AppleイベントとiPhone Air
おはようございます。朝っぱらから精神分析第1246回をお送りします。
9月10日水曜日8時12分です。
日本時間での話ですが、本日の午前2時にAppleイベントをやってたんですね。
私はたまたまXで見かけて、なんとなくフォローして、なんとなく見ようと思ったけど、もちろん寝てしまって見てないわけですが、
iPhone Airという新しい何かが出て、私、Airは薄いやつなんですよ。カードみたいに薄いiPhone。
実際に触ってみないとわからないですけどね。
しかし、すごい良いなと思う一方で、そもそもAirに薄いって意味があるかと思うんですよ。
薄さの方に、いつもAirでは強調されるんだけど、重さは書いてない。
iPhoneは別に重いと思わないですけど、Airとは空気のように軽いではなかった。
空気のように薄いっていうと、息苦しい感じじゃないですか。
この番組は何らガジェット系でもなければ、ライフハック系ですらないつもりなので、これ以上iPhoneの話題はしませんけど、
iPhoneは薄くても良いですよ。
でも、パソコンが薄いのは、裸足で本当にそんなに良いのかと。
入れるとき良いのはありますけどね。特にショルダーバッグ系とか、あまり分厚いのは。
でもですね、軽くてコンパクトだと分厚くてもそんな苦にならないけど、
例えば大きくて薄いと結局板が入っている感じになって結構厳しいじゃないですか。
13インチは大丈夫ですけどね。
で、問題が薄い物の何が問題かってですね、拡張機能がないことなんですよね。
それAppleに言わせれば格好良いからまずってのがあって、
むやみやたらにあれ、最もあれなのが昔のいわゆるナショナルのね。
ナショナルは言わないから良いだろうと思って言ってるわけですけど、
分厚いパソコンあるじゃないですか。薄くても軽いんですよ。
私あれがやっぱりね、正しいと思うんですよね。ある意味では。
だってスライドを写そうと思ったら結局、昔ながらのシャリみたいなのがいっぱい付いてるやつをガチャってやるしかないという。
常にですね、スマートに無線でスライドを写せるかというとそんなことはないし、
もう一つすごく大きな問題になるのが給電ってやつなんですよね。
やっぱり給電ができないとあんなに薄くて、いやもうバッテリーもAppleすごくて24時間持つからとかって言うけど、
それはある種の使い方をしている時に長持ちするというだけの話であってですね。
Wi-Fiで繋ぎまくるはバンバン動画を写して、それをスライドでやって、
しかもそれも無線だってことになると、空足にバッテリー減っていくんですよね。
そりゃ家にいる時にもバッチリ充電しておいて、電車の中とかでもスライド作ったりするっていう、
そういうダサいことはせずにスマートにやるんだ。
常にスマートに生きてる人はそれでいいんでしょうけど、そうはいかないわけですよ。
だから給電と例えばスライド投影は同時にはできませんとかね、
そういうことをやると結局のところ分岐のドックステーションとかよくわからないものを繋いで、
全然確かに本体はすげー薄いけど、そこから繋がってるものが異常にあって、
HDMIとType-Cを変換するケーブルとかあったりしますよ、今会場にね。
でもそれを使っても実はうまく変換されないとか、そういうことが起きるわけです。
しかもそれを分岐して、片方から給電してみたいな。
もう完全に繋ぐパズルみたいになっててですね、
それがもう開始3分前ですけどまだ繋がってませんみたいなことになるわけですよね。
そこのところでなんかこう、トランプ2っていうんですかね、
即興劇みたいなことを、じゃあちょっとここで精神分析の面白話しますみたいなことをやって、
繋いでる時間を埋めていくっていうですね、
なんかどうでもいいような技術が、全部実はApple製品が薄すぎるせいで、
エアーと言っているのが何かこう、スパチュキみたいに薄いことが素晴らしいっていうことによってですね、
重さが実はいくらか重いみたいな、1000g切るApple製品のMacBook Airって、
あんまりもう最近期待できなくなりましたよね。
もう期待するなよみたいなノリがありますよね。
タスクシュートの活用術
Windowsだったら600g台でそこそこHDMIもあって、
未だに針いっぱいついてるやつもくっつけられて、もちろん給電も別口でバッチリですみたいな、
決して薄くもかっこよくもないですけどね。
どうなのかなって思いながら、今日のYouTube動画とかを眺めていて、
でもiPhone Airみたいな相変わらず薄さを言ってくるよね。
薄いってのはiPhone thinとか言えばいいんじゃないかっていう、どうでもいいことなんですけどね。
そんなことを言ってるうちに、ある種のポートキャスト5分で終わりますからね。
まだ何もしゃべってませんからね、私。
