1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 事後に記憶は変形される必要が..
2025-06-02 39:02

事後に記憶は変形される必要がある【1194】

異物はただ排除されるしかない。
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サマリー

このエピソードでは、文化における言葉を言うことの重要性と、日本とドイツの文化における違いが探求されます。日本人の「言わない文化」が人間関係に与える影響や、精神分析の観点から顔色を伺うことの意味について議論されます。このエピソードでは、記憶の変形や個人の介入による影響が探求され、特に自己のスタンドプレイが参加者に与える影響や、その自由度の形成が中心テーマとなります。このエピソードでは、記憶の変形に関するトラウマの心理的プロセスについて議論され、ライフログや過去の出来事が心に与える影響、また記憶が変形されるべき理由についても掘り下げられます。このエピソードでは、煽り運転と暴行の事件を通じて、個別の心理状況や臨床例の重要性について議論されます。

文化と言葉の重要性
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1194回をお送りします。
6月2日、月曜日、1時33分です。
今日もですね、昨日に続きまして短めに少し切り上げ、
切り上げたいというより切り上げなければならないと言った方がいいと思うんですけど、
切り上げなければならない事情がありまして、少し早めに終わろうと思っております。
今日も昨日に続きましてですね、1週間後に迫っている100日チャレンジのお知らせをしながらですね、
しながら、それこそ精神分析的にですね、この状況を考えていきたいという、
毎回全くやっていることは同じなんですけど、何しろこれから私が何を喋るかについては、
100チャレンジについて喋ろうぐらいにしか何も思っていないので、
これも1000回ずっとそういう風にしてきたんですが、
ここに手元にメモも何もないのでね、何を喋るか分からないわけですよ。
で、その分からないことについて喋るというのがこれの醍醐味なんですけど、
私でも極力どんなイベントでもこうするようにしてるんですね。
Jさんはよく分かっている方ですから、
朝日さんの100チャレンジの前とかにね、
できればこういう方針で言ってほしいと思います、みたいな例の調子で言ってくれて、
これはもうJさんの言う通りにせねばと思って、
まあそうなってるかわかんないんですけど、
できるだけ事前に言われた通りに喋ってるつもりなわけですよ。
ただまあ、野球ってほら筋書きのないドラマって言うじゃないですか。
まあ言うんですよ。
そうじゃないとダメだろっていうのが僕の心の中に強烈にあって、
時々ね、やっぱり言われるわけですよね。
その事前にほら、出版記念セミナーとかやって、
こういうの話しますとか言って、全然違う話を平然として、
日本とドイツの文化の違い
しかも元々するはずだった話はしてないみたいなことが起こるじゃないですか、私のは。
そして時号にね、言われることも、言う方は、
まあはっきり言って滅多にいらっしゃらなくて、言ってくれた方がいいと思うんですけどね。
なぜなら相手の人すっきりするじゃないですか。
それをきっかけに仲良くなるとかいうことも起こるんでね、
ダイレクトに言うのが一番いいと思うんですけど、
Jさんにね、ドイツ人の特徴という話を、
Jさんと、ポッドキャストで、J松崎っていうポッドキャストでも僕話してますけど、
僕というか彼が話してるんだけど、
ドイツ人ってのはとにかく言うらしいんですよね。
そこが日本人と真逆らしいんですよ。
まあこれもね、難しいと思うんですよ。
そんなに急に変えられませんよね。
この言わない文化の日本人にしてみれば、
この言わなさも世界で突出してると思うんですよ、多分。
アメリカ人も結構言わないんですけど、
日本人の言わなさって群を抜いてますよね。
多分、ある意味世界で一番行きづらいのかもしれないですけど、
これはね、もうそういう文化ですから、
これを世界に誇っとけばいいと思うんですけどね。
なんか世界に誇るジャパンみたいなの言いたがるじゃないですか。
だからこういう言わないでここまでやれるんだぜみたいなことも、
やっぱり全ての民族が同じって変ですからね。
いいと思うんですけど、
言う文化ってすごいなっていう、
なんかこう言いたいと思ったら何でも言うみたいな。
だからこの飯がまずいと思ったら、
作った人の前でそれを言うのが正しいみたいな文化らしいんですよね。
それも確かに一理あると思うんですけれども、
まあ日本人には無理ですよね。
このセミナーとかって、食事を作る、食べられる関係と違うんですよ。
1回しか会わないか、会っても数度じゃないですか、私と。
数十度って方もいらっしゃると思うんですけど、
まあまあ一緒に暮らしてるとかではないんで、
言いたいことがあったらですね、言ったらいいんだけど、
日本人はやっぱり怒らせるっていうのを非常に怖がるんですよね。
これを私最近ちょっと考えてるんですよね。
精神分析って、怒る怒られる、他人の顔色を伺うってあるんだけど、
ドイツで生まれたってことを念頭に置かなきゃダメだろうって、
これ週1回、週4回の話と似てるんですけど、
だって人の顔色を伺うっていうのは侵入なんですよ。
幼児期の侵入だって言ってくるわけですよ、精神分析では。
しかしね、日本人が顔色を伺わなかったら変だろうと思うんですよ。
で、日本人はそうすると全員侵入されてることになっちゃうんだけど、
これ私ダメだと思うんですね。
こういう考え方っていただけないなって思うんですよ。
ドイツで言うところの侵入は、おそらくもっと侵入的なんですよね。
だって言うのが前提の文化じゃないですか。
そこで侵入が入るってことは、
やっぱシュレーバーの例がね、狼男だっけ?
