時間の使い方の自由について
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1196回をお送りします。
6月6日、金曜日、朝8時ちょうどです。
はい、えーとですね。
まあ、直前になると起こる現象ですけど、
100日チャレンジの第11期、続々お申し込みいただいておりまして、もうギリ、際どいタイミングだなと思うんですけれども、
満席になるかもしれないし、ギリギリにならないかも。
100名上限ですけど、スタンダードは。
90には届くだろうけど、100以下かはわからない、みたいなペースになってきたなと思いますが、
今日の目標ですよね。目金同の間に、
そうなる10名ずつぐらい行くと、そういう数字になっていくわけですけれども、
あのー、ですね。
そこをギリギリを狙うというのが、お好きな方はともかく、
一応確実に入っておきたいという方は、
是非、明日ぐらいには、
もうわかんないんで、正直。
もうわからないんで、できれば今日中、
それとも明日中、明後日となるともうわかりませんというふうに言わざるを得ませんので、
私のこう、これまで見てきたいろんなものの、
お申し込みのペースから考えて、ここに来て休息なんで、
えっと、是非ですね。
だって、今週始まった時はまだ50に達してなかったのが、
もう70を超え出しているわけですから、
60、今いくつぐらいか。
ちょっと、だからですね、あのー、
是非、お急ぎいただいた方がいいかなと思います。
あのー、私がタスクシュート協会、昨日に、あのー、
Ninte Trainerさんの第3期のですね、
第1号の方が、トレーナーさんに晴れてなっていただいたわけですけれども、
最近こう、思うのはですね、
時間の使い方なんて本当に、
ものすごく自由であっていいと思うんですよね。
だいぶ逆のように考えられて、
まあその逆のように考えられるのはしようがないんですけど、
まあ産業革命以来の出来事だと思うんですけどね。
特にあの、20世紀のアメリカの成功ですよね。
あの時に時間の使い方に正しさ、間違っている使い方と正しい使い方があるというふうになっちゃって、
しかもその正しい使い方っていうのは、ものすごくステレオタイプなものになってしまって、
我々はその、言ってみればこう、
下毒、下毒的な何かを一生懸命しているという感じがするんですね。
だから、時間の使い方に正しいも間違ってるもなくて、
いかに時間というのは自由に使えるかと。
そして、いかに私たちがですね、
それにドッグされているかというのを、
目の当たりにして何とかここから逃れるというために、
タスクシュートを使っていっていただくというのが、
私の方針だなというふうに、
昨日はかなり確信したんですよね。おかげさまで。
だからやっぱりトレーナーの認定試験って意味あるなとつくづく思ったんですけれども、
私はその、どういう方針でっていうのは特に持たない方ですけれども、
やっぱり改めてですね、
タスクシュートというものは、時間の使い方は自由であると。
自由であるに決まってるんですけど、
これがなかなか自由でないんですよね。
いかに自由かということを、
そしていかに我々が不自由な状態になってるかということを、
ものすごくひどい、はっきり言って言えると、
ものすごくひどいと思いますね。
いかにこれをどうやってこのひどい状態から脱するかということを、
昨日そうなんですよ。
精神分析の設定とクライアントの状況
トレーナーの試験をやってる最中に、
僕がしきりに頭の中によぎったイメージに、
フランスカフカの審判の中に出てくる一つのエピソードがあって、
あれ独立したエピソードなんですけど、カフカらしいエピソードなんですけどね。
門番がいるんですよね。
で、非常に単純な話なんですよ。
門番がもう通してくれないと。
で、ものすごい強そうな門番なんですよ。
いかにもカフカらしい。
いろんなものを演奏させますよね。
とにかく通してくれないわけです。
で、ああやってもこうやってもどうやっても通してくれない。
どうしても通んなきゃいけないということになってるんだけど通してくれない。
そしてついに寿命が来てしまって、
ついに通らず通せ…
ちなみにその中でひどいことが、
あれね、なんかね、倉間直三さんのリングにかけろで似たような話あったなと思ったんですけど、
ここを通っても、次に俺の2倍強いやつが待ち構えていて、
お前を絶対通さなくてみたいなことに。
なんか無限に続くわけですよ、その苦しみが。
これもカフカらしい。
で、結局のところ通れずにいるわけで、
その時々にちょっと絶望的なやり取りがいくつかあるんですけど、
この門はですね、最後に門番が教えてくれるんですよ。
この門はお前が通るための門だったんだと。
死ぬ間際にですよ。
これを言って死んじゃうと。
そういうもう救いようのない話なんですけど、
これを僕はね、昨日の認定トレーナーさんとの認定試験中にずっと考えてたんですよね。
それぐらい私はですね、時間が自由に使えるのは自明の羽なのに、
なのに、だって自分の時間なんですから。
全くそうではないことになってしまっている。
これは何なんだって思ったんですよ。
で、昨日それを垣間見たんですよね。
自由に時間を使うというのはどういうことなのかということを、
昨日垣間見ることができて、
いかにこの僕らがステレオタイプから逃れるかしかないなというか、
しかないわけではないかもしれないけど、
いかに逃れるかに、
僕はもう自分の残りの人生は全部かけたいぐらいに、
いかにこうね、自分が期待されていると思い込んでいる時間の使い方をやめるかに限る。
と思いますね。
全然どこにもこう、
だっていかにもじゃないですか。
朝に早く起きるなの。
本を読むなの。
なんか気が付くとそうなっている。
自由に使っているつもりでいるわけですけど我々は、
それがもう強圧のもとに置かれてしまっているわけですよね。
そんなに私がやってることって、
某すぐ近くにある、
ラチの話とかね、ミサイルの話とか、
盛り上がってしまう国の、
あの国では市民が全然自由がないって思われるかもしれないけど、
夜とかにね、みんなで戦勝記念日とかの、
踊りとか踊っているわけですけど、
変わらないじゃんって思うんですよね私は。
