タスクシュートの告知
おはようございます。朝っぱらから精神分析、第1144回をお送りします。9月5日、金曜日、8時4分です。
ウェイフーが近づいてきていまして、しかも私は今日珍しく東京に出なければいけないことになっていて、
もう本当になぜこうなるぐらいな猛暑も結構問題ではありますが、
このウェイフーもかなり問題だろうと、電車止まることはない気がするんですけど、
電車ってなんかこっちの方の電車って風が吹くと簡単に止まるんですけど、橋渡る関係だと思うんですけど、
雨ではそんなに簡単には止まらないんですよね。垂直に雨が降っている限りにおいては。
もちろんその土砂下りがいいときになってくると、あと川あふれるときになってくると多分ちょっと違うと思うんですけどね。
横浜あたりまで行かなくても大船あたりまで行ってしまえば、割とあとはなんとかなるみたいなところもありまして、
まあその、なんだかんだといってですね、行くことはできると思うんですが、
そうまでして行くの?みたいなところもちょっとあって、まだ朝8時の段階なんで、
14時、15時に一番激しくなりそうなんで、それをちょっと過ぎたあたりに出ようかなと思ってるんですけどね。
昨日お知らせをしたにも関わらず告知ができておりませんが、
9月23日の終文の日にタスクシュート完全活用術の続編をですね、
もっとこう、完全活用の意味がどうしてもこうずれるんだなっていうのが少し感じられてきましたんで、
そこのところをフォーカスして頑張っていこうかなと思っております。
今日若干その話に絡められればいいなと思ってるんですけど、
何しろほら、昨日停電があったんですよ。
本当に告知するぞって思っていた矢先に停電が起きて、なんかもう告知すっとんだみたいな感じになりまして、
今日も台風で出るのかこれでっていう感じがあって、
もしかするともう少しあんまりね、告知までの期間が遅くなるんで、
23日できれば開けてみてください。
もちろんアーカイブ配信いたしますから、それでもいいかなと思うんですけれども、
とにかく頑張りたいなと思っております。
タスクシュートの機能
何を言わんとしていたんだ私は。
タスクシュートっていうのはですね、いろんな使い方ができちゃうんですけれども、
実際サムデイリストあそこに入れるとか、私からすると全然タスクシュートのリストが機能しなくなる方向に向かってしまうと思うんだけど、
とはいえそれ使い方もできるわけじゃないですか。
突然思い出したんですけど、このAirPodsという投資は最高にうまくいきました。
本当にこれはなぜ最初にこれをささっと買っておかなかったんだっていう、
これ以外のものを買ったのが全て無駄だったって感じがするぐらいこれは素晴らしいです。
Apple万歳ですね。
何が言いたいかというと、タスクシュートっていうのは本当に何とでも使えてしまうんですね。
でもある方向性を持って使えば、結局その話って僕が精神分析で言っていて、
ある意味では受け入れられがたいと思われている部分なんですけど、
ここを受け入れてさえいただければ、
無用な壁にぶち当たって頭を痛くしないですっていうふうに私は思うんですね。
もちろんそれ以前にそもそもタスクシュートとは基本あまり関係ない問題で、
ものすごいお悩みという方にはそういうわけにはいかないです。
ただタスクシュートと関係がある部分での悩みは、
つまり精神分析的っていうふうに私が考えていることでは、
2つの功用があって、1つはタスクシュートと関係がある場面を、
ただタスクシュートの私が推奨するような使い方を受け入れるのにあたって、
精神分析は実は役に立つんですよ。
もう1つが、しかしそもそもタスクシュートに何の関係もないとまで言わないけど、
関係が至って薄いお悩みは、タスクシュートを私が推奨するように使っていただこうと何をしようと、
多分あまりうまく問題から解放はされない。
プランの重要性
その問題にも精神分析は役に立つと私は思う。
しかもそれが知識ということなんですね。
もっと知識だけではさらに何ともかんともならないということになったときに、
初めてカウンセリングとか分析とかを真剣に検討する。
この順番で十分だと思うんですよね、私は。
この順番だと、編集長の方がすると大回りを強いているように思われるかもしれませんが、
長らくライフハック仕事術会話で生きてきた身としては、これが最短だと思うんですよね。
カウンセリングに行き着くとしてもこれが最短。
まして精神分析のあるものに行き着くとすると、これが絶対最短ぐらいに思えるんですよ。
絶対これは遠回りのお勧めではない。
