1. GMVグッドモーニングボイス
  2. 行動によって人の価値は上りも..
2024-12-16 48:26

行動によって人の価値は上りも下りもしない【1107】

TaskChute総決算2024の講演を受けて。
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/658790a07376b3f9361fc70f

サマリー

このエピソードでは、メンタルヘルスとビジネスの関係を探求し、スキゾイドパーソナリティが自身の行動や生活にどのように関わるかについて述べています。また、家庭と仕事のバランスやメンタル島の意義についても触れています。個人の経験が自己認識や職務に与える影響について深く掘り下げられており、メンタルヘルスや自我の欠如が仕事に及ぼす影響についても考察されています。このエピソードでは、人の価値は行動によって変わらないとする視点が提供され、特に否定されることの恐怖や無気力について考察し、自分の価値を見失わないための考え方が提示されています。また、行動によって人の本質的な価値が変わらないというテーマが探求されており、筆者は仏教やニーチェの観点を引き合いに出し、報いの概念や社会における自己評価について掘り下げる重要性を強調しています。行動が人間の価値に与える影響を考察し、自己の信念に依存することの重要性が語られています。

メンタルヘルスと仕事の関係
おはようございます。働くメンタルを取り戻す精神分析的ポッドキャスト、第1107回をお送りします。12月16日月曜日、7時51分です。
めちゃくちゃ寒いですね。おはようございます。お仕事行かれてる方はすでに電車乗ったりされてると思うんですけどね。大変お疲れ様でございます。
ちょっと先日1つ落としちゃった。先週ちょっと少なかったと思うんですけど、12月14日に無事開催いたしましたタスクシュート総決算の、割と僕なりに追われていたんだと思います。
この時間帯は関係ないんですけれども、他の仕事どうせしないんでね。でもやっぱり追われてたんでしょうね。回数少なかった気がします。
これからは寒さがありますが、他の理由では休むことあまりないと思って割とバリバリ行けたらいいなぁと思ってます。
聞かれる方にとってはいいっていうことなのかなとは思うんですけど。
12月14日の総決算はですね、大変いい感じの回になりまして、これはですね、ほとんど僕はただ喋っただけみたいなもんで、認定トレーナーさんという方が
皆さんいろいろと奮闘していただきまして、大変ありがたい限りでありました。
私は一応理事の端くれにいるわけですけれども、とりあえず何か言って、とりあえずそれっぽいことを喋ると。
その日はですね、ジゾイド、スキゾイド。私は一応これ正式に診断されたことが2度あるんですけど、分裂、消失、人格障害、スキゾイドパーソナリティディスオーダーですね。
というふうに言われたことがあります。私今では、多分その診断基準に当てはまるかといえば、やっぱり若干当てはまるとは思うんですけど、
症例診断だけを言えば、アセスメントだけを言えばですね、脅迫性とかいくつかやっぱりそれっぽい項目が出ますんで、
しゃあないかなというレベルに落ち着いていると思います。
昔はつまり、これよりはだいぶ、今でも相当なもんだと思われるかもわかりませんが、相当ずれてたんですよ。相当尖ってたとも言えますね。
悪いことばっかりではないと思うんですけれども、性格の偏りというものが行動に結構よく反映されていたなとは思います。
私はどちらかというと、症例診断主義というものだけでは飽きたらないところがどうしてもあってね、
これはもう今の医療にケチをつけたいとかじゃなくて、多分そういう性格なんだと思うんですよね。
どうしてそうなったのかを知りたくて知りたくてしょうがなくなっちゃうんですよ。
そんなお話をね、そんなお話をタスクシュートとどう絡めたのかというのを、もし本当にご興味があれば一応動画を販売もしておりますので、
買って聞いていただけると幸いですが、私が喋ってるのは全体の中では、ある意味一部なので当然ですけれども、
僕ばっかり喋ってるわけじゃありませんからね、あの日は。総決算ですから。
そういうことでですね、他にも興味ある方、ことがありましたらぜひお買い上げください。
CMですね。
で、その話の流れでいきたいと思うんですけれども、
当日も私、メンタル島というか島ごとに分かれて、島担当でそこでふさわしいお話ややりとりをさせていただくということをやったんですね。
で、そこで出た話はお話できませんけれども、メンタルというものがビジネスということに絡むとなってくるとですね、
私はプライベートとビジネスの、そうですね、仕事と家庭ってやつですね、あるいは仕事と私生活、分けるなんてことは土台無理だと思ってる。
まずここが私のメンタル島なるところの出発点なんですね。
だから私がメンタル島でやってることは、参加いただいてる方はよくご存じの通り3ヶ月チャレンジとまったく同じようなものになっていたんですよ。
僕の中ではね、そこのところの説明をまずもっときちっとできるようにならないといけないなと。
来週、今週なのか来週になるのか、今週だと思うんですけど、アツさんという方と夫婦関係学というのをポッドキャスト等で発信されているアツさんという方と、
これは認定トレーナーの方に聞き伺ったんですけど、ポッドキャストの聖地のあるところで僕はしゃべるらしいんですね、どうやら。
私はただそれを仲野だと思ってるだけなんだけど、どうやらそれはポッドキャストの聖地らしいということが判明して、聖地なんだと思って、
これはいろんな意味でラッキーだと思ってですね。
夫婦関係と仕事の動機
言ってしゃべることにして、この夫婦関係学の人としゃべらせてもらうというのは非常に僕のこの仕事にとっては神話性の高い話でして、
要は僕もそうなんだけど、夫婦仲が悪くなると仕事をする気がしなくなるんですね。