時々思うんですよ。何にも変わらないじゃんと。
結局のところ我々だって、
iPhoneとかiPadとか、
そういうものを駆使して、
有効活用して、
自分の人生の価値を上げようと思って、
みんなで同じようなことをやっているじゃないですか。
緑の葉っぱ食べて、散歩して、
朝早く起きて、健康に生きて、
誰もが同じようなことをやるじゃないですか。
そして自由だと思っているわけじゃないですか。
多分、あの国の人たちだって、
自分自由だと思っていると思うんですよね。
自由に自分の国家原子を讃えるパレードとか、
そういうものをやっていると。
自由にやれと言われても、
同じことをやると思うんですよね、基本的に。
そうじゃない人はいると思いますよ。
私のようにひねくれた人間は、
世の中にはいるものなので、
でも私は基本的に自由じゃないなって思うんですよね。
だから自由になるということを、
常々考えておくと、
置かないとすぐそうなっちゃうなと思うんですよ。
自分の好きに時間なんて使い込めばいいのに、
使えるだけ使えばいいのに、
無くなりもしないのに、
無くなるという思い込みも持たされた上に、
貴重だからこう使わなきゃいけないと言って、
他の人と全く同じような使い方を目指していって、
しかもそれに失敗し、勝手に自責する、
ということが起きているんだと思うんですよね。
これを何とかしましょうねというか、
そんなことを言っているのは、
私だけかもわかりませんけど、
でもそういうことだよな、
Jさんがよくおっしゃっていることもと思いながら、
昨日やってました。
思わず長くなりましたけど。
というわけで100日チャレンジ第11期が、
今週日曜から開催します。
来週日曜と言えばいいのかもわかんないけど、
6月8日からですね。
金土日だ。金土なんですよ。
ギリギリだなやっぱりな。
日曜日もまだいっぱいになっていなければ、
募集続くと思います。
今日はですね、
この話とはあまり関係ないか、
精神分析の、
久しぶりにですね、
藤山直樹さんの俗精神分析という営みを読んで、
やっぱりこう改めて今読むと、
いつ読んでもですけど、今読むと、
もう本当一行一行が身につまされると言いますか、
素晴らしいねっていう感じがします。
やっぱりこういうふうに書いておいてくれる人がいるというのは、
なかなかこう書けるもんではないですけどね、
こういうふうに書いている方がいらっしゃるから、
自分は今これを、これやってるって藤山さんが知れば、
絶対いい反応もいい応答も、
いいコメントもいただけないと思うんですけれども、
今すぐ直ちにやめろって言われそうな気がするんだけど、
でもやっちゃうというのがね、
こういうふうに私は生きていくより他ないなとは思っていて、
で、ここにですね、冒頭に、
ある不幸という言い方は、
つまらない言い方だと思うんですけど、
ある、思わしくない、
下積水もしたような、極めてよく、
事実上鬱なんじゃないかっていう感じの方の女性が冒頭で、
これは明らかに実話そのものではないと思いますけどね、
やってきて藤山直樹さんが、
週1回50分設定で精神分析を始める、
精神分析を始めると言ってみたところでですね、
別に始まるのは普通に心理カウンセリングなんですよね、これはね、
なんならこれ人生相談だと思いますね、ある意味。
もちろん藤山直樹さんは精神分析家であって、
やるのは精神分析なんでしょうけども、
これ、構造とか設定とか、
それがとても大事なのはともかくとして、
でも中の描写をしたとき、構造とか設定のどんなカウチで、
何時に来てみたいな話は書いてないわけじゃないですか。
レポートじゃないんで。
論文だとしても、読んでる方としてはエッセイなんで。
だからやっぱりやり取りみたいなものが起こるわけですね。
この女性は、これで精神分析受けるってのはどうやるのかなっていうのが、
すごい引っかかりはしたんですけれども、
旬に一回だから精神分析に両方ですけど、
とはいえどうやるのかな、どうしてここに来れるのかなこの人は、
っていうのがどうしてもあるんですけど、
それはいいとしまして、
そこは問わないことになってるぐらいに思っとくしかないと思うんで。
引きこもっていて、お父さんは普通に文具屋やっていて、
夜酒を飲みながらナイターを見る以外、
これといった楽しみがない人で、
その娘である彼女の、こういう部活がやりたいとか何々が欲しいといっても、
全部無視してダメだダメだになってしまって、
そしてやたら怒るだけみたいな、大変暗い話ですね。
お母さんはそういう娘さんの側には全然立たないくせに、
まるで自分の一部であるかのように扱うわけですよ。
だからシンデレラお掃除推しの世界なわけですよ。
学校の勉強終わったらすぐ家の手伝いやらされてみたいな感じで、
ずーっと家にいなきゃなんだかなって、
気が付くとお母さんの受け皿になっちゃうわけですね。
お母さんが大変なので、お母さんのコピーロボットみたいになってって、
とにかくお母さんの愚痴を聞き、お母さんの手伝いをし、
彼女の人生がどこにもないみたいな、
そういうことをずーっと指して疑問にも思わず、
そこの疑問を圧殺されて、抑圧されてしまうわけですね。
家庭内の複雑な関係
変形的な話に聞こえるんだけど、
これのバリエーションをいっぱい聞くな、私って思うようになりました。
これのバリエーションを3ヶ月チャレンジで伺っているだけでも、
これはこういう言い方をしても通らないから、
こういう言い方はしてもしょうがないんですけど、
このバリエーションを聞いているだけでも、
例えば夫婦関係で、
奥さんとの関係が思わしくないです、という方はですね、
例えば3ヶ月チャレンジではどういうふうに考えるかというと、
奥さんに共感的に寄り添うとか、そういう家事をやるとかね、
そういうのは大事だと思うんですけど、
でも、なんか拉致が開かないと思ったらですね、
そもそも一体全体何が起きているのかを、
我々は知っているんだろうかということを、
よくよく考えたほうがいいと思うんですよね。
例えばこのうち、このお父さんは酒を飲んで、
ナイター中継を見て、分解をやって、お宮へ結婚して、
奥さんをなんかこうもう召使いのように扱っていて、
めっちゃエバってるけど、
自分のお母さんには全く頭がならない、
