オープニングとレター紹介
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ第1195回をお送りします。
6月4日水曜日、7時33分です。
先日、真理の学生さんからいただいたレターをもとに放送しましたけど、そのご返信をなんと6日前にいただいていたので、このレターはあまり目立たないんですよ。
6日前で失礼したんですけど読み上げさせていただきますね。
こんにちは、以前レターを書いたものです。5月26日の放送を聞きました。まさかお話いただけると思っていなかったので嬉しかったです。ありがとうございます。
いやー、あのー、いや、そりゃー
あのー、全部の全部とはわかんないですけど、レターなんて滅多にもらうもんではないんで返信しますよ。はい、なんか喋りますよ。
返信はしてないんですけどね。なんか喋ります。
放送するというのは、この場合はラジオで放送するのが一番妥当だと思うので、ラジオで放送しますね。
このポッドキャストでやってることというのは、最近はもうすっかりもっぱら3ヶ月チャレンジの延長戦というか、昔で言うところのフリーミアム版となりつつあるわけですけれども、
まさにこういうお話を参加して、参加していただく方を前にすればというか、ご参加いただいた方とセッションする際には、さすがにこんなに僕が一方的にひたすらひたすら喋るのではどうしようもないので、
もっとお話伺いますけれども、基本的に話す、なんて言うんですかね、
私とのやり取りの基本線には、いつもお話ししているようなこのような内容がベースにありますというのは間違いないところです。
だから、こういう話をそもそもあまりしたくないんだという方には向かないと思うし、こういう話をぜひしてみたいという方には向くだろうという、何かに使っていただければいいんじゃないかと思いますね。
はい。
あと忘れないうちに逆日チャレンジがですね、いよいよ半数も切り、今週の日曜スタートということで、来週というべきなのか今週というべきなのか、週末日曜日にスタートいたしますので、
ぜひですね、今回私は何て言いますかね、引っ掛けを得るということをテーマに1分着手というのが、先ほどゼロでは最近メインテーマとなっているんですけど、その1分着手すら着手できない、ちょっと不思議なことを言っているようなんですけど、
そういうことに対して私なりの考えを、これはね、1分着手すら難しいとなった方にこそ3ヶ月チャレンジをお勧めしたいというのが私の思うところでもあるんですけど、でもやっぱり逆日チャレンジの中でも1分着手にすら、なかなか着手1分でも辛いというか何、じゃあ10秒にしましょうとかそういうことではなくてですね、
1分でも辛いのはもうメンタルブロックというのかな、流行りの言葉で言うと。心理的ハードル以外のものであるはずがないんですね。だけどその心理的ハードルにしたって、まあそれは凍てつく寒さの中、外のトイレを掃除するとかだったら、それは1分だって心理的にハードルは高いですけど、あの別に部屋の中にいて暖かい、暖かいもないしは涼しい、最近だったら涼しいのほうがいいですね。
中でこれといって苦しみのない作業のはずは、そんなことはないんだけど、苦しみは絶対あるんですけどね。なんか肉体が辛いとかそういうことではないのに、1分の着手すらもハードルが高いというものであれば、それは心理的ハードルでしょうと思いますね。
そしてその心理的ハードルというのは一般論がないと思うんですよ。前方に報酬があれば、まあ報酬があればやりやすくはなるんだけど、報酬があって習慣化すればできるようになるかというと、そうはいかないと思うんですよね。しかも習慣化するまでには何回やればいいんだという、その1回目がそもそもできない。つまり1分着手が1回もできない人向けにあるのが3ヶ月チャレンジという考え方もできるわけですね。
この話を100日チャレンジにふさわしい形で、100日チャレンジの中でも投入していきます。もちろん100人以上いらっしゃる可能性が高いので、100人以上の方、すべての方に1人1人の話を1時間ずつ目いっぱい聞いていくってわけにはいかないんですよ。
そんなことをしていたら、100日あったって全然足りはしないですから、ていうかそんなことは不可能なことなんでね。話を聞かれるだけでも途中で嫌になってしまうという方は普通にいらっしゃるはずなので、そんなことはしませんが、なんとか可能な形で1回も1分着手ができないというお悩みにも、私なりに、これはもういろんな人なりにあると思うんですよ。
テクニックの話では全くないはずなので、だって1分1回難しくない作業に着手できないっていう話をテクニックで解決できるとはもうとても思えないじゃないですか。ちょっと考えてみればすぐわかることだと思うんですよ。
非常に極端に言うとテレビ1分見るのがつらいぐらいのことをおっしゃってるわけですから、そういう方もいらっしゃるんですよ、世の中にはね。
これはもうテレビを見る、1分見る方法を仮にそんな方法で1分見たところであまり意味ないですよね。むしろはるかに意識したいのは、なぜそんなことすらつらいのかってことですよね。
