3ヶ月チャレンジについて
おはようございます。佐々木正悟のライフハックからの精神分析第1309回をお送りします。
9回でいいんだよな。ちょっとわからなくなりました。まあ9回にしておこう。1月21日水曜日、7時37分です。
むっすらとですね、雪が、こう雪化粧ってやつですね。
さらっとあって、すぐなくなっちゃうでしょうけど、まあ今が一番寒いかな、そこかなって感じがしますね。
もうこの時間に起きて収録というのも、非常に厳しいなって感じも、まあまあします。
お知らせはずっと続けておりますが、3ヶ月チャレンジの第13期が2月の1日から7月の30日までです。
これの視聴コースを今、早急に作ろうと思ってるけど、間に合うかどうかがわかりません。
1月20日過ぎちゃいましたからね。しかもこの1月末は結構詰め詰めなんですよね、というのがありまして。
まあでも、視聴コースがあるにせよないにせよ、まだセッション枠も余裕はゼロではないので、
ぜひあとお一方、お二方ぐらいいていただければ、試してみていただければありがたいかなと思っております。
えーと、まあ大体なんとなく少しずつわかってきたのは、これもざっくりなんですけど、本当にざっくりなんですけど、
3ヶ月で、つまり僕1月に35万以上稼ぐのは辛くなってくるという、その仕事的にですね、時間的にも厳しくなってくるということがなんとなくわかってきまして、
35ってつまり、えー35ですと、お一方2万5千円だと計算したとして、えーと、13人ってところですかね。
うーん、まあそうだろうなっていう感じがしますね。最大13人は厳しい。12人ぐらい。でもそうすると35はいかない。32、3。
100万3ヶ月で限界ギリギリっていう感じが今の私、でもこれが見えてきたのは大変良いことだなと。自分の限界だなと。今日はそういうような話をしたいと思うんですけど、
自分の限界って何なんだろうなということを考えることと、3ヶ月チャレンジはどういうものであることかっていうのはきっと関係が深くあるんだと思います。
まあそういうことを一緒に考えていきましょう。3ヶ月間っていうようなサービスです。
まあ一度やっぱりご利用いただいて、あの検討してみていただけると一番いいのかなとは思います。
その限界ということについて言いますと、まあ再三申し上げてるんですけど、これは治療ではないと私は、
時々口に出るんですね。口に出るって感じなんですよね。これはね。 治療ではないというのは
逆に、逆というか逆に考えていくんですけど、例えば3ヶ月チャレンジはビジネス心理コンサルですと言ってる時、
ビジネス心理コンサルってなんだって考えた時に、治療に近づいたところの接触点にそれが見えてくるはずなんですよ。
要はどこに線が、ボーダーが引かれているということですね。線が。 治療ということ、ここから先はもう治療だよねってなった時に、その直前のところに最もビジネス心理コンサルらしきものが見えてくるはずなんですね。
まあもしかすると治療とオーバーラップしちゃってグレーゾーンに入ると。 グレーであるところ、しかもこっち側に近いところこそ
人間関係の重要性
ビジネス心理コンサルらしいところの一番深いところなわけじゃないですか。
よく猿から人へとか人と猿のなんとかみたいな、そうすると当然そういう学者さんたちが調べるのは一番人に近い猿みたいなところじゃないですか。
要するにチンパンジーがとかなんとかかんとかっていうのはそういうことになりますよね。
それもチンパンジーでは物足りないから、こうねやんでるタル人とかも人が入ってますけど、人なのかどうなのかがわからないところに、そういうのは現存されてないから骨調べるということになるわけですよね。DNA調べるとか。
その境界線に行くのが正しいんですよね。そうすると私は一生懸命こう、ビジネスに役立つ精神力度を探ってるのはそういうことなんだなって思うんですよ。
いやだったらビジネスに役立つCBTとかがいいんじゃないって思われるかもしれないけど、そう僕の考えではですね、それよりももっとこうグレーな、グレーに近いところがあるんですよ。
それに一見したところよりもCBTよりも精神力度の方がビジネスに近いところがあるんですよ。これはもう物の見方なんですよね。
CBTの方が近いですとか、行動療法の方が近そうに見えるというのはですね、現代的な価値観がそこに相当挟まってきてるんですよね。
仕事の中にはやっぱり、どんなにそれは行動であるとか、それはライフハック的にいけるっていう感じに考えられたとしても、やっぱりこう人間関係の生々しさみたいなものが思いっきり出てくるところ。
それはただ多くの人が、いやそれ苦手ですからとか言ってるだけで、苦手だからあんまりそれについて真剣に向き合ったり、真剣に深入りしたりしていないかもしれないけれども、
それが仕事から排除できてるとか、それはうまいことライフハックで合理的に回避できてるとかそんなことはないわけで、ただそれは触れてないというだけなんですね。
現にライフハックの本見ていただくと分かるんですけど、一人でできることばっかり書いてあるんですよ、あそこには。
仕事術とかもおおむねそうで、確かに書類作成を例えば今の言うとジェミニにやってもらうとか、これだったら一人でできるから、あたかもそれによって仕事が大幅に進むって言えるかもしれないけど、そこに人間関係介在してないじゃないですか。
