セルフカウンセリングのための特集
おはようございます、グッドモーニング ボイスです。6月16日、朝の7時40分ですね。
一番王道にうまくいっているパターン。 明日17日がいよいよですね、セルフカウンセリングのための
セルフカウンセリングとしての特集 第2回ですね。何名か参加者さんがすでにいらっしゃるんですけど、
まだお席ありますので、ここは言ってもリアルはですね、 広い会場じゃないので、実は残席1だったりするんですよ。
でも残席が明日であるという状態なので、 よろしければ覗いてやってください。
オンラインでももちろんご参加いただけます。 こちらはですね、もう別に残席とか大して問題じゃないので、
どた参加でも全然明日、急に2時からとかでも 結構ですので、よろしければお願いします。
もう一つお知らせあったかな。今のところはないのか。
7月1日にですね、もっと楽に仕事するタスク習得セミナーと、 久しぶりに自分自身のタスク習得感というのを銘打ってやろうと思っております。
これは7月1日の13時からは会場なのかな。 ちょっと厳密じゃないんですけど、大体その辺。
13時半、14時ぐらいから。 大体私がこの日はガッと自分のタスク習得を喋るつもりでおります。
そんなに喋ることあるのかと言われるかもしれないけど、 結構あるような気もするんですね。
失敗は許されるプロジェクト
今日もそういう話をしようと思ってるんですが、 局省にしてはいますが、局省にしているがために、
いろいろご説明しなければならないところが出てくる。 一番あれなのがプロジェクトかな。
もっともですね、このプロジェクトっていうのは、 人によってイメージしているものがものすごく違いますから、
ある意味どんな場合でも説明を要するということには なるようなと最近思うようになったんですよ。
私なんかがだと本書くっていうプロジェクトですけど、 そんなの一般的じゃないですが、
そんなことを言えばね、私つい最近聞いたんですけど、 土木工事の建設現場のプロジェクトはタスク習得でやるんだけど、
結構うまくいくんですよみたいな。 ご感想いただいただけなんですけどね。
これはじゃあみんなが体験するかというと、 そんなこともないですよね。
本も珍しいかもしれないけど、 土木工事の建設現場でタスク習得を使うというのも、
一般的かというと僕は別にそうも思わないので。
そして結構ですね、ああいうのっていうのは、 僕これ昔デパート建てるお話聞いたときも思ったんですけど、
カッチリしてそうなもんじゃないですか。 設計図きちっと引かれて、
まんまこの通りにまさにトップダウン逆算でねって思ったんで、
そういうのはさすがにトップダウン逆算でしょうと思っていたら、 意外にその現場の人が、
いやいやあれは結構その場その場で臨機応変にやっていかないと、
入ってくるテナントも変わるし、 うんみたいな話を聞いて、
そうか、こういうそんなね、 20何階建てみたいな建物を建てるときすら逆算が通らないならば、
本で逆算通るわけないなって思ったんですよ。 本なんて遥かに中身がソフトだから。
鉄筋コンクリートの建物は、 何を先にやって何を後にやるっていうのが、
かなりはっきりしているはずですよね。
でもそんなに計画通りに行くものではない、 というお話があるならば、
本書くのはですね、そんなまずこれやって、 次にこう書いてみたいに行くわけがないですよね。
誰もそんなことを期待していないし、 そうじゃなくてもできちゃいますから。
現に今松崎、J松崎さんと協調で本書いてるんですけど、
進め方が彼と僕とでも全然違うなっていうのを 感じるんです。
協調でもですね、やっぱりこう一定のコンセンサスは もちろんありますよ、協調ですから。
編集さん、私、Jさんと3社で、 実際にはもうすでに入ってきている方の中には、
出版社さんのもうちょっと偉い人とか、 多分営業さんとか入っていらっしゃるから、
全体で関わってる人間の数を考えると、 もう当然2人ではありえない。
でもやっぱり各々と言いますか、 やることはやっぱり違うし、
その進め方も違うんですよね。
そしてこう進めましょうという コンセンサスがあるにせよ、
その線に沿っていたとしても、 1人1人やっぱりやること結構違うんですよ。
だから勝手に図面書いちゃダメだと思うんですよね、 本当に。
勝手に図面書いたって構わないんですよ。
ただその図面通りにならなきゃいけない っつったって無理だっていう話ですよね。
だから私はそういうふうにも、
これは当然常識だし、 そうなるに決まっているだろうと思います。
プロジェクトというのは1人1人で考えて、
その人らしくやっていけばそれでいいんじゃないかと。
ずっと放置しておくとかは、 さすがにあんまりどうかと思うんですけれども、
