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2023-12-07 41:27

現実には「甘えかた」がある【GMV898】

甘えを満たすことはできる。何が自分の望みであるかを自覚する。

サマリー

彼らは甘えられていない時に問題が起こるという精神分析的な視点について考えます。彼らは甘えられていないことに気づかずに甘えを求めることが大きなストレスになる可能性があります。このエピソードでは、甘えについて話され、甘えが満たされない状態がどのような結果をもたらすのかが主題となっています。人は甘えられる状況で甘えることがあり、甘えられないときには甘えの願望が現れます。甘えられる状況では、自分の願望も満たされるという確信を持っています。しかし、人に甘えられないということは、人を甘えさせていないことにも繋がります。このエピソードでは、「甘えかた」という心理状態について語られています。譲ることができただけで犠牲になっているという信念を持つ人は、常に犠牲を払い続けることになり、生きていくことが辛くなってしまうと言われています。

甘えられていないときの問題
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
11月、あ、違いました。12月ですね。12月の今日は何日なんだっけ?
10月の7日、木曜日、夜21時4分ですね。
全然おはようございますではないんですけど、今日はこのままとって出ししようかなと。
まだわかんないですけどね、ちょっと現段階ではわかんないけど、
いって出ししているかもしれないし、夜のうち出しちゃってるかもしれません。
今朝はちょっと、いろいろあってですね、また落としていると思うんですけれども、
週4なんだよな、やっぱりな。ここのところなんか角に張り切って週7ぐらい出してましたけど、
週4かなっていう、あっさり元に戻っているあたりが、この番組のらしさ。
まもなく900回になりますね。こんなにやるはずはなかったんですけれども、お知らせを先にしますね。
おかげさまで、先送りゼロが、J.マツザキさんとの協調が、ご好評いただいているというか、
こちら、特典で第7期の100日チャレンジにご参加いただけます。
予約いただければね。それもJさんによれば、僕は把握していませんが、200を超えたとかいったことでですね、
こちらも本当にありがたい限りで、もうありがとうございますとしか言いようがないんですけど、
まだ募集は続けておりますので、予約ができなくなったら、ちょっとどうなるかわかりませんけれども、
そういうことはあるのかな。とりあえず予約はできている段階では、引き続き募集し続けますね。
こちらもぜひですね、まだご予約いただけなければ、これ聞いている方はご予約いただけてるんじゃないかと思いたいんですけど、
まあまあ。
よろしければ、ご予約いただいた上、ご参加いただけるとありがたいです。
これはもう本の予約さえしていただければ、追加の料金はかかりませんので、
もろもろこちらから、タスクシュート2のベータテスターとか、いろいろとクラウド通貨のお話もありますので、
Jさんが奮闘してますので、完全に僕もおんぶに抱っこ状態で、今日はその話を少ししようと思っているんですけれども、
甘えというやつですね。
甘えというやつですね。
今日ある方とお話ししてきて、甘えという言葉は出なかったんですけど、甘えというテーマだったなと思ったんですね。
で、私は甘えというのは、本にはちょっと書いたんですけど、精神分析の概念なんですよ。
この土井武夫さんが言うところの甘え、甘えの構造の甘え、あの本、日本人文化論みたいになっちゃってるんですけど、
というふうに読まれてるし、そういう面もあると思うんだけど、彼はあくまでもあれを精神分析の文脈で考えている。
で、考えていたはずなんですね。
読んでる限り。
彼は精神分析家ですし、精神分析の人ってやっぱなんだかんだそうなんだと思うんですよ。
で、私はですね、甘えで一番ものすごく重要なところは、ここはすっごくある意味、確かに精神分析的と言いますか、臨床的だと思うんですけれども、
表するに甘えられてないときだけそれが問題になるっていう話なんですよ。
僕はこのことはですね、よくわかる感じがするんです。
精神分析の文脈というものを理解してからわかるようになった面もあるんだけど、つくづくそのことを痛感するのがやっぱり僕は、例のあれですよ。
私、散々この番組で言ってる、彼女作れなかった問題ってやつなんですね。
あのときほど私の心理状態が甘えられていなくて、甘えられていないときほど、それが突出して意識されることって本当ないなって感じがするんです。
たまたまですね。
たまたま大学で女の子と食事するぐらいのことがあるわけじゃないですか。
そのときほど私は苦痛を感じることはなかったんですね。
だから僕は彼女を作れなかったんですけれども、本当に苦痛になっちゃうんですよ。