なんかあったと考えるのはやっぱり事前ですよね。昔これは心理の本じゃないんですけど、あるやっぱりこれも犯罪の本かな、ある犯罪者が踏み込まれたときにどうなったかというと部屋の中で斜めのテレビがあって、そのテレビ全部砂嵐が映ってて、それでじっと見ているんだけど、なんかそのアメリカの話ですよ、その中になんかがその人には見えるらしいんですよ。
結構重大犯罪をしたみたいな話だったんですけど、ちょっとよく覚えてないんですけど、まあね、いろいろあるわけですよ、人間には本当に。1分着手と言ってみても。
でもこの砂嵐の話は一般論としてお話するわけにいかないでしょう。大抵の人は別に大谷翔平とか見るわけじゃないですか、砂嵐のテレビじっと見てたりはしないわけですよね。
つまりやっぱりこういう話こそ傾聴ということになっていかざるを得ないんですよね。常識で考えてそうですよね。話聞かなきゃその人は何やってるのかわからないですよ。こういう話になってくると。
私はそういう話を3ヶ月チャレンジではメインテーマとしていると。非常に極端な場合ですよ。砂嵐見てますっていう方が参加されてるわけではありませんが、そういうことがあったとしてももうあまり驚かないっていうことがあるんですよ。
ただ一方でそういう話をだからといって100人に向かってするものでもないということですね。
はい、100日チャレンジが第11期。昨日松崎純一さんとライブ放送したんですけれどもね、J松崎さんと。これは11日に生まれたから11なんだ、そうで。第11期にはそういう意味も込められているらしいので、ぜひご参加検討いただけるとありがたいです。
不在論の考察
では本題。本題は今日は不在論。松崎さんの不在論。昨日ついさっき読んだから不在論なんですけど、最近すごいこの不在ということについて改めてまた真剣に考え直すという。こればっかりですね、僕がやってることはね。改めて真剣に考え直す。
当然それは3ヶ月チャレンジの方との会話があるんだけど、その人が不在論について述べたとか、不在がこの人を苦しめてるなとか常にそうだってわけではないんですよ。
むしろ逆だったりもするんですね。不在論というものを私が一つ事例として、この事例がいけないのかもしれないんですけど、やっぱりこの事例は正しいんですよね。職場で上司が必要に自分に嫌がらせをするという事例が載ってるんですよ。
不在論を買っていただければすぐ出てきます。とにかく悪い男だと、悪い上司だと。繰り返し必要にその人を苦しめると言って、最終的には精神、まず面白いのが、でもこういう嫌がらせはいい加減やめてくれませんかと。
普通にパワハラっぽさがあるじゃないですか。ところがそうすると職場の周りの人がびっくりしたような顔をしていると。なんてひどい職場なんだろうと。自分をこんなみんな白々しくですね、この常識どんなに怖いのか知らないけど、こんなに苦しんでいるのをみんな見てるはずなのに、なんだか不思議なものでも見るような目で自分を見ると。
これ似たような話はいくらも聞くと思うんですよ。ところがこのケースにおいてはそれは幻覚なんですよ。嫌がらせをしてくる悪い男という悪い上司というのはね。だから周りの人はびっくりするわけですよ。そんなことあの上司してるの見たことがないってことになっちゃうわけです。
しかしね、被害者の被害者だと信じている人にしてみると、なんという職場だと。これ一体どっちが正しいのかを、いいですか、どっちが正しいのかは、警察が調査すればわかるかもしれない。あるいは第三者委員会とか知りませんけどね。わかるかもしれない。心理師には絶対わからないわけですよ。
当然私のような非正規の大臣支援者にもわかる余地がない。でも心理師だって同じですよ。これがどれほど正規だって絶対にわからないわけですよ。だって調査しに行く権利がないから見ることができないわけですよ。幻覚を見ただけなのか本当に嫌がらせを受けているのかわからないわけです。
しかもそれをわかる権利もない。ここは非常に大事なことだと思うんですよ。社会構造上、心理師にそれをはっきりさせる資格はないんです。たとえ正規でも。まして非正規なら言わんやってやつですけど。
あのですね、この点でサイキックリアリティというものと系調ってものが僕はめちゃくちゃクローズアップしてくると思うんですよ。他に何の手がかりもないのに話聞く以外の方法がどこにあるんだということですよ。
で、原則信じるしかないわけですよ。最初は。だからこの人、幻覚見てるんじゃないだろうかと最初から当たりをつけたらいかんと思うんですよね。最初は相手のお話を信用するしかないわけです。
そのうちに多くの場合、なんとなくわかってくるって面も非常に見過ごせないんですけど、でもそのうちに多くの場合、まずこれ以外の問題がクローズアップしてくると思うんです。
私がよく選択しているというのか、そうならざるを得ないと言うべきなんですけど、まるで私が選択したり選んだりできているかのように言うのは、まったく不誠実ってやつなんですけど、どっちかというとそういうことになりゆき状になっていくという方が妥当なんですけどね。
だからそういうときに非正規である私としては大きく悩むわけですよ。ポストには一方で首相を大事に、ポストっていうのがあるんですけど、首相を大事にしましょうねって書いてある。一方で精神分析の本とかを読むと、思わぬ展開をむしろ大事にするべきだっていうニュアンスがある。
