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2024-12-04 35:49

3ヶ月チャレンジ!はいつも五里霧中【1101】

アセスメントはしません。
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00:06
おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト1001回をお送りします。
12月4日、水曜日7時27分です。
最近、iOSがアップデートされてから、私のBluetoothのマイクとかヘッドホンの接続がスムーズにいかなくなって、突然途切れるという現象が起きて、
それが多分、やってるうちに切れちゃうということになっちゃってるんですけれども、めげずやっていこうと。
別にそんなね、ただ途切れたところで再開すればいいだけの話なんで、やります。
お知らせは一旦おきまして、今日はもうまっすぐ。
3ヶ月チャレンジで特に検討されている方とか、参加されている方向けに、
今日は注意事項ではないんだけど、どう聞いていただければいいかという、本当に基本的な私にとってのお話を短めにまとめたい。
今日ちょっと出かける用事があるんで、あんまり長くはできないんですけれども、
まだからこうやってお知らせまで飛ばすんですけどね。
藤山直樹さんが、正確に覚えてないんですよね。
しかも結構とびとびで覚えてるんですけど、
僕はこれはすごいいい言葉だと思って、
集中抗議精神分析の中にある、発達と観察は違うんです、だったかな。
ちょっとね、とにかくもうほぼ忘れてる。
発達と観察と臨床は違うんです、だったかな。
なんかそういうような言い回しでおっしゃっていて、
ここが正確に言えないっていうのはどうよって感じなんだけど、
とにかくですね、そうだよなとつくづく思ったんですよ、読んだ時に。
私アメリカで心理学やってきた、しかもベースにたぶん実験心理学的な部分が大きかったんで、
もう観察観察観察なんですよ。
発達心理学、デベロップメンタルサイコロジーという名のもとに、
幼児期の子どもたちの心理っていうものを勉強したんですけど、
その時に保育園行ったりしてですね、やたら観察してきたんですけど、
この観察ってすごく科学的な顔をしているけど、
これで何を分かった気になってんだろうなっていうのをすごく感じたんですよね。
いいんですよ、私何やっても楽しかったからよかったんだけど、
不満は全くなかったんですけど、
ただこれはきっと何にも分かっている気がしない。
でも私その教授には気に入られていてですね、
やたらと褒めてもらったんだけど、
03:02
学士だったからってこともあるんですけどね、当然ね。
それにしてもこのないだろそれはっていうぐらい、
観察っていうもののなんかこう、ああいう時にやるですね、
なんていうんですかね、科学的な顔をしている何か違うものみたいな気が。
要するに自分がビデオカメラになれというわけですね。
だから描写に努めろってことですよね。
スケッチでもしているような気になる。
僕スケッチ下手っぴですが、
スケッチでもしているような気になる。
いかに観察に対する観察者の影響を減らすかみたいな、
あるがままのその人たちを観察するかと。
私はそれがよくできてるって言われたんだけど、
意図がよくわかりましたからね。
でも悪っきり嘘だろうと思ったんですよ。
私は自分のアドバンテージもありました。
彼らはやっぱり話しかけても、
言葉がよくわかんない人間はスルーするんで、
私日本人だったからですね、
そして英語もよくわかってなかったから、
非常に観察者としてはちょうど良いところがあったわけですよ。
話がよくわかるよりわかんない方が、
傍観者的に観察するのはやりやすいですよね。
ただですね、この視点をとっていると、
どうしたって発達的な変化というものを
意識する羽目になるじゃないですか。
3歳から何歳はこうだとか、
言葉が喋れるようになるのはどうだとか。
これがですね、全然私のこの心理の、