今の分全カットでも何の問題ないじゃないですか、この番組的に。
朝っ端から精神分析の、どこにも精神分析が出てきてない、未だ。
というわけで、さらにお知らせをここで入れます。
実はですね、タスクシュート完全活用術続編がですね、
30人上限で既に12名までいらっしゃっていて、あっという間に半分なんで、
これ埋まっちゃう可能性があります。
私まだそうは思ってないんですけどね。
埋まっちゃう可能性があるんで、もしご検討いただいてる方、
いや佐々木が前日ぐらいでもいけるだろうぐらいに思われてると思うし、
僕もそう思ってるんだけど、前日分かんないくなってきたんで、
ちょっとチェックしておいてください。
23日、終分の日なんですが、だから20日ぐらいに言っとけばいいかぐらいに、
僕も軽く考えてたんですが、意外と早いんですよ。
こんなに早いことが滅多にないだけに、ちょっと早いなみたいに思っております。
先日言ったからもうこれはいいと思うんですけれども、
タスクシュートを言ってみれば、コンテナーのモニターという位置づけで考えておくということですね。
簡単に言うとお腹いっぱいゲージですよ、お腹いっぱいゲージ。
お腹がいっぱいになっていたり、お腹の調子が悪いときには、
食べ物がどんどん消化されてはいかないっていう、
そういうゲージを見ながら食べ物、つまりタスクを入れていくという考え方を取るんだと。
そういうときにお腹がものすごくいっぱいなのに食べていくと、
被害妄想的になってもいくよね、人間はっていうような話を今度は展開していきたいかなと。
これは全てではないですよ。
でも大事な、僕の中では重要な比喩の一つにこれがある。
つまりタスクシュートというのはコンテナーのゲージであると。
コンテナーは変動する、だからタスクシュートも変動しなければいけない。
それでないと正しいゲージになりませんからね。
そういった話をメインで、タスクシュートと対象関係論の、
ビオンのコンテナーの概念を取り込みながら、
そんなことをするからわけわかんないものが一層わけわかんなくなるじゃんってことになりかねないんですけど、
そこをうまく最近ようやくくぐり抜けられつつあると思っているんですよね。
内在化された対象の影響
だから自分の中では画期的なんだけど、他の人にとってはどうかわかんないですけどね。
相変わらずディレクタンティスト的な人間が何かマニアックなことを言ってるなっていう。
でもそういうのが好きな人もいるからいいんじゃないかなと思います。
ようやく少し本題に入っていくんですけど、
今日は久しぶりに大元の大元の対象関係論というものの対象関係とは一体何を言いたがっている。
どうして対象関係であって対人関係であったらならないのか。
ならなくはないんだけどね。
一言で言うと対人関係ってことになると人間がそこにいなきゃいけないだろうけど、
そんなことないじゃんってことなんですよ。
もう非常に私しょっちゅうやっている交差点のメタ波で言いますと、
赤信号でもまあ車も普通は止まります。
人が全くいなくて車も全然通ってないものすごく田舎の道で果たして赤信号だからといって横断歩道を渡るのをやめてずっと待つかっていうと、
そこはちょっとなんとも言えないんだけど、それでもですよ。
赤信号を渡るとなると何か背徳感とかいう言葉が割と凝々しい言葉が出かねないじゃないですか。
これまさに人間ですよね。
賢いチンパンジーに言ったら多分アホかって言われると思うんですよ。
いやなんでそこで待つ。
意味全然わからんみたいな。
仮に赤信号というものの意味がわかっても多分そこで待つ意味はわからんっていう。
多分そもそも意味っていうものがわかんないですけどチンパンジーではね。
言われると思うんですよね。
で、我々というか我々じゃない。
すいません、我々言っちゃうんですけど。
対象関係の考え方になってくると、これは推進分析一般で対象関係出てこなくてもいいんだけど、内在化された長時間対象っていうものが出てくるんですよ。
そこで。
要はお母さん役が、お父さんでももちろんこの場合です。
お父さんなりお母さんなりが心の中に入ったから、その人はお父さんやお母さんが、いやダメだよ、待たないとダメだよという目の前にいる人が言わなくても、その人をお父さんやお母さんがいるかのように振る舞えるというのがかなり原初的な子供の一番最初に子供が学ぶところの内在化された長時間対象なんですよ。
この対象との関係が対象関係なんですよ。
対象がそう言ってるから、私はその対象の言い付けを守ると。
そんなことないでしょっていう方もいらっしゃるかもしれませんが、これは子供を持つともちろんわかります。
子供が、例えば戦後に飛び降りないとかね。
だって降りますもん。
2歳児とかだったら。
歩けるようにすぐなるのは早い子で1歳ジャストぐらいになっちゃうんですね。
はいはいじゃないですよ。
歩くんですよ。
1歳半ともなればかけたりしますね。
