3ヶ月チャレンジの説明
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
おはようと言っておきながら、今日は7月25日火曜日の今20時5分、つまり夜の8時ですね。
さっき起きたというわけでは全然なくて、ここ1日2日ちょっと旅行に行っておりまして、
どこかで撮れるかなと思ったんだけど、結局撮れなかったんです。
今のこの時間になったと、そして昨日1日お休みいただいた感じに形になりました。
この間ですね、TwitterがXになるとかいう話があって、ちょっとびっくりしたんですけど、
僕の中でのニュースはそれぐらいなもので、ここに何かあったかな。
なんかXって出てますね。ただまだiPhoneの方では青い鳥さんが出てますけどね。
これが喋っているのが、1年後一体どうなっているのかという、なんか不思議な感じもしますけれども。
まあまあ、それはとりあえず置いとくとして、7月29日にですね、
3ヶ月チャレンジの第3期のレクチャー会をやります。
つまり29日までにお申し込みいただければ、このレクチャー会をスタートして、
8月、9月、10月の3ヶ月のコースということになります。
これの中身はですね、週1回の私とのワンオンセッション、1時間ぐらいですね。
これは毎週毎週、ご希望があればですね、やります。
あと、各週ぐらいでグループセッションに相当するもの。
まあこれは任意参加にしていただいているんですけれども、
みんなで一応オンライン上で集まって、進捗報告とかをするわけでは決してないんですけれども、
現在どういう感じなのかといったような話を中心に、
だいたいですね、テーマはそこでまとまってくるので、そこで話が始まると。
これが結構ですね、やってみると好評なんですが、
今や説明しようとすると、すごく説明が難しいなということがわかります。
話は主に真相心理的な話で、極端なっていうかな、
普通に東洋ドイツ語ってこういう話なの?みたいな話がですね、飛び交っている。
それを目指しているわけではないんだけど、そういうことが現実に起きているといった感じですね。
なんて言えばいいんですかね。
精神分析、聞きかじり研究会みたいに現在はなっている。
これは僕の性格を反映してのことだけど、それをやろうとしているというわけではなくて、
自然とそういう流れになっているという感じなんですよ。
皆さんとワンオンセッションして、その皆さんで一回グループセッションすると、
こういうふうになっていくんだなっていう流れが起こるんですよね。
それをやっていただくと。
これが一番この3ヶ月チャレンジで実は効果を発揮していると思うんですよね。
だからもちろん専門のところに行っていただくのもいいと思うし、
全くそういうのではないところで頑張るっていうのも全部ありだと思うんですけど、
こういうのも一つ検討いただいても面白いんじゃないかと。
なんか行き詰まっているようなことがあったらですね。
だからずっとやりたかったことをやるためのっていうのを3ヶ月のテーマにしてみたわけですね。
これは裏テーマというわけではないんだけど、
これを裏返すとずっと解決しなかったことを、
なんとか解決の糸口を見出す3ヶ月チャレンジとかでもいいと思うんですよ。
あんまり逆張りするとネガティブに聞こえるので、
こういうふうに書いてみたんですけれども、
どっちも同じことを意味するかなというふうに私今は思っています。
はい、それなので7月29日に最初回のレクチャーでどういう話を、
どういうふうに進めていくかのご説明をすると。
それまでにお申し込みいただければ、
この3ヶ月チャレンジにご参加いただけるという内容になっています。
あと2名ぐらい最大でいけるかなと。
1名は確実にいけると思っておりますので、
よろしければですね、ご参加いただくと。
満席というものになったことはないんですよ。
いったい何人が思って満席とするべきかを、
僕も測りかねているんですけど、
1週間に1回だから1回休むとして、
6名が満席と1つしてもいいかなというふうには思っています。
これですね、6名できちっと埋まって、
ここがいっぱいだなと思ったら、
いわゆる60分対話というものを、
その月3ヶ月ぐらいお休みにしてもいいかなというふうに思っているので、
満席を超えても一応いけると思ったんですね。
多分満席を超えて2倍になるとかは現在はありえそうにないので、
まあまあそのぐらいでいけば、
僕は十分対応できるというふうに思っておりますので、
よろしければぜひご検討ください。
東京来伯研究会の開催
そしてその次の日ですね、
7月30日に私50歳になるんですが、
東京来伯研究会を何年かぶりで開催する、
1年ぶりぐらいかなと思うところで、
北信也さん主催で、
私がサポートに回るという感じでゲスト講師として参加します。
八丁堀ですね。
こちらで午前中なんですよね。
10時から12時半というぐらいかな。
もうちょっと違うのかな。
とにかく八丁堀でこれをやりますので、
僕なるべくメンタルよりでタスク管理の話を、
メンタルよりにさせてもらいたいなと思っているんですけれども、
よろしければ。
こちらは割とちょこちょこ集まってきてですね、
うまくいけば15人から20人ぐらいまで達するのではないか。
本当オフラインのみというね。
今時、しかも東京来伯研究会なんだから、
Zoomでやろうと思えばやれるじゃないかって話もある。
あれオンライン参加も可能だったのかな。