この精神分析の特に対象関係論の中には、
もう全然なんですよ。
だからここが注意事項っていうのが何なのか。
例えば私がいわゆる幼児水準とか、
プレエディプスとか言っているのは、
何歳から何歳とかないということなんですよ。
私あれですよ、日本で言うと死獣にして不悪というやつあるじゃないですか。
あれを捨てろってことですよ。
完全に徹底的にある意味では。
エリック・エリクソンという人の発達段階みたいなのも、
あれとすごい似ていて、
なんか私はね、前もこの番組で言ったかもしれないんですけど、
あのような感覚が信じられないんですよね。
ああいうことが平気で言えてしまう人の感覚というものが。
なんでこの、なんかこう、
小学校1、2、3、4、5、6、中1、2、3、4っていう3か。
こういうのも平気で、
なんて言えばいいんですかね。
それをまんま人生に当てはめられるような感じを、
人って簡単にモテるのかなというのが不思議でしょうがないですよ。
だってどう見たってそうじゃないじゃないですか。
私が知る限りですね。
人は歳をとるごとにどんどん賢くなるわけでも、
どんどん優秀になるわけでもなんでもないじゃないですか。
で、それなのに、
この成長と発達が段階的に進んでいくというのが、
06:01
こうも簡単に受け入れられるというのがね、
藤井壮太さんには小学校1年の時だって、
僕ら将棋では絶対勝てないと思うんですよ。
で、彼のピークだって多分ですね、
40万円には終わると思うんですよね。
だから発達というものが、
先へ先へと進んでいくイメージというものを持つのがですね、
年齢以外ではあり得ないだろうというのが、
僕は年齢だけは絶対積み重なっていくけど、
年齢だけでしょっていう気がするわけですね。
で、どうしてもただ、
どんな精神分析であれ死に臨床であれ、
発達というものと、
その人の心の成熟が一見重なっているように見えちゃうのはしょうがないんですよ。
なぜならば、
大前提として持ってますから、
現実というのが分かってないというところに精神病水準を置くわけですね。
ゼロ歳児、現実分かってませんね。
だからここに精神病水準を見るっていうのは、
見てるんですよ。確かに。
つまり言葉が操れるようになる以前の段階を、
便宜的に精神病水準とし、
言葉でやり取りできるようになる以降、
便宜的に神経症健常者水準と見出し、
その中間のところに氷塊霊という線を引いて、
だからこうすると発達の話、
発達段階の話に出てきてしまうんですね。
まず精神病があって、次にボーダーがあって、
そして神経症に至り健常になるみたいなね。
でもそうはならないじゃないですか。
現実には統合失調症の方だって全然言葉使えてるし、
しかも統合失調症は、
多くは20代後半に発症するとか出てくるわけですよ。
急に子供に戻るみたいな言い方を、
だからこれを対抗と言うんですけど、
それにはならないじゃないですか、そんなのは。
多分脳を見て考える人たちに言わせると、
そういう発達で病理を見るのはナンセンスだと思うんですよ、
ある意味ではね。
だから私はそういうふうに対抗とは言わない、
本当は言いたくないんだけど、
対抗みたいなものをここに家庭的に見るっていうのは分かるんだけど、
これあくまでも家庭であって、
何歳に戻ったとか、
何歳から何歳の頃の体験が、
振り返すと統合失調症になるとか、
そういう話では全然ないと思うんですね。
あくまでもこれは仮説であって、
だから発達と臨床は違うのか、
発達と観察は違うのか忘れましたけれども、
とにかくそういう客観的な指標にはなり得ないものなんですよ。
これはあくまでも、
あくまでもこれは、
そういうふうなアレゴリーとして見ると、
何かが見えてきやすくなるよねって話でしかないわけです。
私はまして野良なんでね、
カウンセリングという意味ではですね、
正規の教育を受けてきたわけではないんで、
これをまるまる何かの指標にしないでくださいということなんですね。
09:04
何と見ても構わないと思うんだけれども、
少なくともヒステリーとは何歳から何歳の頃に起きるんですみたいなのは、