それもやっぱり、
こういうことを言うとまた厳しいなって 感じを抱かれる方もいらっしゃると思うんですよ。
ずっとあれ放置しちゃってるよみたいな。
それはそれで理由あると思うんですよ。
長らく手がつけられなくて、 すっごい気にかかってるみたいなのもあると思うんですよね、人間は。
しょうがないんですよ、そういうのはそういうので。
しょうがないと思ってないと、
そこに命かかってるみたいに思うと、
全部がスポコン漫画みたいになっちゃうじゃないですか。
それじゃやってられないと思いますから。
その辺はうまくいけばうまくいくし、
うまくいかないときはまた考えましょうみたいな感じでですね。
吉井新監督の話題
今私、話がなかなか文筋に戻ってこられませんが、
千葉ロッテが調子いいわけですよ。
6月下旬まで守衛というのはあれだって思うんですよね。
6月下旬だけ守衛とかあるんですよ、あのチームは。
だけど6月下旬まで結構長いこと守衛、 付近にいるっていうのは珍しくて、
昨日も野球テレビでやってたんでほぼずっと見てたんですけど、
吉井監督ってやっぱりすごいなって、今の吉井新監督、 今年からの監督なんですけどね。
なんて言うんだろう。
うまくいってないんですよ、うまくいってないんだけど、
うまくいってないなりにめちゃくちゃいろんなことを試すんですよね。
めちゃくちゃいろんな人を試して、失敗もするんですよ。
結構ひどいなって感じなんですよ。
昨日は今、セリーグではあんまり好調とは言えない、 ドラゴンズとやって、名古屋でね。
でもどっちが主役でどっちが最下位なんだか わかんないような試合なんですよね。
どっちもどっちみたいな、お互いまずい攻めとまずい守りと。
ドラゴンズは守りはすごい良いんですけどね、 攻めがまずい感じで、
ロッテはどっちもまずい感じで、 でも引き分けになっちゃうんですよね。
こういうのがやっぱり好調な監督の やってることなんだろうなって感じがするんですよ。
妥当なことをやってるとは限らないんですよね。
大体そうじゃないですか。
これはよく僕、野球見てて言ってしまうんですけど、
成績の良くない監督さんがやっていらっしゃることって、
ロッテって日本新記録の18連敗という記録を持ってるんですよ。
こういう時の監督さんがやってることって、 無茶苦茶なこととかでは全然ないんですよね。
ファンの目からすると、もうこれしかないよなっていうね。
ちゃんと使ってるピッチャーもバッターも、 配置も打順もすごく適切なんですよね。
これ以上適切にはもうできないだろうとやっていながら、
どんどん負け続けるというね。
こういうことが起きてしまうんですけれども、
今の主役走っている時のヨシー監督とかは、
結構ここでその人使うんだっていうようなのを 使うんですよね。
やっぱり僕が思うに、だから組織でですね、
すごい脱線してますが、
これもよくセッションとかでお話するんですけど、
組織と自分自身のあり方
組織で自分がここで働いてていいんだろうかと思ったら、
絶対こういうことを覚えておいたらいいんじゃないかなって思いますね。
だいたいまずくいっている組織だとしても、
めちゃくちゃ人員はきちっとしてるんですよ。
その人がそこにいるのは当然なんですよね。
18連敗中のチームの4番は、
もう誰が見てもその人を4番にするしかないでしょうという人を 4番にしておいて連敗しちゃうんですよ。
もう素人目にもそうなんですよね。
だから人事って多分すっごい誰が見ても客観的には こうするしかないっていう形になってると思うんですよ。
そうじゃなくない人事ができる人っていうのは よっぽど優秀な人で、
それはかなり結果出ているはずです。
そうじゃないと多分その人事はダメだってことになって、
違う人に取って変わられるんじゃないかと思うんですよね。
だいたいでも野球とかは勝敗がはっきりするから、
長い目で見て頑張ってるんですよっていう話が通りにくいんで、
だってそう考えるじゃないですか。
最下位とかの方を突っ走ってればですね。
そりゃ若手試すとか、
今年は諦めてどんどんすぐ結果出なくてもいいんだみたいになりそうなもんだけど、
そういうのはなかなか許されないから、
だんだん打倒性の高い人事になってっちゃうんですよね。
そして負けが込むと。
そうなってからいろいろ試してみても結構無駄で、
ますます酷い結果になるみたいになりやすいんですけど、
だからそういうふうに思うとですね、
試すってのは容易なことじゃないから、
どうも私はこのところで能力もないのに、
一人だけ特別扱いされているなんてことは僕は起こらないと思うんですよね。
野球みたいなシーンではつくづく思います。
試したいわけですよ、誰だって。
なかなかその結果出ないときは得、