僕って仲は何のために金稼いでるかというと、家族のためなんですよ。
僕自身のためであればもうほとんど僕は仕事しなくなると思うんですね。
欲しいもの別に何もないんで、本当に異色樹ギリギリやっていければ幸せなんですよ、私はもう。
だから別にiPadとか新しいのは欲しいと思いませんし、それどころかパソコンも欲しいと思うものはもうないんですね。
私の仕事の主体はほぼiPhone1本でできてしまうんですよ。
3ヶ月チャレンジは画面が欲しくなるけど、画面なんて別にiPhoneとつなげばいいじゃないですか。
だからもういらんのですよね。iPhoneとお家とご飯とお布団があればですね、まあまあ幸せなんですよ。
この辺相変わらずスキゾイドっぽいんですよね、ある意味ね。
でも実際に人と会うことはするし、人と話すのも結局好きだし、私別に一人が好きなわけじゃないんですよ。
この話を最終的には総決算ではしたんですけど、私もともと一人が好きなわけではないんですよ、全然。
だって彼女欲しがってたんですよ、おかしいじゃないですか。
当時も少しおかしいなとは思ってたんですけど、彼女は例外ぐらいにわけわかんない考え方をそこに強引に採用して、
いや彼女はいいんだよみたいなふうに、これは非常に自己愛的な考え方なんだけど、
今日はそこの話をしているとそれだけで3回分ぐらい撮れちゃうぐらいは喋ることがあるんで、
ちょっと一旦スキップいたしまして、どうせいずれこの話するんでね。
スキゾイドっていうのは僕にとってやっぱりね、この世の中を渡っていくために身につけた、後から身につけた後天的な人生戦術でしかなくて、
戦略とかじゃなくても戦略っぽくなっちゃったんですけど、戦術でしかなくて、結局は切り抜けるための手段だったわけですよ。
だからそれ切り抜ける必要、切り抜けるっていう発想を捨ててしまえば、スキゾイドも自動的に私からは消えていくはずなんですよね。
もともとそうではない。
あの後天的な行動習慣、学習行動ってことですよ。
だから私習慣化ってのがね、あんまり今乗り気になれてないんですね。
下手に習慣化してしまうと、それが第二の転生みたいに、というか第二の転生っていうのはまさに習慣のことを言うんだけど、
なってしまいますよね。私はそれに痛い目を見てきている人間なんですよ、どっちかというと。
だから第二の転生を身につけたくない。転生は一つで十分だと思っておりますんで。
転生の中にはね、スキゾイドは一切ないんですよ。
私は多分。まあ少しはあるのかもしれないけど、本当に少しなんだと思うんですよね、そんなものはね。
それを発展させる気も発達させる気も全くないわけで、
多分僕はね、今その繋がりを説明はできませんが、
スキゾイドと私のアトピーは大いに関係があると思っているので、
あれ一つ取ってももうスキゾイドなんていらん。何にも私に戻らせてくれないんで。
一人が大切とか一人時間が大事とか、私の中の重要なことをやるとかやってても、
皮膚が荒れていくばかりなんでね。本当に私は昔、Jさんが最近よくおっしゃることなんだけど、
私の心のそこから望むものをやろうみたいに。
私にとって真に重要なものは何かっていうのを内へ内へと探していったわけですよ。
そして病気を悪化させていくというね。
なぜこうなるのかは、大筋説明はついてるんですが、まあ今日はここも一旦スルーですね。
私が今日お話ししたいのは、なぜメンタル島を作ったかということ。
これが総決算の時に多分説明不十分だったなと。
でも集まっていただいた方は私の趣旨をよくご理解いただいてたんですけど、
それはある意味先方の察しの良さに期待していたに過ぎなくて、
私からの説明は十分ではなかった気がするんですよ。
奥さんが怒ってると仕事する気しないよねってことなんですよ。
これってビジネスの範疇の外に出ちゃってるじゃないですか、普通に考えると。
仕事術で言われているのはですね、書類整理がどうだとか、
せいぜいやる気になれない時にタイマーをセットするだとか、
あんまり個人的な生活背景みたいなものに携わっていかないわけですよ。
しかし私は、その方が離婚すれすれなのか、あるいは離婚歴があるのか、
お父さんは非常に厳しかったのか、それともそもそも出張ばっかりだったのかってことが、
その人のモチベーションには深く関係しているのではなくて、
100%それしか関係していないと思っているわけです、今は。
だから、いわゆるメソッドというものは、それでできてる間はこんなこと考える必要はないんで、
それでどうかやってくださいと。
分解であろうと、タイマーセットとダッシュであろうと、
何かの学習行動の習慣か、これはちょっと気をつけてやろうねみたいな感じはしますけれども、
でも何でもいいんですよ。何ならGTDでもシングスでも何でも構わないんです。
それでうまくいっている間はそれでいかれればいいと。
ただ私は、散々その種のものは、ほとんど多くの日本人が知っている限りのことはやってきて、
不十分であったと思っているんですね。
そんなことではなかった。
自分の仕事が進んでいるときは大抵、例えば奥さんとの関係は少なくとも修復はされた後だと。
そっちの方が私にとっては断然有意義だったというか、そうじゃないと、
ダッシュかけようと分解しようと全く手をつけてなかったという自分がいたのでね、
全くってことはないにしても、仲が戻った時の日ではなかったというのがあるんですよ。
で、例えば奥さんとの関係はまだそこを頑張るにしてもですね、
3ヶ月チャレンジの意義
それでもすごいハンドブレーキを引いたまま車を走らせているようなものだったんですよね。
走るんですよ、車は。ガコンガコンとか言うけどね。
絶対やらない方がいいと思いますけどね、車を痛めるんで。
あの車の痛め方に近いものを私はやってたなって思うんですよ。
私はね、だからこれを人にお勧めはもうできない。
両親が痛む、はっきり言って。
なので私はその3ヶ月チャレンジはどうしても個別に対応しなければならないから、
