番組の紹介と告知
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
12月11日、月曜日。何か100円玉記念日とか、何か今朝プリウスが言ってたんですけれども、改めて8時21分です。
おはようございます。いや、ついにと言いますか、ほぼ元に戻りました。
たぶん、平日4日というのがいいんだろうなというふうに、一周して思ってみましたね。だから、やっぱりそういうものなんですね。
はい。引き続き、グッドモーニングボイス、まもなく900回を迎えようと、一応しております。
いろんなことがやっていると、本当に起こるものなんですけれども、何も起きちゃいないですけどね、一方で。
まあ、あの。
はい。
これからもいろんなことがあるんだろうなと思いながら、いろいろと考えてやっていきたいと。
まあ、その時その時の考えは大体ろくでもないもので、後になってみるとですね、もうこの回消してしまいたいなと思うこともしばしばあるんだけど、全部一応消さずにとっておこうと。
極力ですね。何か言われたり、わからないですけど、この番組に限らず、ポッドキャストってたぶんあんまり炎上しやすくはない。
はい。
これが今のテキストですよね。
今、リッスンというサービスでテキストを起こしされていて、あれを一読すると、もしかすると炎上するかもしれないんだけど、あれを一読するのがね、結構読みにくいなって感じが今のところやっぱりするんですよ。
いろんな理由があって。
しゃべり言葉をテキストに起こした場合ってやっぱり、僕が文章頭から書くのは全く漢字が違う感じがしますね、やっぱりね。
こういう言い方も。
文章だったらしませんしね。
漢字を連発するなんていうフィーリングのほうですね。
だから、いろいろとああいうのは読みにくくて、
大筋読まれないだろうな。
読んだ人は、何言ってんだこいつって思うだろうなって感じがするんですけど、
それはですね、ここはもうさらっとですね、
グッドバイブス的に、
あれによって僕が失うものなんて何もないと。
何もないんですけどね、実際にね。
これで炎上しようと、極端な話、これで炎上して、
これで炎上した上の空想、空想ですからね、これも所詮ね。
そうだな、これを炎上して再死っていう話がでかすぎるんで、
やっぱりこれが炎上してせいぜい僕に起きそうなこととしては、
本を出せなくなるとかかな。
でもそれもなさそうな気がするんですよね。
本当に空想するっていうのは虚しいんで、空想なんでね。
現実じゃないんで、未来に起きることは全て空想なんで。
僕の空想通りに、
未来に起きたことが一度もないですからね。
大きな意味でも小さな意味でもですね。
そんな感じの話をいつもしているわけですが、
改めて久しぶりに、
改めて久しぶりにお会いして、改めてよろしくお願いします。
はい、10とですね、10何日なんだろう。
23日にタスクシュートジャーニーというのを、
Jマスザキさんとやりますので、これの告知がもっぱらできて、
いない、そもそも公開しているのかって話もありますが、
連発していきたいと思います。
先送りゼロがですね、意外に好評をいただきまして、
これの促進も兼ね、反則ですね、兼ねて、
30日にもクラウドの継承さんと、これも消息にしてはポツポツと、
お集まりいただけまして、引き続きですね、15時から、
今度はですね、ちょっと割引ではないんですけど、
同じ価格で3時間なんで、まあ、価格的には3分の2になっていると。
時間が2分の3ですからね。
逆比になってそういうことになりますね。
なので、ちょっとお安い点、よろしくお願いしたいと思います。
今日しゃべるようなことのテーマでいこうと思ってるんですけど、
もう少し今日の話を整理していこうと思っています。
いずれも土曜日ですね、今月の23と30と。
まあ、多分いずれも、
アーカイブも、あのー、入手していただけますので、
あのー、当日ご参加いただけなくてもですね、
えーと、聞くことはできます。
まあ、見聞きはできますのでね。
あのー、できればそれで、えー、お願いしたいと思います。
まあ、これ随時ですね、今後ゲスト、ゲストを呼ぶっていうのもですね、
今、非常にこう、立て込んでいるので、
あのー、果たして全部が、えー、計画通りに、
まあ、計画通りに全部いくことはまず絶対ないと思うんですが、
えー、まあ、計画通りに全部いくことはまず絶対ないと思うんですが、
えー、やっていこうとは思いますので、
なるべく早い段階でですね、
えーと、皆さんにお知らせできればいいかなと、
そんな風に思っています。
はい、えー、それで、
意図的に怖がることの意味
今日はその、まあ、今言ったような話を全てひっくり返すような、
えー、つまり計画というものは、
計画の話じゃないな、これはな。
えーと、
まあ、あれなんですよ。
えー、
引き続き、
うーん、違う、
今日話したいと思ってたのがですね、
タスクシュートというもの、
そうだ、昨日そういう話を、えーと、
あのー、親しくしている方と3人で、
食事しながらちょっと喋ったんで、
いい加減これを私なりにまとめようと、
それものの素描の素描みたいなのがですね、
えーと、ラフのラフみたいな感じですね。
えーと、私がここで喋ってるのは、
まあ、精神分析にしても何にしても、
えーと、要するにこう、
えー、聞きかじったり、見かじったりしたものを、
ただそのままバンバン出していくという場所なんで、