なんでこんなに苦痛なのかが、全然制御できないレベルで苦痛なんですね。
いなくなると、ある意味うわぁ良かったとか思ってしまうんですよ。
彼女が欲しくてしょうがないくせに、女の子と一緒にいるだけでも、
ダメなんですよね。
これ嫌われるのが怖いっていうのが突出した気分なんですけれども、
これが甘えられないっていうときに起こる問題なんですね。
で、例えばなんですけれども、
普通に女の子と接することができる人っているわけじゃないですか。
そのときに甘えられているわけですよ。
これが甘えられている正常な状態だと、ひどいタケオは言ったわけだと僕は思うんですね。
つまり、甘えているという自覚があってはダメなんですよ。
このことは、私たちの正常な心理というものが、僕は散々言ってますけど、
ニュートラルではないっていうこの感じ。
ニュートラルではないんですよ。
絶対に。
赤ちゃんって、お母さんに私甘えてるなんて絶対思わないじゃないですか。
思ったらもうダメですよ、ある意味。
ゼロ歳児が、うわぁ私甘えて申し訳ないとか思ったら、もう既にそれは正常ではないと思うんですよ。
でも、めちゃくちゃ甘えられない。
でも、めちゃくちゃ甘えてるじゃないですか。
完全に依存しきってますよね。
この完全に依存しきっているときには、依存心というものはゼロであるっていうのが、空気のようなものですよね。
だからね、精神分析科のオグデンが空気に例えたのは、非常に正しいと思う。
ただ、空気に情緒ってないんで、いや空気に甘えていて空気助かるわみたいに思わないじゃないですか。
これは思わないと思うんですね。
なので、這大事ですよね。
大きな嘘っぱちで甘えは満たされていなきゃおかしいんだけれども
甘え切ってましたからね
私大学時代って金は親に出してもらってたわけだし
しかもまともに授業にも行ってたからし
甘え切ってるわけですよ
食事もできて当然だぐらいに思って
食事ってできて当然のものじゃないですよ
この甘え切っているにもかかわらず甘えが満たされていないという
心理状態に陥るところに
自覚のなさってものがあるわけですね
自分のなさですよ
つまり自分は何がしたいのかが分かってないわけですよ
甘えられていないときほどそうなんですね
甘えられていないというのは認識の問題なんです
結局は認識の問題なんですよ
甘えられてはいるんだけど甘えているという自覚がないんですよ
なぜなら自分がないから
自分がないというときに何が起こるかというと
自分は何をしたいというのがなくなっていくんですね
分からないですよそれは
何をしたいのか当然ありますよ
甘えの認識と行動
赤ちゃんがそうであるようにあるんですよ
赤ちゃんだってお腹が空く
ミルクは飲みたい
トイレもしたい
眠い
全部あるんだけど
赤ちゃんはそれが私の願望だとは思ってないわけですよね
私はお腹が空いたとは分かってない
だからただお腹が空く
私は眠りたいとも思ってないからただ苦しい
全部そうなってしまう
僕ども心境としては
全く同じなんですよ
ただ苦しくなる
ただ誰かに甘えたいと思っているし
それが私の願望だという認識が欠けていて
しかも私はそれが満たされているんだけど
満たされているという認識すら欠けているために
べったりする彼女が欲しいということになってしまうんですね
だけどこの心理っていうのは
あまりにも突出しているために
具体的に何がしたいのか
具体的にセックスしたいのかとかね
よく分かってないわけですよ
だから女の子が
近くにいると
この願望
この強烈な願望だけが
突出して出るんだけど
これをどうすればいいのか分かんないから
苦しくなってしまう
満たされないまま
ストレスだけが増大していくんですね
この感じが多分
臨床の感じなんだと思う
臨床に行く時の
クライアントさんの感じなんだと思うんですよ
ニーズにできないわけですね
私はこういうことがしたいんですの形にできなくて
苦しいになってしまうんですよ
満たされず苦しい
すっげえ寂しいみたいな感じになっちゃうわけです
あまりにも寂しいが強いために
私が寂しいのだ
こうすれば寂しさが埋められるのだ
っていう形に変換できないわけですね
多分なんだけど
異常にお腹が空くと
こういう感じになるんじゃないかなって感じがする
私お腹が空いてますって言っている間は
まだまだその空腹感って
極端なものにはなってないじゃないですか
極端になっていくと
多分これが私の空腹感なんだってのが
通り越してしまうと思うんですよね
だから私がないっていうのと
異常なほど欲求が強まっている
貪欲って言うけど
そういうことなのかなって感じがするんですね
だからどいたけおさんは
甘えられていない人
つまり甘えられていない上に
甘えられていない自覚すらなくなってくると
自分がないってことになるわけですよ
しかもその話っていうのは
後からしか分かんないですね
あの時俺自分なかったわっていうのが
まさに僕なんかも
