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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
先日、土曜日に、いろんな話になったんですけれども、
その中で、親との関係みたいな話がメインになって、
僕がいつもここで喋っているような話だなと思いながらも、
集合でやっているグループセッションみたいなものなので、
その中でまた喋るとなると違うなと思いながら喋ってたりしたんですけれども、
そこで1つ、2つ、1つだな、メインは。
ちょっとした発見があって、今日はその話をしたいと思うんですけれども、
その前に、時々、依頼を優先しなければいけないと言いますがという話で、
最近、クラゾンの慶応さんが、ちょっと修正をかけるんですよ。
つまり、ご自分は依頼を優先しろとは言っていないという話をしていて、
依頼に即座に応じるという風には言っているけれど、
依頼を優先するという話は、
これ、僕が言っちゃっていたら申し訳ないなと思ったということもあるんだけど、
僕、よく考えてみると、依頼を優先しましょうとは、
優先しましょうとは、もしかすると文脈的にその言葉を一口にしたことがないとは言い切れないんですけど、
言わないような気がちょっとするんですね。
私、優先順位というものはないという話をタスクシュート以来、
断続的にしてきていて、
この部分をグッドワイルスだからという理由で変更した記憶はないんですよ。
むしろ、ますます優先順位がいらないという感じになるので、
タスクシュートって原理的に優先順位ってナンセンスなんですね。
例えば、タスクシュートというのは、
リストを先に並べてその通りにやるということですらそもそもないけれど、
仮にリストを並べてその通りにやるんだとしても、
例えば、睡眠、気象って並びがあるんですね。
この場合、優先順位とかはあり得ないじゃないですか。
睡眠する前に気象できないですよね。
例えば、朝食準備、朝食、
この順番も優先順位がどうであれ入れ替えようがないんですね。
タスクシュートというのは、
実行順位が全部だという考え方が、
なぜこれに優先順位をつけようとするのかというぐらい優先順位があるんですね。
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なぜこれに優先順位をつけようとするのかというぐらい優先順位というのは無理のある発想なんですよ。
だから、タスクシュートがあるのに優先順位があるという考え方はあり得ないので、
それが依頼だからといってですね、
依頼は優先するということにはなれないんですね、論理的に。
タスクシュートをやめちゃう点でもない限り、
私がどっちをどっちに優先しましょうという言い方をしたと、
もしすればですね、それは即座にやるという話との兼ね合いでしかない。
即座にやるということは、タスクシュートでは実行順位が上に来ますから、
先にやるわけですからね。
何かをやっているところに依頼が来ました。
その依頼を実行しましたということになれば、
タスクシュート的にはそれは結果としてですよ。
先にやったから優先したことになるという文脈でなら、
その文脈でならしゃべったかもしれないです。
だって、依頼を即座にやっていたら、
結局それは優先するということになるじゃないかという話になるかもしれないですけど、
ここがことさら問題になるというのはですね、
何か独特、何か一つの価値観があるんですよ。
簡単に言ってしまえば、自分が得りたいことを最優先しろというふうに、
もしライフハック的な、あるいはビジネス書でそういうことが書かれているとすれば、
ここに重点があるのであって、
タスクシュートというのはもともと別に、
自分がやりたいことを最優先でやりましょうとはどこにも書いていないですし、
そういう考え方自体がないですからね、別に。
すいません、ちょっと頭を閉めました。
やっぱりしゃべっているというのは、いろいろとあれだなと思うようになって、
そういう話が昨日ちょっとあったんですけども、
それはいいとして、依頼を先に即座に応じるという感じですね。
つまり待たせると、待たせたこと自体が一つの軽い攻撃になってしまうので、
それをやめましょうという感じなんですよね、どっちかというと。
たぶんグッドバイブス的には。
タスクシュート的には別にどっちでも全然いいんですよ。