多分何もお勧めしなければどっちにも行かないという人が圧倒的多数です。
50年後はそうではないかもしれないけど、しばらくはそうです。
だからこの順番でお勧めした方が、人はその気になれると私は思うんで、
だから心理臨床の邪魔には絶対にならないと思うんですよね。
まっしぐらに心理臨床をお勧めしたって多分動かない人は動かないし、
ほとんどの人は動かないんです。私の肌感覚的にはそうです。
この順番がベスト。まずタスクシュートを試し、次に精神分析の知見に触れるということを試し、
それでもダメだったら精神分析を心理カウンセリングに行くっていう、
こういうステップを踏むって意識を持っていた方が、
行きやすいとし、行く可能性が出ると思う。
そのためにタスクシュートを用意してあって、知見に触れる方は3ヶ月チャレンジが用意されている。
それはお前の都合だろって思われそうですが、だってこれは僕が一番これがいいと思って考えていて、
自分でサーフィス作ってるんだから当然ですよ。
そうならなかったらむしろ僕がやってることに問題があると思うんですよね。
僕はここのタスクシュートの代わりに違うメソッドをお勧めする気に全くなりませんし、
ここの触れるってところには別に3ヶ月チャレンジじゃなくて、
遠畑海人さんの本でもいいんじゃないのってならいいんですけど、
あれは私は精神分析の知見に触れるってこととは違う気がするんですよね。
僕はお勧めですけどね。
だったら山崎孝明さんの本のほうがお勧めだなと。
そういう意味では藤山直樹さんの本とかもお勧めだなとは思います。
そっちはそっちでも全然いいと思うんですよ。
ただですね、例えば私の4回25,000円のセッションっていうのがありますけど、
本とか高いんで、結構バリバリと読む気になる本も自分に関係ありそうだなっていう松木さんの本とかを5冊ぐらい買うと、
1本しか買うとその値段に匹敵しますからね、本当に。
フルコンで1万円とかで売ってたりしますから、本当に。
そんなに電子書籍で1,500円とかで買えるんだったら、そっちが圧倒的にお勧めですとかってまだ言えるんですけど、
そんなにそんなことはないんで。
なんか普通になんとかの時点みたいになったら2万円とかしたりしますんで。
で、それは時点とかですからね。
やっぱりそんなにこれね安く手に入らないんですよ、どういうわけか。
出回ってないからなんですけどね。
出回るようにしましょうみたいなこと言いたいんだけど、それはかなり時間がかかるんで、そんなこと言ってられないと思うんですよね。
で、本格的じゃない本にすればいいじゃんみたいなのもあると思うんですよ。
話が荒の方向に行き始めました。
本格的じゃない本はそれこそかなり僕は無理があると思うんですよね。
なんか3日でわかるフロイトでわかるのは分かった後なんですよ、僕の経験では。
3日でわかるフロイトって本は今あるのかないのか知りませんけど、昔そういう本があったんですよね。
で、そういう本を読んでみて、なるほど、そういう風に書いてるわけねって今なら分かるんですよ。
でもそれは僕が結局フロイト全集とかをだいたい読んで、それ20万ぐらいですよね。
だいたい読んでからどう考えても3日じゃ読めないじゃないですか。
10年ぐらいかかってるんで、もっとかかってる気がするんで。
で、そういう10年ぐらい読んだ後に3日でわかるを読むと、まあわかるんですよ。
でもそれは3日でわかるを読むことによって3日でわかってるわけじゃないってことなんですよね。
3日でわかることもあると思うんだけど、3日じゃわかんないな、3日では無理ですね。
だからやっぱり難しいんですよ、それなりに。
難しいっていうのはフィボナッチ数列が難しいですか、そういう意味ではないんですけどね。
そういう難しさはどこにもないんですけど。
例えて言うならば、子供にベートーベンの運命を何回聞かせても、皆さんは子供だって言ってるわけじゃないですよ。
わかんないじゃないですか、別に。
4歳児とか大抵はわかんないじゃないですか、わかる子もいるかもしれないけどね。
大概わかんないじゃないですか。
話が優しいならわかるかっていうと、例えば頭の良さそうな5歳児とか6歳児に、かなり頭いいですからね。
渡る世間は鬼ばかりみたいなテレビドラマを見せて、本当に面白さがわかるかっていうと、僕はそうはいかないと思うんですよね、やっぱりね。
それはある意味難しいんですよ。
話自体が難しいかというと、そんなことは全くないじゃないですか。
泉ピンコさんが出てきたんですね。
私もあれをなぜか母がずっと見てたのを横で見てたんだけど、まあわかりますよ、そりゃ大人になればね。