お高くなってしまうんだけれども、ここはもうしょうがないなと。
1対1、先日メンタル島に行ってさえ思ったんですよ。
1対4でも厳しいなって。やっぱり1対1じゃなければできないことがたくさんあるんだと思うんですね。
で、週に1回1時間以上の時間を取らせていただく以上は、あんまり安くする。
僕が資産家なら、お一人1000円とかでもいいんですけれども、
残念ながらそれをひたすらやっているとですね、家庭が崩壊しますんで、
やっぱり限度っていうものがありますよねと。
それでも1回5000円程度のところに収まってはいるはずなんですけどね、多くの場合は。
これで十分食えていけるので、これでいこうみたいに現在は思っております。
個別実証だけが全てではないです。
僕の場合はですね、精神分析やってるわけでも心理カウンセリングやってるわけでもありませんから、
あくまでもその多くはライフ、しばしば職場の、多くは人間関係、
しばしば人間関係が投影されている作業といったものが、
その人の仕事の差し障りに強くなってしまうっていう話を、
ただその人の差し障りになる例は、他の人と共有できるようなものでは滅多にないんで、
できたとしても考えつくような、なかなか考えつかないようなところが、
個別の、例えば3ヶ月チャレンジで、これはお話ししてもいいと思うんですけど、
個人の経験と影響
子供の頃、もう覚えてないぐらい小さい頃に溺れた経験があるみたいな、
そういうのが仕事の差し障りになりうるって、普通に考えつかないじゃないですか。
仮にこれ考えついて、それを喋ってみたとしても、
100人のセミナーで喋ってみたとしても、誰にも響かないと思うんですよね。
これが個別ってことなんですよ。
その個別がものすごく大事なんですよ。
一般化できれば便利だしいいんだけれども、
一般化できるようなことは何もないんですよ、ほとんどの場合。
それでもこのポッドキャストでは、ある種の一般化はしているんですけどね。
ただし、ここでやっている一般化って、
例えば0歳の時に母親との関係化とか言ってるわけじゃないですか。
それと50歳になった今の仕事と何の関係があるんだって、やっぱり思われると、
実に関係があるんですよ。
私なんかもうほとんどそれが全てなんで、困ったことにですね。
そんなことを母にね、今70になって、中心倉ばっかり見ている母にね、
今ジョニーガスですからね。
そしてテレビの音大きいから聞こえないんだよって、
もうそれしか言わないうちに3分ぐらい経過するような人に、
0歳児の時にあなたに言っても何の役にも立たないじゃないですか。
私今だんだん隠しに近づいてることを喋ってるんだけど。
だから親がいい育て方をしたしないは非常に影響してしまいますが、
だからといって親のことなんてどうでもいいんですよ。
メンタルヘルスの重要性
これもまた変な話なんですけど、僕が母親母親言ってるのは、
現実の私の母親とはほとんど関係ありませんから。
私の脳内で勝手にこしらえた架空の母親ですから。
ただしそれは私の0歳児だった時の、
私の環境に強い影響を及ぼしているわけではありますね。
これを環境としての母親とかコンテナーとか言ってみたりするわけですよ。
ということがありますのでですね。
例えばですよ。
例えばすごい苦手な人がいると、
その人と電話でやり取りをしなければならないと。
電話のやり取りをしたりすると、
もう自分が機能しなくなってしまう。
ほとんど自分が自分でなくなってしまう。
何しろその人と話すと、
例えば自分が剥奪されるって言い方が世の中にあるんですね。
世の中にというか精神分析の世界にある。
あるいは自分自身を、
自分の一部を否認してしまう。
ないものにしてしまう。
ちょうどね、
手塚治虫がそういう表現を取ってたんじゃないか。
胴体の一部がカポッと取れる。
そういうことをやると、
人体って絶対機能しなくなるじゃないですか。
胴体の一部カポッと取ってどうするんだよみたいな感じじゃないですか。
これが心で起きていると。
いろんなところがそういうふうにカポッカポッと。
ピカソンがそういう絵を描いてたような気もする。
誰かな。
サルバドール・ダーリネ。
あの人がそういう絵を描いてたような気がするんですよね。
なんかハムみたいに取っちゃうんですよ。
それが心で起きるということをやると、
この人はこう、
非常にこうですね、
なんていうのかな。
自我が機能しなくなる。
自我が機能しなくなったらもう仕事なんて絶対できないですから。
はっきり言って。
イーゴーってのは非常に大事なものですよ。
エゴね。
エゴイズムとかいう言葉がすぐ連想されちゃうんですけど。
そしてエゴってのはですね、
簡単にセルフみたいな言葉と置き換えるべきじゃないと思うんですよ。
英語でもミーイズムとミーですね。
曖昧ミーのミーですけど、
ミーイズムと言ったり言葉が昔流行ったりしたんですけど、
ミーとかと置き換えちゃいけないと思うんですよね。
嫌味じゃないんだから。
やっぱりエゴはですね、
本当あんな固い言葉いらないのかもしれないんだけど、
自我ですよね。
我々が自分だと思ってるやつ。
自分っていう風に訳した方がむしろいいんじゃないかなって思うときもあるんだけど、
自分がないとかって言うじゃないですか。
あれは自分の意見がないぐらいな風に世の中では使われちゃってるんですけど、
自分がないっていうのは本当に、
ドイ・タケオさんが広げた分野なんですけどね。
恐ろしい状態なんですよ。
全然それじゃ仕事どころじゃない。
一歩間違うと家にも帰れなくなりますよね。
エゴってのは本当に、
その人が現実と自分の欲求を調整するにあたっての、
基本的には担い手ですからね。
オン・キャプテン・マイ・キャプテンのキャプテンですからね。
キャプテンいない船になっちゃうんで、
キャプテンいなくなってもすぐに船は沈みませんけれども、
多分キャプテンいないまま一日経ったらどう考えたってダメですよね。