ただ、タスクシュートのどこにも自分がやりたいことを最優先でやりましょうというのはないので、
タスクシュートは何をやってもいいというのが、
これもですね、なぜかここに条件をつけたいというケースがすごい方がいらっしゃって、
僕なんか不思議でしょうがないんですよね。
何をやってもいいのが一番良くないですかね。
何をやってもいいんですよ、記録サイトでは。
ここにツールは何も言わないというのがあって、
ツールはですね、YouTubeばっかり見てないで中国語の勉強しなさいとか言わないんですよ。
それを言うとすれば、それは内的な母親ですよ。
こういうふうに言っているにも関わらず主体性、主体性ということを盛んに叫ばれるというのも、
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僕は非常によじれているなという感じがするんですよ。
例えば、私は依頼を即座に応じないと言わなくても、
基本的に人がやることは社会的な意味を帯びてしまうということは言うんですよね。
これには結構反論されるんですよ。
自分の主体性が大事なんじゃないかって反論。
だからタスクシュートでは何をやってもいいんですって言うと、
中国語の勉強の方が大事なんじゃないかって、この二つは僕は矛盾していると思うんですよね。
語学の学習の方がツイッターより大事だというのは社会的な声じゃないですか。
僕にはそうとしか思えないんですよ。
なのに一方ではその話になると、
主体性っていう話って結局自分の自由にしたいってことじゃないですか。
その時に自分がYouTubeを見たいというなら、見るのが一番いいってことになるじゃないですか。
僕はタスクシュートでその二つは裏切らないようにするべきだと思っているんですね。
これを裏切るようにするべきだということになってしまったら、
たちまちそれは時間割りどおりに動きなさいってことになってしまうと思うんですよね。
で、依頼ですよ。
この依頼なんですけど、そこに僕は先日発見があったんですが、
依頼というのは一種の、誤解は招くと思いますが、
依頼というのは間違いなく環境供給なんだっていうことを思ったんですね。
もういきなり言いにくいことの述語で申し訳ないんですけど、
単純に言うと母子っていうのは、これも昨日も喋ってて、
これが意外に簡単じゃないなって思ったんですけどね、喋るのが。
母子っていうのは一体なんですよ。
一体だっていうのが気に食わないって言っても、
それは思春期とかの話じゃないってことですよ。
0歳1日目とかも考えてくださいねってことなんです。
一体ですよね。しょうがないじゃないですか。
それでもやっぱり、母親だけじゃなくてっていう話もあるとは思うんですけど、
でも出てきた直後は一体でしかないじゃないですか。
分かりませんよ。100年後とかになれば、
もしかすると父親から出てくるということもあり得る。
そういう漫画ありますからね。
でもまだないと僕は思うんですよ。今のところは。
だから最初に出会う人は母親なのはしょうがないと思うんですね。
これはもう、いい悪いの問題を論じても。
一体だというところで、
一つ、お母さんじゃなくてもいいんですけれども、
とにかく育てるということになった時にですね、
赤ちゃんから見たらどう見えるのかってことなんですよ。
これは特にそれだけが大事。
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これを外から見たらどう見えるのかって話はしてないんですね。
なぜなら精神分析だから。
精神分析は2者しかいないっていうのがもうめちゃくちゃ重要ですから。
そこには2者しかいない。客観性がないっていうことなんですよ。
だから現象学的とかでも言うんですけどね。
そこには主観しかないんですよ。
精神分析家の主観か来団者の主観かどっちかしかないはずなんですよ。
だからそこに客観性を持ち込むっていうのは、その段階でおかしいんで。
母親もそうなんですよ。母親しかいないってことが、
ここの場合は大事なんですよ。
誰もが覗いてたりしないってことですね。
子供から見た場合、依頼とはどう見えるのかと。
あるいは環境供給ってそもそもどう見えるのか。
環境供給ってのはあれですよ。
ミルク飲ませるとか、僕だってやりましたよ。
だから僕も環境供給してるんですよ。
これは欠陥的な意味じゃそうじゃないけど、母親なんですよ。
この心理的な意味でね。
