違いますね。
だからどっちかにしたほうが本当、
どっちかにできないっていうなら別なんですけどね、
でもどっちかにできるなら、
僕はだからもう作家に一本にこの件では絞ろうと。
ライターは絶対僕には無理だっていう、
そういうふうに考えるようになったんですよ。
これはやっぱりそうですね、
少なくともキャッチャーとかいいや集を引き、
キャッチャーとなんだろう、
野球に例えてあがるのは僕の悪い癖ですが、
なんかそうなんですよね、
この二つは違うっていう感じが。
キャッチャーとピッチャーかな。
でもそれを形容する人もいるんですけどね、
講師園とかではね。
でもプロではいないですよね、やっぱり。
合ってない気がするんですよね、これはね。
まあまあそんな感じで話がずれてしまいましたけど、
いつも通り。
ヘチョウセミナーは、
これから僕はうまくいくかわかりませんけど、
バンバンやっていきたいなと思っております。
合わせて、
これを今日のメインテーマにしたいんですけど、
今日はちょっと短めに切り上げなければ、
これから出かけるんでいけないんですが、
僕の短め当てになりませんけどね。
なんだっけ、
そうそうだから精神力動ね。
この力動って言葉、
サイコダイナミクスを訳しているんですけれども、
精神分析とは違うんですよ。
12:00
完全には一致しない。
非常に傘をかぶってる部分はありますけど、
精神分析はサイコアナリティクスですよね。
サイコアナリティクスとサイコダイナミクスはちょっと違う。
ダイナミクスを言ってしまえばですね、
たぶんアドラどうなのかな、アドラ、
アドラわかんないな、アドラも入るかな、
ユングも入るんじゃないだろうか。
基本的にサイコダイナミクス、精神力動も、
凄く臨床のものとして扱われてきたし、
その通りなんですよね。
そこにベースを置いてるからこそ健全らしい、
非常にユニークな観点を取れていると思うんだけど、
でもある程度やっぱり今は集まってきたわけですから、
日本では古ってないとはいえ、
世界では凄い臨床例があるわけですよね。
しかもそれもきちんと残されている。
その辺欧米偉いですよね。
僕はアーカイブを残すというのも昔ほど、
残さない文化には十分意味があるって思うようになってきたんですけど、
ちょっとタスクシュート協会的にあれなのかもしれませんけどね。
僕は別にタスクシュート協会はアーカイブを残す協会とかではないので、
これはこれでいいだろうと思うんですけどね。
でも残っている後の構成の人に便利な面は確かにあるので、
残っているといいわけですよ。
そして残っているわけですよ。
精神力度というのはですね、
結局精神分析が主に一番活用している考え方なのですけれども、
無意識のうちに自分と人、そして人間関係、対象関係等に
強い影響を及ぼしていき、
それによって現れる行動が大きく変わっていくと。
このように言っただけでは、
全然わかりやすくもなければ面白くもないので、
簡単に具体例を出しますと、
先日から読みまくっている松木さんの接触障害。
何が面白くて接触障害の方がお前読んでいるんだという、
ちょっとダイエットで困っているのかと思われるかもしれませんが、
要するに接触障害というのはそういう話ではなくてですね、
お父さん、お母さんの特に、
なんて言えばいいんですかね。
僕はやっぱり良くないと思うので、
その言葉は避けているんですけど、
養育上の難しさというものに直面するだけでなく、
家っていろんな問題があるじゃないですか。
経済的な問題を抱えていたり、
お父さん出張でそもそもいなかったりとか、
様々な問題があって、
何らかの理由で子供にとっては、
ここ大事なんですよね。
その家のお父さんとお母さんがおかしいとかではなく、
子供にとっては機能を果たしていないと、
何かが起こるんですよ、多くの場合。
お父さんの機能が全く欠けていると、
やっぱりお母さんが取り乱し始めるという、
これも力動的な非常に表現として、
断魂的母親とかって言い出すんですけど、
15:02
要はお母さんがワンオペになっちゃうってことを、
もう少し学術的かつ、
子供の目線で意味のある言葉にしたいところなんですよ。