かけるということになればですよ。
例えば川に入っちゃうとか、線路に降りちゃうとか、海切りに入っちゃうとか、そこら辺の横断歩道を渡っちゃうとかね。
やりますよね。
ゾッとしますよね。
子育てすればよくわかると思います。
ゾッとしますよね。
この子の中に自分というものを、私ですよ。
私がその子の心の中に入ってて、ほら危ないじゃんって言ってあげられれば、どんなにラフなことかって思う年が必ずあるんですよ。
例えば5階だよここは。
窓を開けちゃダメでしょ。
そんなことわかんないんでね。
ただ内在化された長寿が対象というのは、実は親を大いに助けるわけですし、これがエスカレートするじゃないですか。
例えば菓子パン屋さんに行っても陣列されている菓子パンをもぐもぐ食べだしてはいけないわけですよ。
これがね面白いんですよ。
まだ僕、まだ覚えてます。
私5歳。うちの妹が3歳か。
もぐもぐ食べだしたのを見て私めちゃくちゃ怒ったことがある。
6歳か。
私がびっくりしたんですよ。
本当に。
しかしなぜびっくりしたっていうことなんですよ。
私はその時ただびっくりしちゃったんですよ。
でめちゃくちゃ怒っちゃったんですよね。
パン屋さんね。
マルジュだったかな。
なんかそういう名前のパン屋さんだった。
朝霞にあるパン屋さん。今はないと思いますけどね。
本当に驚いたんですよね。
お店の人はいいですよ。お金払ってくださればっておっしゃって。
で父も遠くにはいて。
で父は笑ってたんですけど。
この時のね、私の心の中に多分私はかなり早い段階で、
私の妹に比べればかなり早い段階で、
幼児がお内在化してたんですね。
つまりうちの親を内在化してた。
で妹はそういうのがそこまで早くはない。
それ2番目ってやっぱりそうなんですけど、
そこって親はですね、慌てないわけですね。
これはね私全く逆だろうと思う。
本来的に言うと逆にするべきだっただろうと。
なぜなら私は幼少児を青森県で過ごしてるんですよ。
4歳までですけどね。
妹は朝霞で過ごしてるんですよ。
朝霞の方がはるかに親を心の中に宿すべき理由は多いわけですよ。
例えばパン屋にパンがおいしそうに陳列されてるのだって、
青森県当時の六市あたりではなかったことなんですよ。
やっぱ朝霞だからあったことなんですよ。
心の中の対象の影響
車もめちゃくちゃ違いが圧倒的に多かったですね、既にね。
いろんな意味でやっぱり幼児が内在化されていた方が良かったのは、
妹にとってであって私じゃない。
私はビクビクする子になっちゃっただけなんですよ。
親は一緒にはやっぱり気をつけますからね。
で、私はそのビクビクがつまり私の怒りになって妹を怒ると。
完全に私は朝霞と一体化してるわけですね、その時にね。
これが対照関係なわけですよ。
私の中の父が怒り、私が妹を父に代わって怒ると。
こんなことですよね、これはね。
だけどここにあるのは対人関係だけじゃないですよね。
心の中の何かがありますよね。
この心の中に登場人物がいるというのが対象というものなんですよ。
対象関係論、精神分析における対象関係学派が言っているところの対象というやつ。
こういう心の中の対象がわちゃわちゃ動き出すためには、
つまりその中でドラマが展開できるためには一定の空間が要りますよね。
だってお人形さんみたいなやつが心の中で動いてるんだから一定の空間が要りますよね。
これを心的空間というわけですね。
心的空間があるということは、
その人の心の中で最低でも全く一番少なく登場人物なりを想定したとしても、
3者は出てこれるってことを言ってるんですね。
これを三角関係というわけですよ、対象関係において。
多分精神分析においてはですね。
2者だったら空間いらんのですよ。
私とあんた、私とあんたでいいんです。
だから2者関係しか存在しない世界に心的空間はなくていいんです。
あったっていいんですけど多分。
2者しか出てこない心的空間があってもいいんですけど、
なんなら人間じゃなくていいですよ。
空間がないんだから。
だって空間いらないじゃないですか。
想像もいらないじゃないですか。
2者しかいないんだから。
ないんだから 私と母しかいない 世界とは私と母でできている世界
このように閉塞的な空間がつまり 心の中にはないわけですね 現実
しかないという世界 それがつまり 対象関係の一番原始的な世界ですね
ナルシシズムと人間関係
私対母 Winnicottっていう人はそこは もう対象関係じゃないじゃん 環境
としての母 それだけがいるだけ じゃんっていう世界を描き出して
イメージなんですね それがつまり 三角関係未満の心のモデルっていう
わけなんですね ここに略説的な ものがあると思うんですけれども
昨日 三ヶ月チャレンジというところ のサービスで これは皆さま これ
を聞いてる方は知ってるものと 見なしたいわけですが 三ヶ月
チャレンジ 私がやってるサービス のグループセッションが現在 火曜
