2021-12-07 42:16

【GMV 508】メモしない、あとで読まない

後の方が良い、という世界を作り出さない
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日は、ややこしい面で重めの話をして、だいたいそういう時ってそうなんですけど、CMを飛ばすんですよね。
しないつもりでいたわけではなく、忘れた気がするんですが、
今月の26日から、もしかして喋ったかもしれませんが、それに結構頻繁に喋ってますけど、書き上げ塾の第5期やります。
毎日毎日言ってますけど、ぜひ何かいろいろネタがあるぞっていう方とか、
論文が書き上がらないというか、論文に着手できないという大学にお勤めの方とか、そういう方にも検討してみてほしいかなと思います。
基本的に一番の目玉は文章編集だったりしますけれども、
だから論文というのとはなじまないように思われるかもしれませんが、書ききれないということと編集という問題は、
ここで切り分けるということができるほど、編集というのはイコール構成ではないので、
いろんな書いていく上で編み込みという感じなんですけれども、編み込んでいくのがうまくいかない。
編み物ってまさにそうじゃないですか、途中でダメになってしまったら戻っていかなきゃなんですよね。
ああいうところで慣れている人とそうでない人や、向いている人とそうでない人が完全に挫折するという方は、編み物って向かないと思うんですよ。
途中で嫌になっちゃうみたいなね。そういうのが文章を書くということとよく似ていると思うんですよね。
倉園さんはもともと編集長の方なんで、やはりアームということがうまくいかないと文章というのはトンザしやすいので、
その辺でトンザしやすいなという方にも受講していただくといいかなと思います。
もう一つ、ぶっちゃけ相談というのをやっております。倉園圭三さんと。
グッドワイブズのぶっちゃけ相談というYouTube動画ですね。
こちらもお悩み相談的なものをいただかないと終わってしまうので、
これはぜひ年末には様々あると思うんですよ。
完全匿名性だから、どんなことを自分のが取り上げられたというふうに思うかもしれませんが、
だから恥ずかしいということはないはずなので、なぜならそのことが分かる人は聞いている人の中にはいないので、
特にですね、ペンネームが分かりにくくなっていればバッチリです。
ペンネームが分かりにくくなっていればですね、分かりようがないですからね。
03:04
ペンネームに匿名希望さんという方もいらっしゃっていて、
私はあれを読むために匿名希望さんというふうに読むしかないからそう読んでますけれども、
何でもいいから考えて、匿名でもいいですけどね。
いろいろお寄せいただければというか、お寄せいただかないとですね、
また多分年末までは持つかなと思うんですけど、年始以降停止したりしかねないので、
よろしければ、特に悩んでいるときはそういうことを忘れると思うんですけれども、
これを聞いている方はご質問等あればですね、
100%全部にご対応できるとは言い切れないんですけれども、
お寄せいただければ90%以上はご対応できると思います。
というのは何しろ尽きるぐらいなんで、あれです。
読み切れないほど来るということは今のところ起こらなかったんでですね、
いけると思いますのでよろしくお願いします。
ということで今日は、昨日したような話ではなくてですね、
ウッドワイブスと私が今依然としてハマっている精神分析と、
ハマらなくなりつつあるライフハックと、
この関係についてみたいな話をちょこっと、
関係について洗うみたいなのではないんですが、
したいかなと思ってさっきまで言いました。
つまりですね、まだこういう話をセミナーとかで全面に出すぞみたいなことをやったことはないんですが、
一つ最近ライフハック向けのウッドワイブスという私のテーマの中で、
メモを取らない。
これはですね、ウッドワイブスでメモを取るのをやめましょうとか言っているわけでは全くないんですね。
依頼優先とかいうのもライフハック側で言い出しかねない言葉であって、
優先という観念がないウッドワイブスに依頼優先という概念もいらないんですよ。
だからいくつかの私が考案しようとしているものは全部ですね、
ライフハックという枠組みの中でウッドワイブスを取り入れると考えてみたときに、
まずこれが来るなっていうのをただ勝手にピックアップしているだけとも言えるんですね。
依頼に即座に応えるということがですね、