例えば精神分析でも、分析家は母親なんですよ。
別に父親って、でも父親って絶対ダメだなやっぱり。
母親なんですよ。とりあえず。環境供給するのは。
もうそれがどうしても心理的に納得いかないっていうのなら、
子宮の中を考えてください。
母親でしょう。環境供給してるのは間違いなく。
環境そのものじゃないですか。
そういう時代もあったわけですよね、私たちには。
全員人間であればね、きっと。
この仮に何らかの理由があって、実はうちの子そうだったんですけどね。
パッと子供が取り出されて、どっかなんとかカプセルみたいなの入れられたんですよ。
ちょっとの間ですけどね。
これも母親なんですよ。
子供から見ればね、環境供給してくれるから。
環境というのは何なのかって言ったら、やっぱりそれはおむつ取り替えるとか、
ミルクくれるとか、水くれるとか、そもそも服にくるんでくれるとか、何にもできないわけですからね。
時々泣くことすらできてないですからね。
だから泣いてない赤ちゃんが急に具合悪くなったりしてびっくりするってことも
起こりましたからね。
とにかく環境供給、環境供給をすると。
そもそも生まれてくるということ自体、環境供給じゃないですか。
自分で出てくるわけではある意味ないですからね。
特に今のような時代であれば。
だから環境供給は常に行われている。
この環境供給なんですけれども、でも赤ちゃんから見るとこれは依頼になっちゃうんじゃないかなって
私は思ったんですね、その先日。
だってですね、多分赤ちゃんなんてのはですね、うちの子なんかは素直な方でしたけど
ゼロ歳児の頃からね、素直だなこの子はと思いましたが
でもですね、やっぱり愚図ることがない赤ちゃんなんて嫌しませんから
例えばミルクを飲ませようとして、腹減ってるのにも関わらずプイってやるとか
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飲ませようとすると絶対嫌だっていう顔をするとか、そういうのあるんですよ。
1歳になれば普通にあります。
で、例えば寝かしつけって一番そうじゃないですか。
どう考えたって眠いに決まってるくせに寝かしつけようとするとギョワーっていう。
これはもう絶対言いますよ。
多分僕は分離不安なんだろうと思うんですけど、とにかく言うんですよ。
で、この寝させようというのは、向こうに、つまり赤ちゃんにしてみれば
こっちから見れば100%環境供給なんですけどね。
寝ないと困るのは赤ちゃんだから。
でも向こうにとってみれば、これ依頼ですよね。
寝ろと言ってきた。
私はまだ寝たくないのに、そうは考えませんよ赤ちゃんは多分。
でも間違いなく依頼なんですよ。
なんか飲めと言ってきた。
私はそんなの飲みたくないのってことは絶対ありますよね。
なんかおむつ替えろとか言ってきたとか、風呂なんか全然入りたがりませんから。
風呂入れと言う。今でもそうじゃないですか。
子供に風呂入りなさいと言っても入らないじゃないですか。
でも入らないことに何の意味があるのか、何の意味もないですよね。
こっちはわざわざ風呂を綺麗にして沸かして、最初に入れと言っているのに入ろうとしない。
環境供給というのは依頼なんですよ。子供にとっては。
依頼以外のことをしていたいって言うことですよね。
自分のしたいことをしたい。その方が価値があるんだ。
大人になればそういうことはあると思いますが、子供の頃は全然ないですよね。
でもそれが微妙に難しくなってきますよね。小学生ともなれば。
でもそういう話はまだしてないんですよ。
赤ちゃんだったらどうなのかということなんですよ。
もうちょっと言うと、もうちょっと言う必要はないな。
つまりこの依頼と環境供給がほぼ一致する。
それはもう幼い頃、幼い頃、幼い頃なんだけど、
どういうことかと言いますと、外にあるってことだと思いますね。
赤ちゃんにとって環境を供給してくれる存在も、依頼を持ってくる存在も等しく外からやってくる。
絶対に自分の内側からやってくるっていうものではない。
我々にとってはそうじゃないですよ。
トイレに行きたいとか言われる私はわざわざ定義上ね、そんなこと言う必要ないんだけど、
定義上トイレに行きたいというのは肉体からの依頼ですって言ってるんですけれども、
だから事実上ほとんどが依頼で埋め尽くされるっていうのはそういう意味なんですけど、
それはただ自分が死に行きたいからするんだし、お腹が空くから食べるんですよ。