ワンオペって母親目線で言ってるわけじゃないですか。
この目線ってすっごい大事で、
どっち目線だ、それはっていうね。
昨日はある方と非常に、
私はここは有意義な会話だったなと思うんですけど、
親に貸しがあるっていう表現が非常に響いたんですよ。
貸してるのはどっちですかっていう話なんですね。
親に貸しがあるって言ったときは、
親目線なんですよね。
貸しって言ってしまったからね。
親に借りがあるだと、今度は子供目線ですよ。
どっちでなければいけないって話じゃないですよ。
どっちが正しいかって話じゃないですよ。
なぜフロイトが言い間違えっていうのを最初に、
あんなにこう代々的な本でね、
なんかこうとってつけてるようなダジャレみたいな話が、
もうアンサーが出てくるんだけど、
面白くもなんともないわけですよ。
でもあの面白くもなんともない話を、
一生懸命フロイトさんが書いたのはなぜなのかっていうと、
この種の言い間違いはなぜ起きるのかっていう話をやっぱり、
非常に大事に考えたわけですね。
発達障害の人がうっかりミスってことをよく言いますけれども、
2×4が6って書いてみたりするわけですけれどね、
うっかりミスってのは。
2×4が2×4と間違えてるわけだけれども、
そこには何のわけもなくそういう間違いはしないっていうのが、
フロイトの基本的な考え方なんですね。
無意識ってものがそこで力を働かせて、
間違いさせたんだって考えてみるわけですよ。
考えてみるってことが大事ですよ。
ありとあらゆる間違いが偶発ではないと言い切るかどうか、
って話ではなくて、
そんな偶然のミスって絶対ありますから、
でも偶然だと思ってる要素が多すぎると言ってるんですよ、彼も。
親に価値があるって言ったときは、
なぜあなたが親目線で物を喋んなければいけないのだろう、
っていう問題がそこになくもないかもしれない、
でも単なる言い間違いかもしれないんですよ。
しかも私たちは臨床やってるわけでも、
カウンセリングやってるわけでもないので、
そこは別にそれを持って病理を探っていくとかを考える必要はないと思うんですよ。
ただ、ドロイドを読んだことがある身としては、
言い間違いというものには気をつけてみてもいいわけですよ。
親に借りがあるのか、親に価値があるのか、
私にはあなたに対して価値があるんですっていう表現を、
不意に借りてる方が口にしたという場合には、
言い間違いなのか、意図的な何かを指しているのかは、
考える価値はあると思うんですね。
これは臨床じゃないと僕は思うんですよ。
これを僕は仕事術だって言ってるわけですね。
つまり、例えば取引先に価値があるっていう表現を取った場合、
本当に取引先に対して価値があるのか、
取引先が私に対して価値を作ってるのかは、
18:01
大事な違いじゃないですか。
なぜ私たちが対象、対象っていうのはオブジェクトですけれども、
対人ではなくて対象というかというと、
その場に居もしない人が主体になってるという時は、
あなたの、私のでいいな、私の主体を乗っ取ってるんではないかと。
例えば私が倉園さんに価値があるって言った時ですね。
これは倉園さん目線で言った場合と、私目線で言った場合と、
全然違いますよね、意味が。
しかし私がですね、倉園さん目線を取ったということになってくると、
それは本人とは全く関係ない。
本人が全然預かり知らないところでそんな発言を僕がしちゃうわけですよね。
これを対象と言ってるわけですよ。
対人関係だってこれを多くの人は考えちゃうんだけど、
人はそこにいないんですよね。
心の中にいる人のイマジネーションみたいなものを使って、
それを主体と化してしまってるわけですよ。
すごく今のは専門用語をいっぱい使っちゃいましたけれども、
抽象的に言うとそういうことになるわけですよね。
私が母に価値があるって言った時、
母が私に金を貸してるのかもしれないんですよ。
そういう時に私は母目線に立つ義理は本当はないのにもかかわらず、
なぜ母目線にその時立ったんだっていう、
心をどこかに乗っ取られてませんかっていう話なんですよ。
これは母が私に対して感傷があましいとか、