起きやすいですみたいなのが見えそうな気がするってことはあっても、
起きますみたいな話には絶対にならない。
だって心理ってだいたいそうじゃないですか。
平気で大人の発達障害とか都合よく言うじゃないですか、
発達障害って原則発達の障害なんで、
子どもの障害だっていうことから始まったわけですが、
いやそれと同じような症状の大人になってもあるわけだから、
これは大人の発達障害と呼ぼうみたいなこと、
平気でやるわけですよね。
だから今はそういう言い方しなくなりましたけれども、
つまりそれは整理されていくってことなんだけれども、
何でも客観観察的に見ようとするのを、
少なくとも精神分析ではしてないと私は思うし、
まして対象関係論は絶対それをやらないんだっていう感じがするんですよ。
だから精神病部分を卒業することはないんですよ。
対象関係論の考えではね、現実には知りませんよ。
でも精神分析の対象関係論では、
対象関係論ではっていうのは、
つまりイギリスで発展したクライン派の精神分析ではっていう意味ですけど、
卒業はしないんですよ。
ESポジションと抑圧ポジションは、
並行して私たちの中にあって、
私たちがどっちのポジションを取るかの話をしているのであって、
段階じゃないか。
まして私は段階という考え方を好かないので、
これはもう好みですからある意味で、
私はこの段階、発達段階という人は、
発達ラインに沿って成長するんだっていう考え方を採用できない人間なので、
感性的に、価値観としてそれを絶対全然信じられないんで。
人が言ってるのを聞いてるときはふーんって聞いておく。
別に反対はしないけど、
信じちゃいないんで私はね。
だから始終にして不悪とか全然信じてないんで、
全然不悪じゃないだろうって思うんで。
僕も含めて大概の始終はもう50ですけど、
エリック・エリクソンですよ。
だから基本的信頼バーサスなんとかみたいな、
ああいうやつって僕は全く到底受け入れられないんで、
あの辺だからすごいテストやってる時も嫌だったんですよね。
ステージかって感じがするわけですよ。
ステージねーみたいな。
そのステージ言うのっていうのは大体おこがましいと思いません?
ちょっと何の権利があって人をステージで分けるんだという、
それができるってことは、
最高位に自分がいるっていう過程を取らないとダメだろうって思うんですよね。
最高位に自分がいってないのに、
人をステージで分けることはできないじゃないですか。
最高位が何だか知らないのに自分が。
12:02
自分が明らかにどんな時でも何が起きてるかが完璧に分かって、
腹を立てるってこともあるのかないのか知りませんけど、
それも完璧に制御できて、
どんな時でも絶対に取り乱さず、
極端に言うと殺されるってことになっても、
全く平然と受け入れられるようになっても微妙だと僕は思うんですよ。
ましてそうでない人のこの発達段階仮説というものは全然ないでしょうっていう。
だって簡単にそう思えるんですよね。
私はスイミングスクール行ってたんですけど、
クロールができて5球、背泳ぎができて4球、平泳ぎができて3球。
だいたいこれだとどうかと思うんですよね。
なんで背泳ぎより平泳ぎの方が上なんだよって気がする。
バタフライが泳げて2球でしょ。
で、メドレーができて1球っていう感じだったんだけど、
これだってですね。
いやこれまさにそうなんだけど、
メドレーができない人間がこの発達作るのはおかしいじゃないですか。
お前泳げるようになってから人を分けろよって話じゃないですか。
なのに泳げるようになってない人がこれを分けてしまうという。
少なくとも年で人をステージ化するなら、
自分まず120になってから言おうねって感じが僕ならするんですよね。
自分30のくせに40で不枠とかいうのはおかしいじゃないですか。
っていう感じがするんですよ。
だから僕はね、そういうふうにこれに対しては猛烈に反発してるんで、
猛烈には言い過ぎだな。
もう興味が全くなくなってるという方が妥当な感じがしますね。
だから私はこの対象関係の、特に美音のですね、
