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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日はですね、今9月の30日、金曜日の11時25分と、午前のですね、ということになっていまして、
全く想定されていない時間にまた撮っているわけです。非常に不思議な気もしますね。
必然的にこの時間になったんですけどね、そのことを教えてくれるのがタスクシュートだけなんですよね。
なぜこの時間になったんだろうっていうのが全然わからないんですよ、これを見ないと。
これを見ると、ようやくですね、なるほど、こういう理由で今日はこの時間になったのねといったことがわかります。
わかるだけなんですけどね。このわかるってことが大事だと思う人と、それがわかって何になるのって、
さらに突っ込みをかけてくるという方とにわかれるんだけれども、わかるだけなんですよ。
でも私に言わせると、このわかることが何より大事なんですね。
これがわかればですね、後のことはほぼどうでもいいんじゃないかっていうとちょっと言い過ぎなんだけど、
とりあえずなんでこれを11時に撮ることになったんだろうっていうのを見ると、なるほどなというのがわかればですね、
時間管理は僕に言わせると95%は成功していると思うんだけど、そういうふうにビジネス書に書いても多分全然売れはしないでしょうね。
ビジネス書で思い出したんですけれども、タスク管理の超図解の一番最近に出した佐々木一般さんからのようやくですね、
これ多分やっぱり出版業界の一つのまた新しい試みなんだと思うんですが、2ヶ月遅れでKindle版が出ました。
今か今かと待ってたのは僕なんですけれども、やっぱり私の本はこれまで紙よりKindleが売れ行きがいいぐらいのところまで来ているので、
これが遅れに遅れるというメリットは私自身にはあまり感じられないわけですよ。
出版社さんとここではね、僕と出版社さんの利害が完全には一致してないと思うんですよね。
私のような著者にしてみると、紙版の印税っていうのは吸った分絶対入るわけじゃないですか。
10判出るとなってくる特別なんだけど、書釣りで終わった場合はもう書釣り分の紙の収益は決まっているわけだから、
はっきりで紙が売れようと売れまいと、Kindleが売れればそれに越したことはないっていう事情があるわけですね、金銭的な話をするならば。
Kindleで読みたいという人にしてみれば、いつまでもKindleが出ないというオプションの状態はいずれにせよ望ましくはないわけですよね。
だから私と読者さんの利害は完全にここで一致しちゃうんですよ。
だからここら辺が考えどころなんじゃないかなと現実的には思うんですけどね。
いかに紙の吸った分の収益を確保した上で、
03:00
著者と出版社の案文をお互い納得できるかということと、
あとはKindleをいかに売るかっていう方が現実的なんじゃないかなと最近は思うんですけれども、
Kindleだったらほら、もう一回作ってしまえば、
するコストっていうものは存在しないじゃないですか。
作るコストがすべてなので。
あとはだからあれでいかに紙体験に近づけられるかという勝負なんじゃないかと思うんだけど、
なかなかそう簡単な話ではないようで、
やっぱり時間、タイムラグを強く発生させるというのが最近ちょっと新しい戦略としてちらほら見かけるなと。
私の方もその流れに入ったんだなということが分かります。
この戦略でずっと行くのは難しいんじゃないかなっていうのが正直なところですね。
いずれにしてもKindle独り勝ち状態があるっていうのがまた一つ別の問題なんだとは思うんですけどね。
まあまあそういうことで、ビジネスショーも相変わらずまだ頑張ってちょっと出してはいます。
それでですね、今日は何の話をしようかというと、
最近自我心理学のフロイトの話をしてきたじゃないですか。
今週はそういう話をしてきたはずなんですね。
そこですごくフロイトの古典的な話というものは大変評判が悪くてですね、
一般にはもうあまり聞かなくなっちゃったくらいなんですけど、
その中でもフロイトの古典的な話というのは、
英訳されて日本語をさらにそこから訳したから、