そういうことを言ってるのとはまた別なんですよね。
自分が勝手にそう思ってる可能性も十分あるわけです。
こういったことが仕事に影響を与えてくるわけですよ。
だって金銭の貸し借りになってきた場合、
そのお金を借りずに済むんだったら、借りずに済ませたいと、
子供の側は思うかもしれないじゃないですか。
あるいは借り手でもなんとかこのまま乗り切りたいと。
私はリーランスですからね。
金の出どころがどこであるかというのは大した問題じゃないわけですよ。
金が手に入ってさえしまえば後々問題になるかもしれないけど、
その時はとにかく窮場をしのぐ必要がありますからね。
だけどフリーランスの中にはですね、
親にだけは借りられない。親に借りてしまったらね、
その甘えがどこまでも行って、
自分はフリーランスとして独り立ちできなくなるんだと。
これはビジネスの話してますよね、かなりの部分。
特にフリーランスであれば。
でもこれを精神力動的に見ると、
あなたはフリーランスであって、
その窮場をしのぐのに、
なぜ親に借りられないんだっていう風に考える人も、
当然いると思うんですよ、私は。
例えば親なら無理して借りられるのに、
わざわざね、わざわざ銀行に融資してもらって、
その利子もつけて返さなきゃならないと言ったことをやるのに、
果たしてどれほどの意味があるんだろうか。
で、意外とどれほどの意味ってところに
長所的な意味があったりするじゃないですか。
そうやって利子もつけてでも、
親に借りは作りたく、今言い間違えましたけどね、私ね。
親に借りは作りたくないんだ。
この場合の借りは金銭のことを指しているのか、
感情的な話をしているのか、
21:02
非常に分けがたいところがありますよね。
そして、そんなことを言ったって、
例えば、借りを親に作らない。
これは実は私、フリーランスの仲間に聞いたことがあるんですよ。
借りを親に作らないとして、
その人が例えば、現在持っている学歴なりについて、
親に一線も援助をしてもらわずに、
ここまで来たっていう、
そういう前提なのかどうか。
そういう人いないですよね、今の時ほぼ。
その人もそうではなかったんですけども、
でも、今は独立している。
ここを大事にしたいんだってことなんですよね。
私はそこに、やっぱり力動的なものを感じるんで、
当時はそういう概念を持ちませんでしたけど、
今ならば、脅迫的なものを感じるなって感じがするんです。
そこには儀式的な意味を感じるんですよ。
ここの対策がゼロになっているっていう、
儀式にこだわっているっていう。
つまり、気が済まないって感じなんですよ。
ここで親に金を借りては気が済まない。
久しぶりに、私、この土井武夫さんのお話を出しましたけども、
気が済まないって言葉が、この場合、日本語では
ずいぶん意味を持つんじゃないのかなって感じがするんですよ。
気の済む気が済まないっていうのは、
完全にその人の中の心の、そしてかなりの部分、
情緒の話をされているじゃないですか。
手を洗わないと気が済まないってやつですけど、
この脅迫的な気持ちっていうのは、
つまり、自分の環境、自分の力の及ぶ環境を
非常に徹底的にきちんとしておきたいっていう
コントロール意欲の暴走を案にさしているわけですよ。
だから、年半もいかない頃に、
お母さんにミルクを飲ませてもらうのはいい。
でも、20を超えてから、この20ってところに
区切りをいちいち作るわけです。
20を超えてから、仕事で独立したにもかかわらず、
お母さんにお金を借りているっていう数字を
1円だとしても許せないってなってくると、
非常に僕はそこにきちっとしすぎ、きちっとするっていうことに
万能的な意味を見出そうとしている
何かが感じられると思ってしまうわけですね。
これが僕は思うに、ここに臨床を持ち込まなければ
これは精神分析でもなんでもないから、
これを精神力動的な視点っていうふうに思うんですよ。
こういうことが人間関係とかに必ずその人のような
その脅迫的なっていうのかな、
コントロール欲求というもののものすごい意識が回ってる人は
必ず人間関係にもそういった部分が現れずには