例えば特にタスクシュートをやっている人、GTDもそうだと思うんですけど、
GTDあるいはマニュアナとかね、やっぱりタスク管理系をやっている人は
依頼に即座に応えるというのを実行しようとすると、
依頼優先という結果になってしまうんですね。
特にそこに抵抗が生じるはずだということがあります。
この抵抗が生じるというのは本当はないんですけど、
でもたぶん全く一度も生じませんというわけにはいかないと思うので、
06:04
このときに依頼優先というのは何に抵抗しているのかと、
たぶんそのようなことを考えると、
たぶんそのようなことをすると、
自分の仕事が進まなくなるという恐怖感と戦うことになるんだと思うんですね。
それとちょっと似たところで、もう少し私は本当はマイルドだと思っているのが、
メモしない。でもこれはたぶんね、相当引っかかると思うんですよ。
メモをしないなどとGTBでは言わないので、
ライフハック向けのGTBトレーニングの一環として私が考案したいのが、
メモしない。ただ約束の日々とかそういったものをメモしないと
まずいことになるので、行き先と使い道がはっきりしているメモを除外する。
例外ですね。つまりこれはカレンダーに書くメモとか、
あるいはこれは、例えば本の締め切りとテーマについて
編集者にこう言われました。大体メールで来ると思うんですけどね。
そういったものを口頭で言われてしまった場合、メモするのはあり。
そうじゃなくて、アイデアメモとかネタ帳とか、今書いてある本の続きとか、
プレゼンの資料準備とかを一切しない。
というのを考案したいかなと思っているんですね。
たぶんこれできないと思うんですよ。で、なぜできないかってことなんですね。
実際にはメモしても少しも差し支えはないんですよ。
クラゾンさんだってメモすることはあるんですが、
私はライフハックというものではまっていて、
かつグッダワイブスに興味がある人は、このメモしないというのを一つ、
チャレンジに近いんですよね。課題として持ってみると良いんじゃないかと思うんです。
まず、どうして抵抗するのかという気持ちについて、
自分で必ずメモしたくなると思うんです。
なぜメモしたくなるかというと、不安になるからだと思うんですね。
その不安が問題なわけですよ、もちろん。恐れと不安を手放すわけだから。
メモをしようとしている度に不安になっているという事態を、
そのまま受け入れるということができなくなるんです。原理的に。
そのまま受け入れてしまうとメモしちゃうわけですよね。
そして安心するわけじゃないですか。
これは不安が動機づけになったわけです。の行動だったわけです。
小さいし、それほど困ったことにはならないので、
メモするしないということ自体は問題にならないんですけれども、
09:00
問題になっているのは、小さくても発生している不安の方。
この不安は、メモをしておけば役に立つかもしれないという気持ちの裏返しで、
ここで役に立てる機会というものをいっする不安なわけですね。
ここで役に立つ何かを考えついた。
せっかく考えついたこれで何かを良くしようとしている。
ということはつまり、それがないと何かが悪くなるという意味になりますよね。
少なくとも質がこれを生かすことによって確保されるべきであった、
あらゆるクオリティQOLだとしましょう。
私はQOLだとしましょう。
このQOLが損なわれるという不安。
ということはつまり、QOLは損なわれ得ると考えているということになります。
これが私たちのイリュージョンのはずなんですよね。
昨日のやや重めの話と言いましたけど、でもそうだったのですが、
母親に対する不信感を抱くのが、つまり罪悪感というものだと。
要するに自分自身がただこうやって生きていては、
何か良くないことが起こる気がすると思ったら、それはすでに罪悪感。
もう少しでも大体の場合は具体的で、
例えば、奥さんを起こしに行ったら怒鳴られると。
なんでこんな時間に起こすのと言われると。
どう見ても、ここでそもそも見るというのは何を見るのかというと、
どう見ても、あるいはどう思い出しても、思い出すと何を思い出すのかということなんですが、
これは言われた時間だと。
これ何をやっているかというとですね、誰が正しいのか問題に入ったんですよ。
つまりどういうことかというとQOLが低下したんですよ、というイリュージョンを見ているんです。
絶対これイリュージョンだとは思えないと思うんですよね、ある種の人からしてみれば。