ドイツ語訳されてるのかもしれないですけどね、日本語に。
そもそも言葉が分かりにくすぎるっていう問題もあるんだけど、
すごいやっぱり、なんて言うんですかね、早い段階で、
フロイトの古典的な話というのは、
やっぱりフロイトの古典的な話というのは、
言葉の壁を越えていければですね、
本当に書いてあることは至極真っ当で、
かつ発見が多い感じがするんですね。
その話を今日はしたいと思っていまして、
古典的な話にハンズの馬恐怖というのがあるんですよ。
ハンズの馬恐怖というのは、
ハンズの馬恐怖というのは、
ハンズの馬恐怖というのは、
ハンズの馬恐怖というのは、
ハンズくんは馬が怖いんですね。
この話もしたうのが初めてではないと思うんだけれども、
あ、あとですね、ちょっとこれもエクスキューズなんですけど、
ちょっと…
これ毎回毎回言うのはめんどくさいんですけどね、
私この番組を通じて、特に初期の頃はともかく今はですね、
特定の誰かの何かについて喋ってはいません。
そういうことがあるとすれば、ほとんどが私自身のことですね。
この番組をどなたかに届けるっていう意味で言うと、
最初の頃はグッドモーニングバイブスって言ってたぐらいで、
倉園圭三さんを意識してたんですよ、多くは。
06:00
でも今は倉園さんもあるんだけれども、
私と直接対話してくださっている方、
10月も募集中でよろしくお願いしますが、60分対話のやつね。
あれで話していただいた方が主に私が意識してお話ししているわけですね。
なんとなくですよ。
なんとなくその方々に向かって喋ろうという気持ちが強い。
私と直接セッションを持っているみたいな方に向かって喋っている。
そういう方がみんながみんな、
ポッドキャストを聞いてくださってるわけじゃないんで、
ここに微妙さがあるんだけど、
でもほとんどの方がQアリ型を聞いてくださっている方なんで、
そこに向かって喋っているんですよ。
それらの方の問題を取り上げているわけでも全くなくてですね、
問題は私自身の問題を取り上げているんですね。
だから初期の頃もあったんですけれども、
これを聞いてすごい傷ついたとか納得いかないというのは、
申し訳ないと思うんですけれども、
大体これがですね、自分のことを指しているとは思わないでほしいんですよね。
そう思われるってことは起こることなんですよ。
これかわいいハヨウさんが書いてたんですけど、
神経症についてのノイローゼについての本を読めば、
あ、俺のことが書かれているとみんな思うものなんだと。
で、そう思う人も全く思わないという人がいたら、
その人はよっぽど世の中に迷惑をかけているっていう、
実に彼らしい面白い言い方をされているんですけど、
そういうもんなんですよ。
特に神経症水準というのは、
フロイトが健常者のことぐらいの勢いだったので、
そういうふうに言ってたぐらいなので、
つまり我々がみんな抱えている、
心の中のその難しさを処理するやり方というものが、
ややもすると神経症に差し掛かる。
これだけでもすごい発見だとは思うんですけどね。
だからそれについて喋っていると、
あ、私のことが言われているって思われるのも無理はないんですね。
あともう一つは、私が言ってみれば、
まあ言ってみればネタとしてですね。
ネタとしてですよ。
他のポッドキャストで聞いたお話とか、
ウェブで読んだ話とかを引っ張ることはありますが、
それも話の導入というつもりなんですよね。
ほとんど全部が。
もし作者の方がいて、
なんか気持ちが悪くなるということがあったら、
それも大変申し訳ないとは思うんですけど、
とはいえアップされているので、
アップされている話は引用してもいいんじゃないかなとは、
僕は思っちゃうんですよね。
自分のは引用されるとむしろ嬉しくなる口なんで、
それが少々批判的であっても、
実は嬉しくなる口なんで、僕はね。
引用はいいんじゃないかというふうに思ってしまうんだけれども、
まあまあ、内容が内容でセンシティブだということもあるので、
控えていた方がいいのかもなとも思うんですけれども、
その控えていた方がいいのかもと思うというのは、
誰が思うのかというと私なんだよねっていう話を今日したいんですね。
09:04
つまり不安になるのは自我なんだという、
