甘えという言葉の意味
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
7月27日木曜日の朝の9時56分ですね。
やっぱりこう夏休みが始まりますと、なんていうんですかね、規則的になってきますね。
29日に初回のレクチャーをする3ヶ月チャレンジの第3期ですね。
もう間もなくというか2日後に初回レクチャーなんで、残り2ワークとさせていただくので、よろしければチェックしてみてください。
あと7月30日に東京オーラ100研究会をあっちょおごりでやります。
これはリアルでしかいいんです。
違うな、リアルとオンラインと両方申し込みいただけるのを確認しましたけど、
リアルで来ていただける方はリアルで来ていただくと、僕としてはありがたいかなと思っております。
朝の10時か。10時って多いな、考えてみると。
もう会場にいて、しかも開始しなきゃいけないってことですもんね。
早いですね。別に早いからなんだってことも前にないんですけれども。
こんな感じでよろしくお願いします。
とりあえずそんな感じで、
今日はですね、よくこんなに毎回毎回話すネタがあるなと。
よっぽど重複もしてると思うんですけどね。
今日は最近noteの記事の方でも何回か出している、あれなんだっけ。
私だけ年をとっているみたいな、ヤングキャラの話なんですけれども、
これが大変勉強になるわけですね、結局ね。
勉強になるので、勉強になるから漫画を読むって発想は子供の頃はしたことがあんまりなかったんで、
なってたんだけど勉強には。
あれですよね、割と超有名なところで、
日本の歴史って漫画で石上翔太郎さんのやつ。
僕あれ繰り返し繰り返し何週もしてるんですけど、
ほとんどただただただ面白くてしてたんですけど、
今はもっとああいうのがいろいろ出ていて、今の子が羨ましいと思うんですが。
あれとか名残なのかな、自分の中では。
ヤングキャラの方のコミック。
で、お母さんが東郷市長省で。
で、お父さんも割と東郷市長省の奥様なので、
いろいろややこしいんだと思うんですよね。
だから結局全員部を娘さんに。
またああいう方が現れるんですよね。
あれ僕知らないんですけど専門的な用語があって、
カウンセリングの中では自虐的世話役とか言うんですよ。
これ対象関係的な言葉でもあって、
心の中にそういう人がいるんですよ。
早い話。
自虐的世話役はリアルにいるんだけれども、
ああいう子家庭ではリアルに登場しちゃうんですけど、
まさにヤングキャラなんですけど。
そういう風に一点に何でも引き受けている心の中の配役っていうのかな。
対象関係論なんで配役がその人の心にもいて、
自分の心の中にややこしいことが起きると、
自虐的に世話役の私っていうのが出てきてですね。
お母さんみたいなのが出てきて。
それと同一化してああいう感じでリアルにああいう風に振る舞うようになる。
これは非常に、いかにも対象関係的な、
対象関係がそのまま作品になっていて、
多分その作品のご家庭はリアルにああだったんだろうと思うので、
なんていうか心の風景というのはこういうもんかなっていうのを思いながらも読んでたんですけど、
もちろん大変だなとは思って読んでたんですけどね。
でも異役的に世話役ってほら、そういう言葉が出るぐらいだからやっぱりあるじゃないですか。
部活やってても、なぜかそういう役回りになっちゃってるというか、勝手に出てるというかね。
一定の規模の会社なら必ずいるんですよ。
好きでやってるわけじゃないっていう風にも必ず本人おっしゃるんだけど、
でもなんとなくそれが自分の役になっていくと。
それが耐えられなくなって、そんな生き方嫌だっていう風にカウンセリングにかかるといったケースも当然あるんですけどね。
でもその人は多くのカウンセリングのサンプルとか本とか読んでいくと、
その自役的世話役の人は確かにそういう風に人に相談するうちにそういう役割を脱却していくんだけど、
でも最後までどこか自役的世話役をやって生きていくんですよね。
これがまた面白いんですよ。非常に。