非常に分かりやすい話がここにあるわけですよ。
このお父さんを引っ張ってきて精神分析をやればいいのに、
って思うぐらいの、なんかあれなお父さんなんです。
このお父さんがしかしですね、
例えばですよ、
例えばこれを聞いている方が、
妻が口を聞いてくれません、
っていうのをこのポッドキャストでも、
あの話は辛いなと思って、
僕読んでたんですけど、
今読むと全然辛いなとは思わないですよね。
いやいや、この家庭は厳しい家庭だが、
私がこれを辛いと思う理由は、
今や全くないと言っていいなと。
あれですよ、
妻が、私の妻が口を聞いてくれるから、
そう思うんだろうと言われれば、
これはそうかもしれませんし、
他人事だって意味じゃないですよ。
妻が口を聞いてくれないというのに、
同情はしますけれども、
でもね、観点を変えるって大事なんですよ。
例えばこのお父さん、
この奥さん、
全然口聞いてないですよ、
この奥さんと。
多分。
で、科目で勝手に、
勝手じゃないです、
科目で文芸やっていて、
多分そんなに売り上げが素晴らしいってわけじゃないでしょう。
街の防具屋さんだから。
そして黙ってむすっとして、
ないた中継見て、
酒を飲んで、
娘がちょっとお父さんこういうことを、
ダメだっていう。
もうなんか最後まで言わなくても、
もうダメだっていう。
そしてなんか帰りが遅いと、
めちゃくちゃ怒鳴るみたいな、
このお父さん。
妻が口を聞いてくれなくて、
悩むことは一瞬もないと思いますね。
そうじゃないですかね。
でもこの奥さん多分、
ほとんど夫と口を聞く気に慣れてないと思うし、
口聞いてないと思うし。
これが深刻な問題なのか、
どうでもいい問題なのかは、
その人のどういう観点を取るかによって、
全然違うんですよ。
もちろんあれですよ、
どうでもいいと思ってるから幸せだって言いたいわけではないんですけど、
どうして奥さんが口を聞いてくれないということに、
そんなに思い悩んでいるのかということは、
どうに値すると思いますね。
どのようにすれば、
円満な家庭が築けるだろうもいいんだけど、
もう一つその前に問いがあるだろうと僕は思います。
円満な家庭になぜこだわってるのかっていうことですよ。
それは円満じゃなくていいってことではないですよ。
私が言いたいのは、
円満な家庭でなければいけないというこだわりを持っていないかっていう問いを、
立てなきゃいけないと思うってことですね。
これを理想形だと思うから、
いやうちはもうなんか冷え切っていて地獄だみたいに思うかもしれないけど、
でもこのナイター中継見ているお父さんは、
そんな風には全く思ってない。
で、我々の世代、上の世代、つまり段階の世代からその周辺、
1世代上なだけで、
そういうお父さん5万と言いました。
全体の半数超えてるかもしれない。
つまり円満な家庭などというものを理想形だと、
全く思っていない時代が、
つい1世代上にあったってことですよね。
なのに、我々はハンデをしたように、
さっきの話と似てくるんですけど、
ステレオティビカルにですね、
円満な家庭が理想的な人生の必須の1ピースなんだぐらいに思ってるんですよ。
価値観の変化と影響
なぜ1世代でこんなに変わったのか。
で、そんなに1世代で変えられるかっていう。
で、結局のところ円満な家庭を築けてない俺ダメな人間みたいな、
なんか令和の男としてはふさわしくないぐらいに思うのかもしれないけど、
そんなに簡単に変われるものなんだろうかっていう風に、
考えてみる価値はあると思うんですよね。
だって1世代上はナイター集計見て、
飯とか言ってるだけでいいと思ってたんですよ。
そして奥さんが一言も口聞かなくたって、
そのことに何にも思い悩まなかった世代が、
つい1世代上、せいぜい1.5世代上なんですよ。
このことを考えてみると、
人類何万年という歴史を持ってきて、
円満な家庭を築くというのがそんなに簡単なことなんだろうかと。
で、理想的な話なのかと。
まあ理想的な話だとするんでもいいんですけれども、
全然。
そうでないなら地獄であるっていうのは、
どっから来たんだろうねっていうのは、
私はこれはですね、
妻が口を聞いてくれませんの漫画を読み直してみて、
どこにも書いてないなそのことと思ったんですよ。
なぜこの状態ではダメなのかについては、
全く検討されていない。
それって不思議なことじゃないだろうか。
だってつい最近まで、
つい最近を何年前っていうのは難しいんだけど、
まあ少なくとも昭和においては、
この状態をダメだと思う人は、
あんまりいなかったんですよ。
それ自体が不幸だろうって言うんだったら、
もう革命ですよね。
だって世の半数が当然だと思ってるものを、
ひっくり返そうっていうわけじゃないですか。
ってかひっくり返っちゃってるんだけど。
ひっくり返るのはいいんだけど、
良いことだぞ、
信仰的だというのはいいんですけど、
信仰的なものには副作用があるんですよ。
でかい副作用があると思うんですね。
だって、
共産主義って信仰的ってされてたじゃないですか。
副作用は大きかったですよね。
大きかったと思うんですよ。
でもまあ、しゃあないですよね。
そういう考え方は当然出てきますよね。
だから出てくるのはいいんですけれども、
それがそんなに簡単で、
確実に人間を幸せにするという保障は、
僕は多分ないと思いますよね。
まあこれはちょっと脇道に話がされましたけれども、
このように厳しくっていうか、
圧殺された、
圧殺って言葉がまさにふさわしい、
なんかこう暗ーい感じに育ってきた、
30代前後の女性がやってきましたと。
当然、本人はもう全く意識できていないレベルで
マゾキスティックですと。
一つここで考えてほしいんですね。
こういう女性と結婚して、
この女性が自分と口を聞いてくれない時期というのが
やがてやってくる可能性はどれくらいあるだろう。
めちゃ高いと僕は思いますね。
めちゃ高いと。
だってこの女性は自分の欲求とか、
自分のまあ、
欲動みたいなもの。
圧殺するのが当然だと思ってるわけですよ。
圧殺してることにもしかして気づいてないかもしれないですよ。
つまり、こうなんか潤いのある家庭とかね。
こう、何でもいいんですけど交流豊かな家庭とか。