そのジェミニにうまいことを予約してもらったのを課長に見せると、課長はそれがAIっぽいっていうことを感じただけでめちゃくちゃ不機嫌になり、めちゃくちゃ合理的でないいじめをしてきました、パワハラですみたいな、そういうのはライフハックの対象にだいたいなんないんですよ。
なんかそれは課長がおかしいから距離を取りましょうとか、なんか適当なことを書いたら、課長がおかしいから距離が取れるぐらいだったら苦労はない気がするんですよね。
だってその人課長なんだから。やめさせるライフハックとかがあるわけじゃないんですよ、だいたい。そんなライフハックはないですから。
だいたいそれライフハックじゃないしって感じもしますよね。だから結局そういうのは、ただなんとなく回避されていて、
ハックシリーズで超有名な山竜介さんという方が、コミュニケーションハックスという野心的な本を書かれたんだけど、それは野心的なんですよ、やっぱりね。
コミュニケーションハックスっていうのは、もう滅多にそういうタイトルでは、一般的なビジネス書としては本が出てこなかったぐらい、やっぱり普通はそういう本にはならないわけですね。
ということはつまり、コミュニケーション系のことはうまいこと排除されているわけですね。
借金玉さんの発達障害の俺でも食えるようになったすごい仕事術みたいなの、あれもまさにライフハックなんですけど、やっぱりまず長期のプロジェクトは本当に何でもいいから早く手をつけるんだみたいな、
それはまあある種のちょっとマッチョな感じがするような発達障害系の仕事術なんですけど、人間関係でここに出てきてないじゃないですか、やっぱり。
あるいはこう、カバンぶっ込みとかいうのも忘れ物しないために一つのカバンに全部ぶっ込むんだみたいな、これも確かにハックだけど、人間関係出てきてないじゃないですか。
未然に防ぐ系なんですよね。そして一人でできることを何といっても書かれてますよね。
こうなるってことなんですよ。発達障害云々、それはあるんでしょう、もちろん。
あんなに苦しまれているように著者さん書いてらっしゃいましたからね。でもそういうことではなくて、発達障害かどうかって話よりもまず先に、この方はまず自分一人で何とかなるところにまず何よりも視線を向けられる。
こんなに大変になっても、まず自分一人で何とかできるところに視線を向けられる。この覚点の取り方こそが現代的だし、何ならその発達障害というタイトルを冠して売れる本の立て付けなんですよね。
まずそこに、まず理不尽な課長の話を何とかするってところからは、そもそも入ってこない。
第一章の始めにの一番冒頭の誰もが目にするところに書いてあるのは、自分一人でできることを書く。それがライフハック時代なんですよ。
だからCBDの方がビジネスに役に立つ心理臨床の世界に近いんじゃないっていうのは、その発想そのものがすでに現代的だってことなんですよ。
よしよしとは何の関係もなくて、いいとか悪いとか言ったってしょうがないんで、現代はそういうふうに動いてる時代なんで、冒頭いきなり人間関係から入ってこないっていう考え方と多分深い関係がある。
でも私は、多くの人の話を聞いて、私の耳には、私の頭にはって言うべきなのかな、人は誰もそのことを一番最初に考えてはいない。
一番本当に困りましたって言って困ってる時には、必ず人間関係がまず介在していると思うんですよね。忘れ物をするのが困るんじゃなくて、忘れ物をして怒られることに問題があるんですよ。
そういう意味では、結局のところ、方法論としてライフハックに近かったんですけど、要領の悪い私でもっていう、エフタさんと高梨さんの共著のビジネス書ですね。
仕事術図鑑、10万部いった本ですね。あの本は、そこから入ったという意味では、僕の目線に近いところまで行っているビジネス書なんですね。
僕の方、僕が知りたいことがまず書かれている本。つまり怒られたくないのが私だったっていう、私は怒られたくないんだっていうね、だけれども怒られないためにやることがタスク管理になった。ここがやっぱり非常に現代的なんですよね。
怒られないために限りなく行動し、良好的な世界なんです。行動を修正しようと、タスク管理でね。忘れないようにする、抜け漏れをしないようにする。
ただ、あの高梨さんは一番冒頭で怒らないでくださいと会社の人に頼んだと。これは非常に珍しい方法論だなと思った。方法なのかそれはわかんないけど、少なくともこれを本の冒頭に持ってくるというビジネス書は稀だなと思ったんですね。
本の冒頭はやっぱり忘れ物をしないようにチェックリストを作るなんですよ。あるいは先送りを繰り返さないようにポモ道路でタイマーを25分にセットする。いずれも他人はここに開催しないですね。
他人をいきなり開催させている本って言うだけでも実は珍しいんですよ。怒らないでくださいと頼んだと。これは人が、2社以上の人間がそこに出てきてるじゃないですか。チェックリストとかポモ道路のタイマーって人出てきてないですよね。タイマーとかリストが出てきてるだけなんですよ。この差はでかいと。非常にでかいと私は思いますね。
私は精神力動系のビジネスコンサルというものを打ち出しているのは、人間関係しか基本的には考えていかないで、少なくとも一丁目一番地は人間関係なんですってところからスタートしてるんです。
そういう意味ではタスクシュートもタスク管理もチェックリストもカバンも一元化も何も出てこないです。ノーションもオブシリアン全然3ヶ月チャレンジそれらはほとんど全く言葉がちょいちょいタスクシュート協会の理事ですかね。あ、だったらタスクシュート使ってるんですね。はい使ってますとかそういう回答は出てくるけど、じゃあモードはどうしたとかタグはとか水盛り時間どうするんだとかいう話は