で、どっちも正規だからそういうことを言えるんだけど、非正規の人間としては一体これなんかこう、首相というものからそれていくのはダメなんだろうか。でも首相にこだわろうとするということは、結局のところこれが迫害が本当にあったのかなかったのかっていう議論に巻き込まれていってしまうっていう問題があるんですけど、私は今はですね、非正規だろうと正規だろうとそんなこと本当は変わらないはずだと思うようになれたんで。
基本的には成り行きに任せます。そうしていると問題になっている問題というものがまっすぐ解決しなくても、必ず異なる問題というものが浮かび上がってきて、そっちに行ってみればかまけなければならなくなっていくんですよ。
心情的にも、話の展開的にも。そうしたらそっちにかまけていけばとりあえずいいと。だってそっちも解決しなければいけないことに違いはないので。つまり一つだけの問題が、その人が幻覚を見るとか、サイキックリアリティが明らかに周囲の人とずれるという場合。だからといってですよ。だからといって嫌がらせを受けてないということにはならないですよ。
不在論の本に書いてあるのは、不在論の本に書いてあるものだから確かに不在なんだけれども、つまり愛情を持った男性、関わりを持ってくれる男性が必要なんだけどいない、不在であるって書いてあるわけですよ。それはそうなんでしょう。だからその不在というのが不快だと。
この不快だという気持ちがあまりにも強いので、男性上司というものが存在するだけで嫌がらせをしてくるように感じられると。これはでも実際夫婦関係だったらいくらもあると思うんですよ。その場合、夫がちゃんと家事、育児をやってくれないからいけないのか、それとも迫害感が強すぎるのか、ついにわかることはないですよね。そしてわかる権利はないと思うんです。
ただ、私が接している限りにおいてはですね、神経症水準、精神病水準、ボーダーラインなどということとはまた全然別に、むしろ抑鬱ポジションかPSポジションで考えるのは非常にいいんですよ。
で、これはですね、最近私思うんですけど、PSDの行き来っていうのは私のような人間にも絶対的にあるんですけど、PSとDはしゅっちゅう行き来するんだけど、ポジションチェンジだからこれはね。だからDの方が偉いからDに留まるべきだっていうのは、なんかね、ややおかしいんですよね。ポジションに良いも悪いもないと思うんですよ。
ファーストとセカンドどっちが、セカンドの方が難しいとかあるんだけど、セカンドの方にいるべきだとかいうことはないんです。やっぱ動くべきなんですよね、状況に応じて。だけどパーソナリティとしてあるんですよ。例えば私はD的パーソナリティではないんですね。私はPS的なパーソナリティの持ち主なんですよ。
どちらかというと、多席的になりやすいところが、つまり格外観を持ちやすいとも言えるんですね。一方で自席的になりやすい人、つまり抑鬱的になりやすい人もいるわけですよ。私はどっちがいいとは思わないんだけど、人としては関わりやすいのは確かに自席的になりやすい人の方が話してて楽ではあるんですね。
多席的と自席的な関係性
まず自分のせいにされにくいっていうのは一つあるし、なんとなく聞いていてそれは道徳的って俗に言うんだろうけど、道徳ってそういうもんじゃないですか。やっぱり人のせいにしてはいけませんっていうのはかなり早い段階で習うしね。
だからなんとなく自分のせいにできる人は潔いっていうニュアンスって僕ら持っちゃうから、自席的になりがちな人というものは話してて話しやすいんですけれども、僕これは変わらないだろうと思うんですよ、究極的にも。
多席的だからこの人嫌っていうことをやってたら、とてもじゃないけど対人援助とかやってられなくなるし、だけれども自席的な人だから安心だと思っていても、自席的な人という方はですね、今度は本人が悪いわけでは全然ないんで、だから多席的だって別に本人が悪いわけじゃないんですよ。
ただ自席的な人と関わっているうちに感じてくることは、一向に前に進まないなって感じを持たざるを得なくなってくるんです。なぜなら何でもその方は自席しちゃうんで、そしてそれで話が終わっていくんで、ある意味ではそこに普通に考えてもですね、常識的な人間関係としてもここに壁ができてしまうんですよね。
いや私が悪いんです。これあるじゃないですか。ドラマでもよく、ドラマとか漫画でもよくありますよね。恋愛で私が悪いのとか言って勝手に別れていく女性ってよく描かれてるじゃないですか。つまりあれ関係はシャットアウトしてしまいますよね。ああいうふうにして。
だから自席的だから関わりやすいっていうのは、大きな甘い錯覚ってやつで誤解のサームスなんですよね。実は多席的な人っていうのは、これここを慣れると私夫婦関係というものが、私はこうまだこの辺をあまり全面に打ち出す気もないし打ち出せると思ってないですけど、まあ僕はあんまりビジネス中心でいこうと思ってるんでビジネスメンタル寄りなんですけど、
夫婦関係においてはですね、私はこの多席的に出てくる相手というのは、自席的な人も夫婦関係となると結構多席的になったりしますから。この話してるとちょっとずれるな、でもまあいいや。