本当にこう、見る人が見るとね、
何言ってんだこいつになるんだと思うんですよね。
で、私はそれを出したいんだということが、
最近、えーと、やっていてわかったんですよ。
あのー、これを整えて出すというのは、
一つにはまず、
整えてから出したいというのがですね、
動機として、
はなはだ弱いなっていうのが最近思うところ。
それって要するに、
あのー、
えー、
有意義、有意義だという場合はいいんですけども、
それが、
えーと、有意義かどうかの確信も得ないまま、
整えたいというふうに言って、
要するに怖いってことを意味しているわけじゃないですか。
で、私がこの番組で繰り返し否定しているのが、
怖さってものなんですよね。
で、怖さっていうのは、
えー、私が怖さを持ってないって話ではなくて、
怖さってのは客観的にはないっていう話なんですよ。
えーと、要するにあれですよ。
えー、幽霊の枯れおばなの話で、
まあ、すすきの穂でもいいんだけど、
えー、すすきの穂に幽霊を見た場合、
えー、すすきの穂側に責任は、
まあ、ゼロじゃないのかもしれないんだけどね、
すすきの穂が。
えー、たまたま幽霊に似てい、
柳でもいいや。
えー、幽霊に似ていたという意味で、
少々責任はあるのかもしれないけど、
ほぼ全くないですよね。
まあ、ないとみなすのが、
えー、妥当でしょう、これは。
つまり、
怖さはあくまでも人の心の中にあるわけですよ。
で、私はこれが、
えーと、
本当にわかれば、
人はすすきの穂を怖がる可能性はゼロになると思うんですよ。
これは、いいじゃないですか。
えーと、いやいや、
怖いのは抜けないんだよっていうのは、
違う話をしてると僕は思うんですよね。
あくまでもそれが、
幽霊がいたらどうするんだろう、
をして話をしてるんだって、
万が一にもいるかもしれない。
精神分析の本について
えーと、
1億分の1ぐらいはいるかもしれない。
要するに、いるかもしれないって思ってるわけじゃないですか。
いないことが100%絶対的に明らかになったのに、
なおすすきの穂が怖いってことは、
昼怖くない。
昼怖くない以上はありえないでしょう。
だから、こういうことがですね、
上司からの失績であろうが、
恋人を失う可能性であろうが、
大金を失う可能性であろうけど、
変わらないんですね。
大金を失うのが怖いというのは、
大金を失うことというのは、
僕らの外にあるけど、
大金を失うことが怖いというのは、
僕らの中にある、
心の中の出来事で、
ここを完全に区別することができれば、
えーと、
怖さというものは消える。
消えるんだけれども、
消えないということであればですね、
それは多分、
自分というものが、
えーと、
なんていうんですかね、
自分が何をしているのかが、
どこか分かってないんですよね。
自分が何をしていないのかが、
全く分かっていない精神病水準と、
自分が何をしているか、
どこか分かっていない神経症水準は、
分かれるんですけれども、
つまり、
いわゆる精神的に、
健常と呼ばれている、
二次過程ね、
えーと、
神経症水準で生きている私たちだって、
えーと、
どこかは分かっていないんですよ。
そういう意味では、
精神病的な部分があるという話は、
この番組でも何度かしていて、
もちろんこれはですね、
受け売りですよ、
全部。
あの、
精神分析の本を、
特に対象関係論系の本を、
えーと、
読みまくって、
読みかじっておけばですね、
これぐらいのことは言えるんですよ。
で、
これぐらいのことを言えるようになるっていうのが、
僕は、
えーと、
例えば夫婦喧嘩が起きた時とか、
えーその他に対人関係でややこしくなった時に、
大変役に立つと僕は思ったので、
こういう話をしているんですよ。
詳しくはそっちの方の本を当たってみてほしいんですよ。
今で言えば私は、
えー松木さんかな。
松木さんという方が、
精神分析の対象関係の話を、
私にはすごく分かりやすく書いてくださる。
えー、
でも私は最初に、
はい、
一番対象関係が分かりかけたのは、
藤山直樹さんの本なんで、
藤山直樹さんの本に、
僕はいざという時、
毎回戻っていく傾向はあります。
最近も毎回戻っています。
なんかちょっと調子が悪くなると、
彼のところ、
彼の本のところに行くと。
彼のところに行けば一番いいのかもしれないですけどね。
そういうことがまだ私には、
いろんな事情があってできないから、
本のところに行くと。
本読んでてもダメだなっていうのは、
時々思うんだけれども、
本読むのが私なんですね。
えーと、
で、
まあ、
最近は土井武雄さんの本も、
随時読みます。
随時。
あとはあれですね。
藤山直樹さんでしょ。
土井武雄さんでしょ。
あと、
山崎孝明さんですね。
随時読みますね。
遠畑さんの本はって言われるんですけどね。
遠畑さんの本は、
私は調子が悪い時のカウンセリング代わりにはならないんですよ。
あれは僕の楽しみなんですよね。
そういう意味では漫画読むのと似てるんですよ。
遠畑さんの本って。
ギャグも多いしですね。
すごい好きなんだけど、
セルフカウンセリングには決してならないんですね。
僕は。
遠畑さんの本って。
これはですね、
非常に僕にとって、
この謎は解ききれないんだけど、
結局川井駿さんの本は、
カウンセリング代わりに使ってた時もあるから、
一概に言えないんだけども、
いわゆる、
ユング、
ユング、
なんて言うんですかね。
の流れって言うんですかね。