人間には精神病水準と非精神病水準があって、
つまり言語で扱えている部分と扱えてない部分があって、
これすら僕は微妙だと思うんですけど、
でもその2つが両方優勢、片方優勢、だから3通りありますよと。
非言語優勢と言語優勢が両方動いてるとき、
精神病部分と非精神病部分が両方活発なとき、
非精神病部分だけが活発なとき、どちらかというとね、
精神病部分だけが活発なときとは、
異なるその人の世界の見え方があり、異なる情緒の動きがあり、
したがって異なる知性の働かせ方があるというのは、
全く妥当だと、自分の人生経験で、全く妥当な感じがします。
で、過労死で現実的用のためには非精神病部分優勢はいいけど、
どっちがいいとは言ってないですからね、これはね。
私はどっちがいいってことはないと思うんですよ。
非精神病部分、つまり非言語的にやらなきゃならないところはいっぱいあると思う。
例えば食欲、これは非精神病部分がやる、
精神病部分がやるしかないところだと思うんですよね。
言語化できなきゃお腹も空かないっていうのは病理じゃないですか。
言語化できなければ呼吸する気にもならないとかっておかしいと思うんですよ。
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言葉を忘れても記憶を失っても、その人は呼吸の仕方を忘れちゃまずいと思うんですよね。
だからこれが別々に動くのは当然のことであって、
別々に動かなきゃダメなわけですよ。
この観点を取れるようになってから私は、
すごくアトピーも良くなったなっていうのは、
以前お話ししたのと近い話なんですけど、
つまり肌が荒れるっていうのは良いことなんですよ。
荒れるべきときには。
これは精神病部分が司さどってるんですよ。
これを病理って名付けるのが本当はおかしいんですよね。
指示表徴的な能力ってものがあると思うんですよね。
人にはこういうことを対象関係論が言ってるとは必ずしも言えないんですけども、
ラインとかが言ってるとは。
でも明らかにそれはそこに任せておいた方がいいという部分があるはずなんですよ。
食欲なり性欲なり、眠るなり、呼吸するなり、
大半ですよね。人の活動の大半は実はこっちが司さどってる。
ここを言語的に介入していこうとするから、
眠れなくなったり、接触障害になったりするってことが起こるわけですよ。
で、何にも一件起きてなくて、適応度がすごく良さそうなんだけど、
性欲に介入するのが非常にまずいわけですよね。
一つは有名なところで古典的にはヒステリーっていうのは、
性欲に言語的に介入しようとする、性欲に意識的に介入しようとする。
多くの場合、私に性欲なんかありませんなんだけど、
これをやろうとするからヒステリーみたいな介入りっていう現象が起きたり、
過剰に演技的になる演技性っていうのが起きたり、
いわゆる嫉妬という問題。
嫉妬というよりは、エディプスに対する凶暴的な戦いみたいな感じがするんですけど、
そういう感じですよね。
したがってそこから欲打的になっていくっていう事態が発生するんだと思うんですよ。
全部そういう風に繋がってるんだと思うんですよね。
なんで、私はだから最近で言うとですね、
例えば非常に分裂気質な、非常に隙ぞっぽさを持ちながら、
つまり感覚的には感情的に平板で、
何かがすごく分割排除ってやつなんですよね。
自分のある部分はないものとみなすみたいな、
否認してしまってるにも関わらず否定ですね。
否定してしまってるにも関わらず非常にヒステリーな感じがするっていう、
ちゃんと見ていくとそういうアセスメントではダメなんでしょうけど、
いわゆる演技性みたいなのではないっていう感じ。
乖離っていうのも明瞭には出てこないんだけど、
でもすごくヒステリーな雰囲気っていうものが、
言葉の端々にいろんな意味で競争的な迫害、被害妄想みたいなものを強く持っていて、
しかもなんだかそれにだいたい無関心な、
もうこの辺はすごいヒステリーな感じなんですよね。優雅な無関心。
優雅な無関心っていうのはどういうことかっていうと、