この辺がつまり本人が意識できないレベルで、周りの人もよく注意してないとその人が自役的な世話役をやってるというのは見えなくなっていくんだけど、
でもやっているんですよね。その辺が残るっていうのかな。
そういうのが一つの個性なんだろうなと。
グッドファイブスっていう個性と役割の、まさに個性と役割なんだろうなと思うんですよ。
最近これも非常に面白い現象なんだけど、
グッドファイブスとか精神分析って好きでそうなってるってわけじゃないんだけど、
僕がここの2つに両方に今もずっとここ数年着目していて、
かつこの両方をすごく偏愛しているようなこの番組もそういう成り立ちですけれども、
なのは時代に逆行してるんですよね、ある面。
これも好きでそうなってるわけじゃないんですよ。
時代の傾向というのかな。
一種の風潮としてこういう自虐的世話役とかをやっていちゃダメだっていうのがあるんですよ。
別に精神分析とかグッドファイブスが非常によく僕は誤解されるやすいだろうなって思うところなんだけど、
自虐的世話役推奨とか自虐的世話役をどんどんやりましょうって言ってるわけではないんですよ。
ただ個性と役割っていうのは一見損臭いところにでもあって、
それが損だから金繰り捨てればうまくいくんだっていうほど簡単にはいかないものなんですよ、やっぱり。
そういうことがカウンセリングの例ではすごくよくわかるようにできているんですよね。
どういう役割が得だからとか損だからというので、そういうのを押し付けられているようでは、
それは社会構造に問題があるんだからどんどんそういうのはやめていって自分らしくいきましょうっていうことをやっていると、
自分らしく生きるっていうことがすごくわかりにくくなっていくだろうなっていう感じがするんですよね。
そんなに簡単にやめられるのかそもそもっていう話もあるわけですよ。
やめたくてそれが首相で来ていた人がカウンセラーを受けて精神分析やってるし、
いろんな話が出てきて、いろんな話が出てきて数年経つんですよ、精神分析っていうのは。
数年経ってたくさんのお金をかけて時間もかけて、
いやもうすごくこう生きるのが楽になったと言ってやってることが実は自虐的役割、
あの自虐的な世話役みたいな役割、すごく形は変わるんですけどね。
だったりするので、ここにそのなんちゅうのかな、ちょっとオカルトめいてしまいますけれどもね、
そういう人のなんつうんですかね、本質みたいなものの、
それも無意識と肝付いているんで、なかなかそんなに簡単にいくようなものではないっていうのが現れる。
甘えの複雑な真理
これをただ、なんかこうやめましょうみたいなことをツイッターで書いてあるのを見てやめようと思って、
私もそんな損臭いことばっかりやっちゃダメだと思って1年復帰して、
1日2日でやめられるというようなものだとは僕には思えないんですよね。
そういうこともあります。
今日話したいのはそういう話じゃなくて、
喉の記事には書いたんだけれども、
この自虐的世話役とかヤングケアラーとか統合執著もそうですけれども、
ご家庭の雰囲気とか様子とかを見ていて、いろんな用語が当てられてもいくと思うし、
飛び交うこともできると思うんですね。
怪理性みたいな話も途中出てくるし、
すごく大変だから好きでやってるわけじゃそれこそないんですけどね。
自分の感情を切り離すみたいなことも主人公の女の子はやらないわけにいかないからやってるわけですけれども、
ああいうのを全部ですね、甘えという言葉で作ってみるとすごく見えやすくなるっていうことを
どいたけおさんは言いたかったんですよ。
それで本を書いてるんですね、実は。
日本は甘えの文化だみたいなことが言いたいわけではない本なんですよ、実際のところは。
あの甘えの構造の甘えという言葉の意味はですね、
なぜああいう言葉を提供してるかというと、
わからんことがわかるようになるっていう言葉のすごさみたいなものを彼は実は、
それだけじゃないけど、そのことをすごく訴えている本だと思うんです。
つまり、あの統合主張のお母様はもちろん統合主張です。