例えば僕はユングの本も楽しみで読むことはあったんだけど、
臨床という観点で、
あまりユングっていうものの、
甘えと自立
あの人の本を読んだことはない気がするんですよね。
で、
ユング派の人には多分怒られると思うんですけど、
コリー・ウィルソンって人ね。
僕はあの人の本は、
臨床だと思って読んだことはやっぱりないですね。
やっぱ楽しみなんですよね。
そういう意味では漫画と似てるんですよね。
で、
それがユングと系譜が似てるというのは、
語弊がありますけれども、
例えばユングが臨床で見たというヘルマンヘッセですね。
ドイツのロマン派の作家。
あの人の本もすっごい読んだんだけど、
僕あれも、
何らカウンセラーの代わりにはならないと思ったんですよね。
やっぱりあれは楽しみで読む。
日本では車輪の下が有名だけど、
僕は荒野の狼が一番いいと思ってます。
まあ、
血と愛も大変いいし、
ガラス玉演技とかもいいんですけれども、
えーと、
やっぱりちょっとどっちにしても楽しみで読む系だな。
うん。
あの、
複雑系になぜかガラス玉演技がやまん。
複雑系って分厚い本あるじゃないですか。
あれもでも僕は、
何らカウンセリングになるという感じで読んだわけではないんですよ。
あの、
面白いなんとはつくづく思ったんですけど、
面白いから読むっていう感じなんですかね。
でも、
えーと、
藤山さんとかの本は、
えーと、
中はちょっとやっぱりこう、
情緒的なサポートを得るために読むってところがあるんですね。
面白いから読むっていう面がないわけじゃないんですけどね、
もちろんね。
えー、
で、
あの、
河合駿さんの本もすごくこう、
自分にとってはセルフカウンセリング、
代わりにならないだけとしていたところはあるんですけども、
でも今はその理由ではほとんど読まない感じになってますね。
なんでなのかを今ここで説明するのは非常にまだ難しい、
僕にとってはね。
えーと、
多分一般的な説明の仕方はできるんですけど、
やっぱりこういうのって、
この特にこのグッドモーニングボイスは、
僕にとってどうかってことだけを喋ってる場なんで。
だからこの番組って炎上しても実はなんてことないんですよ。
事実とか真実を喋ってるわけじゃないんで。
えーと、
私の心の中の話をしてるだけなんで、
実はこれが炎上するっていうのは全部誤解の産物だと僕は思うんですね。
えーと、
なんか何かがこれに抵触したら申し訳ないなとは思うんだけど、
えーと、
現実の出来事とは僕関係ないことを喋ってる。
そこまで言うと言い過ぎなんだけど、
でも僕の情緒について喋ってることは間違いないんで。
あのー、
それの部分的に役立ちそうなものを切り出してお伝えするってことをしているんですけれども、
えーと、
役に立たない、
っていうのは全然いいわけですよ。
なぜならば、
えーと、
悩んでないのかもしれないじゃないですか。
役に立たないほどいいっていう感じもあるんですよね。
これ役立てるために、
えーと、
聞いてる方がいらっしゃれば、
その方は多分、
独自の方式によってお役立てになってるんだろうなって感じがします。
基本的には、
例えば僕は倉園さんが、
えーと、
Good Vibesのコンセプトの中でワークを紹介されたりするじゃないですか。
僕は、
この番組ではほぼそんなことをした記憶がないんですよね。
なぜならば、
えーと、
私はワークを自分のために考案しないし、
したがって人のためにも考案はなかなかできないので、
えーと、
ワークをするぞっていう発想はないんですね。
だから役に立つっていう意味では、
どう、
どういうふうに役に立つのか分かんないんですけど、
えーと、
役に立つ、
役に立たない、
本当かどうかっていうのは、
大変疑わしいと思います。
僕のこの感情的なモヤモヤを喋るっていうか、
あるいは感情的な、
すっきり、
すっきりを喋るっていうか、
そういうところになってます。
えーと、
で、
なんだっけ。
で、
タスクシュートね。
タスクシュート。
なんで役に立つの。
私にとってって話ですね、
これもね。
これは、
えーと、
こういうのはやっぱ結論から出すしかないですけど、
えー、
自分、
自分が分かるってことなんですね。
自分が分からないんだけど、
過去の自分を振り返って自分が分かるみたいな意味も、
もろんありますが、
えーと、
それよりも何よりも、
えーと、
まあやっぱ鏡なんだよね。
で、
鏡というのは、
一番やっぱり、
今ここなんですよ。
鏡に過去は映らないですよね。
そこがすごくあって、
えーと、
これを僕はどこかで発表しなきゃいけないんだろうな、
ということがあるんですけれども、
えーとですね、
自分というものが分かる。
っていうか、
自分が、
えーとですね、
これ、
ここのところずっとそういうのを、
えー、
主に、
あの、
土井武夫さんですね。
甘えの構造。
あの甘えの構造、
ではない、
土井さんの本人。
えーと、
甘えているという自覚がないと、
えーと、
自分というものがない、
っていう話を時々出してくるんですね。
これ、
すごい分かりにくい話なんですよ。
なんで分かりにくいかというと、
あれですよ。
あの、
高梨と同じだから、
だからなんですよ。
高梨って小鳥が遊ぶって書いて、
高梨って読むじゃないですか。
あの構造と甘えっていうのは、
ものすごくよく似てて、
日本人ってこういう発想とるんだな。
あの、
山梨って知ってます?