で、うちの母ももちろんわかりますよ。
で、うちの母はうちの私の兄弟がどういう状況になっているのかをずっと一緒にいるのによくわかってないんですが、なんかこうですね、そういうことってあるんですよね。
ある種の難しさっていうのは、威力とか知識とかだけの問題ではないと思うんですよ。
で、精神分析って用語が特殊だから知識の問題だと思われがちなんですけど、そんなことはないと僕は思うんですよね。
これが知識の問題だったならば、だってあれですもん。
特別な概念って言えるのは投影同一化とか転移とか妄想分裂ポジションとか全部合わせても他はないと思う。
それにすごく大事なのってなってくると、6個とかでもかなり良い線抑えられると思うんですよ。
10個じゃ無理かな。でもまあとりあえず10個とかってあると思うんですよ。
10個特別な概念を抑えればって言うんだったら、哲学の世界でももっとずっとあるじゃないですか。
でも全然わからんってことが起こるわけですよ、精神分析って。
第一に気持ち悪いみたいな感情が走っちゃうことってありますけどね、あれは。
で、そういうのを一切合切考慮に入れて考えていくとですよ。
私が最初にやっぱりここで喋っていて皆さんに一番伝わるのは、例えばタスクシュートだなって思うんですよね。
例えばタスクシュートで、さっき完全活用術で私が伝えたい使い方って要するに、ちゃんと記録を正直に取りましょうねってことなんですよ。
ここでですね、1分間を空けるにっていうのは正直に取るとそうなっちゃうってことを言ってるのと同時に、
プランを立てておくっていうのはですね、普段プランを頭の中で立ててるんなら立てた上で記録しないと正直にならないよって言ってることもあるんですよ。
何してもいいっていう状態で、いわゆるライフログ的につければ正直になるじゃんっていう考え方はありそうなんだけど、
だからタスクシュートのプランって何のためにあるのっていうと、
実行できないプランを立てる人は実行できないプランをそこで立てながら何かを実行するということが、
実行できるプランを立てながら実行するということとは違うってことなんですよ。
今日は絶対筋トレやるぞとか朝勝てやるぞって立てておいて、それらをやらずにコーヒーを入れましたっていうのはですね、
もしこれを立てなかったらコーヒーは入れなかったかもしれないんですよ。
あるいはもうちょっとありそうなことなんだけど、もしこれらのプラン、自分に無理なプランを課そうという気がなかった場合には、
コーヒーはもっとゆっくり入れてたかもしれないんですよ。
プランと自己認識の重要性
僕が言う正直にというのは普段と同じようにっていう含みがあるわけですよ。
普段と同じようにプランを立てよう、自分に無理なプランを信用として、
しかしそれは実行できないという残念感を意識しつつ何々をしましたという記録は、
それらの意識がそもそも最初からありませんでしたというのとは違うんですよと僕は思うんですね。
だからプランが必要なんだけど、そのプランは必ず実行されねばならないものではないみたいな言い方になるわけなんですよ。
こういうことをお話しします。
そこに現れてくるのはかなり等身大に近い自分自身であるっていうことを私は強く言いたいわけです。
そいつをその等身大に近い自分を下げ棲むのは絶対良くないと思うんですよ。
なぜならばリアルに近い自分を下げ棲むことになるから。
しかし下げ棲んじゃったりするじゃないですか。こんなんじゃダメだと。
そういうことを普段からどれぐらいやってるのかということも意識するのがタスクシュートなんですよ。
で、これは私はすごく精神分析の考え方の中にあるなと思う。
つまり精神分析ってのはですね、何がいいと僕が思うかっていうのは、
松木くんいろさんが全く逆の言い方をされてたんですが、
先日ですね、兄弟最終攻撃聞いてたときに、
反常識っていう言葉を彼ら使うんですね。
非常識じゃなくて反常識。
常識に反する考え方を持ってるわけですね。精神分析という。
つまり例えば今時の現代社会で等身大の自分を下げ棲まないというのはほぼ反常識だと思う。
等身大の自分を抜け出せという主張の方がはるかに常識的に聞こえるんですよ。
だからあれじゃないですか、早期教育とか言い出すわけで。
早期教育ってのは人より早期にって言ってるわけですよね。
人より早期にってことは、例えばみんなが教育の平均が小学校から始まる。
7歳から始まるなら5歳から始める。
これが常識なわけじゃないですか。
そうすれば先んじることができて有利になるからねっていう。
今は少し緩んでるかもしれないけど、それが極端になったケースもあったわけですよ。