でもまあ逆らえないという部分ありますよね。
逆らえようがないっていうのかな。
だってお腹空かないようにはできませんからね。
眠くならないようにもできないし、すごくだからなんか感じるものがあるじゃないですか。
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睡眠時間を削るとか、極端な話に至っては3時に起きるとか、
わざわざ環境を供給してくれるのにそれにわざわざ逆らってまでやるんですよ。
何かをしたい、その方が価値があるんだってことですよね。
赤ちゃんだったら全然ダメですよね。
私はまだ寝たくないんだと。
で、何をしたいんだって言うと別に何にもないわけですよ赤ちゃんには。
でも僕らだってそれに近いケースって多々あると思うんですよ。
まだ寝たくない、何をしたいのかっていうと発言こもちをもっと読んでたいとか、
本当なのかそれっていうようなね、あると思うんですよ。
で、これもウィニコット。
ウィニコットっていう人はだからこの母親の環境供給というのが超大事で、
超大事で、それによって保護されているという風に考えるんですね。
もちろんこれ比喩なんですよ、究極的にはね。
丸々比喩じゃないけれども、ここから出発しているわけではないってことは僕ら忘れちゃいけないと思うんですよね。
問題なのは精神分析の時に、来談する人の悩みですよ。
お母さんとは何なのか、環境供給してくれるのは何なのか。
会社ですよね。会社だと思うんですよ。
だって私会社に行ったら机ありましたもん。環境供給してくれてるんですよ。
こういう話って結構無視されるじゃないですか。
会社に行って貴重なあなたの時間をドブに捨てるってサラッと言うじゃないですか。
でも会社って環境供給してくれるじゃないですか。環境がしょぼいとかはありますよ、そりゃ。
私が行った会社の環境は立派なもんでしたけどね。
そこを私が貴重な自分の時間を捨てるのは無駄だって考えて蹴っ飛ばして留学しましたけどね。
でも会社は環境を供給してくれるんですよ。お金くれるじゃないですか。環境ですよね。
これって一見母親が子供の世話をしてるのとすっごい違うけど、実はよく似たところがありますよね。
依頼出してくるじゃないですか。ミルク飲めとかお風呂入れとか。会社も依頼出してきますよね。
会社は環境を供給してくれますよね。
私たちは依頼は気に食わないって言うんですよね。環境は供給しろってそういうことじゃないですか。
赤ちゃんもそう言うわけじゃないですか。依頼は気に食わないと。環境は供給しろと。
赤ちゃんはそれでいいんですよ。なぜならば妄想分裂ポジションにいるから。
僕らがそこをそれだけを言うとちょっとおかしなことになっちゃうわけですよ。
僕らは環境を供給してくれる存在も依頼を出してくれる存在も等しいものだということを知ってなきゃいけないから。
金をくれるこの会社らしきところはありがたいけど、仕事を汚してくる上司とか言うのは許せないってなったら完全に分裂ですよね。
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これおかしいと思われるかもしれませんけど、こういうこと僕らしょっちゅうやるんですよ。
○○な奥さんはすごい大好きだけど××な奥さんはすごい気に入らないって僕らしょっちゅうやるじゃないですか。
同一の人物であるということを無視したがるじゃないですか。
恋愛中とかはとかくそうなりますよね。精神分析でもこれが必ず発生するんですけれども、
カウンセリングってきっとこれ発生します。
私タスクカフェで短いセッションでも繰り返し応答している間にこういう風になりますからね。
しかもお互いがなるんですよ。来てくださる方だけじゃなくてこっちもそうなっちゃうんですよ。
これが遠いドイツかって言うんでしょうけども。
だって来てくださってお金をくれるお客さんは大事だけれども、
いろんなタスクシュートについての不満を言う客は気に入らない。
おかしいじゃないですか。
どっちも同一の人物ですよね。
でも平気でこういう風に考えるようになる瞬間ってありますよね。
僕らしょっちゅう分裂ポジションに足を踏み込むんですよね。
恐れと不安のせいで。
で、この依頼と依頼と依頼と依頼と依頼と依頼と依頼。
実は同じところから来るんだと僕は思うんですね。
つまり自分の外側から来るということは間違いないと思います。
で、依頼はやりたくないか環境を供給して欲しいか