でも大体ですね、結果出てるチームの方がすごい不思議な人事が試されていて、
しかもそれがそこそこいい結果が出ているからこそやってられるんですよ、そんなこと。
本当に昨日も一昨日もそうですけど、
そういう人事は無理がないでしょうかみたいなので、
吉井監督は勝ったり悪くても引き分けたりしているから、
あれで通るんですよね。
ああいうのって僕はすごいダメになるなって思うんですよね。
自分がそこにいることに疑問を持っちゃダメだってことなんですよね。
間違いなく疑問符がつくにも関わらず抜擢されている点なら、
その組織は多分かなり上手くいっているような気がします。
組織が明らかに全然上手くいってないなら、
多分自分がそこにいるのは相当妥当なんですよ、残念ながらね。
残念ながらね。
音楽とバイオリンの練習
私の今娘が通っている依然としての生活が続いているんですけど、
ところでもそうで、
うちの子はバイオリン3歳くらいからうちの奥さんがひどく熱心でやってたわけですよ。
毎日新聞なのかも知らんけど、コンクールとかまで出て頑張ってたんですよ、小学校時代とか。
なんでこんなに頑張らなきゃなんないんだって。
大変なんですよ、バイオリンの練習って本当。
めっちゃ泣いてましたからね、そんなに泣く子じゃないんですよ。
5歳くらいで歯医者行って結構厳しい処理をですね、
なぜそんな厳しい処理をあの時したんだって。
すごい腹を立ててたんですけど、十六さん。
全く泣かないんですよ、そんなことでは。
でもバイオリンの練習ではめちゃくちゃ泣いてました。
この時に泣いたってほんとないんじゃないかなっていう感じですからね。
今の学校では別にバイオリンの部活とかやってるんですけど、
一番上手いのはうちの子なんですよ。
もう一人二人いるけれどもそんなもんなんですよ。
だからつまりオーケストラやってしまうと結構うわーっていう感じで、
頑張れみんなみたいな感じで、余計なこと言わないですけどね。
僕はバイオリンなんて音も出せないんで本当に。
あれ音出すのすら大変な楽器なんで。
そういう感じで見ているんですけど、
人事は絶対ああなってくると抜擢とかしてる場合じゃないんですよね。
だって弾ける人が非常に限られてくるから、
コントラバスと禅の主人公
弾ける人は自動的にこことこことここみたいなんで、
弾けなくてもちょっとでも目があれば絶対あなたはコントラバス。
とにかく音出せるんだからコントラバスみたいになってしまうわけですよね。
こういうところで私実力不足だからとかって悩んでる場合じゃないじゃないですか。
他にいないんですから。
だから思ったんですよね、こういうのを見ていて。
人事ってのは誰が見ても妥当になっていく。
特にその組織が組織力としてあまり十分でない場合、
人材にやや欠けてるなって時は、
本当に誰がやっても同じになっていかざるを得ない。
先生がやってもそうだし、先輩がやってもそうだし、
自分で考えてもそうなるし、
私みたいに部外者が見てもそうするしか多分ないんですよね。
ここで、うっていうのを抜擢させて一定の結果に出せる人は天才的なんですよ、きっと。
ものすごい人を見る独特の能力があるんですよね。
そういうことがたまたま起きていて私は抜擢されてるんですけど、
実力が不足してますなんてことはきっと起こらないんですよ、多くの場合。
私も今まで居酒屋だの、秋葉原だの、それこそどこもサービスだの、
あんまり会ってもいないようなところで働いてきたけど、
今思うと人事の人の見る目ってすごいちゃんとしてんだなっていうのをつくづく感じます。
でかい組織でも小さい組織でもですね、適材適所というのは本当にあるんだなって思います。
特に私は居酒屋で働いてた時、サブのホール長になった時、
ちょうどぴったりだったんだろうなって思いますね。
他にもっといればそういう人になったんでしょうけれども、
でも僕はホール長には決してならなかった。やっぱりサブのホール長なんですよね。
非常に妥当だったなって今から思うところがあります。
そんなことはどうでもいいんで話を元に戻しますね。
タスクシュートと主人公
15分だよ。
今日は100チャレ編です。
これはですね、タスクシュートの話をする時、僕は今や唯一言いたいことなんですね。
唯一これは言っておきたい。他はもういいぐらい。
特に手帳編を1ヶ月弱ですね、まだね。
見ていて、手帳編始まってからですね、これだって思っているのが主人公の話なんですね。
禅の主人公の話。
これしか僕は今タスクシュートで本当に言いたいことはないんですね。
禅の言葉なんですよ、主人公というのは。
ちょっとね、字が難しいんですよね。
とにかく和尚さんが昔座禅しながらですね、大きな声で主人公って呼びかけるって話なんですよ。