そういうものをある意味知らないわけですよね。
そこに大きな価値観も価値を持ってないと。
で、ぱっと見、
わかんないですけど、
なんかおしとやかそうで、
なんかすごくこう真面目そうだとかいう理由で
こういう女性と結婚して、
結婚してしまったらって言わなきゃいけない。
結婚した場合、
何か思わしくなくなった時に、
ずっと、
まあ事故抹消とかって言うんですけど、
抹消的になっていって、
何起こってんのとか言っても、
いや別にってなるんじゃないですか。
そこに不思議さがあるだろうか。
そこにものすっごく、
ある種の男性は意味をつけちゃうんだろうけれども、
その意味多分完全に間違ってますよ。
そういうことではないよねってことですよ。
だってそれでおかしなことだと、
全く思わない家庭がいっぱいあったわけですからね。
で、それがおかしなことだと全く思ってない人が、
なんでこれではダメなとこの人思ってんだくらいに思う。
自分が不機嫌だということにもあんまりよくわかってなくて、
普通にしてると思っていて、
でも夫から見るとめっちゃ不機嫌そうに見える状態が、
ずっと、もしかすると10年でも維持できてしまうというか、
だから引きこもったわけですけどね。
で、体調も崩し、
だとしても、これもまた非常にひどい話なんだけど、
こういう家庭なんで、
お父さんナイターを見ていて、
お母さんはただただお父さんの世話をしていて、
それも面白くもなく世話をしているんだけど、
それは当然だとそういう人生観を持っているお母さんがいて、
いやもうなんかやってられんわみたいになって、
引きこもって寝ました。
あんた、会社行きなさいみたいに。
体調が悪い、
いやじゃあ病院行けばいいでしょうってことになる。
で、病院に行くと何が起きるかっていうと、
お馴染みですけど、
いや体はどこも悪くないですね。
体は何も問題ありません。
ほらあんた怪病じゃないの。
心身傷とかないんですから、
そういうご家庭の世界では。
だから、
ああ、あなたはただの怠け癖なんだから会社行きなさい。
こういう世界ですよ。
こういう世界に言葉っていらないじゃないですか。
喋るのって意味ないですよね、ほとんど。
何か話してみたところで、
無駄だって感じしかしないですよね。
何か訴えることに何の意味もないと。
だから私最初にさっき言ったんですよ。
こういう人がどうして精神分析を受けに来るだろうと。
で、作られた話なのかもしれないし、
実話なのかもしれないけど、
お母さんに伴われてって書いてあったんですよ。
不思議だなって思ったんですよ。
このお母さんがこの娘さんと一緒に精神科に来るだろうか。
心理カウンセリングか。
心理臨床を受けに来させるだろうか。
来させるイメージが湧かない。
でもまあ行き詰まりがひどくなれば、
来させるのかもしれない。
本人は多分、
ここで話して何になるんだって思ってますよね。
お母さんだっておそらく、
これの意味が何か意味があるものだとは、
多分感じてないですよね。
だから、慈悲でって書いてあったんだけど、
この慈悲は誰が一体出してるんだろう。
支援者の役割と課題
だから私は3ヶ月チャレンジというものを作ってるんですけれども、
これにしたってでも、
3ヶ月で700円とかじゃないんで、
それだったら誰でも本当に受けられるんだけど、
それだと僕はやっぱりですね、福祉になっちゃうんで、
福祉サービスをするとなるとやっぱり、
国からの援助金とかが必要ですよね。
3ヶ月お一人様1000円とかでこれをやっちゃったら、
僕は絶対に生きていけなくなってしまうんで、
資産家の一人息子だからいいんですけどね。
まあそういったわけでですね、
一応でもそういう設定になっていることになっているので、
話が進行していくと。
で、この女の人はですね、
自発的に来るようになるんですよ。
この話を最初に読んだ時は僕は、
ああなるほどね、
藤山さんがすごく親切にしてくれるから、
こういうのに自発的に来るようになったんだという風に、
全く誤読したわけっていうか、
ほとんど理解できてなかったんですよ。
心理臨床毎週1回話を聞いてくれると。
で、引きこもりが良くなっているわけでもないし、
体調も良くなっているわけでも、
元気になっているわけでもなんでもないのに、
藤山先生がお話を聞いてくれて、
優しいから来るようになったんだ、
という風に思ってたんだけど、
論外ですよね、そういう読み方は。
内的葛藤と緊張状態
全然ないじゃないです。
そんなことあるはずがないですよね。
仲良く金払ってるんだし。
そうではないはずなんですよね。
ここにはすごい矛盾がありますよね。
でもこの矛盾に、まず僕らは突き当たるんですよ。
このように何を言っても無駄だ、
何をしたってダメだって思っているぐらい、
完全にマゾキズムと言ってしまいますけどね、
自虐的な思考が、
完全に信念になって染み付いてしまっている人が、
自体を打開しようと思う理由が、
思うことができないはずですよね。
つまり来なくなりますね、普通に考えると。
でも来るって、
そこにはもう極度の緊張感が生じてますよね。
絶対彼女はバカじゃないんだから、
何しに私ここに来るんだろうって問いを、
立て続けながら来ますよね。
お前ここ来たってしょうがないじゃんっていう、
そう思いながら来ることになりますよね。
つまり猛烈な自己矛盾を抱えてきますよね。
これが見えてこないと、
こういうものを読んでいても、
よく理解できていないことになるんだなと。
だから僕、今回読み返すまで、
もう何回読み返したか分からないぐらいなんですけど、
明らかにそういうことがよく分からずに読んでたなと思うんですよ。
属性新聞石という営みの冒頭の話なんですよね。
冒頭にこれを置いているのは当然、
少なくとも日本においては、
こういう感じの先進症なのか、
そういったものを持っている女性というのが少なくない。
特にこういうところにいらっしゃるところでは少なくないから、
多分筆頭にこれが用意されてきたんだろうなと。
今なら私もよく分かるんですよ。
これ自体が矛盾した行動なんですよ。
何しに精神分析を受けに来てるんだか、
全然意味が分からんっていう感じなんですよ。
でもここにもあるわけですよ。
自虐以外の事故っているわけですよ。
なんとかなるんじゃない?