お父さんが夫が浮気をしていると勝手に信じているし、
してない、全然してないんだけど、
してないと言い切れるかわかんないにしてもですね、
会社に見に行って来いとか子供に行って見に行かせるわけだけど、
そんなことをしても浮気の現場なんか抑えられるはずがないじゃないですか。
会社ですからね、子供が行って。
で、他にはよくあるご近所さんが私の話をしているから同調期を仕掛けておいたとかね、
そういう話は典型的ではありますが、
もっとパッと言うとですね、甘えているで通るんですよ。
で、これはすごい表現なんだと思うんですよ。
甘えているでしょっていう風に言うと、
日本人を恐ればこの人甘えてるなっていうのがわかる。
一体甘えているはどういう意味だっていうのは、
多分この場合定義非常に難しいと思うんだけど、
この人甘えてるんですが、
っていうか、とても甘えたいんだけど甘えられないんですよって言われるとわかるんですよ。
これがやっぱり言葉ってものだなと思うんですよね。
この言葉は一体何のどういう現象を指しているんだろうって考え始めると、
甘えの表現と不安の具体化
うまいこと出てこないんですよ。
例えば依存しているとかでは全然違うんですよね。
依存だってあるんだけど、
このお母さんは依存したいんだけど依存できてないんですよ。
だから夫の浮気を疑うんです。
ピンとこないと。
そうではなくて、このお母さんは夫に甘えたくて仕方がないんだけどうまく甘えられない。
そこで浮気だって言って騒いでるって言うと、
なんかこうわかる感じがしてくるんですね。
ここにどいさんが言いたいことがあるなって感じが私はするんです。
つまり甘えたいのに甘えられないという、
そういう複雑な真理っていうのがあって、
これは日本人だけにあるわけじゃなくて、
ここが日本の文化論でもなんでもないって話なんですよ。
日本人だけにそういう気持ちがあるわけでは全然なくて、
ただ日本らしく出るって部分はあるんですけど、
このお母さんはだから現実見当が怪しくなっているとか言う、
こういう言葉だとわかりにくいじゃないですか。
非常にありもしない妄想を見ているって言えばまあまあわかるんだけど、
それでも決してわかりやすくないんですよね。
その人の真理まで含み込んで、
この人は甘えたいんだけど甘えられないんだよって言うと、
なぜそういう妄想がその人の心を支配し始めるのかまでが見えてくる。
この言葉の使い方はすごい独特だなと思うんですよ。
どいさんは要は、
統合室長とか医学用語とかは全部西洋から来てるから、
向こうではそれでわかりやすいんだろう。
すいません、切れてしまった。
こっちの人間にはそれじゃわからない。
日本語にも上手い言葉がいろいろあるということが言いたかったんですね。
甘えだけじゃなくて、
例えば脅迫症という代わりに気が済まないって言ってみれば、
それで通るじゃないか。
そのほうがよっぽど一発でわかるじゃんっていう話をしているわけですね。
ガスの元栓を止めたかどうかが心配だとか、
閉じまりをしておかなかったかどうかが不安だとか、
これ結局未来の不安というものを、
いろんな形で具体的な形に当てはめる形で、
本人が苦しんでいるわけですよ。
そのうちそれが、
例えば遠くの人にファンに嫌われていて、
ファンにアイドルの人がいきなり待ち伏せされているとか、
そういう事件があったりするじゃないですか。
自分らもこういう割とポッドキャスト商売とかしていると思わぬことを言って、
聞いている人に待ち伏せされたらどうしようとか、
そういう今ベッチ上げた話ですけどね。
これは脅迫的な不安ってやつなんだろうと思うんですけど、
甘えと神経症
欲物不安と言ってもいいのかなと思うんですけど、
なんであれ気が済まないというふうに、
結局のところこうなんて言うんですかね、
そうしておかないと気が済まない。
そういう言い方をしておくと、
気が済む病とか言って言えば神経症のいくつかの現象は説明ができて、
しかもそういう風に言えばみんなにすぐ分かると。