中国の話だったと思ったかな。分かんないですけどね。
主人公って自分のことなんだけど。
そうすると自分で自分の問いに答えるんですよ。
はいと答えると。
目を覚ましているか。はい。
これを彼はずっと繰り返していて、
この和尚さんもこれ以外のことを教えなかったみたいな話があるんですよ。
本当かどうかは知りませんけどね。
だいたいそれで弟子が残るかなっていう気もします。
こういう仕事をやっているとそういうことまで気になってきますけど、
とにかくその辺を考えるんですよね。
私はですね、何つうんだろうな。
タスクシュートってこれを非常にやりやすいんですよね。
でも忘れることはありますよね。
こんなのは一人二役でずっとやってるんですよ。
今何してる。ご飯食べてます。みたいな。
よく噛んで食べろよ。みたいな。はい。みたいな。
こういうのを心の中でですけどね。
口に出してもおかしくないシチュエーションでは口に出すこともありますが、
ほぼ心の中でやってます。
なんでこれをやってるといいんだろうと思うんですけど、
2つあって一番やっぱり僕がこれをやりたいのはですね、
本当は混乱した時なんですよ。
簡単に言うと恐れと不安が強い時。
そして怒りが湧いてきたような時。
これをやりたいんです。確実に忘れずにっていうことなんですね。
例えば電車の中とかで、
理不尽なことを急に誰か、
僕も相当おじさんなんで、
ぜひおじさんとか言っておいて、
全部おじさんって言ってると自分より年上だと思ってるんだけど、
実は年下なんじゃないかって後で思うことが多々出てきたんですけどね。
もう50ですからね。考えてみりゃ。
言われて、ムカッと来た時に、
主人公はって響くんですよ、頭の中で。
これが響いた時はもう絶対大丈夫なんですよね。
ほぼ何が起きても大丈夫なんです。
まずこの状態を作り出したいからっていうのがあります。
なぜ大丈夫なのかという説明は難しいです、正直言って。
この番組でお聞きの方はよく思い出される、
長寿が対象とかではないと僕は思います。
なぜならば、こうしろあわしろがないんですよ。
腹が立った時には私はだいたいですね、
長寿が対象と一体化しつつあるんですよ。
しようとしてるんですよ。
腹が立つってことはなんだこいつは理不尽だっていうのは、
このようなことがあってはならないだろうっていう、
心の中のルールが動いてるんですね。
それと一体化しそうになってるからイライラするんですよ。
それに対して、
主人公っていう声は違うところから聞こえる感じがするんですよ。
極端な理由と、
多分信じられるかというと信じにくいかもしれませんが、
自分の外からするような感じが私はするんです。
この声が聞こえたときは、
もうイライラとかは全然いけるようになるんですよ。
問題はこの声が呼び出せるかどうかにかかっているんですね。
タスクシュートとやりたくないこと
もう一つが何かやりたくないことがあるとき、
こっちの方がタスク習得向きかなと思います。
だから手帳編の方でも全然いけると思うんですよ。
例えば今日、
何でもいいんですけどね。
例えば部屋の片付けが、
部屋の片付けって私、
しなきゃならないシチュエーションがないんですよね。困ったことに。
そうだな、
生ゴミ出したくないときとか、
今日は晴れてるからいいけど、
雨がじとじと降ってて、
この周りはカラス除けネットをしなきゃいけなくて、
このカラス除けネットはもちろん美しいものではないわけですね。
そしてこれが水に浸かっていて、
しかも生ゴミと一体化していると、
なかなか素敵じゃないシチュエーションなわけですよ。
嫌だなと思ったときに主人公って呼び出すんですよ。
ほぼ確実に何の苦労もなく、
できちゃうんですよね。
これが本当に自分でも再現するんですかって言われると困るし、
ライフハックというのとは何か違うんですけど、
でも私はこれをお勧めしたいんですよね。
主人公って自分を呼びかけるんですよ。
で、
ゴミの出し方は終わったかって感じなんですよ。
なんでなのかって言われると非常に困るんだけど、
これを呼び出すと、
これについてできなかったってことが今までないような気がするんですよね。
ないんですよ。
これが呼び出せればできる。
どんなことでもできます。
先日雨がザーザー降りしきる中、竹を切ってたんですよ。
僕竹切りとか全然うまくないし、
ノコギリもあるようなないようなノコギリ糸のこしかないし、
時間かかってですね、
汗だくだくになるし、
しかも切ると、
僕は全然なんてことなかったんだけど、
嫌な思いをされる方もいると思うんで、
竹というのは栄養になるんですね。
パンタよく食べてるじゃないですか、ササを。
竹というのは竹の子が相談に程高いんですよ。
もうこれ以上は言いませんが。