これはフロイトが言っているんですよ。
多くの人はここで誤解しているとフロイトが指摘していたと思うんですね。
不安になるのは抑圧された無意識の方にあると思っている。
漠然とした不安とか、
心の奥底に不安が宿っているみたいな言い方をしたとき、
僕らはついつい自我が不安になることを抑え込んでいるから、
不安というのは欲動の方から、衝動の方から、
性的な欲望でいうと離微動の方から不安が来るんじゃないかと、
人は思っているらしいけど、そうじゃないと。
不安になるのは自我のせいなんだと。
つまり抑圧したから不安になるんじゃないと。
不安だから抑圧するんだと。
これは私は非常に正しいと思うんですよね。
これに近いことを、
第何回かとかは全然覚えていないので言えないんですけど、
倉園の契土さんが前回か、
つまり今回で言うところの前回、
第28回とか7回とか6回とかのポッドキャストで
これに近いことを話されていたという記憶があるんですけどね。
僕の記憶が間違っていることも多々ありますけど。
とにかく抑圧が不安を作るのではないんですよ。
不安が抑圧を作るんです。
言っている意味がさっぱりわからないという方はですね、
これから一応おいおい説明したいと思うんですけど、
だからこういうふうに書いてあってもわからないんですよね。
そしてフロイトは狂ってるみたいな話にされてしまうんだけど。
例えばですね、
ハンスの話をするのはそのつもりだったんですよね。
ハンス君はお父さんが怖かったんですね。
でもお父さんが大好きだったんですよ。
ドイツのことなんで、
お父さんが大好きってのは言ってもですね、
お父さんは厳しい。
昔フロイトの動画ってのを見たことがあったんですけど、
これが理論の文化だと思ったのの一つに、
これから孫に会うと。
かっこいい高校屋なんですよ。
うちの親父と同じだなと思ったのに、
孫に会うって言うんでもめちゃくちゃ嬉しそうなんだけど、
孫にその孫がやってくるというので、
まず清掃ですよ。
きちんとするんですよね。
山高坊のハットかぶって、ステッキ持って、
タキシード着て、タキシードみたいな、
なんだかよくわからないですけど、私服詳しくないから、
そういう服着て、歯まきやって、
完全に紳士の格好をするわけですよね。
ヨーロッパの伝統的な。
これがあの抑圧の世界だよなと、
エリプスだよなと思ったんですよ。
だって魔王が来るというだけなのに、
その清掃ぶりはなんだのっていうぐらいの、
きちんとした格好をするわけですよ。
だからお父さんのことがどんなに好きでも、
12:02
やっぱりお父さんってめちゃくちゃ怖いわけですよね。
ある意味では。
だってステッキとかで殴ったりするわけでしょ。
多分家によってはもうむちゃくちゃですよね。
ムチとか使うわけですよ、2歳児が相手でも。
今の日本じゃ、完全に虐待の世界になってしまいます。
だからハンス君はお父さんが大好きなんですけど、
怖いわけです。
これが例のあれですよ、バイポーラーなのです。
両極に分かれますよね。
大好きだけどとても怖いって話になってくると、
これをフロイトは量化性とか、
アンビバレントな役なんだけど、きっと。
量化的葛藤とか書くからまた分かりにくくなるんだけど、
これ量化的葛藤じゃないですか。
大好きだけどとても怖いっていう、
そういう人に対する葛藤が猛烈にあるわけですよね。
この猛烈にってのが大事なんですよ。
我々は今の感覚では、
お父さんに対して猛烈に愛情と恐怖の葛藤を抱くってことは、
あんまないと思うので、
よく分からないと思うんですね。
これはですね、恋愛でものすごい異性が好きなんだけども、
そういう気持ちがバレるのが非常に怖いと思っている
思春期の方だったら分かりやすいと思うんですよね。
そういうのってあるじゃないですか。
一つのことなんだけど、バイポールになってしまう。
二つの局に分かれてしまう。
でもそれは一つのことがすごくやりたいんだけど、
同時にすごく怖いという。
性に関することはこういうことが起こりやすいんですよね。
で、ハンス君はそのとても怖かった。
その怖い部分と好きな部分は分けたいわけですよね、結局。
それが混ざっているということが、
まだなかなか受け入れられるほど強くないので、
