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2022-10-03 29:44

【682GMV】カウンセリングが有料である意味について

もしも無料だったとしたらどうなるか。

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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいま10月2日日曜日の11時20分でして、これを撮り終わったら食事をしてですね、
神保町に出かけて書き上げ塾という、
倉園圭造さんと一緒に共催している、本を一冊書き上げるための講座ですね。
講座といっても6ヶ月講座で、値段が20万円ぐらい。
ぐらいっていうのは、税別とかそういうやつなんですけれども、
でも6ヶ月なんで、月々に直すと3万円ちょっとかな。
倉園さんのですね、編集さん時代のやっぱり編集長だったんですね。
時代のが多分すごいんで、それを6ヶ月かけて割とみっちりなのでですね、
お値段的に高いという感じは、私はもう最初自分で言ってた時は、
この金額自体が高く感じてた時もあったんですけれども、自分が受けると思ったら。
今思うと全然高いとは感じなくなりました。自分が受けると思ってもですね。
今ですね、私、遠畑海斗さんのオンライン講座という、初回だったせいもあり、
格安で受けさせてもらってるというか、結構人数いるんですけどね。
あれ完全に大学の授業そのものなんで、まとめて払った時ちょっと躊躇したんですけど、
今思うとこんなに異常に安いのはいけないんじゃないかと思うようになりました。
なんていうのかな、いいのかなみたいな感じで、自分これを大学に通ってるわけじゃないですかね。
昔から私が通ってた大学にもあったんですよ。日曜講習みたいなやつ。
あれ格安っちゃ格安だったんで、悪くはないんですよね、ああいうのがあるっていうのは。
社会人の方が真面目に学ぶとかって言うじゃないですか、あれはあれで私はすごい微妙な言い方だと思うんですよ。
社会人が真面目に学ぶのはある意味で当たり前ででしてね。
学生さんがみんながみんなあやって真面目に学び出すということになるとすると、
多分文化的に何かが変わるんだろうなって感じがします。
モラトリアムっていうのはそういうもんだと思うんですよね。
それはそれとして、私自身の座みたいなものも大学の授業とかではもちろん全然ないんですけれども、
値決めって結構微妙に悩むわけですよね。
もちろん私が大学講師とかをしてれば話はもっと簡単なんですけれども、
何でも言う通り私これといった資格がないので、いくらであっても悩むわけですよ、ある意味では。
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だからといって、ただっていうのは全く意味が変わってきてしまってですね。
カウンセリングですよね。最近ではカウンセリング全体的にそうだと思うんですけど、
あれただでやったら効果なくなる上に、しり滅裂なものになっていくんだろうなって思うんですよ。
一番私がこれを考えるときに思い出すのがドイ・タケオさんなんですよね。
甘えの構造ですよね。甘えの構造のカウンセリングの最中にある女性がすごくてですね、みんなすごいと思うんですよ。
なぜならば情緒の不安定な人が少なくとも、最も軽い感じだとしてもそういう人が来るわけですよね。
精神分析を受けるわけですから、ちょっと診療内科行ってみようということは全然違うんであれは。
インテンシブにやることが最初から定義としてありますから、週に4回とかは行かないのかもしれないけど、
でも毎週毎週1万円ずつ払うのだって結構覚悟いるじゃないですか、普通の人がやるとなったら。
だからそれでですね、しかも生優しいというのもおかしいけど、そういう人多分行かないと思うんですね。
その上、あらゆることをある意味喋れるわけですよ、そこに行けば。
何を喋ってもいいっていう定義なんですよ。そんなの当たり前だと思うかもしれませんが、
そういう時に出てくる言葉って凄まじいものが出てきてもおかしくはないじゃないですか。
そこに授業の問題っていうのが出てくるんだけど、かわいはよさんなんかはっきりと受け止められないと思ったら断るべきだっていう風に言っているんですね。
この断るべきだってどのタイミングでどう断るんだろうなって思っちゃうんですけどね。
大変なことを言い出しかねないわけじゃないですか、ある意味では。
大変なことを言わないにしても先生好きですから結婚してくださいというようなのがザラだと思うんですよね。
それに対してどいさんがですね、そう言われたわけじゃないんだけど、あなたのような人はもうごめんだから、
もういい加減にしてほしいっていうようなことを言ったみたいなですね、カウンセリングの甲斐があるんですね。
で、ここなんだと思うんですよ。
これを言った後でお金を取るのと取らないのに大きな違いがありますよね。
もう来ないでくださいみたいなことをカウンセリングでは言う、来ないでくださいとは言ってないんだよね。
もうごめんだと言いたいと、あなたのような人は誰も相手にできないよみたいなことを言っちゃうわけですよ。
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どいさんのすごいところはですね、これを言うのもすごいけど、言ったと書いちゃうのもすごいですよね。
何も隠さないのかなこの人はっていう感じがします。
で、とにかく言ってしまって、もうごめんだと言いたいと言ってしまうんだけど、時間が来たらそこで終わるわけですよね。
どういう回だったのかわかんないですけど、はい時間ですって言って終わるわけですよ。
で終わった上に、ではおいくらまたお大事にみたいに言うと、するとするじゃないですか。
さっきの何だったんだって感じに誰だって思いますよね。
ましてその情緒的にそういうふうにアップダウンの激しい人がそれを体験した後でお金払って帰ったらあれは何だったんだろうって思うじゃないですか。
夢みたいですよね。
この夢みたいって思うのってすごい大事じゃないですか、私たちにとっては。
私たちにとっての何それはすごく重要だとかこれは絶対シリアスな問題だと思っていたことが、3日くらい経つとあれは何だったんだろうなって思うことってありません?