そういう状態を頻繁に体験しなければならないっていうのが、
自分がないっていう状態なんですよ。
非常に危険なと言えば危険な、
普通に現代文明で社会生活を行うのは、
土台そんな状態では無理だと。
それで仕事しようって言うんだから、
大変なわけですよ。
自分しょっちゅう見失うんだけど、
仕事はしないわけにいかないよねってのは本当に大変なわけです。
そういうひどい上司とか、親でもいいですよ。
何かやり取りをしなければならない。
あるいはしてしまって、
自分というものが消滅したとか見失ったとか、
剥奪されたとか、そもそも空っぽだったとか、
いろんな言い方がありますが、
そういうことが起きましたと。
例えばメンタル島でね、
今回そういう話を私は相談されませんでしたけど、
メンタルの島で総決算とかで、
総決算2025とかで来年の話してるんですよ。
2025でそういう話をご相談されましたと。
お前メンタル島開いたはいいけど、
どうすんだよって時に、
僕はどうすると思います。
これに対する答えは何なのか。
今日これからも明日明日だね。
明日これから会社行かなきゃならないんだけど、
ひどいやつがいて電話で話して、
電話で話してボロボロにされましたと。
明日が会社に行く気が全くしません。
どうしたらいいんでしょうねってこういう時は。
メンタルの島で2025年に受けたとするじゃないですか。
私は一応ちゃんとした服を着て、
一応ちゃんと答えられるような顔をしているんだけど、
内心ではどう思ってるか。
どうしたらいいんだろうって思ってるんですよ。
そういうもんなんですよ。
僕はこれはね、分かんないですよ。
最近読んでるトーマス・オグデンさんなら、
もっと違うのかもしれないし、
松木邦博さんとか、
藤山直樹さんとか、
何なら最近流行りのトキメク・東波田海人さんとかなら、
違うのかもしれないんだけど、
私はそうかなって思うんですよね。
多分あんまり変わらないんじゃないのかなと。
結局正直に考えてみると、
私には何も思い浮かばないんですよ。
それは大変だよなと。
私なら、私なりにすごい嫌な奴が昔いたと。
何ならすごい嫌な編集さんがいたと。
いなくはなかったんですよ。
やっぱ50回も本出せばね、いるんですよ。
結構訳のわかんない詰め方をされるんですよね。
佐々木さんも書く気ないんですよ、みたいなこと言われるんですよ。
書く気はあるんですよ。
そんなこと言われたことほとんどないんだけど、
電話越しに書く気ないでしょ、いいっすよ、
みたいなことを言ってこられることってあるんですよ。
でも大体そういう人は絶対逃がしてくれないんで、
書かなきゃならないですよ。
でもそういう電話を受けた後で書く気全くしなくなるんですよね。
議論と自己表現
どうすんだよっていう。
どうすんでしょうねってことになるわけ。
つまり何にも僕にはできるアドバイスなんかないんですよ。
言ってるじゃないですか。
私は何の資格もなく、正式でもなく、カウンセラーでもなく、
ただただ好きで本読んでるだけなんですよ。
そして似たような臨床例の話が聞いたことがあるような気もするんだけど、
何にもないんですよ、別に。
考えつくことなんて。
そんなとっさに考えつかないじゃないですか。
例えば毎週の連載あれきっついんですよね。
毎週の連載って今思うと、僕のは所詮ウェブマガジンですけれども、
それでもきつい。
何曜日までに何書けと。
でタスクシュートの話、散々書いたよなと。
エヴァノートの話、誰も読んでる気がしないよなと。
そんなことないんですけどね、別にね。
なんか新しいやつを、
Apple Storeのランキングの仕事術とかいうところの上位のアプリをどんどん探してって、
これもこれもこれもオムニフォーカスとか毎回出てくるわけですよ。
オムニフォーカスかーとか思ってオムニフォーカスのこととか書いたらいいのかなとかって思って、
要するに何にもできることはないなと。
本当になんかね、出し尽くしたってああいう感じなんですよね。
本当にこう、ちょっと汚い例で恐縮なんですけど、
2日酔いの時に僕酒飲んで吐きまくったこと。
胃の中空っぽなのに吐きたくなるみたいな。
あの感じと似てるんですよね。
何にも出てくるものねーのに出さなきゃいけないと。
で出してもどうせなんかこうお仏みたいなものしか出てきやしないと。
でもこれ出して書かないわけにいかないんですよね。
何なのこれみたいな感じなわけですよ。
だから連載の最後の打ち切られるときって本当にこうはビシー感じになるんですよ。
安橋さん本当素晴らしいんですけど本当に申し訳ないんですけどみたいなこと言われるんだけど、
素晴らしくもなんともないのはもう100も承知なんですよこっちは。
もうねPVも全然伸びてないんですよね。
もういいっすよ僕に8000円とか毎回払うのもったいないですよね。
他の人に回してくださいみたいな気持ちでいるんだけど、
いやもう本当お世話になりましたみたいなこれが偽りの事故ってやつですよね。
もちろんメンタル島でも僕は偽りの事故が大いにそこに登場しようとしてるんですけど、
相手の方がお悩み相談してるのに偽りの事故で対応してる場合じゃないですよ。
でも本当の事故は何にも言ってくれないんですよ。
どうすればいいのかどうしようもない。
どうしようもないですそれっていう感じなんですよ。
この私のどうしようもなさこそが相手の人が訴えてきていることなんですよ。
あ、ここに思い至らなきゃいけないんですよ。
転移とか投影同意使っていう話が、
たとえ素人で使うものであろうと何であろうと起きつつあるんですよ既に。
だからもともとだって私は2024年の総決算の時も、
登壇してる時はもうやる気満々で喋ってるわけですよ。
話すこともバッチリだぜみたいな顔をして喋ってるわけですよ。
その時は必ずしも偽りの事故ではないんですよ。
本当の事故はちゃんと前に出てきて結構いい気になってるわけですよ。