夫婦関係においてだけじゃなく恋人関係でもいいんですけど、多席的というのは不器用な愛情表現なんですよ。このことがですね、つかめてくるとものすごく楽になるという人はいると思います。
これはもうちょっと、そんなの当たり前じゃんと、恋愛にこなれてる人って実はそういうふうに言うんですよ。そんなの当たり前じゃんと言うんですけど、これはね、すごい僕みたいに恋愛に全く不器用な人間は多席的に僕が言われるとすぐ、ああそうってことになって勝手に被害妄想を持って勝手に別れに行くんで、モテもしないくせにすぐ別れるんで。
これはね、知っておくといいと思うし、やっぱり非常に力動的だなと思うんですよね。なんかこう、寄り添うっていう話になるんですけど、寄り添いにくくするのはこの多席的な表現なんですよ。ところがこの多席的な表現というのは実は愛情表現なんですよ。かなり不器用な愛情表現。どういうことかというと結局、自分の親のことを考えてみるとわかりやすいんですよね。私なんかはね、自分の母のことを考えてみると、母は大変親友的だったわけです。
でも考えてみると母って外に行くと、めちゃくちゃこうね、めちゃくちゃ小さくなってるんですよ。ある意味。あれだから長寿が日本に振り回されちゃってるわけですよね。外に行くと長寿がを他人に投影して、評価的な者が他人だから、店員とかおじさんとかにめっちゃ丁寧なんですよ。腰が低すぎるぐらい低いわけですよ。
みんな長寿がだから周りが。そして自分を批判してくる、評価してくるから、もうやたらべた丁寧なわけですね。で、こういう人に直されちゃダメです。この人優しくて礼儀正しくていい女の人だなと。家帰るとめっちゃ怖いんですよ、こういう人は。なぜか。
頭の中にいる長寿がを外では他者に投影するけど、家に帰ると自己同一化するんですよ。私長寿がみたいな。だから夫とか息子とか娘とかには怒鳴りまくって全然オッケーになっちゃうんですよ。礼儀もヘッタクでもなくなるわけですよ。なんかもうひどいなぁと思うときなんてもう半日中私どものことを怒鳴ってましたから。どういうことだよこれっていうぐらい怒鳴ってましたから。
だって当時とかも僕16、17で体でかいんですから、反撃されたらどうするつもりでいるんだって感じなんだけど、長寿が同一化しちゃってるから反撃とか絶対されないことになって。実は今でもそうなんですよ。ちょっとね、軽く認知入ってきたから今でも私のことを腹が立つのなんかもうアッハーって言うんだけど、もうなんか本当におばあちゃんだからアッハーにしか聞こえないから、外だとちょっと恥ずかしいなって思う。
まあ僕が恥ずかしがることはないんですけどね。もうちょっとなんて言えばいいのかな。何と言えばいいのかわからないんですけども、これは変えられないよなっていうか、もうこれその1分後ぐらいに自分が怒鳴ったことは忘れかけてますからね。
ちょっとMCIとかではなくて、検査に連れて行ったところであれじゃないですか、最近アルツハイマンの真空止める薬とかも出てきましたけど、あれは鳴る前に飲まないといけないんですよね。脳の薬って難しいですよね。
しかももちろんうちの母にも自覚が全くないので、私そんなので病院行かないわよって言われればもうそれっきりなんで、体はやたら健康でテニスとかやっちゃってますからね。絶対テニスとかスコア忘れてんだろうなっていう、まあそんなことはどうでもいいんですけどね、別にね、おばあちゃんのテニスなんだから。
いいんですが、非常にこう、だから多積的なのはうちの母譲りなんですね。PS的なんですよ私、非常に。でも私はあれがD的になってみたところでただ自責するばっかりだから、いいこと何もないなと思うんですよ。まだあの方が元気でいいんじゃないかぐらいに今思う部分もあるわけですね。
PSとDがどっちがいいって話ではなくて、ただもちろんPSとDはどんどんチェンジしていくんですけど大抵の人においては、特にPS的であるという時間が長いタイプとD的である時間が長いタイプとは言います。
で、本来になってくるのはそのPS的である時間が長い人が不在という問題に直面するとどうしたって、あの迫害妄想を持ってストーカーに付け狙われているっていうことになってしまうんですよ。
彼氏が長くいなくて寂しいっていうのがどうしてもストーカーに付け狙われているになってしまうわけですよ。で、ここで厄介なのは、ストーカーの場合はまあ連想である可能性がかなり高いんですが、職場となってくると同僚が酷いんです。
上司が酷いんです。これは酷いこともあり得るので、もうわからなくなるわけですよね。不在論やってるとのとは違うんですよ。確かに、でも不在論でまとめることはできるんです。どういうことかというと、結局愛情を持った親切な男性が不在であることに変わりはないんですよ。
悪意を持ったパワハラ上司が存在していたところで、その人は愛情を持った親切な男性じゃないんだから、結局不在であることに変わりはないんですよ。こうやってまとめることによって、まあかなりクライン的ですけど、かなりクライン的な真的現実原則主義ぐらいの感じで推していくという考え方もあるなとは思うんですよ。