月見里って書くんですけどね。
月が見える里は、
山がないってわけですよ。
で、
山梨って読むんですね。
月見里。
月は、
月ね。
あと、
美は、
美しいに里ですね。
だから、
月が見える美しい里には、
山がないわけです。
だから、
山梨ということ。
これはですね、
えーと、
甘えと、
この話は、
すごい似てるんですよ。
えーと、
私は甘えていますとか、
私を甘えさせてくださいって、
日本語ではおかしいですよね。
間違いなく。
つまり、
甘えというものが見えたときは、
その人は甘えられてないんですよ。
この話は、
すごく、
精神分析的だっていうのは、
確かにそうで、
まあ、
土井さんが、
特にその部分に、
焦点を当ててるから、
そうなんだけど、
あのー、
甘えられていないときに、
甘えられていないときの目につく甘え
僕らは、
人の甘えを指摘するし、
甘えが目についちゃうんですね。
つまり、
その、
目につくってときは、
もう甘えられてはいないわけですよ。
甘えられているのが、
十分なときというのが、
完全なときは、
当人は、
甘えている意識は、
全くないんですね。
赤ちゃんは、
お母さんに甘えてる意識ないですよね。
全くないと。
一生懸命、
おっぱい捨てるときに、
いや、甘えてんなみたいな、
ない。
甘えさせてほしいなもない。
ないんだけど、
泣いてるときは、
甘えられてないんですよね。
で、そのときほど、
我々は、
その赤ちゃんの甘えというものが、
えーと、
ひどく見える。
というか、
はっきり見える。
これを大人がやると、
もっとはっきり見える。
だって、ね、
私とかが、
ギャン泣きしてたら、
めっちゃ甘えてる感じがするじゃないですか。
これは私が甘えられていない、
甘えが危機に瀕しているわけですよ。
だから、
私は今、
めちゃくちゃ甘えているわけです。
甘えが完全に満たされている。
全然、
過不足がない。
これはですね、
えーと、
自立というものが、
実は、
甘えというものと、
セットであるっていう、
これも、
この番組ではお馴染みですけれども、
えーと、
甘えられないってことは、
自立できないってことなんですよ。
ギャン泣きしてると、
自立できないじゃないですか。
ギャン泣きしてる人っていうか、
えーと、
50人もだって、
ギャン泣きしている、
こう、
人を見て、
あの人、
自立心高いなって、
絶対感じないじゃないですか。
つまり、
その人、
甘えられないんですよ。
ここがですね、
えーと、
私がこの番組でしゃべっていて、
えーと、
なんか分かる気がするけど、
多分、
釈然としないなって思われている、
最大のポイントの一つだと思うんですね。
なぜなら、
今の時代は、
新自由主義にすごく傾いていて、
自立とは、
誰にも頼らないことだっていう、
変な発想があるからね。
で、
誰にも頼らないで、
自立できる人がいるんだ、
みたいな。
例えば、
大谷翔平さんが、
今度、
ドジャーズに行く。
いや、
おめでたいですね。
僕もぜひ、
ドジャーズ行って欲しかったんですよ。
まあいいや。
えー、
1010億円という話で、
これはもう、
自立してるよねと。
能力で、
1人で立ってるよねと。
ただ、
問題なのは、
野球見る人が0になっちゃったら、
彼の見入りは0になると、
僕は思うんですよね。
これはどうなるんだろうと。
これのどこに、
自立というものを見るのかと。
野球って、
彼がどれほどのパフォーマンスを上げても、
あのー、
ね、
メジャーで40本も打つとか、
ホームラン王になるとか、
しかも10勝するとか、
とんでもないですけど、
でもそれは、
我々の役に何か出すのかっていうと、
別に立たないんですよ。
しかも、
しかもね、
これを言った瞬間に、
何を意味してるのかは、
大体の人分かってくださると思うんですけど、
さっぱり分かんないっていう人も、
これ聞いてる人の中に、
いらっしゃると思うんですよ。
僕はね。
メジャーで40本。
で、何の数字なのかが、
そもそも分からんって人、
いらっしゃると思うんですよ、僕は。
野球に全然興味なければ。
10勝とは何を意味するのかと。
えーと、何をもって1勝で、
10勝の価値ってどのぐらいなのかと。
まあ、10勝で40本なら、
1010億円がもらえますっていう価値ですよ。
1億円の1010倍ですよ。
そういう価値なんですけど、
多分分からんって人は分からん。
だから、つまりその人にとって、
大谷翔平って何の価値もないんですよ、実はね。
「甘えられている自分」の確認
何かを提供してはいないんです。
のに、彼は独り立ちしているというのはですね、
要するに彼を結局は支えてる人が
めちゃくちゃいっぱいいるっていう
話でしかないとも言えると思う。
めちゃくちゃいっぱいいますよ、
彼を支えてる人は。
あの、もう、えー、なんかね、
そうそうたるヤンキースのオーナーとか、
ロジャースのオーナーとか、
エンゼルスのオーナーもですけど、
みんなある意味支えているわけですけれども、
えーと、
つまりそういうことなんですよね。
で、僕は、えーと、
彼は完全に甘えが満たされている。
そういう意味では、
稀有なレベルで満たされているっていうふうに
思いますけれども、えーと、
彼が甘えていないとは全然思わないんですね。
ただ、全くその甘えが目につかない。
なぜなら、完全に満たされているから。
満たされなければ、
満たされないほど、
甘えというのは目につくんですよね。
赤ちゃんは完全に甘えが満たされているとき、
おそらくスヤスヤと寝ている。