もちろんこれですね、笑って済ませられる人も、生まれながらというわけではないんでしょうけど、
笑って済ませられる人だって結構いっぱいいるんですけどね。
そういう人はイリュージョンを見ないで済むんですよ。
つまりこれイリュージョンなんですよ。そうは思えないんですよね、なかなか。
9時に起こせと言われて、9時に起こしに行って怒鳴られると。
で、その時に気のいい人でかつ少し気が弱い人は、本当に9時に起こせって自分言われたかなって思うわけじゃないですか。
ここでメモが役に立つはずなんですよね。
これが罪悪感ですね。これ明らかに罪悪感ですよね。
私が悪かったんだろうなって考えるわけだから。
で、と考えるということは、もし私が悪くないならば妻が悪いとか、
もし私が悪くないならば妻が悪いと考えるわけじゃないですか。
12:03
ここに罪を見る。
つまり罪というのは、ある種の生活あるいは現実における欠損を意味しているわけです。
現実というものは完全ではない、不完全なものだと。
ただですね、この欠損というのはではどういうものなんだろうと。
例えば、奈良の大仏とか、首が落ちちゃいました、欠損ですよね。
こういう意味で物理的に明らかな欠損があるという、そういう形とは違って、
奥さんが怒鳴る、自分が起こしに行く、これのどこにどういう欠損があるのかと。
この欠損は概念的なもののはずです。
こう言ったからといって、それで納得されるとは思わないです。
私も納得しないですしね。
ただ、つまりですね、ここでQOLが低下したと考えるということは、
つまりQOLが100であるという状態を仮定的に捉えて、
それが83になるとか、怒鳴られると3になるとか、そういう欠損みたいなものが
その人の心の中で起きるわけですよね。
つまり不快になるわけじゃないですか。
そしてその不快な原因があって、その原因は人間であるというところまで行ってるわけですよね。
これらは全て基本的には意味付けであって、しかもここから先があるはずなんですよ。
こういう事態が今日だけでは終わらないんだろうなと人は思う。
こっちはイリュージョンですよね。
つまり意味をいっぱいつけてあげくイリュージョンも作っていくわけですよ。
当然じゃないかって言われると思うんですが、当然じゃないですよね。
少なくともこのイリュージョンを作ることに関して言うと当然ではないと思うんですよ。
この罪悪感を、罪悪感というか罪悪感を見たので自分か相手に、
次には、これがですね、次にはじゃないなと気を感じたんですね。
同時に罰が発生する。
罰というのは何かというと母親機能の停止です。
停止は行き過ぎなのでどう考えてもこのレベルでは定名ですね。
定名ですね。母親レベル、母親機能を定名させる。
定名させるということはつまりニードーニーズに変換一部できないようにするということです。
一体これ何のためにするんだって感じもするんですけどね。
そもそもだってノホホンと起こしに行ったらとなられたからノホホンとしてちゃいけないわけですよ。
ノホホンとしてちゃいけないということは、
察したる疑問を持たずに呼吸をしたり、察したる疑問を持たずに食事をしたり、
察したる疑問を持たずにトイレに行ったりしちゃダメだってことなんですよ。
トイレのフタを閉めずに出てきて怒られるという旦那さんはいっぱいいると思うんですけど、
これらの夫が怒られるときにも失落縁が小さいですけど起きてますよね。
15:01
失落縁という表現は適切でないほど小さいですけどね。
ノホホンとトイレに行って出てくるからそこで罪を犯して罰されるわけですよね。
これがつまりリンゴを食って追放されるってことなんですよ。
これはいちいち図式化していくとあっちこっちに小さいのがいっぱいあって、
そしていちいちやるには馬鹿馬鹿しいので、
くだらないとかそんな細かいことでとか言って口論を始めるんですけど、
つまりそれが母親機能の停止はいかないからやっぱり減衰か定名ぐらいですね。
ノホホンとできなくなるわけです。
だってもう気にしてるという段階でそうですよね。
罰されたということです。
ニードをニーズに変えるということは無神経にやってはいけないとか、
気をつけずにやってはいけない。
つまり気をつけてやらなきゃいけないと。
神経質にならなきゃいけないと。
これをずっとやっていると母親機能がどんどん下がっていって神経症になるわけです。
というところの一番最初のところに僕はメモがあると思うんですね。
だからメモしないというのは今言ったようなことを全て不安だとは認めない。