それは当然ある意味非常に都合よく考えれば当然ということになるんだけれども
依頼はやりたいところから来るかもしれないことが もちろん businessman僕はいつも爭得してついてるんですね。
お母さんが依頼を出してきます。
お母さんが反響を供給してくれます。
これだけだったら、
子どもは決して問題に遭遇せずに済むはずなのですね。
だからホールディングって言うわけなんですね。
これもイニコットの言葉なんでね。
お母さんはホールディングで抱っこするんだけど、
赤ちゃんを抱っこするんだけど、
赤ちゃんがですね、ぐずろうが、
だって足をバタつかせることはありますからね、私が抱っこして。
父親だからじゃないですよ。誰が抱っこしてもあるんですよ。
だからといって、手離すわけにはいかないじゃないですか。
赤ちゃん落ちて死んじゃいかねないんですよ。
だからグッとこう、抱きしめるというよりは、
要するにこう、自由を奪うわけですよね、グッと。
囲い込むってのは変ですけどね。
これは精神分析のみならずですよね。
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あらゆる何らかのサービス提供、
特に少しでも心理的な問題が絡んでくれば、
医療でも同じことが絶対起こりますよね。
患者は嫌がるが、それをすることがいいことは自明であるというケースでどうするのか。
さっきの主体性みたいな話になるわけですよ。
我々はタスクシュートがいいと思います。
でも、そんな一品単位でつけるなんて絶対嫌ですって言われたとき、
さあどうするかってことなんですよ。
ホールディングするのかってことですよね。
この悩みはホールディングって言葉を知らなくたって、
数限りない人が一度ぐらいは悩んでいると思います。
子育てすれば100%これが起こりますね。
普通に精神分析だろうと、カウンセリングだろうと、
もちろん起こるに決まっていると思うんですけども、
いやあなたはタスクシュートをやったほうがいいですと。
だって私の目にはあからさまにそう見えますからと。
で、お金も払いなさいと。
どれぐらい嫌でもそうしなさいと。
言えないじゃないですか。
でも私に対してはそれをしますよね。
だって暴れたまま放置すれば落ちますからね。
しょうがないんですよね、ホールディングするのは。
相手の自由を奪うのは。
このことってでもずっと起こるわけですよ、やっぱり。
依頼っていうのはそういうふうに考えてみると、
どう考えてもホールディングに限りなく近い行為だと思うんですよ。
あなたこの依頼を最優先でと言っちゃいけないのかな。
とにかくこの依頼やるのがあなたにとって一番いいんですと。
いやそれは私の貴重な時間をドブに捨てるようなもんだって。
これがどういう意味なのかってことですよね。
足をバタつかせている赤ちゃんには
赤ちゃんなりの言い分があるはずなんですよ。
いや今暑いとか、抱っこすんだとか。
でも落ちるんですよ、そこで手を離すとね。
だからそこで暴れちゃいけないんだけど、まあ暴れますわね。
で、そこでグッとホールドすると。
これを受け入れるべきなのかどうなのか。
これを受け入れた時に自分の主体性が失われるんじゃないかっていう不安が
もし非常に強いとするならばですね。
きっとその人の心の中には
何か親友なのか分かりませんが、先生となのか分かりませんが
比喩ですよ、これも結局ね。
例え話なんですよ。
ホールドされた時に何か問題があったのかも知れない。
累積外傷っていう言い方があって、私最初この言葉ちょっと苦手だったんですけど
累積はあれですよ、イエローカードが累積するとレッドカードになるみたいな。
要するに溜まっていくとアウトみたいなね。
トラウマっていうのって、私もそうなんだけど
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大した目にあってない人間はトラウマないような気がしちゃうんですよね。
大地震の時に震源地にいたとかないし
防災に襲われて殺されそうになったとかもないし
そうやって親がものすごい虐待したとかもないんでね。
でも我々は現実に対して恐れを抱くってことは起こるわけじゃないですか。
それはちょっとしたこと。
上司に何回嫌味を言われたと。
それはどうってことないですよね、1回ぐらいなら。
それが1万回となったらどうなったら。
累積外傷とかっていう言葉があって
ミニコットなのかな?