たぶんまだ3年やって3年1期だいたい10人前後、延べで言いますとまあ13、12期だから150名ぐらいの方延べでね、同じ人が被ってますよ。
タスクシュートと人間関係
一回もタスクシュートの使い方を具体的に説明させてもらったってことはなかった気がします。というかタスクシュートの話題が1時間でも続いたことなんてなかった気がします。タスク管理であれチェックリストであれそういう話は全く出てきてないです。オブシリアンやノーションはまして一度も出てきてないんじゃないか。言葉は出てきてますよ。AIの使い方でさえほぼほぼ出てきてません。
3ヶ月チャレンジではね私がやってるのはそういうことではないんですよ。でも治療でもないんですよ。その狭間のところにある人間関係で私たちは何に困るかということどうしてそれで困っていくのかということを話に話題にしてるんですね。ででも大事なのは
ここが一つの重大な分岐点なんですよね。見立てない診断しないってことです。診断ぽいことも見立てっぽいことも一切しないってわけではないですよ。そんなことってそもそも
えっと医者じゃないんだから診断も見立てもしちゃいけませんっていうのはあの原則として正しいんだけどだからといって我々はじゃあしないかっていうとそんなことは絶対ないですよ。
例えばえっといやちょっとこないだ足くじいて地美科に行ってきたんだよって変だと思うじゃないですか。いや足くじいたら外科だろって思うでしょ。これは見立てに見立てに結局のところは接触してるじゃないですか。
自分で自分の見立ててる。でこれは子供のためとか家族のためとかやるでしょ当然。チャッピーに見立ててもらうことだって当然あるはずです。
その見立てを診断代わりにしちゃダメだけど診断ぽいことを一切せずに生きていけるかというとそんなことありえないわけですよ。
怒られますもん値段でね。いやだってその調子が悪いから地美科来ました。昨日喉があのなんだっけ
昨日走って足くじいたんです。多分怒られますよ。 素人見立てしちゃダメでしょとか言わないですよ。普通にちゃんと考えて外科行けっていうことになりますよね。
それは結局は診断ぽいことはいくらかはするってことでそういうことはしますよ。3ヶ月チャレンジでもね。
ただその人を病人と見出すことはしないということです。よっぽどまずいなと思ったらそういう話を提案させてもらうということはします。
だからそういうことはするんですが基本的にその人が困った人であるかどうかってのは重要なことじゃないんです。
よくそういうことを私たちは問題にしがちです。Xとかで本当そればっかりになるときがあるんだけど私はそれはおかしな話だと思うんですよ。
会社に行っている人がこの人困った人だな、その周りも困ってるだろうななんて考えるのは余計なことが上に無駄なことです。
会社がその人を雇って会社がその人に給料払ってるのになんで私がその人について困った人だなんて考える意味が全くないです。
大体私は相当困った人間だとよく思うんだけどもまあそんなこともどうでもいいことなんですよ。よーく考えてみるとね。
昔それは大学生の時代に周りの同級生の皆さんは私の存在に非常に困った奴だなと思ったかもしれないけどそれはもう大学時代の話であって言ってないんですから私。
私の恩師ももうなくなっちゃいましたしね。つまり困った人間かどうかってよくどっちが本当は困った人間なのか、上司が困ってるのか、上司が困った奴なのか、性格が歪んでるのかとか
そんなことはどうでもいいんですよ。考えてみると。だってその上司はその会社でもっと高い給料払ってるんじゃないですか。
私が困った奴だと思うことかどうかなんてのは全く余計なことなんです。大事なことはそういうことではなしに
どっちが困ったと思っていてそれはどうしてなのかということで
実際にはその人は困った人ではないんですよ。たぶん。本当に困った人だって言うんだったら会社はその人を辞めさせると思うんですよね。
そういうことはできるんだから会社ってところはですね。契約に基づいて。それにそもそもその人に給料払ってるのは私じゃないんだから
そういう人が会社にとって困った人かどうかなんて全くどうでもいいことなはずなんですよね。
診断と治療の違い
どっちかというとその人に会社からもらってる給料の一部を私お金もらってるわけだからその人は全然困った人ではないんですよ。
ここは超大事なことだと思うんですね。ただ治療ということになってくれば話は別ですよね。
ここに僕は分岐点があると思うんですね。治療というのはその人のその何らかの特性は困った問題なのであるっていう
何らかの社会的なやっぱりそれこそ見立てがあってそれに適応させるんですよ。
松木邦太さんがもうよく見立てって書かれるんで私もそれに習ってるんですけど要するにあれです。
対象関係論の入門に書いてあったのかな。この砂山を富士山に見立てるって言うじゃんっていうふうに書いてあるんですね。
だからなんとかって病気に見立てる。つまり見立てって当てはめなんですよ。
それはどういう当てはめかというと社会的な当てはめですよね。つまりそれは社会にとってそれは困ったことだから治療しようって話ですよね。
相当押し付けが欲しいなって感じがするんですよ。でも私はビジネスコンサルなんだから結局その人とその人の周辺の人との間の圧力の問題なのであって