ああいう子供の寝相を直すために手足を鎖で縛り付けるとか、
あれは侵入だよね、ドイツだとしても、とは思うんだよね。
だけど、日本人が言う侵入ってのはなんかちょっと違う気がするんですよね。
だからちょっとね、もちろん顔色を伺うというのもそれ自体が、
いろんな人にとって、ほとんど全ての人にとって、
生きにくさを助長することにはなると思うんですけど、
こういう文化全体に責任を押し付けたり、
文化全体を治療の対象にするみたいな考え方を仮にとったとしてもですね、
なんか昔GHQはそういうことを日本に対して平気でやりましたけど、
だいたいあんまり意味がないと思うんですよね。
だいたいあんまり、影響こむると思うんですけど、
修正効かないですよね、そんなことでは。
顔色を伺うことの意義
そんなことを思いながらですね、顔色を伺うというのは何なんだろうなと。
だからこれドイツ語で言ってる時と日本語で言ってる時は多分意味が違う。
全く同じ表現を仮に使ってても微妙な違いが絶対あると思いますね。
ダイレクトに言うことがむしろ推奨される文化、
つまりそれは良いことなんですよね、彼らにとってはね。
で、我々は黙ってること基本良いことじゃないですか。
少なくともお店に行って、「マジだ!」みたいなことを一生懸命言ってると、
だいたいどれほど顔色伺うが良くないと言われても、
決して良いとは言われませんよね、この国でもね。
しゃあないと思うんですよ、それは。
なんかそこをあえてやるっていう人もいるじゃないですか。
僕ドイツ人にも絶対いると思うんですよ。
あえて黙ってるというね。
良くないとされてることをあえてやるっていうのって、
文化的に何がゼロされてるかによってひっくり返ってくるじゃないですか、やっぱり。
明らかに傍若無人にレストランで振る舞うっていう人っていますよね。
あれは意図的にやってると私は思うんで、
それはある種の病理なのかもしれないけど、
そこは分かんないですけど、ドイツ人も絶対いると思うんですよ。
あえて黙ってるという。
で、それはある種の病理かも、ドイツ的にはされるのかもしれない。
日本人からすると常識だろ、それってことになっちゃうんだけどね。
こういうことってありますよね。
だから精神分析って難しいなって思うわけですよ。
安易にそれを、いやそれは何かの病理だみたいに思うというのは、
非常に分析的ではないだろうと、むしろ。
なぜなら何が良いか悪いか、長寿が的ですけど、
文化的な長寿がってありますから、はっきりと。
これをこの世の中では良しとしているんだと。
やっぱりね、日本ではどういう料理を食べさせられたとしても、
早々作り手の前で、
これは美味しくないとはっきり言うのが良いっていう風に感じるのは難しい。
感じるってことですから、これは。
言う言わないってことよりも大事なのは、
どう感じるかの問題なんで。
はい、このようにですね、盛大に話が逸れていくのが良いところなんですよ。
この今の文化では良しとされないかもしれませんけどね。
で、100日チャレンジなんですけれどもね。
えっと、まあこれPRしてるわけですよ。
入ってねと言ってるわけですけど、
あれのメリットって何なんだろうと。
考えたところがですね。
私はみんなコメントつけたりするわけですね。
介入しているわけですよ。
まあできるだけ介入しないように大筋してますけれども。
Jさんもあの行政講座でちゃんとおっしゃってましたからね。
やっぱりこの人はきちんとしてるなぁと思うんですよね。
僕なんかよっぽどきちんとしてるんですけど。
あの人のライフスタイルを頭こなしに批判してはいけないと。
なんかグサッとくるよね。
でもそうなんですよ。
ダスクシュートってやっぱりライフスタイルに直結しちゃうんで。
ダスクシュートを使って人のライフスタイルを頭こなしに批判しちゃいけないし。
それは心理臨床の発想と多分に被るところがあるんだと思うんですよね。
やっぱり向こうが否定しているものですらなるべく否定しないっていうスタンスはいると僕は思うんですよ。
あるがままを肯定すると、あるがままを否定したいその人の超自我的なパーソナリティはどうするっていう、こういう全問答みたいな話になるんですけど、そういうところがむしろ大事だと思うんですが。
でもやっぱりだからこそね、頭こなしに一緒になって、相手の超自我的パーソナリティに一緒になって乗って、このダラダラ時間ダメですね、なくしましょうみたいなことを言ってちゃダメだと思うんですよね。
何も進展しない気がする。
そうするとその人の自己分裂を温存することになっちゃいますからね。
ダメだダメだと思うんだけどやっちゃうっていうのを永遠に続けることになるじゃないですか。