これは結構私最近大事だなって思うようになったんですね。
累積外傷。なんで大事かっていうと
つまり依頼が攻撃に見えてしまうっていうことが起こるから
あるいはホールディングが自分の自由を奪うもの以外には思えなくなる日がやってくるから
環境供給してくれる相手と依頼を出す相手がどうしてもバラバラに見え始める。
バラバラに見えるということはつまり分裂なんですよ。
だって同じところから依頼と供給が来ているのに
その2つは異なるものだって分けるわけじゃないですか。
会社であれば一番分かりやすいですよね。
さっきも言った通りです。会社は様々な環境を供給してくれるんだけど
一方でひたすら依頼を出してくると
その依頼も常に嫌味の形を取ってくるみたいになってくると
会社を2つに分けるわけですよ。
悪い上司といい給料日っていうふうに分けるわけですよ。
これをいいおっぱい、悪いおっぱいって言うんだと思うんですね。
同じ会社だって我々は当然思っているわけですが
これが会社だったらそうですけど
例えばこれを現実とか国家とかになってくると
もっとガッと広がるんで
絶対我々はそれを分裂させると思うんですよね。
いい自然、悪い自然、絶対そう思ってるじゃないですか。
お日様さんさんの日は自然というのは恵みをもたらすいいものだけれども
洪水とかもたらすときは悪いわけですよ。分裂させていくんですね。
一つ一つ。全部実は自己都合なんですけれども
こっちから見たら良し悪しですからね、それはね。
そうやって分けていく。
結局それはお母さんを分けていくというのと同じような意味を持っていて
しょうがないんですけどね。
自然をそうやって分けるぐらいであれば
全然狂気ではないですけれども
でも多分私たちの神経症と呼ばれているものは
私たちはみんな神経症だってフロイター言うんですけど
つまり基本正常なんだけど
時々おかしな発想になっていって
勝手に自分で苦しみ始める。
これを何とかするのが言ってみれば
精神分析とかなんだと思うんですけれども
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常に精神分析だけがそれをするわけではもちろんないですけどね。
いずれにしてもそういうふうに分ける。
分けたときに特に分かれるのが
依頼と環境供給が分裂する。
依頼と環境供給はだいたい同じところから普通来ているから
この分裂がしょっちゅうおかしな行動とか
おかしな事態を引き起こしてしまうわけですね。
自分がいる家族を依頼と環境供給で分裂させる。
これはもう多々やってますよね。
自分と一緒にいてくれる
寂しいときに一緒にいてくれる家族は
いい家族だけれども
煩わしいときまで一緒にいて喋るやつは最悪だみたいな
そうなると相当なもんです。
分裂の程度がひどい。
同じ人ですからね。
でもそんなにおかしなことだとは僕は思わないんですよ。
ごく自然に我々がやってることだと思うんですよね。
例えば電車とかがそうじゃないですか。
移動する手段のして
そういう環境供給としては大変望ましいが
多くの人が乗ってる電車は史上最悪だっていう風に
僕らは普通に思うじゃないですか、別に。
そこに違和感ないですよね。
こういう風にしていってですね
多くの場合
集団とか結局組織とかなんですけどね
ある組織に対して
いい面と悪い面に分ける
そして少し妄想の程度が進んでくるとですね
その組織は私だけをターゲットにして
依頼をいっぱい出してくると
基本的に依頼をいっぱい出してくるのは悪いことじゃないですよね。
その分環境供給するっていう意味になるんで
日本の組織っていうのは基本そうなってるはずなんで
依頼いっぱい出してくるっていうのは
悪い意味ではないと思うんですけれども
少なからぬ人がですね
この会社で仕事をしてるのは
実質私だけだみたいな発想になるんですよ。
これは
飲みたくもないのに
しょっちゅう私にミルクを差し出してくるんだ
うちのお母さんはっていうのと
妙に似てる感じがどっかあるんですよね。
でもそれは
何度も言うけれども
その発想それ自体は頭が悪いとか
異常な発想だとは僕は思わないんですよ。
極めて妥当な感覚だとは思うんですね。
いいお母さん悪いお母さんって言葉は
メロニー・クラインの造語ですけれども
もうめちゃくちゃ広まりましたからね。
アメリカでもそうですし
僕も習いましたし
僕が習ってるってことは教科書に載ってるってことですからね。
これは非常に多くの人が受け入れた
そういう発想なんですよね。
つまりほとんどの人が身に覚えがあるってことですよね。
お母さんを二つに分けてしまうと
全然不思議なことだとは僕は思わないんですよ。