自分がないってことになるわけですよ
あの大学時代の自分を振り返ってて
いやあの自覚のなさじゃ
彼女できないよねって
後からしか分かんないですよ
あの当時の私
未来から飛んでってですね
君そんなことだからできないんだよって
めっちゃ腹立てるじゃないですか
相手は
だからこれができないところが
人へのアドバイスの難しさですね
言ってることは正しいのかもしれないけれども
それを言っとけば
相手が納得して
行いを改めるっていうわけにはいかないわけですよ
これあまりにも
甘えを満たせずに苦痛
お腹が空いてるわけですよ
お腹が空いてるときに
もうちょっとしたらご飯来るよって言われても
納得されないのと
多分同じなんだと思うんですよね
あの今日電車から降りるときに
あの降り口混んでたんで
譲ったんですけど
この譲るって感じだなって感じなんですよ
あまりにも欲求が満たされてないとき
譲れないでしょ
後ろからゴジラやってきましたみたいなとき
道譲れないじゃないですか
道譲れるというのはどういうことかというと
持ちこたえられるってことなんですよね
我慢できるってことなんですよね
要するに苦しさのあまり我慢するっていうのは
大人にしかできないじゃないですか
子供はここで我慢してどうなるのかが分かんないから
我慢とかしてる場合ではないわけですね
だから泣くわけじゃないですか
痛いことがあればすぐ泣くと
道譲るってときに
私はこの電車から降りたいのだという欲求を
認識できているわけですよね
私はこの電車から降りたいのだと
だから現実が認識できるわけですよ
前の人も降りたいのだと
だから譲るわけですよ
譲っておけば私はその後に降りられるということが
分かってるから譲れるわけですよ
これがつまり持ちこたえられるってことの
非常にマイルドな形なんだと思うんですよね
私はそういうことは大学時代とてもやってられなかったんですよ
人に彼女を譲るとかナンセンスだったわけですね
だって譲ってしまったら一生付き合えなくなるっていう風に思ってたから
譲る余地はどこにもないわけですよ
めちゃくちゃ辛い時ってのはそういう風になってしまう
先行かせてくださいっていうことになってしまうわけですよ
だいたいそうするとことはうまくいかなくなるわけですよね
これでおおむね全部と言ってもいいんですけれども
私の欲求であるということが分かるということは
空想に関しても同じなんですよね
私の空想であると分かると
こういう話を先日から盛んにしているわけですけど
例えば目の前の真っ暗闇でね
ちょっと怖いけどススキの方を見ると
ここに不気味なものを見ているのは私の目の錯覚であると
こういうのが必要なんですよね
こういうのがないと目の前に
なんかやばそうなのが現れてとても恐ろしいという状態になってしまう
僕らはそういう状態にしばしばなるわけです
ある種の虫とかを見るとある種の人はそうなるんですよね
私は虫に意味をつけているんだと思っている
心の余裕がなくなると発狂するみたいな
そういう状態になってしまうと
発狂はしないんだけれども
発狂したかのような大騒ぎになってしまうわけですよ
甘えの意味とは
それは自分の心の中の恐ろしいものを
何かの生物の上にただ置いているだけなんだけども
そういうふうには思えないということですよね
これが甘えの話全域にかかってくるのかなと思うんですよ
この甘えというのは
今日その人とたまたまお話ししてたんですけれども
同時にしか起きないというのがミソなんですよね
私ついつい言ってしまうのが
順序を立てちゃうんですよ
例えばこう
自分が甘えたければ人を甘えさせましょうみたいな
なんかこういうモラルみたいになるのは
その道を譲る話と似てくるんですよね
自分がそこに早く行きたければ道を譲りましょう
正しいんだけれども
この話は実は同時にしか起きないんですよ
自分が甘えられることが分かっていて
初めて人を甘えさせることができるんですね
だから人を甘えさせようという
ふうに思えるときには
もう自分は甘えることができているんですよ
だって電車から降りられることが
私分かっているから譲れるわけですよ
譲れば電車から降りられることが
早まることも分かっているんですね
それが何て言うんですか
クラウドの系道さんが
グッドバイブスというギフトモードなんですよ
与えると同時に与えられる
これは同時に起きるんですよ
心の中では
この心の中で同時に起きるというのが
分からないと
搾取されるって話になってしまうんですね
搾取されるというのは
甘えられませんというのと
全く同義語なんですよ
ここで人を甘えさせてしまったら
私が一方的に犠牲的精神を払うことになる
って感じがするわけでしょ
それは自分の心が切羽詰まっている
という証拠なわけです
あのうつパンの人は
現実の
昨日から盛んに言っている
うつになってしまうというか
起死念慮に
ずっとされている
起死念慮ですから
甘えの満たされない状況
余裕どこにもないじゃないですか