意味が全くない感じがやっぱりするんですよ。
それに果たして本当にダメなのかっていうのは難しい問題なんですよ。
さっきのドイツと日本の文化みたいなもんで。
目の前で相手の料理にケチつけるのは無礼なのか、それとも親切なのかっていう議論は多分永久的にやってられるんですよね。
これは我々の感じ方がどっちかに寄ってるから。
いやそれは無礼以外の何者でもないとか、いやいや日本のやり方は生きにくいからドイツが正しいんだみたいなどっちかにすることは簡単なんだけど、
それはその人のただの感じ方であって、どっちが正しいかって話になるとそんなに簡単な話じゃないはずなんですよね。
というわけでダラダラも同じなんですよ。
ある人にしてみると一方的にどっちかにすることは簡単なんだけれども、意味がほとんどないことだと思うんですよね。
それで私は大体自然とずれてしまうんですよ。ここが大事なんですよ。
100日チャレンジで僕の介入だけは明らかにおかしいわけですよ。
で、なんだこいつっていう反応の人ももちろんいらっしゃるわけですよ。
で僕はこれでJさんが言ってる通りに基本的には頭こなしに否定してるつもりはないし、基本的には過剰な介入にならないように気をつけてるんでああなるんですよね。
気をつけててもああなるわけですよ。
これはもうだから僕はアリだと思ってるんですね。
Jさんがそう教えてくださったこともあってですね、彼は配慮してくれてるからね。
いや佐々木さんのあれは全然問題ないんですと、相手は怒っちゃったけどそういうことはあるんですみたいなことを彼が言ってくれるんですよ。
本当はこの立場に僕が立ってなきゃダメだろうと思うんだけど、まあまあ偉いなと思って、傷を癒してるわけですね。
まあ傷ついてるのかどうかわかんないですけど、とにかくそういうことは怒ってるわけですよ。
スタンドプレイの重要性
大事なのはですね、ただ、私は自然にやっててみんなとは異なる介入をする。
まあ全然介入がましいことやってないトレーナーさんがほとんどなんだけど、まあでも時々は介入しちゃいますよね。
生きせずする介入は絶対生じるんで、ミニコットじゃないですけど、失敗は起こるものなんで。
で、私の失敗は他の人と明らかにあからさまに違う失敗なわけですよ。
これが時々でもこうそうして、まあ今回も10期の卒業生の方に、「佐々木さんのはすごかった。」みたいなことを書かれていて、またそれも非常に自分でドキッとするわけですよ。
なんかまずいことをやっている、スレスレのことをやったに違いないなって気がする。
大体、激的に良いことが起きるということは、激的に悪いことが起きるのの紙一重なんですよね。
まあそんなに激的に良いことが起きたのかどうかもまた別なんですけど、
それはその方がそうおっしゃってるのに、僕が無限に否定するものじゃないので、結局激的な効果っていうのはその人の心の中で起きていることであって、私が何かをするってこととは本当の因果関係はないはずなんでね。
だから別にそれは良いことが起きたということで、を受け止めておけばいいわけですが、いずれにしても何か大きく違うことを僕がやっちゃってるのは確かなんですよね。
これって100日チャレンジのメインのストリームがガチッと決まってたら許されないことじゃないですか。仮に激的に良いことが起ころうとなんだろうと。
そのやっぱり、なんていうのかな、スタンドプレイってやつですよね。だけれどもスタンドプレイのプレイはプレイなんですよ。ここを忘れてはいけないわけですよ。
スタンドプレイって基本悪いことっていう印象で考えちゃうんだけど、プレイである以上枠が広ければOKなんですよ。
だから100日チャレンジの僕が良いところは、このスタンドプレイがスタンドプレイじゃないところだなって思うんですよね。
僕の都合が良いことのように聞こえると思うんですけど、でもこれは大事だと思うんですよね。
そうやって皆さんにPRしてるわけですけれども、つまりここはかなり遊べますよってことを言いたいわけですね。
3ヶ月チャレンジもそれを売りにしてるつもりなんだけど、とにかくかなり遊べるという。
皆さんの解釈介入と私の解釈介入はずいぶんずれてるんだけど、それが許容される空間であると。
ということは参加者さんもみんなそうなんですよ。
およそですね、なぜ昨日も言いましたけど、コミュニティ、オンラインコミュニティなりがかんこどりなくなっていると、これはやっぱり究極的には参加している人や特に運営している人が遊ばせないようにしてしまっていることの表れなんですよね。
これはもう間違いないと思うんですよ。
人はやっぱり黙っていれば遊び出すんですよ。