神経症っていうよりはよっぽど分かりやすいっていうことを彼は言っていて、
しかもそれは全く同じ部分を示しているわけじゃないですよね。
やっぱり日本人の使っている言葉らしく少しずれているんですよ。
気が済まないはこの辺は脅迫症のこの部分は網羅できるけど、
こっちは網羅できない。
代わりにおそらく神経症のあの部分には当てはまるみたいな。
だからこの気が済まないエリアというのと脅迫症エリアはイコールにならないんですよね。
そこもまたすごく大事なポイントだと彼は言ってたと思うんですよ。
だからネタムとかソネムとかいう風に言った方が
ヒステリーっていうよりよっぽど分かりやすいじゃんっていうような考え方なんですね。
事実上それが採用されているかどうかは結局疑わしいんだけど、
私はそういう風に考えてみるのはすごい大事だなって思うんですよ。
方々失調って言っても分かりにくい部分があるとすると、
分かりにくいですよ絶対。近所の人はなんで悪口を言ってるのかと。
分からないじゃないですか。
でも彼女は甘えたいんだって考えてみると、
例えばシチュー作るこれはよくあるんですよね。
逃亡失調の現象、症状なのか分からないですけど、
お母さんが急に理想のお母さんになってくれるんですよ。
日頃は意味不明なことばっかり言って寝込んでいたりするというお母さんなんだけど、
急に一年発狂したのか、朝早く起きておはようとか言って食事の支度をしていて、
別人みたいなわけですよ。全然別人ではないんですけどね。
別人みたいに急になるんですよ。
そういうシーンがありましたよね。
お母さんは急に正常になるみたいな表現だったんですけど。
紙も言ってくれてシチューも作ってくれているんだけど、
このシチューに主人公の女の子がちょっとこう、
地雷は山のようにあるんでどうにもならないんですけど、
黄色いシチューだ、いいねみたいなことを言ったら、いきなりお母さんが泣き出す。
シチューが黄色くてごめんねと。
このお母さんにしてみればシチューというのは白くなければいけなかったのかもしれませんけどね。
ダメなお母親でごめん。
これも分かりにくいですよね。
でもこれって甘えてるなって思うと分かると思うんですよ。
結局、泣いて済ませようっていう話ってちょっと甘えてるじゃないですか。
昨日たまたま大リーグの試合を見てたんですけれども、
もうこのフライですからね。
なんか僕で取れるかな、僕でも取れそうなフライを。
急して3点くらいいきなり入って、
大谷翔平のいるエンゼルスが球界の裏の2アウトまで行って同点に追いつかれたんですよ。
あそこで落とした人が泣いたら、
気持ちは分からないではないけど、なんかちょっと甘えてるじゃないですか。
泣いてことは済ませられるって感じではないし、
泣くシーンでもないですよね。
このシチュー黄色いと言われて泣いているっていうのも、
そういうニュアンスで考えると甘えで分かりやすいと思うんですよ。
この方はご病気なんでね。
被害妄想が強くなってるっていう言い方を普通今はすると思うんですけど、
甘えが、上手く甘えられない。
結局上手く甘えられる人ならもっと上手いこと言うと思うんですね。
だけど上手く甘えられないっていうのはしょうがないじゃないですか。
その人のコミュニケーション、スタイルとか、
言ってみればスキルみたいなものもあって、
そうそう上手くは甘えられない。
上手いことやればいいっていうところもあるわけですよ。
例えば舌出すとかね。舌出すとか言うのってあるじゃないですか。
こういう時の表現でちょっと失敗しちゃったみたいなことを言うと。
それで済むわけですよね。
なんでこれで済むのか。それは甘えてるんです。
これは実に面白い言葉だなって思うんですよね。
舌出して、ごめんねちょっと失敗しちゃったとかって言う。
例えばあの落球の時とか舌出してちょっと失敗しちゃった。
昔あのね、私の母が教えてくれたんだけど、
流し増しによってそういう人だったみたいなことを言うんですよね。
とんでもないところで、すごい名手だったんだと思うんですけど、
とんでもないところでエラーすると舌出す。