圧力はどっちが原因で困ってるとかいうことは関係なくて、ここが大事なんですけど本質的に困ってないっていう前提でいくんです。
だって本質的に困ってるならば会社がその人を抱え込んでおく理由がないんですよ。
そういう時に自分のこういやこいつは困った人間なんだっていう見立てに固執するあまり
そんなことでは会社くびになるよとかわけわかんないこと言うんだけどお前が会社長やってから言えって言うようなセリフじゃないですかそんなのは。
社長が好きで雇ってるのにあの代わりにクビになる宣言をするっていうことにはもう全く言ってナンセンスですよね。
だから私はここにまず大きな分岐点があると思うんですよね。
私は困ってないと。その人の特性、性格、パーソナリティ、依存気味であるとかお酒いっぱい飲むとか、自己愛が強いとかそんなことって僕は困ってないと。
で本人がそれによって何らかの圧力が起きていて困ると言うならば2通りの考え方がありますよね。
周囲の例えば会社の上司が困っているのかそれとも会社の上司で困っているのかこの可能性もどっちもあってどっちも消すことできないんですよ。
なぜならば私はその上司と会って話したことがないからまず第一にですよ 同僚でも上司でもいいんだけど上司だって言うなら上司だってことにしておいて
上司との間がしっくり行ってません。 私は別に上司じゃないからその人との間にしっくり行ってるも行ってないもないわけで困っちゃいないわけですよ。
困るわけじゃないという観点を維持することが多分治療ではないっていうことがの一つの理由。もう一つは
結局その上司が困っているのか上司で困っているのか最終判断はこれは治療の場合でも同じだと思うんだけどできない。
理由はその上司を見たことがないし喋ったこともない。ただしもっと重大な問題があって果たしてその上司がいるのかいないのかが根本的にはわからない。
虚言の可能性がありますね。その上司がいるという仮定のもとに喋ってるんだけど実はいないのかもしれないという問題。
これは私はここからまた病理の話が出てくるんだけど例えばその人が本当は存在していない上司をいると思ってるってことになってくると
これはやっぱり違うところに相談に行ってもらう必要は出てくる可能性がありますよね。
ただもっと微妙な問題。例えばメンターとかいう言葉があるんだけど私のメンターなんですその人はって話になってくると
でも相手はそう思ってるかどうかわかんないよねっていうこれは難しいところがあります。メンターというものは何でしょうか勝手に決めるものですからね。
そのメンターはいるんでしょう。でもメンターなのかどうなのかはわからないじゃないですか結局。
だからこのメンターってなった時は私は現実検討の幅を一段上げるなり下げる事実上下げますよね。
つまり本当の意味で困ってるかどうか違う現実検討の質の問題ですから最終的にはそこのところは治療論を借りるわけですよ。
しかし私のやってることは治療ではないので現実検討の質が左右されるのは仕事におけるパフォーマンスだったり
仕事における困り事の程度を決めるそれは家庭生活でもいいんですけど結局のところそれは現実検討の質がどのくらいまで来ているか
その人が言ってることはどれぐらい現実的かっていうことですよね。メンターですっていうのは多分に空想的な世界である可能性も十分あるわけですよ。
勝手にメンターにしているとかそもそもその人たちの関係はいわゆる先生と弟子的なものではないとかでもその人の気持ちの上では勝手にそうなっていると
実はただの上司なんだけどそういう人にとってはメンターになっちゃってるとかそういうようなこと
これらのことはビジネスコンサルっていう範疇だなと私は思うんですね。
ただしそれは治療論に当然近づいている部分でもあります。
だから治療なのかそれともビジネスコンサルなのかっていう端境の線にあるからここは非常に私の仕事のポイントになる部分ではあるという感じはするんですね。
でもこれだって私のさっきの話と変わらないんですよ。私は困ってない別に。
その上司をメンターだと思っていようと思っていないとそういうメンターなる人が存在しようとしないと別に私はちっとも困らない。
ただそのように相手をメンター扱いするもんだからその特定の上司との関係がややこしくなるとか
あるいは俺のことをメンターだとして敬えみたいな上司だった場合その上司によって困らされているということも考えられる。
単なる上司に過ぎないのになんかもっと人生の死のように扱わせられるとかあるいはもっと言うと自分を父親のように不敬えみたいな態度になってきていると。
この辺が私はパワハラとかセックハラとか言った話と多分接触していくんだろうなっていう感じがする。
傾聴の重要性
これはこの言葉を使う限りにおいては私はもちろん心理臨床の世界でも扱うと思うんですけれども
ビジネスコンサルで扱っても構わない領域だろうと思うんですよね。
いやセックハラの上司なんてそれは社会的に困った存在じゃんって言われるでしょうけれども
あくまでもそれは事実そうならばの話ですよね。
もう一つはあくまでもやっぱりその上司がいてこその話ですよね。
そこは疑うっていうんではなくて喋ったことないですから見たこともないんだからいることが絶対だとは言い切れないんで
常にそういうことはあると私は思うんですよね。
ただその上司が本当に存在していようといまいと繰り返しになりますが私は本当の意味では困らない。
だけれどもこの領域は治療領域になるだろうなと本当はもしいないって言うならばね