切るとなかなかな光景もいいんですね。
だから嫌な人は嫌だと思うんですよ。
大活用なんですよね。主人公は竹ちゃんと切ったか。
って言えば、もう竹は全部切るんです。
あえて説明を試みると、
この世の主人公は私なんですね。
私の世界では。なぜか知らんけど、
私はこの世界の中心にいちゃうんですよ。
好きでいるという場合ばかりではないんですけど、
やっぱり主人公なんですよね、自分が。
これが一番不思議なのはですね、
例えば蔵園圭蔵さんのセミナーとかで、
彼が主人公じゃないですか、その場では。
でも、どう頑張っても彼がど真ん中にいる感じは、
私の世界ではありえないんですね。
やっぱり私が真ん中にいて、私が真ん中にいて、
彼を見てるんですよね。
彼はあくまでも客帯であって、私が主体なんですよ。
これがそうだ、もっと昨日のような時がいいよね。
野球見に行っても女じゃん。
どう考えても主人公は角中選手だったりするわけじゃないですか。
でもどんなに頑張っても角中が、
私の見る世界のど真ん中にいるって感じにはならない。
でもああいう時ちょっと不思議ですよ。
あっちが世界の中心だよなと思いつつ、
でもやっぱり自分を中心に世界は360度ある感じがするんですよね。
どうしてもする。
私はただ座って見たり応援したりしてるだけなんで、
明らかにモブ側にいるんだけど、
自分が主人公だという感じは抜けないんですよね。
生き方と役割について
むしろあの時抜いてみたいんですよ。面白いから。
でもやっぱりそういう優待離脱みたいなことは僕にはできなくて、
やっぱり中心には自分がいるんですよ。
主人公は自分なんですね。
では主人公ということは、
この世は舞台みたいなもんじゃないですか。
この世が舞台みたいなものであるならば、
主人公は何をしてもいいわけじゃないですか。
つまりこの世が芝居みたいな、
この世界で起きていることが芝居みたいなものだとするならば、
私はどんな役になって、
どんなことをしてもいいわけですよ。
ムッキョはこういう考え方好きなんですよね。
私は寺に住んでいたもんですから、
こういう話が日常反時で飛び交っちゃってるわけですよ。
飽きるんですよね、はっきり言えばこういう話に。
またそういう話かみたいな、そういう話ばっかりですからね。
1日1個ずつ、
10年かけて3000個ぐらいこういう話が、
まあ重複音いっぱいあるんですけどね。
坊さんというのは老人ですから、
話がよく繰り返されるんですよ。
そういうわけで、この主人公の話は、
タスクシュートやってる時には常に僕は意識していたことなんですよ。
マインドフルネスとタスクシュートに似てるっていうのと、
似てる話なんだけど、僕は禅の方がはるかに実は、
謹慎感が強い。
それは自分がそういうところにいたから、
親近感が湧くわけですね。
この主人公で自分がやるということは、
竹切る時は竹切る役にすっかり。
主人公というのはそういうことができるから主人公なんだと思うんですね。
上手い役者と下手な役者とかいると思うんですけど、
この世の中に生きるということが、
役者として振る舞うということであれば、
やっぱりそこで一番、ほとんどやっていくのがいいじゃないですか。
一番良くないのがある意味では、
一番良くないのがその役を下りちゃうことだと思うんですよね。
でも破れないケースはあると思うんですよ。
こういう役を下りた時のためにやるのが、
カウンセリングだと思うんですけどね。
この話は今日は、
もうちょっと上手く出てきたらやるとして、
とりあえずまずは主人公として頑張ると。
だから結婚生活というドラマがあるならば、
やっぱりそこでですね、
例えば金切り声を上げて喧嘩するだろう、
皿を投げるだろうということが起きたとしても、
やっぱりそれを、
役者の精神世界
役をやり抜くというか、
演じ切るというじゃないですか。
それがいいと思うんですよ。
でも致命的なことにはならないんですよ。
なぜならば、役だ。
お芝居ですから。
でもお芝居なんだけど、
お芝居であるからこそかな、
致命的に演じ切ったほうがいいじゃないですか。
なぜなのかって言われると、
説明できないんだけど、
何となくですよ。
何となくやってる以上、
いやもうダメだ、
ここでやってられないと言って、
違うところへ行っちゃうというのは、
役者としては下手だなって思うんですよね。
今娘を食事作って送っていくというのが辛いな、
みたいな時にですね、
主人公って言われてみると、
そうだよなって思うんですよ、やっぱりね。
変なもんで。
だってそういうお父さんの役ってあるじゃないですか。
お父さん役で、いや辛いな、本当に辛いんだけどさ、
やっぱり娘のためだから弁当作ってあげてっていう役は、
あり得るじゃないですか。