4歳とかだったかなと思うんだけどね。
そこで、怖いものを結局他のものに置いてしまうんですね。
この感じも掴みにくいと思うんですよ。
しかもこれを虚勢恐怖とかいう言い方をするからね。
お父さんに虚勢されるという。
あれはこういうことなんですよ。
今の人でいうと、
部活に行って先輩にめちゃくちゃ威嚇されると。
柔道部みたいな。
ラクビー部とか。
ちょっと偏見が入ってますけどね、すいません。
とにかくそういうもので、
すげえ威嚇されるということになってくると、
そこで、
我が強い人は、
ものすごくそこでも勢いよく、
やたら大声で謝ったりするとかできるんだけど、
僕とかは無理なんで。
縮こまっちゃうわけですね。
これが虚勢不安なんですよ。
これを虚勢不安と言うんです。
お父さんと対抗心を少しでも持つということが、
四五歳児の男の子にはあるんですよ。
私にすらあったんだからきっとあると思うんですね。
ところが、お父さんの方が強いのは当然なんですよ。
そのぐらいの年なんだから。
そこでいろんな態度があるんだけど、
15:01
結局縮こまるっていう態度を取る男の子がいっぱいいて、
これが虚勢不安とか、
虚勢恐怖っていうものなんですね。
で、お父さんに対する攻撃というものを
放棄するっていう言い方をするんだけど、
要するにお父さんに対抗するのはやめようと。
やめようって思うのは自我でしょ。
Sじゃないでしょ。
Sっていうのはつまり、
無意識とか衝動とかリビドーとか言われてるもんだけど、
要するに自分の中の動物的な、
非常に単純で純粋な感覚なんですよ。
こういう純粋な感覚は、
いやいや、大丈夫だから、
行こうよって感じになりやすいんですよ。
ていうか、それしかないと思うんですよね。
動物ってそう滅多になることじゃ不安になったりしないんで、
要するに自分の中の動物は、
お父さんに平気で対抗するんだけど、
お父さんというものの存在について、
ある程度でも知恵が回ってきている自我はですね、
いやいやいやいや、だめだろうと思うわけですよ。
だから不安になるのは自我なんですね。
そこで不安になった自我が何をやろうとするかというと、
Sを抑えようと。
このSに乗っかって、
勢いよくお父さんと戦っていっても勝ち目はないと。
これが虚勢不安という風に名付けられたものなんですね。
普通の恐怖症というのは全部そうで、
とフロイトは多分言っていると思うんですね。
Sの要求をですね、
要求に直面して、
Sが何かをしたい、何かをしようと。
何でも勢い良いからね、Sは動物なんで。
勢いよく純粋に何かがしたいって言うんだけど、
それに対して不安になるんですよ、自我が。
決してその逆じゃないってことですね。
不安なんだけどってSは言わないってことなんですよ。
非常に僕は大事だし、おそらく事実だと思うんですよ。
不安が外からやってきているように思っている人がいっぱいいらっしゃるんですけど、
多分そうじゃないんですよ。
不安は決して外からはやってこないんですね。
不安は未来と関係があるんだけれども、
何かをしようとしてその結果を不安視しているのは自我なんですよ。
つまり未来を勝手に読んで不安になっているのは自我なんですよ。
それゆえにその不安がなければですね、
抑圧ってしないんですよね。
それゆえに抑圧する。
そうすると勢いがそがれるんですよ。
これが虚勢なんですね。
だから虚勢というものをすると、
抑鬱的になってやる気を失っていくんですよ。
つまりSの言っている通りに動ければですね、
私たちはだいたい何でもできるんですよ。
うまくできるとは言いませんよ。
何でもできるんですよ。
だからここでタスクの話とハンスの恐怖症を今私は絡めて考えるとしているんだけど、
ハンスの恐怖症って有名なんですよ。
フロイトの古典的な理論として。
18:00
これはかなりすごい理屈の発見もすごいし、
治療としても結構いい線いったんではないかと。
こういうのって理屈を発見しながら治療しているわけだからすごい難しいですよね。
ハンスは馬が怖いのを治療するために、
あなたが本当に怖いと思っているのはお父さんなんだよということが
ハンス君に伝えれば多分馬は怖くなくなる。
当時の動物恐怖症の原因として、
やっぱりお父さんに対する虚勢不安というのが大きかったと。