あるいはその上司は誰にも本当はセックハラはしてないって言うなら
やっぱりそれは治療領域に近づいていくことはあり得るでしょうね。
そこは難しいところだなと思います。
だからやっぱり傾聴なんですよ。話を聞き込んでいくしかない。
聞くことによって、だから傾聴共感なんですよね。
共感していくことによってでも共感しても変だなと思う部分は話を集中的に聞いていけば出てこなくはない。
ビジネスコンサルの意義
でその時には必ず私との関係において何かしらの微妙なですね微妙な疎後があります。
疎後が感じられてきます。普通に考え、普通の場合は。
だって明らかに作り話になってくると話をずっと聞いていると整合性が狂ってくるんでそこを取ろうとしてくるじゃないですか。
普通の人の場合、多くの場合。
だから本人の中でもセクハラなのかどうかについて疑いながら絶対セクハラなんだって言って喋っている時には非常にこう人格がこう少しずつ分裂とは言わないまでもギャップが生まれてくるんですよ。
絶対セクハラなど信じたい人格とそうなのだろうかと疑っている人格に分かれていくわけですよね。
それが繰り返し話を聞いていると相互に登場してきてしまうんですよね。
そうするといわゆる逆転医っていうやつなんだと思うんですけど治療の世界であるならば逆転医において私の人格が安定しなくなるわけですよね。
結局100%セクハラだと信じたい人と対している時の私とそれについて疑っている人と対している時の私は同じ気持ちではいないですよね。
セクハラかどうか疑わしいと思っているんですっていう言い方は冷静なので比較的冷静な人と僕は喋ることになる。
あーまあ疑いはあるかもしれないけどそういうこともあるかも、それは必ずしもあれだよねみたいなそういうニュアンスできるじゃないですか。
でも絶対セクハラなんだよっていう人を前にしていると緊張しますよね。そういう人に対していやそれは本当にセクハラなのかなみたいなことを言うとむしろ怒りは僕にも可能性は十分あるじゃないですか。
そういうことを自然と警戒していればその冷静だった時の人の話を聞いている時の私とむしろ思い入れたっぷりの人の話を聞いている時の私は同じ人格ではいられないけど
でも人、自分自身は特に特定の人と喋っている時には一つの人格でありたいというふうに思っている部分は少なくないのでここで自分の中でのギャップというものに気づかなきゃなんなくなりますよね。
そういうことは起きるわけです。こういうようなことがこれは本当に単なる一例でこういうようなことが一人の人と1000も2000も起きてくるとですね
なんかそこに繰り返し同じギャップのようなものが感じられてくるってことは起きるわけです。でこれは明らかに心理臨床の世界には書いてあることそのものなんですよ。
このこととこのことを治療の方向では使わないっていうふうに決めると、つまりその人は困った人だから修正を施すみたいな観点を取らないっていう観点を取り始めると
自分の仕事でやんなきゃならないことっていうのがだんだんはっきりしてくるっていうことが起きるわけです。これは僕は基本は例外を持たない方がいいだろうなと思ってるんですね。
だから見立てはしないということと、見立てをしない以上は病理の深さと厚さみたいなものは、それはあるのかもしれないけど、そして全ての人に精神病部分ってあると私は、あるという一派の観点を採用してますから
つまり精神病部分は私にもあるしみんなにあるっていう考え方を取るので、そこを卒業することはありえないと思いますので
まあこれについては今日はいいや、すっ飛ばしまして、あるという前提で考えると。そういう意味でもやっぱりですね、ある種の学派の観点を取ってないわけですよね。
少なくとも対抗っていう考え方はもう僕は基本的には帰却しているに等しいわけです。対抗という考え方を昔は結構こう、やっぱりどうしても今でも全く取らないというふうには言えないんだけどでも
もう基本的には帰却していこうみたいなのを考えていった方が、やっぱりビジネスコンサルに近づけられるんですよね。
対抗をあからさまに受け入れてしまうと治療にどうしても近づいていってしまう。でも治療できないのに治療に近づくというのは、自分で袋格子にはまっていくようなものなので、やっぱりそれは極力避けたいというのはありますね。
治療というのはどっかやっぱり修正ということを含むと思う。見立てと修正というものを含むと思う。もちろん政治分析の対照関係論なんかを見ていると修正っていうには程遠いやり方だとは思うんですけど、でも治療って言ってるからには治すわけですから、治るほうがいいわけですから、そこに治るという意味の価値観がもっと強く出てくると思う。
3ヶ月チャレンジの特徴
ビジネスコンサルっていうのはそういうもんじゃないなと私はやっぱし思います。そういうふうに治ったほうがいいとか治すっていう、それはつまり社会の立場に立つってことだと思うんですね。
でも3ヶ月チャレンジはこの値段とこの3ヶ月ですから、やっぱり藤山直樹さんとか松木邦博さんが書いていらっしゃるようなタイプの方ではないんですよね。いらっしゃってる、その参加している方というのは。基本的には3ヶ月続けられているし、3ヶ月中キャンセルでひたすら毎回キャンセルだったとか、そういう話にはなってないわけですよね。
また私は藤山直樹さんの本を読んでいるとすごい不思議な気持ち、そんなふうな人なのにあれだけ高額な3チャレンジの2倍から3倍のお金は払えてるって、その社会適応はどこから得るんだろうな、こういうケースの場合にはっていうのはあるんですけど、やっぱりその社会に適応してるというのは多くの場合は組織に適応していて、つまりその組織ではその人は単に抱えてるってだけじゃないと思うんですよ。