の20時からと土曜の12時から原則 やっておりまして 昨日 火曜の20
時にナルシシズムっていうもの について 問い合わせがあって
お話ししたんですけど ナルシシズム というものにおいて 何をもって
ナルシシズムって言ってるかって いろいろあるんですけど ここから
だけ私の言ってる話は丸々真実 じゃないんですから 私はここで
正しい情報を発信する気はない ってしょっちゅう言ってますけど
精神分析家でもないし あくまでも 精神分析について井戸端会議する
ための何かですからね ポッドキャスト ですからね 井戸端会議に出どころ
はとかエビデンスはとか根拠は とかいうのはムズいってもんじゃない
ですか そういうこと言わないから 井戸端会議ができるわけ
思うにナルシシズムというのは 私は現象というものを現実のもの
と吐き違えてるか取り違えていて しかも その対象とさえやりとり
していれば 現実の人間関係をやって ことになるんだというのが ある
意味一番重い状態のナルシシスティック な状態だと思うんですね ここに
だからうぬぼれとかはそう感じ られることになるけれども これ
をやってると でも 多分うぬぼれ というつもりは本人は全くないん
ですよ 対象と私しかいないのに その人の心の中には 極端ですけ
れども 対象のことを対人だと 空想してるくせに その人はそれが
本当の人だと思っちゃってるわけ ですよ だから 例えばですけど
非常に強い脅迫観念 オブセッション ですよ 脅しつけてるわけじゃない
ですよ 脅迫観念とか 非常に強い 何だろうな 例えば人にバカにされる
のが嫌だみたいなことを言ってる ときっていうのは 対象に笑われる
ことをすごく恐れてるわけですよ その人は ほぼ確実に 偉人に笑われる
っていうシーンが具体的にどの ぐらいあるかというと ほとんど
ないんじゃない ないはずなんですよ ね でも その人が人だと思ってる
ものは対象だったりするわけですよ 例えばXのどこかで自分がバカに
されている気がすると 完全に心の中 のことを言ってるのに Xのどこか
にその人が本当にいるっていう ふうに信じようとしてるわけですよ
ね だったらXで笑ってる人をここに 連れてきてくださいみたいなこと
なんですよ これは 現実というもの の人がそこにいないのに いない
以上 その関係で その人は空想で 埋めてるわけじゃないですか だけど
本当に笑われたことがあるんです とか言うんだけど それは記憶の
話してる やっぱり心の中の話してる じゃないですか こうやって心の中の
対象を具体的な対人であると取り 違えることをナルシシスティック
っていうと僕は思うんですね つまり 心的空間の中に閉じ込められて
いて この心的空間をもって現実 世界だというふうに誤解してしま
っていて しかもその誤解を全く 誤解だと認めようとしない世界に
生きてるわけです つまり 赤信号 で誰もいません 車も通りません
もう1時間も赤のままです でもずっと 待ってますっていう人がいたら
その人は対象関係が対人関係に とって変わってるわけですよ いや
お父さんはそこにいないし 誰も 見てないしっていっても信じられない
わけですよ なぜならその人にとって はいるから 心の中に対象が 大事
なのは心の中に対象がいるんだ という状態を 現実にその人が
そこにいるんだという現実に置き換 えてしまっているわけですね 私は
それが完全に現実と乖離してしまう そんなことは起きないですが でも
完全に現実と乖離してしまったら それは精神病状態って言うんだろう
なって思うんですよね だから私は 妹に対して異論なしで怒った
ときに私は父だったら怒るだろう と そういう父が怒るだろうが父
が怒るになっちゃったわけですよ 対象 自分の心の中の空想の父親
がそれ食べちゃダメだろうと言った だけなのに本当の父親は笑って
たんだから だから現実と乖離があった にも関わらず私は頭もなしに妹
に対して怒ったというのが当時の 私はだから幼かったからですね
現実との乖離
対象関係と対人関係を取り違 えてたわけですよ これがナルシシズム
の病理ってやつなんだろうなって 思うんですね だから私はナルシシスティック
な人ってやっぱり異動性って言うん ですけど怒りっぽくなると非常
に思うんですよ いつもいつも対象 との戦いに明け暮れてしまうので
どうしても対象は長自我的になっている 対象がある意味一番社会の中では
強圧的に振る舞うじゃないですか あれするなこれするなっていう
やつが心の中にいてしかもそれが 現実の人間だと思い込んでると
そいつに腹が立つとか だから例えば 前々からこの話はよくするんです
けどプレゼンでプレゼンで練習 するかしないかの話ではないですよ
プレゼンで練習しておかないと 誰それに馬鹿にされるとかそういう
ことそれは対象に馬鹿にされるん ですよ もっと言うと対象心の中の
