野の医者の影響
おはようございます。朝っぱらから精神分析第1256回をお送りします。
9月26日金曜日8時51分です。
あっさり暑さが戻ってきて、例によってこう、アイスの頭に巻きながら喋っております。
はい、えっとですね、先日、
山崎隆明さんによるyoutubeでですね、「野の医者は笑う」の解説をしていらっしゃったんで、私、
まあいいのは相当見たい方で、もうあれを見ちゃったから、ちょっと前にね、山崎隆明さんとまた何か、
まあ彼にとっては余計なことを僕がまた企画してるってことになっちゃうんでしょうけど、なんかやろうかなぁと
ゲストにお招きして、なんかやれたらいいなと思ったんですけど、あれ聞いてかなり満足度が上がってしまって、
しばらくなんかこう、いいかなぁみたいな、やっぱりね、野の医者は笑うみたいなものを、
特に精神分析家に限りなく近い人ですよね、私よりは遥かに近い人で、が、どういうふうにあれを読むんだろうっていうのが気になるわけですよ。
で、あそこで文庫が出ていることをそういえば思い出しまして、なんでこの文庫が出ていることを忘れていた上に買ってもいないかっていうと、
一応私は遠肌さんの本は大体全部買うぞで思ってるんだけど、まあね、ここで僕がお勧めしているように聞こえると思うんですけど、
そりゃ必ずしもお勧めしてないですから、絶対買って読みましょうねって話ではないんですよ、そういう勢いで喋ってるかもしれないけど、
これもうセミナーじゃないんで、その場その場の勢いで結構喋ってますから、
あのー、だってね、出てたちまち5万部とか、そういう本を人に勧める必要って別にないなって僕思っちゃうんですよね、どうしてもね、
あのー、なんちゅうんですかね、やっぱりね、別にいいじゃないですか、5万部出てればもう関係者はみんなウハウハなんで、
ウハウハは言いすぎですけど、まあでも関係者はみんな満足なんで、
まあ読みたければ目に入ってくるでしょう、それぐらいの本になってくると、5万部ってまずいかないですからね、はっきり言って今時のご時世、
本当にね、あのなんか、5万部とか10万部とかって聞いてるから、まあ本ってそういうもんなんだなって思われるかもしれませんけど、
本当に5万部いくということに、これ多分僕が業界に長く結果としていたから、別に僕全然業界人感ないんですけど自分の中で、
たまたま言われてラッキーとかラッキーラッキーみたいな感じで本の企画来てありがたいわみたいな、もうなんかこの気持ちが強すぎて、
来れば引き受けるんですよ、あんまり企画内容とかちゃんと見ずに、まあそんなにね、ずれてないですからライフハックで、でも書きたい本とかが別にあってももうなんか企画が忙しいところ申し訳ありません、
こういう曲ありますけど是非とかって書いてあると、もう僕は基本的にはおめでたい人間なんで、深く考えずにはいっすよみたいな感じで、すぐ書き回すみたいな、しかもすぐ書くんですよ、結構書きたがりなんで、
あの書くことは全然自作にならないんで、多分ですね多くの人はこういうのを見てなんか強靭だとか思われるかもしれないですけど、僕は面と向かって批判されるとかなり動揺しますけど、
面と向かって批判ってそうされるもんじゃないですよね、どっかで書かれるじゃんとかいうのは、そんなの読まなきゃいいじゃんって感じなんですよ、僕のような人間って、基本的に読まないですから、読まないのは怖いからじゃないですよ、ただめんどくさいからなんですよ、僕は豆に見える部分はやたら豆に見えると思うんですけど、
多分本当に豆な人、例えば勝間和代さんのみたいな人は、勝間和代っていう言葉には、もう経和代ぐらいでも絶対全部徹底的にサーチして、よく書かれてても悪く書かれてても特に売れようって頑張っていらっしゃった時期は、だってあの方書く努力の5倍の努力を売る努力しろっておっしゃってましたから、5倍って、
あの私のね、グッドバイブスでご一緒していた時、倉園圭三さんが書き上げ塾の中でもおっしゃってましたけど、いや俺書く努力の5倍売る努力したら死んじゃうわみたいなことをおっしゃっていたんですけど、いや倉園さん書く努力すごいするから、あの努力の5倍売る努力はできないだろうっていうか、まあこの人にはそもそもそういうことできないだろうって、私もできないんですけど、書く努力の0.5倍でも無理そうなんで、
あの5倍の努力って、でもやっぱ倉園圭三さんが書く努力してないわけじゃないんで、体感で5倍って言ってるからには売る努力を物凄いしていらっしゃるんですよね、でその一環として自分に対して言及があったら絶対全部チェックするっていうぐらいあると思うんですよ、僕はたまたまその時X開いて目に入ったところで僕のことが悪く言われていてもよく言われていてもとりあえず反応しようってとりあえずリポートしておいて、
なんかこうよっぽど気分がなんかこう上がったり下がったりしたらなんか書くみたいな、そういうバータリー的なんですよめちゃくちゃ、そういう人間だからそんなに落ち込まないんですよね、はっきり言って、悪く言われてても、よく言われててもそこまで上がんないってこともありますけど、そんなに落ち込まないんですよ、それが特にビジネスのチャンスになってるんだと、そういう嗅覚の効く人は僕の周りには山ほどいらっしゃいますから、