そういうことなんですね。
私たちの世界で言えば、
タスクを前にして不安になるのは私なんですよ。
タスクを前にして得体の知れない不安衝動みたいなのが上がってくると思っているうちは、
多分この問題は絶対解決できない気がするんですね。
あくまでもタスクというものをやろうとするんですよ。
まずやろうとするから不安というものが問題になるんですよ。
タスクを見て絶対やらないと。
こんなことは俺は絶対やらないんだと。
平気で決めて書かれるぐらいならばですね、
自分が不安になる理由ないですよね。
私が不安になる理由なんにもなくなっちゃうじゃないですか。
どんなタスクでもいいんですけど、
例えばこのグッドモーニングボイスでもいいですよ。
あんまり僕これにならないな。
ブログもなんない。
本がなることは、
じゃ本にしておくとして、
本を書きたいという私が出てくるから、これがSなんだけど、
これがあるからこそ不安になって困るわけですよね。
決してこれがなければですね、
不安がそこから沸き上がってくる理由なんてないわけです。
書きたいとまず思う。
しかしっていうのが出てくるから、
最近倉園さんと書き上げ塾の
書くコミュニティみたいな
そういう新しいのをされている
エフタさんって方が、
僕はとはいえが口癖なんだって話をされてたんですけど、
こういうのが引用なんですけど、
これでエフタさんが傷つくってことはあるのかな。
でも一般に公開されているところに書かれてましたからね。
とはいえってつまり、
何かがしたいとはいえじゃないですか。
何かがしたいけれどもってやつですよね。
けれどもって言ってるのは自我だと思うんですね。
私だと思うんです。
だからフロイトが言うように、
普通の恐怖症っていうのは、
リビドウの要求を前にした自我が感じるものなんだと。
不安というものが自我が抑圧、
リビドウを抑圧したせいで、
不安というものがそこに沈んでしまって、
不安というのがそこから上がってくるようなものでは全然ないんだと。
僕らすぐそういうふうに考えたがるじゃないですか。
何かこう良くないことを押し込む。
フロイト読んでそういうふうに平気で言う人だっていますからね。
21:02
良くないものを地下に埋めるような形で埋めていくから不安になる。
そうではないということです。
不安だという気持ちがあるから、
抑圧を作り出すんだと。
そしてやる気が削がれていくんだという話なんですよ。
タスクを前にすると。
タスクを前にしなくてもいいんだけど、
タスクが発生するたびに不安になっている人っているじゃないですか。
その時に不安になるんだけど困るのはタスクしなきゃいけないからですよね。
タスクしようと思っているからですよね。
Want to doですよね。
Must doかもしれませんけれども。
とにかく前に進めようという気持ちがなければ、
そこで悩むことはないはずなんですよ。
本を書きたいと。
ブログでもいいんだけど文章を書きたいと。
しかし文章を書くと、
例えばですけれども自分の文章が下手であることが自分にバレてしまう。
という悩みの方も結構いらっしゃるわけですよ。
これは万能感からくる不安ってやつなんだけど、
とにかく文章を書くと。
書きたい。でも私なんかありますね、絵だったら。
絵を書きたいなと思うことあるんだけど、
不安になるのはSじゃないですよね。
Sは絵を書きたいと無邪気にも思うわけですよ。
下手だろうがなんだろうが。
私はそれを見て、これ未来に起こることなんですよ。
クラゾンさんがGood Vibesでよく言う話ですよ。
未来に起こることを勝手に先取りして
不安になっているわけです。
不安になるのは私でしょ。私ってのが自我なんですよ。
私と自我は全く同じです。
フロイトは出す意気地って書きましたからね。
英語で言えばThe Iです。
The Iでもいいんだけど。The Iって私ですよね。
英語じゃないですよ。EGOではない。
だから自我って訳すのはダメだと思うんですよね。
私なんですよ、不安になるのは。
絵を書くと下手だということが自分に分かって
嫌だなと思っている私。
そこで絵を書きたいというリビドウを抑圧するんですよ。
不安が抑圧を作り出すんですね。
で、どうして自我が不安になるのですか?