だから彼はお母さんが
梨剥いたって言っても
危なく犠牲になっている感じがするわけですね
というか犠牲に彼はなっているわけですよ
梨を食べている
だけれども
私は梨があまり好きではなかった
残すのも悪いので
無理やり食べていたみたいな
これはすごい大した犠牲じゃないです
ていうか全然犠牲じゃないですよ
梨は美味しいじゃないですか
彼にとってはあまり美味しくないんでしょうけど
美味しくないのかもしれないけど
彼の言いたいことは
本当はもっと甘えさせてほしい
ってことなんですね
この甘えという文脈で言えば
僕が代わりに
この人の代わりに考えても無駄なんだけども
要するに甘えたいわけですよ
愛情が欲しいわけです
もっと言ってしまえば
彼は自分のニードがあるんだけど
ニードというのは必要性なんです
なんつーのかな
それこそ藤山さんが
精神分析家の藤山さんが
車を傷つければそれを治すというニードが
車ダメだな
車どうもダメだと思う
あれパソコンがいい
パソコンが壊れると
治すニードが発生するでしょ
パソコン側に
パソコン側を
パソコンを治すんですよ我々は
ニードは
でもパソコンはニードを自覚してないわけですよ
俺治してほしいわ
辛いわって全然思ってないですよ
ガーガーガーガー言ってるけれど
何も言ってないわけですよ
でこのニードをニーズに変換する
パソコンの
例えばこの
何でもいいんだけど
ハードディスクを換装する必要があるんだ
というのがニーズですね
何とかしなければいけないというのがニード
これを航行すればいいというのがニーズですね
だからニーズを満たしてあげる必要があるんだけど
その前にニードというものは
ニーズに変換される必要がある
説明というものがなされる必要があるわけですよ
でこの説明を変換する必要があるわけですよ
説明は正しいとは限りませんよね
実は換装するべきはハードディスクじゃないのかもしれない
だからあくまでもニーズというのは解釈であって
正解ではないですね
ここのところもすごい大事なわけです
だからなしをあげるのでもいいんだけど
その解釈はかなり的を外しているということなんです
だけれども
うつぱんさんはどうしてほしいのかというのが分かってない
だからその自分のニードというものが
なんかこう
満たされないなという
甘えたいなというお母さんにもっと愛情を示してほしいというか
もっと多くのことをしてほしいなと思っているんだけど
彼はそんなことを思っちゃいけないと思っているわけですね
もういい大学生なんだからそんなことを思ってはいけないと
で出てくるなしも全然欲しくないんだけど
欲しいということにしておこうと
自己犠牲を払ってしまうわけですね
全然甘えられていないんだけど
彼はちゃんと甘えを受けてますよね
つまり私は何をしてほしいのか
甘えたいという自覚がなく
私は甘えを満たされているという自覚もないため
私がなくなってしまうんですよね
そこに残るのは苦しみだけなんです
ニードがニーズにも変換されず
満たされもしない
そうして私は何がしてほしいんだろうというのが
なんかこう漠然としていて
私はもう抜けていて
欲しいものは何なんだろうという
なんか浮遊している苦しみみたいなものがあって
それに対して外界が出してくるものがあって
それは無しであったり
あるいは成績表Dなわけですよね
成績表だって相手はわざわざつけてるんだけど
Dがやってくるわけです
この苦しい時にただDがやってくると
お前もっとちゃんとしろ
なぜちゃんとできないんだという
攻撃になって返ってくるわけです
満たされない甘えというものは
このようにこう
理不尽なものが
よこされていく感じがするんですね
そしてそれを私は我慢しているというところが
出てしまうので
もし私が
持ちこたえられないわけですよ
さっきの私の道を譲るっていうのは
結局のところ
自分が出たいということを認識していて
自分は出られるということを知ってるから
持ちこたえられるんだけど
スパンさんにとっては
持ちこたえようがないわけですね
苦しいところにDが与えられる
これがつまり愛情として
愛情なんだけど
実はDだってつけてるわけだからね
Dをつけるのが愛情なんだけど
もうひどい
ひどい仕打ちになってしまう
愛情が仕打ちに切り替わってしまう
そして一生懸命夜夜中に
コツコツと勉強すると
ここがすっごくずれているわけですよね
本当はそういうことは要求されてないんだけど
明らかにもこの仕打ちに対して
自分ができることは精一杯のことをやるとすると
夜遅くまで勉強して
消えてなくなりたくなる
この家にいても
ただ食費を食い荒らすだけだし
そう書いてありましたからね
学業の成績もひどいのに
甘えの結果と影響
お金を払わせてしまっている
存在する価値が何もない私だというふうに
自分を評価するわけですよ
自分で
こんな評価したい人はいないんで
この評価は明らかに外側から
つまり超自我的な親ですよね