どういうふうになるかちょっとわからないんだけど、
北信也さんはオフラインでやりたいんだと思うんですよ。
僕もやっぱりせっかくリアルでやるんで、
できれば会場でお目にかかりたいなと思っておりますので、
これは懐かしさを含めてですね、
ご参加いただくとこちらも大変ありがたいです。
久しぶりに話すとむしろ話しにくくなるのが、
このグッドモーニングボイスの不思議なところ、
ポッドキャストの不思議なところかな。
不登校のカウンセリングについて
今日はですね、
先日ずっと私が、
各月ぐらいでやってるのかな、
遠畑海斗先生の講義を受けて、
あれはもう精神分析の勉強会なんですよね。
勉強会というか授業ですよね、はっきり言って。
もともと大学の講師の方なんだから授業なんですが、
授業だと思って僕は聞いているんだけれども、
だからあれも動画でも主張できるんですけど、
できるだけ生で聞こうと思っているんですよ。
オンラインのみなんですけど、
やっぱりなんていうのかな、これは難しいですね。
ビデオを見るのと講義をオンラインで見るの、
どう違うのかと言われるとどうも違うんですが、
生で見たいというふうにずっと思っています。
質問できるってこともあるんですけれども、
なんといっても参加人数がすっごく多いんで、
売れっ子はそういう意味では羨ましいんですけど、
とにかく参加人数が多いので、
質問もポンポンしてもあれかなっていうのと、
しても答えてもらえないかなみたいなのが、
いろいろ余計なことをかんぐってしまって、
黙ってずっと聞いていているんですよ。
毎回いろいろ面白い、小話も面白いし、
面白いんですけれども、
その中でですね、やっぱり私が、
私自身はそういうご相談を受けることはほとんどないんですけど、
時々あって、しかもやっぱり専門の人は絶対受けているような、
この話っていうのが不登校の話なんですね。
不登校の話が出るとやっぱり、
ああっていうか反応してしまうんですけれども、
別に僕が不登校で困っているというわけではないし、
私が不登校の相談を受けて困っているっていうほどのことでもないんですけど、
そういうことはそんなにないんだけど、
不登校っていうのはある意味、
会社に行けないっていうのがその延長線上にあるように、
カウンセリングの一つの、
どう言えばいいのかな、
修行なテーマの一つだなと思うんですよ。
仕事できないとか勉強する気がしないっていうのが、
その手前の段階に来ると思うんですけど、
学校に行かない会社に行かれなくなったっていうのは、
本人にとっても深刻じゃないですか。
行きたくないっていうのも含めて、
行きたいけど行けないっていうのもあると思うんで、
事態はいろいろあると思うんですよね。
もちろんその相談できるっていうのは結構大きくて、
相談できるというのはすでに何かある種の動きがあるという気がするんですね。
そもそも相談もできないというケースもあると思うんです。
そういう話はやっぱりまさにカウンセリングの
修行テーマだなと思うし、
すでにカウンセリング的な話になっているよなと思うんですよ。
学校行かないと子供が言い始めるというのはどういう意味かと。
信田沙耶子さんという、これも非常に有名な、
今ではすごくしっかりとカウンセラーとして地位確立された方ですけど、
たぶん最初の頃は結構野の医者だ、
雰囲気の強い、ある意味カリスマ的なカウンセラーの方だったと思うんですけど、
信田さんが昔、登校っていうのはどういうことなのかというのを
専門家の人と話したのかな、不登校の専門家の人。
そしたらいきなりもう相手の人が言ったのが
親ですって言ったっていう話があるんですよね。
断言したと、一言で断言したと。
つまり例外なく全部主要な理由は親にある。
これは普通の人が聞くとですね、
親が悪いからみたいに聞こえちゃうと思うんですけど、
そうではないんですよね。
やっぱりそこが、信田さんが精神分析家だっていうわけじゃないんだけど、
この話はものすごく精神分析的で、
親が学校に行かせないようにしてるんだっていうことを
案に、というかもう割と明言しちゃっていると思うんですよね。
例外がないってのはそういうことだと僕は思うんですよ。
文章を読んで思ったんですけど、
普通に一般向けの本の中で、
それほど専門領域の内容の本じゃなかったんだけど、
親ですって書いたところはやっぱりこう、
精神分析的だなっていうふうにやっぱり
素人ながら強く感じたんですよね。
親がですね、
良くないから子供が学校に行かなくなるとか、
それこそよく聞く、
離婚してほしくないから、
これは結構真相なんだけど、
離婚してほしくないから子供が親の様子をずっと見張ってるとかいうのは、
未だしも我々にも非常に分かりやすい話だと思うんですよね。
でも例外なく親だって言い切るということは、
親がどういうふうに振る回っていようとも、
結局は親が学校にその子を行かせないようにしているんだっていう意味なんですよ。
で、当の親御さんにしてみればですね、
うちの子が学校行かなくて困ってるんですよみたいな人まで含めてそうだって話をされるってことは、
無意識ですよね。
意識している上では、
みんながみんな、中にはいると思うんですよ。
自覚して実は子供が学校にやりたくないなって思ってる自覚があるっていうケースはあると思うんですけど、
全くないってケースも絶対あると思うんですよ。
親の心配と問題点
それまで含めても嫌だって言ってしまうってことはですね、
その親御さんは無意識、全く自分が全くですよ。