絶対佐々木さんこうするべきだよっていうのを聞くわけですよ、カズマ活動さんにもありがたいことにそういうご指導を受けたことがあるんですけど、いや全くその通りだなと思うじゃないですか、でもなんかもう翌日には完璧に忘れてるんで、できないんですよね、そういうことはきっとね、でそういう時にまあ売れたり売れなかったりですけどたまたま売れるとすぐ来るんですよ、本当に企画が出て売れてるなと思ったらもう次の企画ですけどみたいなのが来るじゃないですか、
で私はすぐラッキーとか思ってもはや前の本を売る努力のこととか評判とかも一切頭から飛んじゃって、もうありがとうございます書きますみたいなノリで書き出しちゃうんですよ、でその時はもう評判のこととかはほとんど意識してないんですよね、実はね、なんかすっごい僕がここで評判とかについて喋ったりすることもあるじゃないですか、それはただ前の日見たとかもしかするとその日の朝見たとかなんですよ、
そんなにそのなんかこう3ヶ月1ヶ月ぐらい上司に言われたことが心の中で半数しとかは私は怒らないんですよね、なんかこう
物忘れが激しい面もあるんです、割と、僕だから自分発達障害みたいなのを疑ったことありますよ、本当の意味で疑ったことはないけど、
この物忘れとかなんか宿題忘れるとか持ってこないとかを発達障害と言うならば自分そうだよなっていう、いやそんなつもりはさらさらないけど
該当はしちゃうよねっていうのは思ったことはあります、まあ頭から無視してますけど、なぜなら物忘れして困らないだろうっていうのが大きいんでねやっぱりね
あのまあいいや7分も使う話ではない、本題にさっさと入りますとその先日ですね
戸畑糸さんのあと書きを文庫版あと書きってやつを読むんで8年越しの答え合わせ、これはもうちょっとネタバレしちゃってもいいと思うんで喋っちゃいますけど
要はそこで言ってることっていうのがあの自分は野の医者を結局あの割とまあ馬鹿にして書いてたよねっていうそこにすごい反省してますみたいなことが書いてあって
でも自分臨床心理師だからしょうがないんですよっていう、つまり本当に野の医者というものをフラットに見るならば臨床心理師が野の医者を受け入れられないというのはしょうがないことなんだってことが書いてあるわけですよ
アカデミーとアウトロー
僕は非常に誠実だなって思いました、こんなに売れてるのに、そうじゃないこと言うことは簡単なんでですね
でその臨床心理師さんという人がしかし結局ある意味野の医者じゃないかっていうね
だから彼はですねまあアカデミーの世界に入ってでそれによって心が癒されたんだって現実的ですよね彼は
簡単に言うと大学で職を得て給料がもらえるようになったからあんなに辛い時期が終わって心が癒されたんですよと
現実的なもんなんですよと言ってたんだけどそれをやめるわけですよね彼はね
僕そのことの一冊はとてもよく知ってんですよ理由は簡単で彼が勤めていた大学が私の実家があるところと一致してるからなんですよ
でそこ辞めたという話だからあそこに実家に帰るたびにあの学生さんたちがその駅でいっぱいいらっしゃって
この人たちがいたところに戸畑さんもいたわけねって思うわけです あのキャンパスでなんかキャピキャピと言ってるのがこの光景を言ってるわけね
っていうような感じを抱くんですよねそれは関係ない話ですがあのだから 彼は結局一旦アカデミーに吸収されるというか入っていくことによって
正規というものの位置を確立して本も売れてますしあの 心が癒されてつまり野の医者じゃないっていうことが彼のアイデンティティとして大事だったはず
なんですがやめるわけですよね で結局開業心理師になっちゃうとでこうなってくると何が起きるかというとそれは一応
資格は正規かもしれないけど結局どの医者じゃないか自分っていう言い方なんですよ あれは少なくとも前よりは遥かにアウトローに近づいたよね
だから野の医者というのは商売が滝なんですよっていうこれも誠実だなって思ったんですよ 結局そう見えるよねっていうことですよ
だから方法が自分と違う商売が滝なんだから当然手放しでは賞賛しきれないし 同じ位置ですよっていくら言ってもそんなことにはえっと真実じゃないことが含まれてる
じゃないかっていうニュアンスがそこにあるわけですよね しかしそもそもじゃあ自分がアカデミー結局辞めて野の医者になっちゃったのはどうしてかっていうと
野の医者の影響を受けたからなんですよっていう話なんですねこれは だからだってこれが影響じゃないなら何が影響なんだっていうわけですよね
結局はいろんな方出てくるわけですよね野の医者の又吉博士とか それこそ太鼓さんとかマスターセラピストとかですね
精神分析の本質
X氏とか彼らの影響あの魔法使いの人もいまして魔女がいましたよね上品な魔女 影響を受けたから結局自分も彼らのようになっちゃったんだと
つまり彼らによって癒された人は彼らのようになると一部はで ミーラトリがミーラになるの逆か
ミーラがミーラトリになるっていう言い方をしてたような気がしましたね その通りなんですよね
ユング的な言い方をすると傷ついた人は治療者によって癒されて野の医者によって癒されて傷ついた治療者になると
文字通りそういう線を言ってるじゃん自分っていうのが文庫版あとがきの答え合わせ 8年かかって結局は野の医者によって野の医者にさせられました私はっていう話になってますよね
これっていうことなんですよね で私ここはすごいいろんなことがこの話の中にあるなぁと思うんですけれども