っていう質問がそこであるわけですよ。
いや、乗っかってホイホイ絵を書いとけばいいじゃないかと。
どうして不安になるのかの説明に
超自我ってやつが出てきたわけですね。
超自我ってのは文化なんですよ。
超自我というのは文化的にそれをやれっていう要求なんですよ。
トイレットトレーニングで超自我が出てくるっていうのは
すごく適切だと思います。
文化的な要求ですよね、あれは。
動物にあれを要求するという人もいるけれども、それだって文化ですよね。
文化的にちゃんとやれと。
服を着ろうと。トイレに行ってやれと。
それが文化的な要求ですよ。
その中に人にもよるんだろうけれども
文化的に絵は上手く描けってのもあるんですよ。
24:00
僕は感じています。
幼稚園で散々言われました。
幼稚園の先生、お前の絵は下手だと。
なぜ昔の保護さんというような人たちは
私の絵が上手くなきゃいけないと思ってたのかよくわかんないんだけど
僕からすればそれは文化的な要求ですよね、完全に。
外から来てるんだから。
それが自我が不安に思うようになるわけです。
絵を描いても怒られると。
怒られたんで。
絵を描いても怒られるという不安があるから
Sは平気でそれでも構わないからというか
そんなことはわかってないからSは絵を描くよという感じで
当時僕は描いてたんですよね、割と機器として。
描くたびに文句をやれるか皮肉をやれるか怒られるかすると
うちに自我が不安になっていくわけですよね。
絵を描くということに対して
いい喧嘩にならない。
だからSを抑えるっていう
絵を描きたいという気持ちを抑えるということを繰り返しているうちに
絵を描きたいという気持ちが上がってこなくなるんですよね。
これが虚勢不安です。
そう名付けたんです、ロイトが。
勢いを去る不安なんですよ。
だから今3者出てきましたよね。
超自我と自我とS。
でももう基本は2者で十分です。
自我とSなんですよ。
全般性不安症という言い方をするんですけども
昔で言う不安神経症のことなんですが
全体に対して何につけても不安になる。
私100日チャレンジというJ松崎さんとやってるやつで
ここが一番乗り越えにくいなと。
タスク管理する上でも
全般性不安症みたいな話になってくるケースがあるなと。
どんなタスクをやるときも不安なんだと。
これはやっぱりよっぽど超自我で
書いてある経験が悪かったんだと思うんですね。
Sが何かしようとこのタスクやりましょうと
やらなきゃいけないんでしょうと言うんだけど
自我が不安になっちゃうわけですよ。
でもこのタスクをやるとうまくいかないかもしれない。
疲れるかもしれないし怒られるかもしれない。
毎度毎度そうやって不安になっては
不安になるから抑圧をかけると。
不安になるからSに難しい防衛をかけたりするわけですよ。
隔離とか文局とか。
いいことだけはやるならいいけれども悪いやつは出ないようにしたい。
慎重に慎重にやろうねと。
これ多いですよね。非常に多いと思います。
文局と脅迫がかぶるようなやつですよ。
きれいにきちんとやる部分だけをSは出してきてくれと。
ちょっとでも下手を打つようなやり方をする。
やる気は一切封じ込めておいて。
っていうような防衛をかけるわけですね。
それは全然無理な相談ですよね。S的には。
S的には水に入ってバシャバシャバシャってやりたいっていう。
そういうやりたいなんて。
それを最もいい部分だけを取り出して出してくる。
27:01
非常に難しいわけです。
特に初期の頃には。
だんだん話がややこしくなってくると
例えばタスクをしたら記録に取りましょうって言っても
じゃあ記録に取ろうとSは思うわけです。
記録を取ればどんどんタスクシュートでうまくいくと。
おしいしつおさんみたいな方も言ってるし
Jマスザキさんも言ってるから記録を取ろうと。
でも自我は不安になるわけですよ。
記録を取って何になるのかと。
記録を取り続けるのは大変だと。
継続は力なりと言うけど三日坊主って言葉もあるし。
そういう風に自分は何度も言われてきたし
三日坊主で終わるぐらいならやらない方がマシだと。
文化的にそう言われてきたってことですよね。
文化はそういうことを言いますよね。
やるからには継続しろと。すぐ諦めるようなら
むしろ手を出さない方がいいっていうことを学んできているので
自我はまたそのSの言う通りに記録を始めるのはいいけれど
三日どころか半日も持たずに記録をし忘れて
そこから真っ白になり続けているという