頑張って考えてみれば心当たりがあるなではなくて、
いやもう全然絶対子供には学校行ってほしいと思ってるし、
私もそうしないと会社に行けなくて困るしっていうふうに思ってるのに、
お子さんを学校に行かせないとしている意識が働いていて、無意識にですね。
それを子供が敏感に察知して、
親の期待に応えて学校に行ってないってケースを含めて書かれてたと思うんですね。
これが難しいところですよね。
そんなの夢にも思わないっていうケースがあり得るって話だし、
その証拠どこにあるんだって話にもなるじゃないですか。
でもこれを言ったのは精神分析の専門家とかではなくて、
不登校の専門家の人なので、
多分その人が知る限り、
親がどこかで学校に行ってほしくないなと子供に思っていないのに、
登校になるケースはないんだって言ってるように書かれていたようなふうに僕には読めたんですね。
もちろんこれは僕が深読みしすぎているという可能性はあるんだけど、
でもこういうケースは十分あり得るなとは思うんですよ。
行ってほしくないと。
それはやっぱりいろんな意味があるとは思うんだけれども、
やっぱり一体っていう同一化っていうんですかね。
子供と親が一体になってしまっているっていうのがまずあると思うんですね。
親は学校に行かないわけですからね、そもそもね。
エスカレーター教育と批判
そしてここは大事なポイントだと思うんですよね。
授業参観とか、時々親が学校に行く日があるじゃないですか。
割と出席率は高いですよね。
その代わりね、子供の心に実は非常に不思議だったんですよ。
別に学校に毎日子供を行かせてるわけだし、
だいたい授業で何やるかなんて想像がつきそうなもんだし、
私は勉強で困ったというようなことは特に小学校時代に全然なかったんで、
何だってこんなにみんな嫌がるんだ、ここに。
っていうのは小学校3、4年の頃から非常に僕は不思議に、
今親になると見ると、あの頃の僕は大変浅はかだったと思うんですけど、
子供の気持ちとしては不思議だったんですね。
ある意味では先生が非常に主導権がまだ強い時代だったし、
ある意味先生がいいようにするに決まってるじゃんと。
なかなかちょこっとね、学期に1日親が来たぐらいで、
そんな時には子供も先生もある意味猫かぶっちゃうに決まってるしね。
何もここに来ても分かることなんかなかろうにっていうふうに思った記憶があるんですよ。
でもこれがそうでありながら一方で、
忙しい合間を縫ってかなりの率、9割5分は超えて子供の様子見に来ていて、
当時は今は100%でも不思議はないぐらいの時代ですけど、
当時は結構ね、親は子供のことをほったらかしにしてる面もあった時代だから、
こんなにやっぱ来るっていうのは驚くべきことだなっていうふうに思ったんですよね。
それだけやっぱり心配といえば心配だし、かわいいといえばかわいいし、
不安だといえば不安だし、
当てにできないといえば当てにできないという部分もあるんだろうなっていうふうに当時も思いましたね。
ちなみにほったらかしっていうのの意味は、
例えば、うちの近くに川がありまして、
めったに雪の降らない半島ですけど、雪が降るとですね、
土手からね、土手に坂がありますね、土手だから。
川に向かって坂がありますね。
雪が降るとその坂をそりで滑ると。
そりとかない場合はダンボールで滑るんだけど、
こういう遊びを50人単位で平気でやってましたからね。
今だったら川に落ちて誰かが死んだら結構ニュースになっちゃいますよね。
当時もなったかもしれないけど、
今じゃ考えられないような遊びが、親が平気でそれを送り出していた。
そういう時代でもやっぱり授業参観とかでは、
めちゃくちゃ子供見に親が、両親友っていう家もあったぐらいは来てたんですよね。
当時は僕は考えが浅かったから、なんで来るんだろうぐらいに思ってたわけなんだけれども、
つまりですね、行かせたくないという気持ちが少しぐらいよぎってても、
別に全然不思議なことはないわけですよ。
一方で、行ってもらわなきゃ絶対困るっていう意識は当然あるわけですよね、親御さんの方としてはですね。
これはつまりいろんな意味があると思うんだけれども、
まず当時の例えばですね、これも非常に僕が言うのも何ですか、考え浅いんだよなって思うのが、
いいスコール、いい会社に勤めるっていうのがあるんですね。
いい会社に勤めるためには、いい大学に入る必要があって、
いい大学に入るためには、いい高校中学に入る必要があって、
そのためにはいい小学校に入るといい。
エスカレーターって言葉があったんですけど、今もあるかもしれませんが、
子供だからはっきりそういうふうにおっしゃってた親御さんがいたんですよね。
訳のわからないうちからいっぱい詰め込んで勉強させておけば、
これはですね、小学校1年を指すんですね。
私立のいいところの小学校に入れておけば、
あとはいい大学まで一気に途中全然勉強しなくても上がっていけるから、
その後いい会社に行けば一生安泰だってこういう発想なんですよね。
あからさまに言う人は必ずしも多くなかったんだけど、
あからさまに言ってる人もいましたね。
テレビの中でもある芸能人の人が同じことを言ってました。
だからああいうのを受けるのかもしれませんけれども、
訳わかんないうちから、
この訳わかんないうちっていうのが非常に僕は、
人間の頭を軽く考えてるなと思ったんですけど、
訳わかんないうちに勉強すれば、
勉強がつらくないって言いたいんだと思うんですよ。
僕はそういうことは絶対ないと思うんだけど、