よくよく考えてみると精神分析で言ってることってそう難しいことではないってのが まずここにはある気がするんですね
考えてみれば野の医者がやってることって実に当たり前のことなんですよ そう見えなくてもですよね
だってですね結局よく考えてみれば
その人が社会適用が一見良さそうであれ悪そうであれ 職業についていそうであれついていようと給料があろうと職業がなかろうと
引きこもっていようと結局そこに生育歴が無関係って考えるのはむしろはなはだ無理があるじゃないですか
親との関係が全くそこに関係なくてそこは全く見ずに 今この状況における状態が抑鬱的なのかPSポジション的なのか
何なのかあの引きこもっているのかそれとも二人で一人でいられるのか 寝られないのかお風呂に入れるのかみたいな話って全部
その症状だけ見てではその症状に対して行動を変えましょうとか薬飲んでみましょうとか それはいいんですけど全然それでしかしそんなはずないじゃないですか
でもう一つすっごい大事なことは親のせいにしてもしょうがないかもしれないが そもそも親が完璧なんてことあり得るだろうかっていう
それはですねあのひどい親に育てられるとかあってはいけないことだとしてもですね うちの親ぐらいの程度であったとしても結構ひどい事態を引き起こすんですが
だけれどもあれあってはいけないと言えば一部あってはいけないようなことを確かにうちの 両親してますがしかし
あってはいけないって言ったってあの程度のことはあっちゃうじゃないですか これがまあありふれた不幸って言われる言葉なんでしょうけれども
えっと客観的に何が起きたか競争で言ったらですね はっきり言って全然優秀な親でしたしかし心的現実として何が起きたかってことになってくると
非常に微妙な問題いっぱいあるわけですよねそこにはね で起こるよねっていうことなんですよ
治療アプローチの考察
でその起きたことに対してどうアプローチするかってなったら 2、3種類しかないと思うんですよねはっきり言って
で私はどの医者がやってることはいずれも結構妥当だと思うんですよ 例えばすごい親にずっともうなんかこう
罵声を浴びせ続けられたいいことじゃないですよねそれは とにかく何が起こるにせよなんか嫌なこと起こりそうな感じがしますよねそういう
育てられ方したら あの自分全然勉強できないのにお前を本当ろくでもない大人にしかなれないぞみたいなこと
勉強しろ勉強しろ勉強しろってなんか1万回ぐらい言われたらなんか何か起こりそうじゃない ですか
それの影響と無関係で生きていけるとはとても思えない親に対する何か絶対的復習とかを 誓うかも知れないじゃないですか
不毛だとしてもですよねで そういうことになった時に
このペンダントをしたら その気持ちが結構和らぐものなんですよみたいなペンダント
10万円とかで買うのはぜかひかっていう話をした時に それは絶対無意味だから
正規のカウンセラーさんに話してみましょうってのは本当に妥当な話なのかってことだと思うん ですよね
正規の心理師に話を聞いてもらうとかなんかありがたい話をしてもらうとか 定位解釈をしてもらうってのはそんなに本当にペンダントより絶対いいって言えるのかっていう
ような話を始めると 歯医者さんに行って歯の治療を受けるとのとは違うっていうことにならざるを得ないと思うんですよ
でこの話難しい話心の中にないじゃないですか治療は難しいかもしれないでも 構造を理解することがそこまでこれ難しい話じゃん
例えば8さっきの勉強しろ勉強しろって言っていた親がですね ほら私があの学校の用意は全部してあげるからあなたの移植中も全部してあげるから
あなたたたに勉強さえしてればいいのよ こういう虐待も世の中にはあるわけじゃないですか
まあ虐待がわかんないですよこれを虐待と言われるのは侵害だっていう方もいらっしゃるでしょう とにかくでも全然勉強向かないのに実際割り算のひっくり返す分数の割り算ひっくり返す時でも悩む人
ような人にとにかくこれをやってあげるから東大行きなさいみたいな すっごいきついですよね
でこのすっごいきつい人に向かって 例えばお坊さんがやってきて東大に入らなくても大丈夫なんじゃみたいなことを言うのと
転移解釈するのと 生命判断するのと
親と子の関係の本質
ご先祖様を敬うのとどれがいいんでしょうみたいな話をした時に ただ言えることはですねどれも結構妥当なのではないだろうかっていうような話なんですよ
ざっくり言うとですね だってですねあの又吉博士って人が出てきましたけどあの博士は私大変面白いと思ったんです
けど あのつまりですね臨床心理師的にはルール違反なことをしているとかしていないとかって言い
ますが そんなことないんじゃないかって僕思うんですよね臨床心理師がルール守ってんのかとか思うわけ
ですよ あの文庫版の後書きにも書いてあったんですけれども
話を遠方先生に本当にしっかりと継承していただいて あの余計な口を挟まずにすっごいありがたかったんですって言われて非常に感動的な話で
いいんだけど いやでも俺結構いろんなことをベラベラ喋ってたし絶対とまたさんとか喋ってる気がするんですよ
わかんないですけどこれ偏見かもしれないけどいっぱい喋ってる気がするし一方が違うと彼は なんかこう