私はこれすごいなんつーんだろうな、だから私は感情的になるっていうのがすごい嫌いだったんですよ。
例えば感情的になっていやもうこいつはほんと絶対許せないと思って、僕なんか弱っちいくせにジャイアンみたいなやつ殴っちゃったとするじゃないですか。
でも3日くらい経った後でいやあれ別に殴る必要もなければ怒鳴る必要もなければ怒る必要もなかったんじゃないってことになると釣り合い取れないですよね。
僕はこの釣り合いが取れてるケースが感情的になったケースであった試しがないなって子供の時からずっと思ってたんですね。
大人といい先生といい同級生といいみんな感情的にすぐ沸騰するんだけど、これが出来事に対してちょうどそれぐらい感情的になるのもこれならしょうがないよねと私が思うようなことは一度も見たことがない。
本当に一度も見たことがないんですよ。私自身でも毎度毎度そういう後悔があったわけですね。
やけに感情的になって親に喰ってかかるとか泣き叫ぶとかした後ですっかり冷めるわけですね。
僕冷めるのが多分ですね、遺伝的に冷めやすいというのもあると言われればあるんで、私がそういうのを調べたわけじゃないんだけどあるという説もあるので一概にないと言い切れないんですが、
たぶんこれはうちの親の私に対する養育態度がその教育のスタイルみたいなやつによって私がこの感情というものを簡単に隔離って言うんですけどね。
防衛メカニズムにあるんですよ。隔離。隔離できないと困るんで、隔離はできた方がいいんだけどあまりにも私は隔離を徹底的に早早とする癖がついたためにですね。
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感情が冷めてしまうのが早いんですよ。早いのがいつも気に食わないなっていう。なんで気に食わないと思います?これ早いと喧嘩負けるんですよ。
相手は感情的にまだ怒ってるのにこっちの怒りがもうあっさり冷めちゃってるから喧嘩すると負けるんですよね。こっちのモチベーションがすでに下がっちゃってるから。
怒られたり蹴られたりしてもですね、あんまり腹が立たなくなっちゃうんですよ。しかも私一度冷めてしまうと上がってこなくなりやすいんですよね。
これも多分抑圧をしたせいなんだとは思うんですけどね。これ覚えてる限り5歳6歳の時にもう冷めるの早いな自分はっていう。
そしてこの冷めるのが早いのが人に誤解与えてるなということも分かってはいたんですよ。
なんかですね、小バカにしているとかって言われるんですね。相手は怒り出すんですよ、僕が冷めてしまうことに。
すっごいこの情勢が不利なので、昭和ですね、ちょうど50年代か、まだ昭和60年になってない段階での男の子の世界で、
この何て言うんですかね、持続的に怒れないっていうのは結構情勢を不利にするというのが当時の私の考えだったんで。
だけど怒ってるふりをしたぐらいでは、強ければ僕が別なんだろうけど、怒ってるふりとかじゃ全然何の役にも立たないから結局謝ることになって腹立たしいなと。
ここで初めて腹立たしくなる。なんかずれてるんですよね、すべてが。
そういうことがございまして、どうも隔離というものが簡単にできるのはダメだなって思ってたんですね。
ただ当時小学校1年に上がった頃から隔離が全くできない子の様子を見ていて、当時は僕はあいつはアホなんじゃないかと思ってたんだけど、そうじゃないんですよね。
隔離ができないというのは正しいことなんですよ、ある意味。
だってそんなに簡単に感情と行動を切り離せたらおかしいわけですよね、子供のくせに特に。
だけど私はそれが簡単にできたために算数とかは大変得意だったわけです。
特に文章題とかに的面に出るんだけど、昔何かでこれを読んだときにそうだよな、全くだと思ったことがヘレンキラーかなんかの話なんだけれども、ヘレンキラーじゃない人なのか、ものを全然抽象的に考えられない人というのはですね、
算数の命題というか文章題みたいなのはあれ抽象なんだけど、抽象化されないんですね、頭の中で。
例えばリンゴ1個いくらです、みかんいくらです、合わせていくらです、リンゴ何個買うことができますかみたいな問いがあったとするじゃないですか、リンゴ5個買うことができるみたいな答えだとして、私はリンゴ嫌いだからねっていうことになっちゃうんですよ。
これがケーキだったら50円払ってもいいよ、これは正しい答えですよね。