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上品ぶるってことなんですよ。
私そんなセックスなんか全然全く興味ないですしみたいな感じで、
非常に理智的な感じがして、そういう話ですよね。
そういう感じなんだけれども、何ていうのかな、
知的合理化みたいな感じでもあるんですよね。
そうして自分の無意識に対して強圧的な態度を取ることで、
現実にすごく適応しているようなんだけど、
なんかひどく不自然だって感じがして、
でなんかこう、あれですよね。
よくめちゃくちゃ粗暴になる時があるみたいな話が出てくるわけですよ。
だからめちゃくちゃその人怒ってるみたいな。
あの女と比べて私のどこが劣るっていうんだみたいな話がいきなり始まる。
これはちょっと小麗堂らっぽさがあるんですけれども、
そういうことが起きるっていう。
起きるんだけど本人の中でそれは、
なんかそんなことを言ったような気もするぐらいしか覚えてないとかね。
その辺は会議なんだろうと思うんですけれども、
こういうことって結局つながってるじゃないですか。
それはどっかおかしいみたいなものすごくふわっとした言い方もありますけれども、
大体においてそれは言語活動でやってることのようでいて、
でも会議って言語活動の領域じゃ説明できないですからね。
都合の悪いことは私忘れることにしましたみたいなことで忘れられるわけじゃないじゃないですか。
忘れる覚えてるっていうのは結局意識的にはコントロールできる範疇じゃないですよね。
勝手に起きちゃうことですよね。
眠れる眠れないもそうじゃないですか。
眠ろうとして眠れないっていう人は眠ろうとしても眠れないわけだから、
意識的にコントロールできないものを意識的にコントロールしようとするから、
ますます精神病部分が混乱を生きたして、
強圧的にかかってきますから、
マネジメントしたいという力が強圧的にかかってきますから、
だからこのマネジメントしなければならないという意識がマネジメントを損なうわけですよね。
だから僕はそれこそグッドバイブスですけど、
これは私の中ではグッドバイブスが一番近いという意味。
アルガママっていうのは大事なんですよ。
多くの場合アルガママが意味しているのは精神病部分を放っておけっていうことなんですよ。
ここを意識なんかで左右できるわけがないという話なんですよね。
だって大半の動物は無意識の水準でうまくやってるわけですからね。
人間だけが一生懸命、しかも人間も全部じゃないんですよ。
一部の人だけがここを一生懸命うまくやればうまくやった方がいいっていう理論に立っちゃおうとするんですよ。
意識できているということは、
意識できる方が無意識より上位におけるっていう感覚を持つので、
この上位っていうのは強さを意味しがちなんですよね。
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森林とかそうじゃないですか。
森林はただアルガママに伸びてるだけだけど、
伐採するのは人ですよね。
人は伐採ができるわけですよ。
意識的に。
これがいいってことになってるわけですよね。
切るべきところを切るとかね。
切るべきって決めるのも自分なんですけれども、
こういう話がすごく私たちの中では優勢になるんで、
実際そうやって我々は生きているからここに反論するのが難しくなってるわけだけれども、
ここは常に何て言うんですかね、
ここと対抗していく。
対抗していくって言うんじゃないんだけど、
ここを自分たちの上位に置かないってのはやっぱり大事だなぁと思うんですよ。
これは私は小さい頃からその感覚がやっぱり強いんですよね。
結局僕は長寿画と言ってもいいでしょうし、
長寿画と言ってもいいと思うんですけれども、
意識って言っとけばこと足りるなとは最近思うんですけどね。
要するに非精神病部分ですよね。
言語象徴で、言語象徴は強いんですよ。
計画とか立てて、先日やっぱり見たやつだな、私は。
ヒットランのための虐殺会議。
あれ完全に長寿画でやってますからね。