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グッドフェイブスはここに
手当てを入れてきていますけれども
一つ意識という形で手当てを入れてきていますけれども
今日はそういう
僕が思ったのが
依頼と環境供給というのは
ほぼイコール
少なからぬ場合が同じところからやってきているっていうのは
単純な事実としてある。
別に一つ意識というような話とか
タスクシュートとか考えなくてもですね
環境供給と依頼ってのは
大体多くの場合会社とか家族とかですけれども
大体同じところからやってきている。
そしてこの中で依頼だけを跳ねつけるっていうのって
確かにおかしな行動だと。
なぜならば
これがだから
例え話なんですけどね。
母子の一番最初のところまで戻ると
僕らの心の中で起きていることは
きっとかなりよく似てるから
同じじゃないですよ。言葉のない時代ですからね。
母親は間違いなく環境供給をしてきた。
それを僕ら間違いなく依頼だと受け取った。
そしてしばしばその依頼は面倒くさいものだと考えた。
考えはしてないけれども感じた。
煩わしいものだと感じた。
そういう態度っていうか
それしかそういう風になっちゃうんですけど
ごく自然に。
それが妄想分裂ポジション。
特に分裂気味だと思うんですけどね。
これの程度がひどくなってくると
妄想気味になっていくんですけれども
依頼は攻撃であると。
ついでに言うなら環境供給も攻撃であると。
私の思うに
今すでになのか
8050と言われている問題
ウィニコットが引きこもりって言葉を言ったってことは
明らかにそういう認識があったと思うんですけれども
環境だけ供給しなさいと。
あなたたちからの攻撃はいりません。
だから私はこの家のこの部屋にいますけれども
突いた手を立てます。
っていうわけですよね。
突いた手は何のために立てるかというと
依頼、攻撃をシャットアウトするためです。
そうしないと一人になれない。
一人にならないと環境を供給されたとしてもですね
落ち着いていられませんよね。
非常にそこに独特の居心地の悪さってものが発生しちゃうと思うんですよ。
ごくごく簡単に言うと
食事中に誰かにじっと覗き見られていたら嫌ですよね。
これじゃまるで環境供給が攻撃になっちゃいますよね。
しかも非常に毒々しい攻撃になっちゃいますよね。
というところまで行くと妄想っぽくなるんですよ。
少しですけどね。
私は昨日、かき揚げ塾というところに行く前に食事をしたんですけれども
食事をした時に
33:01
インド人が経営するところでカレーを一人しか僕はいなかったので
黙々と食べていたんですよね。
なんか視線が気になる。
これが引きこもりだなと思ったんですよ。
最初はなんか視線が気になる前は一人だったんですよ。
今さっき一人だって言いましたよね。
一人だったんですよ。
お店のインド人はいますよ。
でもそれはカウントしないじゃないですか。
これがウェニコットが大事だって言ったことなんですよ。
アイソレーションって言ったやつなんですよね。
人は一人にならなければいけない。
そして現実そのものと直面せずに
移行現象っていう言い方をするのかな。
現実に違いはないんですけど
その現実に意味をつけて
言ってみれば自分が
なんて言えばいいんですかね。
自分が中心にそもそも世の中にいる感じって
私たちは自然と持ってるんですよね。
持ってない人いるんですよ実は。
でも持ってますよね大半の人は。
この感覚が明らかにイリュージョンじゃないですか。
自分中心じゃないですからね。
自分が中心でこれは食べ物。
これは食べられないもの。
これは美味しいもの。
これは嫌いなもの。
全部自分で決めてますよね。
意味をつけているわけですよ。
ウェニコットはこれがまず大事だって言ったんですね。
完全に失われたらやばいですよね。
私たちは完全に失われるという病気もないわけじゃないですよ。
歯磨きのチューブとか食べちゃいますよね。
食べられるもの食べられないものって
自己都合じゃないですか。
分けるわけですよね。
そして自分にとって都合のいい世界をそこに出現させる。
でもそれは現実の世界なんですよ間違いなく。
食べられるものはそこにあるし
食べられないものもそこにあるという意味で
現実なんだけどそこに一つ一つ意味をつけることで
私のための現実世界みたいなものを出現させるわけですよ。
この時私はアイソレートできるわけです。
物事に集中できるわけですね。
グッドバイブス的に言うとフラゾノさんの言葉で言う
本気でやれるわけですよ。
だからこの最中にできればスマホとか見ない方がいいわけですよ。
本気でやるということは
せっかく作り出した
アイソレートした自分自身のための世界というものに