不安だとは認めない。
あるいは罰だとも認めない。
だって罰だと認めると家の中の誰かの母親機能が停名することになるので必ず自分が不利益をこむるんですよ。
このメモをするという瞬間にこの不利益を受け入れるということに繋がっていっちゃうんですよ。
私はこれが許せないと思うんですね、今は。
一体メモは何のためにしているのかというと楽園追放されないためだと思っているんですよ、私たちは。
つまり蓋を閉めましょうとメモをして蓋を閉めると。
いろんなところでいろんな罪悪感を小さいけれども受け入れていくことによって罰を全部回避できるそういうQOL100を維持しようとつまりしているわけですよ。
でもこのQOL100という概念の存在そのものが私たちにQOL0という潜在的な可能性を必ず意識させることになるじゃないですか。
だからある意味では目は小さいうちに積んどいたほうがいいと思うんですね。
いつも完璧であるならば母親機能は決して損なわれることがなく理想いえばって話になりますけどね。
でもQOL100では目指しているわけだけど楽園から追放されることは決してなく自分は常にカジマックスで平安で常にいられるほうがいいじゃないですか。
これをメモごときで損ないたくはないと思うんですね。
結局起こしに行きましたと怒鳴られますとそこで意味付けを2つや3つで止めてイリュージョンをゼロにすれば早く戻れるんですよ。
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追放されそうになってもですね早く戻れるということは母親機能が全部損なわれずに済むってことなんです。
私はこのほうが怒鳴られてこうしておくほうが怒鳴られない生活を目指すよりは現実的にベタだと思うんですね。
というところの出発点にメモしないというのがあるんです。
メモした瞬間にどっちかが小さな罪を負うことになるので正しさが発生しますからね。
これをましてや自分だけのメモというやつ、これは今のは人との約束のメモだからまだましなんですよ。
実態がありますからねそこには。
一応ないものになっちゃうわけですね。
アイデアメモとかネタ帳とかになってくるとそのメモを使ったほうがいいかもしれないになるじゃないですか。
確実にいいというか正しさが全く保証されないメモを作り出しておきながら
正しさをそこで保証したことにしちゃうんですよね。
これセミナーのことを考えるとよくわかると思うんです。
ネタ帳を全部セミナーで喋るほうがいいってことにしちゃうと
それ全部喋ったほうがよかったのかどうかわからないまま
今とまったく同じようなQOLじゃないけどQOセミナーですかね。
QOSみたいなもののこれが100ですって自分で決めて
しかもそれは自分で勝手に決めたものですからね。
とっても話が混乱したものになっちゃうと思うんです。
本を書く人ならみんな知ってるものなんですけど
ネタ帳を全部使った本は絶対いいものにならないです。
つまりこれを使ったほうがいいという理由でメモしてるはずなのに
そのことを少しも担保しないものに従う羽目になるんですよ。
これセミナーでもたぶん同じことは起きてると思うんですね。
ということは実際にはメモ通りに起こすことがよかったのかどうかは疑わしいんですよ。
でもメモが9時に起こしてって書いてあったときに
ここに何が起きても罪悪感を見ないのは非常に難しくなるじゃないですか。
一番いいのは奥さんがすごくスクッとニコニコして起きるとかいうことなんでしょうけれども
それはほぼ現実では起きないことですよね。
だいたいそれだっていいかどうかは大変疑わしいんですよ。
毎朝毎朝にっこりして笑って起きてきて
その人はすごい怖いことをするっていう話は
精神分析みたいな話の中では山のようにありますから
危険が悪いことは決して悪いことではなかったりするんですね。
人間というのはそう単純なものじゃないので。
これがまずメモ系の話なんですね。
私はだからライフハックの人にメモすることがいいことだと
疑いなくいいことだと思っていらっしゃるなら
疑う余地は半分ぐらいはあるとは
21:02
どこかで喋っていきたいなと思ったんですよね。
50%ぐらいは疑う余地のある行為です。
そうは言ってもメモはするとして
もう一つの方はこれは100%やめる余地があると僕は思ったんですけど
後で読む系にクリップするってやつですね。
これもGood Vibesでやらないように言わないですね。
後で言えるかな。
後で読む系。ポケットとかいろいろありますけど