さらにそれを3歳にしよう、1歳にしようになり、0歳にしようになり、
そもそもお腹の中にいる間からいい音楽聴かせようみたいになっていくわけですよね。
だって早期へ早期へってことになると、あと残っているのはですね、
結婚相手にいいDNAの持ち主とか、東大での人と結婚するとか、
もうちょっとさらにいくとなんだろうな、
祖母みんな東大とかね、東京帝国大学とかが含まれるのかな。
それも遡れば遡るほど、いいご先祖様を持っている人みたいになっていくわけじゃないですか。
なっていかないかもしれないけど、カルトに近い世界にだんだんなっていきますけどね。
これが常識であるならば、半常識って何かっていうと、
適当に育てましょうみたいな、そういうことになっていくことになるわけじゃないか。
で、僕が思う半常識というのがですね、いろいろあるわけだけれども、
あるがままとかそういうのもそうかもしれないんだけど、
大事なのはこの半常識という考え方の中で、
一番やっぱり僕が、今みたいに面白いオカルト話みたいなのじゃなくてですね、
一番我々にとって半常識的ななと思うものの一つが私がですね、
よくJさんもJ松崎さんが言ったりしている、自分を罰しないってやつですよね。
自責って言葉を使っちゃってるのは僕は難しいなと思うんですよね。
今あれ、自責って言うと、じゃあ何、責任は一切取らないのって話。
僕はそれもそれで悪くないと思うんだけど、
そういうニュアンスでは僕の中ではあんまないなと思ったんですよね、先日。
で、自己責任みたいな言葉の短縮形みたいにも見えるじゃないですか。
美容によっては。
あの自己責任って変な言葉だと思うんですけどね。
ああではなく、やっぱ自罰だなって思うんです。
自罰しない、というかみんな自罰しちゃうってことですね。
で、しかも多罰より自罰の方が人間は、人間力がいいって考える。
これ常識ですよ。
人のせいにしないで、自分ちゃんと責任取りましょうねっていうのは常識じゃないですか。
で、私はどっちも変わらないってよく言うんですね。
これは半常識的ですよね。
まあ非常識でもいいと思うんですけどね、別にね。
で、どっちもあんまり変わらないというのは大事なのは結論ではなくて、
そういう思考過程なんですよね。
プロセスの方を何度も何度も追うべきは、
この結論にどうやって至ってるのかっていうのを追わないと、
僕らやっぱり常識の方に傾いていっちゃうと思うんですね。
何度も何度もプロセスを繰り返す。
だからその時は同じことを言ってんなってことになるんですよ。
これもやや半常識的なんですよね。
新しいことを言う方が聞いてて気分が良くなるみたいな常識みたいなのがあるじゃないですか。
特に今のような時代は新しいってことが、
9月10日ですよ皆さん。
Appleが新しい製品イベント。
みんなすごく好きじゃないですか。
ワクワクするでしょ。
いつも同じ製品を繰り返し出してたら、
多分Appleって今の価格を持たせるのはめちゃくちゃ困難だと思うんですよ。
iPhone15と16ってそんなに違わないと思うんですよ。
iPhone15と16ってそんなに違わないと思うんだけど、
新しい製品紹介ってすごい大事なんですよね。
で、全くいつも同じようなことを繰り返し言ってる3ヶ月チャレンジってどうなのってことになるじゃないですか。
だからここは頑張らないと半常識ってのを保てないんですよ。
そのためにはどうしてこういうことをやってるのかという結論に至るプロセスを、
思考プロセスを追う。
これを3ヶ月チャレンジでは3ヶ月ぐらいはせめて、
ぐるぐる頑張りましょうねっていう。
そうしないとそういうことを考えようと我々はしないんですよ。
例えば蔵野圭祐さんがGoodvirusでお話しされてることの結論は、
私がここで話そうとしていることの結論と驚くほど似てくるケースがいっぱいあるんだけれども、
2人揃って結論をひたすら喋っていても、
その結論がたとえ正しかったとしても、
受け入れられるってことになるわけですよ。
だって世の中で言われている常識とされている結論は結論ですよね常識って。
もっと全然違うものなのに、
そしてそれは世の中でずっと言われているのに、
なんかよくわからない、
どっかからポッと出てきたような微妙なそこら辺の2人が、
一生懸命反常識的な結論を喋ってたんではどうしようもないじゃないですか。
そこでプロセスについてやっぱりこういうのは喋り続けるしかないと。
うちの一つが自罰と多罰は大して変わらないし、
どちらもやめようねってことになる。
その思考に至るためにPSポジションとDポジションという、