だってそう思わないんだったら、
意味がないじゃないですか。
両親は一枚岩のように話にならないっていう表現があるんですよね。
一枚岩なんですよ。
音源8時以上みたいな。
部活ダメ以上。大学ダメ以上。
全然何にもならないわけです。
自分の人生はどこにもないみたい。
ただお母さんの口を聞いて、お母さんの手伝いをして、
会社に行ったら家にお金を入れて、ただそれだけっていう。
そういう状態が延々続く。
昭和中期ならまだしも平成とかになってきて、
周りの人全然そんな人いないわけじゃないですか。
だからめちゃくちゃ人生観が重々しくなりますよね。
その中で何とかしたいと思う自分っていうのがいるから、
自発的に分析受けに来ることができるようになってるわけじゃないですか。
そうすると内的にはすごいその人の中に緊張状態が生まれますよね。
何とかなるから何とかしたいっていうのと、
お前何やっても絶対無駄だよっていう自分に分裂して引き裂かれていますよね。
来れるだけでもすごいよねってことが起きてるわけじゃないですか。
ここで藤山さんが解釈を強めにやるようになっていくんですよ。
どうしてそういうことが起きるのかっていうこれは物語なんですね。
藤山直樹さんがどんどん解釈を投与するとか、
ムキになって解釈するとかいう表現が出てくるんですね。
なんでかっていうと、
この弱々しい状態というものを何とかしたいっていう風な圧がかかってくるわけですよ。
簡単に言うと先生何とかしてくださいと、
私ここまでやっと来れてるんだから何とかしてくださいっていう、
そんなこと言うはずないし態度にも出さないと思うんだけど、
シチュエーション上そういうことが語られていることになっちゃいますよね。
この状態に入ったら。
めちゃくちゃマゾキスティックな人なんだから、
ここに来たら、ここに来てもどうしようもないと思ってるんです私は。
でも何とかしてください。これおかしいじゃないですか。
でも私はこういうことに3ヶ月チャレンジをやっているうちに、
ものすごくぶつき当たるっていうことを実感できたので、
何とかしてよっていう感じでここにいらっしゃるんだけど、
それは明らかに私には何ともできないなっていう、
でも何とかしなきゃいけない。
だって何とかすることになってるから3ヶ月で何とかすることになってるからある意味では、
そういうことを謙識上は歌ってなくても構造上そうでなければおかしいから、
結局これは何とかなりますっていう一方でそういう看板であり、
一方では何ともならない問題がそこに投入されてくるわけですよね。
何が起きるかというと、この圧が強くなってくるとどうなると思いますか。
何とかしてください。私何ともならないと思ってるんだけど何とかしてください。
この矛盾したメッセージを絶え間なく発されていて、
お金は払われていく。時間も経過していく。何が起きるか。
藤山直樹さんがそうなるようにみんななると思うんですけれども、
自分何の役にも立たないじゃん。だめじゃんって感じがするじゃないですか。
いつものこの番組でもおなじみの話ですけど、
だめじゃんっていう感じになるじゃないですか。
私ここのところで岡田海斗さんの野の医者を笑うはいいなって思うんですよね。
彼らは本当に。だってここの時にハンドパワーとかを使うことができるじゃないですか。
ねんじるとか、果物を取り除くとか、あるいはものすごく水玉をやるとか、
あるいは生命判断とか。
とにかく何か持ってるわけですよ。タスクシュートとかでもいいんだけどね。
タスクシュートはミラクルっていうイメージには程遠いんで、
水晶玉とかのほうがある意味いいわけですよ。
何かあるわけ。ここに来て。
どうにもならないんだという。
だって現実から考えて現実問題どうにもならないじゃないですか。
お父さんナイターを見て酒飲んで酔っ払って、
自分が8時を超えるとヤダラと鳴り出して、
お母さんもめちゃくちゃそれを嫌って、
家から自分が出ようとするともう気分が悪くなる。
だけど気分が悪くなっても体はどこにも異常がないっていうことになって、
会社行きなさいと言ってんだけど自分は布団から出られない。
どうしようもないですよね。どうしようもない。
なんとかそれでも頑張ってきて、
私は直樹さんが解釈とかしかしないわけですよ。
なんだそれって感じになっちゃうじゃないですか。どうしても。
だったらトランプでエースとか出して、
このカードを持っていけばあなたはもう明日から大丈夫だからって、
いう方がまだマシなような感じがしますよね。
解釈とかするって。その解釈も当たり前のような解釈なんですよ。
あなたがそんなに頑張ってたからお母さんはなんとか持ってたんだねとか、
そういう解釈なんですよ。自我指示的な。
しかもこの女の人それすらピンとこないんですよ。
そういうもんなのかなぐらいな感じなんですよ。
なんかそれが当たり前みたいになっちゃってるから、
お母さんの愚痴を聞いてることに意味があったのかなみたいな、
ただ聞いてただけだけどみたいな、そういう感じだったら、
もっと反応薄いんですよ。ほぼ反応ないんですよ。
そこで藤山さんが、これはもう心理臨床であろうと大人支援で、
ミラクルが使えない人はみんな同じで、
劇的に効果あるよみたいなそういうことが言えない人は、
劇的に効果があるものが学術的かどうか関係ないんですよ。
例えばユングのハコニア療法みたいなのをこういうところにぶち込んで、
あるいはコラージュみたいなのをして、
そして強めの解釈を、それは間違ってるって意味じゃないですよ。
デタラメだって意味でもないです。
ただ強圧的な解釈を与え続けることによって、
あなたは変われるんだみたいな、大丈夫なんだみたいな、