が、そういう質問、あじゃあメンタルシマー作りますからどうぞ何でも聞いてくださいみたいなことを言って、
いきなり聞かれたことにもうすでに何も答えられない私がいるわけですよ。
これが投げ込まれたものってものなんですよ。
それがその人がいけないってことじゃないですよ。
否定と無気力
投げ込まれたものというものに同一化しないんだったらば何もわかってることにはならないじゃないですか。
相手の人が本当に困っている時にそれっぽいことは言うわけですよ。
でも必ずそれは否定されます。ほぼ確実に否定されます。
例えばそうは言わないですけど気にしないでいいんじゃないですかそんな人の話はって言うじゃないですか。
でもですねって言われて必ず否定されます。
これによって何が起きているか。その人は否定されるという恐怖を抱いている。
否定されるとはどういうことなのか、否定されまくるというのはどういうことなのかを私に伝えてきているわけですよ。
こうしてみたらどうでしょう。ダメです。ああしてみたらどうでしょう。ダメです。
この話よくこのボットキャストにもしてますよね。発砲塞がりってやつです。
その人こそが発砲が塞がってるのに発砲塞がりというものがそんなに簡単に解けるわけねえだろって言われてるわけですよ私は。
お前そして私はどうなるか発砲塞がるわけですよ。これが発砲塞がりだよっていうことですよ。
発砲塞がらないと思って生きてるでしょ。それは自己愛だからねっていうことですよ。
そういう生き方してられると思ってるかもしれないけどそうじゃないんだからと。
あんただって発砲塞がりになったらほら手も足も出ないじゃないですかと。何を言ったって無駄なんですよ。
昔で言えばこれと同じことは何の商売やってても起きますよね。
真剣にやろうとすれば。だって私まさに連載で発砲塞がったじゃないですか。
これ以上出すもの何もないのになんかこうお腹の中から臓物取り出すぐらいな勢いで出そうとしても何にも出てこないっていう。
発砲塞がってるじゃないですか。どんな仕事でもこうなるはずなんですよ。
偽りの事故は偽りしか出していかないんで。いやいや大丈夫ですタスクシュートでいけますみたいな偽りを述べるわけ。
タスクシュートがいけないって話じゃないですよ。発砲塞がってる人にとってタスクシュートは役に立たない。
なぜなら発砲塞がってるんで。それと同じ立場に立つとはどういうことなのか。
なんか言うじゃないですかカウンセラーを共感しろとか傾聴しろとか。お前話聞いてないだろってことですよ。
これ大橋哲夫さんだろうとJマスタキさんだろうと同じことが起きるわけです。
なんとか言うと思うんですよ。何かしら絶対にナイスアイデア。
必ず簡単に否定されるわけですよ。
どんなに大橋さんが一生懸命いろんなダジャレとか思いついていろんなことをおっしゃっても全部否定されてしまうわけですよ。
調子を合わせているのでない限りここ非常に大事ですが。
調子を合わせているのでない限りつまり相手の人が本気であれば多分否定すると思うんですね。
こうして否定というものをされるのがどんな気持ちになるかというのを伝えられる。
当然怒りも湧いてきますよね。人がこんなにさあ一生懸命考えてるのに何なのそのなんか1秒も経たずに拒否するの何なのっていう感じがするじゃないですか。
これがその人がされていること。その人が抱えている怒りなんですよ。
そして無気力になっている。だんだん無気力になっていく。無気力にならないんだったら僕は本気じゃないってことですよね。
本当の私は無気力にさせられなければいけないわけですよ。
そのメンタル島とかいい気分になってたけどそんな自己愛は破壊されて徹底的に破壊されてどうしようもないですね。
どうしようもないんですよ。そんなもんなんですよっていうことなんですよね。
こういう現実感を一度でも持たなかったらそのどうしようもなさっていうものがわかんないわけですね。
だからそういうふうにひどい人にひどい上司にひどい親にひどい同僚ひどい友達かもしれない。
仕事仲間編集さん私だったらあるいは協助者かもしれないにひどいことを言われひどいよ。
問題は世の中というのはこんなに自分がねタスクシュートとかオムニフォーカスとか一生懸命考えてるのにあっさり原価に否定するんだもんねと。
そういう気持ちに一旦なるわけですよね。ここから現実原則というものが立ち現れてくるわけですね。
行動と価値
たまたまですけど2024年のタスクシュート総決算でJ松崎さんが私はあれは素晴らしかったと思うんですが。
彼がドイツの家から誰にも実際にリアルに彼と直接近くした人がいない中であの話をされてたのはありがたかったなと思っておりましてありがたい話だなと思いましてね。
今日はその話につなげたかったんですけども。
彼が言ったんですよね。
行動によって人の価値は上下しないとこれは前々からおっしゃってますし。
しょっちゅう出てくる話でもありますけれどもここをですねこれは一番言いたかったんだと思うんですね。
私がさっき言ったじゃないですか。
どんな連載出しても無駄だとPVは伸びないし打ち切られるし何を言っても無駄だとどんな提案をしてもダメだとだんだん無気力になって怒りが湧いていく。
世の中ってそういうどうしようもないもんだよなと。
自分の親がこうなんだもんねみたいなそういう感じ。
でもでもJが言うわけですよ。
人は行動によってその価値が上下することはない。
つまりこれから例えば明日でもこんな気持ちでも会社行かなきゃならないんだよと。
いいんだよ行かなくたってってことですよ。
行ったってあなたの価値は上がりません。
代わりに行かなくてもあなたの価値は下がりません。
でもそんなこと言われたってどうしようもないじゃん何の役にも立たないじゃないですかってきっと彼も言われますよね。
つまりそういうことなんですよ。
無気力とか絶望というものはこうやって巡り巡ってるわけです。
いろんな人のところにあっちに行ったりこっちに行ったりしている。