この枠の中で遊んでねっていう枠が狭すぎれば狭すぎるほど、人は息苦しく感じて遊べなくなっていく。
やっぱりここを広く広く取っていかないと、100人の人がいるんだから、やっぱり脱落する人というのはどういうことかというと、脱落する人は罪かもったり、ついてこれないとかっていう話になるのかもしれないけど、そうじゃないですよね。
だってどんな世界だってそうじゃないですか。
これが超厳しい駅伝の世界だってそうじゃないですか。
やっぱりめちゃくちゃ厳しくして、以前笑い話みたいな、ブラック企業みたいなのありましたよね、駅伝で、一定の速さより遅く走ると後ろから車がやってきて引くみたいな、なんじゃそれっていう感じで大問題になりましたけれども、そういうことをやっていて、しかも優勝もできなかったらあれじゃないですか。
つまりこれが脱落するということは遊べてない、遊びになってないですよね、完全にね。
もうなんか勝つことが史上名台になって、全く遊びになってないわけですよ。
プレイですから、スタンドプレイもプレイですから。
遊び心の重要性
100日チャレンジは遊べてるんですよ、相当な部分。
遊びってのは結局設計できないものなんで、どんなに設計しようとしても設計しきれないものなので、設計しようとすればするほど遊べなくなっていくものなので、
やっぱり私がやってカンコドリが鳴くというのは、私は一見すっごい自由にしているようで、何かがすごく強圧的なんでしょうね、私のやり方というのは。
つまり脅迫的なんですよ。
こういうふうに遊んでほしいっていうのが強すぎて、人は遊べなくなってしまう。
やっぱりこうね、だいたいこれは普通にすぐ分かるはずのことなんですよね。
教育的な人がよくやっちゃうことですよね。
レゴをいっぱい用意してあげて、ここに遊び場を作って、さあ遊びなさいみたいな。
だいたいの子は遊べないですよね、これをやられると。
やっぱり遊びというのは、なんかわけわかんない空き地の土管のある空き地で、何かわけわかんないことを子供が勝手にやりだすことによって遊べるわけですよ。
ところがここに不安を抱いてしまう人っていっぱいいますよね。
こういう遊びを子供にさせたくないとかね。
だからこういうふうに参加者がやると、こういう問題が起きるんじゃないだろうかという懸念って言わなくても伝わるものなんですよ。
だからやっぱり極力これはそうでない、つまり遊べるように遊べるように意識を保って、なんて言えばいいんですかね。
意識を緩めておくというのかな。
そういうところが、クチャルがですね、うまいこと言ってるんですよね。
遊べてるなーって感じがするんですよ。
これは多分、Jさんの直感なんだろうなと前々から思ってはいるんですけど、どうしてこれが可能になってるのかという。
何にもしないでひたすら自由にさせておくと遊べるかというと、そんなことは決してないんで。
これも子供をただ放っておけば子供が遊べるようになるかというと、そうでもないじゃないですか。
子供は何にもしない子になってたりするじゃないですか。ひたすら放置してる。
違う力度が働いちゃうからなんだと思うんですけどね。
だから遊ぶっていうのはすごい難しいんで、余計なルールを減らせば減らすほどいいけど、ルールが全くない遊びって不可能なんですよね。
野球が面白いのはルールがあるからなんですよ。
トラウマと記憶の関連
サッカーだってそうじゃないですか。あれで手使っていいってことになったら、もはやラグビーですよね。
サッカーではなく、ラグビーもラグビーフットボールなんで、フットボールなんですけどあれ。
そういう意味で100日チャレンジって、皆さんやってきて遊んでくださいと。そういうことなわけですね。
何か狙った通りの結果になってしまったら、もう多分成果も出ないというのが最近の私の感じ方で、これは掃除で間違ってはいないだろうなと。
仮に先送りをゼロにしたい、これがルールなんだけど、先送りをゼロにしたいと思いましょうねというのがルールなんですけど。
Jさんはその他にも3つばかり、非常にやっぱり3つっていうのがまずいですよね。
ルールっていうのは3つぐらいじゃないと思い出せないんで。
サッカーの偉いところは小学校1年生でもできることなんですよ。幼稚園生でもできますね。手使っちゃダメ。それだけなんで。
手使っちゃダメ。カゴに入れよう。それだけであのゲームは成り立ってるんで。
枠とか別にいらないんで。枠とかなくたってできますからね。センターラインとかもいらないんで、幼稚園生レベルであれば。
ただボールと足があればできるっていう世界なんでね。あれは作った、あのゲーム作った人偉いですよね。