これは甘えなんですよ。
上手く甘えられるっていうのはこういうことを言うと思うんですね。
そうなると、変な話なんだけど、
シチュー出して泣き出すのも甘えなら、
シチュー黄色くして泣き出すのも甘えなら、
シチュー黄色くして舌出すのも甘えなんですよ。
甘えっていうのはさっきわからない言葉のようになってくるんだけど、
日本人なら多分この2つは甘えていると言えばなんとなくわかると思う。
甘えの様々な示し方
ただ後者の方が上手く甘えられている感じはしますよね。
この時、後者の人の態度を見てわかることがあるんですよ。
この人はみんなに好かれていると勝手に信じているわけですよ。
そうすると我々はその人のことが好きになりやすいんですよ。
だからその人が根拠もなく自分は好かれていると信じることができていれば、
その根拠通りにその人は好かれていると信じている通りに好かれていくんですね。
これが甘えというものの多分持っている力なんでしょうね。
これができないというのはどういうことかというと、
自分が好かれているかどうかが不安で不安で仕方がないということなんですね。
あのお母さんまさにそうですよね。
自分が好かれているということについてほぼ全く何の自信も持っていない。
だから甘えてるんですよ。
でもやっぱりね、それ好かれたいってことじゃないですか。
それはやっぱり甘えの一種なんですよ。
ただしうまくできてないっていう感じがするんですね。
そこにお父さんがやってきて誰もそんなこと言ってないだろうと非難しているわけではないんだけど、
もうこのお母さんはこれで完璧にダメですよね。
この心理状態に落ち込みやすい人は、
もうこうなってしまったら言ってるみんな私のことを非難していると言って、
泣き止めなくなってしまうわけですね。
これだったらもう甘えているで、完全におかしなところは全くないと私は思うんですね。
ところでこの場合、このお母さんがこんなに大変な症状であることを知っておきながら、
平気で誰もそんなこと言ってないだろうと言ってしまっているお父さんも他にも甘えていますよね。
この日本語の使い方ってすごいなって思うんですよ。
これ西洋的というのかわかりませんが、精神分析とかの用語でいくならば、
全く異なる言葉とか概念を一つ一つに当てていかなければならない、
つまり一つ一つ使い分けていかなければならないところなのに、
泣き出す人は甘えていて、舌出してペロッとしてごまかしている人も甘えていて、
すいません、切れますね。
それを非難している人までも甘えているって言って通る。
つまり状況によっては3通りも、しかも全然違うように見える。
それも含めて全部甘えている。
こうなってくるともはや何を示す言葉なのかもよくわからない気もするんだけど、
僕はこれでですね、この3者とも甘えているという言い方をして通ると思うんですよね。
だからこの言葉はそれらを指し示すことができる言葉なんだって気がするんですよ。
ここに着目したどいさんではすごいなっていう感じがするんですね。
甘えの機能不全と統合失調症
で、このご家庭はこの甘えがうまく機能してないですよね。
本当は甘えてこういう風に使うと、ちょっとあれなんですけどしっくりこない部分があるんだけど、
でも明らかにうまく機能してないですよね。
つまり甘えの機能不全という病理があって、
それのかなり典型的なものが統合失調という風に、
あの本では書いてあって、私はいかにもその通りだって感じを抱いたんですよ。
うまく甘えられない。
自分はつまりうまく甘えられないということは、
本当は好かれたくて好かれたくて仕方がないのに、
誰も自分のことを愛してくれないということをとことんこじらしている病だと考えればですね、
なぜ近所の人が自分の陰口を叩いていることになってしまうのかも、
腑に落ちるというか了解可能な感じがものすごくしてくる。
要は近所の人の態度というものは自分の期待から遠く離れてしまっているわけですね。
たぶん近所の人はたとえばたまたま挨拶を返してくれないときがあったり、