ただこのことと同時に私たちの価値は行動によってつまり絶望しようと希望に満ち溢れていようと本人にはそうは思えませんが。
結局のところ存在の価値だものは行動によって上がったり下がったりはしない。
ここに行き着くしかないんですよ。
何のアドバイスもできませんね。
メンタル島とか言っておきながら。
でも私の価値は下がらないんですよそれによっては。
他の人の評価は下がると思うんですよ。
あいつ言う割に何も言えてないじゃん。
ダメじゃん。
佐々木かなりダメじゃんっていうことになるかもしれないけどそれによって私の価値は別に下がらないんですよ。
このことを私はJ3流に言うと片時も忘れてはいけないってことですよ。
これはですね。
さらっと聞き流されてるんですよみんな。
いい言葉だなぁと思って聞いてるんだけれどもさらっと聞き流している。
だから私たちはこれが信じられずやはり会社に行かなければ私の価値は下がるって思って。
無理やりでも欲望的でも絶望的でも何が何でも会社に行かなきゃ。
何なら私の話を聞かなきゃ。
そんな風に思ってる方いらっしゃらないと思うんだけど。
カウンセリングってそういう厳しさがあるんですよ。
絶対来いよみたいなのあるじゃないですか。
私この話しょっちゅうしてますよね。
例えばオフナのカウンセリングでも必ずしも精神分析そのものでなくたって週に1回月曜日14時に絶対来いと。
聞いていることの重要性
死んでも来いと。
キャンセルしたってキャンセル料なんて取るからねみたいな感じで絶対来いってことになってるわけですよ。
ここで問われるわけ。
現実原則としては。
行く方がいいってことになってるわけじゃないですか。
しかしカウンセリングってまさにそういうもんなんだけど。
行こうと行く前と私の価値は変わらないってことを私は知るためにやってるんですよ。
究極的には。
こういう偏商法的って言ったりするんですけど。
逆説的な状態を乗り越えていかなきゃなんないわけですね。
私が行けないなら行けないのが正しい。
ただし金は取られる。
行くなら行くのが正しい。
結局金は取られる。
話すだけ。
それが何になるんだっていう時もあるわけですよ。
でも行く。
何にもならなくたって別にいいって思える必要があるわけです。
多くの人はJさんのああいうありがたいお話を聞いてるようで聞いていないわけですよ。
非常にここは大事なんだと僕は思うんですね。
非常に極端なことを言えばですよ。
非常に極端なことを言えば行動によって価値が上下しないなんてありえないじゃないですか。
例えばですよ。
例えば奇襲のドンファンって方がなぜかお亡くなりになりました。
ああいうこれを誰がやったんですよ。
誰かがやったんでしょう。
そういうことをやったとしても価値は一切触らないんですよ。
Jさんは結局のところ。
例外を認めてないですからね。
彼はこういう条件ではとか犯罪でない限りとか言ってないんですから。
こういうのを言うのは実は僕は勇気が相当いることだろうなって思うんですよね。
代わりにそれこそマザーテレサみたいに人類にとっていいことばっかりしていて。
本当にそういう人であってもそれによって価値は上がらないって言ってるんですよ。
すごい極端な話じゃないですか。
私はこれはみんな私も含めてそうですが聞いてるようで無視してると思ってるんですよ。
こういう聞いてるようで無視している。
みんなが聞いてるようでみんなで無視しているっていうこの情景がすごく大事だなっていうふうに思うんです。
あの私は家が寺だったもんでこの種の光景をよくよく知ってるんですよ。
父親ねうちの親父がいい話しかしやしないんですよ。だって坊主だから。
いい話をする。そしてみんなしーんとして聞いている。
私なんかちょっと笑っちゃうんですけど親父の話だからね結局はね。
で泣いてる人もいっぱいいる。
でもこれらの人は父が言ったようには決して行動しないってことが子供心にもよくわかってるんですよ。
でもそれは当然なんですよ。できもしないこと喋ってるし。
でもみんなこうしなきゃいけないんだこうするのがいいんだ。
それにそんなに難しそうなことは言ってないように聞こえるんですよ。
みんなに親切にしましょうとかね。これを上手く言うわけだけれども。
でも結局みんなに親切にしましょう。
そうだよなみんなに親切にするのが当然だよな人としてって思ってるんだけど結構そうではない。
結構そんなことはしない。そんなもんなんですよ。
横断歩道でお子さん抱いて渡ろうとしているのを平気で無視して車でビューンって行ってしまう。
こんなことすら我々はちゃんとはやらないんですよね。
昔の昭和なんかひどいもんでしたよ。
横断歩道で待ってる奴はバカだろうみたいな勢いで。
あの埼玉県もそうでしたけどね。車バンバンでしたよね。
今だとそれ結構いろいろ言われるし、捕まったりする。
昔絶対そんなことは捕まらなかったんだよ。はっきり言って。
だからバンバンでしたよね。
そんなことすらしないけれども、本当に困ってる人がいたら
キリスト教じゃないんだよ。うちはそういうことは言わなかったけど
善財さんあげましょうみたいな話聞いてうるうるしちゃうわけですよ。
この2つは矛盾しないと僕は思うんですよ。
けれどもはっきり言って聞いちゃいないんですよね。
だってそうじゃないですか。
私、閻魔様が祀られている寺院という不思議なものに
非常に面白いなと思って、めちゃくちゃ面白くて
うちの奥さんも面白がって2度ほど言ってるんだけど
うちの奥さん面白がって言ってるのか知りませんけど
鎌倉のお寺巡り好きなんでね。
閻王寺とか言ったかな。いますよ。
あの閻魔様がね。閻魔様すごいじゃないですか。
罪と罰の概念
人を地獄に落としてめちゃくちゃサディスティックなことするじゃないですか。
しかも彼はそういうことをした罰として
自分があらゆる地獄の責めを受けるってことになってるんですよ。
まさにエディプスの世界ですよね。
罪と罰、罪と罰、罪と罰ですよ。
でそれ、仏閣にあるんですよ。
仏閣にあるって面白いと思いません?