ああいうのが遊びなんですよね。
いやいやあの顔面にぶつかったら危ないからボール柔らかくしようよみたいなことを言ってるうちに遊びが難しくなっていくんですよ。
スポンジみたいなボールでサッカーの難しいですからね。そういうのありますけどね。
で、こういうふうに考えていきなりまたキューハンドル起きるんですけど、先日ですね、このことを盛んに考えていたら急にトラウマって問題が降ってきたんですよ。
降ってきたっていうのも変ですけどね。トラウマってことがあるなっていうふうに思ったんですよ。
僕がもしかするとあれですね、百チャレで介入しすぎるとお互いトラウマを残すみたいなことを余儀ったの、頭を余儀ったのかもしれませんけど、そういうことでもないような気がするんですが。
つまり侵入っていう問題、コメントが侵入になるみたいな連想から来たのかもしれないんですけど、侵入って問題はいろんな言い方するわけじゃないですか。
さっきのドイツの話じゃないですけれども、例えば私最近ずっとアトピーのことを考えられるようになったというのは、やっぱりアトピーがほぼ治ったからなんですけれども、治んないときは身体そのものがうずいちゃうんで、やっぱり考えにくいんですよ、非常に。
で、考えてみたところですね、事後性っていうのはやっぱり猛烈に思うんですよね。最近読んでいるトラウマの松木さんの本の編集で、石川さんかな、石川さんって方だと思うんですけど、ちょっと名前忘れちゃったんですけど収録されてるんですよ。
トラウマの精神分析的アプローチの中の、やや後半の方に収録されてるんですけど、煽り運転で、ひどい話なんですけどね、煽り運転を受けてボコボコにされて、なんで煽り運転されてボコボコに運転手がされにはならないんだと思うんですけど、いやそれだったらもう絶対こう社会問題だろうと思うし、近年社会問題とかしているっていうのから出だしが始まるんで、
まあ心理臨床化ですらこれは社会問題として捉えはするんですけれども、でもやっぱりこの話がですね、心理臨床が進むにつれてですね、いやこれ本当に不気味だわっていう感じがしてしまうんですよね。これね、これから変なこと言いますよ。
これは私はそう思ってるとかじゃないですよ。読んでそう感じだろう得なかったってことなんですけど、まるでこの人は、この煽り運転を受けてボコボコにされるということが必要だったかのように読めてしまうんですよ。いや、そんなことあるはずないですよ。私だって嫌ですし、誰だって嫌じゃないですか。
しかしですね、あの治療には、このボコボコがなければあの治療は確かに始まってないし、でこの人は思い出すんですよ。犬に大きな犬に追いかけられた。煽り運転ですよね。2歳か3歳の時。これは心的現実なのか本当の記憶なのか、私には定かでないだったっていうふうに書いてあるんですよ。この臨床はすごいレベル高い臨床だなと思ったんですね。
で、心的現実か、それとも想像の産物なのか記憶なのかちょっと定かではないっていうふうに、そう聞いた次の瞬間に相手のそのボコボコにされた人が言うんですよ。私はこの大きな犬に追いかけられてとても怖かったのに、お母さんは信じてくれなかった。もういきなり定義じゃないですか。いきなりお母さん役させられてるわけですよね、ここで。もうこうなってくると、お前信じないのかっていう問いですよね。
私の母と同じで信じずに、クライアントである自分を事実上侮辱するのかってことですよね。しかし、下手に信じるということはですよ。私は昔大型犬に追いかけられるという経験を持っていて、その私が今煽り運転を受けて酷い目に遭ったからあなたの前に来たんですってこういうオカルト話を頭から信じるってことにもなるじゃないですか。どうすればいいのかって二重拘束が始まってますよね。
すでにこの段階でものすごく進展が、すごいなんか独特の進展が起こるっていう、これを力量って言っていいのかどうかよくわかんないんですけどね。でもやっぱこういうことを語ってもらえる臨床化は力があると私は思うんですけれどもね。まあ私は相当精神力度よりの人間なんだろうなとも思いますけどね。
トラウマと記憶の変形
いずれにしてもこのトラウマの事後性ってやつですよね。事後トラウマの意味は変わってくる。だから私は最近思うんですよ。いや、ライフログというのはつけて終わりにした方がいいと。記憶ってのはですね、結局歪められるべきものなんですよ。歪まない記憶はPTSD、フラッシュバックになっちゃうじゃないですか。