はい。
で、起きても夢見てるようなもんだから、
起きてても寝ててもあんま変わらない。
まあ、これは精神病水準といえば
そういうことになっちゃうんだけど、
別に赤ちゃんは精神病なわけじゃないですけどね。
とにかく甘えられている、
スヤスヤ寝ているという状態なんですね。
で、彼なり彼女なりが騒ぐ。
大谷翔平さんって人は騒がないですよね。
騒ぐっていうのは、
甘えが満たされてないぞっていうシグナル。
甘えてはいるんですけどね。
問題なのは、
本人の主観の中で満たされて、
満たされていないってことなんですよ。
で、これとタスクシュートに一体何の関係があるのか
ということになるんですけど、
情緒的な観点で見た場合ね。
情緒的な観点で見たとき、
タスクシュートというものを使っている人は、
必ず自分がそこに、
そこにっていうのはタスクシュートにではないですよ。
現実に甘えているというのを、
必ず発見するはずなんですよ。
絶対発見するはずなんです。
これを全く発見しないという人は、
多分僕は、
自覚が、
よっぽど弱いか、
何か異常なことがそこで起きてると思うんだけど、
まずそういうことは絶対起きてないから。
例えば先送りしているはずです。
甘えると甘えさせるの同時性
それに気づくはずですよ。
で、先送りしてるときって、
甘えてるなって感じがすると思うんですよ。
何かに。
何にってのはなくても。
てか、何にってのはないんだけど。
赤ちゃんがギャン泣きしていて甘えてるときって、
何にってのはないですから。
特にお母さんがそこに不在のときは、
赤ちゃんは何かに甘えてるんだけど、
何に甘えているかって、
自覚も、
誰が何をどう甘えさせてるっていう現実も、
そこにはないです。
その辺はウィニコットって人が言った部分ですけれども。
だから先送りするときって、
誰かに甘えてるとは限んないわけじゃないですか。
例えばなんだけれども、
今日は筋トレするぞって思ったけど、
しなかった。
しなかったなあ、
自分甘えてるなあって思うかもしれないけど、
それって誰かに甘えてるわけじゃないですよね。
筋トレのコーチとかがいるんだったら別だけど、
いない場合は、
要するに、
自分でそうやると決めたことを、
ただやんなかっただけの話じゃないですか。
それって何かに甘えてる感じがするかもしれませんが、
別に誰かに何かを依存してるわけではありませんよね。
一切。
で、これって実は、
確定申告の準備とかでも、
あんま変わらないんですよね。
事情は。
確かにあれは期限切られてますけれども、
じゃあ今日確定申告の準備というか、
私が何か記録なりをするぞって、
赤ペンでチェック入れるぞって思ったとして、
入れなかったとするじゃないですか。
自分はこれ明日に先送って、
未来の自分に甘えてるとか言える、
言うことはできるんだけれども、
そんなのは過程の空想であって、
で、税務署に、
税務署に甘えてるんだって言うと、
税務署は多分そんなこと知ったことじゃないと思うんですよ。
僕が今日やろうと、
明日やろうと、
要は確定申告の日に出せばいいわけじゃないですか。
この客観的事実と、
私の心の中に起きてることは、
実は何の関係もないわけですよね。
で、タスクシュートというものをやっているとですね、
いろんな意味で、
例えば終了予定時刻なりを強く、
厳密に決めてる人の場合には、
ここでやんなかったから1分遅くなったとか、
そういうことすら見えてくるわけですよ。
で、こういう自分というものを、
受け入れるはずなんですよ、どこかで。
で、受け入れられないとなったとき、
僕らは甘えられてないんですよ。
で、受け入れられないとなったとき、
僕らは自分を見失ってるんだと思うんですよね、
僕は。
必ず、受け入れられないとなったときは、
私はあるべき自分を、
自分以外は認められないって言ってるわけですよ。
でも、あるべき自分というのは、
どこにも今ないんですよ。
先送りしたり、時間守れてないわけだから。
受け入れられない、つまり、
あるべき自分というものからすると、
この私は受け入れられないと言ってる、
この私は現実の私で、
あるべき自分というのは、
空想上の私なんですね。
で、空想上の私というものは、
この世のどこにもないわけだから。
つまり、自分というものが見失われているんですよ。
こういうふうになってる。
鏡で見て、
自分の、自分の姿を見て、
これ私じゃないって言ってるのと変わらないんですよ。
これは。
現実の、現実のじゃないんだけど。
鏡に見、映ってる自分というのは、
何らかの意味ででも、
自分というものを掴む、
大きなヒントになるわけじゃないですか。
それ自分自身の、ではないですよ。
自分自身の完全な姿ですらない。
所詮、胸像ですから。
左右対称だったり、
反対だったり、
いろいろありますから。
前後も反対だったり。
そもそも鏡だし、
三次元の存在なのに、
二次元化してますから。
サスクシュートも同じです。
そこにあるのは、
所詮は行動の記録であり、
時間にまつわる順番に、
出したものであり、
そして、
今からやろうと思っている、
短期記憶の反映であって、
そのようなものは、
私自身を、
そのものは指さないんですけれども、
でも私自身というものを、
見つめる、
一つの大きな示唆にはない。
これを、
頭から拒否するということになってくると、
つまり、
自分というものが、
一気に見えなくなるはず。
なんですね。
で、私、
実際、
サスクシュートを見たときに、
見るというのが、
私がよく言うことなんですけど、