それもひどい仕打ちをする超自我的な親を
自分の心の中に作り上げて
自分を責め苛むわけですよ
これをずっと蓄積していくと
要するに消えたくなっていくという話なわけです
前編これが終わっている
だけれども
実はなしは向かれているわけですよ
これを受け止める私というのがいないんですよね
なぜならばあまりにもニードとニーズが
かけ離れているために受け止められないわけです
そんなものは
あまりにもナンセンスのために
仕打ちになってしまう
赤ちゃんは本当は眠いのに
おっぱいを出される
おっぱいを出されてしまうと
やっぱり
仕打ちになっちゃいますよね
赤ちゃんからすると
愛情は注がれているんだけど
あまりにも的外れのために
許しがたいことをされているような感じになってくる
これが
なんかこう
起死念慮に対して
この程度の薬で
私の起死念慮が解決すると思うんだ
という屈辱感になってしまう
仕打ちになってしまうんですよ
愛情が出されても
それは愛情にはならない
という話になっちゃうわけです
非常に甘えが満たされない状態が
一旦発生してずっと続くと
全てがこういうふうに
こういうふうに
誤解と何かの積み重ねみたいに
しか見えなくなっていく
っていうあれはお話で
気持ちはよく分かります
私が大学の時
まさにああいうことではなかったけど
要するに
彼女ができないと言ってたのは
全く同じ問題だったんですよね
甘えが満たされない
甘えを満たそうというのは
ニードなんで完全に
だって誰もそういうふうには言わないですよね
私の甘えを満たしてくださいって
これではどうすればいいのかが分からない
つまりどうすればいいのかが分かる形に変換して
何が満たされていて
何は満たされていないのかということを
はっきりさせて
で満たされていない部分を
満たしてもらうべく
伝えると
これがつまり大人になった際に
人に甘える時に必要な手順なわけですよ
で満たされて
大筋満たされているからこそ
実はこれができるというのが逆説なんですね
大筋満たされていて
初めて情緒的に満たされていて
つまり満たされてるというのは
どういうことかというと
満たされうる状況が
作り出されているという認識なんですよ
で私たちは実はいつでもそうなのかというと
そうなんですよ
本当はきっと
うまくやればというのかな
これやっぱりうまくやればではないんだよな
うまくやるためには
こういう状況にあると思います
思えないと始まらない
だからこれを逆にやると
こじれるじゃないですか
あのね
えーとなんていうのかな
そうだな
あの情緒的な関係の人と一緒にいて
私のこと好きって死ぬほど聞く
みたいなことをやるとこじれますよね
好きな関係同士であっても
こじれますよね
えーとこれをやってしまうというケースは
少なからずあるんだけど
私のこと本当に好き
本当に好きなのみたいなことを
すーっとやれと
だいたいこじれますよね
好きなんだけれど
好きじゃなくなっていきますよね
こういうことが起こるわけです
あの甘えが満たされているという認識を
えーと掴み損ねた状態が続いた場合ですね
でこれはよくあるパターンなんですよね
うつパンの話って結局それの非常に極端な形態なんだと思うんですよ
これをずーっとやっているために
えーと周りの人はそれに対して
答えようがなくなっていくみたいなことが発生する
つまりなんていうんだろうな
甘えというのは不思議なんですよね
えーと満たされないという思いが
その貪欲さを作り出し
その貪欲さというものが結局
何が満たされていて何が満たされていないのかが
認識できない状態というものを作り出していくんですね
それが多分神経症水準でも精神病水準
それが多分神経症水準でも精神病水準でも
同じように起こるということを
土井武雄さんは認識して
つまりなんていうんだろう
直接的ではない形で甘えを満たしてあげることによって
えーとノイローゼというものは
治癒されるということを認識したんだと思うんですよ
ただ面白いことになんですけれども
僕土井さんの本を読んで
甘えられる状況と願望の満たされ方
臨床霊読んでてですね
甘えが満たせるような形には
これは言ってない感じに聞こえるんですよね
あなたのようなものの甘えは
満たしてあげるわけにいかない意味で
そういう発言すら散見されて
どうしてしかしこれで最終的にうまくいっちゃうんだろうな
っていうのは非常に面白いなって感じがするんですよ
こういうことを言えばいいって問題は絶対ないと思うんですよね
ある意味
現に僕は宇津パンさんの最後の話の最後のところで
やっぱり宇津パンさんは自分が甘えられているということに
気づくっていうあのシーンが非常に大事だし
感動的なんですよね非常にね
でもどうして気づいたのかって
いう一冊は実は読んでもよく分かるようにはできてない
ここがポイントなんですよね
こういうことはある意味なぜか起きるんですよ
多分ある種の条件が揃って起こることなんだと思って
そういう条件に向かっていくことは大事なんだけど