長寿画が理にかなったことを、
最近流行ってますけどね、
地獄への道は善意で敷き詰められている的な。
僕はそういう言い方をしても別にいいと思うんだけど、
あれはあの時代は本当そうだったから、
しょうがないと言っちゃったらダメなんでしょうけど、
そこを上位に置いちゃうんだよなっていうのは感じるんですよ。
でも長寿画だってエースですからね。
長寿画だって結局俺がこうやりたいんだから、
それを立地的にやるんだぜって話じゃないですか。
ここを伐採したいっていうのは、
伐採することが絶対前であるって話じゃないじゃないですか。
伐採することがいいと私が思ってるから切るわけでしょ。
結局のところそれはエースに動かされている点で、
変わりはないと思うんですよ。
その妥当性が後からじゃないと判断できないという点においては。
あの人らのための虐殺会議すごいですからね。
殺すことに問題があるとは思ってるけど、
殺さなければならないという点では何も問題ないと思ってますから。
一番人道的な主張をしている人が、
殺すのはちょっとためらうからやっぱり、
少なくともドイツ系のユダヤ人殺すのやめようよって言って、
男主にすればいいんだよって言い方をするんですよね。
男主にすればそんなに残酷なことをしなくたって、
長い目で見ればユダヤ人はいなくなるでしょうみたいなことを言うんですよ。
しかもその人はそれをすっごく人道的だと思っているわけですよ。
周りの人が反対するのは、むしろ聞こえが悪いだろうみたいな、
ここも不思議なんですけどね。
むしろそれは無理な方法論だろうみたいなことを言い出すんだけれども、
24:02
本人たちはすごい理智的に言葉でやりとりしてますからね。
会議が感情的になって紛糾しそうになると、
ちょっと休憩を入れようみたいなことを言って、
めちゃくちゃ本人たちは常に理性で動いているつもりでいるし、
実際そうなんですよ。
だから私は長時間を、これは非常に極端な例ですが、
長時間を無意識の上に置くというのを、
ごく自然にやり始めるというのは何なんだろうなって思うんですね。
ほとんどの場合、そういう事実はないような気がするんですよ。
うまくいってないですから。
うまくいくんだったら、私は不眠で人は絶対悩まないと思うんですよ。
眠るだとというのは、無意識の活動の中でも最もおとなしいやつじゃないですか。
寝るだけですから。
これすらも自在にできない意識が、
なぜ無意識よりも物がわかっているという考え方になってしまうんだろうと思うんですよね。
本当に無意識任せにしていたら、
全てがうまくいかなくなるんだろうか、なるんだと思っているから、
それを恐れているから、我々は自意識に頼るんですけれども、
あれなんですよ、DHロレンスとかがすごくお得意とした話なんですよね。
言語諸長はことごとく捨てろぐらいな勢い、
その辺がチャタリ夫人の恋人でテーマになっているテーマなんですけど、
ああはなれないですけどね、私たちは多分。
だけどチャタリ夫人に出てくるじゃないですか、主人公の下半身を失っちゃう人が、
下半身なんかいらないんだってわけなんですよね。
上半身だけあれば人間はやっていけるんだよっていう考え方なんだけど、
私はあれは非常に強圧性の象徴だと思うし、
ヘミングウェイも同じようなことをよく書いているんですけれども、
ああいうのってやっぱり普通に考えて変だろうっていう感じがどっかすると思うし、
この話がちょっと進行しすぎた感じはするんですけれども、
要するに発達と観察は違うんですよ。話はそこに戻るんです。
発達と観察は違うんですよ。
だから私のこの話を聞いてくださっている方にも申し上げておきたいのは、
いつでもどこでもPSポジションとDポジションは並列しているという前提で僕はしゃべっています。
確かにPSポジションはおそらく21歳時において優勢とかってあると思うんだけども、
それは21歳時の時にだけあるとか、この種のトラウマはこの年頃に起こるとか、
起こりやすいとかあると思いますが、起こるとかいったことが決まるわけではない。