レビューというよりは、
見るって感じなんですよ。
今やってること、
そして前後にやったことと、
これからやろうとしていることが、
同時にパッと見える。
一瞬ですよ。
2秒ぐらい。
見るということによって、
私は、
自分というものは、
こういうものなんだという、
要するに、
鏡を見るのと似てるんですよね。
鏡に映る姿を見る、
みたいな感じ。
あ、なるほどね、
って感じなんですよ。
これが、
甘えているってことであり、
甘えさせているということであり、
同時に起きるんですよ、
これは。
甘えると甘えさせるは、
同時に起きる。
多分、
何に甘えてるのかと、
あえて問うならば、
自分にってのが一つなんだけど、
現実になんですよ。
正確に言うと、
現実の自分にだと思うんですけれども、
だから、
甘える対象、
甘える存在と、
ロボットとの甘え
甘えさせる対象というのかな、
は、
同じところにあるんですよね。
この話、
例えば、
母子の話で言うと、
お母さんも赤ちゃんに間違いなく甘えてる。
僕だったらすぐ分かりますね。
2歳頃の娘と一緒にいるとき、
完全に僕は娘に、
ベロベロに甘えてるはずよね。
娘も私に甘えてる。
これはつまり、
同時に総合的に起こるんだけれども、
しかも、
それはですね、
よくこう、
何て言うのかな、
精神分析で言う、
感受感性ってやつなんですよね。
間にあるんですよ。
甘えさせている、
存在というのは。
例えば、
家が。
家が私たちを甘えさせる。
これで、
私が思う、
その同時にっていうのが、
ずっとあるんですよね。
甘えさせるということは、
人が人をじゃないんです。
親が子供を甘えさせる。
100%甘えてるのは子供で、
100%甘えさせてるのは親だっていうこと。
絶対起きないんですよ。
そういう風に言うぐらいだったらば、
家が2人を甘えさせてるっていう方が、
私の実感として、
圧倒的にしっくりきてるんですよ。
子育て。
の場面において。
だって、
親が子供を100%甘えさせたら、
もう親は執事になっちゃうじゃないですか。
家政婦とかね。
そういうものではないんです。
あれはね。
やっぱりね。
ここには、
愛情っていうのがないと、
絶対おかしいんで。
それはロボットで代わりができますか?
っていう問いって、
僕はナンセンスだと思うんですよね。
世話はできますよ。
ロボットになって。
多分。
あと20年も経って。
でも、
世話をすることと、
甘えさせることは、
別のことなんですよね。
人間がやれば、
それは同時に発生しますけど。
重要なのは情緒の方なのであって。
この場合ね。
気持ちと心の問題なのであって。
決してこう。
そこで何を持ってきたかとか。
水を持ってきたのか。
ミルクを持ってきたのかとか。
そういうことでは、
全然ない。
子供は実際、
どっちだって喜びますから。
親が持ってくればね。
で、
どっちだって喜びませんからね。
ロボットが持ってきたら。
恐れますからね。
普通はね。
もちろん、
子供が、
そのロボットと、
心の交流があって。
心の交流ないけど。
ロボットとしても、
すごい嬉しくなったら、
それは甘えられているんでしょう。
でもそれは、
多分、
親がやるのとは意味が違う。
こういうことを言うと、
多分また、
反感を買うケースは、
あるんだと思うんだけど。
これは僕の心の中での、
感想を喋ってるだけなんで。
多分でも僕は、
ロボットがやったとしても、
人間の心は、
さらにそれと、
交流させることは、
できるかもしれませんけれども。
最初からは、
甘えの世界
無理だと思いますね。
そして結局そこは、
親が介在しないと、
無理だと、
僕は思います。
親じゃなくても、
育ててる人間が、
介在しないと、
無理だと思いますね。
で、
今のようなことが、
僕はタスクシュートには、
あると思うんですね。
いずれ人間は、
自分で自分の世話を、
結構な、
パーセンテージで、
できるようにならないと。
7割があって、
自分で自分の世話ができます、
みたいにならないと、
ダメなんだけども。
その時は、
やっぱり、
主観的なものが、
働くんですよ。
親が自分の面倒を見たり、
世話をしてくれたように、
自分で自分の面倒を見たり、
世話をしたりする、
っていう形に、
なるはずなんですよ。
この時に、
なんていうんですかね。
親がいないこと、
つまり不在ですね。
を、
なんていうのかな。
結局そこを、
危機だと捉えれば捉えるほど、
無理になっていくんですね。
つまり、
自分の中の、
親という感じのもの。
長時間なんだけれども。
え、
つまり、
あるべき自分じゃなければ、
世話しないよ、
という態度になってしまえば、
しまうほど、
この事態を、
ややこしくして、
えっと、
苦しくさせるんですよ。
公認を。
タスクシュートで、
しばしば、
タスクシュートじゃないんだけど、
これは、
実は、
タスク管理では、
全部同じだし、
実は、
タスク管理ですら、
ないんだけど。
自分で自分のケアする、
って話なんですけども。
これができない、
というケースは、
ほとんど全てがですね、
えっと、
あるべき姿に対する、
えっと、
誤解なんですね。
つまり、
親というものに対する、
誤解なんですよ。
親は、
私が、
まあ、
いい子にしていたり、
100点を取っている時は、
ケアしてくれたけど、
そうじゃない時は、
ダメだった、
っていう風に、
えっと、
そこに、
なんて言うんですかね、
甘えじゃないものを、
まあ、
入れてしまうんですね。
要するに、
甘えを否定してしまうんですね。