行動家的介入だって仕掛けない人なんじゃないかってこれはもう僕の本当偏見で見た こともないくせに余計なこと言ったんですけど思うわけですねそんなことしても別に僕
驚かないんですよ彼がするとしてもそれは違反は違反でしょうけどそれがいいか悪い かなんてわからないと思うんですよね
でそれとまたよし博士はそんなに違うって言えるだろうかっていう やっぱりお父さんとお母さんを大切にしましょうみたいな話って結局同じじゃんっていう
ところがないわけじゃないわけですよ どんな親だって親は親みたいな話をするっていうのはね
そこに何かバナナがどうしたとか桃がどうしたとかいうわけだけどそれはエディフス コンプレックスの話を何かこうバナナとか桃に例えてるだけであって
何も違わないとは言わないまでも何違いますけどね でそこの時に
すごく世俗によって 現実に寄っていくとなると積極さくなりますよね
お父さんとお母さんを大切にしましょうみたいなもっと言うと いやお母さんだって母子家庭で大変困っていてそれにそんなに学歴があるわけじゃない
んだから育てるのそんなにうまいわけじゃないしとかって言われるのと 言われたくないじゃないですかそういうことって
そこでこれを必然的な話に持っていきますよね 例えばここは沖縄だと沖縄だったから
あのいろいろ戦争の時もあったし 米兵とねいい関係になっちゃうんだけど米兵はなんか無責任にアメリカ帰ってしまうと
でしょうがないんじゃんみたいな こうなってくるとお説教なのか運命を受け入れましょう的な話なのか
よくわからなくなってきますよねで でですね私は思うに
責任取れないというかその状況をいかんともし難い時に我々は 超仁義的な世界に話を持っていくことになるしかないと思うんですよ
そこにご先祖様っているじゃないですか つまりあなたが生まれてきたのは別に親が悪いわけではないと
人類ってのはそうやって連綿と子供を作って子供その子供が親になり 子供を作ってその子供が親になりを繰り返してきた
必然的な流れなんだからしょうがないんですよと この必然的な流れがあるからあなた今ここにいるんですよみたいな
これをどう捉えるかっていう話になってきたら 何だってありではないかもしれないけどでもほぼほぼ何だってありですよね
でこれ まあこれを受け入れられるかどうかは別として難しい話はここにないですよね
あとはどのぐらい具体的現実に話を寄せるか 超自然的必然性の話に持っていくか
その行ったり来たりみたいなところが大きいというか それが世話に野の医者は笑うの話だったなと
で 臨床心理師は決して前世とかに行かないって言いたいんでしょうけど
しかしですね 結局両親のセックスを至高のものとみなすとか
それは結構祖先信仰だぞって思うんですよね その時祖先のことを思わないっていうことが可能だろうか話してっていう気がするんですよ
これは精神分析の言葉ですよ 心理臨床の考え方に僕は限りなくそういうものが入ってるとしか思えないんですよ
そこも区別できるようなところじゃない だって両親のセックスが素晴らしいって言ってるのは
つまりあなたが生まれていることは素晴らしいことなんだよっていう それが愛によって生まれたんだから肯定しましょうねっていう
これをただこうやって抽象的に言うと絶対肯定できんってことになるじゃないですか
しかしですね その両親はそもそもその両親と両親の成功によって
で その話がネアンデルタール人みたいな話になってくるともうほとんど野の医者の世界ですよね完全に
しかしそれを意識しないで果たして両親だけのことを考えるっていうことになり得るだろうか
両親のことを考えてしまったら絶対両親の両親のことを考えているに違いないと僕なんか思うわけですよね
でこれは野の医者と臨床心理師がどこに一線を超えたとか引いたとかルール違反だとか言うことの難しさをよくよく物語ってると思うんですよ
ここからもう一歩行けばですね その両親がえっとあなたを産んだ時の星空には何座がとかって話になっていくわけじゃないですか
そしてあなたの両親はそもそもどういう思いを込めて佐々木翔吾って名前にしたんでしょうってか翔吾って名前をつけたのはそもそも親じゃないんだけどねって話になるわけですよ
その時本当に親が愛していれば隠すとか気にするよねみたいな話になっていくわけじゃないですか
こういう名前を平気でつけるというのはなかなか厳しいことだけどその場合にはこういう考え方があるからみたいな生命判断とか
星占いとかあの青年学期とかその時の星の位置とかそういったものが全部入ってきちゃうわけですよねあっという間に
で難しい話はしてないんですよどっちにしても つまり親がどこ親だって言った時にそういう親にそっくりの
先生を見たらうわもうこの先生すっごい許せないんだけどって言いながらその先生のところに何度も何度も来るっていうのはつまり
こういう親じゃなければよかったのにって思うってことじゃないですかそんなの当たり前じゃないですか
でもこれが転移ってことになるわけじゃないですか 難しいことはここにはないと思うんですねやっぱり
すごく優しいことがあって ただ
どうすればいいかとなると実に難しいところがあって 結局どうにもこうにもできないこともできない人の方が普通なので
星とかそのどうにもできない方に話が持って行かれがちなんですよ 必然的にこれが起きたんだからあなたはこれを喜びましょうというような話に近いわけですよね