エヴァノートでもいいと思うんですけどね。
ウェブクリップをしないというよりは後で読む系のウェブクリップをしない。
これは後で読まないからってこともなくはないんですけど
それよりもはるかに今言ったような事情ですね。
つまり後というのはイリュージョンだから。
後というのは未来ですからね。
これも今読まないくせに
これを後で読むと良いことがあるっていう理屈のはずなんですよ。
これは言ってみれば今のQOLは100ではないって宣言したようなもんですよね。
読んだほうがいいものがそこにあり
読んだほうがいいんですからね。読む前より。
しかもそれは今ではないときてます。
読むまでの時空間は読んだ後のより良い時空間よりは
より悪いってことになるじゃないですか。
いちいちこのことを言及するのは
つまりこれが私が思うに罪悪感だからだと思うんですよ。
ここにもまた母親への不信感ってものがあるわけです。
実語じゃないですよ。
世界に対する不信感です。
つまり私たちの見ている世界というのは
これは精神分析的な見方だと思うんですけれども
母親というものに少しどうしても引き付けて見ている
それが生まれた一番最初の記憶にひも付いちゃってるからなんですが
そういう記憶の中で世界というものを信頼しようとしてるんですが
この信頼をしなくなって
信頼が100%じゃなくなったことを罪悪感と呼ぶ。
後で読むということはいいんですけどね、全然。
後で読んでも。
ウェブクリップをした瞬間に
世界に対する小さな不信感が生まれている。
読みたいものを今すぐ読んではまずいという。
あるいは今すぐ読まないほうがいい人生が送れるという。
まとめて後で読んだほうがいい人生が送れるという。
そうやって世界に対して
そうやって世界に対する良し悪しを
少しずつ自分都合に合わせて
変質させていく。
もしこれを読まないということに気がついたら
何をするかというと罰するんですよ。
つまりごくごく微量だと思いますけれども
母親機能を低下させる。
24:01
人によってはひどいんですけどね。
よくわからない実績の面に駆られたりするんで
これをやるということはですね
私は一番何に近いかというと
やっぱり脅迫症に近いなと思います。
完全主義ってやつですね。
完全主義はそれによって生活が困っているならば
病理というふうにみなされます。
この辺でグッドワイブスと精神分析の話に入りたいんですけど
要はですね
どっちもよく似た点として一つあるのは
行動への指針を出していないってことなんです。
何をするのとか何をしましょうって話は
精神分析ってしないと思うんですね。
あれは人生相談ではないんですよ。
人生相談はどういうことをやるのかわからないんですけど
あれは決して人生相談ではないから
同じ行動をとったとしても
それが良い場合と悪い場合が常にある。
そもそも精神分析には行動化って言葉があるんですよ。
それを行動にしてしまうというのは
常に良いことではないんですよ。
この辺で常にいわゆるライフハック系とか
自己啓発系と大きく変わってくるところがあるじゃないですか。
基本的にライフハックでは
行動するのが良いことだってことになってますよね。
行動化なんて決して言わない。
例えば恋愛をするということに一つとっても
精神分析ではそれが極めて悪い行動であると
そうでない場合とに分かれるので
だから恋愛することが良いか悪いかは決められないんです。
でもこれはよくよく考えてみると
実に当たり前のことですよね。
東方恵都さんの面白い本
心はどこに消えたのかで面白いエピソードが出されてたんですけど
ポジティブシンキングにこだわるっていう病理がある。
病理じゃないんだけどそういうケースが紹介されてるんですね。
この人は何かにつけてポジティブシンキングで乗り切ってきた。
だからその成功体験があるために
鬱になった時にポジティブシンキングで乗り切ろうとするんですね。
このことそれ自体が病理なんですよ。
だけれどもフットバイブスでも
ポジティブシンキングではありませんって言うんだけど
この種の人にポジティブシンキングをやめましょうって言っても
無理なんですよね。
実業化で成功してきて
実は所々にエアポケットみたいに鬱っぽくなってる時期が
頻繁にあったんだけど
それが増えていく。
そういう感じが多いんですよね。
病理ってのはね。
だんだんその人が誤魔化してきたものが
一気に集まってくるみたいな。
そういう感じになる。
そこをポジティブシンキングで乗り切ろうとしても
無理なんだけど