おそらくは父親対象に嘲笑われる のが嫌なんですよね これはある
種虚勢不安なんだと思うんです けれども そのために父親をギャ
フンと言わせるべく10時間プレゼン が練習するみたいになってくる
とどこかそれは心の中の周辺であって そもそもこれからプレゼン見せる
相手はお父さんでもお母さんでも ありませんよって言っても何言ってる
んだお前ってことになるわけですよ そんなことは分かってると会社
の上司にプレゼンするんだよって 言ってるんだけど会社の上司の
本当の反応というものにはその 人は心の底からは興味を抱けない
んですよなぜならそれは分かんない じゃないですか会社の上司は表面
的には褒めても裏では何と思ってる か分かんないじゃないですか分かる
ようにしたいわけですね分かる ようにするためには何ができる
か自分の心の中の対象を相手に すればいいわけですよそれは自分
の心の中にいるものだから結局 はどのように反応するかが分かる
わけですこれならいけるだろう ってなった時にそれは対象がよし
それならいけるokだって言ってる わけですよ例えばスライドを100
枚作ったそれなら大丈夫だいける っていうふうにその人は心の中
で思うそれはなぜそれができる かというと対象関係の対象がその
ように受け合ってくれるからの わけですねその人が自分で作ってる
基準なんだけどそれが無意識化 していけばいくほどつまり現実
のものだと取り違えれば取り違える もの現実のものと取り違える現実
の人が笑っているっていう想像 を本当に現実に笑われるっていうこと
にしてしまうというのはまさに 無意識の槍無意識がそこに関わ
ってるから全部無意識じゃないん だけど明らかに無意識がそこに
関わっているから本当に笑われる ことと笑われると想像してしまう
ことがどこかで一致してしまうん ですねどっかでですねだから怖
くてできなくなるとかそういうこと が起きるわけですそれは現実と
空想がどこかで入り混じってしまった 結果なんですがそれは無意識であれば
あるほど自分の空想を現実だと 考えるつまり自分の空想という
ものが視覚になっていけばいく ほど実はそれは無意識に近づいている
っていう略説があるわけですよ 空想が現実になっていってるわけ
ですその人の心の中での話です これは我々は残念ながら人間だから
もうしょっちゅうやる本当にしょっちゅう やるまず万能空想の万能って
いうのは特に出し入れ自由って 意味がものすごく強くあるわけ
ですよ簡単に言うとxの人が私を 馬鹿にしているとかどっかで炎上
しているというのはそれを見て でもリアルに人間が今aiとかも
あるわけだから炎上している様子 というものは本当実態で見ない
限りは絶対どこかにそこは空想 が混じってるはずなんですよそう
思ってないじゃないですかほとんどの 人がそれによって一歩も違うと
命を落としかねないのが現在の 世の中ですよねしかも命を落とさない
にしても欲打つ状態に本当になって ったりするわけですよ完全にどこか
空想が混じってなければとても じゃないけどできないはずなんですよ
だからリアルにそれは起きてない 少なくとも起きてない可能性は
十分にあるでも起きてたらどう するんだっていう話をされるって
ことはこの話はしょっちゅうして ますけれどもやっぱりそこを空想
で埋めておきながらしかも空想 は現実と結びついていておかしく
はないんだという万能的じゃない ですかその人はここにいないの
にここにいるかのように自分の 眼前にいるかのようにしている
その人がそもそも誰だかを全く 知らないのに知っている人でおそらく
知っている人で埋めてると思うん ですよいやあれは男だとかね男性
的な空想をそこに用意している とかリアルには女性かもしれない
んですからね逆かもしれません 自分より年上か年下か知らない
ですよねでも知っている誰かで 埋めるしかないですよね代数xと
似てますよ30代女性なんかこう あれですねマーケットのターゲッティング
みたいですよね買ってる人は全然 60代の男性かもしれないのによく
思うんですよ私は本売るときに じゃターゲット決めましょうみたいな
30代半ばのビジネスマンでみたいな 全然違うんですよ結構ねセミナー
に行っていつも私の本買ってます みたいな方がやってくるとなんか
50何歳で私よりちょっと年上の 女性だったりしてビジネスパーソン
ターゲット読者とペルソナ
じゃないですみたいな全然普通に ありますからねターゲット読者
って何なんだろうなっていつも 思いますねああいうペルソナ
みたいなものを想定するといい って言うんでしょうけれど私は
それは万能空想以外の何者でもない 感じが万能的じゃないですか
勝手に自分の頭の中で作り出してる じゃないですかそれを万能って
言うんですよだから空想全部万能 空想だと思うんだけど万能空想
中の特にこう出し入れ自由作る ことも自由消すことも自由これが