だから思い出せないことっていうのはつい最近のことかもしれませんよっていう話もあるわけです。
確かに無意識化にあるものが幼児期に起きたりゼロ歳時の頃が無意識だったのはほぼ確実だと思うんですけど、
27:06
だからといって15歳の頃に起きたことなら意識できているとか、
30歳になった頃のことなら意識できていると考えるのは無理だと思うんですよね。
私は絶対、私だってですね、私はそういうのがあんまりそういうので悩まなかった方ですけど、
つまり無意識水準に対して圧やマネジメント欲を私は強くは持たない方だったから少ないと思いますが、
でも絶対僕は30代、もしかするとつい今年のことになって会議はあると思います。
はっきり言って。ないはずないなって思うんですよね。
このぐらい色々見ていくとね。会議ってのは起きるんだと。
私が全く意識しないでやってることが絶対この長い年月の中には非常に頻繁にと言ってもいいぐらい差し込まれていて、
その時に私が私でない人になっているってことは起きているはずだし、
起きてない、起こさないようにするんだってこと自体、僕にはナンセンスとしか思えないんですよね。
気が付くと失神とかって出てくるじゃないですか。出てこない人っていないと思うんですよ。
で、毎日のお腹の調子って厳密に考えてると違うじゃないですか。
コントロールできてるならそうはならないと思うんですよ。
食欲にしても何を食べたいにしてもですね。
利きかなったものが、これもクラスのけいぞうさん得意なんですけど、
ヘノを動くままに買えば健康になれるっていうやつなんですけど、
僕はでも、あれをそのまま言われてすぐ信じられるかっていうとそうはならないにしてもですね、
ああいう考え方って大事だとやっぱ思うんですよ。
僕らどうしたって後ろにある食品は何出てきてますとかカロリーはどうですってのを頼りたくなるじゃないですか。
でもそれは、今分かっていることに関しての話だけですよね。
結局白菜に書いてある食品成分表示とネギに書いてあるのはよく似てるかもしれないけど、両者は全然違うじゃないですか。
その違いっていうのは、全部を記載できるはず、全部記載するってことは食べるってことじゃないですか。
食べなきゃ分かんないですよね、絶対に全部のことは。
自分の現在の身体状態に合わせて。
人間も機械でなければ食べ物も機械用の何かじゃないわけですから、分かんないわけですよ。
だからそれについて感性の方が分かってるというか、意識できていない部分が知っているっていう考えは私はめちゃくちゃ大事だと思うんですよ。
9割方はそうだろうと思うんですよね。
だって呼吸の仕方忘れてしまったら私たちアウトですよね。
呼吸の仕方は知っているんだけれども、呼吸の仕方を言葉で説明できているわけじゃないと思うんですよ。
お医者さんの本には絶対呼吸の仕方書いてあると思うんですけど、でもそのお医者さんが呼吸の仕方を忘れてしまったら、それをいくら読んでも死んじゃうと思うんですよ。
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だから言葉による説明ってそういうもんでしかないと思うので、ましてこれをやっぱり性に当てちゃいけない。
性は放置なるべくしないというふうに思います。
ここにはいろんなことが入ってるはずなので、性ってのは。
だって男の子がお母さん好きになるっていうのは性欲でもあるけれども親子の愛情でもあり、生存というものに直結しているだけでなくお父さんのルールっていうものとの相互をきたすって話でもあって、いっぱいここに入ってるじゃないですか。
これをまして自分の性欲が良くないものですみたいなのとか恥ずかしいものですとかを、ただ何の気なしにここに組み込んで意識的に乖離させたりするとですね、なんかとても非常に変なことが起きると思うんですよ。
そうすると母親への愛情も一緒に乖離することになるし、否認することにもなるし、お父さんとの相互も勝手に否認することになるし、あるんですから。
あるものをないことにしてるだけなんで忘れるとかね、スキンシップみたいなものに対しても排除することになるし、こうやって性欲だけ排除はできないわけじゃないですか。