ここのこういう風になってるのを取り除けばいいんだみたいな、
言うことはあんま変わんないのかもしれないんですけれども、
態度が違うんですよね。
だから野の医者は笑うだけじゃなくて、野の医者は怒りもする。
野の医者は演説もするんですよ。
とにかくエストを引きずり出すみたいな感じなんですよね。
支援者の役割と解釈
そして、言ってみればそう状態に近いことになっちゃうんじゃないかなって思うんですけれども、
でも藤山さんは精神分析家でちゃんとしてるから、そういうことはしない。
そういうことはしないということは、ある意味どういうこともしないということです。
ミラクルが起きないんで。
そうすると、あなたはそうやっていっぱい家事をして大変だったね。
いやそんなことを言ってもらっても、お金払って時間かけて、
やっとの思い出来て言われても、どうしようもない。
でも事実としてこれを認識するより他、どうしようもないっていうこともあるわけですよね。
唯一の手鶴がこの強圧的な家に育てられて、
お母さんのそのあんたは家にいて、
私の分身のすごい惨めな部分の受け皿になってねっていうこの無意識ですよ、もちろんね。
お父さんとなんか話したってしょうがないんだから。
とにかく私の横にいて、家を聞いて、家事を手伝って、
要するに私もう一人じゃ持ちこてられないから、お母さんが。
もうこんな人生やってられないから、せめてあんたも一緒に同じような目にあってよっていうこと。
これに対する無言の抗議として布団から出られなくなってる。
ここは誰が見たってわかるじゃないですか。
ただこれを繰り返していくわけですよ。
そしてどこかに藤山さんに支援者みんな同じことが起きますけど、
このマゾキスティックなですね、自虐的な人生観が乗り移ってくるわけですよね。
こんなことをお父さんとお母さんに何言ったって無駄だ。
私の人生で何か誰かに向かって何か交渉したり話をしたって何も打開できるはずがない。
でも来る。
これが藤山さんに乗り移るわけです。
この分裂がまっそっくり乗り移っていくわけですね。
つまり解釈なんかしたって無駄だと。
だってこの人全然反応してないしね。
そこでも希望を持つとすると強めるしかないですよね。
必死になって解釈をするみたいな変な現象が起きるわけですよね。
でもこれは私身に覚えがあるから読んでて意味がわかったんですよ。
身に覚えがあるわけです。
強めに言うとか興奮するとか無気になるとか、そういうのはまだいいんですよ。
もうなんかですね、これだけが唯一自分にできることだし、頼む聞いてみたいな、そういう感じになっていくわけです。
静かになってくるんですよある意味。
で、頼むからわかってくれるんですよね結局ね。
だって結局そういうことですよね。
この女の人もこのご両親に頼むから少しは私の話を聞いてほしいと。
みんな楽しそうに旅行とか行って、お母さん心配して電話かけてくるのに、うちには、私には電話かかってこないと。
例えば修学旅行とか行ってもね、心配は全然してくれないと。
なのに8時には絶対帰ってこいと言うと。
なんとかこれをわかってほしいと思ってる自分はいるわけですよ。
支援者の葛藤
そういうものがそっくり乗り移るわけですよ。
でもこれを、これ分裂してますよ。
ですよね。
一方では無駄だと完全に諦めてる。
他方ではわかってほしいと一心に訴えてるっていう、この構図がそっくりこの精神分析の場面に、
えーと、なんて言うんですかね。
あのー、激化するとかいう言い方もしますよね。
その場で再演されてしまうわけですよ。
藤山さんが一生懸命、一生懸命になって解釈すると、
それと彼女は泣くと。
SMになっていくわけですよね、だんだん。
解釈が、サリズムって藤山さんが書くからSって言っちゃいますけど、
別にSMのSってわけじゃないと思うんだけど、
言うと、彼女は泣くと。
で、なんで泣くのかっていうのはもう一つ大事なポイントがあって、
なんだかんだ言って、お母さんは受け皿になってほしいと。
お母さんだってかわいそうじゃないですか。
このお父さんの横でね、泣いた見てるお父さんの横で、
枝豆とか出して、ご飯とか出して、で、何にも喋らずにいて、
えーと、そのまま一日が終わり、
翌日全く同じようなことが、そんなに稼ぎもない文房具になるわけ。
ここがわかんなくなるんですよね。
その乏しい稼ぎを使って、
この子を精神分析に受けさせに行くだろうか、この家で。
私にはどうしてもそこがね、着前としなかったんだけど、
まあ本当にそういうことがあるのかもしれないし、
他にも様々なことがあるのかもしれない、遺産とかあったのかもしれないし、
わかんないですからね。
昔はワブルだったから、もしかすると文房具屋も結構すごく儲かってたのかもしれないし、
わかんないですからね。
わかんないんですけれども、ピンとはこなかった。
ということはありました。
で、とにかくこういうことを解釈して、
お父さんとお母さんの受け皿にならなくてもよくて、
あなた自由に家を出てもよくてっていう話をすると泣く。
なんで泣くか。
やっぱりお母さんのそばにいたいから泣くんですよね。
ここはわかったんですよ、なんとなく。
なんとなくですけど。
こういう話なんです。
話はまあこれでだいたい終わりなんですけれども、
こういう話はいっぱいあるなと思います。
だからやっぱり私は精神分析だけの知見にしておかない方がいいんじゃないんだろうかと思うんですよね。
相談者との関係
会社にだってあると思いますね。
対人支援ということをしている。
何らかの形で。
だって何らかの形で対人支援するってことはいっぱい起こるじゃないですか。
ワンオンワンとか個人セッションとかやれば、
絶対そういうところには発生しますよね。