甘えが否定される、
ということは、
えっと、
私たちは、
自分で自分を甘えさせる、
ということが、
できなくなるわけです。
そうすると、
自分というものを、
見失いやすくなる。
さっきの、
あの、
鏡のやつです。
映った姿を、
否定しているから、
えっと、
あるがままの自分、
というものが、
えっと、
ケアの対象にならない、
わけです。
そして、
あるがままの自分に対してでは、
ケアする意欲が、
起きないわけです。
多分、
僕は、
これが、
えっと、
家に帰ってきて、
えっと、
自分の世話ができない、
という時に、
人の心に起きている、
え、
事態なんだ、
え、
多くの場合、
時間の話をされるんだけど、
僕は、
時間では、
絶対、
ないと思うんですよ。
えっと、
それは、
睡眠時間に、
食い込んでも、
構わないから、
ケアすれば、
いい話なんですよ。
で、
睡眠時間を、
削るって、
いいじゃないですか。
この時、
言ってることは、
この睡眠時間中では、
睡眠のケアが、
十分に、
終わる、
って、
言ってるわけですよ。
ここにも、
また、
えっと、
ある条件が、
整わなければ、
ケアができない、
っていう、
えっと、
甘えとは、
もう、
相入れないものが、
踏み込まれて、
しまっているんですね。
すべてが、
だから、
なんつーんだろう。
ロボットが、
セア、
ケアするように、
極端に言えばですよ。
極端に言えば、
ロボットが、
ケアするように。
何かこう、
睡眠導入剤が、
睡眠を、
確保してくれるように。
子供を、
寝かしつけるのは、
親じゃないですか。
実際、
そうなんですよ。
やってみれば、
分かる。
結構、
難しいところもある。
時もあるんで。
子供を寝かしつけるのは、
親なんですね。
それは、
できるんですよ。
子供を、
親が、
寝かしつける、
ということ。
で、
でも、
えっと、
子供が、
寝てくれた時に、
親が、
ホッとするってことも、
必ず起こる。
つまり、
甘えは、
同時に、
起こるんですよ。
あ、
寝てくれたって、
言うんですよ。
親はね。
そういう、
もんなんですよ。
で、ここに、
睡眠導入剤入れるのは、
おかしいですよね。
子供、
寝ないから、
ちょっと、
眠り薬飲ませたわ、
みたいな、
何かが、
ちょっと、
違う感じがするんで。
子供は、
えっと、
安心すれば、
必ず寝るんですよ。
で、
寝ると、
親は、
安心するんですよ。
こういう風に、
できているんですよ。
だから、
こういう風に、
できているってことは、
えっと、
条件は、
そこに、
いらない、
ということですね。
十分に、
えっと、
寝させるというか、
十分に、
甘えさせれば、
えっと、
かなり短時間で、
ぐっすり寝るという、
効能が、
7時間になってしまうとか、
7時間が、
6時間になってしまう、
ということに、
恐怖を覚えるとすると、
それは、
えっと、
甘えさせるんじゃないものを、
ここに、
投入して、
きているわけです。
時間の長さ、
みたいなもの。
ありますよ、
そりゃ。
えっと、
30分でもいいか、
っていう話になったら、
ダメですが、
えっと、
10分とか、
20分を、
削るという、
必要は、
別に、
ないわけですよ。
だから、
えっと、
ここに、
ですね、
えっと、
時間が、
全く関係ないわけじゃないんだけど、
時間が全く関係ないわけじゃないというのは、
さっきの柳の穂にも、
何らかの責任もあるよね、
って話です。
だって、
何にもない空間に幽霊見るよりは、
ススキに見る方が、
簡単でしょ。
だから、
私たちは、
その、
客観的事実と、
全く無関係じゃないんだけども、
えっと、
この場合、
空想とか、
幻想のようなもの、
まあ、
つまり、
イリュージョンのようなものは、
圧倒的に優勢だ、
ということは、
確かだと思うんですよ。
甘えられない、
ということになってくればですね、
甘えさせられない、
なんていうのは特に。
甘えさせられない、
というのは、
単に順番の話をしているだけなの。
先に甘えさせ、
次に私が甘える、
というこの順番が、
えっと、
私先じゃないと納得いかない、
と言ってる程度の問題なんで、
本来同時に起きてますから、
これは。
えっと、
駆動がどっちにあるかなど、
というのは、
大した問題ではないんですよ。
一旦、
甘えの世界に入ってしまえばですね。
で、
タスクシュートを見た時なんていうのは、
また、
も、
まして、
自分対自分なんでね。
もうこれは、
どっちが親役をやることにこだわることほど、
つまらんことはないですよ。
左手が親なのか、
右手が親なのかって、
あの、
指人形のやつで、
どっちだっていい加減ですよ。
別に。
だから、
自分で自分を甘えさせるということは、
自分が自分に甘えるということでもあるし、
その時に、
自分と甘え
自分の心というものは、
薄く分離はあるんだと、
僕は思うんですね。
親役という、
心の中の親役と、
心の中の子役が、
いて、
その両者の関係が甘えの関係に入れば、
自分のケアは、
何ら苦労なくできるはずですね。
で、
その時、
どっちが自分なのかっていう話で、
こだわる理由は、
私が私の世話をする、
世話をさせられる私、
つらいわみたいな話になるというのは、
おかしい。
端的に言うと。
だけど、
そういうふうに僕らってあるんですよね。
自己分裂が激しくなるケースがある。
要するに、
親役の方は、
長時間化してきて、
長時間に同一化して、
あんたはダメな子だから、
ケアしてあげないと。