妄想分裂ポジションというクースポジションという、
この番組ではおなじみの用語を持ち出した方がいいと私は思っているわけですね。
なぜならこれは戦前ぐらいから使われて、
少なくとも戦後間もなくぐらいから、
今から見ればそういう言い方が出ると思うんですが、
かなり世界でも多くの人にコンセンサスが得られている概念だから、
そんなにおかしくはないだろうと。
人間の心について考える上で、そこまでとちくりった概念ではないだろうと。
すごく変に聞こえるかもしれないが、
多分そんなことはないんです。
人間ってそういうところがあるんですよってことですよね。
欲打つポジションから入るんですよ。
欲打つポジションに入った途端で、
すいません、欲打つポジションに入りたてのところって、
一歩間違うとすぐ自爆に走っちゃうんですね。
全部私が悪いんですみたいになるんですよ。
例えばタスクシュートで全然記録が取れていない、
私ってすごいダメな人間だとかってなってしまうわけですよ。
で、これやめましょうってことなんですよ。
あるいはこんなにたくさんのリストがあるのに、
一方に消化されていない、自分はすごい怠け者だみたいな。
こういう風な結末に至る全責任は自分にあるんです。
幼い頃であれば、例えばご両親が喧嘩して、
お父さんがお母さんを馬鳴りになってぶっ飛ばしていて、
僕が守れなかったからいけないんだみたいな、
そういう風になるのが、ある意味非常に欲打つ的なポジションの
入り口付近なんですよね。
で、例えばタスクシュートとかでもそうなんだけど、
心理分析と根本的な理解
この入り口にいるってことは、入れないとすぐにですね、
いわゆる妄想分裂ポジションになって、
派閥的になるわけですよ。
いやいや、ちょっとこのタスクシュートって設計おかしくない?
ってなるわけですよ。
J松崎が悪いんだよねってことになるわけです。
この線を跨ぐのは非常に一瞬なんですよ。
だからあれですよ、入管で、
そんなこと言ってもいいじゃん。
野球苦手な方すいませんって感じなんだけど、
セカンドベース上付近ってどっちのポジションなんだか、
セカンドなんだか上部なんだか微妙じゃないですか。
すごく自罰と多罰を行ったり来たりしがちなポジションがあるわけですね。
ポジションの位置があるわけ。
1ドルとして。
もう一歩行くと全然記録取れてなくて、
本当に申し訳ありません。
私が全て悪いんですみたいな感じになって、
タスクシュートする資格もございませんみたいになって、
タスクシュートからいなくなって、困ったことが起こるんだけど、
でもよく考えてみると、24時間の記録とか言ってるやつ頭おかしくない?
フィボットにもそういうコメントがあったわけですけど、
いきなり多罰的になる。不思議な話ではないですよね。
タスクシュートに寄せて今説明しましたけど、
例えば、どうせこの夫婦関係は全部私が悪いんだよねって言っておきながら、
どうせ私が至らないからダメなんだよって言っておきながら、
だからもう別れようって言って相手を罰しようとするっていう人いっぱいいますよね。
ここまで行かないまでも、
相手を罰しようとするって、この多罰と自罰の間を行ったり来たりするポジション、
入り口付近のポジション、
まずここ脱するためにこの罰ってものから遠ざからないとっていうのがあるんですよ。
多罰しても多罰した場合分離になるし、
あるいはあなたどうせ私を見捨てるでしょうみたいな、
そういう感じになって結局分離になるし、関係の破壊になるわけですよね。
攻撃性が残ってるわけです。
攻撃したいから自分か他人を攻撃しちゃうわけですよね。
攻撃したいという気持ち。
そこで貴重自我って言葉がよく出てくる。
幼い頃に見た親の態度が幼い頃から見たものであるがゆえに非常に未熟な親。
つまりその親が本当に未熟だったかもしれないけど、
未熟に見える親の非常に攻撃的で一方的に発生してくる親って感じなんですよね。
それは心の中にいるわけですよ。
本当の親がそうだとかいうことではなくて、
本当の親もそうだったんだよっていう話にここですぐなっちゃうんだけど、
それこそPS的なんですよ。
それは多罰的な気持ちっていうものが、
その親を罰したかったっていう部分が出てきてるわけですよね。
本当はそうだったのかもしれないけど、議論の対象はそこじゃないってことです。
で、多罰的になるのが嫌だからやっぱり私が悪いんだってことになると、
自罰的になる。
これを言ったり来たりしている間は、
自己認識とワークスルー
どうしても関係破壊的にこの状態を維持するのは困難な精神状態に置かれがちで、