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私はそのことがさっぱりわからなかったんですよ、あれが抽象でないという発想を取ることがなかったから。
多分僕は幼稚園の年中時代にすでにあの種の問題で抽象化されていないと捉えることは絶対なかったんですよね。
だから当時栗とかさつまいもが好きで、嫌いなものとしてはなんだろうな、きゅうりとかは大体好きじゃなかったんですよね。
だからきゅうり1本何円ですとか書いてあると高いなとぐらいは思ったんだけど、だからといってこれは問題だからなっていうふうに思えたんだけど、思えない子もいるんだというのが当時の僕には理解ができなかったんですよ。
だからこれがケーキだったら買う気になるとか言ってると頭おかしいんじゃないかと思っちゃってたんだけど、彼らの頭の方が正常なんですよね。
僕の方が少しずれてしまってるわけです。
だから隔離っていうのはこういう時に大変役に立つんですね。
そもそも算数の授業にこれから算数ですからねとか先生に言うじゃないですか、僕あれがスッとすんなり受け入れられてしまうんですよ。
でも明らかにそれはおかしいですよね。
僕も先生という立場になればですね、こいつら算数だからねって言ったってそんな8時から算数モードになるはずないなってのはわかるんだけど、自分はそうじゃないんですよ。
言われるとその通りできちゃうから隔離してしまうんですよ。
自分の感情としてはまだ遊んでいたいとか、まだ絵を描いていたい、美術の続きをしたいとか図工化したい、工作なんかは僕も割と好きだったので、工作の続きをしたいとかって子供あるじゃないですか。
それ引っ張りますよね。
僕はあれをきれいに切っちゃうことができてたんですよ。
これは防衛メカニズムなんですね。
僕がきれいに切っていたというよりは、僕の自分はもうほとんど無意識の世界の中で、これを一旦隔離して、一旦ここでSOの形を変えて、衝動の形を変えて、算数に振り向けようってことをやろうと思えばすぐできたっていうところがあったんで、
これが私の将来に影を落とす、などということを当時は全く思い至らなかったんですよね。
今ならば少しは先生とか親とかも、リダラシ上がってきてますからなんだかんだ言って、こういう子供のこういう振る舞いには問題があるぞってことが多少はわかると思うんですけれども、
昔はあの当時はこういう子であれば万々歳みたいな感じで、すげえよく言われることしかなかったから、わからなかったんですよね。
これがまずい結果になる可能性も多少あるのだということが。
そういうことがありましてですね、悩んだわけですね。
今後で悩むことになって、今なんか当時のことを、今のも全然正確じゃないんですけど、僕の内面で起きていたこととしてはいくらか正確なんですよ。
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だいたいこのぐらいだったなと。
なんで幼稚園の年中とか年長のことに僕がポンポン思い出せるかというと、
埼玉県に引っ越してきたのはちょうど幼稚園の年中の途中だったからなんですね。
途中で違う幼稚園、ああいうときに幼稚園の転校って結構子供には深刻で、当時はすごいいい思いではなかったんだけど、よく覚えてるんですよね逆に。
むつというところ、青森県にいたので、そこから引っ越してきたのが4歳の仲間だったんですよ。
それで途中から浅川第二幼稚園という、今は名前変わっちゃった幼稚園に行って、そのときに僕はすごいいろんなことをですね、考えたことを今覚えているわけです。
まあ間違った記憶もあると思うんですけどね。
まあまあそういうようなことがありました。
で隔離とか抑圧とか抽象化とか、その当時すごく覚えたことだったんですね。
で、それをその後も延々と使い回すようになり、大体において全く役に立たないときとまあまあ役に立つときと様々なんだけれども、あって、今逆に苦労していると。
今じゃないな。一番これで苦労したのは多分大学の頃ですね。本当にいろいろ困りましたね。
自分の情緒が適切に表現できなくなっているというね。
しかもそのことが自分にハンディになってしまっているというのがよくわからなかったんですよね。