いられないはずだと思うんですね。
だからこの力動的な観点をビジネスに生かすというのか、
ビジネスでも見つけていくというのかな、
意識しておくというのが意外とその人にとっての
その仕事を滞らせたり前へ進ませたりする
24:03
それこそ力ですよね。
力として見るのにやり方としてはなかなか有効なんではないかと
ちょっと思ってもらったような言い方が多くなってますけれども、
そういうことなんです。
私が3ヶ月チャレンジでやろうとしていることってことですね。
だからもちろん全然検討じゃないかもしれません。
貸しと借りを言い間違えただけなのかもしれないっていうのは
なんてことはない話なのかもしれないんですよ。
これを全部フロイトみたいに、
フロイトが本に書いたみたいにって意味ですけどね、
全部何から何までこれを投影だとか力動だとか
募っていくとだいたい相当無理な話になってくるし、
間違いが増えると思うんですね。
多くの場合スルーしとけばいいんですよ。
これはすごい引っかかったなっていうところを
頭に止めておくという癖をつけていくとですね、
いろんなものがある意味すごく見えやすくなってくるんですね。
接触障害の女の子がいましたっていうときに、
これをダイエットって観点だけで捉えるのは
一番何もかも見えなくするところがあると思うんですよね。
松木さんが正しいかどうかは分かんないんだけど、
お母さんは明らかに取り乱してるよなと、
泣いてばっかりだなこのお母さんはってなったときに、
ところでお父さんどこにいるんだろうって、
お父さんはいませんみたいなね。
よくあることなんですよこれ。
お父さんはいませんと。
で、この女の子は超痩せ細っていて、
男子だか女子だか分かんない状態で、
子供に言ったら本当にやばいんじゃないか。
少なくとも早く点滴打とう。
普通そういうふうには見えないじゃないですか。
うちの子も大概痩せてますけど、
今日にも点滴打たなきゃなとは思わないわけですよ。
そう思うってことは、
よほどのことが起きているという部分があるわけですよね。
で、そのときに、
お母さんがワンオペで大変だって言ってもいいんですけど、
やっぱりなるべく子供目線で立ちたいですよね。
なぜその子はそんなに痩せたがってるのか。
で、物を食うのは害悪だみたいに、
罪悪だみたいに言ってるのは何なのかという話になるわけですよね。
そのとき子供目線で見ないと話にならないと。
で、きれいになって痩せたいんですっていうのかもしれないんだけど、
それは多分相当表面的な話ですよね。
で、お母さんが泣いているといったときに、
男婚的な母親っていうものが、
もうよく聞く言葉なんですけどね。
要するにお母さんにペニスはないはずですけど、
あるってことになりましたってことになると、
それはお父さんの役割も兼ねてますよって話ですよね。
で、お母さんがお父さんに見えるってことは多々あるじゃないですか。
なんかめちゃくちゃ怒る人でもあるし、
優しくしてくれる人でもあるし、
ご飯も作ってくれるし、外で仕事もしてる。
こういう話はどうしても今はワンオペって言葉に切り替わるんですけど、
それはお母さん目線ですよね。
27:01
で、このファルスを持っている母親というものは、
つまりお父さんみたいに急にめっちゃ怒ったり、
めちゃくちゃ仕事してたりしてるわけですよ。
急にお母さんになったりお父さんになったりしているんだけれども、
本当にかわいそうだなとか、本当にお母さんのこと好きだと思っている子供からするとですね、
いや、私がお父さんになるよっていう瞬間が、
がいして訪れやすいわけですよ。
あのお父さん信用ならないから、私の方がいいよと。
これってものすごく何かに似てるじゃないですか。
ふどき文句っぽいじゃないですか。
だからお母さんほろっと来ると思うんですよ、こういうことを言われると。
こういうところに力度ってものが働くと思うんですよ。
もともとかわいい我が子ですからね。
いやもうあんなの人と別れないよと。
私がお父さんになってやるからっていう風になるんですよ。
で、もうやること子供なって、
じゃあお父さんとしてまずやることは痩せることだって、