当然仕事は進まないですし、スクシュートも進まないですし、
いろいろと苦しいですし、
何とかそこを脱するためにワークスルーっていう言葉を今使っているわけですよ。
精神分析で。
だから僕は精神分析の知見と用語っていうのはですね、
いろんなところで使えるし、いろんなところでごく普通に出てきているので、
心理認証でそれは一定の成果を上げて、効果を上げているはずなので、
これをみんながとりあえずまず知るってところからいくと、
よろしいのではないかと思っているわけですよね。
ワークスルーしようってことは、
まず自罰とか多罰をやめるってことになるはずなんだと思うんですよね。
影響力と責任
もう少し先に行っては、あまり極端になりやすいんですよね。
だから入りたてっての。
結局この欲仏法事論に入るっていうことは、
自罰的になれるということは、
まず自分ってものがある、
世界に対して一定の因果関係における起点になっている部分があるってのを認めることですよね。
これが認められないっていう気持ちが最初は非常に強いわけですよ。
だって幼いから。
その幼い時の気持ちが残っていると、
その状態に対抗しやすいっていうのは分かりやすいじゃないですか。
つまり自分が4歳とか3歳の時に、
世界に影響を与えられないじゃないですか、はっきり言って。
でも例えば仕事を完遂する、
部屋を片付けるでもいいですよ。
汚かった部屋がきれいになるっていうのは、
世界に影響を与えてるじゃないですか。
世界に影響が与えられるということは、
自分の責任が、自分というものがそもそも、
自分の起点としての自分ってのが見えてるってことになりますよね。
見えてるってことはかなり進んでますよね。
だって0歳時にそんなものが見えるはずがないし、
1歳時だって1年経ってるわけですからね。
でもまだ1歳時にはよく見えてないですよね。
でも2、3歳時には結構見えてくるわけですよ、人間であれば。
つまり2年、3年かければ、
自分ってものが世界に影響を及ぼすのかもしれない、
って考えられるようになってくるわけです。
そこでいろいろと、また万能的なオカルトな考えが出てきちゃうんです。
この間お母さんが調子が悪かったのは、
自分がお母さんをめちゃくちゃバラバラにして、
ゴミ箱に放り投げるという、
そういうことを考えたせいかも。
つまり万能空想ですね。
が、結果として、
実は生理になっただけだったりするんだけど、
お母さんをあんなに不調にしてるのかもしれないっていう、
そういう、要は誤解なんですけれども、
そういうことがとしてもですね、
そういう空想したばっかりに、
ひどいことになったのかもしれない。
やんないと思うんですけど、
そういえばお母さんを呪いのワラ人形にしたから、
そういうことになったのかもしれないとか、
そういうことが考えた結果として、
たまたまそういうことが起きちゃうと、
子どもはそういう関係燃料って言ったりする。
ちょっと関係燃料違うね。
でもそれに限りなく近いと思うんです。
空想と現実が結びついてしまうわけですよね。
こういうことを考えているうちに、
自分は世界に影響を与え得るのかもしれないってなったときに、
だからプーチンが戦争したのは自分のせいなんだ、
みたいになるのが在後妄想ってやつですよね。
ものすごく、自分が世界に影響を及ぼせるのかもしれないとなった途端に、
自分というものが弱々しかったり、
ダメだと思っている人ほど、
その影響は悪影響だってことになりやすいわけです。
だから自罰的になっていくのは急速に進展するわけですよね。
タスクシュートの役割
でもそこには悪影響だって思う多分奥底にはですね、
無力だっていう気持ちがあるんだと。
そしてその無力が悪い結果をしか及ぼさなかったんだっていう、
そういう感じを抱くんだろうと思うんですよね。
これが翼打ちポジションの入り口付近に覆っている感じがするんですね。
特にこうタスクシュートとか。
だからここで自罰っていうのをやめようねと。
先送りをするっていうのはありましたね、先送りゼロに。
先送りの原因はまるまる、あそこに自責。
私はあそこに2罰でもいいと思うんですけれども、
それがあると先送りしちゃうと。
だって自分が物事の世界への影響を及ぼしたくないじゃないですか。
どうせ私は結果として長い目で見れば短い目で見ても、
世界に悪影響ばっかりを及ぼしてきた。
だから周りの人はみんな苦しんだと。
お母さんとかお父さんとか、
友達とか恩師とか、
そういう人たちの何かな、
例えば面目を失わせるとか、
教えてくれたのにダメな弟子でしかないとか、
いろんなそういうイメージが悪いということがあるために、