没頭するためですよね。
なのにインド人に見られている。
二人になっちゃってるわけですよ。
だから突いた手立てるんですよね。
この突いた手って実は機能しないですよね。
なぜならばこれは心理的な問題だから
店主が見ていることを見ても構わないじゃないですか。
同じことですよね。
多分店主はそれをじっと観察することによって
後でこの客の食べっぷりを
ブログで悪口言おうとか
そう思ってるわけじゃないですから。
そもそも私は視線を感じたわけですよ。
感じたというのは視線を見たわけじゃないですよ。
その後食事をちょっとひと段落して見たら
36:00
インド人は向こうを向いてテレビを見てたんですよ。
これが妄想分裂ポジションですよね。
妄想系が非常に強い。
アイソレートできてないわけですよね。
環境供給というものを十分僕は受け止めることに
失敗している。
事情がいろいろあったんですけど
店の間取りとか狭さとか
そもそも客が私しかいなかったこと。
いないほうがいいんだけれども
特にこういう時期ですし
でもいないことによってこういう妄想が成立したわけですよ。
ここにもやっぱり恐れと不安があるんですよね。
どんなって言うと難しいんですけれども。
こういうことってやっぱり起こるわけじゃないですか。
何にも不思議ではないですよね。
環境供給をしてくる存在が
実は攻撃してくるんじゃないかという
そういう根源的な恐れ。
僕らどうしてもそれが全くないっていう世界には住んでない。
やむを得ない面があります。
不思議だと思われるかもしれませんが
歯医者とか行けばみんな全くこの心理状態に入りますよね。
あれ環境供給するためにやってくれてるわけじゃないですか。
でもほとんどの人は攻撃されてる不安
もしかしてこいつ俺を痛い目に合わせるんじゃないか
それは誤解とは言い難いですが
絶対そういうふうに思いますよね。
どうしても私は思うに
歯医者さんというのは本来のその人に比較すれば
悪人だと思われてる気がして仕方がないんですよ。
お医者さんも昔はそういうところが少なからずあったと思うんですよね。
子供にだってはもっとそうですよね。
注射する悪い人みたいなね。
環境供給と依頼と攻撃というものは
すっごい近いところにあります。
こういう視点で見てみるとね
環境供給してくれるんですよ。
注射というのは薬と栄養ですからね。
でも依頼されてる感じしか子供はしないじゃないですか。
腕出しなさいとかちょっと痛いけど我慢しなさいとか
依頼ばっかりですよね。
自分のためなんですけどね。
そしてしかも明らかに攻撃になっちゃいますよね。
特にある種の子にとっては。
こういうことって私たちはずっと経験してきているので
全然不思議じゃないと思うんですよ。
環境供給イコール依頼イコール攻撃。
妄想を抱くようにもなりますよね。
だって心の中では
その人に感謝したいって部分があるじゃないですか。
会社であってもですね。
だけどってことになるじゃないですか。
だけどどうしても感謝できないと。
このくらいのことでたった25万では到底耐えられない。
この到底耐えられないの中に
妄想をどんどんどんどん入れていく方がいいじゃないですか。
ある意味。
25万でほとんど実は7時間くらいしか仕事していませんが
私耐えられないでは。
なんか私ダメな人みたいじゃないですか。
そうじゃないんだと。
確かに7時間で帰れる。25万もくれるけど
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この上司はハゲだしみたいな。
そういう話になるわけですよね。
やたらセクハラして苦しいみたいな。
ここで難しいのは
それが全部事実に反するかどうかっていうことを
議論するべきじゃないからなんですよ本当。
それはそれ、これはこれで考えるべきだけど
僕ら一緒に考えますよね。そういうことは。
環境を供給してくれるけれども
こうこうこうこうこういうひどいことをしてくる。
ここを繋いじゃいますよね。
で、妄想を膨らませざるを得なくなっていくんだと思うんです。
昔の経験もありますからね。
病気を治してくれるけれども注射をする。
で、もっとあの医者
実はなんかこう雑な医者で
本当は痛くなくできるのに
私の時は駅で痛くするんじゃないだろうかとかって
妄想するじゃないですか。
そういう子どものことはいっぱい僕は聞いたことがあります。
うちの子って限りませんけどね。
妄想膨らませる理由は僕ら持ってるわけですよ。
恐れや不安がありますから。
だから依頼には妄想がつきまといやすい。
依頼は攻撃であるというふうに捉えられやすいと。
別にそんなにここは驚くべきことじゃないんだなということを先日知ったと。