ブッダはこの世にあるものは全て存在しませんって言ってるんですよ。
存在しないということは閻魔大王がいるはずがないじゃないですか。あんなもん。
いないんですよ。
でもあれはヒンズー教から僕は来てると思うんですよね。
ヤマーっていう神様なんだから。
もともと宗教ってすごくエディプス的なんですよ。
悪いことしちゃダメだと。
なぜそんなものが必要だったかというとギャートルズやってたからですよ。
みんな平気で悪いことしまくってたから、たぶん。
だってしますよね。別に人殺しちゃいけないとかそういうことはないわけだからギャートルズには。
要するにチンパンジーの世界ですからね。
別に気に食わなかったらボコボコにする、噛みちぎるみたいなこと平気でやるわけじゃないですか。
ダメだみたいなものを作ったわけですよね。
で、私たちってそういうふうに考えちゃうんじゃないですか。
編集さんが酷いやつだとか暴言を吐いたとかを、親は毒親だとかいうことになると、
この親だけは許してはならんみたいになるじゃないですか。
でもなんかスヤスヤとなくなっちゃうかもしれないじゃないですか。
はっきり言って。
先日ヒットラーのための虐殺会議っていう映画を、映画がさほど好きではない私としては思わず見入ってしまったんですけど、
あの中に出てくるハインドリヒキ、すぐ忘れる。
とにかくそういう温度取りをしたすごい恐ろしい人がいるわけですよ。
彼はテロで撃たれちゃうんですけど、結構酷走とかされてナチズムが崩壊するまで生きていたわけじゃないんで、
ヒットラーはちゃんと稽古しないからだって怒ったみたいなんだけど、
亡くなっちゃったんでね。
非常に優秀な人なんですよ。
亡くなってヒットラーが怒るぐらいだから。
で、そういうふうにみんなに惜しまれて、結構盛大に葬式されてお亡くなりになったと。
みんな納得しないじゃないですか。
そういうのって。
ああいう奴は地獄に落ちて当然だ。
つまり、死んだ後も裁判所があるように僕らは考えたがるじゃないですか。
これは人間の自己愛そのものだと思うんですけれども、そういうふうに考えますよね。
いいことをしたら天国に行き、悪いことをしたら地獄に行くんだと。
先日もね、非常に面白いなとこれも思ったんですけど、
先日もうちの二宮駅ですけど駅前のカラスがすごいひどいんですよ。
カラスが嵐に荒らしていて、何とかネットかけようとしてるんだけど、
そこを適当にネットの外に平気でゴミを置く困った人がいるらしいんですよ。
うちの区域ではないんだけどね。
当然カラス荒らしまくりですわね。
張り紙が貼ってあったんですよ。
なんて書いてあったか。
閻魔様を見ているぞっていう張り紙ですよ。
これがまさに人間というものなんだなって僕は思うんですよね。
やっぱりね。
悪いことをしたらろくでもない奴には罰が下れと。
罰下るまでは絶対ダメだ。
許してはならない。
その思いって、閻魔様って書くぐらいだからかなり年配の方だと思うし、
まあわかんないですけどね。
そういう地域だなここはやっぱりな。
ちょっとな。
お年寄り多いんです。
でもそういうもんなんだと思うんですよね。
私はね。
罰さなきゃ。
こいつが許されてなんか心安らかに天国とか行くのは絶対耐えられないわみたいになってるわけですよ。
人は行動の遺憾により罰か天国か待ってる。
ここまで極端に振り切らないと我々の心は納得しない。
まさに妄想分裂ポジションなわけです。
PSポジションなわけですよ。
そうしないと私たちはDに入って抑圧してしまう。
この世は絶望的だ。
こんなにひどいやつが天国に行って私のようなこんなにいい人間が地獄にいなければならない。
ほんとひどいわ。
もうDだわみたいな感じでうつうつとしていく。
どっちか選ばなきゃならないような気がしているわけですね。
どっちも選びたくないんだったらJが言ったような話を信じるしかないわけ。
ああいう話はJだけ言ってるわけじゃないんですよ。
エンマ様を否定するためにブッダも言ったんですよ。
そんな地獄もないくれば天国もない。
それどころか現実もなければ現在もない。
何にもない。一切は空なんだから。
一切が空なのに死後に天国があったら変じゃないですか。
でもブッダは敗北してるわけ。
僕の感覚の中では。
そういう言い方は仏教的に許されないかもしれないけど、
僕は絶対エン王子が仏閣だっていうなら、
ブッダは負けたんだなって思うんですよね。
死んだ後に結局エンマ教が勝っちゃったわけですよ。
だから仏教の中にまでエンマ大王が残ったわけですよ。
一切は空だとか、死後に何とかとか、死後に勘とかとか、
ニーチェも言ってますけどね。
死んだらお前が想像しているような妄想しているようなものは一切ないから安心して死ねと。
そういうニーチェ、サラトゥストラですけどそういう言い方するんですよね。
そんな風に考えてるのはあんたの頭の中にしかないんだよと。
こういうことっていろんな人が一生懸命言ってますよね。
でも敗北するんですよ、僕らは。
あってほしいと思ってるから。
悪いことした奴は罰されてほしいと信じてるから、
敗北するんですよ、この一切はないんだっていう発想は。
だってブッダが勝てないのにジェイに勝てるかっていうとそれは難しいじゃないですか。
ブッダですからね。
ブッダだって結局死んだ後にエンマは復活してきてしまって、
一切は存在するんだ。
金棒で舌を叩かれたりするんだぞ。
だから悪いことしちゃダメなんだっていう宗教に結局敗退してるわけですよ。
いくら言っても無駄で、
価値の本質
そういうものをこしらえてしまった人間の父親というものが子供に罰を与える。
こういう裁判官がいる、審判がいる、ルールがある。
一切はなくて、行動によって価値が上がったり下がったりしませんよとドイツから一生懸命言って、
我々はみんなそれを、なるほどその通りだよなという顔をしておきながら頭から無視しているわけですよ。
なぜならば、信じたくないから、そんな話を。