喜ぶとミラクルが起きますってはっきり言ってそれは起きますよね だって例えばあの
うまいことこういう話をされてねいい香りのなんかをこうたかれてなんかこう 子供の時から大好きだった結構親がくれなかったキラキラしたものいっぱいくれて
2足3本だとしてもですよ 親は全然そういうのくれなかったわけじゃないですかでキラキラしたものをくれて
8それにしても酷い目に結構あってきたんだというと でもそういうのはですねこう
誰が悪いわけでもなくて星空の下でこういうことがあって 悪いことはなかったんだと今あなたこういうキラキラに包まれて祝福されているんですよと
ちょっと親御さんに電話してみてくださいみたいなことを言われて電話すると電話しよう と思うと向こうからかかってきてなんか
野の医者とミラクルの関係
昔悪かったねみたいなミラクルだって思うじゃないですか でもそういう電話て実は毎年1回ずつかかってきていてそういう毎年1回ずつかかってきて
いたってことを意識した時にこういう あのヒーラーみたいなところに行くってことはいう分ありそうなんつまりミラクルでも何でも
ないわけじゃないですかでもそれ絶対ミラクルにしといた方がいいじゃないですか この場合は
で絶対薄々本人は気づいていると思うんですよねそういうことにしたかった部分である と思うんですよ
でそういうことにしたかったっていうことを意識しちゃうとまた怒りがフツフツと湧いてくる ので
ヒーラーのところに通わなきゃならないですよね怒りがフツフツと湧いてくる前にこのキラキラと祝福の 気持ちを維持するため
で一番それを手っ取り早く確実にやるのは自分がヒーラーになってしまうことですよね こういうカラクリって
何が実は驚くようなことではないし はっきり言って悪いことでもないと思うんですよね
これは悪い悪いって言ってあの 共感傾聴一致の世界に行くべきですとかあるいはこう行動を修正するために認知の
歪みを正す方向に行くべきですっていうのは 難しいと思うんですよ結構ね
それを受け入れがたいと思う人の方が多くても不思議はないような気がするんですよね だから
まあ50歩100歩って言い方本当この50歩大きな50歩ですけど今の話に立って全然違って聞こえる じゃないですか
全然違って聞こえるということは正義が正義たり得る理由っていうのはないわけでは決して ないと思うんです
私なんかはどっちかっていうとそのどうしたって自分はキラキラの方に乗ることのできる ようなタイプじゃないし
そこでこう取り扱われずに終わってしまうことが多すぎると思うんで でもそれは取り扱う方だって
一旦じゃあ取り扱うとなればお前取り扱えるのかって言われると微妙ですから キラキラで済むような人にはそうしておいた方がいいだろうって言われれば
その言い方非常に良くないんですけどねでもなんていうのかなことは情緒の問題なんでやっぱり 4歳の頃どうして欲しかったかって話を多文に含んでますからここには
その時に認知の歪みがっていう話を絶えず持ち出されるっていうのもそれそれで厳しい わけですよね
だから精神分析はそのすごい折衷したところを取っていて私は偉大だなと思うんですけど でもそれは今度やる方がすっごい大変なんで
ある種の能力を絶対的に要求されますからね そしてうまくいかないことはいっぱい出てきますからそれはそれでで
例えば正規と非正規と言わないまでも正規と野良犬 野の医者とは言わないまでも例えば正義の医者同士の間でも差は当然つきますよね
ここで 視聴自然超人意的な必然性の話よりもはるかに
人工的で教育的な話に持っていける人はつまりマスターセラピストと呼ばれうるような 人になっていくでしょう
例えば太鼓さんみたいな義名かもしれませんけどそうですよね だって太鼓さんみたいな人って相手が臨床心理師の同肌カイトであっても全く怯むことなく
説教してたじゃないですかブチ切れて あなたの書くような本には関わりたくありませんみたいな
あなたは不幸な人ですみたいな これってその超人意的でふわふわキラキラした世界は決してないじゃないですか
その人の教室の中では割とふわふわっとやってたかもしれないけど
マスターセラピストさんはやっぱりここで人間がなんとかできる領域に話を持ち込んでるわけですよね
もっとこうしろみたいな話ですよね要するに もっと親に感謝しなさいみたいな
あなたの親はそういうことだったかもしれないけれどもそれは何座でとかいう話ではないですよ
この何座でってのはごまかしだって話じゃないんですよ この何座でっていう話は必然性がここにあるって話をしてるわけですよね
つまり我々はみんなそうやってきたじゃないですかっていうことなわけだと思うんですよ だって
2万年前とかだって交尾とかはなされているわけで その時医療ルームとか産婦人科さんみたいなものとかは存在しないわけじゃないですか
産科みたいなものってどころか 輸血もできなければ抗生物質もない世界じゃないですか
そういうところで子どもを作るというのは無責任だっていう話に今ならなるけれど 当時そんなことを言っていたらそもそも今はないじゃないですか
というのが必然性ってことですよね だからこの必然性のところに
星と星の位置とか持ってくるのはおかしなことでは実はないんですよ 突き詰めてしまえば
だけれどもなんでこれがいわば煙たがられるというか 正規の人から見るとそれじゃダメだって言われるのかというと