一つの考え方として。だってそうしないと、結局わかりもしないものに何の整理もつかないから。逆だろうっていう人はいらっしゃいますよ。基本的に世の中悪いんだから、裏企業だと決めてかかるべきだと。そういう考え方もあると思います。
だからそういう支援のやり方の場合は、はるかに社会派になっていく。この社会派と心理派みたいなのが外省論なのか、それとも外省論対何とか論言うじゃないですか。なぜこれをど忘れするんだ、ど忘れしたかスルーしてください。
もうスルーに内因問題なのか外因問題なのかってことですよ。で、当然外因問題だっていう人は社会派になっていくわけです。で、内因問題だっていう人は心理臨床派になっていくわけですよ。でもその心理臨床の中でもこの2つは揉めてるわけです。揉めるんですよ。
で、これで分裂するのは馬鹿馬鹿しいと思うんですよ。だって両方の可能性は常にあるわけだし、しかも両方のアプローチも常に必要とするわけだから、自分があった機質の方を選ぶより他ないと思うんですね。
どっちのアプローチも必要な上に、しかしどっちかをある程度選ばないわけにはいかないじゃないですか。程よく良いバランスで両方やるべきだっていうのは理想としてはそうかもしれないけど、現実的には非常にそれは難しいわけですよね。だから、多業界との連携っていう話にもすぐなると思うんですけど。
人格と社会的アプローチの理解
私は、しかも面白いことに、ビジネス書界みたいなもの、あるいは自己啓発みたいなもの、ライフワークみたいなものを肯定的に捉えてくださる方も、ライフワークやビジネス書の世界は基本的には社会側だと思われてるんですよね。社会改革側だと。
一見そう見えるのは無理もないですけど、結構この中って、むしろ心理原則主義者みたいな僕みたいなのもそうだけど、いっぱいいるじゃないですか。だからやっぱりどの世界に行っても分かれるんですよ。この外に問題があるのか、うちに問題があるのかっていう。
多分ですよ。結構長いことお勤めになった女性が、無意識に自分結婚したかったなと思っている方がいらっしゃったとして、上司がすごく嫌がらせをやめないんですって言ったとき、これはもう分からないですよね。
心理師には到底分かる理由はないと思うんです。不在であるって言えるのは本の中の話だからであって、不在なのか、それともブラックなのか、悩み出せば多分きりがないと思うんですね。もちろん多業界と連携できる力がある人、それはある意味社会的地位もありますけどね、そういうことであれば別です。
ただここでですね、抑鬱ポジションを取る人の場合、こうは言わないので、こうは言わないので、全部私が悪いんですっていうお話になってくるので、話としては一気に心理寄りに持っていきやすくはあるんですね。むしろちょいちょい、その環境だったらさすがにちょっとその環境の方に抗議するなり移るなりっていうのを進めたくなるぐらいなんですよ。なかなかそれもなさらない。
で、PS寄りの人、私みたいな人間は逆じゃないですか。すぐ転職とか考えるわけですよ。すぐ。そして転職した先にも悪い上司がいるわけですよ。こうしてなんとなくわかってくるわけですよね。そういう方にしてみるとどこに行ってもろくなやつがいないみたいな話になるんだけど、外してそうではないんですよね。やっぱり場所が移れば人は変わりますから。
人がみんな同じに見えるっていうのはまさに迫害妄想感があるわけで、だからてんてんとしていてどこに行っても迫害者がいるっていう場合には迫害的な投影がそこで強く起きているということを言わないにしてもですね、私のような立場の人間もそれを言っていいことはないんだってことがだんだんわかってくるので、言わないにしてもその可能性は常に検討を頭の中に入れておいて。
で、この種の話を始めるということは、その職場の話にフォーカスせずとも必ずと言っていいぐらい職場以外のところでの異なる問題が浮上してきて、しかもその浮上してきた問題の要因に要位区域ってものがかなり重要な要素としてあるので、そういうところでやれることは実はいろいろとあるわけなんですねよ。
だからそういうことでいろいろとやることをあるいは話すことを考えていけばですね、必ずしもその一番難しそうな本当はどっちなのか究極的には誰にもわかりませんみたいなオッカムのカミソリじゃないですけど、なんかこう山の中で落雷を受けた敗北の話みたいに、誰も目撃者はいないがうんたらかんたらみたいな話をせずに済むということなんですね。
そういうなんか哲学的な難問にはまらずに済むわけですよ。で、そこまで考えた上で、この迫害感というものは最終的には欲打つ感というものが最終的にはね、それを変えてはまずいよ。
これは藤山直樹さんの方にあったんですけど、最終的に残るその人のパーソナリティというものはあるんだみたいな。結局、犠牲的な世話役の人はすごく健全になっても、どこかで犠牲的な世話役を果たす、それは成熟したパーソナリティということになるんですけれども、私のような人間はやっぱりですね、最後の最後まで迫害感って抜け切らないし、だからこそやっぱり社会派っていう人たちはいるわけですよね、一方で。
やっぱり外を改革、改造していこう、外を直していこう、操作的なんですよ、PS的なんですよ。これはもうしょうがないんだということなんですね。成熟したPSパーソナリティみたいになっていくよりは仕方がないんだと。