訳わかんないうちから、それほど難しくもない。
つまり親から見た場合の話ですね。
例えば、難しいんですけど結構。
三角形の独特の問題の立て方をするとですね、
小学校1年生の頭のいい子なら解けるけれども、
それはあまりにも難しくて文部省が文句言い出すみたいな、
当時文科省じゃなくて文部省だったんで、
文部省文句言い出すみたいなんではない、
絶妙なテストをひねり出してきて、
それを解かせると。
これを子供が思春期とかになると勉強しなくなるから、
そうなる前にこういうのを叩き込んでおいて、
1回だけの受験で受からせてしまえば、
あとはエスカレーター式にね、
いい企業、ないしは観光庁ですよね。
多分国家公務員一種ってやつだと思うんですけど、
になれば一生安泰だと。
この一生安泰、極めて怪しげな安泰だと思うんですけども、
そういう発想が結構あったんですよ。
僕はこの発想の中に、
強烈な不安ってものがやっぱり潜んでるんだろうなって思うんですよ。
親のですよね、もちろんね。
親子さんとしてはですね、
この発想を持ってるということは、
つまりこうならないと。
一方じゃなくて、この子死ぬっていうね。
つまりそれは自分の人生に対する不安だと思うんですけれども、
親の不安と子供の教育に対する考え
そういうものがあるんだろうと。
このエスカレーターって考え方は、
当時は結構こぞって採用している人も、
うちの親でさえ、
親でさえっていうか、うちの親は十分ありそうなことだけど、
明らかにこれは部分採用するんですよ、また。
そこまで徹底できない親はね。
中学だけいいところに入れておけば、
あとは本人が適当に努力すりゃうまくいくだろうくらいに考えて、
部分採用するんですよね。
そういう感じでやってたんです。
若者はなぜ3年で会社を辞めるかだったかな。
そのジョーさんっていう方が、
ジョーさんだったかな。
ちょっと適当に言ってるんで、
気になる方は調べてください。
この理屈でやらされたんじゃたまったもんではないって言って、
降りるっていう選択をしたっていう話を書いてるんですけれども。
新書かな。
これでやらされちゃたまったもんじゃないよねっていうのは、
よくあるんですけれども。
かわいいはやおさんがですね、
以前この番組でも紹介した、
親子ゲームっていう多分タイトルだったと思うんですけど、
小説にもこの発想がいかに無理があるかっていう話で、
できることできない子の兄弟がいるんだけども、
その2人をなんとかこのエスカレーターに乗せたまま、
一生安泰にさせてやりたい。
これは親心なんですけどね。
と考えて、
ものすごく圧をかけていくんだけど、
ちょっとギャグ小説みたいになったんで、
この圧のかけ方が笑えるように作ってあるんです。
あんまりこれ笑えないようにやると深刻になりすぎて、
読み戻すしあれなんでね。
でも2人とも降りてしまう。
2人揃って不登校になるっていうね。
そしてその子と親が本当に辛いなっていうところで、
話が終わるんですよ。
だからあんま落ちが落ちてないような小説なんだけど、
結構でもドラマ化なんか、
映画化なんかされていたんですけど、
かわいいはやおさんがこの本紹介してて、
最後にこうして本当に親が困って、
本当に子供が学校に行かなくなって、
どうにもならなくなった時に、
この子なりこの親御さんが、
あるいは親御さんが子を連れて我々のところに来るんだ、
っていう話を落としてたんですよね。
それこそオチをつけてたんですけれども。
という話なんだと僕は思うんですよね。
この時に親御さんは当然、
家族ゲームではもうあからさまに枯れてますが、
要は不安なんですよね。
それはその子供の将来が不安なわけですよね。
それはとにもならず自分の将来が不安だということなんだけど、
それでも自分らはそこそこうまくやったし、
どうやら死ぬまで路頭に迷わずに休みそうだとなった時に、
なんとかして今度は子供をレールの上に乗せたいと、
いうふうに考えるわけですよ。不安だから。
だからレールに乗ってれば安心だというわけなんですよね。
レールなんでね。
そのレールの先には少なくとも路頭には迷わないレール、
っていうものが引かれているわけですよ。
ただ、これに対して批判的な人は今もいっぱいいらっしゃるし、
いろんなことが言えると思うんですけど、
そうは言っても親心ってね、これはね。
一般論じゃないですよね。
自分の子供だけは飢え死にはさせたくないと。
なんつうんだろうな。
これは僕も子供をもって、
なんつうんですかね、この実存的って言うんですかね。
前にトルストイがイワン・ギリッチの詩っていう本を書いているんですけど、
小説で短編なんですけどね。中短編くらいかな。
その中でイワンが言うんですよね。
人一般が死ぬのはしょうがないと。
でも俺だけは断じて死にたくないっていうね。
不安を抱える親
これ実存主義の走りみたいな話ですよね。
要するに自分の身に降りかかるとなってくると、
空想上の話では済まされないっていうような話なんですよ、とにかく。
確かに不幸になるのは、人が不幸になるのはそういうこともあるだろう。
でも自分が不幸になるっていうのは、そういう話とは全然違うんだっていうね。
これはもう、そうですよね。しょうがないとは思うんですよ。
なんでもいいんですけれども、どんな話でもいい。
虫歯一本でもそうだと思うんですよね。
苦手であればですけどね。
だからそれはそういうものだとして理解は十分できるわけで、
エスカレーター式に親が乗せようとする愚かさとか、