歪まない記憶はすなわち変形が効かない記憶であり、β要素なんですよね。変形が効かないほどいいと思われてるじゃないですか。ライフログって変形効かせるとダメですよね。証拠だから。しかし、証拠というのは歪まないからこそトラウマなんですよ。トラウマというのは歪まなく変形を受けない、微音流に言うとですね、物自体だから。物自体って変えられないでしょ、心では。それはもうこの世のルールですよ。
なんか目の前の壺に念を送って変われみたいなこと言っても変わんないじゃないですか。しかし心の中の壺なら変わりますよね。壺をヘビにすることはできるでしょう、心の中だったら。これができない記憶こそが、心の外にある、にもかかわらず意識の中に入ってきてしまった異物なんですよ。私はこいつを除去しようとしてアトピーになったわけですよ。ここがめっちゃ大事だと思うんですよ。
今の話は訳わからんと思われると思うんですけれども、でも私はこういう感覚を我々は持ってると思うんですよ。私たちの中にあるものはもっと柔軟で柔らかくなきゃいけないわけですよ。包み込めるものでないといけない。包み込めないものは心の中に下手に入ってちゃならないわけですよ。ならないって言ったら入ってくるんだけど、だから侵入になってしまうわけですよ、そいつは。
侵入物は異物ですから、やっぱり排除したくなるわけですよね。刺さってくるものは排除したくなる。排除したくなるからPSポジションになる。排除というのはつまり迫害されてる気になるわけですよね。排除したいものが入ってきてるわけだから。排除したいものが刺さってきてるわけですから、ここは取り除きたくなるわけですよ。
この犬に追いかけられて煽り運転でボコボコにされた人は、途中で父親の話が盛んに出てくるようになって、喉に骨が刺さったような感じがした。これはもう完全に異物感ですよね。ここにすごく焦点当てるシーンが出てくるんですけれども。
しかもその人はお父さんが飲んだクレで、普通の人なんですけどある意味。平手感覚で、ダメな感じがするお父さん的な自己愛の人なんですよね。お父さんがね。そのお父さんのようにならないように、これはよく出てきますよね。お父さんのようにならないように超頑張ったと。非常に何かを連想させるわけですけど。
接触障害的なものを連想させますけど、超頑張って社外的を高めていって、お金も稼いで、そして人も羨むような新車を買ったために煽られたのかもしれないっていう話になっていくんですよ。だからといって煽っていいってことにならないし、まして殴っていいってことになるはずはないんですけれども。
しかしこの話は、お父さんを超えようとしたことに、お父さんをある意味超えてるんだけど、あっさりと。このお父さんとの角質というか、父親に対する異常なほど背を伸ばして頑張る、何かと知的に解釈しちゃうんですよ。だからめちゃくちゃこれは妖精転移が進んでいくんですね。
この女性の臨床官が言うことを、なるほどその通りだって言って、目から鱗が落ちてすぐに奥さんと和解するとか、すぐに何か行動化なんですけれども、すぐに何か成果を出しちゃうわけですよ。ビジネスショーとかコーチングの世界ならわかんないですけどね、きっとこれでいいんですよ。
いやもう先生の言う通りです。もう今すぐ全てやりますみたいな。だけれども、この女の臨床官の人はなんかすごい不安になってるわけですよ。またこの私の解釈を全部あっさりと飲み込んでしまってるみたいな、そういう、あれはあの感覚がない、いわゆる対人支援の人って僕は謎なんですけど、
自分が言ったことがパチッと入っていくっていう時ほどものすごい不安になるものだと思うんですけどね。私タスクシュートでさえそれありました。タスクシュートだったらそうじゃなくていいはずなんだけど、こうやってこうやってこのように開始時刻と終了時刻を入れますみたいな。
シミュレートを取ると終了時刻が出ます。うわーみたいになって画期的だみたいな。明日から早速やりますみたいな。めっちゃ僕は不安になるんですよ。なるだろうって思うんですけどね。ならないんですかね。ならない人は。僕は不安になりますね。
いや、あの、もうちょっとこう、導入は慎重に検討してくださいって言いたくなりますけどね。だってこれがタスクシュートだからいいですけど、なんかね、億単位の取り、知らんですけど、僕そんなこと一回もやったことないから、1000万単位の取引とかで、なんかこっちが提示している最新式の業務を効率化するシステムです。
いやもう、早速とやりますとか言って、いきなりその場で反抗して、なんか金もすぐ払いますみたいな。めっちゃ不安になりませんか。私だったらなりますけどね。だから、まあ商売無儀じゃないのかもしれないけど、これが対人支援なら、なるはずなんですよ。