だんだんその頃からフロイトを読み出して、なんとなくそういうことが起きているのかなと思っていたんですけど、何度も言う通りフロイトを最初相当他人事のように読んでいたから、やっぱりよくわかっていなかったんです。
何の話からこれに脱線しているかというと、つまりドイさんのそれですね。
彼はやっぱり劇的効果ということを盛んに書いているけれども、劇になっちゃうわけですよ。
だって先生のことが大好きでとか言われているうちに、そう言われたのか知らんけど、
先生が、あのドイさんがですね、あなたのような人はもう全く誰も相手にできるものじゃない。いい加減にしてほしいと思うみたいなことを言って、
はい、時間が来ました。おしまい。
で、お金はいただきます。
これがもしですね、時間制限でお金も取らないとなったら、これどうなっちゃうかというと、
どこから現実で、どこからが非現実的な場面と、さっき言った隔離ですよね。
どうやって分けることができるのかと。
こういう場面って世の中にいくらもあるじゃないですか。
そして、その都度人は少し混乱したりもしますよね。
こういうのが非常に巧みに扱えるっていう人も、私なんかすごい羨ましいんですよ。
こういうのがすごい巧みに扱えるってやつが、大学時代には男女共にいてですね、
私はもう本当に、何て言えばいいのか、目を丸くするというのはまさにあの子で、僕これがダメだったんですよね。
算数の隔離とかがそんなに簡単に幼稚園でできてたのに、大人になると、
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何て言えばいいんですかね、遊びで恋愛ごっこをしているような顔をして、
でも恋愛にはいたらないみたいな、そういう線の出し入れっていうのかな、
上手い人がいますよね。で、私は全くそれができないわけですよ。
私ができるのは結局、これはこういう時間です。あれはああいう時間です。
ビシッと切られていて、しかもそこに情緒をほぼ全く抜けなくていいからやれるわけですよね。
でもそこに例えば恋愛みたいな、自分にとってすごく大きな意味を持ちかねないことが、
いわば戯れにっていうじゃないですか、ああいう形で展開されてくると、
僕は全部本気にしたいモードが当時はすごく強くあったわけだから、
ものすごく本気にしていってしまって、ちょっとストーカーチックになっていくわけですよ、こういう人間は。
上手くどこが冗談で、どこからが本気なのかが多分他の人に分かることなんだけど、
私にそれは分かんないわけですよね。
私に分かるのは、今は数学の時間なんですということが、
教室のような区切りとともにあったときに、そこをバシッと切ることができるっていうことであって、
そもそも切るメリットが自分にない、恋愛ってそうですね、ある意味では。
この恋愛モードっぽくなったのは冗談なんだというふうに、
僕が受け止めるメリットがあんまりない場合、冗談ごとにしたくないもんだから、
でも冗談っぽくも見えるし、ここがまた微妙なんですよね。
冗談っぽいものをすごく真剣に言ったら、すっごい後で恥ずかしい感じがするじゃないですか。
屈辱的っていうのかな。
僕はこの屈辱にこだわってたんですよね、学生時代。
それも大変よろしくないんだけど、こだわってたんですよ。
こだわっちゃってたもん。どうにもならないんですよね。
で、結局どこまでも本気になっていくというのがすごく恥ずかしいことである一方、
冗談として完全に割り切ってしまうと、自分は何かを失うんじゃないかという恐怖が、
つまりチャンスを失うんじゃないかという恐怖、何のチャンスだかよくわかんないんだけど、
当時そういう恐怖があった。これがもう恐怖だったんですよね。
恐怖以外の何も、不安とかじゃないんですよ。恐怖だったんですよ。
これが私はストーカーっぽさっていうものを自分の中で明らかに作ったなっていう感じがしてます。
だから誰から構わずなんですよ、チャンスが訪れた気がしてしまうと。
で、チャンスを失う恐怖があるから失えないんですね。恐怖ってそういうもんですよね。
誰かが雲が嫌いとか蛇が怖いって言ってるの、高いところが怖いとか、戸が閉まるのが怖い。
全部恐怖ですよね。恐怖なんで、もう引くに引けないんですね。
押すしかなくなっちゃうわけですよ。
だけれども相手は冗談か、少なくとも冗談にしたいと思ってるわけだから、
全部を冗談にしてしまうわけですね。