その条件が僕らにみんなに自明かっていうと
全然そうでないところが厄介なんですよね
だから情緒的満足というのは
非常にある種厄介だなって感じがするんですよ
ただヒントがあって
これもよく
あの
ノイタキョウさんの本にもあった気がするんだけど
藤山直樹さんの本にもあるんですけど
ハニカミってあるじゃないですか
ちっちゃい子が2,3歳の子かな
かわいい感じなんですけどね
なんかこうやたらともじもじしていて
かわいいねとか言われて
へへとか言ってやたらこうもじもじして
あれが甘えの表出した感じなんですよ
僕はあれで
非常に飛躍があるように
思われるかもしれませんけど
僕は仕事術であれを導入できるといいと思ったんですよ
あの状態なら人はほぼ何でもやる気になるんでね
でこれをなんかね
搾取って本当になんかこれがないから搾取なんですよ
あのもじもじしていてこうはにかんでる様子
あれが甘えだって藤山さんも書くんだけど
全くその通りだと思うんですよ
ああいう形で現れるというケースは
ちょっとあれは性愛的なものも含み
含み込んでる感じがしますよね
性愛そのものじゃないけど
多分ですね
あの感じというものを
親子関係で知らないという
不幸な方が
こうというのかな
運の悪い
アンラッキーな方がいらっしゃるんだと思うんですよね
ここに難しさが
発生するんだと思うんですよ
あのもじもじしている感じというのは
甘えを自覚している感じなんですよ
人間がおそらく
一番最初の頃にですね
甘えを自覚し始めた
瞬間のスナップショットなんだと思うんですよ
ああいう時の子供に
ちょっとないないに取ってきてって言うと
飛んでいくんですよ
本当に飛んでいくんですよ
あの感じで仕事ができればいいんだかな
っていうふうに僕は思っているんですよ
ずっとあの感じで仕事をすることは
できるはずだって思うんですよ
で大体そうなんだけど
あの年頃の子ってみんなそうだから
なんでもかんでも全力だから
急に不意にバタッとなるんですよ
本当にあのある時に
私は自分の子がね
滑り台からスーッと降りて
わーって言って
降りた瞬間に寝ちゃってるっていうのを
何回かしかも1回や2回じゃないですよ
何回かも不意にして
すげーな子供はと思ったんですよね
あのなんちゅんだろう
後に体力を温存するみたいな
発想が全くない
それは幼児だからなんのは
間違いないんですけれども
でもこれで何も問題ないのにな
っていうのも思うんですよ
そうやってバタッと寝るじゃないですか
そしてコンコンと寝て起きて
起きて不機嫌だったりはしますけれども
起きるとまたすっかり元気が戻っていると
これでなんでいけないんだろうなっていうのを
いつも私は思って
何か親に用事を言い付けられると
我が子供のようにすっ飛んでいくわけですよ
そしてまあそれは自節ですけどね
当然ね
スプーン持ってくるとかしかできませんけど
私は子とやる気という問題に関しては
この子たちの方がよっぽどよく知っているっていうのは
いつも思うことで
えーと
気付けてやる気になれないとか
えーと
これは面白くないとか言っている我々は
賢い素振りを持ってますけれども
あくまでも素振りだと思うんですよね
やることややれる能力ってものは
圧倒的に高くなってるけど
代わりになんか非常に面倒くさいことになっていて
面倒くさい失い方をしているんですよ
だからいつも違うとあれじゃないですか
あの箸取ってくるのすら忌避するじゃないですか
それによって何をこう
守ってるつもりでいるんだろうねっていう感じがするんですよ
それを持ってきたからといって
体力が激減するとか
そんなことがあったらまずいですよね
あるいはこうね
夫を喜ばせてしまう
夫を喜ばせて何か悪いことあんのかみたいな感じがするんだけど
非常にややこしい迷路に
はまり込んでいるなーって感じしかしないんですよね
そして自分はスマートになってきて
それでいるので
えーと
そしてこういうそのいわゆるこう愛情いっぱい的な
世界に落とし穴みたいなものが潜んでるんじゃないかというふうに
怯えている
私はそれによって失っているものが大すぎるというのが
どうも見ていて感じることなんですよ
この甘えというのはあくまでも同時にしか働かないので
というふうに文字文字している子どもというものを見ていて
結局大人は愛情を得ているんですけれども
それは交換的で交換はしてないんだけど
それって結局甘えの世界が成立している中に両者がいるのであって
大人が子どもを甘えさせているわけではないと思うんですね
だから赤ちゃんはお母さんに世話されて
私は甘えてると思わないんだけど
ましてお母さんは赤ちゃんの世話をしていて甘えてるんですけれども
甘えているとは全く思わないと思うんですね
甘えさせていると思うことはあったとしても
つまり甘えというのは
満たされているときは全然自覚できない何かなんですよ
私は今は人間関係とかで困ることはほとんどなくなっているんで