考えの浅さとかはいくらでも笑えるんだけれども、
でも自分が子供をいざ持ってみると、
せめてこの子がホームレスにはなんないでほしいなっていう風に、
親ってそういうのは自分以上に思っちゃうところがありますね。
なんていうんだろうな。
自分のことならばまだ何とかここまでで耐えられるなっていうのも、
子供に耐えさせるとなるとまた全然違ったものが要求されてくる感じっていうのがあるんですね。
それが僕は子供を持つまではもう一つよく分かってはいなかったんですよね。
子供を持つ直前ぐらいにはなんとなく分かるようになったんですけど、
やっぱり持って育ててしまうと、
贅沢はさせられなくても、
例えば自分より早く死んでほしくないとかね。
これいうのはある意味エゴだったけれども、
それまでにはないようなエゴなんですよね。
自分より早く死なれるぐらいなら自分先に死にたいみたいなね。
不審な不審な心理なんです。
それに何の意味もないんですよね。
それに何の意味もないんだけど、そういう感情が。
だから僕これはですね、遺伝からくるのかなっていうふうに時々思うんですよ。
結局のところ、僕の全部はある意味遺伝子の命令というのか、
命令体系によって作り出されているわけだから、
自分の子供が残ると、自分の子孫が残るということは、
遺伝子的に言うとある意味死のせいみたいな、これは関連的なものですけどね。
僕は遺伝子が死死存存まで残るから、
自分が不審になったって感じは抱けないので、本音のところでは。
そういう感じが全くないってわけじゃないんだけど、
でも続くのは遺伝子であって、別に私じゃないしなっていうのは、
私っていうのはこの場合自我ですよね。自我意識ってやつなんだけど、
自我意識は消えちゃうんで、物質としての遺伝子の方だけ残っても、
不死って感じは全くしない。それに不死じゃないですしね。
不死の保障があるわけでもないですし、
うちの子が子孫を残さなければそれまでだって。
だからなんですけどね、きっと。
だから自分の子が子孫を残しやすいようにしようという欲望、
ちゃんと湧くようにできてるんじゃないかなって感じはします。
そうじゃないと理屈に合いませんもんね。
理工的な遺伝子なんですね。これはリチャード・ドーキンス。
そういうところがあるわけですよ。
子供の不安と不登校
ただ、これってつまり何かっていうと、さっきのレールの話なんだけど、
レールに乗りたいのはどうして、レールに乗せたいのは何でなのか。
不安だからですよね。
この不安の強烈な不安が子供に伝染してしまうんですよ、たぶん。
だから、このレールに乗ってないと不安だぞっていう理由で作り出したレールっていうのは、
そもそも不安でできてるようなレールなんで、
このレールに乗ってることそれ自体がなかなか怖いわけですよ。
降りるのも怖いんだけど、乗ってるのも怖いんですよ。
これは間違いなく、このレール自体が大好きって人はちょっと別かもしれないですけどね。
灯台に行って高級管理になるという、このレールに乗るということが趣味だみたいな。
これこそが人生で、不安というよりは、これに偏愛を覚えてますっていうケースは別かもしれないですけど、
大体の人はこのレールはやっぱ不安ゆえに敷くレールなので、
当然乗ってて安心だってことにはならないんですよね。
このレールから外れる不安というものを乗った瞬間に、
ずっと乗って動いてる人たちはずっと外れないためのレールなんで、
外れる不安というものを一緒に乗せる、それを伴走するような格好になるわけです。
で、これがみんなそのレールに乗ってるわけだから、ある意味それなりの学校に行ってる子っていうのはみんなこのレールに乗ってるんで、
やっぱりですね、
なんて言えばいいんですかね。
特に思春期とか、まだ十分、ある意味50くらいになってくると、
一歩振れないためにどうすればいいのかみたいなことはだんだんわかってくるんで、
このレールにそんなに意味ないなみたいなのは言うのは簡単なんですけれども、
10代じゃそういう感じはしないですよね。
親の不安なレールに乗せられて、親が不安ゆえに作ったレールに乗せられて、
自分は不安なんですよね、そこはかとなく。
しかもこの不安はどこに由来するのかが完全にはわからない。
私も完全にはわかってなかったんですよ、このレールに乗ってて。
何かしら先行きに不安感を感じさせられるんだけど、どうしてなのかがよくわからない。
安心材料で乗ってるレールなんで、だからこそ不安になるんだけど、
そんなことがそんなにわかるわけじゃないわけですね。
なんとか僕は、これはなんとかなんとかこらえにこらえてなんとかしたんですけど、
こらえきれなくなることが起こりますよね。
その時に不登校という形でそれが紛失するわけですよ。
そうするとさっきの親子ゲームでそうだったように、周りが非常に慌てる。
これってどういうことかというと、
学校行かないって子供が言って言わないんだけど、親子ゲームではただ行かなくなるんだけど、
周りが動揺します。そして葛藤が起こされる。
つまり不安というものが返されるんですね。
もともと親が不安で、困らないようにするためにレールに乗せて、
さあ安心だよって言ってるんだけど、実は不安なわけじゃないですか。
だってレールに乗ってれば絶対大丈夫じゃない。
だって大丈夫なわけじゃないってことは親がよく知ってるわけですから、
でも大丈夫だよってことにして、乗せて自分も安心を得ようとするんだけど、
そうやって乗せたという状態は不安なわけですよ、みんなとしてある程度は。