これは大変ではないんだけれども、大変ずれた行動を生み出すわけです。
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というような話に、土居さんのカウンセリングの話ってすごく近くて、
だからこそお金と時間で切るっていうのが非常に重要なわけですね。
河合さんが書いてたんですけどね、毎日1時間、週4回とか、
河合さんはいわゆるフロイドの精神分析じゃないんで、週に1回とかも多々あったと思うし、
週に4回もあってなかったと思うんですけど、
仮に週に1時間だとしても、あるいは毎日1時間ずつだったとしても、
患者にとってはもう足りないと思うようになるもんなんだと。
あれはやっぱり力のあるカウンセラーさんの、しかも長年の経験がそれを感じさせるんでしょうけれども、
他では全然うまくいかないという患者さんにしてもらえればですね、
とにかくその人がいてくれて、しかもその人の情緒は常に安定してるわけですよ。
河合さんぐらいになってくると。
で、ずっと話を聞いてくれると。
しかも適切に反応してくれると。
こういうところにずっといたくなるわけじゃないですか。
そう思えば、実は1日1時間ってすごい短いんだっていう話なんですね。
まずそうは思わないですよね。
でも、恋愛で熱くなってる時のことを思っていただくとちょうどいいと思うんですね。
1日1時間毎日会うっていうのは相当なもんだと思うんだけど、
明らかにそれ以上一緒にいようとしますよね。
そして結構話がややこしくなっていきますよね。
そんなことは人にはなかなかできるもんじゃないですから、
カウンセラーってのはこれをやるんですよ。
だから、ここで時間とお金を両方取っ払ってしまったら、
そりゃやばいことになりますよね。
そして、受けてみたことのない人には、
ほぼ健常で精々神経症っぽく時々なる程度の人にしてみれば、
大変理解に苦しむ感じかもしれませんけれども、
たぶん間違いなくクライアントさんの中には、
カウンセラーを独占したいという気持ち、独占予布が猛烈に高まってくるという人は、
結構いらっしゃるんじゃないかと思います。
私がアメリカでは何度かそういうビデオを見たんですよ。
他のクライアントは全部キャンセルしてって言うんですよ。
当時はノートみたいなのがあって、予約表みたいなの。
美容室とか行くとあるじゃないですか、そういうやつ。
この日は空いてます、この日は埋まってますみたいなことを教えてくれるやつですよね。
あれを見せろって。
全部私にしろと。
お金払うから。
お金を持っている人の病気が難しくなりやすいのはここですね。
お金はいくらでもあるっていうタイプの人っているわけですよね。
アメリカだから特に金持ちとなれば、別にビルゲイツじゃなくてもそこらじゅうにいるわけですよ。
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そこらじゅうにはいないけど。
そこらじゅうにはむしろ貧乏な人の方が多いですけど、でもお金持ってる人はいます。
そして全部キャンセルしてと。
私だけの専属の先生になってくださいと。
あなたはそれで2倍の収入を得られるようにしますと。
どうします?こういう話になってきたら。
大変なことになるじゃないですか。
そのまんまやったら多分。
多分その人とずっと一緒にいなきゃなんなくなりますよね。
しかもですね、こういう人は大体バイポールな傾向がありますから。
分局傾向がありますから。
先生がちょっとでも気に入らないことをすると、もうクビだってことになるわけですよ。
そしたらその先生、本当にこれに乗ったら一問なしになっちゃうじゃないですか。
収入がゼロになっちゃいますよね。
だからそんなことはできないってことになりますよね。
でもその時に例のロジャーズの問題が出てくるわけですよ。
そんなことはできないというのは、需要してないことになっちゃうじゃないですか。
こういう難しさっていうのは至る所に登場するはずなんですよね。
だからお金と時間をきっちりと守りましょうと。
これをあらゆる人がきっちりと、例えばフロイトがきっちりと守ってないのは、
もう本を読めばすぐ明らかなんですけれども、
でもフロイトはきっちり守りましょうみたいなことを書くわけですよね。