もっとそこを考える前に具体的に打てる手があるだろうと我々直感的に今の時代ですから思うわけですよね
もっと直接親子関係自分の親と自分の母親との関係を洗うってことができるだろうと ただそれをやるのは結構大変なことだし
大変というかそれをやるとなるとやっぱりこう いきなり議論が沸騰するわけですよどうしようもないっていう話であれば
火の上馬にはこう生まないみたいな話であれば どうしようもないことだからあの時戦争があったからとかならどうしようもないことだから
UFOもある意味言いやすいわけですよねどうしようもないことなんだ だから祝福しようっていうのはここに議論するのは難しいじゃないですか
どうしようもなくはなかったつっても実際戦争あったしなみたいな アメリカ兵がアメリカ帰っちゃったっていうのをお父さんがアメリカ行っちゃったっていうのもどうしようもない
非常に良くないことかもしれないが良くないことですけど今後は起きないようにする べきかもしれないがしかしどうしようもないということであればですね
でもっと前の話してますからね米兵だとどうしようもあったって議論ができますがこれが 8何万年も前から決まっていたことだってなってくるとどうしようもないじゃないですか確かに
このどうしようもないところに話を持ってってでも 現状を受け入れることができれば普段から起きていることがもっと遥かに良いものに見えるこの
瞬間を ミラクルって名付けてるんでしょうね
母子関係の意義
だけれどもこのような言い方は ずるいからもっともっと今私たちに要するに人為的にできることがもっとあるだろうって
野の医者ならでは何なとしても語れる人は多分マスターなんですよ だからあの太鼓さんとの対決みたいなシーンは野の医者を洗うの読ませどころになってるわけですよね
えっとこういうふうに考えましょうみたいな感じで押してくるっていうそれは現実と現状について 結構近いところつまりそれ議論の位置があるから
戸畑さんは反論してましたよね でもそれはごまかしだと思ったみたいになるわけじゃないですかすぐ
ごまかしと言えばごまかしになっちゃうんで結局それは解釈の問題みたいな話に でも解釈の問題とか言いつつ
まさに戸畑さんはおそらく解釈とかをしているわけじゃないですか だから当然食ってかかられるってことは起きるわけですよね
で起きている話もしょっちゅう出てきますよね ということを多分取り扱っている本だということなんだろうなと思うんですね
だからそう複雑なんですがやってることは複雑になるんですけど考え方としては 別におかしなことではないですよね
渡吉博士みたいな人が出てくるのは当然なんだろうと思いますね で
こう一連の話をしてきてですねであんた何やってんのって話になるわけですね 私は渡谷子なんだすごいタイプが全く全然少しも違うんですけども
ここにミラクルを導入せずにこの問題を取り扱うとするとでもやっぱり 本当は必要最低限ということにしておきたいんですけれども必要最低限ということにしておき
たいけれども 親子関係というか母子関係ということになっちゃうよな
っていうことは母子ってやつですね なんで母子なのってしばしば言われるようにさすがになってきたんですけど何で買って
言うと だってそこに人間関係があったのでそしてその最大の問題はその人間関係は選べない人間
関係が結局ここでも必然性について語ってるわけですよね 選べないだけでなく
言語化もできなかった今流行りの言葉で言うとつまり意識化が難しい上に選べない それは大変な事態だと思うわけです
母親という人がどういう人であるか我々は 選択できないと
しかもさらに選択できないだけではなく それを意識化もかなり難しいっていう良くも悪くもっていうか悪くも良くも
なんですけれどもね でこの意識化できないということは
親の影響と社会的期待
ある種の小さな危険が非常に大きな危険になり その大きな危険も数が制限されてればいいんですけど
のほずに増えていくという可能性がないわけではない というか結構ある
たぶんうちの親にすらあったと思う で
親ガチャみたいな言葉もあるわけじゃないですか ところが私は最近ふくふく思うんですよ
よほど良い方はガチャかもしれないが あって言って一般的にそんなに良いってことは考えにくいのでは
なかろうかと思うようになってきたわけですね これはガチャで引けるすごい良いものの確率はとても低いのに
ここをすごく高く見積もるという悪劇が我々に僕はここに まあこれは批判になって申し訳ないですけどこれは批判だと受け取られても
だいたい僕はここで実は批判しているつもりではない ただせいぜい陰口叩いている程度に思ってるんですけどこれは批判だなと思うんですけど
cbt へのある種の批判は 親というものの平均水準を高く見積もることを自覚し足りてない気がするん
ですね最近は昔あんまりそういうことを考えたことなかったけど つくづく自分の親のことを考えてみてもですね
私これ平均水準を超えていると思ってたんだし 今でも思ってたかないんだけど平均水準を超えているということは
cbt の下地として十分であるということを意味しないんですよ まあこれが批判です
私には cbt と言われているものつまりそれはエリス まあエリスだねエリスだと思う
エリスだけではないがまあエリスは大きいと思いますね そして好きな