そういう役にするわっていうのもありだと思うんですよ。
所詮芝居である以上は。
でも何をやろうとある意味そんなことを言えば、
同じだと思うんですよね。
これが僕がよくタスクシュートで言ってるもう一つのことなんですよ。
何をやっていても価値が変わるはずないんですよ。
お芝居なんだから。
お芝居なのにお母さん役はお父さん役よりもいいとか、
いやお母さん役っていうのはいつもお父さんの言うことばかり聞いていて、
価値低いから私はお父さん役をやりたいんですとかって、
なんか僕はそれは役者としては駄目な意見なような気がするんですよ。
どの役も同じだろうと思うんですよね。
価値としては。
全体で成り立っているものだから。
だからトイレ行くのも役なんですよ。
特にトイレ行く時とかは忘れなくなったんですよね。
主人公、ちゃんとトイレ行くようにっていう感じなんです。
長寿画ではないんですよね、これはね。
長寿画ってのは、
やっぱり役の中に置いて振る舞っちゃう側だと思うんですよね。
すごく感情的になるから。
この主人公言ってるのは、
なんとなく映画監督みたいなものなんで、
あんまり感情的になっちゃダメだと思うんですよね。
映画監督があそこで斬り殺されるのは、
なんか主人公かわいそうだみたいに思うのはおかしいじゃないですか。
やっぱりそこで斬り殺されるのがいいならば、
そこで斬り殺されるのが良いならば、
良くないですけどね、これはね。
良いならばそれで良くはないけど、
これは口が滑りましたが、
少なくとも竹を切るぐらいは絶対ありだと思うんですよ。
竹切らされて理不尽だわと思うようでは、
お芝居としてはダメだと思うんですよね。
だからこれを禅の人が昔言ってたっていうのは、
当然マクベスと同じなんですけど、
世界は影に過ぎないってやつだと思うんだけど、
要は演じられてるドラマみたいなものなんだから、
頑張って演じなさいねってことであって、
そこの敗役に死の物を言うってのは、
役者としての覚悟
あれですよ、どうしても耐えられないという場合は、
ちょっと変えてくださいっていうのは、
ありだと思うんですよ。
それもそれでお芝居の一環だから、
ちょっとこのお母さんに皿投げられて怪我する役は、
無理ですっていうのはありだと思うんですよ。
だから僕は離婚がダメだとは思わないし、
転職がダメだとは思わないんだけど、
でもやれるところまではやってみましょうっていう感じはあるんですよね。
竹ぐらいでやってられないって言ってたら、
役なくなっちゃうんじゃないかっていう感じがあるわけですよ。
だからお金がないときは貧乏人の役やって、
お金持ちになったらお金持ちの役やって、
お金持ちになったらお金持ちの役やって、
お金持ちになったらお金持ちの役やって、
っていう風にやっていけばいいんじゃないかなと思いますね。
うちの娘の父親役ならば、
その父親役をできるところまでやってって、
そう悪いものでなければですね、
寝不足の中で頑張るっていうのは、
やっぱり寝不足にならなきゃダメだと思うんですよ。
だから寝不足になるようなタスクの時間の使い方はダメだっていうのは、
僕は同意しないんです。
寝不足の中でやるっていう役が、
この世の中にはいっぱいあると思うから、
それは寝不足になってやった方がいいと思うんですよね。
役を演じ切るという。
でも寝ちゃうっていうのはダメだと思うんですよ。
寝不足の中で頑張るのと寝るのは違うじゃないですか。
つい寝落ちするとかではないんですよね。
それはやっぱり寝不足の中で頑張る役をやるんですよ。
寝落ちしちゃうんだったら、寝落ちしちゃう役をやるんですよ。
寝落ちしちゃいましたと、うまくやるんですよ。
これをやるというのを思い出すために、
やっぱりなんでも役をやったらうまくやれるのが主人公じゃないですか、
という話なのかなと思っているわけですね。
主人公になるための努力
そのためには、
3つの主人公でいることを忘れちゃダメだと思うんだけど、
これをよく忘れるんですよ、私は。
だから忘れないためにですね、
どんな時でも、特になんでもない時ほど、
これをいちいちやると。
主人公が水を飲む時は、ちゃんと水を飲む役を自分らしくこなす。
どんな飲み方をしてもいいんですよ。
いかにもやんちゃな飲み方をしてもいいし、
すごく上品に飲んでもいい。
その人らしくやれればそれでいいんですよ。
だから、何をしちゃいけない、何をするべきだっていうのはないし、
何をどのように、
タスクシュートによる主人公意識の持ち方
どんな風に振る舞うべきだっていうのもないんですよ。
ただ、それが役をきちんとこなすという観点を忘れさえしなければいいんだろうなっていう風に思うんですよね。
これが私がタスクシュートで今考えている唯一のことなんですよね。