物を売るとかサービスだったらまだ、まあ、どうせ相手が導入するもんだし、なんか効果あるだろうし、別にこっちの責任じゃないし、みたいな感じにはなると思うんですけど、対人支援ってのは、その通りにすると言ったって有形のものじゃありませんからね。無形のものなんで、どこかに相手の解釈が入ってるに決まっていますし、
そのまんまやってもらったからって、別にこっちに大きな利益があるとか、メリットがあるってわけとも違いますからね。だからやっぱり、こう、まんまスパッと動き出すっていうのは、まさに動くってことが、そもそも精神分析では行動化なんで、いいこととされていませんから、非常にここは悩ましいところなわけですよね。
行動化ってのは、すごい扱いが難しい、特に今のような世の中では難しいと思うんです。行動が何しろ良しとされてるんで、うじうじ悩んでないで、さっさと動き出せって言われる時代ですから、明らかにそれって行動化推奨になっちゃってるんで、不安に思ったら動けってわけじゃないですか。
ただ、不安をその人は消化したり、不安について吟味検討する前に、不安が行動になってしまうわけですよね。しかもその行動は不安由来なわけですよね。めちゃくちゃ見ていると不安になるわけですけれども、それこそね。だから、そういうことがあるわけですが、何が僕が今言ってるかというとですね、記憶は変形するべきだし、変形させるに任せたほうがいい部分が多々あるということなんですよ。
やっぱり犬に追いかけられたのは本当か嘘かは、本当はどうでもいいんですね。もちろん臨床化がこれは嘘じゃないんだけど、想像の3分なんじゃないんだろうかと思うのは、おそらくそうだろうと思うし、とても良いことだというか、絶対欠かせないことだと思うんですけれども、これはつまり記憶が変形という場合、この場合熱像ですけれども、これが熱像されることが絶対必須なんじゃないですか。
ライフログ見て、いやそんなことはなかったんですっていうのが分かることほど、余計で邪魔なことはこの場合ないと思うんですよ。そんなことが分かっちゃいけないんだと思うんですよね。
このことをつくづく僕は思うんで、タスクシュートを最近使うにあたって、いつどうレビューするのか。レビューはするんだけど、それをどうやればミニマムに抑えておいて、かつ有効に活用はできるのかということについて一生懸命考えてるわけですけど、少なくとも機械的に毎日見直すっていうのはここ難しいんですよね。
僕だったらあまり推奨はしませんが、だから100日チャレンジでは言うことがコロコロ人によって違うわけですよ結構ね。でもこれが遊べるということなんですよ。ここでみんなの意思が統一されているというのはある意味良いことなんですが、遊べてないということでもあるんですよ。
だって遊びがないじゃないですか。遊びだということは、プレイだということはプレイなんだから、スタンドプレイもプレイだとさっき言いましたけど、プレイなんだからやっぱり間違いというものが、軍隊に受ける間違いみたいなことであってはいけないと思うんですよ。間違えなければ、間違えられる空間でなければ。
そして間違いが必ずしも悪いことではないという空間でなければならないと。これはですね、なんかもう100回言っても言い足りないぐらい言いたいんですよね。我々間違いとは間違いである。客観的にダメなんだっていうのが、油断しているとすぐ強化される世界になってしまってるんで。
あの、ちょっと今画像を示せないんでね。昔私が見た篠塚という巨人のね、いいバッターでしたね彼はね。あのダイファールを打ってあれはホームランと更新されて、当時ヤクルト、野村監督がめちゃくちゃ怒ってたんですけど、でもあれが大事なんですよね。めちゃくちゃ怒るという、でも結局はそうなるんですよ。その審判は覆らない。
それはですね、あのなんだっけな。報道ステーションかな。まあいいや。とりあえずそういう話がありましてですね。この空間的な、時間的な事後の、つまり時間というのは、なんていうんですかね。物理法則的に言えば過去、現在、未来と一方通行に進んでいくのかもしれないけど、我々の記憶の中ではですね、両方向に伸びていくんです。
意味付けは未来のものに対しても過去のものに対してもするんですよ。この感じ、両方に行ったり来たりは平気でやれる。そしてどんどん変形されていくっていうこの感じをつかんでいくことによって、私たちはですね、この侵入とトラウマというものに対応しやすくなると思うんですね。
過去のことは変えられないじゃないですか。でも過去の記憶は変えられるんですよ。で、私たちは過去の記憶しか持ってないんで、過去については。過去の事実を持ってるわけじゃないんで、ある意味では。だから変形をかけることができるはずなんですよね。できないものがあるんだとしたら、そいつは侵入してきた異物であって。で、これの取り扱いが、まあ取り扱い注意なわけですよね。