彼らは好きな行動両方の創始者ではないですが でも彼らの考え方のベーシックには
親というものが 平均水準を超えて親というものが
あまり自覚もなく仮定されている気がして仕方がないんですね エリスの親がそうだったとは私は信じられないんですけどね
そのように彼は誤解しているんじゃなかろうかという気は致しますね 好きな親はもしかするとそうだったかもしれないなって思うんです
彼の反省みたいなのを読む限りにおいては もしかするととてつもなく出来が良かったのでもあり得るなっていう感じを抱かなくはない
とてつもなくっていうのは令和のこの時代に親がやっている平均水準をかなり上回っている親であればという意味です
それを昭和の親に期待するとなってくると私の感じでは1万人に1人いるかいないかではないだろうかって気が分かんないですよ
統計取らないとわからないただし多数だったとは絶対思いません 自分の知ってる限りとっても良い人だなこの人はっていう人は結構いらっしゃいましたよ
医療環境と親の影響
でも 難しいですだからやっぱり常識の範囲内で考えるとそんなことありえないんですよ
平均であるということとそこで想定されているっていうことは一致しないってことはしばしば起こると思うんですよね
あの様々な認知行動療法の技法を見ていると
情緒的混乱を親が基本的に憎むっていう意味ではないです
悪い問題を増やすってことです 憎悪しないというようなことが絶対に憎悪しないとは感じられませんけど
憎悪が日常化しないのは前提であるって雰囲気があるんですよね 雰囲気を感じるというかそうでないと成り立たない気がして仕方がないです
今の隙間療法はそうじゃないって言われるかもしれないけど 僕はあれを読んでもなお何て言うんですかね
親とはこうあるべきであるが 気迫な感じがするんですよね
むしろそうはっきり言うべきだと思うんです ああいう話になるのであれば
こういうもんだよねみたいなことが何となく無意識に意識されていると言いますか
こういう感じを抱いてしまうんですよね そうあるべきなんですけど親はそうではないよねと
自分のことを振り返ったってそうですから 自分自身が親だという観点で取ったとしてもってことですよね
自分の親は私よりもはるかにその辺のことは考えずに子育てしてましたからそれでいいんですけど
結果良くないことが起きた時に十分そこの原因は 難しいな原因って言葉ね原因はわかんないんですけど
重大な関数の一つになっているというか 今思えば私は子供ながらに相当未熟ながらに
自分の肉身についてなんですけどね 親に対する一定の歯止めをかけようとしてきたが
自分の無効だったなって感じがする それはこういう言い方をすると実に親が悪い感じなんですけど
そうではないんですよね だからここには残念ながらさっきの星占いそっくりのことがあるんですよ
親が合わせたのは必然だって感じがするんですよね 僕の感覚の中では
例えば絶対私は叩かないと言いながらぶっ飛ばしてたとかはあるんですが
いやものすごい回数頻繁にあったってわけじゃないですよ
でもものすごい回数頻繁に私は絶対暴力は振るわないとは言ってましたからね
これの意味することっていうのは でも親に虐待を受けていたうちの母
殴る蹴るのからするとしょうがないような気がするとしか言いようがないんですよね
家庭環境の葛藤
親に虐待よっていう時の虐待していた親の虐待はさぞひどいものだっただろうというのはわかるんですが
じゃあそのおじいさんが悪いのかというとそのおじいさんは明治時代によくわからないところに急に里子になされて
いきなりママ母に育てられてものすごいアークだったこうだったって話が山のようにある人なんですよ
こうして必然性がなんかね世代間連鎖って言葉があるじゃないですか
それが必然性ってこと言ってるんですけど
あたかもそれではその連鎖となるものが一部特別に悪い過程で起きたことみたいに聞こえるじゃないですか
でもこういう話がうちの父の方にないかっていうとあるしうちの母の方にないかっていうとあるし
私の技術家の方にないかっていうとあるしなんですよ
平均的にはもっとマシだったっていうこの過程はどこから来るんだろうっていう
うちの家庭絶対平均的なんですよ
いや平均より恵まれてる気がするんですよ
明治大正昭和平成とかけて
大体私のこの関連している一族は恵まれてる感じがするんですよ
でもお父さんはアルコールに依存して娘と妻をぶん殴り続けるお父さんだったりしてるわけですよ
うちの父じゃないですよ
でうちの母は絶対私はそういう家庭に育ったから暴力を振るわないといって
うちの妹のことをものすごい引っ張られてたりしたのを私は見てるわけですよ
いや回数少ないですけどね
でも言葉の暴力ならいくら言ってもいいんだということで
ほとんど毎時間のように暴言を吐きまくっていたのは私は聞いてるんですよ
いくらか止めてるんですけど妹にしてみれば十分ではないでしょうね
でも私の母は平均的な母よりは良かったという感じが昭和の49年50年代ではしますけどね
しますけどね
だって私の習った担任の先生の隣の担任の先生は
ダウン症の子とかをお前のような奴がここの学校にいるからこんなことになるんだとか言って
なんかこう何ですかあれは
あれですよ北都の県のけりみたいなのが入って
ドアまで吹っ飛んでってその子そのドア外れてバターンってなったから