こういうことがわかってないと、
やっぱりこの分裂感というものが分裂しなければ人は相談には来ないと思うんですよ。
ある意味、極論に言えば。
役に立たないって絶対思ってますよね、内心では。
だって自分の言い分が通らないから、
何らかの意味で。
自分の思った通りの人生にならないから絶望してるわけで。
この絶望感を一方に持ってて、
他方ではでも何とかしてくれるんじゃないかという希望を持つから、
相談者のところに来ると。
この気持ちが、この分裂した気分が何とかなるんじゃないんだろうか。
どうせダメだっていうこの2つの分裂した気分が、
そっくりそのまま相談という窓口に入って、相談のルームに入ってきたら、
どう考えたってSM感が出てきますよ。
いやいや、こうやれば何とかなるからとか。
分かんないですよ。
でもコーチングであろうと、行動療法であろうと、
同じだと思うんですよね。
何とか伝えようとしますよね。
だって希望を持っていなければ、相談を受ける側の人間は、
結局のところ自分の存在意義を問われるじゃないですか。
無駄なことやってんなっていう気持ちは、いくらもあると思うんですよ。
プロであればあるほど、むしろ無駄なことやってるなと思うと思うんですよ。
そじ山さんはここに、どんなに成熟した臨床家だって、
支援的な自己愛っていうものは絶対持ってるはずだって。
そりゃそうですよね。
支援的な自己愛っていうのは、要するにやりもしないうちから、
誰も来てもいないうちから、俺ならできるっていう気持ちですよね。
これがないんだったらやってらんないですよね、そんな仕事。
だって絶対にできるって保証なんかないじゃないですか。
どうせコミュニケーションしかできないんだから。
支援って言ったって、お金払えるわけじゃないし、
仕事用意できるわけじゃないし、結局のところコミュニケーションしかできないんだから、
無力感っていうものにやられそうになるわけですよね。
マズキスティックな気持ちになってるわけですよ、どっか。
そこにマズキスティックな人が来るんだから、
どうせダメですよ先生、私の人生うまくいくはずないです。
何とかしてくださいねっていう、こういう調子の人が来るわけですから、分裂しますよね。
そこで今僕が少し高揚して喋ってるように、必死になっちゃう。
さらにここを通り過ぎることが散々あって、ピークを過ぎて、
必死にすら慣れなくなっていく。もっとマズキスティックにやられていくんですよね。
それでも続けるとなると、ある種のサディズムですよね。
相手が泣こうが、泣くんですけどこの女性は。
泣こうがなんだろうが、一生懸命に解釈をすると。
あるいは私の経験ではですね、静かに解釈をするみたいに。
だからつまりこういうことなんだと思うんだよっていう、
これを理解してください、お願いしますみたいな、おかしな関係になってるわけですよ。
同じだと思うんですよ、これはもう寄り添う療法だろうと、コーチングだろうと。
そこから抜け出しましょう、頑張りましょう、私も応援してますからみたいな、
もうなんでもいいんですよね。最終話の選挙みたいになっていくんです。
あともう一歩なんですみたいな。
なんかこう、本当にどう思ってるのかわけわかんないなって感じになっていく。
この分裂状態が、あやうくもうすぐ自分の支援的自己愛というものが、
自分の中の無力感とマゾキスティックなものにやられそうになるという、
この緊張感というものがそのルーム全体を覆っていくっていう感じになるんだと思います。
プロセスの複雑性
っていう話を読んで、そうだ全くこうなる。
一行一行が正しい感じがする。いやわかんないですけどね。
でもまあ本当にそういう感じがするなというふうに思った。
まあただそれだけなんですけれども。
で、これだけにですね、やっぱり最初に訴えてきたことは確かに最後の答えになるんだけど、
そこの途中で通るプロセスはもう意味わからんものなんですよね。
首相っていう言い方もするかもしれないけど、
雷壇竜でもなんでもいいんですけど、酸化動機でもいいんですけど、
私たちはもう基本的に非正規ですから、酸化竜、酸化動機、酸化竜なんでもいいんですけれども、
最初に持ち込まれたものは確かに最後に関わってくるけれども、
途中のプロセスでは全然関係ないところに行ってしまうんですよ。
多くの場合。だからこの最初の話にこだわったのに、
なんていうのかな、こだわりきれなくなっていくっていうのかな。
途中で展開が変わるんですよね。やっぱり上山さんもこのことを強烈に意識するようになってから、
結局のところこういうサディズムに身を任せているっていうこと自体が、
彼女の人生の再現に過ぎないんだと。
でもこれはですね、いろんな、こんなに分かりやすくないから、
結局この話、私最初の時分かりにくい話だと思ったんだけど、
これはものすごく分かりやすい方の話であって、
これよりもずっと事態はややこしくなる。展開としてはややこしくなる。
それは私が非正規で訓練を受けてないからだけじゃないんだということが、
ようやく分かってきたんですよ。そういうふうにシンプルにはできてない。
もっといろんな要素がはんでくるから、
これほど単純な構造にまとめることは滅多にできるものではなくて、
もっとやっぱり複雑なんですよね。で、分かりにくい。
で、例えば途中でお話した、妻が口を聞いてくれませんなんかもそうですけれども、
いや、だって、口を聞いてくれないんじゃなくて、
単に口を聞かないのが当然だと思っているだけかもしれないですし、
分からないんですよ、要するに。
全く意外なものが飛び出してくる。
この話の中にはそれほど意外性はないかもしれないですけど、