そのポジティブシンキングで乗り切りたいということ
それ自体が精神分析の対象になるんです。
なぜかというと
セッションの時間が硬着してしまうからなんですね。
先生もその鬱を治そうとするのをやめて
ポジティブシンキングが
27:00
こういう相談になっちゃうんですよ。
この鬱の症状だけとってくださいと。
それは無理ですって話になるんですよね。
そうは言わないかもしれないけど。
こうして平行線を辿る。
この平行線を辿ってる時間そのものが
精神分析なんだと思うんです。
非常に長く時間がかかる上に
何の進展もしない。
つまりそういう状態を受け入れずに
ずっと来たことのツケが回っている
みたいな考え方なので
そういう時間を受け入れるということを
その場で訓練するような格好になる。
でもこれを納得する人はまずいないじゃないですか。
とにかく苦しいんですって話をずっとして
はいまた次っていうことなんですよ。
何にもそこでは進展がなく
何の解決も見ず
ただただセッションが続いていく。
でもそれが大事なんですよね。
そういう話が一個挟まっていて
それとよく似てます。
つまりポジティブシンキングにこだわる。
つまりポジティブシンキングを捨てることが
とっても恐ろしいってことなんですね。
ポジティブシンキングが万能だから
この場合の万能は
あなたは万能です。勝ちマックスです。
って話とは違うんですね。
万能薬みたいなやつですね。
ポジティブシンキングが万能薬なんで
捨てられないんですよね。
万能薬を抱えてずっと上手くいってきたと
信じている人にしてみると
これがメモとか
私が思うに後で読むとか
そういったものになってると思うんですよ。
ネタ帳でもアイデア帳でも何でもいいです。
それらのものが万能薬なんですね。
それらのものが悪い結果を生んだとは
信じられないので
決して捨てられないんですよ私たちは。
ここにつまりですね
ネタ帳が良かったか悪かったかとは
何の関係もなく捨てられないというところに
つまり手放せないというものがあり
手放せないというのは不安の表れですよね。
万能薬なんだから
何かこれが起きたときに
これがなかったら死んでしまうというか
少なくとも大変恐ろしい。
つまり何か起こるって言ってるんですよね。
その方は。
何か起こるっていうのは
母親の不信感です。
何か起こるんだから
絶対大丈夫じゃないということなわけですからね。
赤ちゃんはそれを母親に対しては抱かない。
抱くようになったら
それは失楽園ですよね。
リンゴを食べちゃったわけです。
でも我々はみんなリンゴ食べてるじゃないか
っていう話が
進行していくことによって
例えば部屋から出られなくなったり
例えば物が食べられなくなったりするわけです。
母親に対する決定的な不信感というのは
つまりそういうことですから
ここが極端だと思われているんだと思うんです。
それはそうなんですよ。
30:01
多分メモをいっぱい作っておいて
ネタチョイをいっぱい作っておいて
アイディアメモをいっぱい貯めておいて
プレゼンの準備もがっちりやって
スライドもきっちりして
準備万端で常にいく。
ほぼうまくいく。
ただそれでずっとうまくいかせていくと
何か起こることがしばしばあるわけです。
不信感というのが
決して減らないからなんでしょうね。
このやり方を続けていくときに
何ら不安がそこに差し挟まれなければ
何も問題は起きないはずなんですが
その都度その都度
もしこのスライドがなければとか
もしかしたら
パソコンが動かなければとか
そういったときに不安になった場合
それらがなければ
自分のセミナーはそもそも
大失敗に終わっていただろうという
イリュージョンを固めていったときに
何かが多分膨らんでいくんですよ。
私はその何かが膨らんでいくという
方向性そのものが同意できないので
最初からやめておけばですね
やめておくことによって
つまり何とかなるんだなと
毎度思えることによって
何ともならないという恐怖感を
自分の中で育てずに済むと思うんですね。
この育てるということが
良くないと思うんです。
自分の不安を毎度毎度
少しずつ少しずつ大きくしていく
それはですね
毎度毎度
お客様に少しずつ
この人のセミナーってあれだなと
思われることに比べても
より悪いと思うんですね。
だから準備をしていくことによって
全ての人が満足することと
準備をしていかないことによる
リスクというものを天秤にかけたとき
私は心の中に
こうやって少しずつ不審感を
育てていくことの方を