いかに本当の人間と違うかって 言ってるわけなんですよ対象関係
とか精神分析でもその人にはその 人の歴史があっていきなり消え
たりついたりしないんついいきなり 空間移動できないわけです我々
自分の心的空間にパッとその人 を言ったかと思うとパッとその
人を消してしまうということを いくらでもやっておきながらそれ
をリアルの何かだと考え違いして いるですよリアルなものを作る
のなんてなぜ1個作るんだって1年 かかりますからね結局の1年はか
かんないんですよ1年かかります からねだからずっと上司が自分
のことを悪く言ってるとかすぐに 言い切り出しちゃうじゃないですか
その上司になるのに50年ぐらい かかってますからっていう50年
ってめちゃくちゃ長いですから ねある意味では一瞬でできて一瞬
で消すじゃないですかこれを万能 というわけですねこれは明らか
に自分がやってるからできること なんですよこれが知覚にとって
変わるつまりその上司がただ怒 ってるんじゃなくてその怒ってる
声が聞こえてくるってなってくる と病理というものの深刻さが増
していくというふうに一応定義 上はされますね私はもう最近その
辺ももちろんそれはそうだと思 うんですけれどもものは考えよう
だなと思うんですよだって我々 毎日夢見てますから夢って間違い
なく万能空想ですからね夢なんて 僕らが勝手に作り出してるもんだ
から一瞬でできるじゃないですか 年が何歳であろうともその夢に
出てきている夢人物の寿命なんて 1秒とか2秒とかじゃないですか
なのにおじいさんだったりする じゃないですかそんなことはありえない
じゃないですかこれがいかにありえない ことなのかということをある意味
対象関係っていうのは語ってるん だなとただし便利ですとても便利
だからやっているわけですよさっき 冒頭で申し上げた通り3歳や4歳
のお子さんに親が自分の対象を 植え付けたいと思うのはそれは
もう当然ですよね願わくばいい親 でありたいと思うのも当然です
何も夏休みに言わなくても宿題 をするように親対象を心の中に
作動させたいわけですよなんならば 何とかドリルとかを率先してやる
ような私だから率先してやる子供 だったからめちゃめちゃ親や先生
受けがそう自体非常によかったわけ ですよそりゃそうなんですよだって
彼らの対象のいいところを私は作動 させて見せているんだからそれは
向こうは喜びますよそんなこと してほしいじゃないですかしない
ほうがいいと思うんだけど今だったら それはでも人間40年以上生きてきて
ようやくそのように考えることが できるようになったわけですよね
いい対象なんていうものを自分が 植え付けて見せていたところで
それは利便性っていう意味では いいものかもしれないけれども
要するにそれがモラルとか道徳 とか人類にとって変わるとって
変わるんですけどねでもねやり 過ぎちゃいけないとは思います
ナルシシズムの影響
よね結局それは親のコピーが生き ているようなことになりかねない
わけでそれをコピーのオリジナル が喜ぶというんだったら自分が
その人生生きようねってことですよ 私が母の代わりに早稲田に入って
母は前も言いましたけどミスター が大好きで大皿春も一応好きで
早稲田に子供が行くのは嬉しかったん でしょうけどいやいやあんた行け
よってことですよ別にね今の時代 年配の人が早稲田大学行ったって
いいわけですからね全然ねお金 もあったんだし入れたかどうか
ともかくとして息子がそこに入れたら 自分の喜びにとって変わる対象
関係というものがやっぱりエスカレーション していってしまうと思うんですよね
横断歩道を渡るときに母親の意思 というものがそこに入るっていう
のは大変いいことですからいい ことなんで青にならないと渡ん
ない車止まんないと渡んない手を 挙げて渡るっていうのはいいこと
ですけれどもまあその辺だろう なって思うんですよねやりすぎ
ちゃいけないと思うんですよ代わり に人生生きるなんてとんでもない
と違うんですから母がイメージ している早稲田大学と私が行く
ことになる早稲田大学と全然何の 関係もないんですからでこの対象
と対人という話から今私は一応 ナルシシズムっていう話に展開
させたと思っているんだけどこの 中でですねとりわけ大事だと思
うのがこれは昨日私はグループ セッションで話しててメイン
だなと思ったんですけど特定の 人間関係の中でそれがきざし実現
しこれが感知されるというのが 現実だって思うんですつまり簡単
に言うとナルシシストっていない って思うんですよいやいるじゃん
って言われるかもしれないけど いないんですよこれはやっぱり
我々が対象関係に騙されがちだ ってことなんですよね目の前に
現れた時だけその人はナルシシスト になるのかもしれないそれは対象
関係が放映されているに過ぎない いやそれを対象関係は投影しがち