全く逆のタイプもいるわけですよ。どこまでも自己修正に走っていくというか、修養の世界に入っていく。これは当然のことながら、和時スティックなんですよ。だからそういう方は多くいらっしゃると思うんですよね。宗教家みたいな世界ですけれども、どこまでも成熟した抑鬱パーソナリティを信仰していくと。
だからある意味憂いを帯びるということにもなると思うんですよね。私の自己修練が足りないっていう、言うじゃないですかよく、三国志とかでも、諸葛孔明みたいにできた人は、皆孔明の不得のいたすところとか言ってるけど、どう考えても周りが悪いし、周りの能力の不足にあるんだけど、全部自分のせいだってことにして、だからあの人は一生懸命頑張って戦場で亡くなっちゃったりしましたよね。
人間関係とパーソナリティ
多分そういうパーソナリティなんですよね、あれはね。優秀な人だからみんながみんなああなわけじゃないですか。ないじゃないですか。曹操とか全然違うじゃないですか。絶対自分のせいだと思わないタイプですよ。だからこれは優秀か無能かがBSかDかによって決定するとかはナンセンスで、そんなはずはないんですよ。ただ、周りの人は、孔明のような人の方が好きよねってことはありますよね。
だからどうしても道徳みたいな話になってくると、傲慢だみたいなことになりやすい。家籍的な人というのは好かれないというようなところはあるけど、必ずしもでもそうではないような気もするんですよね。だって曹操の方が人脈広かったじゃないですか。当然ですよね、そういうことになりますよね。
関係というものを築いていくには、D的であるというのは関係がほぼしくはなっていくんですよ。いいか悪いかは別ですよ。Dの方がいいっていうのは世の中の一般の意見ですからね。
だけれども、Dの方が人脈がどっちかっていうと、いわゆるパーソナリティの話でも縁起性とか、社交的だってされるじゃないですか。やっぱりそういうことになると思うんですよ。
PSというような、悪害的であろうと妄想的であろうと分裂的であろうと、いろんなものを外に置くということは、外と関わるということになってくるんで、なぜか今日はこっちに戻ってくるな。つまり、不在だ不在だっていうのは、僕は不在だということで当たりをつけるわけですよ、基本的には。
なぜかというと、迫害だということになると、もはや僕の出番なんかないんですよ、究極的には。究極的に悪いのがブラック企業だってことになったら、それはもう自明じゃないですか。そしたらそんな会社にいるべきではないし、社内改革とかをするんだったら、社内でその人は改革をするってことになっていくし、改革なんだから、当然ある程度以上は周りを変えていくってことになるわけじゃないですか。
でも心理臨床っていうのは、自分を変える。少なくとも何が起きているのかは、その人が心の中で起きていることをまず集中的に検討していくっていう考え方だから、私そういうのが好きなんですけれども、そういう人間としてはやっぱりこう、自分の出番はどこにあるんだろうって考えたときには、メンタル、内的な世界へ、内的な世界へと入っていきますから、
外で問題が起きているっていうだけであるだけってことはないんだけど、外で問題が起きているならば、それはやっぱり自分の仕事ではないと思うんですよね。
共感したり、ないし同情したり、自我指示的なことを言うってことは当然あります。たとえそれが心的現実であったとしても、そういう心的現実を見るに至ったその人に対する共感ってありますから、だからやっぱり傾聴って欠かせないんですよ。
どこからどう考えても、傾聴になっていかざるを得ないんですよ。それが唯一の情報源である以上は、そこに情報接種を集中させるということが、私はやっぱり職業上ですよね。3ヶ月チャレンジに向いては特にそうなんですが、職業上欠かせない。聞きたくなるわけですね。
これは100人チャレンジでも同じなんですよ。そうでなくてもあっちは情報が乏しいんで、本当に情報くださいみたいな、今日もいい1日でしたみたいな情報だったとしても、ここから何が読み取れるかって考えますからね。絵文字使ってるのか使っていないのか、その前の日の投稿はどうだったのか知りたいですよね。これを探っていかなければ何にも分かりはしませんから。だってそれしかないんですから。
だけど3ヶ月チャレンジではおかげさまで、話を聞く回数は多いし、時間も長いし、1対1だしで、いろんな意味で接種できるわけですね。これを接種していく。これ以外の何もないよなと思うんですよね。
表情を見ますし、時間も見ますし、色は信用ならないんだけど画面だから、顔色も見ますし、とにかく情報を得ていくしかないですよ。その間私は渡し続けることになるので、ここで情報はクリーンなものではないですね。
クリーンにするべきだっていうのが精神分析なんでしょうけど、そうはいかないですよね。ブランクスクリーンなんてとんでもないですよね。僕なんて物書きだから、中途半端にとはいえ顔も知られていて経歴も知られているんで、なんかブランクスクリーンなんていう。