何かを自分がするということはどうせろくでこそにならないと。
だったら先送りするじゃないですか。
だから自責やめましょうねっていうような話になっているわけですよ。
こういうことっていうのが、
私は一番と言わないまでも、
私の中ではかなり上位の方に、
変身分析の説明に、
これはとてつもなく近づくことになると思うのですね。
なので、この説明に変身分析をわざわざ回避する理由はないと思うんですよね。
そこだけ避けて通ったって、
どうせ似たようなことを違う言葉で説明しているだけ、
昨日言いましたが、
だから私は用語を作り出したくないわけです。
コインするのは何かこう無駄な感じがする。
もともとあるものを使う方が、
何か私はやっぱりいい感じがするんですよ。
私はリフォームってあんまり好きじゃないタイプなんですよ。
なるべくそのまんまのものを使い倒していきたいみたいなところがちょっとあるんです。
リフォームはまだいいんです。
リフォームはまだいいんです。
当て直しとか本当に、
まだ使えるじゃんって感じを持っちゃうんですよ。
精神分析というのはとかくそうで、
やっぱりタスクシュートは25年でそこそこ立派なものだと思うんですけど、
精神分析100年ですから、
今年で120年ぐらいになると思うんですよ。
このほうがいいと思うんですよね、ある意味では。
タスクシュートに精神分析が引用できるなら、
なおいいと思うんですよ、私の感じではですね。
せっかくあるんだから、そいつを使わない手はないだろう。
AIとかをフロイトに見立てて聞くと面白いですよ。
知見が大量に集まってるんで、
夢分析とかもそうですけど、
想像以上にやってくれるなって感じがするんですよ。
知見が新しいほうが、
例えば話題なんかからするとあんまり面白くないのが、
あなたはタスクシュートの創始者ですみたいに言ってタスクシュートのことを聞いても、
聞いたような答えというか、
俺が考えたいようなことばっかり解説するなっていう気持ちになっちゃうんですよ、
私の場合はね。
私だからなんだけど、
私が書いたものが多分にやっぱりAIのデータに乗っちゃってるんで、
当然そういうことは起きるわけですよね。
大体こういうことを言いたかったわけですけど、
妄想分裂ポジションというよりは多発的というよりは、
もちろん多発的になることもあります。
だから二発をしているときってのは、
実際に多発に近いところにまだいらっしゃると、
私もそうだけどいるっていうことなんですよ。
二発してるってことはもう多発はすぐそこだって感じ。
そこから遠くに行きましょうと。
なるべく翼打ちポジションをワークスルーしましょうと。
つまり翼打ちポジションを突き抜けていきましょうと。
翼打ちポジションはまだまだ広いんです。
翼打ちポジションの入り口付近を
うろうろしているっていう状態は辛いし、
そこのメリットってものがとても少ないのでまだ、
何しろ狭いんで。
あんまりセカンドベース付近をうろうろするのはやめて、
ちょっとサードのほうに寄っていこうねと。
そういうところに行ってみると、
また新しい世界が展開していますから、
そっちのほうでいろいろやれることがあるはずですと、
言いたいわけです。
タスクシュートってのでもそれはできるはずなんですよ。
等身大ってものを見ると、
等身大を見るとたちまちただただ直面化させられて、
自分は無力でダメな人間だっていうことに直面させられるっていう、
母親を守れないための人間だったとか、
そういうことを思い出しちゃう。
そうすると翼打ちポジションに違いはないが、
ロックスピーだったときの翼打ちポジションみたいなところに、
気持ちの中心が移っちゃって、
いやもうなんかとてもじゃないけど、
世の中渡ってなんかいけないわっていう、
その人の能力にまったく見つかわしくない心情で、
生きていかなきゃいけないことになるわけですね。
なのに私は人に頼ってばっかりだとか、
急にそういう話になっちゃうわけですよ。
全然そうではないかもしれないし、
そもそも自分が社会人だったらば、
関係する人に頼るっていうか、
関係する人の力を頼りにしたり、
あてにするっていうのは全然OKなはずなのに、
心情的に疲れて動けなくなったお母さんを、
無理やり働かせている自分みたいに思えてくる。
それは全然違うシチュエーションのことを、
心理的には情緒的に思い出してしまっている。
これをだから、この言葉便利ですね。
対抗って感じがするんだけど、
対抗っていうのはあんまり、
クライン側では望ましくないとされている。
だからこれはフェーズになっちゃうからなんですよね。