そんなことを信じていたら社会はどうなるんだろうとか、そういうふうにすぐ反論してしまうから。
そうして私たちは何かを信じたい。
つまり罰され、悪いことをした人は罰され、
いいことをした人には相応のいいことがあるという世界観を信じていたい。
報いがあるっていうわけじゃないですか。
報いっていうのは良いも悪いにも使いますよね。因果律として。
報いがあるわけですよ。
悪いことをすると地獄に落ちるという報いがあり、
いいことをすれば天国に行けるという報いがあるわけ。
報いがあるから頑張れると僕らは思っているから、
ああいう発想を受け入れることができないんですよ。
何をしても変わらないんだという、本質はね、一切変わらないんだっていうのを信じないわけですよ。
だから家から出られなくなってしまうってことが起きるわけです。
いいんですよ。家から出ても家にいても何にも変化しないです。
価値としては。収入とか変わりますよ。収入とか変わる。人の評価も変わる。
でもその人の本質的な価値は変わらない。
このことは別にJが言った、やけが言ってるわけじゃない。
さっきも言ったようにプッタが言ったのは間違いなくこういうことだし、
彼が多分よく参考にされたエッグハルト・トールって人も間違いなくこういうことを言ってると思う。
僕だったらクラズノ・ケイゾーさんがこのことを強く強く繰り返し繰り返し、
本当にもう生まず絶えまずおっしゃってる。
でも僕らはそれを聞いてるようで聞いてないんですよ。
心の底にはインストールしないようにどこかでシャットアウトしてる。
だからこれらのことは耳から入ってきても響いてない。
行動の指針にはなってないから行動としては変わらないっていうか、
やっぱり人からよく思われて死後天国に行けそうな行動を取ろうとしてしまう。
その人なりのですね。
なぜこの話をし、なぜここを手放さなければって話をしてるか。
私自身が何の役にも立たなくて絶望的になった時、これを思い出すしかなくなるから。
メンタルシマでね、ひどいことを言われたんです。
明日会社に行かなきゃなんないんです。
そのひどい奴が会社にいるんです。どうしたらいいんでしょう。
答えられない。どうしようもない。
私、無価値だわと。
すいません、メンタルシマ閉めますみたいになりそうになった時、
Jが言ってくれるわけですよ。
佐々木さん、行動によってあなたの価値は下がりも上がりもしません。
そっか、ということですよ。
メンタルシマをやっていて詐欺みたいな感じになっていたとしても私の価値は下がらない。
代わりにここで素晴らしいことが言えて、
佐々木さん、やっぱり素晴らしいわ。
明日会社に行く機会ができました。ありがとうございます。
本当、あなた神様みたいな人ですって言われても、
僕の価値は1ミリも上がらないってJは言ってるわけですよ。
この感覚を僕が持つことができないとこの仕事はできないわけです。
この仕事って結局僕らはそういう意味では、
つまりすぐにまともな、
真っ当でパチッとした閃いたアイデアを返せるような存在ではないかもしれないが、
そんなことは少しも大事なことではないってことです。
今日何々をしなければいけないとか、
明日何々をしなければいけない、
そういう時に私たちはすぐライフアップが欲しくなるんですよ。
ナイスアイデアが欲しくなるんですよ。
しかしそういったものは本質的には何の意味もない。
いったことを信じられるようにならないと、
私たちは何々ができずに苦しむっていうその苦しみ、
どっちかを結局選ぶ日がやってくるってことです。
この私は本当に無力で、究極的にはヘルプレスネスで、
緩めない存在だということを受け入れて、
しかしこれを受け入れても何ら困ることは本当はないし、
絶望することも何にもないんだっていうことも同時に受け入れるか、
これは拒否してやっぱり真っ当だと言われるようなことを、
きちんとできる人間として生きていかなければならないという思いを持っておくか。
持っておけばですね、おそらく現状には絶望しなければならない。
どっちかを受け入れるしかないわけですね。
ちゃんとした人間ではないという絶望を引き受けるか、
それともちゃんとしてようとちゃんとしないと全く変わらないという、
ある種の非常にこう残念な世界観を、Jが言う残念な世界観を取ることによって、
私自身の絶望というもの、
価値が一見社会的にも全くないかもしれないが、
本質的には価値があるとかないとか言ったこととは関係ないので、
私が苦しむ理由はないと、
ずっとこのまま引きこもっていても、
私は苦しむ理由はないという世界観を手に入れるか、
最終的にはどこかでどちらかを選択しなければならない。
行動と価値の関係
もちろんこれ、突きつけられてないときはいいんですよ、別に。
こんなものを選択しなくても。
ちゃんとした人間として今日も会社に行きます。
私、ちゃんとしてるから。
ちゃんとしていない人とは違うんだっていうこれでやってってもいいんですよ。
やっていけてる間はですね。
無理になったら、
ああいうお釈迦様的な世界観というものが救いになりますよという話ですよ。
私は実際に東映同一化で、
私自身が昔だな、サンチャレとか畳むしかないなみたいになったときには、
必ずこいつを思い出すようにしてますね。
行動によって私の価値は1ミリも上がらないし、1ミリも下がりもしないと。
それによって参加者さんの人は、
こいつの話無駄だわと思ってあっさりいなくなってしまうかもしれない。
そういう人は多分いらっしゃったと思います。
今までだってね。
でもそれによって私の価値が下がらないというふうに、
やっぱりそういう時こそむしろ信じておく必要があるわけですよ。
そしてそうであるならば、
四六時中これを信じておいた方がやっぱり私にとってはベターだなと。
そうしないと私は非常に付き添いの敵になってしまっていたと。
そういう話なわけです。
48:26

コメント

スクロール