よくわからない話が始まるわけですよ。
でもやっぱ女の子らしくなっちゃまずいよねと。
やっぱりお母さんの相手をするんだから女の子らしくなってる場合じゃないよねと。
ここでもっとキリッと履歴しくならないとねっていう感じで。
で、松木さんの表現を変えると、
クラスのリーダー的存在とか、
やっぱりこれからは学級員とかも男の子に任せてられないから、
私やるからみたいな感じでめっちゃ活発なわけですよ。
そうするとお母さんすっごい喜ぶじゃないですか。
やっとあの子も独り立ちしてくれて、
私のワンオペも楽になる。
これはワンオペでいいんですよ。
お母さん目線。
こうやって目線が動くってことは、
使う言葉が変わるってことを自然と意味しなければいけないはずだし、
そこへやっぱり人間関係というか対象関係というものが機能するはずなんですよね。
やっと独り立ちしてくれたし、
あんなに活発で威発でいい子だなっていう感じで嬉しいわけですよ。
この嬉しさは子供に伝わるんですよ。
だからやっぱり私のこの痩せる路線は正しかったんだってことになっちゃうわけですよ。
あんまり物を食べないと。
物を食べないほうがお母さんの負担を少なくなるし、家計も助かるし、
子供の考え方ですから、非常にお母さんにとっていいと。
ということは私がこのように男の子っぽくどんどんバリバリやっていくっていうのは、
この男の子らしいっていうのはですね、ちょっと昭和的ではあるんですけどね。
とにかくお母さん依存的でなくなる。
自立を急ぐっていうのは非常にいいことなんだっていうふうに考えるようになって、
なんかしんないけどやたら体力つけたがるわけですよ。
なんかこういう時によく出てくるのが自転車ってやつなんですよね。
私あれ自動車の運転をするお父さんの代わりっていう意味なんだろうなって漠然と思ってるんですけど、
あのあれじゃないですか。
大崎豊もすぐ盗んだバイクで走りたがるじゃないですか。
免許取れないからっていうニュアンスとお金がないからってニュアンスが込められてると思うんですけど、
とにかくお父さんぶりたい子供のやることといったらバイクなんですよね。
二輪に乗りたがる。
30:01
要するに車を使いたがるわけですよね。
だから自転車でありえないほど遠く行ってめちゃくちゃ日焼けして、
非常に女の子らしくないわけですよ。
そしてガリガリに痩せていて、私絶好調みたいになるわけですね。
めちゃくちゃ壮的になってる。
力動的な表現を使うならばそういうことになりますよね。
非常に壮的になる。
で、これに母親は不安になってくるわけですよ。
あなたもうちょっと食べて、自転車だけで県外まで行くのやめてくれるって言ったりするわけですよ。
ここで子供はめちゃくちゃ傷つきますよね。
せっかくこのお母さんのためにというか、女のためにですね。
男として私がこんなに頑張ってるの、この気持ちを理解してくれないのかってことになって、
猛然と喧嘩が始まったりするわけですよ。
で、お母さん泣くと。
これを松木さんは描写してるんだろうなと思うんですね。
で、これを見ると何が何だかよくわからんって話になるかもしれないんですけど、
見る人が見ると、いやお父さんどこに行ったってことを案内始めるわけですね。
どういえここにお父さんを連れてきても多分無茶苦茶になるだけですよね。
ひたすら修羅場になる。
お母さんの機能もうんと低下してきたっていうことになってきたときに、
しょうがないので、例えば松木さんなりがおじいさんだったりするんだけど、
お母さんになってあげるわけですね。
お母さんの代行お母さんみたいになってあげるわけですね。
最初絶対この女の子は嫌がりますよ。
ふざけんなって感じですよね。
いいからほっといてくれと。
それよりも食欲がなくなる薬でも処方しなさいみたいなことを言い出すわけですね。
でもまあ、この辺はまあまあとなだめながら、
松木先生がお母さんをやっていくうちに、
なんとなくお母さんの仏教によってですね、
女の子が再び女の子に戻っていくわけですね。
お父さん役やめて、なんか知らないけど、
みんなが妨害するからということで家に戻ると。