たまたま自分に気づいてもくれてないときがあっただけなんですよ。
でもそういうことは絶対起こりますよね。
すべての近所の人が自分に常によく気づいてくれて、
常に自分が望む通りの笑顔で挨拶してくれるっていう世界の方がたぶんありえないから、
そうじゃないことは起こりますよね。
でもその人は極めて強い甘えを抱えていながら、
その甘えが満たされているという経験がほとんどないために、
それはたぶんお母様のご両親にそういうところがあったんでしょう。
だからそういう経験がほとんどないために、どうしてもそこに疑心暗鬼になりやすい。
つまり甘えが強く満たされていない人は疑心暗鬼になりやすいんですよ。
これもこう言えばですね、大概の日本人には非常にすんなり受け入れられるんですよね。
甘えが強くて、しかもそれがいつも不満のままな状態に留められている人は、
疑心暗鬼が強くなりますよって言ったらパッとわかるじゃないですか。
これが統合失調症の人には迫害妄想がありますっていうより、よっぽどわかりやすいんですよ。
でも言ってることはほとんど変わらないと僕は思うんですよ。
で、ああなってくると、そのお母さんというのはやっぱりですね、苦しいわけじゃないですか。
夫の浮気は常に疑いますよね。多分誰と結婚しても絶対そうなると思うんですよ。
それも同じですよね。自分の母親というものが、自分の夫というものがですね、
常に満面の笑みで、常に最高の愛を自分に与え続けてくれるということはほぼないので、
僕はそういう結婚を一例たりとも知らない気がするので、無理なわけですよね。
だから結果としては常に浮気を疑うということになるわけです。
でもこれ果たして病気なんだろうかって気がするんですよね。
ポルストイがアンナカレニアっていう代表作、有名な作品がありますけど、
あのアンナはずっとその状態になっちゃうんですよ。
あんまり望みもしないのに、愛人にものすごく強く迫られて、結局不倫しちゃうんだけれども、
その愛人はもう明らかに誰が考えてもそうなるだろうって感じなんだけど、
アンナが望む通りの行動はしてくれないわけですよね。
だいたい男ってのはそういうもんですよね。
その辺ポルストイは描くのが天才的なんで、ここが天才なのかこの人はと思うぐらい天才的なので、
ものすごくアンナが大好きになってめちゃくちゃ迫っていくのに、
実際にくっついてから海外に行っちゃうんだけれども、
海外で生活すると明らかにその生活が退屈になってしまうんですよ。
アホですよね。よくあることだと思うんですけど。
ただ非常に簡単に飽きたみたいなことは描かないし、簡単に飽きたみたいな態度は出さないんだけど、
もう一つ一つの言動がアンナにとっては気に食わないわけですよ。
もうあれほど迫ってきたからしょうがなく不倫したのに、なんだそれはってことになっていくわけですよ。
そして結局ブロンスキーが不倫してるんじゃないかというか浮気してるんじゃないかというふうにアンナは疑心暗鬼になっていく。
全然不思議ない展開ですが、これはアンナ、アンナカレーニナですね。
甘えと迫害妄想の関係
アンナは甘えているというふうに日本人が言えば、日本人には了解できる。
非常に強い甘えが満たされていないというふうに考えれば一発だと思うんですよね。
これが統合失調症っていうようなもんだろうかっていうと、それに限りなく近いし、
アンナはほとんど妄想の中でネタバレになるな、でもまあいいですよね。
妄想の中で死んじゃうんですけれども、そういうことってそこら中に、
アンナレベルではないかもしれないけど、あると思うんですね。
だからこの話もそうですし、どんな場合でもそうなんだけれども、
一発、一点ここを疑っておく。
つまりこの種の人というのは、あるいはご家庭で起きていることは、
本来満たされて当然である甘えが何らかの形で阻害されちゃってるんじゃないかと。
邪魔って言葉がセットでドイさんはすごく出してくるんだけど、邪魔されてるって言うんですよね。
邪魔されてるっていうのは邪魔されてる側にしか見えない現象なんですよ。