僕の絵と同じですよね。
その結果が無様だってわけじゃないですか。
そういうものは見たくない。とても不安です。
だから記録をしたいという気持ちにも
Sにも不安なので虚勢しましょう。
こうやってことごとく虚勢していけば
何をやろうとしても
このパターンにはまり込むという事態を
引き起こすんですよね。
これが全般性不安症と呼ばれるものなんですね。
何が悪いとは言いにくいことは
社会を変えましょうという考え方も確かにあります。
一理あると思うんですよ。
ドリームキラーみたいな人はいけないと。
ここでは何をやってどんな失敗をしてもいいんだという
最近話題になっていますよね。
心理的安全性。
この話をしているんだと思うんですね。
長時間に何をしても大丈夫という
高津監督のヤクルトの今年も優勝おめでとうございます。
絶対大丈夫という話をしろということですよね。
信じられれば
多分それはうまくいくんだろうと思うんですけど
大概の人はここまで極端になっていません。
逆に言うとここまで極端になってきた後に
これを信じろというのは大変難しいわけです。
勢いがそがれるということを繰り返してきているので
何をやろうとしても
面倒くさい感じというのが来るわけですよ。
Sから上がってくるモチベーションが中途半端なわけです。
虚勢されているので
そういうからくりというものに
少しずつ気づいていって
自我というものが
自分で結局
勝手にと言っては変なんですけれども
30:00
30分が来たので一旦途切れたんですけど
つまり
Sが要求してくるのが
こういうふうになっている時の自我にしてみると
肩迷惑なわけですね。
何かがしたいと思うということが迷惑なんですよ。
何かをしてしまえば
嫌な思いをするだろうという
見通しの暗さのようなものに覆われている
経験をしてきた自我にしてみると
常にその横先には
良い結果が待っていない
私が描いた絵みたいなもので
怒られたり嫌な思いをするに決まっているわけですよ。
未来から来るという割には
それは確定事項みたいになっているんですね。
そういうふうに決まっているからこそ
Sからの要求というものが
実はすごく鬱陶しいものに感じられているはずなんです。
だからこういう方は
よくやる気が湧かないんですとか
私はやる気がない人間だとか無気力だって言うんですけど
そうではないんですよ。
やる気は常に湧き上がってきているんだけど
そのやる気をすごくネガティブなフィルターを通して感じていらっしゃるので
ものすごく気分が悪くなるんです。
やる気が上がるたびにむしろ
めんどくさいのは何かをしようとした時なんだけど
めんどくさいのはなぜかというと
それはSが駆動しようとしているせいなんですよ。
衝動、リビドウがやる気を出すからめんどくさいんですよ。
やる気が気持ち悪いんです。
だからやる気が気持ち悪いという状況にある間は
やる気が出ませんという一帯は
全くこう
矛盾があるんですよね。
やる気がない状態がある意味その人にとっては
幸せというところがあったりするので
にもかかわらずやる気が欲しいと。
でも実際のところSが
何かをやろうとか
何かをやらなきゃとなるたびに
それはつらいということになるわけですよ。
だからそこのところをどうにかするためには
一つには
長寿画の文章ですよね。
それを突き止めていく。
だからやっぱりそれには他人の力を借りた方がある意味いいんですよね。
他人が聞くとその長寿画の文章って
キーだなって感じを必ず抱いてくれるんで
本人はその長寿画の文章が少しも変だと思ってないわけですよね。
だから
例えば絵を描くということをやれば
上手い絵を描かなければいけないとか
そういうのを見つかると話はだいぶ楽になるはずなんです。
楽になるだけで簡単にそれで絵を描けるようになるかというと
そんなことはありませんけれどもね。
33:01
私の実感としては。
でも少なくとも私は結局絵は上手く描かなければいけないという
思い込みというのかな。
やっぱり長寿画があるんですよ。
なのに絵を描いたことはほぼないので上手く描けるはずがない。
こういう多分葛藤が
邪魔をしているんですよ。
それがタスク全体にかかってきているという方がいらっしゃるわけですね。
そういう時ほど
その文章を疑うってところから
やっぱりスタートすることになるんだろうなって思うんですよ。
本当に絵を上手く描かなきゃいかんかという話なんですよ。
これは。
そういうふうにするために何も社会を変える必要はない気がするんですよね。