そうやった時に僕らが何かを思い出せなくなる。
非常に簡単に言うとセックスの仕方を思い出せなくなったりするっていうようなことが起きると思うんですよね。
起きないはずないと思うんですよ。
むしろ、だからこの時に起きることっていうのが、そういうことをやろうとやたら頑張るというのが非常にボーダーライン的な感じもあればですね、非常に性的な障害っていう感じもあって、
ある種のヒステリーみたいな男性であってもですね、漢字もあり、エリプスコンプレックスでもあり、つまりどんな症例になってどういう診断がつくかは、そのフェーズそのフェーズごとにガラッと変わっちゃうと思うんですよね。
こういうことも起こると思うんですよ。
どんなモデルを採用してるかによってアセスメントが変わってくるというようなことも起きると思うんですよ。
だからといって何の診断もつけてもいいとか、誤診がないという話でもないんですけれども、だから難しいですよね、そういう意味で。
そういう話として、ものすごく多面的で多層的に捉えておかないと、何がいいとか何が悪いとか。
この発達の方がその発達よりも先にいっているとか、問題をこうやって解決するっていうのは、少なくともリニアには絶対いかない気がします。直線的には。
こうすればこうなるっていうのは、ここには全然適用できる感じがしないんです。
実家にエディプスだけの点を絞ってしまえば、ある程度こういうことが言えるというような話は言えても、その話は同時にシステリーみたいな問題を含んでいたり、同時に精神病水準みたいな話を含んでいると。
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でもその人は精神病なわけじゃないっていうことはいくらもあると思うんです。つまりモデルを先に立てちゃいけないと思うんですよね。
3ヶ月チャレンジ、昨日たまたま言っちゃったんで、基本的には適用している人がいて、その人たちの精神病水準における課題というものを勉強するうちにぶち当たるのを待ってますみたいな話を。
そういう言い方なんですよね、所詮私のは。でもこれだってモデルが先にあるわけじゃないんですよ。今までやってきた段階からは一応そういうことになっていますと。
つまりなんていうんですかね、何でもそうだと思うんですけれども、取るたびに人工分布とかは変わるわけじゃないですか、人は動くから。
3ヶ月チャレンジも出入りが非常に頻繁にありますから、その方がいいと私は思うんだけれども、出入りが頻繁にありますから、その結果として3ヶ月チャレンジのモデルっていうのは大きく動いていくと思うんですよね。
ダイナミックにといえば聞こえはいいんですけど、言い方を変えるとめちゃくちゃブレるってことですよね。
どっちでもいいんですけど、ネガティブにとるかポジティブにとるかの話なんで、どっちもありますからね。
だからいつまでも絶対完成はしないだろうなという感じは私はこれには持っていて、それも結局観察しているからじゃないんですよ。
私は仲の人間ですし、巻き込まれていますから、巻き込まれていくのが私は思うにどんな場合でも一つの甲斐だなと思うんですよね。
巻き込まれるっていうのは非常に大切なことなんですよ。巻き込まれるとか騙されるとか、昨日迂闊って話しましたけど、迂闊に失敗するとか、そういうことをしないとわからないことだらけだと思いますし、実際わからないことだらけなんですよ。
迂闊に失敗したなと思った時に答えが出る、出るっていうようなことって、それも答えじゃなかったりするっていう、なんかもう本当にですね、ラビリンスなんですよ。
このラビリンスってのはやっぱりラビリンスの中で迷ってみないと、その中の構造なんて決してわかることではないと思いますね。
木を重ねるごとに3ヶ月チャレンジはですね、ますますゴリ夢中感が、霧がどんどん濃くなっていくって感じがあるんですよ。この感覚がリアルってもんだろうと。
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