私はそのことに気づいてもう非常にショックを受けましたからね
でもそういう光景は年に3回ずつぐらいはある学校だったし
あの人のお子さんも3人いらっしゃいましたからね
よくできたお子さんだったっていう話ですけどね
いや別に全然そういうもんだったよなあっていう感じがするんですよね
いや別に全然いいことだとは言いませんよ
よくないけどない方がいいに決まってますけど
この話をまともにそのねことを受けて不幸なことになったって言っている人にしてみると
認知の歪みっておかしいだろうって
認知の歪みって認知行動療法で今言わないかもしれませんけれども
少なくとも昔は言ってましたから
つまり何が言いたいかというと正解を知ってやってるとはとても言えないことなのに
どこかに正解があるようにそして正解に正解となるような切り札みたいなものが
無意識のうちに仮定されているこれは家庭環境だけじゃなくてですね
治療まで含めて要するによく言うんじゃないですか
インフォームドコンセントとか地域でとか
私いつも地域で連携してっていうのを読むたびに
正しいんですけど多分一人の特にね
のの医者だけが見るんじゃなくて
そんなんじゃなくてシステムが
医療システムとかいろんなものと連携して
そうして一人の人をコンテインしていくのが正しいでしょうって
正しいんですけどされている気が全くしない
私のだって肉親両親実家丸ごとですよ
いったい何にコンテインされてるって言えるんだろうっていう感じしかしないんですよね
全然コンテインなんかしてないじゃんって思うんですよ
してるんですよそりゃあしてないとは言えない
でもあれが心理療法的にコンテインされてると言えるかというと
僕はそんなことは全くないと思うんですよね
決して小さな市じゃないですよ
市のお金も十分潤沢にあるし
悪いのはうちの親とその子であるというのはそうですよ
私はいっぱい言ってますけど市役所行けって
誰一人として決して行こうとしないですからね
そりゃコンテインできないじゃんって言われればそうなんだけど
地域がコミュニティが見守っているって
誰が見て誰が守っているんだろうっていう
先日ですね母から長いメッセージと電話がかかってきてですね
なんとかこの状況ならんか
だから役所行けって言ってるじゃんって言うんだけど
考えてみるとこれはすれ違ってるよなって思うんですよね
畳がもう見えなくなっているんだと
お部屋って意味じゃないですけどね
だって2階にはキッチンないのに食事を切るものもないのに
でも切るものを上に持ってこさせられて
それで新聞紙を一面に引いて
うちの母はこれなりに貴重面なんで
ダニが発生して高齢者が刺されて死ぬとかいう話出ているし
でも明らかにもう家にダニはいっぱいいるし
私も入れなくなっちゃっているんですけれども
だからその新聞紙がいっぱい敷き詰められてる光景も
見たことがあるわけじゃないんですけれども
精神保健福祉の現状
つまりここにいたってどうしようもないじゃないですか
でどうしようもないということに関して
その時うちの母と父が子作りをしていた時の
星座は何座だったのであろうかって考えることに
僕は何の意味も見出せませんけれども
しかしでも私が言ってる
じゃあ役所池っていうことはそれとどれくらい違う
地域コミュニティが見守っていて
コンテンツしていてその医療システムに頼るべきである
星座とかじゃなくて
それは分かるんですけれどもね
でも私が役所池って言って
役所池ってどうなるのさと母は言う
まあそう思うわな
そりゃな絶対そう思うよって私だってそう思う
で母はまあテニス行って気を紛らわしてるし
少しも微妙なんですけど
それでもテニス行って気を紛らわしてるし
その方がいいなって思うんですよね
別に批判してるわけじゃないんですよ
しばしば山崎貴之さんが出されるから
精神分析の歩き方を読んで
しばしば山先生がおっしゃってる通りだと思うんだけど
そうはできない
どうやってもできない
私できるだけの努力は
できるだけの努力を少し乗り越えてしまっているような
努力をしているつもりな
それがよくないのかもしれませんけれども
オフナのカウンセリングでは
そういうことはなぜするんですかって言われてみて
なぜするんだろうって思ったんですけど
でもこれはですね
だって他に何も考えつかないんですもん
っていう風に言ってみて
ふーんって感じだったわけですけど
ふーんが大きな解釈だなって思うんですけどもね
だから手放してみるってこともしてみたんですけど
一時的に何かが動くんですけれども
事態が改善されるかっていうと
相変わらずリスパーである0.25ミリが投与され
投与っていうか提供され
それがただただどこかに蓄積されていくっていう光景を
時々私がチェックをしては
0.25では足りないっていう
セカンドオピニオンを院長先生がおっしゃったのも
正しいんですけれどもきっと
でも0.25を0.75にしても
3倍の量がここの引き出しに
溜まっていくだけではないんだろうか
っていうようなことを考えてみたときに
いやいやアクションいけばいいとか
えぇなんだろうなぁ
なんとか保険 精神保険福祉資産
とも僕は1時間ぐらい
毎月のように喋ったんですけど
それによって何かが起こったとは
言い難いような気がするんですよね
これがコンテインなんだろうか
と思うんですけど多分そうなんでしょうね