これをどうやって、まあ2人ないし3人、まあ2人ですけど多くの場合、カウンセリングというか個人面談というのはそういうものです。ワンオンセッションというのはそういうものですから。2人で取り扱っていけるかという。2人で取り扱っていけるということは、ある意味追体験も象徴化も言葉によるやり取りもできているということになりますので。
その時に絶対に動かせない事実がそこにあるだけじゃ全然ダメじゃないですか。それじゃ要するに異物は異物でありますって言ってるようなもんだから、物自体の世界に戻っていってしまうので、除去するしかなくなる。打ち消すしかなくなるわけですよ。父親を乗り越えるしかなくなるわけですよね。
家庭環境の影響
だから父親も大変だったんだろうみたいなありきたりな解釈をしましょうって話では全くないんだけど、実際そのトラウマの話でも最後にそんな風なところには落ち着いてないんですよね。それはとても大事なことだと思うんですよ。酒を飲んで定酒間白でっていうステレオタイプじゃないですか、そんなものは。
そうだったんだろうけれどももちろんね。そしてそのことと煽られたことが関係していてはいいわけじゃないんだけど関係しちゃってるわけですよね。でそのことがその人の記憶の中ではかつて大型犬に追いかけられたんだけどそのことを母が信じてくれなかったってこととも関係してるわけですよ。おそらくそんな事実はないんですけどね。
でもそのお母さんっていうのがなかなかすごい人で、急に男連れてきて離婚を宣言するみたいなことをやったんですよね。これはすごい侵入になりますよね。ものすごい驚きですよね。でも戻ってくるんですよ。わりと驚くべきこと。本当なのか知りませんけど。
でそのお母さんが最後にですね、結局その男の人はこの一連の出来事があった後で自分が飲んだくれて奥さんに文句ばっかり言って、そういうふうになったのが悪くなったと。気がつくと親父どっくりになってるじゃんみたいな。反復ですけどね。でお母さんが、いやいやあんたも離婚して家に、家に戻ってきなさい。私が面倒見てあげるからみたいな。完全に取り込まれようとしてるじゃないですか。
このお母さんは実はこのあの停止感覚で酒飲みのあのお父さんの夫ですね。被害者であるように見えながらそうではないわけですよね。一方的に肺が痛い。停止感覚のはずじゃなかったのかって話ですよね。あれっていう感じじゃないですか。このお母さん実はすっごいこの状況を支配してたわけですよ。
こういう話っていうのは全部どこかで明るめに出ないと、この男の人の心の状況って少しも進展することができない部分があるわけでしょうね。きっとね。そうするとこの煽り運転で暴行を受けてなければ、そもそもこの人心理臨床を受ける機会は多分得ることがなかったんだろうと。どっかであったような気もしますけれども。
だからといって暴行にあっていいはずはないじゃないですか。こういうことがいつもこの種の話で特にレベルが高くて意味深いなぁと思う臨床例でほどこういう話ってあるよなと。こういう話はだからつまり一般化できない話なんですよ。めちゃくちゃ個別具体的でその人ならではの人生に関わる話なんですよ。
だったら煽り運転がいいって言うんですかみたいな議論ほどここに見つかわしくない議論はないんですよ。だったら大型犬に追いかけられることはいいことなんですかって言ってるのと同じで、いや大型犬に追いかけられたかどうかめちゃくちゃ個人的な体験じゃないですか。今時そんなも大型犬に追いかけられることありませんしね。
つまりここを何かこう一般的な話にしてはいけないんですよね。もはやこの際煽られて暴行を受けたのだって心的現実なのかもしれないぐらいでもいいと思うんですよ。夢の出来事だ。それだって恐ろしいですから。しかもどうせこの話臨床例ですから実はそのものではないんですよ。
これは臨床課である石川さんが偽装を凝らしてどこか作り上げた話なんですよ。多分複数の自分のクライアントさんの話を組み合わせて作ったりしているはずなんですよ。偽装しているわけですよ。作り話なんです。すべてが作り話なわけですよ。ある意味。少なくとも事実なのかどうなのかは究極的にはわからない。誰にもわからないんです。
わかったらアウトだから。わかっちゃいけないんだから。原理的にわからないはずなんですよ。そういう目線で見ておくと、これが社会問題なのかそれとも心の問題なのかという議論そのものがナンセンスだってことなんです。実はそんな事実はないわけですから。
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