やっぱりいてもらわないと困ると、ご本人どう感じているにせよ、組織では絶対そう考えてると思うんですね、ある意味。ある意味っていうかほぼ確実に。
だからその人が組織にとって有用な部分と、その人が組織にいることによってその人自身が苦しみを抱えてしまう部分とかとの兼ね合いはどういうことになってんだろうと。
この場合の組織というのの中には実家とか家庭とか家族というもの全部含みますが、私の考えでは全部含むんですが、でもその人はたぶん絶対いてもらわないと困る人になってる。
本人が自己肯定感がとかいう話になっていない方がマシなんだとかおっしゃるんだけど、まずそういうことは考えられない。
むしろいてもらわないと困る人が自分がいない方がいいとみんなが思ってるっていうその考え方はどういうことなのかと。
こういうところには治療論は役に立つんですよ。ただし治療するわけじゃないんですよね。
その考え方が生じている力道なんだけど、力道について検討を加える必要はあると思うんだけど、その考え方を帰却するかどうかということになってくると、それは当人に任せるより他しようがないなと。
そういうふうに思わせてくる組織の力道みたいなものもあると思うんですよ。
抱え込んでおきながら、つまり居てもらえないと困る、給料も払うよと言っておきながらお前出て行けみたいな力道を働かせる組織って実はいくらもあるんですよね。
組織と個人の関係
それは組織の病理みたいな話になってくるんだけど、そういう組織を変えるっていうことを目指すのか、あるいはそのままその力道を受け流すのか、
いろんな、いろんなというか、いくつかしかないかもしれないが、でも説中案を取ればいっぱいあると思うんですよね。
いろんなアプローチが考えられますけれども、それについてどれを採用しろとかいう提案を、僕もしちゃうことがあるんですよ。
しちゃった時には、この組織の力道にはめ込まれたんだなって思いますけれども、やっぱりね、力道を見たい側の人間としてはそんなことではなくて、
勝手な僕の願望とかが投影されているだけなのかもしれないけど、だとしてもやっぱり力道に違いはないなとは思うんですよ。
逆転いってものも働いてないはずがないなと思うんですよ。
いずれにしてもその組織の何か言わんとすること、僕勝手に代弁しちゃうってことが起きるんだなとは思いますね。
で、そういうふうなことが起こってしまったらだいたい後で謝る羽目になるんですよ。
あの時言ったのはろくでもないことでした、すいませんみたいな。でもそれを言ったのには訳もあるんですよね。
偶発的に単に私の力量不足、それはあるにしてもですね、だけで起きてるわけではないんですよ、やっぱり。
っていうことがだんだんわかってきたんですよ、こういう仕事をやっていると。
100日チャレンジで、まもなく40人突破するかな、数が多ければいいっていう話では全くないんだけど、そうではなくてバリエーションですよね。
バラエティに富んでるっていうこと。つまり、結局どうしても仕事術とかビジネス書っていう、ビジネス書とかライフハックというものは浅くはなるんですよ。
そこが浅いとか言われるけど、それはしょうがないんですよ。もともとライフハックとか何でもそうですけど、趣味に近い世界から始まってるわけですよね、ノート術とか。
で、例えば将棋の強い人が戦争強いかって、そんなことないじゃないですか。将棋が戦争に適応できるかとか、そういうわけにはいかないじゃないですか。
同じようにパソコンをオタクっぽく使ってることが必ずしも仕事に生きるとは限らないんだけど、仕事に生きるケースもありますよね。
しかもそれはどんな仕事になのかもわからずに、こうやると仕事に生きるんですよみたいなノリで書いてるのって、そこが浅くなって当然なわけですよ。
でも一人一人のお話を伺ってると、そういう話で解決するような話はほぼない。
だからこそ、一人一人の話に入っていったときは、どうしても治療論のようなものに近づいていく。
それはそこで起きている極度のというか非常に特性的な困りごとというものが、何かその、なんていうのかな、まあ言うならば精神病水準みたいな、精神病部分みたいなもの。
そういうものの暗躍というか力動が何かを引き起こしている。でもそういうふうな言い方をすると、だから私は困った人なんですって話になるんだけど、そうではないんですよ。
その人は困った人だから会社が抱えているわけでは決してないんで、その人の何かがやっぱり会社にとっては極端な言い方をすると利用のしがいがあるから引っ張り込んでるわけじゃないですか。
つまりそれ自体会社の病理みたいな言い方もできるわけじゃないですか。
で、そういう観点にわざわざ立つ必要はそもそもないと思うんですよね。いやそうじゃなくて必要だからいてほしいわけですよ。
ただし必要な何かを持っている人は特性を持っているはずであり、その特性とは合わない特性というものが組織の中の人、あるいは組織そのものが持っていても何ら不思議はないです。
つまりものをポジティブに見ればこうなるしネガティブに見ればそうなるみたいな見方ってどっちも同じようなものであってどっちを採用することもできるんですよね。
で、その特性やら困りごとやらは結局私が困る話ではないわけです。どっちにしてもですね。