子供でしょうがないガキンチョはこれ邪魔してやるぜみたいなことを思う。
まあでもそういうことを思うか、会社の人とかも思うかもしれないけど、
邪魔をするっていうのは全く意味のない行為ですよね。
いわば主体性と目的性を変えたい行為ですよね。
邪魔をするというのは誰かがどこかに行きたいのを、
わざわざ当選をする場合においてだけ成立するんですよ。
誰かが何かをしたいというのがなければ、その人は邪魔をするってことはできないんですよね。
だから邪魔をするっていうのは、つまり甘えの行為なんですね。
甘えというもののちょうど裏側なんですよ。
邪魔をするっていう、あるいは邪魔をされるって方がよっぽどいいんですけど、
邪魔をされるってのはまさに甘えている証拠なんですよね。
自分が満たしたいと思っている気持ちを満たされないという、
甘えさせてもらうっていうのは結局、つまり甘えを満たすっていうのは、
結局相手次第なんですね。
そうですよね。甘えを満たすというのは、
甘えには愛が必要
自己完結は絶対しない話なんですよ。
ここに甘えというのの対照関係があるというふうに、
たぶん、そうは書いてないけど土井さんは、そういうことが言いたかったんだと思うんですよね。
甘えずに人は生きられないって彼が言ったとき、
人は一人では生きられないっていうのと全く変わらないことを言っているわけです。
甘えは相手次第ですから。
だからこそ、その甘えが満たせるかどうかで、
疑心暗鬼になる人っていうのが出てくるわけです。
どれほど自分の望みを叶えてくれたとしても、
甘えさせてくれない人っているわけですよ。
これはたぶん統合主張とはまた別の事態を引き、
でも非常に分裂症気味になるんじゃないかなと思うんですよね。
お金はくれる、教育は受けさせてくれる、
ご飯も出してくれる、電話もしてくれる。
甘えさせてはくれない。
これ日本人にしか分かんないんじゃないかと思うんですよね。
こういう言葉の使い方ができるっていうことは、
難しいと思うんですよ、すごく。
これを英語に直すことはできないって。
そうそう、あのイギリス人の人が、
これはドイさんのカウンセリング受けてたのかな。
ドイさんは英語ができるんですよ。
だから英語でカウンセリングしてたんだけど、
急にその人が、そういえばうちの子はあまり甘えませんでした。
いきなり日本語で。
その人たぶん夫が日本人なんですね。
あの時代じゃ珍しいと思うんですけど。
これはなんで日本語で言ったんですかっていうふうに
ドイさんが聞いたら、
あれは英語には直せません。
言ったという話、エピソードがあるんですよ。
これは私非常に興味深いなと。
今に至っても思うんですけれども、
あまり甘えませんでしたというのは、
確かに英語にしにくいんですよね。
なんか前に辞書を引いた時、
スポイルと書いてあって全然違うって思ったんですよ。
スポイルはないですよね。
スポイルって甘え化してダメにすることって意味なんだけど、
それと甘えはまるで無関係ではないけど、
あと依存みたいな表現を取ることも非常に多く出てくるんだけど、
依存とは違うと僕はやっぱり思うんですよね。
野球でエラーして舌を出すと、
スターがね、スター選手の舌を出すと、
これのどこに依存があるのか。
人の行為を宛にしてるのは確かですよ。
でもこれは依存っていうのとやっぱり、
依存じゃニュアンスが全然伝わらないなって思うんですよね。
ここはやっぱり愛が関係してるんですよ、深く。
愛されていると思っている人は、つまり甘えられているんですよ。
その時に出てくる適切な行為というものが、
うまい甘え方なんですよ。
でもそれは愛されているという前提があっての話なんですよ。
これと全く同じことをしても、
全然受け入れられないというかわいそうな方もいらっしゃるわけですよね。
でもこの2つにどういう違いがあるのかといったら、
前提として愛されているかどうかであって、
愛されているかどうかっていうのは証明のしようがないことだから、
自分が愛されていると思えるかどうかに
全てかかってくるわけじゃないですか。
無意識も含めてですよね。