心理的安全性を確保してからでなければできないということは
本当はないはずなんですね。
エースに乗っかっておけばできると思うんですよね。
上手く何を描こうが下手な文章を描こうが
全然構わないという価値観って
その人の中には必ずあるもので
それに乗っかってさえおけばですね
描けなくはないと思うんですよ。
その面倒くさいって感じているのは
実際にはやる気がわざわざ上がってきているやる気を
わざわざ自分で壊しにかかっている
そういう感覚なんだってことも
合わせて覚えておいていただくとですね。
つまり長寿画とエースの自画のだね。
長寿画と自画の両方に働きかけるような
形をとるしかないんだと思うんですけれども
そのとき他の人の意見というのは
実は大変参考になります。
たぶんですね、絵は絶対上手く描かなきゃいけない
というのに対して同意する人はほぼいないんですよ。
運悪くそういうことに同意しちゃう人
だからそういう人じゃない人のところに行く
っていうのは大事なんだけど
たぶんそういう人はいっぱいいるような気がします。
だいたいそういうわけわからんことを言うっていうのは
ごく一部なんですよ。
運は悪いかもしれない。親がそうだっていうケースであればですね。
運は悪いかもしれないけども
基本的には稀なはずで
たまたまそうでしたっていう場合は
アンラッキーだったというのはあると思うんだけれども
長寿画の内容はこの番組でもだいぶ
言ってきていることですけど
書き換え可能なので
いくらでも書き換え可能なので
自分の中に書いてある文章ですから
本来いくらでも書き換え可能ですから
ガッカリされるだろうなと思うんだけどやってみることなんですよね。
私の場合は絵を書いてみるみたいな話ですよね。
つまり
それをしてもひどいことは起こらないはずなんですよ。
ただその時に必ず一つだけ
たぶん嫌なことが起こります。
自分が判定して下手だと思う。
つまりそれをやった自分というものに対して
36:01
自分が必ずダメ出しをします。
それを他人にしないようにすることなんですよね。
ということはつまりそれを他人にしちゃダメだということなんですよ。
これが先日もお話ししたやつですよね。
許すと強くなれるというやつです。
だから本当にダメ出しというのは
自分にしても他人にしてもいいこと全然ないんですけれども
僕らこのからくりについて
今みたいに結構30分以上もしゃべって
遠回りで答え出しているようなところがあるんですよ。
ちょっとこれが一瞬で伝わるような
ロジックがあるといいんですけれども
でも僕は思うんですよ。
一瞬でこれが仮に伝わったとしても
すぐにやめられるかってなかなかそういうものじゃないですよね。
自分が僕絵を描けばすぐわかります。下手だなと思ってがっかりする。
これが私がたぶん
4歳以前には持ってなかった価値観なんですよ。
そこが大事だと思うんです。
自画も長自画もはっきりと取ってなかった。
形を結んでいなかった。
形成されていなかった。
その時代に自画も長自画もなかったとは言いません。
あったはずですがそんな風ではなかった。
今みたいではなかった時にはSが気ままに絵を描いて
僕は自分の絵にがっかりなんてしなかった。
そういう時代のことをなんとなく覚えたんですよね。
3歳時くらいの時に。がっかりなんてしなかったんですよ。
でも今より上手いはずないんですよ。
これは大事なことだと思うんです。
そしてこうなると僕らはどうしてもすぐに
社会に目を向けたくなるんだけど
僕はですね社会にいくら目を向けてもそれでも答えにならないんじゃないかなと
必要かもしれないですよ。
心理的安全性とかその他もろもろ
必要かもしれないというか必要なんだと思うんですけど
これで社会が良くなって
進歩的になって
子供の頃の絵にダメ出しとかをしない優しい社会になったとしても
僕は相変わらず絵を描くとあんまり
良い気分にはならないでしょう。
ということはやっぱりこれはですね
一旦こういう風になってしまった上ではですね
外に許してもらうとかでは
ダメだと思うんですよね。
そういう意味で自分の価値というものを決めているのは
自分なんだろうなと思います。
人にダメ出しされたとか人に中傷されたとか
クレーム入れられたということが決定だになるという風に
僕ら思いがちなんだけどおそらくそんなことはないんですよ。
きっかけが仮にそうであったとしても
この修正は私の方でできるし
私たぶんそうするべきなんだろうと思います。