で、
ダメな子の方は、
私はダメな子だから、
ケアされる資格はないってことになって、
甘えが不成立になってしまって、
そして自分を見失うわけですね。
ここの両者がいて自分なんで、
両者がいて自分、
つまり甘えの世界が成立して、
初めて自分なので、
どっちも受け入れられないってことになると。
ケアと甘え
甘える資格がない私と、
甘えさせられない私に分裂してしまうと、
その瞬間に自分というものが見失われてしまう。
結局のところそうして、
衝動に振り回されることになるわけですよ。
親がいない、
つらいみたいな衝動に振り回されて、
赤ちゃんがそうであるような、
不在の心理状態に突き落とされてしまうので、
私というものが自覚できなくなる。
甘えているんですよ。
だって家にいますよね。
家にいるってことは、
家自分で建ててないですよね。
家にいるってことは、
家を建てた人に甘えているし、
甘えている自己の認識を失い、怖くなってしまう
電気来てますよね。
それは電気が来るという状況に甘えているはずですし、
水出ますよね。
出ない地域あるわけですから。
日本でもあるんですよ、
出ない地域はね。
水道凍ったりしますからね。
状況には甘えているんだけれども、
甘えてさせてもらってるという自覚が消滅してしまう。
つらいので。
だから、
タスクシュート見るわけですよ。
私はね。
朝起きて、
うわ、つらいなと思ったら、
布団に甘えさせてもらってるとか忘れてるわけですよ。
要するに、
布団を作った人にも甘えてるわけですよね。
そして何よりも、
布団の中で安心して寝られる状況というものがあるわけですよ。
そういう状況にいない人は、
世の中にいっぱいいるわけです。
現実にも。
そこのところに実は情緒の問題というのがあって、
結局、情緒が甘えていられるから、
寝てられるわけですよ。
ということを全部忘れているわけ。
だから、
私は自分で自分のことを見失っているわけですね。
もっと寝られればいいという、
その情緒に振り回されているというのかな。
そういう感じになっていて、
自分というものが見えなく、
自分でケアしている自分もいるし、
ケアされている自分もいるってことを忘れているんですよ。
で、
これをタスクシュート、
朝一で見ることって僕は思い出すんですね。
あ、なるほど、そうだったなという、
ここにケアする自分ってものがいつもいるんだな、
で、ケアする自分というものは、
当然、アルガママの自分なんですよ。
アルガママの自分をケアするんだし、
アルガママの自分にケアされるんですよ。
だから、高紙で写った等身大の自分というものがそこにいて、
これを拒否さえしなければ、
いや、これじゃダメだっていうふうに言わなければ、
俺は明日から大谷翔平にならないとダメだから、
ここにいるこの顔のやつは許せないから、
見ないようにしようとかやると、
見えなくなっちゃうんですよ。
鏡ほどは、タスクシュートは、
不完全じゃないんでね。
鏡ほど、私の像を完璧に再現してくれるわけです。
鏡だって不完全なわけじゃないですか。
さっき言った通り。
タスクシュートはより一層不完全なので、
ぼやっとした像なんですよ、主戦は。
このぼやっとした像でも、
そいつを足掛かりにして、
自分の像というものを自分で結ばないと、
どうにもなんないわけですよね。
もちろんこれは、
例えば、グッドワイブ・ステックラスの圭人さんがそうであるように、
タスクシュートなしでも、
できるんですよ、できる人は。
でも、どっちにしても、できなきゃ始まらないんですね。
自分というものがあるんだと。
自覚を持つっていうことをしないと、
ひたすら衝動に振り回されて、
泣く赤ちゃんみたいに、とてもつらい、
とても恐ろしい世界に、
迷い込まなければならなくなってくる。
怖くて、夜道を歩いていると、
幽霊だらけになってくる。
怖いじゃないですか、そんな世界は。
だから、その世界にいちゃダメだってことではないんだけど、
いたたまれないだろうっていうことは、
あるわけですね。
で、この怖いから、
幽霊を作ったのは、私ですというのは、
結局、自分があるってことなんですよ。
自覚があるということ。
もっと言うと、なんで怖いのかと。
幽霊が怖いのは、我々が甘えているからじゃないですか。
現実には、そういうおぞましいものは、
出てこないという現実に、
実は私たちは、相当依存しているから、
夜道が歩けるわけです。
これ、あれですよ。
私、実際そうだったんだけど、
アメリカぐらいの国で、
夜歩くって、ナンセンスですからね。
幽霊どころの話じゃない。
つまり、日本人というのは、
日本に甘えていられるので、
いいわけですよ、それは。
明らかにいいことなんですよ。
これを逆に言う人、たまにいるんだけれども、
危機感が足りないとかね。
絶対、国側だった方がいいとは、
タスクシュートを使って自己を見つめ直す
僕は絶対、覚えないんですよ。
結局、その、夜、こう、
調慮している人たちも、相当甘えているってね。
甘えてなきゃ、あんなことは、とてもやってられないわけですよ。
だから、
結局、そういうことになっているということさえ、
ことっていうのは、
つまり、私が自分というものは、
甘えているから怖くなるし、
怖くなるから、
空想を現実化してしまうんだし、
それは、甘えの強度が強くなっているんだけど、
それは、甘えている自覚というものを、
見失っているからだと。
それを、私は、毎日、
というか、毎朝、というか、
毎時、タスクをやるたびに、
タスクシュートを見て、あ、そうだ、だと。