ブランクスクリーンってのはやっぱりでも、どんな人間だって本当はありえないことだから、鏡は歪んでいて当然なんですよね。その歪みがエドイス化をパーソナライズしていくわけじゃないですか。それは大事なことだとむしろ思うんですよ。扱えるかどうかはまた別として大事な素材だとは思うんですよ。
今日はややこしい話をしている気がするな。なんと途中話を戻しますとですね、なぜか戻しますと、夫婦関係においてやっぱりこの侵入、支配は愛着表現の不器用な形だと思うんですね。
なんで私が途中母の話をしたかというと、母はやっぱり私に生後に幸せになってほしいってのがあったんですよ。幸せになってほしいってなると、だから早稲田大学に行くんだ、お前の能力でも無理してでも行くんだってなっちゃうわけですよ。
なぜなら母は北海道にいて家が貧乏だったから、次第に入るなんてことはありえない人生だったわけですね。でも母は利発だったんでおそらく、次第に私行けるぐらいの金があればもっとずっと幸せになれたのにって絶対思い込んだんですよ、どっかで。
だから幸い男の子だし、幸い寺田へ家に金もあるし、幸い東京に近いところに住むことができたし、幸いこいつ頭が回るからな。ありきたりなんですけどね、僕の頭なんて。
和世田に行けば、多分和世田には大定春がいたとかどうでもいい言葉でここに追加されてるんですよ。
昨日ミスターが亡くなっちゃいましたけれども、ミスターは立教ですけどね、なんかね、うちの母はミスターのファンのくせにやたらと壮大推しなんですよね。
やっぱりああいう男臭いものが好きなんですね、あの人は困ったことに。
あと立教はクリスチャンだったっけ?とにかくうちの宗派と相入れないということもありまして、長嶋ミスターはファンかもしれないけども、立教のファンではないわけですよね。壮大のファンなんですよね。
で、私を壮大に入れれば私が幸せになる。知り滅裂ですよね、これ本当に。だけどそう信じちゃってるわけですから、私の母はね。
だからどこの大学に行っても、将吾の好きなところに行きなさい、早稲田にってことになっちゃうわけですよ、無意識の世界でも。
で、こういうふうになるということが彼女の不器用な愛着表現なんです。愛情表現ですよね、これはね。
だって私の幸せをね、私が早稲田に入ろうと入る前に彼女の幸せとは関係ないじゃないですか。
彼女はただおばさんテニスをやってれば幸せな人なんだから、私がどの大学に行っただって全然どうでもいいわけなんですよね。
で、原理そういう人生歩んでました。私が入った大学のことなんてもう名前も思い出せませんからね、今ね。
こういうもんなんですよ、結局。
だから私、そんなに一生懸命四谷大塚とかに通わせたということをうちの母は全く忘れて三谷とか言っちゃってるわけですよ。
祭壇になっちゃうわけですよね。
まあ、その方が幸せですよ、間違いなく。
ああいう思い込みから解放されてね。
つまり支配とか侵入と言われているものは結局は愛情なんですね。
これが分かりにくい。私のような人間には特に分かりにくい。
精神分析と人間関係の理解
なぜなら母の侵入のせいでひどい目に遭ったという情緒的な感触が残ってるもんだから。
だから奥さんにその差が違うって言われると、なんかこう、家を出てしまいたくなる。
もうちょっと重病ですよね。明らかに重病なんですよ。
これが奥さんの愛情表現だということが分かればですね、
明らかに自分が家を出ようとしてるなんて、もうなんか機械な人間でしょ、それっていう感じしかしないんですけども、
愛情表現なのってどういうことなのって方もいらっしゃると思うんで、
頑張って説明してみると、結局のところこのさらばっていうのは私と話をしたいだけなんですよね。
私の反応を確かめたいんですよ。そういうのってあるじゃないですか。
なんていうのかな、すっごい恋愛に不器用だった私には分かる気はするんですよ。
実は分かるくせに相手にやられると分からないっていうのがこれもまたね、困ったところなんですけど、
例えば私もこう、なんていうのかな、全然脈がなさそうな女性にそれでもアプローチしようと大学の頃とか思ったらですね、
なんていうんだろう、好きな子のスカートをめくりたくなるみたいな、ろくでもないやり方しか考えつかないと言いますか、
なんかこう、セクハラっぽい発言をしてみたいみたいになるわけですよ。
それで、どうしようもない反応だとしても、椿くんおはようしか言われないよりはマシな感じがするんですよ。
なんか何にもそこにないよりは、怒られてでもいいから、こう情緒的な接触が欲しくなるんですよね。
これが、これが結構癖になっちゃってる人っているんですよ。
なぜなら、家庭に情緒的な機会が薄かったからですよね、それは。
うちの母はよく分かるんです。
あのクラーン家だったし、あのおじいちゃん、明らかに私2回しか会ったことないあのじいさんは、明らかにそういう愛情表現が下手っぴだったんですよ。
基本妻を殴るとかしかできないみたいな、これも愛情表現なんですよ。
殴っても出て行かれない、だから俺は愛されてるんだぐらいしかもうできないんですよ。
それは、養育歴がまた非常に悲惨だったんで、何しろ戦時中に空太にいた人ですからね。
こういう風に考えていくとですね、一概に飲んだくれのじいさんがろくでもなかったとは言い切れないことが分かってくるんですよ。