それは究極的なやむを得ない不安かもしれないんだけど、
とにかく不安がなくなったわけじゃないんですよね。
軽減されたように見えるってだけで、そもそもそのレールっていうのは比喩なんで、
僕らよくレールっていう言葉を使いますけれども、
常に比喩じゃないですか、事実上レールに乗ったことは一回もないですよね。
僕、線路に飛び降りたこととかないですから、
レールに文字通り乗った人だっていないわけですよ。
だからあくまでもそれは空想上のものであって、
その先に絶対安心とかが待ってるわけじゃん。
カウンセリングの重要性
本当はないのはもちろんみんな知ってるわけですよね。
頭がいいんだから子供だって知ってますよね。
その先に絶対安心があるわけじゃないというのは、
絶対安心があることにして人走ろうと思っている。
これはある種の創的防衛なんだと思うんですよね。
歌を歌って夜道を歩けば、おばけはやってこないみたいな、
そういう感じなんですよね。
空元気的なところがどっかちょっとあるわけです。
その空元気頑張ってたんだけど、やっぱり本当は怖くなりました。
降りますってことで、降りると不安が戻ってくるという感じ。
投げ返される。
この形って今盛んに不登校の話をしているような顔をしてきましたけど、
そういうことではなくてですね、
この形こそカウンセリングの王道だなって感じがするんですよ。
つまりカウンセリングを受けに行く精神分析もそうだと思うんですけど、
どんなものであっても不安をまず預けに行くんですよ。
周りの人に本当は不安を預けてしまいたいんですね。
欲打不安ってのは、俗に簡単に言ってしまうと未来が不安だってことです。
不安って未来から来るんだけど、それは正常な心理とされるわけですよ。
精神分析ではね。
よく僕がこの番組で言ってる神経症水準、
今ではカウンセリングではみんなこういう一様の立て付けを持っていると思うんですよね。
神経症水準は正常。
なぜ正常かというと、その不安は自分の中にあるってことが自覚できてるからですね。
そうですよね。
このまま学校にちゃんと通っていても卒業できるか不安だっていうのは正常じゃないですか。
これを言ってる奴は頭おかしいって誰も言わないですよね。
今グッドファイブ的な話をしてるわけじゃないんで、
僕ちょっとこのままちゃんとやれるかどうか不安なんですよっていうのは、
チッとされるかもしれませんけど、そんな陽気なことでどうするとか言われるかもしれないけど、
お前頭おかしいねとは言われないと思うんですよ。
誰もそうは思わない。
つまりこれは正常な人間の心の状態だとみなされてるわけじゃないですか。
それがどうしたのって思われるかもしれませんけど、
これやってるのは人間だけですからね。
この点は忘れてはいけないと思うんですよ僕は。
犬とか絶対こういうことやってませんから。
私の未来フィラリアとかになりそうで不安なんだわみたいな言わないですよ犬は。
絶対そんな不安持ってないと思うんですよね。
抑鬱不安というのは人間の正常な心理とされているんだけど、
人間の正常な心理なんですよね。
極めて特殊な心理状態なわけです。
どっちにしてもこれもよく言う話ですけど、
人は死ぬってことを知ってるんで、
未来に不安があるっていうのはですね、
抑鬱不安というのは宿命的な雰囲気を持っているわけですね。
その手前のところにいろんな不安がこのままで卒業できるんだろうかとか、
このままで本書き上がるんだろうかとか、
老後は大丈夫だろうか、
全部抑鬱不安を何かしらの比喩で説明しているに過ぎないと、
多分真相心理的には考えられてるんだと思うんですよ。
この人、抑鬱不安ちゃんと抱けてるのかなっていうのをまず見てるんだと思うんですよね。
この不安、あんまり講じてくると持てなくなってくるわけですよ。
だからそれが様々な形で紛失し始めるというか表面化するんですね。
抑鬱不安を自分で抱えられるということは、
その人正常と、正常な心の機能が機能してます。
よりいい形にするには、
この不安というもので抑鬱状態を引きずらないのが一番いいんだけど、
少なくともその状態まで持っていけるというのが正気なわけですよ。
抑鬱不安を持っているということは、
つまり未来が不安ということだから、
あとはそれに対してその人が置かれている状況に合わせて、
ちゃんと形式が正しいかどうか。
例えば小学生が持つべき抑鬱不安というのは、
夏休みの宿題終わるかなとかですよ。
小学生のくせに老後がとか言ってるのは、
不安の抱えきれなさ
ちょっと抑鬱不安なのかもしれないけど、
明らかにずれてるわけですね。
つまり抑鬱不安には妥当な形式があるってことになるわけですよ。
この抑鬱不安を持てるということは正気なんだけど、
持てなくなると何かが起きるわけです。
限界を越え始める不安で不安でしょうがないということになってくると、
一番軽いところで過剰に未来に対策を打ち始める。
これが多分脅迫症と呼ばれている、
神経症水中の中では比較的よく見られるから、
軽いって言っちゃいけない気もするんですけど、
OEパターンですよね。
ガスの元栓を閉めるに見に行くっていうのは、
未来に火事が起こる不安に耐えられなくなるわけですよね。
耐えられなくなるから絶対消したはずなのに確認しなければならない。
例えば老後が心配っていうのも、
別に普通に心配な人はいっぱいいるんだけど、
あまりにも心配だから、
0.1円単位で常に自分の支出を見張ってるみたいなことをやり始めると、