このとき何が起きるかというと、
戻って赤ちゃんのようにもんだって食べまくるわけですよ。
これを過食と拒食っていうわけじゃないですか。
そう打つとよく似てますよね。
やることが極端の幅に触れる。
何しろ子供の考えることなので、
やっぱり極端の幅に触れるんですよね。
もうこの痩せ痩せ路線やめたってことになると、
今度はめちゃくちゃ食べ始めるわけですよ。
こっちだけ見るのがいかにだから間違ってるかってことなんです。
これは必要なプロセスですよね。
見ようによってはね。
こういうのが全部、
エビデンスどこにあるんだって話をされると
すっごい難しくなると思うんですけれども、
だからこそ私はそこには手を出さずにですね、
何しろ私はこれをやる立場ではないので、
こういうのは読んでおくものだと思うんですよ。
で、これと似たことが、
実は会社の中とか家庭の中とか、
それこそ編集さんと著者の間とか、
ライターさんと依頼主の間でしょっちゅう起きてる。
間違いなくしょっちゅう起きてるんですよ。
33:00
こういうこと。
その都度その都度対抗が起きると。
ちなみにその対抗して今度は太っていきますよね。
女の子が。
次に起こること。
というか次に起こすべきことですね。
ここでお父さんに復活してもらう必要があるわけですよ。
お父さんに、
多分お父さんはその状況を本当に良くないと思ってたんですけど、
でも私何ができるわけですかね。
みたいな感じで仕事もありますしとかいうわけで、
関わりたくないんですよね。
お父さんは開始的に行動していることがこういうケースでは、
まあ多かったんでしょうね。
間月さんがよく書かれている。
影が薄いわけですよ。
極端に影が薄いわけですね。
そもそもこの段階では、
女の子がライバル視しているお父さんが、
いやあれはもう手切りなよではダメで、
やっぱりお父さんは魅力的だけど、
私の方が魅力的ぐらいな感じじゃないと、
ライバルになってないですよね。
お父さんはそもそもいませんみたいなのは、
いろんな意味で、
なんていうのかな、物足りないわけですよ。
だからお父さんに復旧してもらって、
仕事は忙しいかもしれないけど、
とにかく少なくとも親子の面接には来てくださいみたいなことを
言っていくわけですよ。
なかなか来ないと思うんですけどね、
そういうお父さん。
何しろ回避したくて仕方がないので、
どうせ来たところで娘に怒鳴られるし、
お母さんには泣き疲れるしで、
気持ち的にはすごいネガティブにしかならないんで、
うつうつとしてくるわけですよね、きっとお父さんとしては。
でもまあ一生懸命来ていればですね、
そもそも娘さんは多分お父さん好きだったし、
そもそも好きで結婚したんだしで、
なんとか結構なっていくところがあるんでしょう。
多分ね、私にはわかりませんし、
その辺は私無責任ですけど、
こういう仕事をするわけじゃないんで。
ただこうやってお父さんが復旧していくと何が起きるかと、
次に起きることは女の子が学校に行かなくなるんですよ。
この時多くの場合はもう私太ったから学校とか行きたくないとか、
そのぐらいのことを言うんでしょうけども、
違うんですよ全然。
一生懸命頑張ってクラスのリーダー的存在になるものになっても、
無駄だったってことが非常に影を落とすわけですよね。
しかしですね、これは一旦すごくいっぱい食べて、
お母さんの世話になって依存的になって元気になったわけですよ。
だから赤ちゃんに対抗した、
一時的対抗とかって言うんでしょうけれども、
もうその時期をやめて再び小学生に戻りましたと。
ようやくここで背伸びして、
盗んだバイクじゃなくて自転車で県外とかまで行っちゃう、
よくわからない過活動な人ではなくなってですね、
ようやくここで小学生の女の子に戻ってみたところで、
学校行きたくなくなるわけですよね。
男の子みたいにして、
お母さんを支える存在として万能的なものとして、
小学生やる分にはいいわけですよ。
小学生の頃ってそういう風になりやすいじゃないですか。
よくツイッターとかXとかで流れてくる漫画とかでもね、
大人が子供に転生して、
めちゃくちゃ要するにコナン君みたいになるわけですよ。