でもやっぱり一つ意外なものがありましたよね。
このお母さんと一緒にいたいと。だってこの娘さんにしてみると、
お母さんの受け皿になるという以外に、
自分のアイデンティティの置きどころが何もない。
生きてる理由ってのがお母さんの受け皿になる。
これをやることでお母さんを愛してくれて、
自分が生きている意味ってものがようやく、
他の人にしてみればしょうもないって思うんだけど、
それはその人がいろいろ持ってるからであって、
そうじゃない場合にはこれしかないんですよね。
だからマゾキスティックなんですよ。
自分の存在意義が認められるか。
藤山さんの解釈というのはある意味、
それをぶち壊してくることになるわけですよね。
お母さんからあなたは自由になってもいいんだよっていうのは、
親切なようでいて全然そうではない。
そういうふうに言わないにしても、
結局そういうことになる解釈は全て跳ねつけられるわけですよ。
結局そういうことになる解釈。
つまりこの娘さんが自立できるということに、
自立を支援する、そのために来てるんだけど、
布団から出て元気になって生活できるようになっては、
むしろ困るわけですよね。本人にとって。
そうしてしまったら、自分一人で生きていけることになり、
その暗い圧殺する家から出ることになってしまい、
お母さんがかわいそう、
お母さんのために生きてきた私のこともかわいそう、
ということになっちゃうので、だから泣くんですよ。
っていう話なんですよね。
このバリエーションはやっぱりたくさん経験するなって思うんですね。
そういうふうに考えてみると、
私はちょっと飛躍があるように聞こえるかもしれませんけれども、
例えば妻が口を聞かなくなったと。
奥さんがやたらと自分に対して嫌味を言うだの、批判的だのというのは、
もう全く違う光景に見えてくる。
例えばそれは愛情表現でしかないんだということが、
あまりにも自明になってくる。
私がここにいるっていうことがわからないっていうものの見方があるわけですよね。
お母さんの犠牲にならなければ、
自分が存在している意義ってものが感じられないっていう人の感性を考えるならばですね、
例えばすぐ隣にいる人が黙ってニコニコしている。
あ、この人も私のことどうでもいいと思ってんだってことになるじゃないですか。
わかりにくいかもしれないけど、そういうことってあると思うんですよ。
いくらもあると思うんです。
だからケチをつける。
なんでニコニコとかしてるんだ。
気分悪いんだけどって言うと怒り出す。
そうするとその人は自分が存在していて、
自分に嫌味を言われるのは嫌なんだから、
自分のことが好きなんだっていうことが確認できたりするじゃないですか。
こういう観点をたくさん持つことができるようになりましょうというのが、
ある意味3ヶ月チャレンジなんですね。
わからないんですよ、その人自身も。
何を自分がそうしてそうしているのかといったことは。
自分の存在意義みたいなものを普段全く感じられない人にしてみると、
本から出られないから怒られる。
怒られることによってようやく自分の存在意義が明らかになってくる。
困るんだけどあんた寝てるとって言われるとは、
そうか困るのか、この人困るんだなと。
自己アイデンティティの確認
これをもう少しソフトランディングするために精神分析をやってですね。
これは俗、精神分析という営みを読んでいただくとよくわかるんですけども、
軟着力ってこういうことだよなと。
本から出なさい、出たくないっていうこのやり方以外にも、
あなたのアイデンティティを確認というか、
確信する方法はありますよっていうのに、
でもそれは自分で見つけ出していくしかないですよね。
だから常に夫に対して文句を言い続ける。
私のような、これは母からの侵入をいっぱい受けてるせいなんですけど、
そういうことを言われると、そうかわかった、俺は出ていくみたいになるんだけど、
これは異常行動なんですよ。
これ愛情確認だったんだから、
そういう私のような総的防衛なんだけど、
わかった離婚するみたいなのは全然わかってないわけですね。
私が怒り出すことによって、
怒るということは、私が嫌なことをして、
私に嫌なことをされるのは嫌なんだ。
だから私が好きなんだっていう、こういう感覚を取らないと。
つまりそれは、そういうご家庭で育ったっていう意味なんですけどね。
いろんなことがあるんですよ。
情緒の触れ合いといったものに対して。
横でニコニコしているから自分のことが好きって思えるほど、
単純というか、幸せな家庭に育ったとは限らないわけですよ。
自分の存在価値が高いならば、
ちゃんとしたいい学校に入れて、
自分を自由にして、
部活とかもさせてくれてという家は、
それはいいでしょうし、そういう家もあるでしょうけど、
あからさまにそうじゃない家に育った場合、
そういうふうに自分のアイデンティティーを意識することは困難なんですね。
ものすごく困難だ。
だから、お母さんが自分を必要としているということを
絶対的に確信する方法を取らないとダメで、
そのことを何とか壊さないままに、
でももう少しマシな状態というものを実現したいというのが、
最終的な希望ですよね。
ここを理解するようになるまでにも、
最初に来た時のどんによりで、
何に対してもほぼ反応がないってところから行くのには、
年月が必要なんだってことですよね。
で、私はそれを年月がっていうと、
また非常に色々とややこしくなるので、
まずは3ヶ月でっていうようにしているんだけど、
実際は、つまりそれは、
この種のことが困難でないならば、
精神分析でいいことになっちゃうんで、
この種のことは困難であって、
当然なんだけど困難だよねっていうことですね。