なんじゃんって言うかもしれない けどそんなことはないんです
だからなんていうんですかね哲学 みたいなんですけどあなたの目の
前でそれは展開している時だけ それが事実ですってやつなんですよ
ねこれを一番私にとことん叩き 込んでくれているのが杉山直樹
さんの本つまり逆転医の中でこそ ナルシシストに対する例えば軽
蔑とかあるいは自分の無力感みたいな ものは逆転医の中でこそ宿すんだ
っていう言い方をしてるわけですよ つまりその人がナルシシスト
かどうかなんて関係ないってこと なんですよそんなこと分かるはず
がないし知ったことでもないと その人ナルシスティックな性格
なんですじゃないんですよ 杉山直樹さんがこの人はナルシスティック
だと感じるそれを逆転医と言います よねナルシスティックな人が自分
をバカにしたり自分をクライアント として尊大なことを言って要する
に精神分析科を小馬鹿にしたような 態度を取って腹が立つみたいな
この怒りがナルシスティックだ というふうに判断する基準になる
しかしそれはその時その場で起き ていることであってその人が外
に行ったときどうであるかということ は基本的には関係ないに等しい
わけですね 逆転的にナルシストがそこにいる
ってことはないわけですよそれは だから対象関係に騙されてるわけ
じゃないですか自分の空想が現実 だと思ってるんですよねその人
は全然違うかもしれないわけですよ もっとずっと他の人の前では謙虚
でとてもいい人なのかもしれない わけですよ分かんないわけですよ
見えないんだもん見えないって ことがとても大事なんですよね
カウンセリングの場ではカウンセリング の時だけはそうなる少なくとも
それは自分が目撃できるそして目撃 するから腹が立つというそこでの
関係ってものが発生するということ はその人の心の中に少なくとも
今はナルシスティックな関係性 というものに巻き込むそういう
対象関係を持ってるんだろうな とそういう構造を持ってるんだろう
なと だからその人の性格を正したり
直したりしちゃいけないわけですね どんなに腹が立ったとしてもだって
その人はその人のその空間の外 に出たらそうじゃなくなる可能性
があるわけですしそのことを知らない わけですからね絶対的に動かぬ
証拠だと言えるのは自分が今腹 が立ったってことだけなんですよ
社会適応と分析法
この人はどうしてこういう人なんだろう じゃないですよこの人と私の関係
はなぜこうなるんだろうなはず なんですよねこれが対象関係という
ものが人に投影された結果その場 に起きてくる力動の成果っていう
のか力動の結果っていうのかな そういうものですよね欲動の結果
でもいいんだと思うんですけど 何で例えば無力な感じになって
いくんだろうと例えば私こういう のって一つ一つ事例を出していく
と面倒くさいのでだから客観的な 何かにしちゃうんですよね今客観
的な何かにしないようにしましょう っていった矢先にでもいいや竹
みやけいこさんの大いに多分あれ ミリオンセラーまで言ってるん
じゃないかなよくわかんないですけど 風と木の歌っていうね同性愛の
美少年が出てくる話があるんです けどあそこに出てくるジルベール
っていう人質用の主人公ですけど 少年美少年がですねあの人こそ
まさにナルシシズムっていうもん だなとボーダーっぽくも見えます
けれどもあの人は確かに美しいん ですけどそして優れた人なのかもしれない
んですけど別に埋もれちゃいないん ですよ
で産後やっぱり8結構悲惨なことに なるわけですけどどうして悲惨な
ことになるのかはあの別にこういう 知識が一切なくても十分わかります
よね彼は何かこう 社会不適応感が満載な人なんですよ
別に同性愛だからなんですよもう ひたすら社会不適応感満載なんです
例えば全然躊躇せずに大金を使い まくる
元々の育ちが良かったってことも あるにせよ全然躊躇せずに大金
を使いまくるっていうようなタイプ なわけですねこれはつまり何を
言ってるかというとあそこでまあ なんかこうナルシスティック
というよりはボーダーっぽさが強いん ですけどねあのものすごく簡単に
怒ってしまう つまり情緒がとても不安定
まあそれはそれでやつがとても悪い とんでもないやつだったから情緒
が不安定なんですけどこれなんか 僕ある程度これを聞いている人
があれを読んでいる前提ですけど 読んでない人多いだろうなぁと思い
ながら今ちょっと悩んでるんですが なんで不適応になるかというと
要するに現実を軽く見てるから なんですよねだから現実に対して
適応度が下がっていくわけですが なんでじゃあ現実を軽く見るのか
というと適応できないと思ってる からなんですよ本人に適応する
価値がないっていう態度なんだけど あれは漫画のキャラなんで彼は
あまりにも美しくてあまりにも すごいから適応する価値がない
ところで一般的な人間が生身の 人間が生きていればああではない