むしろリスキーな感じとして
捉えていると
思ってもらってもいいんです。
これもちょっとグッドバイフスから
ずれちゃうんですけどね。
今リスクとリスクを天秤にかけましたから。
こういうふうにして
考えていったときに
タスク管理ってのは
かなり微妙なラインに
入ってくるんだけれども
少なくとも私はメモよりは
マシだと思っているんですね。
1回1回不安というものに
不安というものを
育てずに使っていくことができれば
これはメモでも同じですけれども
少なくともタスク管理というのは
ここ2年
グッドバイフスを知って
さらに2年やってみて
かなり不安を手放し続けながらでも
一応進めていけるんだなというふうに
最近感じてきたというか
最近つまりこれは年月がある程度
やっぱりないと
自分としての証拠が揃ってこない
という話ですね。
33:01
メモは私もしないわけではない
Webクリップもそうです。
ただし
それまでの数からすれば
100分の1以下に減っています。
このほうが結局いいとは思うんですよ。
扱いやすくなりますから。
ただ大概の人に
勧められるレベルとしては
まだまだ過激だなという感じはします。
100分の99のメモは
事実上ないものになります。
何度も言いますが
別段して悪いことはないと思うんですよ。
ただですね
こういう光景については
ちょっと考えてみても
いいんじゃないかと思います。
ジョン・ナッシュ教授かな
私の愛した数式みたいな
そういう
ちょっとタイトル忘れたんですけど
そういう数学者が統合主張症になる
それを何とか頑張って
克服しながら
していくという映画なんですけど
いい映画なんですけどね。
統合主張症なんですよ。
明らかに彼は幻覚を見ていて
幻覚のこの頭を撫でているんだけど
外から見ると
透明人間を撫でているようにしか見えない
大変不気味でいい光景があるんですけども
彼が
事実上脅迫症もあって
あらゆるものに暗号を見てしまうわけです。
パッと雑誌を開いただけでも
彼の目には
そこには暗号が書いてあって
それはソ連の原爆の
秘密の製造に関わる暗号とか
そういう話になっていくんですけどね。
そういう要するに
パターン認識が過剰に進行するという病気
そこから彼は
幻覚を見ていくっていう感じで
危うく全てを失いそうになるんだけど
そこで踏みとどまるという
しかも彼は知的に感じる
それは本当かどうか分かりませんけど
そういうお話があります。
これと私は
この彼の研究所を奥さんが見たとき
ひどいここまで放置しておくなんて
同僚なじるんですよ。
それぐらいその光景は
明らかに正気のものではないんです。
天井からいろんな記事が
クリップされて釣ってあったりして
全部暗号だと彼は思って
それぐらいその光景は
自分のエヴァノートの中の
メモやアイディアや
ウェブクリップが
全部外にあったら
結構ひどいと周りの人が
見えるという状態というのは
何かを暗示している気がするんですよね。
別にそのことで困っていないものは
一つたりとも病理じゃない
ということも言えるんですよ。
私はこれが病気だったら
病気だったら
病気だったら
病気っていうことも言えるんですよ。
私はこれが病気だと
思っているわけではないんですよ。
ただ、OCDっぽさと
非常に自然移動的でもあるけれども
OCDっぽさみたいなもの
そうせずにはいられない
ということっていうのは
私たちをある意味では
困らせているはず。
36:01
ひたすらひたすら
ネタを集めるというのは
別に結構なことなんですけれども
それを持っていかないと
セミナーをするとき
とても恐ろしいとか
それを持っていても
セミナーをしていて
やっぱり恐ろしいとかですね。
結局ここに
恐ろしさがあるわけじゃないですか。
だって失敗したくないんじゃないかと
言われると思うんですよね。
でもそのネタチョウは
失敗から救ってくれるんでしょうかね。
本もそうですよね。
本当に書いている最中に
ネタを満載に入れておいたら
その方が良くなるんだろうかと。
そういうものをなしに本を書いたら
自分が二度と本が書けなくなるのではないか
という恐怖感というのは
現実的に見てどうなんだろうと。
だいたいそれはですね
自分がイリュージョンを見ているときって
そうなんだけど
絶対にその恐怖感というのが
リアルなものかと思えるんですね。
奥さんを起こしたときに怒られたと
どっちかが絶対悪いはずだって
思えると思うんですね。
そういう破綻なんですよ。
本当にその破綻が起こるのか