甘えられない状況と不信感
大学時代みたいに女性と一緒にいるからすっげえ疲れるとか
そういうことはなくなっているんで
甘えというものが成立しているんだというのが
しばしば実感されるんですね
昔の記憶が残っている
でこうなってみるとよく分かるのがですね
やっぱりこれを人に習うってのは
本当難しいよなとしか言いようがないんですよね
これ人に習いようがないなとは思うんですよ
何をもってこういう状態を作り出すのかと
ただ言えることはですね
甘えられるという状況
これはつまり甘えていいんだと思える状況で
甘えるということがあるんですよ
甘えられるということしか私たちはできないし
それで十分だったってことなんですね
任意の全部満たせないじゃないかっていうのは
なんかおかしいんですよ
例えば要するにさっきの道を譲る
電車で出口を譲るっていうのは割といい例なのは
つまりいやでも誰よりも早く出ることはできないじゃないですか
っていう話に聞こえるんですね
理想を諦めなければいけないんですかって言うと
よくタスク管理なんかでも出てくるんだけど
それはだってここで人に先に脱してしまったら
誰よりも早く出ることはできなくなるじゃないですか
っていう感じに聞こえるんですよ
でも自分の願望をよくよく
しっかり見つめてみてほしいんですよね
自分が出られりゃいいのであって
ドア閉まる前に
誰よりも早く出る必要はないわけですよね
なんかね現実ってそういうふうにできているんですよ
私のニードをしっかり見直すために
それを満たすだけの条件は十分と思ってるんですよね
つまり自分というものがあることによって
甘えられるという話はですね
そういうふうな認識を持たなければ持たないほど
余裕で満たせる何かなんですよ
譲ってるっていう意識すらほとんど持つ必要がないんですよ
満たせることは確実なの
満たせることは確実だと思っているのに
満たせるときには満たせるものなんですよ
これは難しい話ではないし
そこにモラルっぽいものが見え隠れはするんだけど
モラルはあんまり関係ないんですよね
普通にできることっていうか
そういうふうにしか言いにくい何かなんですよ
だけれども何かある種の
やっぱりイリュージョンに近いんですよね
後ろから何かが迫ってるというふうに思われたり
あるいはこの社長超意地悪だから
私の目の前でドア閉めるに違いないぐらいに
思ってるときに
誰よりも早く出なければいけないような気になってるんですね
この状態がつまり甘えられていない状態
甘えられない状態ってのは結局のところ
何か非常にオカルトな感じの不審感に包まれてるんですよ
畳から見ればね
本人はそうは思ってないんだけど
いやー私はいつも運が悪くて
私の目の前で社長はドアを閉めようとする傾向があるんだみたいな
これを口に入れると
他の人はこの人変わったこと言ってんの?
って感じがするんだけれども
甘えられないときの私たちの考えって
こういうふうなものになりやすいんですよ
他人への配慮と甘えの満たされ方
だから理想にこだわるわけです
その人が言ってる理想ってのは結局
何か理不尽なシステムがこの世の中には作動していて
例えば誰よりも真っ先に出ようとする
一人や二人しか電車からは降りられない仕組みになっているみたいなね
そういう考え方を持っていると
だから私は人を気をつけないといけないんだけど
そういう考え方を持っていると
だから私は人を気をつけないといけないんだけど
人としてでも何者かになって
誰よりも先に降ろしてもらう特権を手に入れないとダメだみたいな
それに近いんですよね
これが僕は多分神経症ってものの状態になったと思う
結局それは誰もが当然満たされるというふうに
信じてさえいれば満たされる願望が
満たされないかもしれないという
不信感に包まれたときに
突出する願望なんだと思う
普段普通の多くのいわゆる謙譲な人たちは
認識していない
うちに満たされるという
昔私の奥さんが友達の家に行ったとき
ママ友達の配合みたいなのに行ったんですよ
そのときに私の友達は
割とある意味ズーズーしいところがあって
この子のおむつ汚れちゃったから捨てていいかな
ここに捨てていいかなと
簡単に言えて
簡単にそれを受け入れてもらっていて
ああいうことが私できないんだよねと言いながら
どうしたかというと
ビニール袋にちゃんと入れて
うちの子のおむつは持って帰ってきた
そういう話で
でどっちの方が好かれるかっていうか
少なくとも友達は
このズーズーしい子の方が友達多いんだよね
これなんですよね
私が思う満たされる
甘えというものが満たされるかどうかのポイントって
こういうところに現れる
と思うんですよ
持って帰ってきちゃう人は
人にあんまり好かれないような傾向があるんですよ
なぜならば人に甘えられないから
人に甘えられないということは
人を甘えさせてないから
これは同時に起きてしまうんですよ
てか同時にしか起こりようがないんですね
どうしたってこれは同時に起きるしかないんですよ