で、その特性やら困りごとやらっていうものは結局それはビジネスの現場には必須なんですよ。絶対に。
そう見えなくてもそうなんだと思うんですよね。というかそうなはずなんですよ。
で、そういう風に力道に絡め取られていくっていうことが私の身にも当然起きるわけです。
40人のお話を伺えば1回ずつだから、そういうところまで行き着かないまま終わることが多いにせよですね。
40人の方のお話を伺えば40通りの力道、もっと数多くの力道に絡め取られていくわけですよ。
特性とビジネスコンサル
で、やっぱそれを解きほぐしていこうとするとですね、力が測ってるわけですから、やっぱりダメージを受けると、このダメージを検討していきましょうねっていうことにおかならないはずなんですよね。
いや全くそうだと思うんです。だからそれだと精神分析と変わんないじゃんって言われるかもしれないけど、全然違うんですよ。
だってアプローチの仕方が違うし、最初に受ける主想という言い方をしちゃいますけど、これは合わせてですね、そこに戻ってくことが多いんですよね結局、なんだかんだ言って。
だから主想って言っといて別に間違ってはいないと思うんです。あえて雷談理由とかいう理由はないと思うんですよね。そう言ってもいいんですけど別に。
何なら訴えるんだから主想ですよね。やっぱりね、いいんだと思うんですよね、それでね。
それはもうたくさんあります。というか、たくさんありすぎるくらいあります。
で、やっぱりなるべくビジネスコンサルでコンテンツにしようと考えるわけです。考えるというか、それが私の立場ですし。
で、それは、まあ私は悪い筋ではない話だとは思っているわけですね。
だから特性というものは誰にでもあるじゃないですか。当然私にもあるわけですよ。特性がないと、むしろ会社は雇わないと思うんですよね。
それはもう確実だと思うんです。特性がなかったらパートナーには選ばれないと思うんですよ。選ばないと思うんですよ。特性というもの。
だって特性がないんだったら誰選んでも同じだったら人間なんて本当に無数にいるわけですから、地球上に100億に近い人間がいるわけですから、特性というものを無視できるんだったら
何にも選択する理由がないじゃないですか。だからその特性ゆえに多くの人は
いわゆる自己比喩を始めてしまう。その特性を攻撃し始めるんですけれども、特性以外にはやっぱり肯定する部分って何もないと思うんです。
ある意味では。特に組織との関係なんかになってきてしまった場合には。組織は特性を当てにするわけですよね。どう考えてもね。
そもそもそれが性格だと思わない人が多いんでしょうけど、自分の性別は特性ですし、
つまり私で言うのは日本語喋る男であるっていうのは重大な特性ですからね。 私はそういう方向では選ばれにくい人間でしたけど、
彼氏にするなら日本語喋れる男でしょっていう人は山ほどいますからね。 こういうのがどれほどイケメンだからと言ってなんかサウジアラビア語を喋りますではダメなわけじゃないですか。
だから特性ってのはすごい重大なんですよ。 でも私は日本語喋ることによってこういう性格であることと多分相当関係はあると思うんですよね。
アラブ人ではないっていうような。 それは単純なる特性ですけれども非常に。でもパーソナリティと絶対関係がある。
そういう言い方をしてくると私が168センチであるということ。 あと50何キロだったか忘れたけど体重は50キロ台であるということ。
組織における特性の影響
全部関係があるんですよ特性に。 でそれをやっぱり検討していく。その特性が絶対困り事を生み出すんですよね。
でも必要性というものも生み出すんですよ。大体それはしかも一致しちゃうんですよ。 そこにギャップが生まれるわけですよね。嫌でも大でもズレが生まれる。
しょうがないんですよね。その特性が欲しいならその特性にまつわる諸々もくっついてきてしまう。
日本語を喋る男は嫌だっていう人がその組織の中にいても何ら不思議はない。 10代じゃなくて25歳の方がいいっていう人がいても何ら不思議じゃない。
もっと体重があってがっちりした奴の方がいいっていう人がいても何ら不思議じゃない。 しょうがないんですよねそれはね。でも全く逆のことを望む人も当然いるわけです。
そこが起きる。摩擦も起きます。こだわりもあります。 自然とね。例えば英語をあんまり読みたくないとかこれはこだわりってことになってしまいますよね。
こだわりじゃないんだけど。 そのうちにその中で例えば赤外には応じられないっていうことが起こるわけですよ。
で、それを聞いたからと言うとですね。いや困った人なら赤外にも応じてくんないんだっていう人もいるかもしれないけど社長がいや赤外したくないんだったらその人の赤ごと移動してやればいいじゃんって言うかもしれない。そういう社長さんって全然普通にいらっしゃいますからね。
で、そんな風に社長が甘くてはどうのこうのっていう人がいるんだけど。 そんなの関係ないじゃないですか。
だってその給料払っての社長なんで。そこに普遍的な正義を振りかざしたいっていうのも一つの特性なんですよ。
だから結局その治療論になってくる。例えばその赤は絶対もうこの椅子じゃなきゃ嫌だみたいなことを言うっていうのは治療論に一点なりがちなんですけど僕はここに点を引くべきだって思うんですよね。
で、この椅子がその人にとってどう見えているのかを見るのはしかし私はビジネスコンサルでいけると思うんですよ。
これを治療だっていう風に見なしてしまうのは私は行き過ぎだと思うんですよね。