ああいうのが非常に子供には受けますよね。
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万能な子供と。
クラスで適当にあしらわれて、
成績の方もパッとしなくて、
サッカーやってもボールを使って蹴り、
からぶってっていうのは嫌なわけですよ、子供としては。
子供はもっとそういうことに敏感なんで、
めちゃくちゃスーパーマンでありたいわけですね。
まさにスーパーマンなんですよね、万能的な子供なんで。
その万能的な子供として行くんならいいんですよ。
クラスのリーダー的存在とかでいいんですけど、
なんか太っちゃって普通の女の子として学校行くのは、
全く気が進まないわけですよね。
だから不登校になると。
ここでお父さんが戻ってきて、
お母さんの機能も復旧して、
女の子は過食から不登校という方向に進展してるんだけど、
そうは見えませんよね。
問題がただ、
接触障害から不登校に移っちゃっただけじゃんって。
大概の人はそういうふうに考えます。
これを進展と捉えられるかどうかってのは、
やっぱり力動的な観点を取れるかどうかによると思うんです。
別にこれが認知行動療法的に、
そういう観点が取れないって話ではないですよ。
ただ私は力動的な説明が一番しっくりくるんで、
しっくりきたというところでですね、
ここでもう一回新しい問題に突入しますと。
本当に僕はこの展開ってのが、
会社に行けなくなりましたみたいな話に。
会社に行くかどうかというのと、
食べ過ぎちゃうかどうかっていうのは、
全然精神年齢が違うじゃないですか。
食べ過ぎちゃうかどうかで悩んでるのは、
まあまあせいぜい思春期ですよね。
会社に行くかどうかで悩むのは、
明らかに大人じゃないですか。
だから食べ過ぎちゃう、
ついつい食べ過ぎちゃって、
お母さんにべったりっていうのは赤ちゃんなんだけど、
学校に行きたくないって言ってるのは、
やっぱり小学生ですよね。
こういう風に進んでるわけですよ、前。
退校が終わったわけですよね。
だから私たちは退校が終わったときには、
気をつけなきゃいけないんですよ。
次に直面する問題は、
以前とは全く様子を変えてるはずなんですよ。
なんで前はできたのに、
だから前の状態に戻りたいとかって言うんですけど、
前の状態はもっとずっと悪かったわけですよ。
お父さんはいない。
お母さんはお父さん役も兼ねていて、
お父さんだかお母さんだか分かんない人が、
一日中家中を走り回ってると。
それにとって変わろうとして、
異常に背伸びした結果として、
前は学校に行けてたに過ぎないんですよ。
という風に見るわけですね。
この乱れが絶対に正しいのかどうなのかっていう話をしても、
私はしょうがないと思うんですよね。
これはこういう風にして見てみて、
そういう話にストーリーに納得できてたとして、
その上で対策を考えたら対策が見えてきやすくなって、
しかもその対策が有効だということになって、
初めて意味のあるストーリーになるわけじゃないですか。
そして時間もある程度かかりますよね。
こういうことをやればね。
かかってみればですね、
そしてある程度うまく落ち着いてみるとですね、
これだけの時間をかけたのは、
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保全だったなと思えるはずなんですよ。
だからこの時間が無駄だったとか、
その時に払った料金は失敗だったと思うんだとすると、
何かがうまくいっていないか、
何かがうまくいくプロセスの過程の途中にある
という話なんだと思いますね。
こういう観点を私としては、
仕事とか生活の様々な場面に
適応できるんじゃないかなと思って、
手帳セミナーの中でなのか外でなのかは、
今のところまだ完全としないんだけれども、
6、7月からやれればいいかなと。
6月はちょっとまた別の仕事で忙しそうなので、
7月あたりからやれればいいかなと思っているところなわけですね。
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