人に道を譲る時には
その人の願望が満たされるし
自分の願望も
結局満たされるという確信を持っている
からできることなんで
これが
片方だけを切ると
いやー道譲っちゃったから
俺はなんかあの電車から降りられなかったんだよね
じゃダメなわけですよ
「甘えかた」とは
そういう話ではないってこと
でこれはどうしようもないんですよね
降りられないと信じている人は譲れないし
降りられないと信じてる人が譲る時は
自己犠牲を払うしかないんで
でその人って多分こうなんですよ
これは電車の中で起きないことかもしれないけど
譲った
私はもう犠牲になってしまったんですよ
もうダメなんだと
このまま電車に乗せられたまま
死ぬまで電車で引きずりまん
こういう心理状態ですからね
言ってしまえば
でこの心理状態になってしまった人が譲ってしまった
やっぱり私はこういう星のもとに生まれたんだ
と思ったまま
電車の戸がたまたま閉まらなくて
あっよかった
今日は降りられたと思ったとしても
その人は甘えられてないことに違いはないんですよ
ただ譲ることができただけで
私は要はウツパンさんの
書いていることってそういうことだなって思うんですよ
この心理状態を変更させることって
容易じゃないじゃないですか
だから他人が必要なんだってのは
そういうことなんだけれども
多少考える必要もやっぱあると思うんですね
考えるということと他人とつながることは
この場合イコールになると思うんだけど
ここに多少があなたの前でだけ
占める理由ありますか
しばらくはあるって答えると思いますよやっぱり
この人の心の中で
そういうことが起きているし
空いていたのはたまたまに過ぎないし
この人にとってはですね
今日はたまたま言ってたけど
次回からどうせ占められるんだよって
絶対思うと思うんですよ
これは本当に自分に起こるいいことは
全てたまたまですっていう
発想の人にしてみると
確実にそうなってしまうんですよ
だってそうなってない時も
そう解釈されるんで
我々は残念ながら
現実というものを必ず解釈する人間って
生き物ですし
その上空想力というものを持っていますから
自分の前で扉が閉まるに違いない
という空想を常にいつでもやろうと思えば
できてしまう
だから空想ってやめておくに限るんですよ
現実に起きたことだけを見ていった方が
多分その人の運勢はるかにいいものになるんですね
よっぽどのことがない限り
運が良くて
運が良いことを疑っていない人は
いちいちそんなところで
閉まる空想しませんから
で閉まる空想さえしなければ
空いてる空想ってしないじゃないですか
わざわざ
はいで空いてるからね
ここに難しさがあるんですよね
空想は大体悪いことになってしまうし
悪いことを空想している人は
その時現実に何が起きるかを見ようともしないし
なぜそんな悪いことをわざわざすると
空想するのかを考えようともしないし
しかも人との繋がりも絶たれているので
いろんな意味で
運の悪さが集中してきているような感じしか
えーと
なんつうんだろうな
想像のしようがないということになるわけです
だからえーとね
友達がおむつを捨ててきているのを
目の当たりにしてるのに
うちの奥さんはそれを切り出すことが
その時はできなかったといったことが
起こってしまうわけですよね
でもそれはえーと
例えばそれはそれで礼儀正しいとも
言えるじゃないですか
この世のモラルという話はえーと
その種の行動を決して咎め立てもしなければ
ストップもかけないから
えーと
そういう行動は自然とある種の人にとっては
なんていうのかな
促進されていってしまう
ただその時自分がどう解釈しているか
すごく大事だってことですよ
甘えが犠牲になることへの解釈
それは私が犠牲になっているって
どうしても解釈しがちだということですよね
たまたま道を譲って
ここは閉まらなかったけど
それはたまたまであり
私はやはり犠牲になったんだと
そうすると
結局のところその人にとって
えーと
現実に犠牲になったっていう事実は
残ってしまうんじゃないですか
ここをどう捉えるかなんですよね
あの私が譲った時は
閉まらないことは確信してるから
犠牲になったという感じは
一向にないわけですよ
だから譲ったという感じも
あんまりないわけですよね
言ってしまえば
そこに解釈がどう入るかっていうのによって
現実の見え方が変わっていく
たまたま1回や2回
これも何度も言いますけど
1回や2回甘えさせることが犠牲になっても
それはなんてことないですよ
でもこの犠牲になっているという信念の人は
多分1日中1年365日
数万回に当たって犠牲になり続けるから
やっぱり生きていくことが全部辛いわけですよ
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
うん
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