いや仕事していただけマシかもしれないなって思うしかないようなことってあるわけですよね。
だって戦時中の空太ですよ。
どう考えたって大変じゃないですか。
結構いい目を見たとか言うんだけど、そうは言ったって大変に決まってるじゃないですか。
ソ連人とかしか周りにないんだ、ロシア人なんだけどね。
で、こうなった場合にうちの母が、私に対して勉強しろと大声で言うことしかできないという愛情表現でも、
これはもうしょうがないなと考えるわけですよね。
そこに持ってくるとそもそも違うでしょって言うこの妻の調子はまさに愛情表現の変種なんですよね。
亜種なんですよ。
これによって私が何らかの情緒的反応せざるを得なくなること。
そうしないとやっぱり情緒的な不安が払拭しきれないんですよね。
だって全然情緒的な反応がなければ穏やかかもしれないけれども、
ある意味自分が好かれてないとか見捨てられ不安みたいなのを持ってた人にしてみると、
すごい不安になりますよね。
確かに夫は礼儀正しいが、何にも情緒的なものを自分に向けてこない。
私そうなりやすいんで。
ジゾイド感がある人間だからそういうつもりはないんだけど、そうなりやすいんですよ。
ついつい。
なんとなくこう情緒を控えてしまう。
そうすると周りの人に不安を与えますよね。
めちゃくちゃ冷淡だみたいになりかねない。
だからつっつかれるわけですよ。
関係していたい人には。
だからその人は関係していたいというふうに思ってくれてるわけですよね。
つっつかれるということは。
このつっつくというのはやる人は結構やってるんだけど、なぜかやられると動揺するんですよ。
お前、つっつきまくる割にはつっつきに弱いなっていうのは、私まさにそういうタイプなんですよ。
だから私はつっつかれると動揺しがちなんで、
しかもそれを隠そうとするんですよね。
これは母がそうだったんですよ、まさにね。
こういうことが非常にあるわけです。
だからこの陳入というものの解釈を、これが当たりをつけておくということですよね。
愛情表現の一種なんだというふうに当たりをつけておくと。
そうすると声の調子に対する認識とか、これのやってることの意味とか、
その言葉が意図しているその人の本心なりが少し垣間見えてくるんですよね、これが。
私これ、実はChatGPTとのやりとりの中で夢を分析させてるんですけど、認識したことなんですよ。
私の非常に無意識にあるものってのはジゾイド的だっていうのを、
彼にも分かる、彼だか彼女だか知らんけど、ChatGPTには分かるんですよ。
ジゾイド的だと、ジゾイド的で母親の陳入というものを受けているんだ。
そういうことがこの夢には象徴されているから。
だから奥さんとの関係とかでも、母親をつい見てしまう。
それはもうその通りだなと思うんですけど。
なぜ精神力動というものがですね、精神分析でもいいですけど、
この世に普通にそこらじゅうにボンボンボンボンって回ってないのか。
これで解決する問題が、もしかしたら日々殴り合ってるふうだって、
これですぐすぐ円満に持っていける可能性が十分あると思うんですけれども、
あるいはそのさっき言ったような上司のパワハラとかそういった問題も、
ものすごくこれは光をたくさん当ててくる。
別にこれに沿って考えなくてもいいわけです。
参考までに知っておくだけでどんだけ違うかって思うんですけど、
なんで世の中ではもっとああいう横文字ばっかり流行ってるのか。
精神分析も結局病物ではありますけれども。
やっぱりこっちの方が教えてくれること多いと私は思います。
百チャレでもぜひ子出しにやっていきたいと、なかなか出せないんですけれども、
力動系で僕は行きたいなと最近は思いますね。
別にいいんですよ採用しなくったって。参考までにですね。
だっていいじゃないですか、別に。
独身者の愛情の不在
比較的年配の方の独身の不在論の話ですよ。
男性愛情を持ってくれる、別にセクシャルとは限らないじゃないですか。
愛情を持ってくれる男性が欲しいと、そばにいて欲しいんだけどいないと。
いないのが辛いと。
だから接してくる男性が嫌がらせをしてくるという風に空想するというのは、
基本的に一番欲しいのは親切な異性だと。
いいじゃないですか別に。
これがたぶんね、みっともないことだとか、
そんなことを言われる筋合いはないぐらいに言うから、
グッと抑圧することによって、
ストーカーにつけまとわれるっていう妄想に切り替わっていくわけですよ。
それをフロイト流に解釈するのは、
セクハラみたいなもんだみたいなことを言うのっておかしいと思うんですよね。
それじゃあまるで、
一定の年齢以上に達した女性は、
性欲をそもそも持っちゃいけないみたいに言ってるみたいな話になってくるじゃないですか。
持ってないのが正しいあり方なんですみたいな。
共用とかがあれば、そういう性的なものに興味を持たずに、
なんかこう、シューベルトの音楽を聴きながら、
芸術劇場とかにしか行かないんですみたいな。
嫌じゃないかと思うんですよね、そういうことを共用されることだって。
十分に。
それもなんかこう、何ハラっていうのかは知りませんけど、
ある種のハラスメントみたいなもんじゃないかと思うことは多々あります。
共用じゃないだろうと思うんですけどね、私は。