今日というこの物語の主人公は私ですってことなんですよ。
何をどういう風にやるかは分かったもんじゃないけれども、
そしてこの台本通りには進まないんだけど、とりあえず一応台本はあります。
トゥデイリストっていうのはその台本なんですよ。
そして、いきなり役がいやいや、そこちょっとここでアドリブで変えようってなったらすぐそれに対応できる。
でないと、やっぱり主人公としてはちょっとあれかなって思うんですよね。
まあ下手にやっちゃうっていうのもあり方なんですけどね。
だから何でもありになるんですよ、ある意味では。
でもこの何でもありなんだけど、ただただ主人公であるということを忘れないと。
特にやっぱり危機に陥った時はこれが効くと僕は思うんですよね。
危機を乗り切る主人公の姿っていうのを演じられるかどうかってことですよね。
乗り切れずに果てちゃいましたみたいな、そういう主人公もありだとは思うんですよ。
そういう役はあるわけですからね、この世の中に。
だけれども、いずれにせよこれがある意味ではお芝居に過ぎだってことを忘れないことと、
だからこそ徹底的にやり込む、コミットしきるっていうのを心がけるってことと、
自分が主人公であるっていうことを忘れないってことと、
もう一つが、なぜかそれを配役したりストーリーを作ったり、
私を見ている人がいると、これがなんだかよくわからないんだけどそういう人がいると。
だから主人公に対して呼びかけることができる存在があって、
なぜかそれはある意味では自分自身であるってことなんですよ。
これを忘れさえしなければ、そんなにそんなにタスクぐらいで辛いことはないんじゃないか。
監督の役割とプロジェクト進行のミステリアスな結果
これに対してタスクって言葉はどうかっていうのがそうそうあったんですよね、先日。
というかいただいてるんですよ、そういう疑問を。
これはもう基本なんですけど、タスクシュートでは。
やむを得ませんので、すべての配役はタスクと呼びます。
タスクシュートなんでね、しょうがないんですよ。
それはタスクっていうのが妥当かどうかっていう話をし始めると、
こっちに関しては演技、これに関しては生活、こっちはタスクと呼びましょう。
っていうことになっちゃうんだけど、そんなことをやってられないので、
そしてそんな配分に意味がないので、やっぱりとりあえずこれは全部タスクと呼ぶことにしているわけですね。
シーンなんとかのカチッてやりやすいんですけどね。
あれを繰り返している感じなんですよ。
だからそいつは誰だよって言われると困るんですけど、そいつは監督みたいなもんですよね。
監督というのがまさに、監督と言っても別に何も監督はしてないんですけど、
私の生活を監督はしてないんですけど、ただただ見ているって感じなんですよ。
ただただ見ている。そしてただただ配役し、うまくいくように、祈ってはいないんだけど見守っているぐらいな感じかな。
うまくいくっていうのは、お金を落とさないとかではないんですよね。
失敗しないとか。失敗もシーンの一つなんだから。
変な言い方ですけど、うまく失敗すればいいんですよ。きちんと失敗する。
そしてきちんとショックを受ける。
嫌な思いをしたら、ちゃんと嫌な思いをしたように振る舞うっていう感じなんですよ。
これができれば、何も問題はないんじゃないか。ある意味。だって問題ってないじゃないですか、この場合に。
あれですよ、でも致命的なこと、でもですね、ここがちょっと難しくて、
これは100チャリ編だからそこまで言うことはないんですけど、
聞きに際してほどこの種の声を聞くっていう話はよく出てくるんですよね。
はっきり言って、食事してる時にこの主人公呼び出すのは、そういう和尚ぐらいなもんなんですよ。
私だってしょっちゅう忘れるんですね。タスクシュートやってるから思い出せるようなもんであって。
タスクシュートのいいところは、僕の中では、全ての活動の前に主人公を呼び出すぞっていう意識を持つことができるので、
これが圧倒的にやっぱりいいんですよね。
プロジェクトの進行なんていうのはですね、最初の方の話に戻りますけど、
この監督に任せとけばいいと、それでうまくいくのって言われると本当困るんだけど、
うまくいくんですよね、これがまた。
不思議なことにですね、どこにいるんだかわからないその監督みたいなのが、
プロジェクト進行はちゃんとやっといてくれてるんですよ。
私はただプロジェクトを進行させるという主人公の役をこなせば、
必ずそのプロジェクトは妥当な時期には仕上がって、
そこそこ、つまり私としてはできるっていうところまで持ってってくれるんですよ。
なぜだっていう話になっちゃうかもしれませんが、なぜはないんですよね、私の考えでは。
世界はイリュージョン?