ってことと
本当にそれは破綻なのかってことと
破綻が起きちゃいけないのかってこと
この三つが三つども
イリュージョンだと
私にはほぼ間違いなく思います。
ので、メモを残すときには
よくよく注意してみると
多分ですね
注意せずにメモを取っているんじゃないかなと
我々は思うんですよね。
外国人と会うときに
メモがあったほうがいいとか
そういうのが当たり前の話であって
そういうレベルではないと思うんですね。
例えばでもそのメモも
終わったら捨てられるかどうか
ってことですよね。
私はもうメモは終わったらすぐ捨てるようにしてるんです。
エヴァノートなどと何だろうとですね。
それは別に
つまり恐怖感というものと
関係がないならば
これをいつか生かそうという気も
気があったというか
自体がそもそも
何か問題に近いだろうと
自分の中ではですね
他の人には別に言うべきことではないんですけれども
自分の中では
この不安感というものを
抱え込んでおくつもりは
もうないということでしかないです。
で、実際に
セミナーに
これはもうゴリゴさんという方に
対談で問い詰められた件なんですけども
実際にセミナーで
全く理解できない
実際にセミナーで
全く準備なく
当日を迎えてしまったときの
恐怖感をどうするんだと
言われたわけですけどね。
私が
セミナーってやってるほどは
聞きに行ったりしてることはないけど
聞きに行ったことはありますよね。
本も
もちろん他の人の本を読みます。
いろんなスタンスがあると思うんですけど
確実に
私について言えることは
39:00
情報を取りに行ってるわけでは
全くないってことです。
話を聞きに行ってるんですよ。
私のスタンスでは。
この人の話を聞きたいと
その人の話を聞きたいんですよ。
事前に十分に準備された
デビッド・アレンさんのGTDについて
詳しく聞きたいとかは
思ってないんですよ。
だったらデビッド・アレンさんに
メールでも僕ならしますね。
その人の話を聞きたいときに
ネタが話されるというのって
つまり他の人の話を
聞かされるってことじゃないですか。
これたくさんとの対談の本の中でも
言ったことなんですけど
なんかこれがですね
やや伝わりにくいのが不思議なんですよね。
正しき情報を得たいはずだ
っていう話も
なくはないんだけど
本当にそうだろうかと思うんですよね。
私は文系だった生もあるかもしれませんが
大学の講義を聞きに行って
ただただ教科書にあるような話を
延々朗読されるなら
本読みますよね
って話なんですよ。
でもその本だって
データバンクみたいなものを読まされちゃう
たまったもんじゃないと思う。
この辺は価値観もあるのかもしれません。
でも話を聞きに行きたいってことは
話をしに行きたいってことに
限りなく近いんで
だったらその人が話してくれ
さえすればある意味いいんですよね。
全くテーマと関係ない話を
されるのもどうかと思うんですけど
一つ僕が思い出したのは
秋山寺先生って方が
数学者の方と
もう一人スキーヤー
とにかく同性同盟の人がいて
本当に違う人が来ちゃった
ってハプニングがあったんですって
それ新聞で読んだんで
多分本当だと思うんですけどね。
そしたら最初スキーヤーが来るはずの頃に
数学者が行っちゃう。
逆かもしれないけど行っちゃったわけじゃないですか。
でももちろんその話は
誰一人として
スキーヤーの話を聞きたいはずはないわけですよ。
スキーヤーの話を聞きに行った人が
数学者の話を聞かされたり
数学者の話を聞きに行って
スキーヤーの話を聞かされたりするんですけど
大好評だったって話があるんですよね。
私あの話が公演ってものの
本質ではないかもしれないけれども
多分みんな喜ぶだろうなと思うんですよ。
ということは
情報を取りに行くっていう感覚ってのは
相当ずれてるような気が僕はします。
だから自分は
情報を聞きに行くわけじゃないから
情報を話さずに済むんですよ。
こういう時には自分のスタンスが多分
表に現れるんだろうなと思うんです。
だからそんなに一生懸命
準備とかネタ集めに
奔走しなくても
本当は済むんですよ。
でもこれだけだと多分
その種の恐怖感は止まないので
一番止めるのにいいのは
やらないで済ませてしまうことなんだろうと
42:02
少なくとも数度はそういうことをやってみたら
いいんじゃないかなと思います。
42:16

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