だってその人は結局わからないじゃないですか。それを要するに何て言うんですかね。母親だと思い込んでいるとか、投影であるというのは簡単です。
すぐに言えると思う。その人がこだわってる椅子が母親だと思っている。そしてそれは病理だ。辞めさせようみたいなことを言い出す人だって世の中には絶対いるでしょう。
それが正規の審理士さんだっているでしょう。でもどう考えても社長がそれがいいんだったらずっとその人辞めるまでその椅子はその人のものにしたほうがいいよって言って
それで何が困るのって言ったらもうそれが全てですよね。だって社長なんだから。
でそれに対してそれは正すべきだっていうところがこれを正すべきだっていう人は絶対いますよやっぱり。
その会社の中で本当あの人困る人なんだよ。病気だよみたいに言う人もいると。でその病気だよっていう人の病理を見ることだってできますよ。
見ないってことですよね。それを私はそういうことだとは考えない。それは椅子にこだわる人がいる。
でそれを咎めない社長がいる。代わりに咎めたくなる人がいる。しかしそれを病理だとは見なくても
力度をその病理だという観点を取る人と同じ力度の観点を取ることはできます。
人間関係のダイナミクス
つまりその椅子を母親だと投影する。それをコンテナーだと信じるという。そこにおそらく移行空間を見出す。全部これは
資料論なんだけれども多分そういう見立てを取るということは役に立つ気がするんですね。
でライフワークはないと僕は思うんですね。同じ型番の椅子を探してくるというのはこの場合解決にはならないと。
でそこ咎めたいという人、まあそれが3回シリーズに入ってこられた場合の話ですけど、咎めたいという人にはやはり父親ってものをまず見ます。
父親の同意使ってものをまず見ます。あるいはあの社長に拒成されたくないっていうことなのかもしれないっていう観点は考えます。
それが正しいとか間違ってるとか雑だとか精密だとかそういう話ではないです。
いったんそういう言葉を次から次へと脳内に拒来させるぐらいのことは絶対しますってことです。
そうすることによって絶対正してやりたいっていう人のことも別に病理だと考える必要はないわけですよね。
正す正さないとはまた別談だし、だいたい正すか正さないかなんて結局僕が何をいっぱい言ったって
いや正す必要ないですよとか一生懸命1時間かけたってあっさり無視して正すかもしれないじゃないですか。
それに対して僕ができることなんて実は何もないわけですよね。
会社に乗り込んで行って正しちゃダメですみたいなことを言ってその椅子に固執している人を守りに行くみたいなことをしたってしょうがないわけですよ。
しかもその椅子にこだわってる人に実は会ってみるといや別にあの椅子どっちでもいいですとかっていうこともいくらもあるんですよそんなことは世の中に。
すべてはストーリーだって部分がありますからでも本当にめちゃくちゃ固執して取り上げられるともう二度と会社には来られなくなるってことが起きるのかもしれないんですよ。
そんなことはわからないわけですよね。
こういう話をしたいというか見ていきたいというかこれしかないぐらいに僕は思うんです。
仕事ができるようになるできるようにならないパフォーマンスが上がる上がらない先送っちゃう仕事が実行できるっていうのはすべて基本的にはこういう問題とつまりそこにはその人をつかんで離さない力のようなものが働いていてそれは僕は生育歴に興味があるとかじゃないですよ親子関係というものが本当にそれに重大な影響を及ぼしているというよりは
これはもうここから先はちょっとサイキックリアリティみたいな話なんですけどそういうことよりも不正というようなものがその人の心の中でその人をつかんで離さないみたいなそしてすら他の人の心の中にもあるものだから相互作用しちゃうと
その人の生育歴を聞くのはその人の不正とか母性についての考え方を聞いているのであって事実関係がどうであったかという話を必ずしもしているわけじゃないし私がそれに興味津々であるっていうことともまた全然違うんですよね
ただ人間の心の中には特にその精神病部分と言われているところには幼かった頃の不正と母性についての考え方とその取り扱いというものがものすごく多分なんて言うんですかね
えーとこうあるじゃないですか鉄をずっとくっつけておくと熱を少しずつ帯びてきて危ないんですけどね火事になったりするとそういう感じでこうそういうものがこうある種の組み合わせをとるとじんわりとその心のある部分が活性化してきてそれと周りの人のそういう部分がこうじんわりとかそういうイメージなんですけどね僕のいう力道というのは
磁石の力と熱の力みたいなものが掛け合わされるような感じでどういうふうにエネルギーをもたらしどういうふうなコントロールを始めるのかわかんないんだけど気がつくと現実が動き始めていくそれに対して直接言及されることはほとんどなくて全然関係ないことを人々は喋っていることが多いと思うんですね
そこのところにある種謎解きとは違うんですけどこれは謎なわけではないのででもひたすら不正とか母性とか虚勢とかエリプスとか三角関係とか二者関係とか戦亡とかいう言葉を知っている限り構造化して巨大させていくと何かこう組み上がっていくものがあってその組み上がりが誤解だったりぶち壊しにしてみたりするとまた違うものが組み上がってみたりっていうことを繰り返し繰り返しやっていくと
繰り返し繰り返し3ヶ月やりますそれが3ヶ月チャレンジっていうところです