脅迫的すぎるよねっていうことになってくるわけですよね。
つまり、抱えきれなくなるほど不安を募らせるというのは、
不安になるのはしょうがないんだけど、
限度があるでしょうっていうのがまず最初に来るわけです。
もちろんここで全部止まるはずはなくて、
すぐそのちょっと先におそらくある、
人にもよるんだけれども、
だからこの辺から先は個性が出るんですが、
不安が麹すぎてお腹壊すとか、
これは身体症状に現れ始めているわけです。
常に心だけではその不安というもののコントロールっていうのかな、
欲打つ不安が強がり強まりすぎてしまっているのに対して、
歯止めが効かなくなり始めて、
お腹とかに出てくるわけですよね。
あるいは頭が痛くなるとかね。
非常に多いパターンです。
いずれも身体に出てきているんで、
心から見ると少し外に出てる。
この外に出始めるというのが、
つまりその次に出てくるのが身体じゃない場合は行動に出るわけですね。
学校なんか行かないっていうのはそれですよね。
どうこうとか。
もう起きられなくなる。
行動に現れ始めるわけです。
身体じゃなくて。
身体と行動同時に出るってケースもすごく多いですよね。
なんかだるくて学校行けないみたいな。
これは身体にも出ているし行動にも現れていると。
もちろんそれが、
なんて言えばいいんですかね。
世の中の人が受け入れやすい形になってるか、
受け入れにくい形になってるかっていう違いはあるんですよ。
だから自分のお金の管理をものすごいガチガチにしてますというのは、
なんか主旋律っぽくて変っていうケースもあるんだけれども、
まあまあ受け入れやすいわけですよ。
いや私、全銀行口座1円単位で全部わかっているし、
今のクレジットの状態も全部わかってますっていうのは、
行き過ぎてるなって感じが臨床科の人の目には絶対すると思うんだけど、
これを社会の一般の周りの人は、
まあまあそれは受け入れられるでしょうっていう感じなので、
あんまり問題視しない。
これが学校行けない、熱がある気がするとか言って熱全然ないみたいなのは、
社会の方では問題視するというそういう違いはあります。
で、どっちにしてもですね、
だんだんだんだん外に外に出ていくと何が起き始めるかというと、
つまり抱えきれない心の問題は、
これは遠畑さんの授業を受けての、
今日はポッドキャストですからね、
言っていたその心で自分の心で抱えきれないというのが、
外へ外へで出ていくと何が起き始めるかというと、
周りの人がそれを抱えなければならなくなっていきますよねっていう話なんですね。
だから身内の方に精神病の方がいらっしゃる場合は、
これはよく馴染み深いものだと思います。
周りの人はみんなその人に振り回されるような形になっている。
それは誰もが僕らが実はやってることなんです、ある程度までは。
自分の心に不安を抱えて、
それを自分だけで完全に解消できるような人は、
そもそも不安というものにあんまりなってないので、
解消しきれないぐらいある程度、
つまり自覚できるレベルの不安を持っている人は、
必ず周りの人をある程度は巻き込んでるんですよ、実際のところは。
だから俺は全然欲打不安を持ってて老後の心配してるけど、
でも老後のことは全部バッチリやってあるもんねっていうのは、
理屈としては合わないでしょ。
それだったら全然その人は全く不安になっていないはずなので、
そういう意味では欲打不安なんて縁がないはずなんですよ。
だから何らかの形でその人が、
例えばポロッと漏らすみたいなのでも周りの人はちゃんと影響を受けるんで、
老後がねーみたいなこと言って話合わせてるだけかもしれませんけれども、
ちゃんと周りはある程度この人の心から漏れ出たものを、
本人だけでは受け止められないものをキャッチして何とかしてあげているんですよ、
っていう話をしてた。
周りの葛藤とサポート
そういうことを私の授業で聞いてたということです。
この話はこのポッドキャストでも割とおなじみの話かなとは思います。
その人が抱えきれない葛藤は周りの人が葛藤してあげることによって、
その人を支えてあげる。
これを僕ら相互にやっているんです。
全然それをやらせてないよって言ってる人は相当無自覚なところがあります。
これは昔ハイハイオさんが言ってましたね。
精神病を読んでも神経症を読んでも、
俺には全然当てはまらないなって言ってる人はよっぽど周りが迷惑していると。
これは面白い言い方なんですけどね。
そんなことで僕らは気にやむ必要は全然ないんですけれども、
そういうことは十分あり得ることだとは言えると思います。
微妙なラインですよね。
不登校っていうのはもうはっきり現れてくるけれども、
我々はその間っこぐらいラインのところのケースがすごく多いような気はするんですよ。
例えばですけれども、
しょっちゅうこいつ閉じまりに戻ってしまって、
電車乗り遅れそうになるんだよねっていう人が家族にいる場合、
既に家族はそれを受け止めているわけじゃないですか。
そういうことになりますよね。
しょっちゅう戻ってしまうと。
例えばですけれども、
お母さんが、お父さんでもいいんですけど、
家にはいっぱいお金がっていうのかな。
十分なお金があるんだけれども、
ちょっとでも無駄なものは買わせないみたいなのが出てくると、
これは家にお金がなくて買えないのよりも、
子どもへの影響はでかいと思うんですよ。
親の不安がそのまま電波してくるじゃないですか。
お金をちょっとでも無駄に使うと大変なことになるんだっていうことを伝えてしまいますよね。