はずなんですよ生身の人間はどう なるかっていうと社会の中適応
する価値ねえよっていう態度なんですよ その人は自信がないわけですね
適応できるという自信がないこれが どうなるかというと精神分析
の場で何が起きるかというと分析 科に舐め込まれるんですよお前
価値ねえよっていう態度になる わけじゃないですかこれずっと
してると腹が立つか本当に価値 がない感じがしてくるかのどっち
かなんですよねで分析科に課された ことって何かっていうとその場
ではこの人が適応できるように するにはどうしたらいいんだろう
無理なんじゃんっていうこれが まさにその精神分析科が社会適応
できてないってことですよだって できているんなら直せるはずじゃない
ですかってことになっちゃうじゃない ですかもちろん分析科にはいい
分があっていやいやそういうこと じゃないんだよってことかもしん
ないけどでもその説明わかって くんないってことはやっぱり社会
に適応できてないってことじゃない ですかそうなってくると分析科
も流石に腹渡ってきてだってこいつ 誰もみんな他の人相手にしてない
じゃんって言い出しかねないじゃない ですか世の中価値ないじゃんって
言い出しかねないじゃないですか こういうことがわかんないから
世の中ダメなんだよってこれは そのナルシシスティックな人と
全く同じ態度になってますよね これはとはいえドイツかっていう
んだろうと思うんですよその時 その人はナルシスティックなクライアント
に怒りを燃やしてるのかもしれない しそういう精神分析科が抱えている
理解されない苦痛
難しい事情を理解してもくれない 世の中に腹を立てているのかもし
れないけどつまり結局適応って すごい難しい私の仕事すごい難しい
しかもそれ誰もわかってくれない って言って欲打つ的になるわけ
じゃないですかこの欲打つ感こそ そのナルシシスティックな人が
持っている欲打つ感でしたね ここには明らかに万能空想があります
よねどうせわかってくれないとか これを説明したところでわかって
くれる気がしないとか対人関係 ではなく対象関係にハマって
いってますよね明らかにクライアント さんはそういう世界にハマってる
わけですよつまりクライアント さんが生きている心的空間そういう
空間にその人も入っていくって ことはその精神分析ルームって
ところがまさにクライアントさん の心的空間そのものになっていく
わけじゃないですか空間が現実 の空間を侵食していくわけですよ
ねそして精神分析空間ってのは そういうふうになりやすいように
作られてますよね患者さん夢見 やすいように半分寝そべることが
できるカウシが用意してあって 基本的には刺激になるようなものは
ほとんど何もなくてそして精神 分析カフェについたとおり思想
的には中立で心欲的で匿名性が あってそこにいる人間が一体何
を考えどこでどんなふうな生活 をしているのかさっぱりイメージ
がつかないまさに投影するには 打手付けの相手が1人だけそこに
ポツンといて2人きりのただただ 夢を見るための空間がそこに展開
していれば心的空間の中で他人 を小馬鹿にしてでもこの世の中
って何ですに生きづらいんだ自分 に対しては冷たくて大体わから
じやばっかりが生きていてっていう 世界を簡単にそこに投影して作り
上げてしまいますよね万能的に 作り出してしまいますよねこれ
を取り扱って空間の中で収めて これについての検討を繰り返し
やっていくことでそのような心的 状態というのは一体どういうこと
が起こっているのかというのを 詰めていくっていうそして最終
的には2人でですね2人で納得して いくと2人が納得できるということ
は他人にも共有できるっていうこと ですねうまいこと言葉で説明できて
お互いが納得できるならこのような ことが起きるのは人間である以上
自然なことなんだっていうこと を他の人にも説明できるような
説明がそこで成立した可能性がある わけじゃないですかこれによって
世の中が生きやすくなる可能性 っていうものが芽生えてきます
よねジルベールっていう人は破滅 しちゃったんでそういう説明が
できなかったしそんな説明をはな から放棄しているようなだから
社会的には不適合なわけですよ でもあれを読んだ人がジルベール
可哀想だなって思ったとすると 僕思ったんですけれどもつまり
社会はそういうものを包摂できる 可能性っていうのを持ってるって
ことになりますよね話を全部生き方 と生い立ちを全部理解してもらえ
ればこうなるのもしょうがない よなもう少し我慢してあげたほう
がいいんじゃないかとかフェア してあげたほうがいいんじゃない
かと思えるのであれば説明する 甲斐はありますよねで生い立ち
を全部説明していくっていうこと をそしてその生い立ちを共有して
もらうってことをするためにまず 何をするかカウンセリングする
ってことなんだろうなって思うわけ ですね