これはそういうふうにこの世の中でできてるんじゃないだろうかって感じがするってことです。
世の中の偉い人が言ってること、だいたいみんなこういう感じのことですからね。
この世はイリュージョンだとか、これはリチャード・バックですけど、小森のジョナサンが書いた人。
でもリチャード・バックが言い出したことではもちろんないですよね。
だいたいマグベスに出てくるぐらいだから、もっとずっと前からずっと言われてることですよね。
マトリックスだって結局そういう映画だったじゃないですか。
この世がイリュージョンであることを、いかにも今風のシステムと機器を使って実現しているかのような顔をした物語ですよね。
ああいう考え方っていっぱいある。
僕らはなぜそう思うかというと、やっぱり近くと現実が一致してないっていう証拠をそこかしこで見てるからだと思うんですよ。
一番わかりやすいのがあれですよね、ミュリリアの矢印ですよ。
同じ長さの線分が、下が長く見えたり上が短く見えたりするという、近くというものは現実を正確に映し取ってないぞっていう話は、私たちはもうみんな知っているはずなんですよ。
よっぽどのことがない限り、見ている通りに現実はあるわって信じきれる人は少ないと思うんですよね。
本当にそうじゃない証拠は山のようにありますし、
そもそも現実が見るものなのかって、ビジュアルなのかっていうところからしても疑問じゃないですか。
だから、そういうことってあります。
つまり、私たちが互換で要するに得ている情報とは違う現実があるよねっていう話があって、
見えてるこの世の中とか聞こえてるこの世の中とか言ったものは、結局のところ、映像だよねって話がありますよね。
映像だってことになったら映画だよねって話とすごく接近してきますよね。映像なんだから。
本当のものではない部分が私たちが知っている世界なんで。
だから、本当のものじゃないんだけれども、ちゃんとそれにコミットしてやった方がいいよみたいな、そういう、
北山治さんが精神分析家の北山治さんが言ってたことなんですけれども、
この世の中というのは全部を本気にできないようにしか思えないようなところがあるけれど、
それについて全力で取り組んだ方がいいというのを知っているみたいな、そういう表現でしたけど。
言わんとしてることはそういうことですよ。
これはお芝居に過ぎないんだけれども、だからといって適当にやっちゃダメですみたいな、そんな感じなんですよね。
それが僕の、あの話では主人公ってことになるんですよ。
途中チラッと言いかけた、この役降りたくなった時、カウンセリングが出てくるっていうのは、
つまり、この役はとてもこなせません、つらすぎますって言った時には、
舞台の袖みたいなのも降りて、演技指導みたいなのを始めたりしないかもしれないけど、知らないですけど、
あっても良さそうじゃないですか。じゃあちょっと裏に回って、練習しながら適当な役を考える、
これがカウンセリングってことなのかなって思うんですよ。
そうしてまた、演技になったら演技を始めると、そんな感じがするんですよね。
そういう意味で、ざっくりとしたスクリプト、まさにスクリプトなんですけど、
ざっくりとしたスクリプトはタスクシュートでありまして、
その記録っていうのは、つまり、この時うまくできました、
この時ちょっとうまくできませんでした、みたいな、覚え書きみたいなもんだんですよ。
だからあれをやたら間に受けるのはダメだと思うんですよね。
なんかですね、このログがあるから、次やった時はこうなるから、こうしようっていうのは、
ある程度今の話にマッチするんだけど、毎日毎日与えられる役は微妙に違ってですね、
役者としての姿勢
毎日毎日振る舞うこの舞台も割と大きく変わるんですよ。
だから前の通りにやろうっていうのは、私はおかしいんじゃないかと思いますし、
前の通りはないんです。やっぱ舞台設定が毎日毎日変わるんですよ。
天気も毎日毎日変わるし、全く同じようにしていればOKっていう日はないんですよ。
だから過去にこうやった時、どうしたんだっけっていうのを見に行くのはいいと思うんですよ。
あれを毎日のように読み込んで、どんどんどんどんブラッシュアップしてうまくなるぞっていうのは違うと思うんですよね。
なぜかというと、それは今日の役をこなすっていう部分がすっ飛んでる感じがするんですよ。
これがだから今ここって話になってくんじゃないかなと。
今ここでちゃんと役ありますから、どんなこと行為でもそれは役なんで。
どんな行為でも、水飲むのですら役なんで。
だからなるべく思い出せた方がいいんですよ、主人公やってるんだぞということは。
降りてる時間がないっていうのがですね、何もしていない時間はないっていうのがタスクシュートの表現なんだけど、
舞台降りてる時間は実はないんですっていうのが、
この話なのかなって思ってます。