どうしたってね。
お金にそれほど困ってないんだけど、
お父さんは例えばラーメン390円で食べたら、
直ちにスマホで390って打つ。
ラーメンって書いてですね。
そうしないと気が済まないんだっていうふうな話を、
お父さんが独特としていたりするわけですよ。
これはお父さんが自分一人では支えきれないんですよ。
よく打つ不安が。
究極的に言ってしまうと、
お父さんは自分がいつか死ぬっていう不安を支えきれないんですね。
これはもうこういう話をすると突飛に聞こえるでしょうけれども、
ほぼ確実にそうだと思うんですよ。
それを当然子どもは、
しかも独特と語られれば、
そうかと。
未来って不安なんだなって思うわけですよね。
そして学校に行くと何が起こるかというと、
自分の成績を見てげんなりするということが起こりますよね。
そして学校に行かないと言わないまでも、
おそらく言わないんですよね。
何度か微熱を繰り返して、
学校をやたらと休むようになって、
そのお父さんは、
例えば学校の先生に呼び出されるとかね、
なんとかくん、
最近ちょっと調子悪いようなんですけどみたいな話を聞きながら、
お父さんは会社に行かなきゃならないと思って不安になるわけじゃないですか。
こうやって不安がいろんなところでぐるぐるぐるぐる回るっていうことが、
たぶん僕らの日常ではしょっちゅう起きてると思うんですよ。
これが僕は不登校というもので、
周りが葛藤を始める。
周りの葛藤っていうのは結局実は、
もともと周りが持っていた不安ってものが、
元に戻ってきているんだっていう意味なんですよね。
この時にお父さんが相当自覚がないとですね、
ものすごく学校そんなにしょっちゅう休んでるんだっていうことになって、
今学期はもう全部合わせて25日も休んだんだと。
こいつこのままで将来会社にも行かなくなってひきこもりになって、
俺にすっげえ迷惑かけるんじゃないかと。
つまりそれは何を意味しているかというと、
俺の死ぬ前にはせめて安泰に過ごしたいと思っている人生が、
すごく暗黒になって一歩間違うと、
家から叩き出されたりして、
不登校と家族の関係
路頭に迷うんじゃないかみたいな不安がよぎりはしないと思うんだけど、
そういうふうに疲れとした時に、
当然その人は何をするかというと、
子供に学校行けって言うよねっていう話なんですよ。
これはそのお父さんの不安が文字通り行って戻って、
行って戻ってきているわけですね。
こういう話だと私は思うんです。
それで家でもその全体的な結局それはお父さんの不安なんだよ。
だから信田沙耶子さんが不登校って何ですかねっていうのに、
不登校の専門家が親ですって答えたな。
そういう意味なんですよ。
そしてこれがお父さんが支えきれなくなると、
子供を連れて、例えば信田沙耶子さんのところに行きますと。
子供が学校に行かなくていいっていう話になるという話なんですよ、きっと。
この辺のことを考えてみるとつくづく思い当たりそうだなとは思うんですよね。
やっぱりね、娘と一緒に例えば病院に行くって時も、
基本的に娘のことで言ってるはずなんだけど、
実はそうじゃないんだろうなっていう部分が全部じゃないですよ。
全部が娘のために言ってる部分は当然絶対あるんだけれども、
全部じゃないってことですよね。
自分が不安だから言ってる部分だって相当部分あると。
だから不意にそんな話を始めちゃうんですよ、人は。
なぜ家計簿をつけるのか。
僕はやっぱり東京ライファクト研究会を7月30日、
僕が50歳になるといったのはそういう意味なんですけども、
半分よりは先まで来ちゃってるよねっていう感じも含めてですね、
こういう話をライフハックでもしますよねっていうことなんですよ。
人が例えば家計簿をつけますとか記録を取りますということには、
もちろん全部じゃないんですよ。
純粋にそういうのが好きだって意味もあるし、
ネットコミュニティの不安について
そういうものを眺めていると幸せになるっていうのでもあると思うし、
思い出が豊かに残せますっていうのもあるんだと思うんだけど、
その中にはそうじゃない部分がきっと含まれていますよねと。
それは今のところどこかから映ってきたものであるというケースも
少なからずあるはずなんですよ。
それはだって映りますよね、テレビでもそうじゃないですか。
投稿の話なんかもそうですけれども、
例えば引きこもりとかそういう話も頻繁に出てきます。
そしてあれ見て不安が映ってきて別に不思議はないですよね。
あれ見て安心だわと思う人は誰もいないと思うんですよ。
誰もいなくはないかもしれないけど不安にならないというのが精々のところで、
そもそも人を安心させるような作りには全くなっていないので、
あれを見て不安になるということはあっておかしなことじゃないと思うんですよね。
そこからそういう行動につながって生きうるという話は、
つまり周りが葛藤する。
誰かが不安になると周りが葛藤する。
ということはつまり不安は伝播している。
でもその不安というのは実は周りが葛藤するから、
誰かによって映されたと思っているかもしれないけど、
実は自分の不安が返ってきているのかもしれない。
そういうところを追っていくと、
例えばパウンセリング受けに行くとしても、
これはナノ医者を含めてですよ。
専門家であっても非専門家であってもですね。
受けに行くというときにこういう発想というのはきっと、
私は今役に立つんじゃないかと思っていろいろしゃべっているというところです。