ポジションにならなくて。
実にそう、独特のっていうか、
幼かった頃の抑鬱ポジションですよね。
その感覚っていうの。
抑鬱ポジションなんだけど、
もう少し今の年齢にふさわしい抑鬱ポジションがあろうと、
人を思いやるんでも自分の責任を、
つまりそれは世の中に対して責任を問うって話なんですよ。
ここでも無力感っていうのが出てしまうと、
なんで俺がケアしなきゃならないんだっていう、
非常に心理カウンセリング的には、
私は心理臨床のおばでは絶対これは常に問題になっているであろう問題。
だからマウンダリーってことを言われるんだろうなって思うんですよね。
なぜこの患者さんの訳のわからぬ口を、
私は一時期も聞かされているんだみたいな。
逆転だと思うんだけど、
でもそれはやっぱりご自身のかそうでなければ、
投げ込まれた無力感ってものだと思うんですよ。
つまりおそらくの場合投げ込まれてる方だと思うんですけどね。
愚痴をずっとカウンセラーに言ってるクライアントさんっていうのは、
つまり世の中に対して圧倒されてるわけですよね。
上司側とか、
何でもいいんですけど、
妻側とか夫側とか娘側とか息子側とか言う、
つまり娘が全然勉強しないんですって、
いくらカウンセラーに言っても、
ラチが開かないじゃないですか。
で、いくらカウンセラーに言ってもラチが開かないということを、
でもカウンセラーに訴えずにはいらない。
いやあなたカウンセラーなんだから聞いてよ。
感情に気づく重要性
うちの娘がこの間英語のテスト2点だったのに、
この間1点だったんですよみたいなことを言う。
いやそれは娘に言えよっていうか、
自分というものに対する無力感というものが、
カウンセラーにそれを吐き出させるわけですよね。
ずっとカウンセラーはそれを聞いていて、
娘さんに言ったほうがいいのになあ、
でもなんで私が一生懸命こうやって傾聴したり共感したりしてんのに、
この人はひたすらそれをここで愚痴ることしかしないんだろう。
自分はカウンセラーとしてダメなんだなっていう風に投げ込まれてくるわけですよね。
無気力が映るわけですよね。
そのうちにだんだん腹が立ってきたりして、
いやもうなんかいいよお前は、
ここ来なくていいよみたいな、
俺別に正確に行こばせないしみたいな。
こういう逆転移が起きますよねっていうような話から、
いろいろな展開がこれに気づければって話だと思うんですけど、
いろんな展開が検討できるわけですね。
こういう気持ちになってこの人つらいのねみたいな、
そういう東映ドイツかって言ってもいいと思うんですけど、
そういうことが起こるんだろうと思うんですよ。
だから私は製品分析ってやっぱり幅広くていいなと思うんですよ。
自分がカウンセラーとして腹を立ててもいいんですよ。
無気力になってもいいんですよ。
何を言われてもいいんですよ。
全部解釈の対象にできるんで。
あるいは全部対応のかかりにできるんで。
腹が立ってきたら、
このようにこの人は腹を立ててるんだと検討してみることができる。
いやそれはもう投げ込まれたんじゃなくて、
お前勝手に腹立ててるんだろうってクライーンが言ったことなんだけど。
そうだとしてもやっぱり対応の仕方があると思うんですよね。
気づくことさえできる。
本当にそういうことなんですよ。
だから自分がこういう気持ちになってるとかさせられてるということを
気づきさえすればいい。
観客目線と投影目線を両方同時に持ってることは
それは難しいんですけど、
見失いさえしなければ何とでもできるっていうところに
ある種の強みがあるなと思います。
ここはあくまで劇場だっていう観点さえ
どっかで保ったり取り戻したりすることができたりすれば
いいわけですよ。
所詮と言ったらいけないんでしょうけど、
これは遊びだっていうことに気づくことさえできれば
これは必ずどういう素材がやってきても
活かすことができるっていうのは
幅広くていいんじゃないかなと。
モスクシュートにも相当程度言える。
なんで私が何でもあそこに入れていいんです。
何をやったとしても記録さえ残せばいいんです。
っていうか記録は残しましょうねっていうか
何でも入るってところが
無限の幅広さだと思うからです。
そうは言っても
大金を人からちょろまかした13時から15時とか
よくないと思うんですよ。
でも自分に正直に記録を残すということを
徹底しているならば
犯罪に犯しちゃったら犯罪書かなきゃならないわけですよ。
だったらしないでしょみたいなニュアンスさえも
僕はあそこに込めているというのが
私流の完全活用術みたいな
考え方ではあるんですけどね。