やっぱりこれ入門する、日本人が好きな言葉で言えば守張りなんですよね。
守なんですよ、この時間とお金を守るというのは。
でもこれがやっぱり大事なんだと思うんですね。
こうすることで私たちはいろんなものを学ぶわけですよね、クライアントさんとしてみると。
まず現実と劇的な世界というのは必ずしも一致しない。
だけど人間のやりとりというものは、この劇的なやりとりがすごく多い、
さっきの私の恋愛でハマっちゃったようなもので、
相手は恋愛してくれてないんだけれども、
疑似恋愛みたいなのを楽しみたいという人は結構いてですね、大学生ぐらいだと。
そういうものを扱うわけですよね。
この種のことっていうのはいくらもあるわけですよ。
既読するだってそうだし、なかなか返事がつかないで気を揉むとかいうのも、
ある意味こういうもののやりとりの難しさにはまり込んでるわけですよね。
だからもうごめんだと言いたいという先生のところでもいくらでもいけることになってるわけです。
だってお金払って時間決めてあるんだから。
こういうふうにしておくことが、実は患者さんにとっても大きなメリットがあるわけですよ。
安心できますもんね、このほうが。
こうじゃなかったら本当に嫌われてるんだろうかとか、本当はどう思ってるんだろうか。
結局お金払ってもそれを気にするから、どうしようもないわけですけれども、
でもお金払わないのとお金を払ったのとでは苦しみは全然違うと思います。
100倍も1000倍も違うと思いますね。
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お金を払ってないという人にしてみると、もしそういう状況の人になってみた場合、
先生がちょっと嫌な顔をしたんじゃないだろうかみたいなことで、
もうすぐに会って確かめる。
というかもう離れること自体ができなくなりますよ、きっと。
そういうことが起こるという、ある意味前提で、
多分ああいう枠組みというものをしっかりさせているんだろうと。
でも河合俳夫さんの本を読んでもわかるんですけれども、
守っていないという、というか守りきれないというシーンが、
実際には続出してしまっているという問題、問題なんですよね。
これはきっと課題なんだと思うんですよ。
そこに何の課題も見出さないとすると、やっぱりカウンセリングとは違うんだろうと思いますね。
恋愛だったら絶対そうじゃないじゃないですか。
いくらでもズルズルと会っていてもいい。
そこに課題を見出すはずはないですよね。
でもだんだん、まあ男女どっちにしてもですね、
ここに課題感が出てくるケースはあります。
いやもうちょっとこんなにずっと一緒にいるのしんどいんだけどみたいな。
一歩間違うと、いや週一回でもしんどいんだけどみたいに。
嫌いになったわけじゃないのに、週に一回でもしんどいんだけどって、
すぐ言うようになるじゃないですか。
いかにカウンセリングで毎日会うなどというのが容易なことじゃないかが、
あれよくわかると思うんですよ。
だって本当に私の知り合いの男性にも言いましたもん、
月に一回ぐらいがちょうどいいとかわけわかんないことっていうか、
なんとなく気持ちはわかるんですよ。
そういう話を魚に呑んでたりするんだけど、
相手の女の子にしてみれば、
佐々木と呑んでる暇があるなら、
私と会えって話になってるはずなんですよね、絶対に。
だけれども、何らかの理由でそこにもう、
嫌いなわけじゃないけれども、
一緒にいるのは重いみたいな話になってたりする。
こういうのが、
私は学生時代に無意識ってものがわかってると、
すごい話は進むなと思う一方で、
学生時代には何もわかってないから、
やっぱりちょうどいいのかもしれないという気もしたりします。
今日は何の話をしてるんだか、
よくわからない話でしたけど、
要するにこの枠組みとか、
そういったものは何のためにあるのかというのを
ちょっと考えてみると、
私たちが人間関係で忖度するとか、
会っていない時間に、
何か悪いことが起こってるんじゃないだろうかと
心配になるとか、
そういった真理がどれほど検討されてきたかというのが、
この世界ではどれほど検討されてきたかというのが、
よくわかるような気がしていますといったお話です。
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